126:因果を深く思惟し、無常を深く信じること

尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに礼拝致します

事の始まりは、2005年6月、家に帰った私は、父母より、リンチェンドルジェ・リンポチェによる衆生救済の話や、法会における説法等を聞いたことでした。当時、私は生活の中である苦境に出遭い、リンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を父母に願っていました。自己の因縁が満たされず、2005年の年末、二回目に宝石店で初めてリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いし、毎週日曜日の共修法会(合同修行会)と施身法法会への参加許可を得ました。リンチェンドルジェ・リンポチェの法会での教示を聴聞する度に、父母と共に数多く参加した顕教の法会で生じた疑問を解決することができ、私の誤りを指摘されることさえもありました。2006年6月11日に行われた皈依法会に、私は心が定まらないまま臨時申し込みをし参加しました。事前には、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依を請う為に宝石店に赴きませんでしたが、このような因縁下での機会を放棄したくはありませんでした。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の御蔭により、この様に、私は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに依止できましたが、皈依後半年になろうとした頃、自己の業力が顕現することとなったのです。

リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲は遍く虚空に

2006年12月初旬のお昼頃、ある患者の腹腔鏡手術を行っていました。手術が半ばに差し掛かった時、出血の為、伝統的な手術方法により止血しなければならず、手術方式の変更過程において、私は右手を高圧ガスシリンダーの二酸化炭素で凍傷してしまいました。忙しかった為、手当てする機会を逃して仕事を続けていましたが、食事の時間になって初めて、右手が既に1/2も青白く、鈍い痛みがあることに気付き、慌てて水で流した後、ロッカーから『阿弥陀仏無遮大超済度大会』でリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による加持を授けられた甘露水を急いで取り出して掌に塗りましたが、食事を終えた30分後、凍傷した手に第二度火傷の水泡が現れ、水泡の面積は徐々に拡大して行きました。同僚は傷を見た後、整形外科を手配してくれました。医師は暫くは炎症を避ける為に水泡を破らないように指示されました。しかし、日常家事及び仕事の中での不便は避けれず、特に、入浴の温水にうっかり接触してしまった時には痛みが増しました。その後水泡は知らぬ間に破れましたが、仕事の合間に、また夜寝る前に、乳液を塗るように思い切り患部に塗布していたことで、痛みが緩和されたばかりでなく、知らず知らずの内に傷になった皮膚が新らしい皮膚に代り、傷跡がすっかり消えていたのです。今思い返せば、事件の発生は起こるはずのない「意外」な事故でありましたが、リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て、「発生する一切の出来事には全て因果がある」と説かれていたことを思い出しました。肉体上の痛みだけではありましたが、これは自分の累世殺生の悪業による果報であると信じ、嘗て害した衆生に対し心からの懺悔をしました。

リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝致します。私の苦しみは軽減されました。リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝致します。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲が遍く虚空に満たされ一切の縁のある衆生を御加持下さり、私達に信心がありさえすれば、知らぬ間にリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得ることができるのです。

生死無常を深く信じること

いつ頃から始まったのか記憶にありませんが、原因なく夜中に腹部に痛みを感じそれが早朝まで続くことがありました。仙痛は耐え難く、下痢をした後は、身体全体に虚脱感を感じ、暫く休まないと回復しませんでした。それは短くはない一定時間継続し、生理の排卵期前後に不定期的に発生するものでしたので、気分的にも良いものではありませんでした。

