027:ポワ法によって救われた父
2003年3月25日の早朝5時過ぎ、私の父は寿88歳でこの世を去った。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの「ポワ法」によって、父は西方極楽浄土の阿弥陀仏の下に導かれた。私は、ここにリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持と修法に謹んで感謝を申し上げます。
思い起こせば2001年2月、今は亡き父はリンチェンドルジェ・リンポチェに初めてお会いしたのだった。この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは私に、「その時に臨み、自分の父親に苦痛を与えるのは避けなくてはならない」と仰せになった。それを聞いた私は「よく覚えておきます」とすぐお答えし、このお言葉を胸に刻み込んだ。亡き父は本家筋の長男であったため、曽祖母はお参りに行く時常に父を連れて行ったものだった。父は幼い頃、よく曾祖母に連れられて色々なお寺や廟に参拝に行っていたが、長じてからも仏教やキリスト教(カトリック・プロテスタント)などの、いずれか特定の宗教の行事に参加する事はなかった。2002年6月30日、寶吉祥仏法センターの招聘で尊きチェツァン法王が万人法会を桃園ドーム体育館で催された。午前中は『ポワ法』についての講話が、午後は『葉衣観音』の病気祓いの法会がとり行われた。亡き父もその法会に参加していたが、腰の持病のせいで長く座っていることができなかった。それで、午前中の法会が終わった後、先に家に帰って休んでいた。その日の法会が終わった後、父の両腕や体のいたる所に次々と黒紫色の発疹が現れ始めたので、皮膚科へ行って診てもらったが何の効果も無かった。私はこの事をリンチェンドルジェ・リンポチェに申し上げると、亡き父は海老をよく食べていた為にその毒に中ったので、甘露丸を二粒飲めば治ると仰せになった。それから数週間後、父の発疹は全て消え去った。上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝致します。
2002年の年末、今度は父の両脚に水腫が突然現れた。喘息や全身の倦怠感、四肢に力が入らない、といった症状を伴っていた。父は酒やタバコを飲まない人だったが、気管支拡張の持病を40年来もっていた。私は、心肺機能の衰弱や胸部の悪性腫瘍を疑い、心配だったのでリンチェンドルジェ・リンポチェに相談に行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ただの感染症による炎症であろう、とすぐに仰せになり、心配せずとも炎症を抑える薬を飲めば大丈夫であると言われた。その後、病院の検査の結果は、リンチェンドルジェ・リンポチェの所見と全く同一であった。2003年1月8日、父は食べ物が喉を通らなくなり、入院することになった。医師によると、医療用導管による栄養補給と輸血が必要になるとのことだった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが来院して加持を施されると、その晩には父はいくらかのお粥やおかずが食べられるようになり、病状が好転し始めたのだった。次の日、回診で病室を訪れた医師もとても不思議そうにしていた。父が入院していた時分には、寶吉祥仏法センターでは毎週土日に法会が行われていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは常々弟子たちに、父母が病気の時には、その子供が彼らの名代として法会に参加すれば良いと仰せになられていた。この度の一連の法会においても、長寿仏について学ぶための法会の時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなた方の家族や親戚が重病を患った時、まず最初にするべきことは名医を探すことではなく、大供養をすることである」と開示された。私はこのお言葉に、はっと目を醒まされ、殊勝なる法会が終了した後に父の病室に電話を掛けた。すると妹が電話に出て、「不思議ねえ、お父さん、ここ最近寝たきりでベッドから離れられなかったのに、さっき突然『起きる』って言い出して、今は元気満々で病室を歩き回ってるのよ」と言ってきた。なるほど、父の回復は全てリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰だったのだ。旧正月前には、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深くも病院を訪れて父に加持を施してくださった。加持が終わると、父は食欲も旺盛、元気を取り戻していた。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐにでも退院し、家に帰って家族で正月を祝うことができるだろう、と仰せになった。また、入院中父の赤血球値は低すぎたので、医師はずっと輸血の必要性を主張していた。しかし、退院時には全く問題なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に本当に感謝しています。
