018:皈依の因縁

私が、直貢噶舉教派の尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェ門下に皈依することになった縁の起こりは2000年9月に遡る。当時、私は階段で滑って転び、足腰の具合が悪くなっていた。幸いにもリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に満ちた殊勝なる加持のお陰で、患部の痛みが軽減されると共に自由に歩き回れるまで回復することができた。この仏の導きによる御縁によって、私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの下で仏法を学ぶことになったのだ。

当時を思い出してみる。躓いて転んだ時は非常に恥ずかしかったので直に起き上がってその場を離れたが、夕方になるまで足が痛かった。それで横になって2、3時間程休んでいたのだが、自分でも信じられないことになっていた。なんと、私は自分で立ち上がって歩くことができず、誰かの助けを借りなければならなくなっていたのだ。しかしまあ一晩寝て明日になれば大丈夫、くらいに考えていたのに、目覚めてみると実際はもっととんでもないことになっていた。下半身全体に力が全く入らなくなり、人に抱えてもらわないとならなくなっていたのだ。私と夫はとても不安になり親友にあれこれ尋ね回ったが、こんな時に頼れる医者を知っている者は皆無だった。結局、保険会社の趙社長の手配で松山病院の謝主任に診察してもらい、簡単な検査の後すぐに入院の手続きをした。

入院中、心電図、筋電図等々、各科の立会診察のもと毎日違う検査を受けた。しかし原因はついに判らなかった。当然対症治療の余地も無く、3日経っても何も変わらなかった。下半身の麻痺で座ることもできず、ただ臥して待つのみだった。この時の不安と恐怖は筆舌に尽くし難いものだった。その夜は折悪しくも台風の夜で、私の心のもがきは外の風雨のように大きくなっていった。「雨が上がれば空は晴れる、でも私の症状は一体いつ良くなるのか。明日には良くなるのだろうか?専門の医師でも私の症状の原因さえ判らない状態で、治療法なんて見つかるのだろうか?」と、突然病室の電話が鳴り、私は不安から目が覚めた。電話は趙社長からの吉報だった。謝主任がチベット仏教のリンポチェを知っており、その方は医学的に理解不能な症状に対してとても精通しているとの事だった。その上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお助けをお願いしてみてはどうかと聞かれたので、私は住所だけ教えてもらったが、電話番号は無かった。謝主任は、「予約の必要はないでしょう。御縁があれば、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会うことができるでしょうから。」と言っていた。

前夜の風雨が強すぎたので、台湾全土は台風一過といったところか、翌日の朝は異常なほど静かだった。病院の診察も休みで、午前中は当直医一人が回診をしていた。私の病状は依然として入院一日目の時と同じ状況にあり、何の進展もなかった。午後2時くらいに病院に外出願いを出し、親切にも送迎をしてくれた趙社長の車で寶吉祥宝石店に向かった。しかし門扉は閉じていて、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いすることはできなかった。自分の業が深すぎるからだろうと思い、涙がこぼれてきた。門の外で暫らく待ったが、今日は尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いできないことがはっきりしたので、夫に背負われて病院に帰り、翌日また来ることにした。長く苦しい夜がまたやって来た。今後、日常の些細な事まで他人の介護が必要になるかもしれない状況では、贅沢など言っていられない。自由に動けるようになりたい、ただそれだけを思った。

翌日の午前中、大勢の医師が病室に来ていつもと同じように脛と関節を叩いて反応を調べた。すると期待が持てそうな事が起こった。その日は神経に反応があり脚に痛みが感じられた。医師は力を入れて脚を持ち上げるよう促したが、高く持ち上げることはできなかった。各科の医師は話し合ってから、筋電図の検査を本日中にもう一度行い、結果を見て治療方針を定めることにすると私に告げ、ゆっくり休むよう私に言った。午後に筋電図検査が終わるのを待って病院にもう一度届けを出して外出した。出発の前、両脚で立てるかどうかもう一回試したいと夫に言った。私が地面に倒れてまた失望してしまうことを心配したのだろう、夫は、ここ数日何回も試してみて駄目だったのだから焦っては駄目だ、と言い聞かせたが、結局私の熱意に負けて許してくれた。すると、立てる!自分の足で立てたのだ!まだ歩くことは無理だったが、それでもその興奮は近日来の陰鬱な気持ちを吹き飛ばしてくれた。夫は、私を背負って再び寶吉祥宝石店に向かった。

