087:SARS禍にあってもリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生のために

SARS感染の嵐が吹き荒れた2003年、台湾本島は多数の死者を出し、病院が閉鎖されて恐怖に包まれていました。私は衛生局に勤めていましたが、当時指示された仕事は、病院でSARSに罹患し、隔離された医療人員と話し、元気付けることでした。

和平医院の陳靜秋看護士長が犠牲者第一号となった時、抑えの効かない感染の拡大と次々に倒れていく同僚達を目にし、みな心の中で、一体どうしたら良いのか、と非常に不安に思っていました。

私は、どうしたら彼女達に、我が金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加護を授けることができるだろうか、と考えていました。なぜなら、この世界中で彼女達を助け、彼女達を救えるのは、我が金剛上師だけだと固く信じていたからです。

ちょうどその頃、実は陳靜秋女史は私の学校の先輩であったと教えてくれる人がいました。事務所の督導は、かつて陳靜秋先輩と和平医院で同僚だったことがあったため、私はリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲能力願力を、急いで督導に話し、何とかその事を陳靜秋先輩の家人に伝えてくれるよう頼みました。陳靜秋先輩は本当に福報に恵まれた人です。その日は金曜日で施身法があり、陳靜秋先輩のご主人(家で隔離されていました)は宝石店に電話を掛け、リンチェンドルジェ・リンポチェにお助け頂きたいと伝えて来たのです。そして、宝石店にいた兄弟子がお願いしたところ、当日の施身法において陳靜秋女史をお救い下さることを、リンチェンドルジェ・リンポチェは、面識のない家族のために同意下さったのです。私は心中、リンチェンドルジェ・リンポチェに譬えようもない感謝を覚え、また、陳靜秋先輩が安息を得られることを心からうれしく思っていました。

その夜の法会で、慈悲深きリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の済度のために加持下さり、その中には、逝去された陳靜秋看護士長も入っていました。翌日私が宝石店に赴き、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、陳靜秋が済度を受け入れる時、リンチェンドルジェ・リンポチェに言った事は、「何も心配していないが、ただ娘がまだ幼く、小さな病を絶えず患うのが心に掛かる」とおっしゃり、彼女の夫に伝えるよう仰せになられました。

私は事務所に戻り、真っ先にリンチェンドルジェ・リンポチェからの言付けを、陳靜秋看護士長のご主人に伝えました。ご主人は、電話で何度も何度もリンチェンドルジェ・リンポチェにお礼を言い、そして「娘はよく病気をするから、今後はよくよく気を付ける」と言っていました。

リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲力は亡き人の済度を助け、家族の心を慰め鎮めたのです。しかもSARS禍において、あらゆる宗教団体が自身の安全のため、すべての活動を停止している中、リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、ご自分の身を省みることなく、絶えず各地の病院を訪ね、SARS患者に加持をなさっておいででした。全台北市にあまねく法をお広め下さり、法会も休むことなく、真の大修行者の慈悲と願力は、すべて衆生のために余すことなく現されていたのです。

李徳蘭

2009 年 04 月 01 日 更新