128:善に満ちた生命がここから始まる──尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの大福徳により守られた「工場」
これは、旧暦正月の一日に当たる2008年2月7日の台北での共修(合同修行)法会に参加し終えてから3月2日の間に発生したことでした。この計三週間の間、私は台南の実家に戻り、寝たきりの母を世話しており台北での法会には参加しませんでした。その間に、義兄(姉の夫)が、3月2日の法会における尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの説法の話を私にしてくれました。リンポチェは、「家族に重病者がいる場合は、継続的に法会に参加しなさい。それによって家族の為に福徳を積むことができます。」と説かれ、また、「『プロパン』という物質を知っている者はいないか」と尋ねられたそうです。私は義兄に知っている人がいたのか聞くと、「リンチェンドルジェ・リンポチェの取り上げた物を知っている者はおらず、誰も答えなかった。」と言いました。その時、私は心の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェの語られた二つは私に関係することだと感じました。まず一つは、母は癌患者であったことです。12年前、乳癌を患いましたが、癌はリンパ節に転移し、2年前には他の器官に転移していました。もう一つは、私の仕事は工場の安全と環境保護を行う業務であり、会社にある二基の20トンのプロパンタンクは、私が管理を担当していました。私は義兄に、リンチェンドルジェ・リンポチェに母が癌の末期患者であることを申し上げたことはないと言いました。そして、ただ尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェが母の頭頂で母を加持するのを観想し、リンチェンドルジェ・リンポチェの御写真に頂礼していただけであり、リンチェンドルジェ・リンポチェに会社のこと及び担当している職務については一切話したことはありませんでした。通常出勤時には尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェを頭頂に観想して、全ての人、事、物が加持を授けられ平穏無事に事が運ぶよう祈っていただけでした。
また、会社の20トンのプロパンタンク(一般家庭用LPG液化石油ガスボンベは20KGであり、20トンのプロパンタンクのガスは1000本のガスボンベを装填する事が出来る)は正月休み期間にガス漏れが発生しました。この時、私ははっきり理解したのです。尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの説法された出来事はすでに私の身に発生したことではないのかと。本当に不可思議なことです。義兄は母が重病である事を知っていました。旧暦の正月休みの時、会社のプロパンタンク一基が高圧液体管線の破裂によりガス漏れを起こしたのにも関わらず、タンクエリアの測定器がガス漏れをキャッチせず、オフィスに連結している警報器が作動しなかった為、ガス漏れの異常に誰も注意せず気付かなかったのです。正月休みが明けて工場及びタンク設備を巡回していた際、タンクエリアの周囲柵から10メートル離れた所でプロパンガスの匂いを嗅ぎました。確認すると、驚いたことに、プロパンガスの漏れは最低でも3~4日以上も経過していました。漏れ箇所には既に大きな氷が固まっており、タンクエリア内の濃度も濃く、理論的に言えば爆発してもおかしくありませんでした。私は即刻、緊急遮断バルブを閉じて消防水で氷を流しました。プロパン、メタン、ブタンはどれも高易燃性気体に属し、気体は空気より重く、遠くまで伝播し易く、漏れ濃度が爆発範囲に達したなら、火や火花によって逆火の発生となります(爆発)。リンチェンドルジェ・リンポチェの非常に大きな福徳と加持の御力の御蔭で、衆生が怪我を免れたことを感謝し、更に、いつ何時も弟子を助け加持して下さる尊貴なる金剛上師リンポチェの御恩と慈悲に感謝致します。
善に満ちた生命がここから始まる──ポワ法の殊勝と希有
2008年3月9日、私達は法会に参加する為に台南から北部へ行きました。参加前に、家内が母に「一緒に法会に参加しているのを観想しますよ」と告げると、母は頷き、その日の晩の11時過ぎに、車椅子の上で安らかに最期を迎えました。母は12年前に乳癌を患い、その時既にリンパ節に転移しており、二年前には癌は更に、他の器官(肺、骨)に転移していました。私達は癌末期の患者は痛みが酷いことを知っていましたが、母はモルヒネを打って痛みを抑制する必要はなく、ただ一般の痛み止めの薬を服用していました。また、癌末期患者にある叫ぶ程の激烈な痛みもなく、平常は意識がしっかりしており、二本の足に多少の水脹れがあっただけでした。その日の晩、母の傍らで面倒を見ていた父は、母は眠ったのだと思い、一緒に休んでいました。医師とホームヘルパーは家族に、母の病状は全く癌患者のようではなく、母の一切が奇跡であるとも言いました。しかし、私達は、これは尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの母に対する慈悲の加持力と諸々の仏菩薩の恩徳であることを承知していました。
