041:父親の如きリンチェンドルジェ・リンポチェ

私は第四組の高三朋である。92年リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。父は第七組の高錦仁で、3年ほど前から、続けてリンチェンドルジェ・リンポチェの施身法会、日曜日の法会、毎年の大法会に参列し、今年の初めにリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。

3年ほど前、私が結婚をするので、家族一同揃ってリンチェンドルジェ・リンポチェの教えを請いに行った。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは父に胃に病を持っていると教え、加持をなされた。その後リンチェンドルジェ・リンポチェは一度ならず父にそろそろ仏を学びなさいと諭したが、父は何か考える所が有ったのだろう、遅々として皈依をする決心がつかなかった。

30年もの間、父はずっと台湾大学病院で定期検査を受けていた。業力のせいで、病院側はいつも異常なしと診断していたので、近頃の胃の不快感はただの消化不良ぐらいに思っていた。だが、父の体重が40キロくらいに減ると、さすが此れはおかしいと思った。去年の9月にまた台湾大学病院で定期検査を受けたが、この時には既に胃がん末期だとわかり、しかもあちこちに転移が起こっていた。病院ではすぐ手術の手配をした。手術の過程で父はさまざまな苦痛を嘗めたが、父が嘗て法会に参列し、正法の教えを聞いていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩のご加護の下で、他の人に比べ、苦痛はより少なく、手術もまた順調だったと私達には思えた。手術で病院にいる間、我々は絶え間なくリンチェンドルジェ・リンポチェに父が加持を得られるようお願いし続けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは父は何故自身で来られなかったのか、子供たちはこれで揃ったのかとお尋ねになられた。また、父を助ける事は加持よりもいいと仰せになり、私達が父に代わる心算で願ってはならないと開示した。

父が入院中、我々は父を助けうるのはリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩しかないと知っていたが、組長に思い起こさせられるまでは、乱れた心にはどうやってこの様な因縁を父のために積んで、深い信心の基に、仏法の助けを求めるか知る由もなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した事があった。早く福を積む方法として供養がある、と。 私達はすぐ父に代わって供養することを決めた。一念発願をするだけで、事は一変した。父は毎日何百CCかの肋膜に溜まった水を取っていたが、其れが消えたのだ。私達一家は土曜日に万難を排して皆でリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼することを決めた。土曜日、私達が頂礼供養をしたとき、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く父を加持した。意外なことに父と母は皈依を申し出た。これで私達が長年心に掛けていた“どうしたら父母を仏法に近寄らせることが出来るのだろう”と言う心配事が取れた。不思議なことに、私達の前にリンチェンドルジェ・リンポチェから教えをこうていた信衆にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した事が孝行、病苦、感謝、仏を学ぶに関する事で、それはあたかも私達に開示をしているかのようだった。それで心中の色々な迷いはたちどころに答えを得た。これはリンチェンドルジェ・リンポチェをお慕いする利益の一つだろう。翌日の法会で、私達は兄弟子達の体験談を聞いたが、私達もただ供養の念を起こしただけで、未だ供養もしていないのに、病状の転機を見ることが出来たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示の殊勝さは、また一つの証を得たのだ。

皈依の法會の前に、父は常に医者の許可を得て法会に参列していた。有り難い事に父は今年の1月に、望み通り皈依する事が出来た。父は発病から皈依に至るまで、体の事や命、家族等に未練を持っていて、死亡に対しては未だ面と向かえられない事を私達は知っている。私達に出来る事は、父に絶え間なくリンチェンドルジェ・リンポチェを観想する事を促すだけだった。

今年の5月、 京都で日本道場の開眼式が行われた。私達は父母と共に参列を申し込んだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは父の心臓が弱いので、父に台湾で休むように諭した。母は行くか行かずに父の面倒を見ようかと迷っていたが、父は既に申し込みをした事だし、幾日もないので、大丈夫だから行きなさいと母に勧めていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの取り計らいは、二人を離して、自分の人生をゆっくり考える機会を与え、また父と母の心配を出来るだけ軽くした。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を慈しむ色々なご配慮の一つなのだ。

退院から5月まで、病院は父に3度も化学療法を続けるように言ってきた。父母と兄はこの事で再びリンチェンドルジェ・リンポチェに指示を仰いだ。と同時にもともと父が日本に行く予定で準備した費用を供養した。

