101:我が一家がリンチェンドルジェ・リンポチェの助けをいただいた記録
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、祖師ジッテン‧サムゴン、尊勝なる直貢チェツァン法王、アキ護法、歴代伝承祖師及び諸仏菩薩に頂礼、吉祥を祈ります。
父が1995年4月に亡くなったのが其のきっかけでした。私は1996年の公務員試験に合格したので、訓練を受けに台北に出ました。私は台北に宿泊し、妹は毎日朝早く出勤して遅く帰宅しるため、母は1人家に残されていました。1997年春、私の家族は基隆郊外から市の中心のアパートに引っ越ししました。しかし引越した後、家族の関係はうまく溶け合わなくなってしまいました。いつもなにか些細なことで口論が発生したのです。しばらくしてから、やっとこの家にわたし達家族以外の衆生がすんでいることに気が付きました。私達は前世にこれらの衆生とかつてよくない因縁があったようでした。これが私達家族の間に軋轢を起こしていたのです。甚だしきに至ってはこれらの衆生から直接妨げを受けることもありました。健康状況も非常に悪くなり、その時の気持ちは、とても恐ろしく、助けもなく、其の怖さはは言葉では言い尽くせません。
この時期、私達は伝統的な宗教や顕教の法師に助けを求めましたが、どれも問題を解決することはできなく、家族の心はみな恐怖心にかられるとともに無力感に苛まれました。恐怖のあまり、母は基隆市の仏教寺院に避難しました。妹は叔父の家に寄居し、私は仕事の関係で台中に住み、一家は各地に離散し、家があっても戻れないという悲惨で惨めな状況になってしまったのです。その時、母は寺院に寄寓しながらも、軽い病気につきまとわれ、生活にもなかなか適応できず、心中ひどく苦痛を感じていました。日々仏菩薩に跪き、諸仏、菩薩に大慈大悲を願い、救いを求めました。家の中で遭遇した問題を解決し、家族が一緒に暮らせるようにと。まさにこのように祈願し、諸仏菩薩の慈悲の力を望んでいたとき、妹はひとつの福縁を得て、リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかったのでした。
当時私達の家の事で、親友達は、「霊験あらたか」と言われるいろいろな廟やお宮や導師を紹介してくれました。しかし何回もの経験から、わたし達はこのような廟や、お宮や導師ではわたし達の家の問題は解決できないことを知っており、実はとても恐れ、お断りしたいと感じていたのでした。しかし妹は母の苦痛を見かね、独りほかに縋る方法もなく無理して友達に従って寶吉祥へ行き、そこで諸仏菩薩の荘厳円満な聖像を観、リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いしたときは、心中とても落ち着き、吉祥と穏かさを感じ、また暖かさと慈悲の力を感じたのです。そのとき、リンチェンドルジェ・リンポチェは妹が家のことをすっかり話し終わるまでお聞きになり、慈悲深く詳細に何度も家の状況の因果の由来を妹がわかるまで説明されたのです。私達が今遭遇している困難は、すべて前世の自分の因果業がはっきりと現れたことで、今現れているいろいろな現象を、恨んではならず、誠心誠意懺悔する心によってゆっくり解決することができるとお話になりました。しかもリンチェンドルジェ・リンポチェは妹を安心させ、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼がこの事を知ったからには、きっとわたし達を助け解決してくださると言ってくださいました。
リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定に入った後で、妹に家父と母方の祖父は浄土に往生していないと伝えられたのです。
父と母方の祖父が亡くなった後、私達は民間の習わしに従って仏事を行い、初七日、その後の七日毎親戚友人達を招き、顕教の法師に来てもらい念仏を唱えました。しかし結局それらの行いはなにも作用していなかったのでした。妹はすぐリンチェンドルジェ・リンポチェに母方の祖父と父の解脱を願いました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く直ちに承諾してくださり、そして二日後、母方の祖父、父そして死んで10数年になる愛犬すべてを済度してくださいました。リンチェンドルジェ・リンポチェは自己費用で、苦労をいとわず2度も台北から基隆の家へお越しなされ修法をしてくださり、弟子と私達の家に住み着いた衆生の問題を解決してくださったのです。何度も家族に殺生してはならないと言い聞かせ、母を安心させ、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら手で縫ったお守りを私と妹に賜り、私の全家族の恐れと不安を徹底的に免れさせてくださったのです。その後、母は妹を伴い、台北寶吉祥へリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行きました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く母のため加持を施され、母の苦痛で不安な情況をとても根気よく愛心ある言葉で慰め、激励してくださいました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私達の兄妹に多くの事を配慮し、深い慈悲心で一つ一つを承諾し、母を安心させてくださったのです。そこで私がリンチェンドルジェ・リンポチェに私一家は法会を参加出来るようにお願いしました。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲深く承諾して下さいました。