母は二年前、寶吉祥宝石店にてリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による御加持を受けていました。台北、斗六の法会と2006年、2007年の『阿弥陀仏無遮済度法会』に参加したことがありました。母は右手の親指を立てて「あなた達の上師リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に荘厳で、慈悲深い方です。」と私に言いました。ですから、臨終前には、「どんな時でもリンチェンドルジェ・リンポチェを観想するように。」と母に言っていました。リンチェンドルジェ・リンポチェに会ったことがあり、リンチェンドルジェ・リンポチェの声を聞いたことがあり、リンチェンドルジェ・リンポチェを覚えていて、恭敬心や懺悔心があり、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心があれば、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェの助力が得られると、リンチェンドルジェ・リンポチェは私達に仰っていました。
2008年2月27日夜8時、私達は雲林から台南に戻り、家に到着すると直ぐに母の所へ行きましたが、その時、母は非常に寒がって、電気ストーブを使用し、毛布を背中に掛け、身体も毛布に包まっていました。しかし母はやはり非常な寒さを感じ全身を縮み込ませていたので、父は慌てて私達に、医者に連れて行く必要があるか聞きました。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て臨終前の四大分解現象について説いたことがありました。家内は看護師でしたので、婉曲的に父に医療上では全く緩和させることはできないことを説明し、直ぐに母に甘露丸を飲ませました。そして隣の家へ行き、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御写真に頂礼し、御写真に向かって母の状況を伝え、リンチェンドルジェ・リンポチェに、母の為に最良の手配を下さるよう祈りました。家内が母の部屋に戻った時、母は回復して正常になっていました。父は、家内が母に医者の薬を飲ませたものだと思い、薬効が良かったので、同じ状況の時に自分で母に飲ませる為に、薬はどこに置いたのかと尋ねました。家内は父に、母が飲んだのは甘露丸というもので薬ではないことを告げました。
2008年3月10日早朝2時、西螺にて家族からの電話を受け取り、母が既にこの世を去ったことを知りました。私達は直ぐに仏殿へ行き、リンチェンドルジェ・リンポチェの御写真に礼拝し、リンチェンドルジェ・リンポチェに母の臨終を伝え、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに母の為に最良の手配をして下さるよう願い、母が殊勝な「ポワ法」を得られるよう祈りました。その時、私達はリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに基づき、再度家族に、母の遺体を移動したり接触しないよう、うるさい音や泣き叫ぶ声を立てたりしないよう促しました。また、電話の携帯電話も母に影響することと、出来る限り安静を保つこと、母にリンチェンドルジェ・リンポチェをずっと観想するよう話しかけることを指示しました。私達は西螺から急いで台南に向かい、道中ずっとリンチェンドルジェ・リンポチェの口伝である「六字大明咒」を唱えながら、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを母の頭頂に観想していました。
家に到着すると、家内は母の口の中に甘露丸を一粒入れ、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御写真に向かって祈りました。私はちらっと母の顔を見てみましたが、頬には光沢はなく、唇は黑褐色で、身体を曲げて車椅子の上に座り顔は下向きでした。季節は冬でした。私は母の為に「六字大明咒」を唱え続け、母にリンチェンドルジェ・リンポチェを観想するようずっと言い続けました。数時間後、私の弟は母の遺体が硬くなり棺に入らなくなるのを心配して、母の遺体をまっすぐ寝かせようと言いました。父、弟、及び家族は皈依していませんでしたので、彼らが心配の為に悪念や口業を起こすのを非常に恐れ、家内と相談した後、小さい声で母に状況を告げ、母をベッドに寝かせました。道理から言えば、母が臨終した3月9日晩の11時から翌日3月10日の早朝5時過ぎまでには既に6時間が経過しており、季節は冬であったので、遺体は硬くなっているはずでした。しかし母の遺体は依然として横たわらせることができる程、身体も四肢も非常に柔らかく、腹部にも腫れは見られませんでした。
