121:慈悲深い上師に依止できることは至福の至り

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼

若し、慈悲深い上師がいらっしゃらなければ、私は今なお、ぼんやり当て所もなく流離う流浪の民でした。一人の真の善知識(正しい道理を教える人)に依止できるこの福報がなければ、現在私が過ごす日々は、どんなに苦痛で耐え難かったでしょう。

思い起こせば、2007年1月、父母が台湾を離れると、一族の事業はすぐさま再建を宣言。メディアが大々的に報道した為、一般大衆の注目と投資者の憤りを引き起こしました。1月31日 検察側から出された裁判所の拘禁申請の許可がおりました。当時私は皈依してから4日しか経っていません。検察官に法廷で逮捕を宣告され時、私の頭の中は空白になり、流砂の上で直立したまま、全身が下に沈んで行くように感じました。生まれて初めて手錠をかけられた、あの辛酸な思いは実に耐え難いです。

面会禁止の部屋は牢の中で一番つらいところです。それは、通信、面会が禁止されるからです。面会禁止の牢獄の被告は外に出られませんし、家族友達にも会えません。弁護士と案件内容を相談するのさえ、短い20分に制限され、全行程録音録画され、筆記や書類の持ち込みさえも許されず、弁護士も私に書類を渡すことができませんでした。更に手紙を受け取ることもできず、外の家族や友達に手紙を書くことも許されません。テレビ、新聞、ラジオ、雑誌もありません。ほとんど24時間、3人の囚人と一緒に1坪半の牢に閉じ込められ、ドアから出ることは許されませんでした。食事、お風呂、洗濯、睡眠、大小便すべてこの中で済ませます。鏡もなく、水道もなく、ゴキブリ、蟻、ムカデが寝ている板間の上を逃げ回っています。その上24時間録画され、夜も電灯が点いたままでした。

冬 室内ではジャケットを着て靴下をはかないと、寒くて震えてしまいます。コンクリートの壁は寄り掛かりたくないほど冷たいです。夏 室内は外より蒸し暑く、扇風機では熱気が解消できず、湿疹ができて薬を塗らなくてはならない程、汗をかきました。

私の伯父は70歳の高齢で、糖尿病の為病舎入りし、2回低血糖で、睡眠中昏睡状態になり、朝同房の人から頬を打たれても目覚めない為、病院の救急に掛かかりました。この期間弁護士以外誰にも会えず、私はこの面会禁止の部屋で半年以上過ごしました。

首のリンチェンドルジェ・リンポチェに結んでもらった五色の紐も、規定により切り取られ、持っていた数珠も取られてしまい、怖くてポケットに入れていた皈依認定証も、拘置所には持ち込めず、心中まったく救いがありませんでした。

外界の状況を知る由もなく、また案件の成り行きもわからず、心中強烈な孤独と寂しさを感じていました。私にとって未来は一面の暗闇で、未来は恐怖そのものでした。他の受刑者や被告に陰口をたたかれ、私は太った羊(一番利益を貪った人)だとさえ思われていました。

度々夜中に悲しみが込み上げ、上師を思い出しては、すすり泣いていました。唯一できることは、弁護士との面会時に、チャンスをみて、私に代わって上師に供養し法会に参加するよう、弟に伝言を頼むことでした。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェが私に安心するようにと開示し、その上毎晩私のことを思っていると、弟が話していたと、弁護士が私に伝えました。

当時面会室に座っていましたが、手にした受話器から、リンチェンドルジェ・リンポチェが私を心配していると聞いて、その場で涙が雨のように流れ落ち、それを思い出すと今でも涙が止まりません。

面会禁止が解かれ一般の拘禁牢に移ってから、家族や友達に会えるようになりました。弟は、リンチェンドルジェ・リンポチェが会いに来られることを告げましたが、心中喜ばしくもあり、怖くもありました。上師にお会いできる期待もありますが、リンチェンドルジェ・リンポチェにご足労かけるのを心配したからです。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは、ご多忙の中にもかかわらず留置所に来られ、また厭わず2回も足を運ばれました。今でも大変恥ずかしく思うのは、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁時、すぐさま見分けがつかなかったことでした。私は牢の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェが法王について閉関されたことを知らず、またリンチェンドルジェ・リンポチェが髪型を変えたことも知りませんでした。一人の笑顔の穏やかな紳士が、面会室の窓ごしに、私に向かって手を振るのを見ても、疑いながら、あの人はいったい誰だろう?どうして見覚えがあるのだろう?