1999年、リンチェンドルジェ・リンポチェがインドに閉関に行く前日の夜明け、90歳になる高齢の母方の祖母が病気で病院で亡くなり、遺体を家に運び、翌日の納棺を待っていました。翌日明け方、祖母の遺体が葬儀場に送られる時、弟子は祖母の容貌がすでに黒くなり、体もすでに硬直していることに気が付きました。この時、妹は寶吉祥に行き、リンチェンドルジェ・リンポチェに母方の祖母に修法し、解脱を願いました。リンチェンドルジェ・リンポチェ当日昼ごろに飛行機に搭乗し、インドへの閉関に行くようにしなければなりませんでしたが、やはり自分の事をさし置いて、旅行と閉関による体力の保存も考えないで、すぐ母方の祖母の為に修法して下さることを承諾して下さいました。老人が極楽往生し解脱するように。母方の祖母は生前、リンチェンドルジェ・リンポチェの福徳を得ていなかったので、「ポワ法」受けることはできなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは母方の祖母のために「施身法」行い、観音浄土に生まれ変われるようにしてくださいました。修法が円満に終って、妹は家族に電話で知らせてきました、まさにこの時祖母の遺体を葬儀場へ運び納棺する時でした。祖母の遺体を覆う布を開けると、家族達はとても特別な現象を見ました。祖母の容貌は非常に穏やかで、白くてきれいで、顔はほほえみ、顔に刻み込まれたしわも、非常に浅くなっておりました。体も硬直がなくなり柔軟で、祖母の着替えも順調で、困難もなく、みんな不思議に感じ、珍しさに感心しました。納棺は非常に順調に済みました。そのあと、私と母は空港へ急いで向かい、リンチェンドルジェ・リンポチェに謝意を表して見送りました。リンチェンドルジェ・リンポチェは遠い旅への間際にもかかわらず、非常に慈悲深く優しく祖母の修法の後の様々な徴候をたずねられ、そして私と母の疑問に答えて下さいました。私たちは非常な恩を感じました。
私と家内がリンチェンドルジェ・リンポチェの様々な恩恵を被り、家庭が和やかになり、仕事も順調になっていき、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して日に日に敬慕の気持ちを高めっていったのであります。家内の母は長期間祖先と家族のために懺悔し読経をし、常にあちこちで死者のためのお経を上げていたのに拘わらず、家内の祖母はやはりまだ極楽浄土に往生していなかったので、私がリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった後、施身法法会に参加し、リンチェンドルジェ・リンポチェの大悲願力の助けをいただき、諸仏菩薩を通じ祖母の解脱と極楽往生を願いました。
1999年8月8日に、リンチェンドルジェ・リンポチェが私の皈依を受け入れたとき、私の一家はこの上ない喜びの気持ちでリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。
リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子達に対する恩恵、助けと仏法の開示、修行への関心は、弟子達がどのように述べようが、億万分の1にも及びません。私がリンチェンドルジェ・リンポチェに付き従った日常の中で、自らの見るところのいくつか小さな出来事を、謹んで皆様と分かち合って、皆様にリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子への慈愛と衆生に対する慈悲を体得していただきます。
私と母と妹は1998年4月に、その他の兄弟子と共にインドのチャンチュウブリンへ行き、恭しくリンチェンドルジェ・リンポチェが閉関を終えて、出関するのを出迎えました。その外に、第37世法王と大修行者ドラブワン・リンポチェに会いました。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関の部屋から出てこられると、日頃身につけているかばんの中から、小さな一包みのビスケットを取り出してみんなに分け与えられました。何日か前はドラブワン・リンポチェの誕生日で、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に参加されたとき、特に弟子達に分け与えるために残されたものだとお話されました。リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関時、飲食の供給に連絡不備があり、リンチェンドルジェ・リンポチェは一日空腹で過ごされました。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは自分はむしろひもじい思いをしてもよく、ビスケットを出して食べることを惜しみ、家族に食べさせようとは思わず、ただ弟子達に残しておこうとだけお考えになりました。居合わせた弟子達はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子達に対する慈愛を感じ、非常に恩を感じました。
