061:御仏の光は世を普く照らしたまう
尊き金剛上師、リンチェンドルジェ・リンポチェに心からの敬意をここに表します。
私が、尊き金剛上師、リンチェンドルジェ・リンポチェに「皈依」できたのは、私が仏の道を学び始めてから1年半経った後のことだった。
2003年12月、父が突然此の世を去ったことで、私は生まれて初めて人の「死」というものに直面させられた。冬の日の明け方、父はベッドに横たわったまま最後の息を引き取ったのだ。私が急いで病院の父のもとに駆けつけた時、父の両目は見開かれ、恐怖に出くわしたかのように口は開かれていた。私の胸は悲しみで張り裂けそうだった。当時何も知らなかった私は、「お父さん、頑張って!」とずっと叫び続けていた。それを聞いた医師は、こらえきれずに、「お父様は病院へ向かう救急車の中で息を引き取られました。どうしようもありませんでした。今は心停止には至っていませんが、、」と伝えてきた。ついに、私は「お父さん、心配しなくていいよ。お母さんの面倒は私がみるから。」と父の耳元で、そっと囁いた。父は病院に搬送されてから8時間後に心停止の状態になった。私達は葬儀社の人の指示に従い、霊安室で念仏機でお経を父に聞かせた。悲しみにくれた姉と私達は、作法に従って父の体をかわるがわる撫で、涙を流しながら父との別れを惜しんだ。父のお腹は徐々に大きく膨らんできた。8時間後、葬儀社の人が父の体をつめたい霊安室から運び出し、もっと冷たいドライアイス入りの棺桶におさめた。一日にも満たない短い時間の間に、私の最愛の父がこの世からいなくなってしまった。簡単な前立腺の手術だったはずなのに、たった一日だけ陥った衰弱状態から回復することができず、父は人生を終えてしまった。当時、父はずっと前に定年しており、外出したがらない81歳の老人であったが、それでも父は天倫の楽しみに執着していた。
父の担当医が、母をつれて上師にお会いしに行ってはどうかと言ってきた。済度法の修法をして頂くことは、父の為になってとても重要な事だし、父が臨終の時に苦しんだであろう様子が思い浮かび、即座に母をつれてリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いしに行った。慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは私達に優しく仰せになった。「わかりました。親孝行は大変良いことです。貴方の父上は苦しみながら亡くなりました。あなた達はなるべく多くの法会に参加して下さい。」このようにして、私は毎週金曜日の「施身法」の法会に参加するようになり、仏菩薩について学び始めた。毎回の法会で尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェによる仏法の開示を聞くごとに、私は父が苦しみながら亡くなったのは、私達が仏法について無知であったからだということを理解するようになった。また、父の死に際して私達は死者に対して相応しくないことをしていたため、父の苦しみと煩悩をより深めてしまっていたようなのだ。本当に愚かな娘であったと悔やまれる。
2004年の6月から慈悲深きリンチェンドルジェ・リンポチェは、私達のように皈依をしていない信徒にも毎週日曜の3時間に及ぶ共修法の法会に参加することを許可して下さった。この事があってから、私はまるで水を得た魚のようであった。この世間に、仏法というとても素晴らしいものが存在するのだ!私は目から鱗が落ちたような気持ちだった。感情を込めた珠玉の言葉で人々の心に直接訴えかけるように仏法を開示されるリンポチェに、私は本当に感銘を受け五体投地の礼をしていた。私はあの当時、早くリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して仏法の修行をしたいと強く願っていた。しかし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは私にこう仰せになった。「貴方が決心しても、御主人が同意しなければ弟子に加えることはできません。」私の悪の業がとても深かったからだろう、夫の承認はその後一年半の信徒生活の間、ずっと得ることができなかった。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにはどれ程感謝してもまだ足りないほどである。上師は私達衆生を済度し、私達の為にいつも心を砕いて尽くして下さる。上師を信じてついて行けば、必ずや全てが上手く行く時が来るであろう。
