031:金剛上師と諸仏菩薩の恩に感謝
仏を学ぶ因縁
私は幼い頃よりキリスト教を信奉しておりました。神は、神は世人を愛し、この世界は神が創造したものだ、とおっしゃいます。しかし、なぜに神は善の世界を造らず、弱肉強食で、至るところに悪が充満する社会を造られたのでしょうか?私は神がお造りになったこの世界を好きになれず、心は離れて行きました。そのため、私は次々に他の寺廟を訪ね歩き、「正神」を見つけることを願っていたのです。そんな折、観世音菩薩は殺生を禁じ精進料理を勧めていると聞き、「動物の命までを大切にされるなら、人を殺めることなど絶対にないだろう。信仰を改めるなら、観世音菩薩を信じよう」と考えました。
後に、阿弥陀仏の「無量寿経」を読む機縁に恵まれ、私は「ついに理想の世界–西方極楽淨土を見つけることができた」と思ったので、家でも阿弥陀仏の聖号を念じるようになりました。私はかつてテレビで「もし『貪嗔癡慢疑』の五毒が心に在れば、一心に念仏することはできない」と、ある法師がおっしゃるのを聞いたことがありました。その後「普門品」を読む機会がありましたが、「普門品」では観世音菩薩は、「衆生を済度し悪道から遠ざけ、仏前に生を得させしめる」と説いています。私は「自分の五毒はこんなにも深いので、先ずは観世音菩薩の聖号を唱え、五毒が去った後に阿弥陀仏を信仰すべき」と考えました。私は皈依を渇望していましたが、仏法を学ぶ友人達のだれ一人として、私を学びに誘ってくれたことはありませんでした。私は、台南県在住ですが、高雄を台南県からはあまりに遠いと嫌い、さらには自分の勤務地の階下には仏堂もあったのに、足を踏み入れたことはありませんでした。また、これまで三回、仏像を前に皈依を発願しましたが、一人で仏法を学ぶことに気が進まず、だれかが私を皈依へと導いてくれないものかと願いながら、「もしそのようなご縁がないなら、一人で経を唱え独学しよう」と考えていました。
私は妊娠中に、あるチベット仏教の法会の消息を新聞で見つけ、またその場所がよく知っている場所だったため、参加したことがありました。法会では皈依の式典を行っており、私も最初は強く皈依を願っていたのですが、法会の最中に、「困難にぶつかったら、写真を見て観想、観念すれば、救いが得られる」と説かれるのを聞き、「法師はチベットにおられるのに、どうやって私達を救って下さるのか?これではアラビアンナイトではないか。しかも念じるのは、私には理解できない呪文で、私が親しんでいる観世音菩薩でも、阿弥陀仏でもない」と、心中に疑惑が生じ、皈依しようという考えを納めました。このような状況で、約七年が経過した後、次女が自動車事故に遭遇。それを契機として、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにめぐり合い、三寶に皈依するようになったのです。
当時次女は13歲で、前夫と台中で暮らしていましたが、ある日、自転車で道路を渡ろうとしたところ、一台の車がブレーキを踏むどころか、反対に加速して娘に衝突したのです。夫が病院で娘に会えた時には、娘は既に頭部に二度の手術を受けていました。連絡を受けた私はパニックに陥り、「なぜこんなことが娘の身に起きるのか?」と思いながら、台中の病院に急ぎ、ICUで昏睡状態の娘を目にしました。どうして良いか分からず、ただただ観世音菩薩の聖号を念じましたが、ICUで偶然に寶吉祥の柯兄弟子にお会いしました。兄弟子は、ご自身の上師であるリンチェンドルジェ・リンポチェは非常に優れたお方で、重病患者を助けることができるので、私を引き合わせて下さると、親切にもおっしゃって下さいました。ところが、その申し出に最初は同意した私も、友人が「近頃詐欺師がとても多いから、簡単に他人を信じてはいけない」と戒めてくれたのを思い出し、しかも「リンチェンドルジェ・リンポチェは台北におられ、私はこの兄弟子をよく知っている訳でもなく、さらに自分は気の小さい方向オンチだし」と考え、約束を果たしませんでした。その頃、長女が大甲の媽祖廟に行きお守りをもらって来ると言うので、私は「人に頼るのが良いか、神に頼るのが良いか」と迷いましたが、最後には神に頼る道を選びました。
さらに幾日かが過ぎ、娘の病情はますます悪化して行き、医者には「この1、2日が山場だ」と言われた頃、兄弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェについて話されるのを耳にし、「たとえ騙されても良い。行ってみよう」と心に決めました。リンチェンドルジェ・リンポチェにお目に掛かるやいなや、リンチェンドルジェ・リンポチェは「なぜこんなになるまで来なかったんだね?」と私にお尋ねになりました。私は、私が前回約束を反故にした事を兄弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えたのだと思いました。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに「いつ来るべきだったのかな?」と三度続けてお尋ねになり、私は頭の中が真っ白になってしまいました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、娘の負傷箇所を一つ一つご指摘になり、医師の検查で見つかっていない場所までも指摘なさいました。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに、甘露丸を三個下され、「一個目は病院に戻ったらすぐに娘に飲ませるように。二個目は、娘がいくらか良くなったら飲ませるように。三個目は娘が往生する時に、三悪道に堕ちないよう飲ませるように」とおっしゃいました。