退院後の父の状況は一貫して良かったが、2003年の元宵節(旧暦1月15日)の夜12時に、突然の痙攣に襲われた。すぐに父を病院の急患に連れて行ったところ、医師は脳卒中でなければ、脳に何か腫瘍ができたのだろうと判断し、翌日にMRI検査を行い診断を確定させることになった。MRI検査の結果が出る前に、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに事の次第をご報告したところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは卒中ではなく腫瘍によるものであろうと仰せになった。その後、MRI検査で明らかになった結果は、リンチェンドルジェ・リンポチェが仰せになった通りのものであった。MRI検査画像に写し出されたその腫瘍は、既に父の脳の様々な箇所に侵入しており、由々しきことに、生命維持に不可欠な『脳幹』すら侵されており、成長速度の速い悪性腫瘍であると判断された。その腫瘍は転移してきたもので、既に末期状態にあった。担当の医師は頭の手術によって腫瘍の一部をサンプルし、腫瘍の性質を明らかにするとともに、腫瘍の発生部位を確定することが必要だと提案し、血液腫瘍科の医師は、胃カメラなどを含む全身検査の必要性を訴えた。しかし、父の腫瘍は末期であった。私はリンチェンドルジェ・リンポチェが以前、『(臨終の)その時』に父母に苦痛を与えるのは避けなくてはならない、と仰せになっていたことを思い出していた。かつて法会の折、リンチェンドルジェ・リンポチェが、御自身が修法によって死者を済度された時、心臓の電気ショックなどの救命治療を経て亡くなった者は、いずれもリンチェンドルジェ・リンポチェに痛みを訴えてきた、ということを開示されていた。だから、父に対して手術や化学療法を受けさせるのを止めようと決めた。そして、父が危篤に陥っても電気ショックなどの救急救命治療は必要ない、という旨の同意書にもサインした。父は、入院後二日目にして呼吸補助の機械が必要になってしまったので、医師は気管切開の必要性を言ってきた。しかし、私達はそれに同意しなかった。何故ならば、一旦切開を行ってしまうと、臨終後に施される「ポワ法」が意味を成さなくなってしまうからである。このような理由で、私達は(介入的ではない)援助的な治療に留めるという方針を採った。そして、一途にリンチェンドルジェ・リンポチェの「ポワ法」による済度を願うことにした。
かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会の折に弟子達にこう開示されていた。「昏睡状態で五感を失った人や植物状態の人ですらまだ意識は保たれている。だから、重病で昏睡状態の人の傍らで病状についてあれこれ話をしてはいけない。」父が昏睡状態に陥った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは外国で閉関修行をなさっていた。父は、何を話しかけても全く反応しなかった。しかし、「お父さん、今リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関修行をされているんだよ。リンチェンドルジェ・リンポチェが戻られたら、お父さんに加持をしていただけるようにお願いするからね。」と話しかけたとき、私の呼びかけに反応して父の両目が左右に素早く動いたのが見て取れた。やはり、リンチェンドルジェ・リンポチェが仰せになっていたことは全て本当のことだったのだ。
亡き父には二度目となった今回の入院の時、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドにおける一ヶ月に及ぶ閉関修行に旅立たれるところであった。そこで私は、閉関修行が終了する頃合にインドに赴いてリンチェンドルジェ・リンポチェの出関をお迎えし、同時にソンツェン図書館で行われる開光法会に参加したい旨をお伝えし、リンチェンドルジェ・リンポチェのお考えを伺った。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのことに同意してくださったので、私の願いは叶って、上師の出関をお迎えする団体に参加する事ができた。
私の帰国後に父の主治医は(私が台湾を留守にしていた)3日間、とても危惧していたと私に洩らしてきた。父の胸部に急速な病気の進行が見られ、効果のありそうな薬は全て試したが、病状の進行を止めることが出来なかったのだそうだ。ところが不思議な事に、その3日が過ぎると父の病状は元の安定した状態に戻ったとのことだった。私は、これもリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰なのだと信じており、上師の慈悲にとても感謝している。
リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関修行から戻られると、私は父のために加持を施してくださるようお願いに伺った。そして、加持に来てくださったリンチェンドルジェ・リンポチェが、金剛杵を父の胸口に置いて真言を唱えられると、昏睡状態にあり何も知覚できないはずの父は、上半身が弾かれた様にベッドで飛び上がった。加持が終わった後、父が未だに二つのことを気に掛けているのが分かったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは先ほどリンポチェがお話しした事を、私がもう一度復誦して父に聞かせてあげるようにと告げられた。仰せのようにしたところ、父はこれで本当に安堵できた、とリンチェンドルジェ・リンポチェは言われた。全ての加持が終わった後、先ほど父はどうして弾かれた様に飛び上がったのか、とリンチェンドルジェ・リンポチェに伺ってみた。そのお答えは、リンチェンドルジェ・リンポチェが父の中脈(気の流れ:経路の一つ)を開いたからだ、とのことだった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持には感謝してもしきれないくらいである。