面会の電話が繋がった後、すぐ鉄窓ごしにリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼を願い出ました。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「頂礼の必要はない」

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて「ここは泥沼だと思うだろうが、この泥沼から抜け出、染まらない蓮の花を咲かせられないだろうか?」

そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く「君の顔色は悪くない。君は觀音菩薩様がいつも助けてくれていることに感謝すべきだ」

それを聞き終わると、堰を切ったように涙がこぼれました。ゴミのように道端に捨てられた廃物のような自分でも、上師や觀音菩薩さまの觀護を得られた、その感動は今でさえ文字で書き表すことができません。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて、「直貢噶舉教派の中の大修行者の一人は、中国共産党に20数年監禁された。君よりもっと苦しみを背負っている人はたくさん居る、特に病気の人だ。ここを出た後、私と一緒にもう一度仏法を勉強してみないか?どう?」

私は涙を流しながら、受話器を手にし、鉄窓ごしに「リンチェンドルジェ・リンポチェ、私はここを出てあなたと一緒に仏法を勉強したい...」

リンチェンドルジェ・リンポチェは更に「これは君達の共同のカルマなのだ。この件から逃れたいと思わないように。逃げたいと思うのは、欲だ。欲があれば、苦しむことになる。誰も恨んではいけない。」

私も、リンチェンドルジェ・リンポチェに保釈になるかどうかについて、どう直面すればいいかお聞きしました。裁判所は法律に基づき二ヶ月に一回拘留の継続を、開廷して決定しなければなりません。私は、希望を持って望めば良いのか、まるっきり希望を持たないで、成り行きに任せた方が良いのか?私は三審の判決で服役するまで、ずっと閉じ込められて、永遠に出られないが怖いのです。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「保釈されるかどうかは、考えないで、只自分の懺悔が満足いくものかどうかを考えなさい。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「リンチェンドルジェ・リンポチェは、毎晩君の事を思っていると覚えておきなさい。君は、私に手紙を書くこともできる。阿彌陀佛。」

面会の制限時間は15分でしたが、まるで5分で終わってしまったようでした。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、受話器を置いて立ち上がりました。リンチェンドルジェ・リンポチェは最初から頂礼は不要だと言われましたが、しかし私は立ち上がって、一歩下がり鉄窓ごしに上師に向かい頂礼しました。リンチェンドルジェ・リンポチェが慈愛に満ちた笑顔で私を見ながら、頂礼を受けている画面は、今でも私の脳裏にはっきりと残っています。

ほんの短い時間でしたが、私は上師から大きな大きな加持を授かりました。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェのお写真を、弟が差し入れてくれました。私はそのお写真を牢の窓の台の上に置き、毎日起床後と就寝前、リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼しました。その外、林兄弟子、陳兄弟子もリンチェンドルジェ・リンポチェが特別取材を受けた“TVBS周刊”と手紙を送ってくれました。私は慎重に、雑誌の表紙の隅のリンチェンドルジェ・リンポチェの写真を切り取り、囚人服の胸に掛けているプラスチックの名札の中に入れました。そうすることで、心が落ち着きました。

手紙の内容には、リンチェンドルジェ・リンポチェの道場法会の開示が書いてあり、また法王について閉関したこと、また日本のトロッコ列車で挙行された施身法法会のことも書いてありました。毎回読むたびに心中無限の喜びが湧いてきます。道場には居ませんが、まるで道場に居て感じるのと同じようでした。度々繰り返して読み、毎回読むごとに大変感動し、心が和み喜びを感じました。お2人の金剛兄弟子の関心・激励と、兄弟子のお蔭で道場の法会の様子を分かち合うことができ、大変感謝致しております。

