115:私の父母は尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受けました
2004年3月27日突然、長姉から電話があり、父が家で急に亡くなり、ちょうどその時父の傍に人は居なかったと知らされました。元々休みになったら父を訪ねようと思っていたのに、このような訃報を受け取るなんて、これは私たち姉妹にとって到底受け入れられないことでしたが、そうも言っておられず、気持ちを切り換えて父の後事をすることになりました。
以前、夫はある期間、毎週金曜日に施身法に参加していて、いつも夫から尊いリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による衆生済度の数々の事蹟を聞いていて、心の中に特別な感じを覚え、一般によく聞く法会とかなり違うように思っていました。
その後、しばらくの間、リンチェンドルジェ・リンポチェは信徒に会わなくなり、父が亡くなったときも直ぐにリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いする御縁がありませんでした。しかし、私の心は、いつも父は善道へ往生したのかどうか気にかかり、夫にはいつ施身法に参加できるのかいつも尋ねていました。2005年、夫が私にリンチェンドルジェ・リンポチェは今、信徒に会うようになったと聞きました。私は父の事は自分でリンチェンドルジェ・リンポチェに会い、リンチェンドルジェ・リンポチェに父を助けてくださるようお願いしなければならないと思いました。逸仙路の寶吉祥へリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行く途中、言葉では表せないほど気持ちが高ぶり、車の中で涙が止まりませんでした。
リンチェンドルジェ・リンポチェに父の済度をお願いすると、リンチェンドルジェ・リンポチェは優しく応えて下さいましたが、不意に「それでは貴女のお母様は?」と尋ねるので、私は「母は既に亡くなっています。」と答えました。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「お母様も済度しなければなりません」と言いました。母は私が高校生の時に胃癌で亡くなりました。父は当時たくさんの費用をかけて七七四十九日の法会を行い、毎日のように道士や出家の人が来て読経してくれましたので、母はきっと善道へ往生したと思っていましたが、その後、母を思い出すといつも悲しくなっていました。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞くまで、自分がずっとリンチェンドルジェ・リンポチェに会いたいと思う因縁は、母が私を呼んでいたのだとは思いもよりませんでした。その時、母は善道へ往生できていなかったのだとわかりました。自分では父がこんなにもお金をかけて母のために済度をしたのだから何も問題はなく既に生まれ変わっているだろうと思っていました。そのため、清明節、年越しの時だけ母の祭事を行っていて、母が未だ苦しんでいるとは思ってもいませんでした。慈悲深く、尊い リンチェンドルジェ・リンポチェは更に父は三番目の姉を気にかけているとおっしゃいました。確かに父は生前から三番目の姉を特に可愛がっていました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、更に私に父母の骨壷が歪んでいるので、姉妹たちにこの事に注意するようにおっしゃいました。その時、私はそんなことがあるはずがない、骨壷を置いた時はとても慎重に扱っているし、歪んでしまうことなんてあるのだろうか?と思いました。翌日、夫と慈恩園へ行き確認したところ、なんと父と母の骨壷の位置と写真がすべて歪んでいるのを見て、私は目を疑い、また慈恩園の管理員に来てもらって再度確認したところ、同じ回答で本当に歪んでいたのです。私はリンチェンドルジェ・リンポチェの不可思議な能力を自ら体験しました。
リンチェンドルジェ・リンポチェが父母の済度を行い、両親を三悪道の苦から逃して下さった御恩に心の底から感謝致します。
その後、定期的に施身法に参加し、また日曜日の合同修行法会に参加して、2008年1 月、 リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。大学時代から私は湿疹に悩まされていて、湿度が高かったり、雨が降ったり、夏に汗をかいたりすると、皮膚に湿疹が出始め、湿疹になると一二ヶ月経たないと治らず、漢方医、西洋医のどちらも根治することができませんでした。ところが奇跡が起こり、皈依した途端に、もう湿疹は出なくなりました。これは私がずっと叶うはずがないと思っていた望みでした。
もう一度、尊い金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の開示と加持の御恩に感謝します。
皈依弟子 洪美芳2008/12/18
2009 年 04 月 09 日 更新