075:師の恩は無辺なり
2007年初、友人と外で昼食を取り家に戻ったところ、2時間もたたない内に、突然吐き気を催しトイレに飛び込みました。食べた物すべてが口から噴出し、すぐに医者に行きましたが、腹部の膨張感と吐き気は二週間続きました。結局好転しないため、胃の膨張感に耐えられず入院して様子をみることになりましたが、入院後に行った胃カメラと超音波の検査で、原因不明の十二指腸閉塞と診断が下りました。
人の胃は、飲食せずとも常に1500cc前後の胃液、膽汁等を分泌しています。これら液体が、十二指腸の閉塞により排出されなくなり、胃がひどく張るので、鼻孔から管を入れ液体を抽出する治療を行いました。管が咽喉を通るのでとても痛く、また話も出来ませんし、さらには唾液を飲み込むことによる疼痛を恐れて、知らず知らずの内に、ほとんど唾液を飲み込んでいなかったので、鼓膜にも非常に不快を感じました。
家から至近距離にある松山病院に入院し、一連の検查を始めましたが、内科、外科、検査科と一週間を費やし回っても、原因不明でした。症状にも全く改善がみられず、さまざまな指数は私が正常であると示しているにもかかわらず、私は鼻から管を通して無力に病床に横たわっているばかりでした。その日最後の再検査を終えた後、年長者達は、これ以上何の結果も出ないなら、さらに設備が整った三軍総医院に私を転院させようと考えていました。結果を待っている時、私の隣のベッドに来ていた主治医が「どうしたのですか?」と突然私に尋ねました。「自分の担当でもない患者の病情を尋ねるとは」と私は訝しく思いましたが、自分の困難な状況について話しました。すると意外なことに、その医師は私にCDを手渡し聞くように言い、その日はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できる、と教えてくれました。
病気をして以来、神仏に祈り、廟で拝み、できるだけのことはしたつもりですが、全く効果はありませんでした。そのため私はその時、言われた通りにはしませんでした。ただ心ではこの熱心な医師に感謝していました。その日の午後になり、松山病院では私の病状を処理しきれないことが確定したので、三軍総病院に転院しました。
二日目、なんとしたことか、あの熱心な医師は、私の松山病院での隣りのベッドの付添人を通して、私がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに行ったかを尋ねて来たのです。慚愧を感じると共に、三総の検查でも、やはり心を落ち着かせてくれるような情報は出ませんでしたので、私は困難を排して、経鼻胃管を挿入したままリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁することを決めたのでした。
春節の前夜、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪きました。リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず開示して、「亡き母が生前仏をよく拝んでいたので、そのお陰で、そなたは今日リンチェンドルジェ・リンポチェに会うことができた」と仰せになりました。けれど私に「母のために済度はしているのか?」とお尋ねになり、続いて「そなたの病はこれまで食すべからざるものを食べて来たからだ」と言い、私に肉食を断つよう仰せになりましたが、以前完全な菜食に耐え切れなかった愚かな私は、恐れ多くも「一生涯、菜食にしなければならないのでしょうか?」と尋ねてしまったのです。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「事ここに至りなお値切り交渉をしようというのか?そなたは思い上がっている。もう一度口答えしたなら、出て行ってもらおう」とお答えになりましたが、続いて、「せっかく来たのだから、加持を施そう」とおっしゃって下さいました。
加持の間、リンチェンドルジェ・リンポチェは突然「そなたの家には真っ暗な部屋があるだろう(後に考えたところ、ウォークインクローゼットのことだと思われます)。そなたの父はそこにいる」とおっしゃいました。それを聞き、なんとも言えず心が疼きました。私は、父が生前私を最も可愛がってくれていたことを知っていました。「父はどうしているでしょうか?」と私が尋ねると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「鬼になって楽しいはずがなかろう」とお答えになりました。私はうな垂れ、涙が滝のように流れて来ました。