2坪にも満たない牢の中で、これまでに傷を負わせた衆生、迷惑をかけた人々のことを黙々回想し、心底後悔しました。更に私よりもっと大変な人が、まだ苦しんでいるのを思うと、私はもう十分幸福だと悟りました。少しずつ人を見る目が変わってきたと、自分でも感じるようになり、心中の恐怖や苦痛も少しずつ消えていきました。

判決から保釈で出獄できるまで、433日が経過しました。再び道場に戻り、法会に参加して、上師に仏法を学べるのは、どんなに幸福で貴重なことでしょう。この世の中で、これより重要で幸福なことはないと、身にしみて感じました。更に最近になって思うのは、当初投獄された日々は、私に言わせればまったく悪いことではなかったということです。しかし、もし上師の加持がなければ、刑務所での苦痛の日々は、とても我慢できなかったでしょう。その外に一つ悟ったことは、若し人間界の牢獄でさえ耐えられなければ、地獄の牢獄はいったいどうなるのでしょう。こう考えただけで、ぶるぶる身震いしてしまいます。

会場の先輩方は、すでにメディアから判決の結果をお聞きになったことでしょう。皆さんご存知のように私は懲役13年の刑を下され、弟の王令興は懲役3年6ヶ月。しかし、この場に於いて、特別先輩の皆様に報告したいのです。今のところ私と弟は、刑罰を受けた私達一族の中で僅か2人だけ、検察官が起訴した求刑より軽くなった被告なのです。

その他の兄達、兄嫁達は皆仏教の経歴が私よりかなり長く、彼らの長年のお布施の供養金額も私と比較になりません。長兄の妻は靈X山(仏教団体)で仏教を勉強していて、ベジタリアンでした。次兄の令一とその妻は20数年前に慈X(仏教団体)に加入し、経験を積んだ慈X人で、彼らは10数年前から名誉理事でした。次兄の妻は早くからチャイナドレス(慈Xの制服)を着ていました。でも彼らはベジタリアンではありません。次兄の妻は懲役11年の厳しい刑を下され、その上ガンでした。私は、上師と会うよう次兄に勧めましたが、次兄が言うには、慈Xの人に慈X病院の医者に見せ、化学療法を受けるようにと言われ、彼もその方が良いと思っているとの事でした。次兄の妻は車椅子に座り、杖で支えながら、自分の願いはボランティアをすることだと、法廷で裁判官に泣きながら訴えるのを見て、実際私は、自分の気持ちをどう表せばいいかわかりませんでした。

四兄の令麟とその妻は約9年のベジタリアンで、長期に台中の某禪寺と親しく交流し、彼らは寺院の大功德主であり、海青(仏教の礼服)を着て法会に参加していました。数千人の僧侶が、彼にお辞儀をし返礼していたのは壮観だったと、私に言った事があります。私はどう答えれば良いかわかりませんでした。結果は四兄が懲役18年の判決を受け、四兄の妻は指名手配され、時効は25年。四兄の70数歳の年老いた母親の陳佩芳女士でさえ検察側の7年の求刑に対し、意外にも15年の厳しい判決を下されました。長姉の令楣も密教に皈依し、他の教えも10数年受けていましたが、結果は検察側の懲役13年の求刑に対し、厳しい判決の懲役18年でした。

次姉の令可も佛X山(仏教団体)の某師父が自ら住職になった道場を、何年も護持しています。検察側の求刑懲役8年に対して、厳しい懲役10年。叔父の王事展は何も信仰はありません。求刑15年に対して、一年長く16年の判決。彼らはみんな厳しい判決を受け、検察側の求刑より更に重くなっていました。叔父の息子で、従兄弟の嘆きはは過去二年間に招聘した弁護士は、有名無名にかかわらず、すべて無駄働きになり、雇っても雇わなくても同じでした。唯私と弟は違っていました。私の求刑は懲役16年、それが3年短くなり懲役13年の判決。弟の令興は、求刑懲役6年、ほとんど半分に減刑され懲役3年6ヶ月でした。

