命の明かり
学道縁起
学生時代,我はよく病気になったり、風邪を引いたりした。発熱さえもなかなか治らず、一度は風邪を引いただけで12回も通院したほどで、ひどいときには深夜に救急病院に送られたこともある。長期的な肩の痛みで肩の肉は裂けたように感じ、頭痛も頻繁で、オートバイの震動さえも我慢できないほどだった。身体の病痛に加えて情緒も落ち込みがちになり、身心ともにさえない日々を送っていた。大学卒業後、半年間休養したが,あるとき仏教を学んでいるルームメートとおしゃべりすることがあった。私が彼女に「なぜ仏教を学ぶのですか」と聞いたところ、彼女は「死を学ぶのです。人が将来どこに行くかはとても重要なことです」と答えた。以前も他の人から「生死は人生の大事」と聞いたことがある。このような言い方を聞くのは二度目だった。今から思えば、あの時人生の低調な時期を無事に乗り越えることができたのは、家族と友人らの思いやりのおかげと、諸仏菩薩の慈悲と加持のおかげであり、私のこの薄弱で小さな生命に後日面会いただいた尊い リンチェンドルジェ・リンポチェのおかげであると感謝している。
私はテレビで、赤い服を着た出家人が全身を地上に這わせて仏を拝むのを見たが、後日それはラマの大礼拝だとわかった。数日後、私はルームメートの「あなたたちもこのように礼拝するのですか」と聞くと、彼女は「そうですよ」と答えた。私はこれを聞くと嬉しくなった。一種の「みつかった」という感覚を得たからだ。このため、ルームメートとともに寶吉祥仏法センターを訪れたことで、真の仏を学ぶ道が始まった。
それから菜食に
2001年10月、初めて道場を訪れて リンチェンドルジェ・リンポチェによる仏法開示と因果の話を聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示のなかで「仏菩薩は衆生の肉を食べることに胸を痛められた。私たちは何の資格が有って衆生の肉を食べるのか。衆生の肉で利益を図れば、寿命が縮み病に罹り、望みは叶わず、家族も離散する」と説かれた。私はこれを聞いてとても辛くなり、懺悔した。私たちは、ほかの衆生を苦しめ、自らの空腹と欲望を満たすために母に殺生をさせていたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、疫病が流行るとも予言なされた。このため皈依した弟子たちには菜食を徹底させ、これからは衆生と悪縁を結ばず、弟子が共業に巻き込まれないよう願ったのだ。このとき私はまだ皈依していなかったが奉行を決意し、これを機に菜食に改め、また皈依した。
リンチェンドルジェ・リンポチェが父を救ってくれた
父は年越し前から重い風邪がなかなか治らず、加えて加齢と長期の労働による疲労が溜まっていた。そしてバイクに乗って出勤する時、不注意で溝にはまってしまった。幸い、親切な通行人が助けてくれ、病院に連れて行ってくれた。退院した後,父の眼と口の端が歪み、家族の名前さえ忘れてしまっていた。その年の除夜,父は少しだけ食べ物を口にし、ヨロヨロと階上に上っていった。父の背中を目にして、私は言うにいえない辛さを感じた。例年、除夜といえば父はいつも私たちに徹夜して年を過ごそうと呼びかけたものだったが、父は当日が除夜だということもわからなかったようだ。二人の姉は嫁ぎ先で年越しのため、実家で私は母と憂いに満ちた顔を突き合わせていた。私は仏壇で リンチェンドルジェ・リンポチェの写真に向き合い、泣きながら祈った。私は リンチェンドルジェ・リンポチェが加持された四臂観音の“ガウー”(護身符)を父にかけ、父に代わって六字真言を唱えた。父は眠っているときに赤い龍を見たといっていた。当時 リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関のために台湾におらず、リンチェンドルジェ・リンポチェが台湾に戻るのを待って、私は大急ぎで寶吉祥芸坊を訪ねて父の状況を リンチェンドルジェ・リンポチェに奉告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは私に「皈依しましたか」を聞かれたので、私が「皈依しました」と答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「よかった。もし皈依していなければどうやってお父さんを助けられようか」と開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「お父さんの命に別状は無い」と言われた。これを聞いた私はとても喜び、芸坊を離れる時にようやく喜びのあまり供養を忘れていたことに思い付いたほどだった。大急ぎで取って返すと、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈愛あふれる声で「どうしてまた戻ってきたのか」と聞かれた。私はしどろもどろになりながらも、言葉にできないほどの温かさに感動していた。
父が病気の時,落花生を下の姉の赤ちゃんに食べさせようとしたことがある。姉は父の異常さに気付き、父を病院に連れて行って脳の検査を受けさせた。父の脳波は不正常だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、父が交通事故にあったときに頭部をぶつけた、と開示された。私が引き続き法会に参加するうちに、父の状況は次第に好転し、眼と口の端からは次第にゆがみが消え、私たちの名前も覚えるようになった。その年、父は75歳だった。
リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、父を連れて法会に参加するよう指示されたが、父は行かなかった。数週後、父と母の体に同時に数多くの膿疱ができ、それは十元硬貨ほどの大きさになった。痛くて痒く、いくら治しても治らなかった。私はもう一度 リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを請うとともに、父がどうしても法会に来ない事情についても リンチェンドルジェ・リンポチェに奉告した。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれを聞くとただちに「お父さんが法会に参加しないので、今体に出来物ができたのは私のせいか?お父さんには懺悔の心がない。お父さんに法会に参加するように言いなさい」と指示された。私は満面の涙で、きっと失礼なことを言ったためだと思い、次からはもっと慎まねば、と思った。後に私は次第に リンチェンドルジェ・リンポチェの叱責が実は慈悲の加持であったことを知るようになった。数週間後、父母の体の出来物は薬を使わずに治った。
私は、貧しく業障の深い弟子で、何か供養ができる能力があるわけでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲が貧賤富貴を分かたず、身分や地位の分け隔てをしないことに感謝の念を禁じえない。私の父は今年すでに80歳だが、身体は依然健康で言語も明晰だ。父は以前、老いて呆けてしまうことが最も恐ろしいと言っていたが、今のところ生活はすべて正常で、これもすべて リンチェンドルジェ・リンポチェのご加護のおかげだ。
リンチェンドルジェ・リンポチェが母を救ってくれた
父の病気が全快した後、家には以前の安楽な日々が戻ってきた。しかし2003年12月の検査で母に十センチ大の腸ガンが見つかったことで、家に再び暗い影が立ち込めるようになった。
私は泣きながら リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは私に「腫瘍があるのは腸の末端か?医師は急いで手術しようとしただろう?」と聞かれた。普段二人の姉が父母の面倒を見ているので、私はまったく知らなかった。私は正直に リンチェンドルジェ・リンポチェに「よくわかりません」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは手術をするかしないかを決めてから会いに来なさいと言われた。私は茫然として暫く リンチェンドルジェ・リンポチェを見つめていた。リンチェンドルジェ・リンポチェがおっしゃることには必ず理由がある。それで私はそれ以上尋ねなかったが、離れるときの心はだいぶ平静さを取り戻していた。
帰宅した後、私は姉に聞いた。やはり リンチェンドルジェ・リンポチェの開示通りで,腫瘍は腸の末端にあり、医師も手術を勧めていた。私は母に手術しないよう勧めた。道場で多くのガンに罹った師兄らが リンチェンドルジェ・リンポチェの助けで手術をせずに病状の悪化を食い止め、はては全快していたからだ。しかし母は納得せず、手術を主張した。私は下の姉に土曜日に斗六で法会があるので リンチェンドルジェ・リンポチェに会えると言った。姉と義兄、そして二人に子どもも斗六での法会に参加した。法会の後、姉は母の事で開示を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたのお父さんがお母さんの手術を希望している。このことは妹さんの決定できることではない」と開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは父が後日仏を謗り地獄に落ちる因縁を造ることが無い様考えられていたのだ。大修行者の慈悲と智慧は私たち凡人の理解の及ぶところではない。
二日後、母は切除手術を受けたが、私は術前に リンチェンドルジェ・リンポチェとの面会に間に合わなかった。手術後、直腸の瘻孔が膣に開口し、排泄物が勝手に膣からにじみ出るためおむつをせねばならず、排気も瘻孔を経て膣から出て来たため、正常な人のように肛門から排泄できなくなった。私は母の状況を リンチェンドルジェ・リンポチェに奉告したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは「それは仕方ない。医師に聞きなさい」と言う。私は リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を姉に伝えた。姉は母を連れて病院で検査を受け、医師は母に一時的な人工肛門を造る手術を受けるよう提案した。ただし、三ヶ月以上、カスのない食べ物に耐えねばならない。これは母にとって大きな苦しみで、しかも瘻孔が必ず治るとは限らない。姉は私に対し リンチェンドルジェ・リンポチェにどうすればいいか聞いてほしい、そして リンチェンドルジェ・リンポチェに母を救ってほしいと頼んだ。私は医師の提案を リンチェンドルジェ・リンポチェに奉告したが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれは仕方ないと言う。私は姉が リンチェンドルジェ・リンポチェに助けてほしいと言っていたことを伝えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「どうやって救うのか。