130:私はこの様に信じ、この様に行った

下の娘、奕清は、ここ数年来、筋骨の痛み、胸のむかつき、体力低下、情緒不安定、意志消沈など身体の状況が思わしくなく、あちこちの医者を訪ね歩きましたが、好転せず、家内の燕鳳は諸々の神や占い等を求め歩いていました。しかし、状況は改善されず、家族は長い間、どんよりと不安に包まれた空気の中にいました。

2007年5月間、偶然の縁によって、燕鳳が法友の陳さん及び王さんと知り合いになり、リンチェンドルジェ・リンポチェの助力を如何にして得られるのか、並びに、リンチェンドルジェ・リンポチェの深い慈悲と衆生済度の話を聴きました。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは現在閉関中で、8月に帰国するので、その後宝石店へ行き、教示と加持を請うことができることを知りました。

前述のような状況の下、私達は非常な元気を奮い起こされ、早期にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することを願いました。奕清は、インターネットで寶吉祥仏法センターのHPを閲覧し、リンチェンドルジェ・リンポチェの御写真を拝見し泣きそうになり、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女にとって「最後の希望」であることを示していました。並びに、王さんが代行している大済度会(中文:大超度法会)の申し込み人数が激増したのを知り、機会を失わないように、王さんが入場券を受領したかどうかを確認するよう、家内に何度も催促していました。

リンチェンドルジェ・リンポチェが帰国される前、奕清は家内に伴い宝石店に行き、リンチェンドルジェ・リンポチェの御写真に礼拝しました。8月11日、リンチェンドルジェ・リンポチェが帰国されて始めて信徒に謁見した日、私達三人は、午後三時頃宝石店に到着し、「ウェイティング36号」の番号札を戴きました。夜になりリンチェンドルジェ・リンポチェが来られると、宝石店は人で一杯になりました。私達はリンチェンドルジェ・リンポチェがお疲れになり、ウェイティング者は謁見できないのではないかと心配していました。王さんは私達を気遣って一緒におられ、「リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深く、衆生を助ける為なら命も惜しまない人であり、最高の恭敬心と信心で祈り、縁があれば上師にまみえることができる」と話してくれました。終に私達の番になりました。奕清は私達の前に単独で教示を請い、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による教えと加持を授かりました。奕清の感動による泣き声しか聞こえず、最後に、リンチェンドルジェ・リンポチェの「大丈夫!大丈夫!」という慈悲の御声がかすかに聞こえ、私ども夫婦は涙を溜めて跪いて礼拝しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈しみを込めてもう一度、「大丈夫!大丈夫!」と仰りました。その時、私達は、信じ、受け取り、この様に簡単に、長年の重石を下ろしました。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは合同修行会(中文:共修法会)と施身法会への参加を許可して下さいました。

その後、私達は予定通りに合同修行会(中文:共修法会)、施身法会、及び9月9日の大済度会(中文:大超度法会)に参加し、リンチェンドルジェ・リンポチェの説法を聴聞し、徐々に、衆生に代り法会に参加する道理を理解し、業報の真諦を理解し、衆生及び既に他界した親しい者達の供養をすることの意義を理解し、生死からの解脱こそが最終目的であることをも理解しました。

リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見後、奕清は毎日、六、七粒の薬の服用から、隔日に改め量も徐々に減らしていました。暫くして、私達が供養の意味を理解し供養しようとした時(奕清はこの事情を知りませんでしたが)、奕清が家内に、「お母さん、薬は一粒だけになったよ、不思議ね、もう必要ないと思う」と言い、飲まなくなりました。実のところ、その時、燕鳳は単独で逸仙路に行き供養しようと思っていたのですが、リンチェンドルジェ・リンポチェはその日、丁度別の用があり、宝石店へは来られず、法友の頼さんに伺い、供養金を道場の供養箱に入れることにしました。私達が供養する考えを発した時、奕清は薬が不要になりました。私達が供養を「しよう」と思った時、供養は既にその作用を起こしていたことになります。

8月末、燕鳳は奕清を伴い、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めました。私の長兄(航空事故で他界)のことでリンチェンドルジェ・リンポチェに教示を請う為でした。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「彼はまだ下にいます。ずっと法会に参加することにより、上に来たことをはっきりとあなたに知らせる日が来るでしょう」と説かれました。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の御蔭で、私達は大修行者の法会に参加が許され、逝去した親戚もまた救済を得ることができました。私達は法会に参加し続けている他、長兄の代りに供養しています。

12月、私達は皈依を求め、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲をもって同意して下さいました。また、慈しみを込めて、奕清は何をしているのかとお尋ねになりました。私達は、元々ある大学に就学していましたが、体が不調の為、休学中で、今は再度受験する為に塾で勉強していると答えました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「どうしてそんな遠い学校を受けたのか?」と質問され、塾の授業時間を尋ねられました。朝7時半から夜9時迄だと答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈しみを込めて、「彼女は身体が良くなったばかりだから、そんなに疲れさせてはいけない。塾と相談して半日だけにしなさい。彼女もそんなに長い時間、授業を受ける必要はないでしょう」と説かれました。私達が「はい」と答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは奕清に対して、「よろしい、夏休みが終わったら大学へ行きなさい」と仰りました。帰宅後、奕清の身体は確かに好転したばかりでしたし、リンチェンドルジェ・リンポチェは奕清に「夏休みが終わったら大学へ行きなさい」と話されたことを考え、奕清は、在宅で自習し、塾へは行かないことにしました。続いて、私達は節約した一年間の塾費を逸仙路に持って行き供養し、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝致しました。

今年(2008)5月末、日本京都の道場が落成し、奕清はこの様な機会はなかなか得難いからと、落成団に参加することを希望しましたので、父子二人で参加申し込みをしました。日本にいる間、娘は足と腰の痛みが酷く、長い道や、早く歩くことはできませんでした。6月1日、帰国後、心身共に良くなり、非常に落ち着いて以前の本を復習し、7月初旬の大学受験に備えていました。8月8日、合格発表があり、奕清は家から最も近い大学に合格、二日目、私達はリンチェンドルジェ・リンポチェに報告する為に宝石店へ行き、感謝と恭敬心をもって再度供養すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈しみを込めて受け取って下さいました。奕清はリンチェンドルジェ・リンポチェに言いました。「この一年、私には沢山の変化がありました。これからも頑張ります。リンチェンドルジェ・リンポチェ、加持を授けて下さり有難うございました!」その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、私達に、「あまり考え過ぎないように。以後、あなた方は身を入れて修行し、身を入れて仏教を修習し、充実した日を送りなさい。」と説かれました。

大学入学前、奕清は台大医院でNMR検査を行い、椎間板の突出が発見されました。医師は娘の症状は手術すべき状態であり、痛み止めを服用していないことに、非常な驚きを隠せない様子でした。9月下旬に授業がスタートし、忙しく大変でしたが、奕清の身心及び学習は、徐々に良好な状態となり、また、仏教を学ぶ面においても恭敬心をもって事を運べるようになったことを、上師に感謝致します。

張祖寬 敬書

2009 年 04 月 20 日 更新