父の入院期間中、私はリンチェンドルジェ・リンポチェのご指示に従って父の名代として大礼拝を行っていた。そんなある日、今度は私の左足の内側と拇指の腹側に、赤い突起状のできものが突然現れた。できものは円錐型をしており、表面の皮膚は簡単にぱらぱらと捲れ落ちてきた。突起状のできものの頂上部は黒色の色素変化を伴っていた。さらに、できものは段々と大きくなり、ついには1センチ程に成長していた。できものの底部を穿ってみるとねばねばした液が出てきたし、できもの自身も裂けて出血するようになった。突然皮膚に黒い色素の固まりが出来るということは、往々にして良くないことの兆しであろうから、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに仔細を報告し相談した。リンチェンドルジェ・リンポチェの御開示によると、これは毒素を排出しているだけであり、もし心配ならば皮膚科の医師に診て貰うのが良いとのことであった。それを聞いて私は安心し、父の為の大礼拝をそのまま継続して行った。医者には行かず終いだった。その後、喜ばしいことに、例のできものは段々と小さくなり、5日程で瘡蓋がポロリと剥がれ落ちてしまった。傷跡には新しい皮膚がきちんと再生していた。これも皆リンチェンドルジェ・リンポチェの御加護のお陰だと思い、感謝申し上げます。
父は、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を3月4日に受けた後、同月の25日の早朝にこの世を去った。臨終に際して、私はすぐに兄弟子に連絡をとり、リンチェンドルジェ・リンポチェによるポワ法の修法をお願い申し上げた。同時に、肉親の心は最も懇切なものだと言うリンチェンドルジェ・リンポチェのお教えに従い、私達家族は父の傍らで助念した。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による修法が終わったことを兄弟子が電話で教えてくれ、父の体を見てそのしるしを確かめてみよとのことだった。そこで、右手で父の額に触れてみたところ、とても冷たかった。しかし、左手で父の梵穴に触れてみると、暖かいのが感じられた。そして、頭蓋の梵穴部は陥没していた。これらのことは、父がリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法の御加護を得て阿弥陀仏の西方極楽浄土に成仏できたことを示していた。父は長らく呼吸を補助する医療機器を使用していたので、その機器のチューブを外した後も、父の口を閉じることは出来なかった。私は手に力を入れて父の口を閉じようとした。そうこうするうちに、兄弟子からの電話を再び受けた。電話口で兄弟子は「方さん、お父上をみだりに動かしてはならない、とリンチェンドルジェ・リンポチェが仰せになっています。あと2時間ほど六字大明呪を唱えればお父上の口は自然と閉じる、とのことです」と伝えてくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェのお慈悲と加持には本当に感謝してもしきれないくらいだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのお陰で、今は亡き父は百万分の一の機会の極めて得難い「ポワ法」のご利益を得ることができたのだ。父がこの世を去った後、残された私達家族には悲痛な感情は無かった。むしろ、懐かしく父を偲ぶ、といったところであろうか、私達の心は安堵と喜びで満たされていた。リンチェンドルジェ・リンポチェのお話によると、死者が苦しまずに往生したことで、残された者達も悲しみと苦痛に苛まれずに済んだということだった。死者が安んじておれば生者もまた然り、ということなのだ。
父がこの世を去ってから二日後の昼、昼寝をしていた母が、父が帰ってくる夢を見た。夢の中で見た父は若かった頃の姿で、満面の笑みを湛えていたそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにお伺いしたところ、「死者が、若かった頃の姿で、満面の笑みとともに帰ってきたのならば、少なくとも天道に着いている」と仰せになった。父は転移性の末期癌によって亡くなったが、生前は痛み止めの注射は一度も打たなかった。更にリンチェンドルジェ・リンポチェの御開示によると、亡き父は、かつて6月30日に行われた大法会に参加した直後に発疹に見舞われたことがあったが、これは、転移した癌細胞が体内で排除される過程を反映したもので、このことがあったから、父は普通の末期癌患者とは異なり、苦しむことはなかったのだそうだ。そして、父が病に倒れた理由は、若い時分兵役に服していた際、動物の棲家の出口を塞いだことがあり、その殺生の因果が巡ってきたからであるとのことだった。
殊勝なるポワ法のお力で、亡き父を西方極楽世界の阿弥陀仏浄土に済度して下さったリンチェンドルジェ・リンポチェのお慈悲と加持に心からの感謝を申しあげます。
加えて、数十年に渡って関節炎の持病を患い、手関節の腫れや疼痛に苦しんでいた私の母もその後リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、大礼拝を始めました。そして、その3ヶ月後には手の関節の腫れや痛みが引き、快復に向かって状態が好転しつつあります。母はとても喜んで自分の手を私達に見せながら「見て!母さんの手はもう痛くないの、段々と良くなってきているみたい」と言っています。
私と母は元々カトリック信者でした。しかし、今は家族全員がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しており、各々がリンチェンドルジェ・リンポチェの絶え間ないお助けを頂戴しております。最後に家族全員を代表して弟子の私が、リンチェンドルジェ・リンポチェへ心からの感謝を再度申し上げます。
寶吉祥仏法センター 皈依弟子 方一強
2009 年 03 月 10 日 更新