施身法に参加してからにしよう」と言う。私は疑問に思って リンチェンドルジェ・リンポチェに「母がですか」と聞くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは私を見ながら「お母さんは来ることができるのか」と聞く。私が涙を流しながら「以前、母にともに台北に行って法会に参加しようと勧めた所、母はいつも遠いと言うばかりでした」というと、リンチェンドルジェ・リンポチェは「そうだろ。お母さんは信じていないのだ」という。私はうなづいたが、とても辛かった。芸坊を離れた後にただちに家に電話をかけたところ、下の姉はなんとか母を連れて翌日の施身法に参加すると語った。翌日、上の姉の夫が車に二人の姉と母を乗せて雲林からやってきた。寶吉祥芸坊に到着した時,母と家族は恭しく リンチェンドルジェ・リンポチェの画像に頂礼をした。即座に母は肛門で何度も排気があったと驚き喜んで姉に言った。その夜、施身法を終えた後,慈悲深い リンチェンドルジェ・リンポチェは会場を離れる前に母に加持をしてくださった。帰宅した後、母の膣と直腸の瘻孔の問題は次第に改善し、顔色も次第に良くなり、おむつを着用する必要もなくなった。
手術から半年後、母が病院で再診を受けた。当時姉は母が瘻孔の問題を処理するための再手術が必要ではないかと心配していたので、これに先立って リンチェンドルジェ・リンポチェに教えを請った。リンチェンドルジェ・リンポチェは姉に対して、検査とは私たちを安心させるためのものだと言った。後に診察に当たった医師は、母の瘻孔はすでに縮小しているので治療をせず、血液検査や超音波検査の結果もすべて正常であったと言った。この頃は母の飲食も正常な人と同じだった。当初、もし医師の提案にしたがって一時的な人工肛門を作る手術を受け、カスのない食事を取っていれば、莫大な医療と看護での費用を要したのみならず、家族の体力と精神も消耗されただろう。いわんや、16年前に脳部動脈瘤の破裂で脳部の手術をしたため中風を引き起こし、半身不随となっていた母にとっては、さらに苦しいものであっただろう。
我が家の全員が リンチェンドルジェ・リンポチェの大いなる恩徳に感謝している。また、自分の目で リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲と仏法の殊勝さを見ており、いまでは母と二人の姉、義兄、さらには4人の子どもたちと一家のうち10人が リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依している。リンチェンドルジェ・リンポチェに依止できるのは私たちの大福報であり、リンチェンドルジェ・リンポチェの諄諄な教えに感謝するばかりである。
母の願い
二人の義兄は親孝行で、毎週車で母と姉、子どもを台北に連れてきては法会に参加した。リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な加持力で、二年あまりの間、ガンになった母の病状は軽減され、法会に参加して福報を累積する体力も回復された。家にはまだ皈依して菜食に改めていない者がいるため、ある日、母が家族の作った生臭の吸い物を飲んだところ、病状が急転直下し、母の腹部が突然膨張し、呑み込めなくなったことから体が弱ってしまい、このため瘻孔の問題も再発してしまった。母は、もう治療をしたくないと言った。前回の手術が非常な苦しみで、母は浄土に往生することを願っていた。二人の姉と私は母とともに尊い リンチェンドルジェ・リンポチェのもとを訪ねポワ法を施してくださるよう願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く引き受けてくださり、母の梵穴に加持して下さった。
その後、母は帰宅して養生したが、腹部はますます大きくなり、まるで双子や三つ子の妊婦のようになった。父は母を入院させたがり、幸いにも台北の松山医院の謝師兄が手配してくださった。私は再び リンチェンドルジェ・リンポチェに助けてくださるよう願い求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「どうしてほしいのか」と聞かれるので、私は「どうすれば母のためによいかわかりません。ですから リンチェンドルジェ・リンポチェに母のことをお任せします」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「ご家族の中に私を信じない人がいるのにどうやって助けるのか」といい、続いて リンチェンドルジェ・リンポチェは私に謝師兄に婦人科の医師による検査を手配してもらうよう言った。そして私に「分かったか」と念を押し、ただちに母のために真言を唱え加持をして下さった。私は父に「リンチェンドルジェ・リンポチェは家に信じないものがいるから助けられないといっている」と告げ、二日後に父は台北に赴いて リンチェンドルジェ・リンポチェに願い求めることを決めた。台北に向かった当日、母は病院で同時に大量のガスを排出し、腹部の膨れもだいぶ良くなった。父はもともと、医療によって母の生命を永らえることができると思っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの大いなる知恵は私たちに早くから目覚めを求めていたのだ。幸い父も遂に悟ることができ、最後には リンチェンドルジェ・リンポチェによって母が早く浄土に往生できるよう願うことを決めた。
