138:縁を大切に

2006年7月に、親友の相羚の紹介で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目見えしまた。リンチェンドルジェ・リンポチェが私の前をお通りになるのを見ただけで、涙が止めどなく流れ落ちました。リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いて共修法会に参加できますようにお願いしますと、リンチェンドルジェ・リンポチェは、どうして法会に参加するのですか?とお尋ねになりました。実はどうして法会に参加したいのかはよく分らなかったのですが、ただ涙が流れるだけで何も言えなくて自分の気持ちをはっきりお伝えできませんでした。リンチェンドルジェ・リンポチェは、私には些か悪い習性があって、何をするにもあれこれ思って心が定まらない、法会に参加するのは講演を聴いてそれでおしまいと言うのではなくて、来ると決めたらそのとおりにしなさいとおっしゃいました。お言葉はとても厳しかったのですが、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈しみ深く私に法会に参加する機会を下さいました。惜しいことに私の福報が足りなくて、共修法会に一回参加した後、機会がなくてそのままにしていました。

その後法会には参加しませんでしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェのご加持の力はそのままあって、第一回目の法会に参加した後、私は知らないうちにタバコを止めました。高校から喫煙を始めて十数年、ずっと止めようと思って、何回も止めましたが、タバコに依頼する気持ちは根絶できないでいたのに、こんなにも自然にタバコを吸わなくなったので、主人も不思議に思っていました。

同年11月、突然法会に参加したいという気持ちが湧きました。不思議なことにリンチェンドルジェ・リンポチェに一度も逢っていない四歳の娘が一緒に法会に参加したいと言うので、娘を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いしました。その時は「誰が法会に参加したいのかね」とおっしゃって、私達母娘を法会に参加させてくれました。リンチェンドルジェ・リンポチェが2007年に閉関修行なさる前に、二回皈依を申し込みましたが、いろんな要素から皈依できなくて、自分の福報が足りなくて因縁がまだ到らないとしか言えませんでした。

2007年5月の初め、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関なさった時、私は三番目の子供を孕んでいることを知り、この時はどうして妊娠できようかと吃驚しました。心にまといつく思いは、主人も私も勤め人で、給料は一ヶ月三万元余りだけなのにどうして三人の子供を育てられるのかということでした。 もし失業したらどうしよう? 子供達みんな私と一緒に餓死しなければなりません。でも堕胎はできないと知っていますので、心中非常な矛盾と恐れを感じて、このように考えてはいけないと思いながら、毎日悪い考えを止めることはできず、ずっと自縄自縛の日々でした。ただリンチェンドルジェ・リンポチェのみが私の疑惑と恐れの総てを解決してくださることを知っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関しておられる日々を、毎週水曜日には宝石店へ行き、リンチェンドルジェ・リンポチェのご真影に頂礼し、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関修行を円満に終えて帰られ、衆生をお救いくださいとお祈りしました。

遂にリンチェンドルジェ・リンポチェのお帰りになる日がやって来て、9月9日の無遮大法会にも参加できることになりました。心ではリンチェンドルジェ・リンポチェがお帰りになるのをずっと期待していたのに、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるのが怖くて、ぐずぐずしてリンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いしに行かず、毎週の頂礼にも行きませんでした。このまま引き延ばすことはできなくて、10月10日遂に姉を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いしました。以前と同じく、リンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いすると、涙が流れて止まりません。リンチェンドルジェ・リンポチェは私を見ると、「胎教に悪いですよ」とおっしゃり、私は心で「もちろんよくありませんよ、悪念がこんなに多くて、どうして胎教に良いことがありましょう」と思いました。私はリンチェンドルジェ・リンポチェに法会に参加させてくださいと頼みました。リンチェンドルジェ・リンポチェは「どうして法会に参加するのですか?」とお尋ねになったので、自分をよく反省したいからですと答えました。しかし尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは私が心に思っていることをお知りにならないはずがなく、私はまったくご加護してほしいために参加するのであって、本当に悔い改めて、或いは本当に御仏の道を学びたいからではないことをご存知でしたから、私の要求を拒絶なさり、私に「縁を大切にすることを知らないね、帰って考えてから土曜日にまたやってきなさい」とおっしゃいました。

