105:2005年の秋

2005年の秋、私の妻は第三期の乳癌の診断を受けました。腫瘍はとても大きく、直径12~15センチ程になっており、家族一同は大きなショックを受けました。私には二人の子供がいました。当時長男は3歳半、二番目は1歳でした。私たちはまだ授乳期にある玫芬(妻)が乳癌になってしまったことが信じられませんでした。当時、妻は36歳で、このことの衝撃は計り知れないものでした。私も検査の結果に大きな衝撃を受け、今度どのようにすればよいのか途方に暮れていたのでした。

費瓊瑤兄弟子の紹介で、逸仙通りの寶吉祥仏法センターに行き、リンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を求めました。寶吉祥仏法センターを訪れるまでは、私たち家族は妻が少しでも優れた西洋式医療の治療を受けられるようにと考えていましたが、妻はそう思ってはいなかったのでした。妻は、治療の副作用によって苦しめられることを避けたいと考えていました。家の雰囲気は重苦しくなり、些細なことで言い合いの喧嘩が起り、私は毎日つらくて涙を流していました。妻がこのような苦しみに苛まれているのは、本当に見るに忍びなかったのです。リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いした後は、妻の心境もかなり落ち着いたようで、その後4回ほど仏法センターに通い、そして法会に参加することが出来るようになりました。1度目は、私の仕事の都合がつかなかったこともあり、妻が一人で行きました。ところが叱責されて帰ってきたので、2回目は私も妻とともにリンチェンドルジェ・リンポチェへお会いしに行きました。私は、何とお話すればよいのかわからず、内心とても緊張していました。ただ、リンポチェが私の妻を救ってくださることだけを願っていました。お会いすると、私たちはリンポチェに懺悔心が足りないと叱責を受け、もう一度出直してくるように言われました。私は本当に恐縮してしまいました。あの時、私は仕事の関係から多少の場数は踏んでいましたが、成すすべもありませんでした。リンチェンドルジェ・リンポチェの偉大さを実感している今では、他人からの指摘がないと自分の間違いに気づくことができなっかたあの時の弟子(私)は愚かだったと思います。3回目に謁見した時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた出直すようにと開示なさいました。妻は自分の至らなかった事柄を紙に書き出して、繰り返し眺め、改善するように努力しました。4回目の訪問でリンチェンドルジェ・リンポチェは法会への参加をお認め下さいました。法会に参加できるということで私達は本当に喜びました。同時に、人は多くの間違いを犯すものですが、折にふれて反省し懺悔することが大事であることを知りました。

その後、2006年の1月、妻が体の痛みを訴え、身体の自由も利かなくなったので、台北市の松山総合病院に入院しました。私が信心の足りない愚かな弟子だったからでしょうか、妻は台湾大学付属病院に転院し、化学療法を受けることになりました。私は妻を看病するために会社に休職願を出しました。投薬され化学療法の副作用で苦しんでいる妻を目にし、私はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を思い起こしました。因果を信じ、因果と向き合うこと。私は、リンチェンドルジェ・リンポチェを信じるという妻の思いを無駄にしたくないと思っていました。化学療法の投薬を受けた後に苦しみ、回を増すごとに疲労の度合を増す妻の様子を目にするのは、本当に心が痛みました。

2006年の3月、妻は退院し、家で療養することになりました。妻の体調が良い時には法会に参加し、妻は二人の子供共々、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。家族で皈依していないのは私だけとなりましたが、その当時は少しでも多くのお金を稼いでおきたかったことと、私のスポーツジムの仕事は週末が忙しい仕事だったこともあって、皈依信者の登録をしていなかったのでした。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関修行をなさいました。その時、私は仕事上の良い案件に一段落がついたら、日曜日に仕事の予定を入れるのを控え、金曜日の夜にも時間を作るようにすることにしました。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関修行を終えられるのを待って、私は皈依を願い出ることにしました。

妻は、リンチェンドルジェ・リンポチェの出関をお迎えするつもりだったのですが、体の調子がおもわしくありませんでしたし、周りの年長者達もお迎えに行かない方がよいと諭していました。しかし、私は、入院していた時の気持ちを考えて、治療よりもお迎えに行きたいという妻の気持ちを後押ししました。私は未皈依の信徒でしたから、出関の一連の儀式に立ち会うことはできませんでしたが、兄弟子たちがその時の状況を後で伝えてくれました。リンチェンドルジェ・リンポチェは妻に加持して下さり、ポワ法の修法をお約束くださり、妻に安心してその時を待つようにはからって下さったとのことでした。妻は台湾に戻ってきてからはすぐに松山病院に入院しました。私はリンポチェに、法会への参加と皈依信者となることのお許しを願い出ました。私たちに手を差し伸べ、お助け下さったリンチェンドルジェ・リンポチェに本当に感謝しています。

妻は2007年の8月に松山病院に入院し、9月に大法会に参加しました。妻は、道場での法会にも参加したかったのですが、体が弱ってきていたので出席はかないませんでした。そこで、私は毎回の法会の後に、妻にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示されたことを伝えてやっていました。妻は10月9日、午後4時にこの世を去りました。私は職場で電話を受け、病院に急ぎました。林看護師の話では、妻は彼女が看病した末期癌患者の中で、最もやすらかに最後の時を過ごしていた患者だったそうです。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持によって、妻は入院期間中とても心穏やかに過ごしていました。また、多くの兄弟子たちのお見舞いを受けました。妻は、残される二人の子供も兄弟子達が良く面倒を見てくださるだろうと思い、安心したようでした。妻は本当に心安らかに往生したのだと思います。病院に着いて妻の姿を見た時、既に息を引き取っているとは信じられませんでした。妻はまるで眠っているかのように静かにベッドに横たわっていました。林さんによると、妻は一息を飲み込むようにした後、目を閉じて息を引き取ったのでした。臨終の間際にもがいたり苦しんだりしなかったのでした。午後4時に妻が息を引き取った後、私はすぐに寶吉祥仏法センターに電話をかけて、リンポチェにご報告しまいた。冠云兄弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法して下さることを妻に伝えるようにと言いました。私は妻の傍らで六字大明呪を唱え続けました。5時20分ぐらいに魏兄弟子が電話してきました。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法を終えたことを告げてくれました。妻の体の各所に瑞相が顕れていました。体は冷たかったものの、頭頂部は暖かく陥没していました。体はやわらかく、唇ももともとは蒼白だったのが、段々とピンク色を帯びてきました。見たところ血色も良く、妻は亡くなってしまったものの、菩薩に導かれてより良い所に旅立ったのだと思いました。妻がもう苦しまなくてよくなったと思い、私の心は安らぎました。ただ、妻を懐かしむ気持ちは押さえようもありません。

リンチェンドルジェ・リンポチェが私たちに差し伸べてくださった救いの数々に、大変感謝しております。また、私たち家族が再び共に暮らしていけるように、いろいろと手助けを下さった兄弟子達に心からのお礼を述べたいと思います。我らが尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げます。

寶吉祥仏法センター 弟子 湯永緒 2008年12月14日

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2015 年 12 月 08 日 更新