裁判所が判決を宣告後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、訴訟の場合、重要なのは法律条文ではなく、福報なのだと、私と弟に言いました。法会に参加するのと参加しないのでは自然と差が出ます。仏法に皈依している経歴は私が最短でしたが、保釈され法会に参加してから裁判所の判決宣告までわずか9ヶ月足らずです。これはリンチェンドルジェ・リンポチェと諸菩薩の護法の慈悲深い加持のおかげです。継続して道場で法会に参加し、福報を累積したからです。今ここに居られる先輩がたに報告します。我が家のケースの顕然な実例を比較してみれば、結果はすでに歴然としていて、これ以上説明する必要が有りません。ここで適当なことわざを使えば、不怕貨比貨,只怕不識貨。(比べられるのは怖れないが、其れより知られないのが怖い。)

去年の12月31日水曜日の朝、裁判所に判決を聞きに行くタクシーの中で、リンチェンドルジェ・リンポチェがいつも法会で開示される言葉を、ずっと回想していました。そして菩薩の実践三十七頌の経典を唱えながら、自分がとるべき態度について言い聞かせていました。法廷で、裁判官が自分に懲役13年と判決を宣告。その瞬間だけでなく、一日中なぜか心は非常に平静で、不安もあせりもまったく有りませんでした。これも、リンチェンドルジェ・リンポチェと諸菩薩の加持の力が、ずっと私を加持し続けているからだとわかっていました。当日の午後、宝石店で上師に拝謁し、判決結果を報告し、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭でこんなに心が落ち着いていたと、感謝したかったのですが、情けない話涙がずっと止まらず、一言も話せませんでした。

私はリンチェンドルジェ・リンポチェが私たちに開示してくださった言葉を思い出します。「千万の間違いは、全部自分の間違いである」。今日この様になったのは、自分が会社でしなければいけない義務を怠り、株主に代わり管理を厳しくしていなかった為だと理解しています。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会や法の録音テープの中で、「他人の利益を自己の利益より重要視すること」と説かれています。この言葉で自分の問題がどこにあるか、また心から懺悔し、反省すべきだと、よくわかりました。今徹底して理解できたのは、企業家、会社の社長、幹部或いは職員に限らず、厳守しなければいけない原則とは何かです。この様に考えると、自分が受けた重刑も素直に受け入れられます。

この外にもう一つ、ここで報告したいことがあります。30数年前私が生まれたばかりの時、ダンスホールを経営していた父は、翁大銘氏の亡き父親の翁明昌氏から、上場会社である嘉莘麵粉飼料油脂会社を譲り受けました。その後改名し、嘉莘食品化纖、略称して嘉食化。続いて1年後、上場会社である力霸会社を買い取りました。

嘉食化会社を父が引き継いだ時、養豚場と養鶏場がありました。父と次兄の話を聞いたのですが、鶏の市場価格が下がった時、資料や電熱費などのコストの節約に、未孵化の卵を直接処分したことがあり、まだ成長していない小さな鶏を、何千匹も全部生き殺しにしたそうです。本当に残酷です。養豚場のことは聞いたことがありませんが、きっとたいして変わりはなかったと思います。

養豚と養鶏の事業は十数年前に止めてしまいましたが、参加した法会で、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を何度も聞き、殺業の恐ろしい果報をよく知っていました。殺生の果報は家族の仲が円満でなくなり、家族は四散し、重い病気にかかります。

10数年前、力霸集團はまだ全国の10大成績優秀企業に連なっていました。しかし傘下の嘉食化が毎月八千万元の速度で損失を出していることから始まり、速いスピードで、全グループは優秀株から安物株に様変わりしてしまいました。ピークの力霸1株は200元、事件が発覚する前に1.5元に落ち込んでしまいました。嘉食化は150から落ち込んで、1元にもなりません。中華銀行は20数元から3元に落ちました。

この巨大な殺業を背負う嘉食化は、全グループを引きずり込む最大のブラックホールになってしまいました。そして、長期に渡り嘉食化総経理だったのが次兄王令一でした。彼らは嘉食化が赤字を出したのは化繊業原料の石油の値上がりと、それに加え大陸に工場設備の投資をしなかった為、コストがたかくなりすぎたからだと言いました。しかし、不思議なのは、同じ様に台湾で工場設備がある他化繊の同業、例えば台塑、南亞、新光化纖等が、同時期に儲かったのにもかかわらず、嘉食化はどうして損をしたのでしょうか。他が損をする時、我らの損失はなぜ更に深刻になったのでしょうか?これはそんなに単純なことではないと、私は思います。原因はやはり殺業だと思うのです。