その夜帰ってよく考えもしないうちに眠ってしまいました。夜中に突然吃驚して目が覚めましたが、誰かが力をこめて私の心臓を引っ張る感じがして痛くて大声で泣き、主人も目を覚ましました。主人にほっといてくださいと言うと、そのまま泣き続け、泣き終わったら心が軽くなったような気がしました。妊娠してからずっと放下できなかった重荷が消えていました。きっとリンチェンドルジェ・リンポチェがお助けくださって、私の悪念が日増しに膨らまないようにしてくださったと感じました。

土曜日に再び宝石店へ行き、リンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは「どうして帰って考えてから土曜日に来なさいと言ったかわかりますか?」とお尋ねになりました。私は「はい、私が縁を大切にしないからです」とお答えしますと、リンチェンドルジェ・リンポチェは「誰との?」とお尋ねになり、私は「お腹の中の子供です」とお答えしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私を見ながら慈しみをこめて、「帰ってからお腹の子に孝行を教えるために、毎日地蔵菩薩本願経を一時間唱えなさい」とおっしゃり、帰るときに私が忘れるといけないと思ってもう一度、「お経を唱えて精進料理にしなさい」とおっしゃいました。感謝を捧げて、リンチェンドルジェ・リンポチェがお立ちになるときに、突然頭を軽く叩かれて、しかも「泣かないで、リンポチェが手伝ってあげるからね」という声が聞こえて、心は慙愧と感謝で一杯になりました。自分のことが自分で責任持てなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェを煩わせているのですから。

2007年12月にリンチェンドルジェ・リンポチェに三回目の皈依をお願いすると、それに応えてくださいました。同時に親切に私の娘のことと、私の出産予定日をお尋ねになって、ご自分から私のために加持してくださるとおっしゃったので、私は驚いてぼうっとしていました。この時、一陣の暖かいものを頭の先から心の奥にまで感じて、感謝以外に何が言えましょうか。ただただ非常に慙愧の念とまたリンチェンドルジェ・リンポチェを煩わせた思いでいっぱいでした。12月28日朝起きて、破水したのを知り急いで病院で出産を待ちました。その過程はとても順調で、看護婦が報告書を見ながら痛みますかと聞きましたが、そのたびに痛みませんとお答えしました。正午になって看護婦は不思議そうな顔で医者を産室へ呼び、医者は私がきちんと座って、呼吸も正常なので、陣痛の数値を見ながらこれも不思議そうに「本当に少しも痛くないのですか?」と聞きました。なるほどデータの波型によると、子宮収縮の感覚が非常に密になっていて産道はすでに十指も開いており、一般の産婦はこの状態になると痛くて痛くて我慢できなくなりますが、私はまだきちんと座ってびくともしなくて医者と話をしていますので、医者は驚いて「あなたは本当にすごいですね!」と言いました。私は「本当だ!どうして以前のように痛くはないのかしら」と思いました。そのとき私はこれがリンチェンドルジェ・リンポチェが加持してくださった関係だとはまだ気がつきませんでした。上師への感謝の心がまだ不足していたので、自然に第三回目も皈依は成功しませんでした。

出産後は、共修法会には参加しなくて、ただ施身法会にだけ参加していました。2008年6月に、リンチェンドルジェリンポチェが皈依の法会を開かれるというので、もう一お頼みしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ご主人が同意してからにしなさいとおっしゃいました。そこで主人の同意を得た後、もう一度リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いする時間がないので、皈依法会のときに直接皈依しました。この二年余り、ずっと家族の意見を心配して、自分にはできないかもと疑って、もうちょっとのところでこのように得がたい機縁を失うところでした。危ういところで相羚先輩と姉の鳳賢の支持を得て、御仏の道を学ぶ有り難い縁を断ち切られなくてすみました。三千世界で迷いを指摘してくださる上師に出会えるのは非常に難しいことです。「人身は得がたく、仏法は聴聞しがたく、上師には出逢いがたい」と言われます。どのひとつを備えるのも難しいのに、三者兼備とは更に得がたいことです。出会ったらこの得がたいご縁を大切にして続けていくには大きな決意と力を必要とします。リンチェンドルジェ・リンポチェがその煩わしさをも厭わず私にチャンスを与えてくださったことに感謝いたします。もしリンチェンドルジェ・リンポチェの開示とお導きがなければ、私は殺生の大罪を犯したことでしょう。また先輩方の支持、家族、先輩、出会った同僚及びすべての人に感謝いたします。

皈依弟子 黄翠賢 2008年12月25日

2009 年 07 月 19 日 更新