2004年の7月、年老いて病気がちだった舅が病院を退院して家に帰ってきた後、重度の痴呆状態になってしまった。翌年の3月に死去するまで、時に好転したり悪化したりを繰り返しながら、義父はずっとこのような状態だった。時には誰が誰だかわからなくなったり、目の前の物を掴んで食べようとしたり、泥棒がやってこないかと怯えに怯えたり、昼夜の区別がつかなくなったり、あちこちを指差して誰かが来たと私に言ったり、等といった様々なことが起こった。体が弱く病気がちな姑はとても心配して、「あんなに人の良かった夫がどうしてこんな風になってしまったのか?」と毎日ずっと嘆き心配していた。私は常に家で舅と姑に付き添っていた。素晴らしき仏法のお力によって、私たちが必要な時に救いの手を差し伸べて下さる尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお陰なのだろう、私は深い理解を以って同居する舅と姑を慰め、面倒を見ることができ、彼らを十分安心させてあげることができたのだ。病苦に対して恐れないよう、仏菩薩が付いて下さる。そして、二人の老人の面倒を看て疲れ果てたヒリッピン人のお手伝いさんの落ち着かない心の起伏も何とか抑えた。私自身は、彼らの病苦を和らげる力は持っていなかったが、義父母と日々見舞いに来る親戚の方と、どのように接するべきなのかということは十分わかるようになっていた。
義父は病院で死去した。私に優しく接してくれた慈悲深い人だった義父とは、長年一つ屋根の下で楽しく暮らして来れた。亡くなる前の最後の数日間、精も根も尽き果てたように枕元で息も絶え絶え喘いでいる義父を見て、私の心は本当に痛んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに初めてお会いした時、上師が「あなたのように傲慢な人間は、仏法を学ばずしてどうして人の役に立つことができようか。」と私を厳しく叱責なさったことをよく覚えている。私は本当に無力だ!じわじわと苦しみながら亡くなろうとしている義父を目の前にしながら、私は何もする事ができない。義父を悲しませてはいけないと思い、私はすがり付いたり泣いたりはしなかった。同時に、臨終の際の恐れや不安を少しでも取り除こうと、義父の耳元で「安心なさってください」と囁き、また、リンチェンドルジェ・リンポチェから仏について学び菩薩とともに極楽に向かうようにと言った。それから、家族と一緒に仏の名前を8時間唱え、極楽浄土への往生を祈願した。
この時、私が一心に仏法を学んでいること対して、夫は何とも言えない恐れと不安を抱いていたようで、だから舅の病苦を軽減してもらうことや法会への参加をお願いするためにリンチェンドルジェ・リンポチェの下に行くことに賛成ではなかった。私は、とにかくもっと熱心に仏法を学び、自らや他者を益する人間になりたいと考えていた。優しかった義父は私のこのような気持ちをわかってくれるだろうと思っていた。すると、義父の棺を安置している部屋にいた時、夫は私の皈依を終に認めてくれたのだった。2005年7月10日、私はついに尊き金剛上師リンテンドルジェ・リンポチェの皈依弟子になることができた。これによって、私はリンチェンドルジェ・リンポチェの1998年からの仏法講話を録音したテープを全て入手することができたのだ。本当に嬉しく、跳び上がらんばかりに喜ばしいことだ!その後の1年間、私は新聞も読まずテレビも見ずに、ただひたすらテープを聴いた。また、皈依したことで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに付き従って、インドやネパールで催される法会にも参加することができた。そして、更に良いことに、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養し、仏法についてのより多くの知識を早く身につけることができるようになった。そして、同じ道を志す同門の多くの兄弟子達と共に仏法を学ぶことができるようになったのだ。