婦人科での検査の結果、兄は二年前に母の瘻孔は治っており、排便排気の機能も正常になっていたことを知った。いずれも リンチェンドルジェ・リンポチェの修法と加持のおかげだった。このため、リンチェンドルジェ・リンポチェに願い求めることを決めた。母の入院期間中はほとんど兄が世話をしており、私が病院で付き添い兄が休憩を取ると、母は辛そうに「病人の面倒を見る人はたいへんだ」と言っていた。私は母を見ながら「リンチェンドルジェ・リンポチェが母の恩徳は海の水よりも多い珠宝であり、母にいくら供養してもし足りない、とおっしゃっていました。また上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳は父母よりも大きいものです。それは リンチェンドルジェ・リンポチェが私たちの輪廻を断ち切ってくれるからです」と言った。母は聞きながら頷いていた。兄が リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、顔を涙で濡らして リンチェンドルジェ・リンポチェに母の苦しみを軽減してくれるように求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「仏法は迷信ではない、仏法は最も科学的なものだ」と開示された。もともと兄は医療でこそ母を救うことができると考えていたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはつづけて「お母さんのこのような病状は鶏を殺生したことによるものだ。しかし、あなたの親孝行がお母さんの福報を向上させている。私はお母さんが苦しまないよう、そして安らかに往生し、諸仏菩薩が迎えに来てくれるよう約束しよう。私は誰にでも約束するわけではなく、約束したからには実行する」母は病院で リンチェンドルジェ・リンポチェの開示があったことを知り、泣いて自分の殺生の業を懺悔し、衆生に極めて大きな苦しみを与えたことを悔い改めた。兄が帰宅したのを見ると,母は兄の手を引て興奮しながら「息子よ!息子よ!」と叫び、リンチェンドルジェ・リンポチェが我が家の全員に仏法を授けたことに感謝し、何の心残りもないと語った。
母は家に帰りたがり、二人の義兄が夜中に車で病院まで母を迎えに行ってくれ、私は台北に残って事務処理に当たった。三日後、私は家に戻り、母に4月19日から リンチェンドルジェ・リンポチェがヨーロッパに行くと告げ、かの地では多くの衆生が リンチェンドルジェ・リンポチェに、ガンに関する法を修めてほしいと求めており、私もついてゆくと言った。母は聞きながら頷いた。翌日、母は往生した。息を引き取る前、兄は母に「リンチェンドルジェ・リンポチェを観想してください」と呼びかけた。兄は皈依証を母のまえに持って行った。皈依証には尊い チェツァン法王、祖師 ジッテン・サムゴンと尊い リンチェンドルジェ・リンポチェの写真があり、母は皈依証上の写真を眺めると目を閉じた。私たちは一粒の甘露丸を母の口に入れ、母のため リンチェンドルジェ・リンポチェ口伝の六字真言を唱えた。母は息を引き取ると、開いていた口がゆっくりと閉じられ、顔には安らかな微笑が浮かんだ。私たちは母のために十三時間真言を唱えていると、師兄の電話が掛かって来て、リンチェンドルジェ・リンポチェがすでにニュージーランドにて母のためにポワ法を修めて下さったことを知った。ポワ法のために母の梵穴の感触は温かく、四肢と身体が柔軟で、中風で萎縮していた手足も生前より柔らかくなり、死斑もなく、顔には光沢があり、24時間後に棺に納めたときもそのままだった。母の火葬後に多くの舍利があり、骨には色が付いており、さらに大小さまざまな舍利花が見られた。骨の梵穴にはコイン大の丸い穴があったので、家族はとても喜び、母の往生での悲痛さがなく、尊い上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝するばかりだった。
母を火葬して二日後、私は リンチェンドルジェ・リンポチェに追従してヨーロッパに向けて出発した。そして世界のどこにいようとも、多くの衆生が仏法の助けを必要としていることを深く感じた。私は心から仏法が世界の各地で盛んになり、衆生皆がこれに触れる縁に恵まれ、正法を学ぶことができるよう、そして私の母のように生死輪迴の苦しみから解脱できるよう願っている。母は生前、私に対して「あなたは正しい道を歩んでいる。一心不乱に仏に向かって行きなさい」と言ったことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェの歩みについて行きさえすれば間違いなく、すべての事象にいずれも最高のアレンジが用意されているようだ。大いなる慈悲と大いなる能力の リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子の長年の祈を満たしてくださり、しかもすべてを惜しみなく私たちに利益してくださる事に感謝。リンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳は、命のある限り体と言葉と心を通してお答えしようともし足りないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の安泰と末永くご在世を深く祈るものである。
管仁淳
2009 年 01 月 21 日 更新