080:父のすい臓ガン

父は突然入院しました。体はまるで空気を入れたかのように腫れあがり、お腹も腹水の為、風船のように膨れてしまったため、眠ることさえ出来ませんでした。私は直ちに弟を伴って初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を求め、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持をお願いしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟に対し仏法を信じるよう開示し、父が9月に最も危険な時を迎えるので(当時は8月でした)、父に精進食を摂らせるよう諭しました。当日リンチェンドルジェ・リンポチェとの拝謁を終えて病院に戻ったところ、父が静かに眠っている姿を目にし、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝しました。

父が精進食を食べ初めて何日か経ったところ、まるで病気の苦しみなどないかのように、体力も気力も孫と遊ぶことができるまでに回復していました。しかし家族が精進食に極力反対し始め、父も肉食と肉のスープを取るようになると、まるで気の抜けたボールのようになり、体がすぐ水ぶくれを起こしてしまい、1時間毎に嘔吐し、最後には胆汁まで吐き出す有様でした。全身はたとえようもない激痛に襲われましたが、痛み止めを注射するだけで、モルヒネは注射しませんでした。そして9月に入ると、医者は父が末期のすい臓ガンであると診断しました。

家族は頓に拠り所を失い、父が日に日に老いてゆくのを目の当たりにし、祖母がそれを悲しむのを見て、弟を伴い、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を求め、リンチェンドルジェ・リンポチェに病院の父に加持をして下さいとお願いしました。顔中を涙で濡らし、私心を携えて リンチェンドルジェ・リンポチェに病院まで来られて父に加持し、一日も早く父を苦痛から逃して下さいとお願いしたのです。リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに承諾して下さり、翌日病院に来られて父のために加持を施して下さいました。リンチェンドルジェ・リンポチェが加持を行っている時、私は真っ白だった父の足が次第に血色を取り戻し、もともと苦しそうな表情も次第に和らいでゆくのを目の当たりにしました。加持の後、毎日300ccだった排尿量も2000 ccにまでに増え、入院して以来、排尿量の最も多い日となりました。

リンチェンドルジェ・リンポチェをお見送りする際に、リンチェンドルジェ・リンポチェは「父の殺業がきわめて重いため、このすい臓ガンにかかった」と開示した上で、父に懺悔のテープを聞かせ、必ず精進食を摂らせるようにといわれました。

始め、父は私と共に精進食を摂り、排尿量も5kgと過去最多に達しました。それでも家族は父に精進食を与えることに反対し、チキンスープを父に与えましたが、たちまち水ぶくれを起こしてしまいました。そして20分ごとに嘔吐を繰り返し、吐いた胆汁に血まで混じるようになってしまいました。私はリンチェンドルジェ・リンポチェだけが父をこの苦しみから救ってくれることと信じていました。そこで、お供養を携え、リンチェンドルジェ・リンポチェにこのお供養を受け取ってくださり、父を早く生と死の苦しみから解脱させてくれるようお願いしました。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くお供養を納められた後、精進食を摂らず、話を聞かないものをどうやって救うのですか、と聞かれました。

翌日、父は危篤状態に陥りました。日曜日の法会ではリンチェンドルジェ・リンポチェが父を加持してくださいました。リンチェンドルジェ・リンポチェ日曜日の法会がまだ終らぬ中、父が奇跡的に帰宅したいと言ったことに感謝しています。私たちは、その時が来たことが分かりました。父は長男だったので、高齢の祖母や祖父、そして多くの年長者が未だ在世しています。父は当日、これ等すべての年長者と訪れた友人らと別れを述べ、翌月曜日に往生しました。

その週の金曜日、父は直ちにリンチェンドルジェ・リンポチェの施身法で超渡を得ることができました。

上師リンチェンドルジェ・リンポチェの父に対する加持に感謝しています。父は発病から往生にいたるまで、3週間にも満たず、一般のすい臓ガンとはまったく異なり、モルヒネの注射も受けず、のた打ち回るような痛みもなありませんでした。父は人生の最期のひと時を家族とともに過ごすことができ、年老いた祖父母も父と最後の対面をすることができたのです。すべてリンチェンドルジェ・リンポチェのおかげだと感謝しております。

郭雪雯

2009 年 02 月 02 日 更新