071:リンポチェは父を加持と済度して下さった
リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できる機縁に恵まれたのは、今から2年以上前のこと、私の父が肝炎による腹水腫を患った際のことであった。当時、リンポチェの偉大な慈悲の事跡を同僚を介して耳にしたことで、リンポチェに父の為の加持を行ってもらい、父の病苦を軽減して頂きたいと願い、私はリンポチェのおられる寶吉祥に足を運んだ。初めてリンポチェに拝謁を願い出た時、父を連れずに私は一人で伺った。しかし、リンポチェは父の姓名と干支を優しく聞かれた後、すぐさま父の病気を言い当てられ、その年の11月に大事に至るやもしれないと仰せになった。リンポチェは続けて「貴方の父上は腰痛に苦しんでいませんか?」問われ、最後に、私が法会に参加するようにと言付け、父に加持を施して下さった。
その時から、毎週日曜日には自然と法会に参加するようになった。そして元々父の健康を祈願する為に法会に参加していたことも忘れていた。その後、父親の腹水は随分と良くなった。家族は、医者にかかって薬を飲んだから治ったのだと思っていた。それまでずっと父は酒を愛し魚や肉も好物だったが、発病後は酒を絶ち、食事の好みも大きく変わったので、殺生の業を犯すことも殆ど無くなった。2006年10月29日の日曜日、いつもの法会に参加した後、父が息を引き取ったという家族からの知らせを受けた。居ても立ってもいられないほど動揺し、何をすべきかもわからなくなった。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドにおられた。兄弟子は、慌てずに、リンチェンドルジェ・リンポチェが父の為に加持をして下さるよう観想するよう私に言った。家に戻ると、大量の血を吐いて床に腰を下ろしたまま死んでいる父がいた。検死医は他殺では無いことを確認した後死亡診断を下した。葬儀社の人が、今後の段取りを兄と相談していた。私は父の遺体の傍らで六字大明呪を唱えようとしたが、どのように唱えるのだったか一向に思い出せない。当時私は信者であったが皈依はしていなかったのだ。従って、私は父の傍らで「南無阿弥陀仏」だけを唱え続けた。暫らくしてから、父が息を引き取ってから既に数時間以上経っていることを思い起こしたが、父の口からはまだ血が流れていた。
その夜、葬儀社が父の遺体を葬儀会館に運ぶよう段取りをした。父の半開きの目や開いたままの口から、父は苦しみながら亡くなったことが見てとれた。だから、家族全員でリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁し父を済度して頂くようお願いしたいと思った。二人の兄は逸仙通りには同道せず、母と私、私の夫と子供だけでリンチェンドルジェ・リンポチェの下に伺った。私達は仏法を学んでいなかったので、父の供養の仕方を知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは私達に、どのようにして父を助けたいのかと聞かれた。私は、リンチェンドルジェ・リンポチェに父を済度して西方極楽浄土に導いて頂きたいとお答えした。するとリンチェンドルジェ・リンポチェは険しいお顔をされ、「死者(私の父)が、自分の祭壇に肉が置かれていると私に言っている」と仰せになった。お金を払って葬儀社に頼めば手間が省けるとでも思っているのか、とお叱りになられ、更に、父の為にならないので死者を殺生を以って祭るのを慎むこと、家族全員で菜食をすること、これらを満たしてからもう一度報告に来ること、を付け加えられた。兄がどう思おうか、私は真っ先に兄を説得しないといけないとも仰せになった。
寶吉祥を出て母を家に送る途中、母は菜食することに同意したが、兄達が協力してくれるとは思えないと不安を洩らしていた。私は、リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いした時の仔細をまず長兄に話した。長兄は出棺の日までは菜食することに同意した。供え物は葬儀社に頼んで菜食に取替えさせた。家に帰り着くと、今度は次兄の嫁と電話で話した。彼女は、自分と子供はリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示に従う、と答えたが、次兄が菜食だけで生活することに同意するかどうかわからない、とも言った。翌日次兄と会うと、私が何も言い出さないうちから、次兄は菜食の件に同意すると言ってきた。