私の姑は、1年9ヶ月あまりを病床に臥した後、今年(2008年)の3月に逝去した。大きな石を置かれたように体が重く感じられ、動かしたり寝返りをうったりすることさえ出来ない状態だった。巡回看護士が尿管を取替えに毎月家に来てくれた。その看護士はいつも「こんなに柔和で愛想の良い寝たきりのご老人は今まで見たことがありません。にこやかに挨拶するし、何を聞いても痛くないとお答えになります。とても気がしっかりした方ですね」と言っていた。姑夫妻は金門島出身でとても信心深かった。姑がまだ車椅子でリビングに出て来ることができた時は、時に意識がぼんやりしていようが、私に着替えの手伝いを頼み、今は亡き叔母たちと廟にお参りに行きたいと言い出したものであった。そんな時、私は「金剛舞」の録画ビデオを出してきて、「もうお年ですから外出するのは大変でしょう、家にいても同じように仏様を拝むことができますから」と言って、姑と一緒にビデオを見た。姑と私は何回も何回も「金剛舞」を見ては、「踊っている人たちはみんな菩薩様だねぇ」と言っていた。私達は「帰」や「仏の道」などのテープも一緒に見た。姑には映像の中のリンチェンドルジェ・リンポチェのお姿がはっきり見えていたようだ。また、姑は、しっかり栄養をつけて欲しいという子供達の配慮から魚や肉を口にしていたが、他人と話す時は、自分も私と同じように精進食を貫いていると言いたがっていた。
姑は1月のはじめに病院に入院したが、この時、殆ど常に眠っているような状態だった。また、痰の吸出しや内臓の炎症に苦しんでいた。亡くなるその日、突然姑は多くの排便をした。看護士は「もうご自宅に戻る頃合でしょう。」と言った。私は家に戻り、部屋を片付けて姑が帰ってくるのを待った。その当時、姑は長らく昏睡状態にあったのだが、家に戻ってきた途端、目を醒ました。私は姑をベッドに横たわらせた後、すぐに一粒の甘露丸を口に入れてあげ、耳元で「これは菩薩様が下さったお守りの印です。何も怖がる事はないですから、安心して下さいね」と囁いた。姑が目を開けたので、私は大急ぎで尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの御写真を持って来て姑の目の前に置き、お助けに来てくださるリンチェンドルジェ・リンポチェのお顔を覚えておき、リンチェンドルジェ・リンポチェのお導きに従って行くように伝えた。姑は写真をまじまじと見つめ、その後閉じられた目から一筋の涙がこぼれ落ちてきた。それから一分も経たないうちに、荒かった呼吸が穏やかになり、その後数分のうちに、姑は安らかな臨終を迎えた。私は、姑の衣服を交換した後、部屋に戻って尊き金剛上師リンポチェのご加護に感謝した、そのあとは、8時間に渡って「六字大明呪」を唱え続けた。途中で、次兄がやってきて、尿の臭いがするので姑の衛生用品を取り替えるように言ったが、死後8時間は体に触れてはいけないので、それまで我慢するようにと伝えた。最後に姑の体を見たところ、非常にきれいで、死斑や腹水などは見られなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェがかつてお話になったところによると、死者が大小便を漏らしていた場合、それはその人が地獄道に落ちたことを示しており、また、臨終直前と直後の時間は死者が極楽に往生できるかどうかを左右する大変重要な瞬間であるということだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による加持に心から感謝しております。臨終の時に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの御写真を拝んだことで、姑は安らかな気持ちでこの世を去ることができたのです。
あの時、私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお言葉を再度思い出していました。「仏法を学ばずしてどうして人の役に立つことができようか!」私はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して以来ずっと、リンチェンドルジェ・リンポチェのご加護の下に身を寄せて仏法を学んできました。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう仰せになっています。「菩薩はこの世の衆生を一人といえども見捨てることは無い。永遠に衆生に救いの手を差し伸べ続けられる。しかし私達も、仏を敬う心と懺悔の心を以って、仏が差し伸べて下さる救いの手を掴もうとしなくてはならない。」
全ての衆生が御仏の浄地に迎えられますよう、ここに祈願します
寶吉祥仏法センター弟子 謝麗芬 2008年12月12日
2009 年 02 月 24 日 更新