リンチェンドルジェ・リンポチェへの感謝

私の全家族は2005年7月10日に皈依した。2004年11月末、母は国泰病院で乳房の腫瘍が悪性だと診断され、翌日手術を受け、右乳房とリンパ腺を切除した。その後おばさんが此れを知ると、母に尊き金剛上師 リン チェンドルジェ・リンポチェは慈悲深いので、母を助けてくれるだろうと教えてくれた。それで母と一緒に宝吉祥で リンチェンドルジェ・リンポチェを拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは情け深く母を加持して、私達に法会に参加するようにと諭した。その日から母はもうあらゆる西洋医学の治療を受けなかった。医者は其れを知り、母を叱って、化学治療を受けないと六ヶ月の命しか保てないと言った。それでも、母はもう治療は受けないと決めた。それから、母の体調は別に悪くならなかった。それは 尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救済の助けが、母と私たちに仏法に触れる機会を与えたのであった。

一年ほど前から、母の体に腫瘍が出始めた。最初は痛みを感じなかったが、徐々に引きつる様な痛みを感じるようになった。リンチェンドルジェ・リンポチェは母に毎日必ず「懺悔」法門の録音を聞く様に諭し、 また一日中私たちの心配等をしない様にと開示した。でも私たちは法の教に従わず、行いを改めなかったので、母の病状は悪くなる一方であった。今年始め、母の体調が悪くなるのが目立ってきた。母は相変わらず病院へ行くのを拒み、宝吉祥漢方薬診療所での診療を続けた。漢方薬を飲むと、母の体調が良くなり、飲まないと、夜中には腹部が引きつるように痛み、全然眠れないようだった。六月の始め、母の腹部が段々大きくなり、足にも水脹れが出た。歩行が困難で、傘で支えてゆっくり歩いた。体調が悪い時は リンチェンドルジェ・リンポチェを観想して甘露水を飲んだ。痛みはすぐ緩和された。体の痛む所に甘露水を塗ると苦痛はすぐ軽減された。これはすべて リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲加持であった。8月23日、 私たちは母が苦しんでいる様子を見て、母に代わって リンチェンドルジェ・リンポチェに道場で大礼拝する様お願いした。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く聞き入れて下さり、私たちに母の福報を積むことを許して下さった。その時期母は足が腫れても腹が膨らんでも家で大礼拝を行った。例え一時間に大礼拝を十回しか出来なくても母はちゃんとやった。母は11月 リンチェンドルジェ・リンポチェについてインドの大法会に参加するとも言っていた。

末期では、母は毎日 リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を録音したテープを聞いていた。ある日母は リンチェンドルジェ・リンポチェに自分の一番貴重な観音像のネックレスを供養すると言出した。9月27日土曜日、私たちは母と一緒に リンチェンドルジェ・リンポチェを供養しに行った。母は リンチェンドルジェ・リンポチェに会うと跪いて、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔をすると言った。母は度重なる前世と今世で色々な悪業をしたので、懺悔すると言った。母は リンチェンドルジェ・リンポチェに苦痛から逃れたいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは母に「今苦しみが何だか知っただろう」とおっしゃった。そして慈悲深く母を加持なされた。母は リンチェンドルジェ・リンポチェに11月インドの大法会に参加できるかどうかを伺った。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く母に「大法会に参加するかどうかはもう重要なことではない。一番大切なのは毎日アチ護法を修め、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想し、往生際で早く リンチェンドルジェ・リンポチェを見出す事だ。」と開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは実に慈悲深かった。しかし、母は リンチェンドルジェ・リンポチェにポア法を求める事を忘れていた。前から母は リンチェンドルジェ・リンポチェにポア法を求める事にしていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に出ると、その事を忘れてしまったのだ。これは私たちの業が、母にこの事を口にする福報を与えなかったのだ。それで私達は毎晩アチ護法を修める時、護法に母が因縁福報を得て リンチェンドルジェ・リンポチェにポア法を修めて貰える事を祈った。10月1日水曜日、私達は再び リンチェンドルジェ・リンポチェに母にポア法を修めて頂く様お願いに行った。その時分、母は杖にすがってかろうじて歩ける有様だった。水脹れのせいで足は上げられなく、関節も曲げられなかったのだ。だが母は宝石店で リンチェンドルジェ・リンポチェに跪いて頂礼した。リンチェンドルジェ・リンポチェにポア法を求めた時も跪いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く聞き入れて下さった。そして母に必ず リンチェンドルジェ・リンポチェの格好を覚え、六文字大明呪を唱えて リンチェンドルジェ・リンポチェを観想しなさいと諭し、母に加持をした。最末期で母の食欲は日に日に衰えていて、歩く力もなかったが、毎日朝から晩まで リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を録音したテープを聞き、お祈りも欠かさなかった。

亡くなる数日前、母は部屋で私にもしもの事が有っても、絶対泣かないでと言った。また私と妹に遺言を言った。私は母に痛いの?、どこが痛いの?と聞いたが、母は痛くはないけど、少し気分が悪いと返事をした。亡くなる数日前から、父は昼も夜も母の側にいた。10月7日朝6時過ぎ、突然母が「うん、うん」と唸っているのが聞こえた。私はすぐ母の枕元に駆け寄り「お母さん、どうしたの?何か言いたいの?」と聞いた。でも母は言葉が出なくて、ただ全身から汗を出していた。その時父はちょうどお祈りをしていたので、私達は急いで電話で組長と謝兄弟子に連絡を取り、父のお祈りが終わってから、一緒に救急車で母を松山病院に送った。その時私達は魏兄弟子にも連絡した。

