023:妻の病気は我家を皈依へと導いた

2001年8月,50歳にしかならない家内は突然手が痺れ、顔が歪んだ。異常なので、急ぎ大型病院に運んだ。色々な検査の結果、脳に腫瘍があると診断され、手術で腫瘤を切除する必要があった。しかし醫者は「手術後は、半身不随になる可能性がある。」と言った。ああ、神よ!突然の打撃で、どうしていいか分からなかった。家庭の幸福を保つため、また家内の身に起こった悲劇を挽回するために、私はありとあらゆる手だてを尽くし、伝手を求めて家内を一番有名な病院へ転院させ、全国で一番権威のある脳神経の外科医に診てもらった。私は、権威ある医者によって家内の病気は必ず良くなると強く期待したが、世の中は兎角人の意のままにならず、期待は外れた。10月ごろ、医者と相談して、先ず脳の切片検査を行い、どんな癌細胞かを判断する事にしたが、医者は全く私と相談せずに、家内に脳腫瘍切除大手術を施した。厄介な事に、手術後、家内は本当に半身不隨になってしまい、起居生活全て他人の手に頼らざるを得なくなり、車椅子を使う羽目になった。一周間内に続けざま2回の手術をしたが、病状は改善されるどころか,返って身体障害者になってしまった。一番惨めなのは、手術のあと脳水腫の後遺症があったため,よく意識が昏迷し、常に病院に緊急おくって注射しなければならなかった。昏迷状態は繰り返し起こり、回数はますます頻繁になり,もともとやせて小柄な体はなおさら衰弱していった。彼女の全身に管が挿され、体の具合はどんどん悪くなり、人の形をなさない様子を見るごとに、私の心は錐に刺されるが如く痛んだ。彼女にとっていちばん身近な私が、何んの実用的な手助けも出来ず、一家はそのために悩んで心配で重い気分の中に墜ちいっていた。

翌年の3月、友人の紹介で寶吉祥宝石店へ赴き、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。私はリンチェンドルジェ・リンポチェに家内を加持して彼女の苦しみを軽くするように懇願した。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く彼女を開示した。「あなたの身体は壊れ切ってもう使いものにならない。それは家が壊れたら、新しい家に引っ越さなければならないのと同じだ。」リンチェンドルジェ・リンポチェは私達が心の中で二人の医者が勝手に大手術をして家内が麻痺したことをとても不満に思い、恨んでいることを見抜き、こう開示なされた。 「瞋恚や怨念を持ってはいけない、全ての現象と遭遇は其々の因縁があり、治療の結果が思わしくないのも自らの因果業報だ。仏を学び、長らく法会に参加して、初めて良い未来があるだろう。」 私は家内に リンチェンドルジェ・リンポチェの仰ることが分かったかと聞くと、家内は小さい声で「わかった」と答えた。 リンチェンドルジェ・リンポチェは家内に、もし、苦しくなったり、調子が悪くなったら、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想すれば良くなると告げた。 リンチェンドルジェ・リンポチェはまた家内に開示して、彼女は前に何かで小さな動物の頭に叩いた事があったので、今こんな果報を得た、と仰った。家内もこんな事もあったと肯いた。不思議なのはリンチェンドルジェ・リンポチェは病気が治るとか寿命を延ばすとか言わなかったが、家内の心は穏やかになり、もともと怨みを込めた不平な目つきは、やさしくて安らかになった。

その後、私達は時間通に リンチェンドルジェ・リンポチェが催す施身法と共修法会に参加した。2002年6月、私と家内は一緒に リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。晴れた日も雨の日も、身体の状態にかかわらず、私はいつも家内を車椅子で連れて行って法会に参加した。それは彼女の体が動けなくなるまで、絶える事はなかった。最後の期間は、彼女はまるで油が尽きた灯火のように、台大病院の緩和ケア病棟に住み込んでもう法会へ行きようがなかった。脳水腫に影響された彼女は殆ど昏迷状態だった。一般的に、脳腫瘍の患者の最後は非常に苦しく、モルヒネを注射してもらわないと痛みを止めることが出来ないのだが、家内は リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得たため、状況はかなり穏やかで静だった。2003年3月10日の午後、 リンチェンドルジェ・リンポチェが病室へ来られ、家内を加持し、そして彼女が明日、3月11日昼ごろこの世を離れることを知らせた。果たして リンチェンドルジェ・リンポチェの言った通り、翌日12時03分に息が絶えて、彼女はこの一生の旅を終えた。私達は リンチェンドルジェ・リンポチェの明確な事前指導に従って、家内のそばにいて、「六字大明呪」を唱えていた。同時に慈悲深い リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ道場で家内のために殊勝な「ポワ法」を修法した。午後1時頃、道場の相弟子より知らせの電話があった。リンチェンドルジェ・リンポチェが既に修法終えたので、私達に亡妻の頭に触れて梵穴が暖かいかを確かめる様言いつけた、と。果たして、彼女の手の平は冷たかったが、頭の梵穴は暖かかった。

これは正に経典の記載ように、済度を受けて浄土へ往生した瑞相だった。それに、出棺する前、家内の遺体は何日も冷凍したのに、顔色は相変わらず穏やかでほんのりと薄赤色に潤っていた。まるで生きているかのような寝顔だった。そばにいる他の亡者の青白い顔色とまったく違っていた。私と二人の娘は声をそろえて リンチェンドルジェ・リンポチェの修法の殊勝さを讃嘆した。 リンチェンドルジェ・リンポチェは家内の火葬の日を選んだばかりでなく、その後、絶えずに火葬の情況を聞かれた。 自分の親より、弟子達にもっと関心を持っている。火葬後、家内の骨は非常に白くきれいで、頭骨には何輪ものエメラルド・グリーンの舎利花が現れた。 リンチェンドルジェ・リンポチェが「ポワ法」を修法時に家内の神識を壇城まで呼んできて、家内が二人の娘が リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学び、 リンチェンドルジェ・リンポチェに見守られる様にとの遺志を知った。娘達は家内の遺志を知り、自分の目でも家内が済度を得た妙なる瑞相を見たので、私と連れ立って法会に参加した。そして、2004年11月に リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。

皈依する前、妻が病で受けた苦しみを見るにつけ、これは全て医者のせいだと思い、ただ、他人のせいにして、心を痛め悲しかったし、また失望そして恐ろしかった。さまざまな良くない気持ちは、私を苦しい生活に追い込んだ。 リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して仏法を聞いてから、心はだんだん変わり、明るくなった。 リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は「ある種の病気は医者でも治さない、それは因果病だ。」、過去、衆生に害を及ぼした事があり、かれらは冤親債主となって、病気をよくさせない。医者の仕事は病気を治し、人を救おうとするもので、どんな患者にも害を加えることを欲し無い。 つまり、私達が会った良いことも悪いこととも、全部自分自身の仕業なのだ。全て因果業報だ。そして、 リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した「佛子行37頌」の中にも「たとえ、ある人が私達に害しようとしても、彼らを上客として対応するのは佛子のなすべき事だ。」と言っている。これでやっと リンチェンドルジェ・リンポチェのいつもの教えの深い意味と心尽しを体得したのだ。私と娘は、今日、なんの幸あって仏のような金剛上師に皈依することが出来たのだろう。 リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しいが時々刻々我らにどのように自分の身口意を直すかを指導してくださり、私達が輪廻の苦しみから抜け出すようにして下さった。私達は名実共に仏の弟子になるように共に努力しよう!

劉振剛

2009 年 03 月 02 日 更新