父はこう上申した:リンチェンドルジェ・リンポチェ、台大の医者が化学療法を続けなさいと言っています。余命3~4ヶ月しかないから。私はリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩を信じて化学療法は受けない事にしました。続けてリンチェンドルジェ・リンポチェに随って仏法を習わしてください。
リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した:誰が余命3~4ヶ月と言った?
父:台大の医者です。
リンチェンドルジェ・リンポチェの開示:余命3~4ヶ月で私に会いに此処まで歩いてこれるか。他の人を見てご覧、調子がこんなに良くはないよ。おめでとう、一足先に享楽することが出来るぞ。私は未だだ、未だ仕事を続けなければならない。仏法はあなたの心の支えになりましたか?
父:はい。
リンチェンドルジェ・リンポチェの開示:約束しよう、ポワ法を修めてあげよう。但し、毎日アチ護法にお祈りするのだぞ。
その時の私達の驚きと感謝の念は、言語で表すことが出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様に慈悲深く、あらゆる衆生と弟子たちの面倒を見るのに苦労していらっしゃるのだ。

兄弟子達は父が法会に参列した時、その気色と体調がいい事に気が付いた。リンチェンドルジェ・リンポチェが観音法門を伝授した後、父は死去する前に六文字真言を百万遍唱える努力をした。

父の体には未だ痛みが残っていた。だが、父の其れは末期がん患者が常に経験する身も心も侵される痛みではなかった。父は腹水や水腫も無く、声を上げるほどの痛みもなく、歩行困難もなかった。これは一重にリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な加持のお陰であった。

今年の8月、私は父と共にリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼をしに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは父に聞きたい事でも有るのかと訊ねた。父は涙を流しながら長らく考えていたが、言い切らないと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。父は既に余分に貰っている、これ以上求めることは無い筈だ、と。私はこう思う。父の因果業力は、いずれにしろ 返さなくてはいけないだろう。返しきってから初めて浄土行き、楽しい日々を過ごすことが出来るのだろう。私達は父が日一日と変わるのを見てきた。父は初めて自己の病気と怨親債主向かうことが出来るようになり、痛みを忍び、愚痴を言わず、悲しみを私達に伝える事もなかった。その後、父母は再度頂礼に行ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは父に心配をしないように、今生はリンチェンドルジェ・リンポチェが最後まで父を見守ってあげるからと開示した。

続く最後の何回かの法会では、リンチェンドルジェ・リンポチェが私達の心中の疑惑に対して開示なされていると思えた。私は懺悔しなくてはならない。何故ならばリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を生活に取り入れてなかったからである。父がこう言う事になって、初めて世の中の事々が無常なる事をひしひしと知ったのだ。

その後、父は胆道の閉鎖が原因でひどい黄疸になり、再び入院した。そして一両日の内に痩せていき、皮膚も日一日と黄色くなって、元気を失っていった。

8月20日、体力がほとんど失われた父がリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を申し込み、跪いて頂礼する事に強く拘った。父は懺悔と感謝の意を表した後、リンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法と安らぎを乞うた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、いいでしょう、但し毎日アチ護法にお願いしなさい。私はポワ法修めてあげるけれど、あなたはあらゆる事を諦めなさい、とおっしゃった。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に満ちた面持ちで、父の為に真言を唱え、息を吹きかけて加持をなされた。8月22日の施身法会の後、父の固く腫上がった腹部は、何の排気や排泄が無く、何の治療も施さないまま、完全に正常に戻った。リンチェンドルジェ・リンポチェは今一度仏法の偉大さを現したのだった。

8月23日、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した生死に関する事柄が父に現れ始め、その象徴は日を追って明らかになっていった。父は見たところ非常に虚弱で、常に目を閉じて休んでいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰で意識は確かで、リンチェンドルジェ・リンポチェや自分の法名等が分かり、リンチェンドルジェ・リンポチェのあらゆる法会に参加する事に執着し、家族全員がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する因縁を得て、正法を聞く事を望んだ。

8月の26と27日の間に、父は次第に衰えてゆき、会話に対しての反応も徐々に少なくなっていった。しかし、絶え間なく身に着けていたヒスイの観音像をつかみ、ある時はリンチェンドルジェ・リンポチェの法名を唱えていた。私達が週刊TVBSに載っているリンチェンドルジェ・リンポチェの写真を見せると、父は其れをつかみ、額の上に載せた。父は8月27日明け方6時15分に往生したが、手を胸と腹部に置き、非常に安らかな様子で、寝ている様だった。父は黄疸だったので、亡くなる前は顔や目が黄色みを帯びていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修め終えた時には、正常に戻っていた。父が往生した後、私達はリンチェンドルジェ・リンポチェのお教え通り静かに仏の真言を唱えた。

