076:上師のご恩に感謝
私の母は剛毅な性質で、若い頃は子供たちを育てるため、また夫の事業を手伝うため忙しく、長く苦労して来た人です。50歲の頃、これでようやく子供達のことを心配する必要なく、自由自在にやりたいことができると思っていたところに、姉が可愛い赤ちゃんを生みました。そして、私と姉とでおだてたり泣きついたりして頼み込んだ結果、母は孫の面倒をみることになりました。
恐らく、日夜の苦労と生活リズムが狂ったことが原因でしょう。9ヶ月余り後に、私達は、母が日増しに痩せていっていることに気が付き、病院で検查したところ糖尿病を患っていることが分かりました。初期症状は深刻ではなかったのですが、母は西洋医学の薬を毛嫌いし、民間療法しか用いないと言い張ります。そのため、私達も無理に母を医者に連れて行くことはせず、母が自分を自分の主治医とするに任せたため、病気は悪化して行きました。4~5年の後、55キロあった母の体重は30キロもないほどになっており、ついには、私達が諌めた末に医者に掛かりましたが、病情は既に薬で制御可能な段階ではなく、これ以降、母は毎日朝晩2回のインシュリン注射が欠かせなくなりました。これにより、体重と顔色はゆっくりと良くなって行きましたが、しかし無常はやはり彼女の身体と精神を苦しめ苛ましていきました。先ず、母の片方のかかとの骨が原因不明の粉砕骨折をし、行動が不便なため、「コ」の字型の杖に頼らなければならなくなりました。さらに、眼が徐々に見えなくなり、最後には網膜剥離になってしまい、糖尿病特有の恐ろしい合併症のすべてが母の身の上に襲い掛かって来たのです。
母は頻りに嘆き弱音を吐いてはいましたが、母の世話をしていた私に対して当たったりすることはなく、ただ黙々とすべてに耐えていました。自分はいつか必ず良くなると、堅く信じているようでしたが、反対に親不孝な私は、「なぜ私が母の面倒をみなければいけないのだろう?私の青春は母と共に葬り去られてしまった」とよく思っていました。さらに私は時に、眼が見えない母を見て「いろいろな身体の器官が機能しないのに、どうして交換しないのだろう。こんな状態で生きていて、いったい意味があるんだろうか?」と思いました。母の内心の苦しみを、どうやったら解決してあげられるか、など、考えてみたこともありませんでした。
2006年3月、母の足はむくみ始め、入院し経過を観察したところ、ついに、私が内心深く長く恐れていたもう一つの糖尿病の合併症-腎機能不全-が現実となり、母は腎臓透析が必要になりました。先ずは、鼠蹊部に管を挿入し、緊急腎臓透析を行いましたが、左の腕には長期間腎臓透析に用いることができる管が手術で埋め込まれました。けれども今回は、私だけでなく母も、これ以上身体を傷つける衝撃には耐えられないようでした。退院後の母は、明らかに沈み込んでいました。どんなことも母に再び笑顔を取り戻させることはできないのではないか、と思われるほどでした。そんなある日母は「今度何かが起こっても、絶対にもう救おうとしないで欲しい」と私に言い聞かせました。同年6月21日午前6時を過ぎた頃、私はいつものように階下に降り、母にインシュリンを打った後、朝食の準備を始めましたが、その時、母の鼻と口全体が嘔吐物に覆われているのに気が付きました。母は既に口がきけない状態でした。卒中を起こしていたのです!!私は急いで119番通報し、救急車が母を救急室に運び入れたところ、医者は緊急手術をするかと尋ねました。手術の間中、私は落ち着いていた方だと思いますが、手術を終え、頭全体が鮮血で染まり顔は腫れいくらか変形した母を見た時、何を以って号泣と言うのかを初めて知りました。私は、母をこんなにも辛い目に合わせたことを後悔しました。命が助かった母は、その後、意識が戻らないままとなったのです。
看護センターに転院後も母はほとんど意識のない状態でしたが、私はやはり毎日昼休みと仕事帰りには病床で母に付き添い、話し掛けました。その頃、私は普通に出勤しており、同僚とも普通に接していましたが、私は内心無力感に襲われ、どうしたら母を救えるのか、と日々自問し、家に帰り着くやいなや泣いていました。ある日姉が電話で、この日曜日(8月13日)に台北アリーナで、「万人法会」があると伝えて来ました。姉は、台北に来て参加するよう言いますが、私はこれまで信仰に興味がなく、その考え方と性格から、それに応じることはあり得ないことでした。ところがその時、私は自分は既に極限まで苦しんでいると感じていたので、藁にもすがる思いで法会に参加することを承諾しました。