私が1999年に板橋へ転勤したとき、リンチェンドルジェ・リンポチェが私の事務室と宿舎に来てくださり、私と家内のために加持を行って下さると言う、無上の福徳をいただきました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私の事務室の廊下で、かつてここで働いていた1人の従業員に会いました。この従業員は亡くなる前に最後の希望としてこの事務所を見たかったのです。そのために彼の魂は十数年来ずっとこの廊下で徘徊し、解脱往生できないでいたのです。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐさま弟子に、この衆生を代表して施身法に参加し、彼を解脱往生させる様に言付けました。当時、私は愚かにもリンポチェに、この衆生は別にリンポチェにそれをお願いする家族もいないのにどうして彼のために済度を為さるのですかとお聞きしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私に、衆生が苦しんでいるのをリンポチェが見たら、この衆生の家族がいるかいないかにかかわらず、リンチェンドルジェ・リンポチェは、きっと彼を助けるとお答えになりました。それからリンチェンドルジェ・リンポチェはこの衆生が解脱往生できるようにお助けなさいました。
私と母と妹は2000年に、リンチェンドルジェ・リンポチェについて、わが直貢噶舉の母寺-直貢梯(ティ)寺を参拝しました。寺は高地に有り、寒さは厳しく空気も希薄なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは道中弟子達の健康状況を非常に関心を持ってくださいました。直貢梯(ティ)寺に赴く当日、リンチェンドルジェ・リンポチェは明け方の3時に起き、氷点下4、5℃の戸外で、10数台のジープ1台1台に加持をなさり、弟子達の道中の平安を祈りました。直貢梯(ティ)寺に着くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達を引き連れ直貢噶舉の大修行者テンジンニンマ・リンポチェが閉関する部屋に向かいました。
リンチェンドルジェ・リンポチェは前々から脊椎の調子が悪く、山を登るのはますます艱難でしたが、弟子達にテンジンニンマ・リンポチェの閉関の部屋を見せるために連れて行って下さいました。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時体の調子は非常に悪く、また弟子達の歩行も大変であるうえに、志が堅くないこともよくご存知でした。ただ弟子達をテンジンニンマ・リンポチェに拝謁させたい一心で、体の調子が悪いのを我慢し、みんなを引率して山道を登ったのでした。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが登らなければ、弟子達がそれを理由に士気が崩れ、志半ばで山道を登るのを諦める恐れがあったのです。テンジンニンマ・リンポチェに拝謁したとき、テンジンニンマ・リンポチェは非常に喜ばれ、自分の額をリンチェンドルジェ・リンポチェの額につけて加持なされました。この時空は朗々と晴れ渡り、万里雲がないのにも拘らず、多くの雪片が漂い、随行する弟子達はこの瑞相を目撃し、また手の平で雪を受け取りました。それから、テンジンニンマ・リンポチェは両手の親指を立て、リンチェンドルジェ・リンポチェに賞賛の意を表されました。後ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に、テンジンニンマ・リンポチェご老人は、リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法を弘揚し衆生を利益する様々な事を非常に賞賛する故、このように喜び、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持したのでした。テンジンニンマ・リンポチェがリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を行ったとき、リンチェンドルジェ・リンポチェは心の中でテンジンニンマ・リンポチェの加持を、すべて弟子達に回向しました。テンジンニンマ・リンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の心を感じ、更に愉快そうに両手の親指を立ててリンチェンドルジェ・リンポチェを称賛されたのです。
母と私の娘は2003年7月16日に、一酸化炭素中毒のため亡くなりました。妻も同一の事故で中毒症状を起こし危篤でありました。私が夜7時50分頃に電話をかけてリンチェンドルジェ・リンポチェにこの事を申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは夕ご飯さえ取らず、兄弟子達をそれぞれ私と妹の所に手伝いに向かわせました。手抜かりなく周到に、事細かく運びました。またすぐに道場へ引き返し、母と娘と妻の為に夜10時まで修法をされてくださいました。そして兄弟子に時間を問わず、必ず私と妹を道場に連れてくるように命じられました。リンポチェは道場で私と妹の到着を午前2時まで待っていてくださり、私達兄妹に対して人生の無常と因果は壊滅しない道理を開示されました。また家内に殊勝無双な塩舎利を賜り、救命の後やっとお休みになられました。リンチェンドルジェ・リンポチェは翌日早朝出国前と、その後毎日の電話で、私達の家の状況を尋ねることもお忘れになりませんでした。また兄弟子に指図してリンポチェの関心と指示を私達に伝え、私達が安心できるように計らってくださいました。このような恩恵に浴し、私の一家は本当に何も報いることができないように思いました。