病院へ戻りましたが、春節期間中、主治医は休暇なので、私は経鼻管(每日抽出する胃液は依然として700~800ccもあり、100cc以下にならなければ、経鼻管を抜くことはできない、と医者から言われていました)を挿入し安静にしている他ありませんでした。二日後の午後、鼓膜が痛くて堪らなくなりましたが、研修医は「経鼻管の挿入が長期になったためで正常な反応だ。一度抜いてから、もう一方の鼻からもう一度挿入する必要がある」と言うのです。既に何度も挿入し直しており、毎度の苦痛は耐え難いものでした。そのため、「管を抜いた後は休ませて欲しい。膨張感がほんとうに耐え切れないほどになったら再び挿入する、ということで」と医者に頼みました。医者はかつて、「腹部の膨張感は経鼻管挿入より辛いので、病人は普通それに耐えられず、自ら挿管を頼んで来る」と言っていました。夜寝る前に、医者が巡回に来ましたが、私は再度、「よく眠らせて欲しい」と言って挿管を拒絶しました。次の日、当番医が巡回に来ましたので、私は「状態が非常に良いので、水を飲んでも良いか」聞きました。入院以来既に二十日余り、水を飲むことは許されていませんでした。ところが医者は「もちろん飲んでください」とあっさり言いました。さらに次の日、私はまた「お粥を少し食べてもいいですか」と医者に尋ねました。医者は「もちろん食べてもいいですよ」と言います。さらに翌日、旧暦正月の五日、私の主治医が休假から戻って来て、私と顔を会わすなり「聞いていますよ。急いで、管を戻さないと!」と言いました。しかし、私は再度の挿管をしないことにこだわりました。数日後、医者も、私を家に戻すしかなくなり、家に帰った後は直ちにリンチェンドルジェ・リンポチェにお礼に参上しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って「こんなに早く良くなったか」とおっしゃいました。
二十数日の入院期間中、検査の時に医者が胰臓癌を疑っているのを感じて、恐怖に戦きました。隣りの病室から聞こえて来る病人の哀れな声を聞く度に、病に苦しんでいる人の無力さ、失われる尊厳を感じました。人生は無常です。私はなんと小さく、無知であったことか。病院では何もすることがなく、徒に懺悔に時間を費やしていました。私の病は突然訪れ、原因が分からず、たくさんの医者が寄ってたかっても私に施すべき治療が全く分からない状態でした。それなのに、私は口から食事ができず、さらに経鼻管で胃に溜まっている液体を抜き取る必要があったため、医者は私を退院させることができず、ただ「時間」を治療としていただけなのです。リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった後は、深く深く悔悟しました。これまではいつも、「自分の行いの責任は自分で負う」と考え、自分の良知に頼って判断して行動し、自分で男一匹と「思い上がっている」ということを知らなかったのです。なんと大きな殺業を犯して来たことか。どれだけの有情衆生を傷つけて来たことか。さらには重大な親不孝の罪を犯していました。私を可愛がって下さった父母に申し訳なく思います。天におわします神は軽い罰を私に与え、食事ができないようになさいました。だが仏菩薩は、慈悲深くも私を上師にお引き会わせ下さいました。上師は大慈悲、大智慧で「菜食によれば二度と殺生を犯すことはなく、二度と衆生を傷つけることもない」と教誨下さりました。このため、菜食は受け付けなかった私も、不思議なことに、その後一切肉を口にしていません。あのサルのように、愚かでどうしようもない私も、誠心誠意服従して大人しく、慈悲深き如来仏の掌の下に横たわり、仏法を実生活に根付かせるよう努力できているのです。
尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、大慈悲、大智慧を以って、弟子と衆生に対して絶えず加持下さります。皈依した当初、私は自分の罪業が深く重いことを知り、活菩薩であられるリンチェンドルジェ・リンポチェの救いに感激し、皈依致したのですが、月日が経つにつれ、上師の諄諄たる教誨で、初めて上師の無上の慈悲と大願を本当に理解し始めました。上師に皈依できましたことを、弟子はほんとうに光栄に存じております。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謝申し上げます!
寶吉祥仏法センター弟子 黎芠
2009 年 03 月 22 日 更新