店に足を踏み入れるや否や、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお姿が見えた。宝石店で働いている艾芬兄弟子が用件を尋ねて来た。私は来意と謝主任の紹介で来たことを告げた。兄弟子に連れられて上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御前に来ると、上師は暫らく瞑想されてから仰せになった。本年の初めに葬式に参加するために訪れ、以前私が願を掛けに行ったことがある廟に対するお礼参りが済んでいないとのことだった。本人でなくとも家族の誰かでよいのでお参りに行く必要があるそうだ。上師がその廟についてお話されるのを聞き、私と夫はそれが台湾中部にある故郷の町の近くの王爺廟であることがはっきりとわかった。祖父が存命の頃、早く子宝に恵まれるよう、よくあの廟にお参りしていた。実家に帰るたびいつも、お参りに行くよう言われたものだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に満ちた様子で、祖先を祭ることに関してもっと気を配るように、そして実家に一度帰ってきちんと先祖に敬意を払うようにと仰せになった。また、長期間『施身法』の法会に参加し祖先を苦界から救うこと、精進料理を食べることも指示された。

夫と私は、事務係りに行って『施身法』法会の参加登録をした。驚いたことに、先程は背負われてリンチェンドルジェ・リンポチェの下にやって来た私は、何歩も歩いているではないか!事務係りで登録用紙の記入を済ませるまで、夫は私が介護を必要としていることを忘れていたくらいだ。何事も無かったかのように歩けたことで、私の心は驚きに満ちていた。

その後、子供が待つ母の家に戻った。歩くこともできず力を入れてやっと動かすことができる程度だった脚が、リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いした後はその場から歩いて出てくることができた、と母に告げた。母は、私が誇張していると思ったらしくあまり信じていなかった。しかし紛れも無い真実なのだ。この数日間、母が心配すると思い、ただ病気で入院するので子供の面倒を見てくれるよう言っただけで、歩けなくなった事は伝えてなかった。だから母は、リンチェンドルジェ・リンポチェが示された神懸り的な力を実感することができなかったのだろう。確かに、今回の一連のことは本当に不思議なことだった。自ら身をもって体験しなかったら、私も信じられなかっただろう。

再び戻った病院で迎えたその夜は気持ちの良いものだった。明日になればまた外出して法会に参加できると思うと興奮した。ましてやもう自分で歩くことができるのだ、本当に、上師リンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳に感謝した。私は喜び勇んで趙社長に電話し、翌日には退院できることを告げ、上師リンチェンドルジェ・リンポチェがお示し下さった奇跡について伝えた。次の日、退院に際して当然の如く検査また検査の繰り返しがあり、各科の診察を受けなくてはならなかった。結局医師は、突発性の半身麻痺だったと診断を下し退院を許可した。しかし、事後観察は必要とのことだった。

私は念願かない法会に参加することができた。法会は円満に終わって尊き金剛上師、リンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼した。慈悲深きリンチェンドルジェ・リンポチェは、私を師の法座の前にお招きになりもう一度加持を施して下さった。私は、法会に参加した衆生を代表して、仏の道に接する機会を与えられたことを感謝し、また、お疲れをものともせずに毎週法会を主宰し普く衆生を教え導いて下さる、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げます。私は、強固な決意とともに、リンチェンドルジェ・リンポチェと御仏への信心を深め仏の教えを学んでいく所存であります。

寶吉祥仏法センター 弟子 陳玉貞

2009 年 02 月 16 日 更新