嘉食化は連続して10年の大赤字、百億にも達する損失。それに加えグループが投資した銀行と他の事業も利益が上がらず、投資資金が回収できないまま、損失を埋めるため、ゼロ負債から銀行グループに二百億元の借金があるグループに成りました。父は面子のため、早期の会社再建進行を邪魔し、伸ばし伸ばしにした為、グループ内の他の会社の資金をその場限りのやり方で、その損失の大穴を埋め、銀行グループの雨の日に傘をたたむようなやり方に対応していました。最後には、今の取り返しがつかない大災難になりました。

この他、去年リンチェンドルジェ・リンポチェの開示で聞いた内容は「ツバメの巣を食べる人の家族は、住所がなくなる」でした。これを聞いて大変驚きました。皆さんに報告したいのは、父は50歳からツバメの巣を食べると気のめぐりが良くなると、聞いた話を信じ、毎日必ず朝晩1碗のツバメの巣を食べていました。30数年欠かしませんでした。母は自ら市場に行き、ツバメの巣を選び、ひどい話わざわざその為に飛行機で香港まで行き、まだ加工していない一番良いツバメの巣を持ち帰り、雇い人に頼み、水につけふやかし、更に肉眼でピンセットを使って、一本ずつツバメの巣の毛を取り、それを煮込んでもらい、父に食べさせていました。このようにして食べ続けて30数年、犠牲になった燕の子は何羽になるか分かりません。思うにこれが私の家族が今なお四散している原因の一つでしょう。殺業の果報は本当に怖いものです。

目前、裁判所が採決した保証人を立て拘留を停止する条件は、保釈金の増額以外に、居住の制限や、毎晩7時から9時の間に管轄の派出所に居住認知の必要でした。出国、船出も制限されています。私は金剛兄弟子達がリンチェンドルジェ・リンポチェについて、京都やインドに行けるのをとても羨ましく思います。自己の業障が重すぎることは充分に理解しており、更に努力が必要だと感じています。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェにどうすれば浄土に行けるか、宝石店まで伺いに行ったことがありました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く微笑みをたたえて、「上師が居れば大丈夫だ。」悟りが遅くて反応が鈍い私は、一時わかりませんでした。続けてリンチェンドルジェ・リンポチェが「君の金剛上師にぴったりついて行きなさい」

将来リンチェンドルジェ・リンポチェが台湾を離れ、国外に弘法に行く時、私も上師と一緒に行きたいと強く思います。

私が最も心配なことは、何時かリンチェンドルジェ・リンポチェが台湾に不在で、上師と親しくできない場合、私はどうしたら良いのでしょうか。更には、若しある日リンチェンドルジェ・リンポチェがこの世界に居ず、地球にも居なくなったら、弟子の私はどうすれば良いのかわかりません。その時まだ修行ができておらず、物になっていなければ、いったい如何すれば良いのでしょう?浄土にはどのようにすれば行けるのでしょう?

再び道場に戻った後、上師の慈悲深い導きにより、悟ることができました。時には優しく、時には厳しく、順序だてて上手に指導してくださり、自分の真の姿をはっきりみつめさせてくれました。自分がどこから来て、どこへ行くのかよく理解できました。

自分が感じた苦痛はどうして発生するのか、如何すれば軽減できるのか、一歩進めて如何すれば消滅できるかを明瞭にさせてくれました。これらの苦痛のすべての根源は自分自身で、すべて自分の責任であることを理解し、自分でこれらすべてに向き合い、どのように解決すべきかを教えてくれました。更に身辺の人の苦痛が感じ取れるよう、学ばせてくれました。自分の使命がわかり、すべてをはっきりさせ、自分の進む方向を掌握し、これ以上急流の中の枯葉のように流されるままにはなりません。