9時過ぎ、兄弟子が父の頭のてっぺん(梵穴)を触ってみるように言って来たので、触ってみると、其処の温度は額の温度と明らかに違っており、少しへこんだ穴が有る事に気がついた。その時は、リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修めたと言う知らせは未だ届いていなかった。10時7分、リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修め終えたと言う電話が来た。私達は再び父の体をよく見て、もう一度頭蓋骨を探ってみた。今度はとても違っていた。明らかな一筋の窪みがあって、梵穴の温度は矢張り額と違っていた。葬儀社で父を鉄製の担架に移した時、父の腕は非常に柔らかだった。

午後、私達は感謝を表すためリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁したが、その時始めてリンチェンドルジェ・リンポチェと仏法の殊勝な象徴が有った事を知った。此れは私達が想像も出来ない事であった。

実は金曜日の施身法会で父の寿命は尽きていたのだ。だが父は亡くなっていなかった。其れは私達家族が父との絆を放さず、父も未だリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞こうと願っていたからだ。父が往生して、ポワ法が修められる前までは、梵穴の温度が違っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの大加持力は最後の最後まで、父を守っていたのだ。この世に生まれ、世俗の父親に育まれて幸せだった我々は、更に法界の父親に恵まれ、絶えず数多の衆生と我が世俗の父をお助けになられる幸いに浴したのだ。私は深く懺悔した、わが父を守るため、斯くも辛い苦労をリンチェンドルジェ・リンポチェにして頂いたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェ、アチ護法、歴代上師と諸仏菩薩の加持の下で、私達は父の身で、色々な事柄が見えた。ガン末期の父が、腹水や水腫も無く、痛み止めの使用量が一般患者の三十分の一に止まり、医者を不思議がらせていた。私達は伝統的な頑固な父が、信仰心の厚い弟子に変るのを見た。父の病は我々をしてこの世の苦難と仏法の殊勝を更に体得させた。そして、懺悔、敬う、信心、供養 の重要性を認識するきっかけとなった。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と衆生に対する無私の奉仕は、言語で表す術も無いのであった。父の病は、我々をして、リンチェンドルジェ・リンポチェと仏法に対する信心を更に深め、世俗を離れる心を強めたのであった。

兄弟子淑君に感謝、何度も重要な時に適切な助言をしていただき、全てが変わることになった。兄弟子麗珍と謝医師の父の治療にかかわる手助けに感謝。兄弟子冠云に感謝、父に自らポワ法を求めさせる機会を作っていただいた。父に助けの手を差し伸べていただいたあらゆる兄弟子に感謝。父は目を瞑ったまま首の辺りを探し、ヒスイの観音像を探し当てると、安らぎがみなぎった面持ちになった。勿論、この背後にはリンチェンドルジェ・リンポチェの苦心惨憺たる経営がある。(其れはグループの事業や仏法事業に拘わらずだ。)今始めてリンチェンドルジェ・リンポチェがなぜ上師の功徳は称えて伝えなければいけなのか、なぜ会食をしなければならないのか、なぜ法界の眷属を世話しなければならないのか、とお教えになったことを体得することが出来た。これは全てこの末法の時代に、業の深い衆生を助けるために具現した殊勝な教法で、仏法が我々の生活に溶け込む様にする為である。我々はこの様な教法の中で、あまたの助けを得る。たとえば告別式の場で、私達が最も望んだのは寶吉祥の制服が現れることだった。此処で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが苦労にめけず衆生と父をお助けになることに感謝します。また煩わしさを厭わず、教え導き開示を行われることに、再び尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をします。

宝吉祥仏法センター弟子高三朋

說明:亡くなられた兄弟子高錦仁の火葬後の頭骸骨の写真(内部より見たもの)。頭骸骨の梵穴に圓い穴が開いているのが見られる(矢印のある箇所),これはリンチェンドルジェ・リンポチェが亡者にポワ法を施した殊勝瑞象であり,醫學では解釈の出来ない現象だ。これは亡者は必ず淨土に往生した徴である。

2009 年 02 月 19 日 更新