昼の11時20分前後、葬儀社の人が来られ、母の為に後続する葬儀等についての手続きを始めたので、私は「六字大明咒」を唱えるのを止めました。この時、母は臨終から既に11時間が経っていました。私は身体を起こし、母の頭頂にある「梵穴(サハスララチャクラ)」から約2センチの箇所に左手の掌を近づけてみました。するとその瞬間、明らかに暖かい温度が私の掌から体内に伝わり、約10秒前後の間、それを感じ続けていました。この熱気はまるで鍋の中で物を蒸しているかのようで、鍋の蓋を開いた時の蒸気のように熱いものでした。私は双子の弟に母の「梵穴」が熱いことを告げ、弟の左手を引っ張り、掌を母の頭頂にある「梵穴」箇所に近付けさせました。弟もまた本当に熱いことを確認しました。再度母の顔色と唇を見ると、赤く潤い光沢のある顔で微笑しており、右目の角には一粒の涙がありました。この時、私は、これが「ポワ法」を得た殊勝な瑞相であることを確かに理解しました。歓喜で満たされた私は、はっきりと弟と家内に言いました。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが母に最良の手配を整えて下さり、母は殊勝な「ポワ法」を得て阿弥陀仏浄土に往生したのです。葬儀中、家族には悲哀の場面はなく、非常に落ち着いていました。
母の遺体を火葬した後、頭蓋骨は全体的に完全なものでしたが、火葬温度により少し裂け目がありました。私達は頭頂の「梵穴」箇所を探しましたが、そこは一円硬貨の大きさの厚みの凹みができており、凹み表面は非常に丸く滑らかで瑠璃を焼成した表面のように光ってきれいでした。凹みの直径中間には2mm程度の貫いた小さな穴が一つあり、穴表面は同様に丸く滑らかで光沢がありました。葬儀社の人は母は頭部を手術したのか聞きましたが、私達は確信を持って否定しました。私は機械を学んだ事があり、如何なる物体の表面をもカッターやドリルで加工や穴を開けたことはありますが、表面は必ず粗く傷が付き二度と復原することはできません。私達は再度、頭蓋骨の他の裂け目表面と比較対照して見ました。実に雲泥の差で、完全に異なった二つの組織表面でした。このような状態の凹みや小さな穴は、外力によって形成されたものではなく、「不可思議」としか形容できない仏法の力と、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの修法されたポワ法の殊勝さと偉大さによるものです。リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に深く感謝致します。母の骨格は火葬後、オレンジがかった赤色となり、5mmぐらいの大きさで翡翠色の舍利が数粒現れました。母は入れ歯をしておらず、指輪もネックレスもしていませんでした。私達は同時に、別の火葬した遺骨を見ましたが、それは全て白色で、他の色はありませんでした。葬儀社の人は経験があるようで、母の骨の中には座した観音様のような相が見られると私達に言いました。よく見てみると確かに、観音様が座しているのが見えました。葬儀社の人達は、更に、これは浄土に往生したことを示していると話していました。間違いなく、一切の瑞相から、既に浄土に往生したことが証明されました。これは、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが我執なく一切を惜しまずに、六道衆生を輪迴から救い、衆生を苦しみから解き放ち幸せに導いていることの最良の証明です。私、家内、弟、妹、及び子供達全員は、仏法の力を目撃し、確認しました。心からリンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳に感謝致します。
弟子である私は、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に非常に感謝しております。リンチェンドルジェ・リンポチェは貧富貴賎を問わず衆生を助け、最高のものを私達や衆生に与えて下さり、五戒十善と戒律を守ることの大切さを説き、「全ては自分の誤り」として自己を正し、睡眠前に自己反省し、毎日『仏子行三十七頌』を読誦して生活に応用することを教えて下さいました。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、本当に有難うございます。
斗六弟子 周建賢、管仁梅敬謝 2009年1月5日
2009 年 02 月 09 日 更新