上師の慈悲深い心配りで、蘇り、恐怖から遠ざかることができました。上師が居なければ、まったく拠りどころがありません。私だけでなく、無数の衆生も、上師の慈悲深い願力で助け出されたのです。上師の広大なる無限の恩沢に、私には報いる力がないとしみじみ感じます。

毎回、上師にお会いすると、衆生の利益の為、正しい法を広め、離苦得樂に助力されていて、そして弟子達が教えに従い、法に沿って修行をしているかどうかを心配されています。日夜奔走し、日ごとにやせ細られています。リンチェンドルジェ・リンポチェは、髪を短くしていますが、リンポチェの白髪は私の拘留前よりずっと多いと思います。

前回の「施身法」法会の時、リンチェンドルジェ・リンポチェが袖を捲り上げた時、肩の関節が動かし過ぎで赤い発疹が出ているのが、皆に見えました。私は座っている所が入り口の近くで遠かった為と、強度の近視の為、赤い発疹が見えませんでしたが、上師の腕が細くて、とても痩せているのが遠くからでも見分けがつきました。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の為、朝から晩まで問題のある私達の為、常に自己のエネルギーと体力を消耗させています。絶えず尽くすばかりでなく、何の見返りも求めません。その上、私たちが福報を累積するチャンスを作るよう心がけてくれ、衆生が三悪道に落ちるのを忍びなく思い、悪業をしないよう強力に阻止してくれているのです。しかし弟子の私はそれを大切に思わないばかりか、意気地なしで、勉強もいい加減、内心は相変わらず、欲望でいっぱいです。いつも上師にはご迷惑、ご心配をおかけして、本当に情けない限りです。

仏法の勉強でさえ欲がわき、本当に役立たずで、不甲斐ないです。如何すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェの恩に応えることができるのか、本当に分かりません。

私は今も、宝石店で初めてリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった状況を覚えています。あの時は一昨年の2006年10月、まだ事件が起きる前です。それまでリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかったことはありません。たまにお名前を聞いたことが何回かありました。過去誰もリンチェンドルジェ・リンポチェの弘法事蹟の話をしたことがありません。唯一人の友人が、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変有名で、すごい力量があり、以前会ったことがあるが、もう一度会って見たいと言っていました。

どれ程有名か、どれ程の凄腕なのかは、具体的には話しませんでした。唯私を連れて行きたかったようです。実のところ、その日はすでに別のグループの友人と正午に集合し、夜の金馬獎(台湾のアカデミーショー)に参加する準備がありましたが、良い具合に、午後時間の空きができ、好奇心もあり、冷やかし半分で宝石店に行っただけで、特別何の理由もありません。せっかく修行者に会えるのですから、このチャンスに子供として、親が執着し過ぎたり、いらいらし過ぎないようにするには、如何すればよいか、教えを乞うだけで良いと思っていました。

リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかり、跪いてまだ三言も言わないうちに、慟哭し涙が流れるなど、知る由もありませんでした。当時自分でさえ、どうしてこんなに泣くのか不思議でした。初めてあった人に、少し話しただけで鼻水や涙を流しながら激しく泣いたことは勿論、他の伝承や他の道場の法王やリンポチェにも、このように泣いたことは、かつて一度もありません。あの日 リンチェンドルジェ・リンポチェが友達の紹介後、振り返って初めて私の表情を見た時、その時受けたあの感銘は、いまだにどんな言葉でも描写できません。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い力量だからだと思います。

リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて私の表情を眺め、私の目つきをみて、一回目に私にした開示内容は、今でもはっきり覚えています。ここまで書くと、すべてが依然として眼前で起こっているようで、一切がありありと目の前に浮ぶのです。

今現在、私の実の父親は身近に居ませんが、私は父のような上師にめぐり合いました。

慈悲深い上師に依止できるのは最大の幸福です。

慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げます。

久しく、慈悲深い父親のような上師の後ろにぴったりついて、彼の足並みにあわせ、弛まず前進できるよう願っております。

弟子 公處定安(王令僑)恭書 2009年1月11日

2009 年 07 月 19 日 更新