しかし、手の傷がまだ全快していないある日(12月中旬)、私は、以前のように突然腹部に少し痛みがありましたが(今回は手術のスケジュールが密集していた金曜日の夜)、何か食べ合わせが悪かっただけだろうと、仕事が一段落するまで我慢していました。しかし、平常の腹痛とは異なることに気付き、痛みが堪えられなくなりました。意識ははっきりしていたものの、仙痛の他は、身体が上下方向に硬くなり柔軟性がなくなったのを感じましたので、更衣室の椅子に座り、近くにいた同僚を呼び寄せました(同僚の話では、その時、私の四肢は硬くなり両手は痙攣状態で伸ばせず、呼吸が速すぎたとのことでした)。私も平常とは違っていることを感じ、慌てて婦長に連絡をし麻醉医師に血圧測定、点滴、血液検査をしてもらいましたが、結果は全て正常でしたので、私に酸素吸入をさせて緊急治療室に送るしかありませんでした。また、同時に父母にも連絡し、急いで病院に来てもらいました。緊急治療室の医師もまた検査後のデータを見て、どう判断したらよいかわからず、続けて観察し、一時的に食事を摂らないように言いました。待っている間の関連検査において、医師が腹部に触っただけでも仙痛があり、その後痛みは感電したように放射状に広がって行き、続いて身体が上下方向に硬くなり柔軟性がなくなり、この状態が一定時間継続されてから、症状はゆっくりと緩和されていくのでした。しかし、一回一回と徐々に酷くなっていき、胸元まで延長されたのをはっきり感じることさえもありました。母は私の状況に耐え切れず、慌てて法友に電話連絡し、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を請いましたが、金曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェは宝石店にいらっしゃいませんでした。母は私に甘露水を飲んでもよいかどうかを尋ね、私が「飲みたい」と答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェが頭上で加持して下さるのを観想するよう言いました。しかし、私ははっきりとリンチェンドルジェ・リンポチェを観想できず、心中、焦燥感を感じていました。このような症状が益々酷くなるのであれば、筋肉の痙攣による呼吸停止で死んでしまうことだろう!この時初めて「生死無常」を感じ取り、その後、このような場合は頼りになるのは自分だけであることを知り、一心に「六字大明咒」を唱えて加持を授かろうと願いました。しかし私の状況に気を遣って同僚や医師が次々と来てくれていたので、一心に読誦することができず、激痛発作の境界に面すると、谷間に突き落とされたように、元来の姿が現れてしまうのでした。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し既に半年が過ぎましたが、身口意は根本的に恭敬心が足らず、貪瞋癡の悪習は改善しておらず、教示に基づく行動もとれず、よって福徳は具足せず、業障が目の前に現れたのでした。後、母は私が甘露水を飲んでも症状が改善されないのを見て、甘露丸を一粒取り出し私に服用させましたが、間もなく嘗てなかった激痛に襲われました(出産より甚だしい痛みでした)。母にトイレに連れて行ってもらうと、下痢で黒色の物を排泄した後、突然、治った!痛みは過ぎたのだ!と感じました。引き続く苦しみを味わわずにいられたのは全てリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の御蔭であると信じています。緊急治療室のベッドで休んだ後、私は母に、もう問題ない、医師に帰宅を許可してもらうと告げました。医師は疑惑を含んで、一体どうしたのかと聞き、最後に、「排卵痙攣症候群の疑い有り」と診断を下しました。その後、次の週の火曜日、宝石店を尋ね、リンチェンドルジェ・リンポチェに礼拝し、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に与えて下さった御加持に感謝致しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、慈悲を以って私に手を伸ばすように仰り、空間を隔てて加持を授けて下さいました。加持後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「以前、海鮮を食べ過ぎたので脾臟機能が悪い。漢方診療所で診察してもらいなさい」と仰りました。肉類を好まず、特に魚や海老等を好んで食べていた私は、自分の食欲を満たす為に、無数の衆生を傷付けていたのです。実に根深い罪悪でした!

臨床看護に従事して二十数年、病院勤務で接する病気、向き合うのは、人生の中で必ず通過しなければならない、老、病、死に他なりません。しかし、自分が毎日向き合っているこれらの生死病苦によって、『無常』を深く信じるには至りませんでした。自分では因果業報の恐ろしさを理解していると思っていたのですが、得難き人身、及び、輪迴の業報については深く思惟することはありませんでした。現在回想すると、この大病を患った時、自分の累世に積み上げた悪業に対する羞恥心や衆生に対する懺悔の心を直ぐに起こせず、慙愧の念に駆られます。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による加持力は真に不可思議なもので、リンチェンドルジェ・リンポチェの大福徳による庇護がなければ、奇妙な痛みがどうして理由なく消失し、薬なしに治癒できたでしょうか。この様な事は嘗て起きたことはありません!ですから、必ず上師への恭敬心を持ち、深く因果を思惟し、深く無常を信じなければなりません。

尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝致します!

弟子である私は、上師の御前で、無始以来に為した諸悪業を懺悔し、心から深く三宝を信じ、教示に基づき行動し、仏教修行に精進することを謹んで発願します。一切衆生が早期に輪迴を解脱することを祈り、リンチェンドルジェ・リンポチェの転法輪が長らく続き、この世に長らく住されることを祈ります!

皈依弟子 黃麗樺 合十敬述
2008年12月22日

2013 年 03 月 13 日 更新