一家全員がリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示に従ったことで、私の肩の重荷は降りた。夫と私は、また逸仙通りまで足を運び、リンチェンドルジェ・リンポチェに仔細を報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは私達が施身法に参加することをお認めになり、私達の中で誰が法会に参加するのかと聞かれた。私は、夫と私それに子供が代表して参加するのがいいのか、リンチェンドルジェ・リンポチェにお伺いしたてた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、法会に参加するかどうかの判断は各自に任せるとして、とにかくまず家族皆に法会の事を告げるように仰せになった。
その日、寶吉祥に行く途中で、媜兄弟子からの連絡を受けて、皈依信者としての登録を許可されたことを知った。私は車中で、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したいということをすぐに兄弟子に告げた。仏の道に於いて私を教え導いてくれる上師を欲していることも付け加えた。私は1996年から一貫道の道場でずっと修業して来たし、この10年間ずっと菜食の生活をしてきた(一貫道とは、儒教・道教など代表的宗教の教えを統一した中華圏の宗教)。一貫道道場は、講師による授業形式の講話を通して物事の道理を学ぶ団体であり、心の拠り所とまでは言い難いものであった。しかし私は、リンチェンドルジェ・リンポチェによる毎週日曜の法会にこれまでの数ヶ月間参加してみて、上師の仏の教えにはとても感銘を受け、上師は参加者の自主性を重んじていることがわかっていた。従って、この日、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに、自分が皈依を希望していることを直に告げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは笑いながら「もう決めたのですか。」と言われ、何故皈依したいのかを問われた。心の中では、「人は普通に生まれ落ち生きていることさえ難しく、優れた師に出会うことも難しい」から、と思っていたがとても言い出せたものではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ご自身が厳格な師であることを私に告げた。私は頷いた。リンポチェは、私の夫がこのことに賛成しているのかどうかは特にお聞きにならなかった(上師は夫と私の間で交わされた話をご存知であるかのように見えた)。このようにして、私の皈依の願いはリンチェンドルジェ・リンポチェに認められたのだ。
2006年11月12日に皈依の法会、11月17日に施身法、21日に父の出棺と火葬が行われた。父の存在が要因となり、私は仏の道に親しみ上師に依止するという機縁を得ることができた。施身法が行われた当日、私は、父がリンチェンドルジェ・リンポチェと御仏によって導かれ済度されることを一心に願った。それはまるで渇望とでも呼ぶべき切実な願いで、法会の最中私はずっと涙を流しながら、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲のお力で父を浄土に導いてくださることを信じていた。11月17日の施身法が終わり、21日の出棺の日、父の両目は閉じられていた。火葬が終わった後、私は火葬場の職員の傍でお骨拾いをしていた。はっきりとした白色の骨からピンク色、淡い緑色や黄色の骨があった。葬儀社の人は、生前の父はたくさん薬を飲んでいたのではなかったのかと私に聞き、なぜ緑色をしているのか、と言っていた。その後道場で、そのような色をした骨は一種の舎利花と言われるありがたいお骨である、と兄弟子が教えてくれた。父を済度し浄土に送る機縁をお与えくださった、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持に感謝申し上げます。
リンチェンドルジェ・リンポチェが私にお示し下さった情けの心と教えに感謝致します。皈依をお認め頂いたことで、私は父に自分が為し得る最大の孝行を尽くす機会を得ることができました。万が一この文章の内容に誤りや不適切な箇所がありましたら、リンチェンドルジェ・リンポチェと御仏にお詫び申し上げると共にお許し頂きますようにお願いします。南無阿弥陀仏。
寶吉祥仏法センター 弟子 黃淑慧
2009 年 02 月 24 日 更新