病院で母の体温を測ると34度しかなかった。また血糖値は13だった。看護婦は母の容態が非常に悪いので、応急処置を諦める書類にサインしてくれと言った。病室で私たちはずっと六文字大明呪を唱え続け、母に絶えず リンチェンドルジェ・リンポチェの法号と自分の法名を覚えている様促し続けた。その後、母は意識を取り戻したが、医師は私達に母の容態がとても良くないと言った。母のGPTは千以上も有ったので、絶えず動いたり、意識不明に陥る可能が有った。しかし リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と見守りのおかげで、そのような状態はなかった。午後、私たちは母を連れて リンチェンドルジェ・リンポチェに会うと決めた。私が母に「後程 リンチェンドルジェ・リンポチェに会うよ」と言うと母は笑顔になった。夜、一緒に リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度優しく母を加持なされた。また母に六文字大明呪を唱え、リンチェンドルジェ・リンポチェの面影を覚えておきなさいと諭した。その夜、父はずっと母と一緒に六文字大明呪を唱え続けていた。

10月8日朝5、6時頃、母は突如父にお風呂に入りたいと言った。この二週間以来、母は法会に行く前にお風呂に入っていたが、今日突然お風呂に入りたいと言った。父は母に着替えが無いので暫くを待つ様にと言って、歯を磨き、顔を洗うのを手伝っただけだった。暫くすると、母はベッドで少し休みたいと言った。最後に母はリンチェンドルジェ・リンポチェ、弟子を加持してくださいと言い、また一言オンマニベメホンと言った後、絶えず六文字大明呪を唱えていた。大体7時50分頃、母は突然口を大きく開け、顔色が真っ青になって目を大きく開いた。父は私達に急いで リンチェンドルジェ・リンポチェの写真を母の前に置くよう言い付け、六文字大明呪を唱え始めた。その後看護婦が何人か入ってきて、儀器を使って母の心拍数を測った。暫くして突然この儀器の精度が悪いと言うので、医師が別の儀器を持ち込んで母の心拍数を測り、母が7時52分に他界したと確定した。私達はすぐ電話を掛けて話を伝え、魏兄弟子にも連絡をした。魏兄弟子は、私達に絶対泣いてはいけないと言付け、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想して六文字大明呪を唱えなさいと言った。九時半ごろ、兄弟子から電話が有って、リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修め始めたと伝えて来た。また私達に続けて六文字大明呪を唱え、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想し続けなさい言った。十時前、法を修め終えた リンチェンドルジェ・リンポチェは、母に法を修めている間に誰かが母の足に触れたので、母が怒っていたと言った。私達は思い返して当直の医師だと思った。あの医師は母が他界した折、布団を上げて母の足を一寸捻り、なぜこんなに腫れ上がっているのだろうと頭を傾げていたが、それが母の怒りをかったのだ。幸い リンチェンドルジェ・リンポチェが母にポワ法を修めていたので、母は悪道へ堕ちるのを免れた。リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修め終えると、元々大きく開いていた口は上の歯を覗かせるだけにつぼんだ。唇も赤みを帯び、目玉も生前少し出ていたのが引っ込み、瞼を軽く閉じ、梵穴は暖かかった。体は非常に柔らかく、腹部の腫れも随分引いた。兄弟子は私達に更に一時間ほど六文字大明呪を唱え、それから母の遺体に触れなさいと伝えた。一時間後父が母の体を拭った時、体は未だ柔らかく、容易く屈折することが出来た。これは悉く リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く苦労を厭わず母のために法を修めた後の瑞相であった。夜、リンチェンドルジェ・リンポチェのご恩に感謝の意を表しに行った際、リンチェンドルジェ・リンポチェは私達に今母は私達よりいい生活を過ごしていると仰った。思えば母がお風呂に入りたいと言っていた時、母は多分自分の寿命がもうすぐ尽きることを知ったのであろう。不思議なことに、葬儀社の人は母の遺体は今迄で一番軽い遺体だと言っていた。しかし、少し前まで母をベッドから下ろしたり寝かしたりするのに、重すぎて3人の力でも動かすのが難しかったのだ。

10月10日、 父が葬儀所で母の遺体を見た時、すでに化粧したと思ったほど、唇は赤く潤い、顔もファンデーションしたように顔色が良かったそうだ。勿論化粧は未だしていなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲深く、母に4年近くの仏を学ぶ時間を与えて下さった。私達はしっかりと法の教えに従わなったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも母と私達を見守って下さった。多くの癌末期患者が経験する痛みも、母は患わなかった。そして情け深く苦労を厭わず母の為にポア法を修めて下さった。真心から、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェのご恩に感謝を捧げます。かって母は私達に必ずしかっり リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学びなさいと言ったことがあった。

尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェのご恩にとてもとても感謝します。また兄弟子の方々に色々助けて頂き、有難うございました。

第八組侯素君2008年12月6日

2009 年 01 月 21 日 更新