134:金剛上師は尋ね難く出逢い難し

皈依前、私は玄学に興味を持っており、時間があるとよく手相、面相、紫微斗数等の占いを研究していました。父母は顕教に皈依して十年から二十年が経ち、私もまた自然に聞き入れ常に母と顕教の懺悔会、済度会、八関斎戒等、大小法会に参加し、一時期はチベット仏教の灌頂等の法会にさえも参加していました。

実は、私は母の考えに逆らえずいつも母の希望に沿って法会に参加していたのですが、自分でも何をしているのかさっぱり分かりませんでした。ただ御経を読誦したり礼拝したり、さもなくば座って居眠りしていればよく、全く三宝への恭敬心は不足し、法師が一体何を説法したのか聞く事も少なく、そこへ行くことは御布施や灯明を捧げたりすることで、それが自分の功徳となり、仏教を学んでいるので、自分は善人だと思い込んでいました。実際、仏教の欠片さえも学んでおらず、よくても只の信徒に過ぎない事には全く気付きませんでした。友人達もよく、何故、御寺の建立の為に献金をするのか、何故、大金を寄付したものが『大功徳主』で小金を寄付した者が『小功徳主』なのか。お金のないものは法会に参加し仏教を学ぶことはできないのか。仏様は衆生は平等だと言ったのではないのかと疑問を投げかけて来ました。また、「大悲呪は非常に霊験あらたかであると聞くが、どう読んでも効果がなく感応もしない」と言う者にさえ出会いました。彼はその後信じなくなり、キリスト教に改宗しました。その時、私は自分の考えを貫いたものの自分自身でも疑問を感じていました。

2003年のある日、法友の徐さんが寶吉祥で彼女の上師にまみえないかと訊ね、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による種々の衆生救済、及び不思議な力について語りました。また、殊勝なる「施身法」の法会に参加しないかとも聞きました。当時、仕事は順調とは言えない状況でしたので、ちょっと会ってみるのもいいかなと考えました。しかし徐さんは私にリンチェンドルジェ・リンポチェを占い師としていい加減な問題についてあれこれ聞くのは良くないと再三述べ、更に必ず会えるとは限らないと言いました。不安を胸に抱きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しました。リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いするとすぐにリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼をしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは元々慈しみ深い面持ちでしたが突然厳粛な様子になり目をかっと見開き、その後また慈しみの御顔に戻り、私を座らせて「何の用か」とお聞きになりました。施身法への参加を願うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って許可を下さりましたので、参加申し込みをしました。徐さんは更に、必ず来る事と遅刻してはいけないことを私に言い付けました。

施身法の前日、一体どうしたことか、目覚めると、腰の古傷が再発し、寝返りできない程痛く、発熱し、その日は出勤できず、急いで痛み止めの薬を服用すると、午後には良くなるはずだと考えていました。しかし、法会の時間に一歩一歩近付いているのに関わらず、好転せず、徐さんに言われた、必ず来るようにという言葉と遅刻してはいけないという言葉を思い出し、痛みを堪えてバイクに乗り中和から民生東路まで行き法会に参加しました。奇妙なことに、万事順調に到着し、万事順調に帰宅することができました。法会上でリンチェンドルジェ・リンポチェの珠玉のような素晴らしい説法は、私の多くの疑問を取り除いてくれました。

その後、日曜日の法会に参加したいと強く願うようになり、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故、法会に参加するのかを尋ねられましたので、信徒であった私が「リンチェンドルジェ・リンポチェの説かれる道理は素晴らしいからだ」と答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「実践してこそ役に立つのだ」と仰り、参加を許可して下さいました。日曜日の法会では更に多くの貴重な仏法を聴聞することが叶い、リンチェンドルジェ・リンポチェは参加した信徒に菜食を勧め、さもなくば参加しなくてよいと仰いました。自分は食欲に対する執着から離れていませんでしたので、懺悔し、菜食となった後にあらためて日曜日の法会に参加し、機会があったら皈依しようと思っていました。

2006年11月の有る日、父が電話で母が中風になったことを告げて来ました。慌てた私は為す術なく、救急車を呼んだり友人に助けを頼む為に電話を掛け続けました。病院の緊急治療室で見た母は再度緊急治療の苦しみを味わい、心をナイフで切り付けられたようにして、CTスキャンをしたところ、脳梗塞が確認されました。しかし面積が非常に大きく、血栓溶解の薬を直ちに打たなければなりませんでしたが、脳血管破裂による出血で死亡する可能性がありました。医師の話では、打たない場合は、随時危険性があるとのことで、父、私、及び兄は治療を受け入れるしかありませんでした。しかし心裡的焦燥感は尽きませんでした。

その頃、リンチェンドルジェ・リンポチェだけが母を救えると感じ、徐さんに連絡したところ、斗六で皈依法会があることを知り、次の日の早朝、羅さんと共に斗六に行き皈依し、その時から菜食をしています。台北に戻り、長兄と姉と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、その日、何も仰らず即刻マントラを唱えて加持した後、母の容貌を描写し、私達に甘露丸を一粒下さり母に飲ませるよう言いました。病院に行った後、甘露丸をどうやって集中治療室で昏睡状態の母に飲ませようかと考えていましたが、丁度機会があり飲ませることができたのです。奇妙なことに、母は突然口を半分開けたので、急いで口の中に放り込むと、飲み込んだかの様でした。暫くして看護師が痰を取りに来たので外に出てしまうのではないかと心配しましたが、大丈夫でした。リンチェンドルジェ・リンポチェの能力は実に不思議です。

その後の入院期間、母には諸々の問題が続き、私もまたずっとリンチェンドルジェ・リンポチェに教えを請いました。リンチェンドルジェ・リンポチェは母が肉食をしたのではないかと尋ねられましたが、その時はただチューブでミルクを与えていただけでしたので、肉食する機会はありませんでした。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ミルクと薬物に多少アレルギーがあると仰られ、「母のどんな状況も受け入れ、恐れてはならない。すべては過ぎ去りゆくものであり、何か起こったら努力して処理すべきであり、逃避してはならない」と説かれました。これらの言葉は、その当時の心情を突いていました。私は受け入れられなかっただけでなく、終日、母のことを心配していました。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による教示を授かり、どのようにこれらの問題に向き合ったらよいのかを理解し、胸中、無限な感動に包まれました。帰宅後、チューブで与えているミルクと添加物にフィッシュオイルDHAが添加されていることに気付き、心中、不可思議な気持ちに襲われました。母は元々永遠に昏睡状態にいるか既にこの世に存在しない可能性もありましたが、今、やはりこの世にいて、私は母及び母が過去に傷付けた衆生に代って法会に参加する機会が持てたのです。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御蔭で、私が最も力なく彷徨っていた時に、最も簡単な説法で私の心を救い、一切の問題に向き合う方法を御教示して下さり、新しい生命を授けて下さいました。

尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による説法と加持に感謝致します!

皈依弟子 林彥行

2009 年 07 月 19 日 更新