実は母は1997年に、父の死による苦痛と不安な家の状況で鬱病に罹り、心身ともにひどい苦しみを受けていたのです。リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかる前、2度も自殺未遂を起こしていました。幸いにしてリンチェンドルジェ・リンポチェの助け得て、やっと母を救い出し、私達の一家に更に6年の団欒の楽しみを享受させてくださったのです。もしリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の助けがなければ、私達はとっくに一家離散し、兄妹も離れ離れになって、今の安定、仏法の教えを聞く生活はなかったでしょう。リンチェンドルジェ・リンポチェへのお慈悲にとても感謝しています。私達の今日のすべてはみんな諸仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェが私達に下さったものです。弟子はかつて仕事の過程で一人の女性と知り合いましたが、その人は私と同じ問題を抱え、助けを求めていました。仏教に皈依し、また自分の家に仏堂を安置しても苦しい状況を解決することがでず、最後に苦痛のために、心から愛している夫と幼子を捨て、自殺を選択されてしまいました。私はこの事件後、心中とても苦痛でした。仏法に通じたリンチェンドルジェ・リンポチェのような方に出会い、仏法の力で私達を助けて下さらなければ、人生はなんと無力で絶望的なのでしょうか。
このほかに、母が2002年に乳癌検査をした時、医者は母がすでに乳癌に侵されていると診断しました。たとえ今日このような意外な事故が発生しなかったとしても、数年後癌の症状が現れた時、きっと更に苦痛であったろうと思います。後にきっと発生するであろう癌症状と比較して、母は本当に幸運だったと思います。苦痛と恐怖何ひとつ感じることなく、睡眠状態で生命を終え、しかも数時間後、リンチェンドルジェ・リンポチェの「ポワ法」の助けを得て即刻浄土に往生し、輪廻転生の苦しみ受けることはないのです。
事件発生の夜、リンチェンドルジェ・リンポチェは母と娘のためにポワ法を修め、彼女たちの神識が呼ばれ、リンチェンドルジェ・リンポチェの目の前にきた時、彼女たちはまだ眠っていると思って、完全に苦痛と恐怖はなく、リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法の助けを得たことを知ってとても歓喜し、この世へのいかなる執着もなく浄土へ往生したのです。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修め終えた後、母と娘の頭のてっぺんの梵穴は陥没発熱し、体は柔らかくなり、顔面の表情は柔和になり、渾然7時間前に死亡したときの表情とは異なっていて、鼻孔の中に紅白の菩提が現れました。リンチェンドルジェ・リンポチェは私達にこれはすべてポワ法の修法が成功した兆しだと開示されました。
家内はその時は一酸化炭素中毒が非常に重く、医者は情況は楽観的ではなく、たとえ救えても体と脳に大きな後遺症が残るだろうと言っていました。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と塩舎利を服用したおかげで、意外にも3日目に回復して退院することができました。その後病院へ行って診察しましたが、体と脳はすべて正常で、完全にいかなる後遺症もありませんでした。これはみんな諸仏菩薩およびリンチェンドルジェ・リンポチェの大威徳力のおかげであり、弟子は仏法の無限と不可思議に心のうちから感謝と賛嘆をあらわしました。
私達が出会った逆境は、みんな私達の代々の悪業が目の前に現れたのであり、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示にしたがって、懺悔を心に抱いて、平然と受け入れるべきなのです。このほか、私の一家が教えに従ってしっかり実践せず、その結果家にこのような異変が発生し、外界に仏法およびリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに疑を抱かせ、罪業は一層深くなり、私達一家は申し訳が無くここに公然と懺悔いたします。私の一家は今生で福徳を得て、リンチェンドルジェ・リンポチェに会う事をを得、苦難から救われ、正信仏法を聞けるのは、本当に諸仏菩薩およびリンチェンドルジェ・リンポチェの恩恵によります。私の一家はここに諸仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェに向かって先祖代々が行った数々の悪業を懺悔し、仏法を学ぶ上での怠惰の悪行、仏法を恭敬しない悪業を懺悔します。諸仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェに衆生を哀れみ、縁がある衆生がみな仏法を聞き、みんなが生死を解脱し、浄土に生まれることを祈願いたします。
皈依弟子 朱帥俊 謹んで書き上げます。
修正 2016年10月28日
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2009 年 02 月 05 日 更新