柯兄弟子は、非常に熱心に私を法会へ誘って下さり、強い支えとなって下さいました。また、法会の終了後に、リンチェンドルジェ・リンポチェに会わせて下さいましたが、その折リンチェンドルジェ・リンポチェは、「娘のために時間を作って下さる」とおっしゃり、私は期待を抱きつつ、リンチェンドルジェ・リンポチェの来臨を待ちました。リンチェンドルジェ・リンポチェの来臨予定日は、ちょうど台風が襲来し大雨になりました。兄弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは飛行機で台中においでになるというので、「リンチェンドルジェ・リンポチェと私は縁もゆかりもないのに、こんな危険を冒してまで飛行機で来て下さるはずがない」と思っていましたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に私の面前に現れたのです。私は、歓喜と緊張、さらに恭敬の心でお迎えしました。リンチェンドルジェ・リンポチェが、次女のために念誦し加持をなされている間、私は目を閉じていましたが、眼前に普通は正視することも恐れ多い千手観世音菩薩が現れました。それは私が知っている白衣の観音ではなく、穏やかで暖かな感覚が訪れました。同時に、非常に珍しく貴重なことであると感じ、これは決して幻覚ではないと確信しました。加持が終わると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「八日後に好転するだろう」とおっしゃいましたが、娘は本当に八日目にICUから普通病棟に移ったのです。またリンチェンドルジェ・リンポチェは「この子には妹がいるね。何歳だね?」と私にお尋ねになりました。私は非常に驚きました。実は再婚後に、私に四、五歲の娘がいることを、前夫さえ知らなかったのです。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしてこんなことまでご存知なのでしょうか?
このようなことがあったにもかかわらず、やはり信心が足りず、末娘がいたずらで、2002年に法王が主催された葉衣仏母袪病法会VCDの紹介文を開くまで、私は皈依へ踏み出していませんでした。「病者は本人に会いさえすれば、その加持を受け、或いはその名を聞きさえすれば、信心と恭敬心を深く抱き、病痛の苦から解脱することができる」という文章を読み、この時、私の信心が初めて湧き上がって来たのです。後に「娘は一ヶ月後に目を覚ます」とリンチェンドルジェ・リンポチェは仰せになりましたが、果たしてリンポチェの仰せの通りになりました。このようなリンチェンドルジェ・リンポチェの庇護の下、娘は数年後には徐々に健康を取り戻して行きました。
現在次女は高校生で、特殊学級で学んでいますが、成績はいつもクラスでトップです。昔のこともすべて覚えていて、脳の回復も順調で、自分の考えや不満をはっきりと他人に伝えることができますし、自分のことは自分ででき、普通の人と大差はありません。もともとは、娘が座れるようになるだけでどれだけうれしいか、と思っていましたが、これほど目覚しく回復するとは思ってもみませんでした。リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の恩沢には、どれほどお礼を申し上げても十分ではありません。
以前は高僧の大徳をうらやんだものでしたが、どこでお会いできるのか分かりませんでした。私の願いを叶えて下さいましたこと、上師と菩薩の大慈悲に深謝申し上げます。お陰を持ちまして、私は徳高き上師に皈依することができ、娘は生死の境を乗り越えることができました。私は台南におりますが、家人に妨げられることもなく、台北に仏を学びに行くこともできます。リンチェンドルジェ・リンポチェに一目でもお目に掛かれますことは、とてつもなく大きな福報です。そのためならば、台北が遠いとは少しも思いません。「仏法難聞今已聞、上師難遇今得遇(仏法を聴聞する機会を持つことは困難だが、既にその機会を得た。良い師にめぐり遭うことは困難だが、既にめぐり遭うことができた。だから、その機会を大切にしなければならない)」の精神を忘れず、私は永遠にリンチェンドルジェ・リンポチェから仏法を学び、少しでもリンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳に報いたいと心に誓っております。
皈依弟子 張淑芬
2009 年 02 月 02 日 更新