そして母の枕辺で「私はリンチェンドルジェ・リンポチェとおっしゃるお方にお会いしに行きます。できることなら、お母さんの心も一緒に行きましょう」と話し掛けました。当日、私は壇城の左側の2階に座っていました。それは私にとって初めて、リンチェンドルジェ・リンポチェを拝見する機会であり、チベット仏教法会の儀式を目にする初めての機会でした。私も最初は、十分な信心を抱いていた訳ではありませんが、リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力と慈悲心は、母と私達に、諸仏菩薩の仏光の加持を得させて下さったのです。法会後、私はすぐに、リンチェンドルジェ・リンポチェが下された貴重な甘露水を持って看護センターへと急ぎ、経鼻管を通して母にカップに一杯飲ませました。その後も私は依然として、センター、会社、家と三ヶ所を回る生活でしたが、自分でも、心が落ち着いて来て、現実を直視できるようになって来たのを、感じていました。そして、訳も無く泣きたくなるようなことはなくなりました。
けれども、母の状態は良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。突然血を吐き、血圧と血中酸素濃度が極端に低くなったこともありましたが、私が看護センターに駆けつけた時には正常に戻っていました。その時私は、早く母をお連れ下さるよう、仏に強く願っていました。これ以上母を苦しませたくなかったのです。私はまた、母にはまだ何か心残りがあるのかもしれない、と思い、各地に離れて住んでいた兄弟達に母に会いに台南に来てくれるよう頼みましたが、やはり情況は同じことが繰り返されるばかりでした。9月中旬のある日、姉がまた電話で「一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに母をお助け下さるようお願いに参上しないか?」と言って来ました。前回法会に参加した経験があるからか、理由もなくとにかく信心が湧いて来て、今回私はすぐに姉の誘いに応じました。その日は土曜日で、姉は子供(母が以前、面倒をみていた孫です)を連れ、私と共に逸仙路の宝石店でリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、母に発作が起こった時間と現在の状況を詳細にお聞きになった後、「そなたの母は業障を返し終えれば、旅立つことができるであろう」と淡淡と仰せになりました。そして慈悲深くも、私達に法会に参加するよう求められました(なぜなら私達は愚かにも、大修行者の面前にあって、母のために祈ることを知らないほど無知であったからです)。数日が過ぎ、私達は法会に参加後に、それが幸運にも非常に殊勝な施身法であったことを知りました。リンチェンドルジェ・リンポチェの大悲願力を通して、母と私達はついに、いくらかの福報を積む機会に恵まれたのです。そしては母は、9月末の施身法会の後数日して不帰の人となりました。葬儀の間中、私達家族には恐れも哀傷もありませんでした(近所の人が父に、子供達はほとんど悲しんでいないようだけど、とこっそり聞いていたくらいです)。後に、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示により、「死者が済度を得たなら苦しみはないため、その人の残された親族も辛く感じず、ただ亡き人を懐かしむのみだ」ということを初めて知りました。これらすべてについて報いを求めず、ただ慈悲をお与えくださったこと、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げます。
今日私達4人兄弟姉妹はすべて、母の苦痛のために、なかなかお目に掛かることが難しい大修行者に巡り合う機縁を得ました。、さらに、この上も無く大きな福報を得て、上師に慈悲深くも皈依を受け入れて頂けるということができました。皈依後は自己の内心のあまりに多くの汚点が目に付きながら、私は慢心が強いため、弟子として守るべき本分を尽くすことができず、懊悩し慚愧することもあります。しかし、上師の衆生に対する尽きることの無い慈悲心を思い、上師の加持と護法のお助けを下さるよう祈ります。寶吉祥のすべての弟子が、みな上師の跡に従うことができるよう、努力し自戒し善を行い、真の仏弟子となるよう学習に精進し、このようにして初めて、上師と諸仏菩薩、さらには父母の恩徳にいくらかでも報いることができるのです。
寶吉祥仏法センター弟子 林映汝
2009 年 03 月 20 日 更新