016:至高の宝を得るが如し

2001年6月、結婚して6年余りになり、子供を欲しいと思ってもなかなか授からず、台北市のあちらこちらの各大病院で診てもらっていましたが、その間の三度の妊娠も良い結果は得られませんでした。最初の子宮外妊娠では、入院し注射で胚胎を排出させました。続く二回の妊娠とも胚胎に心拍がなく、人工流産させました。この3回の妊娠で、妻は何度も手術台に上ることとなり、私達は心身共に疲れきっていました。当時、妊娠する毎に問題が起きると、医者は、自然淘汰だからあまり気に掛けないようにと言いましたが、次から次へと妊娠しても結果がなく、非常に辛い思いをしていました。友人の意見を聞いては大病院の名医に変えて診察してもらいましたが、最後に、現像剤の注入及び腹腔鏡の検査により、卵管には酷いつまりがあることがわかりました。台湾大学の医師は、人工授精してこそ再度妊娠が可能であるが、妊娠後の胎児が正常に成長できるかどうかはわからないと、はっきり私達に告げました。このような人工受精の過程においては、心身は長時間の苦痛を強いられ大量の金銭を投入しなければならず、妻にこのような苦しみを与えることに耐えられませんでした。為す術がない時、我はクラスメートが私に話していたリンチェンドルジェ・リンポチェの出来事を思い出しました。リンチェンドルジェ・リンポチェ丁度、ディクン・カギュー派の為に国父紀念館で、初回の金剛舞の公演を主催し、私と妻は、クラスメートの送ってきた二枚の入場券でその公演を観賞していました。舞台上の瀟洒な風采のリンチェンドルジェ・リンポチェが、皆に今回公演に参加し演じて下さった高僧及び演出目的を詳しく紹介しているのを拝見し、私は勇気を奮い起こしリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し助けを求めようと思いました。

私達はひたすらリンチェンドルジェ・リンポチェの助力を願いましたが、胸中、リンチェンドルジェ・リンポチェは一体私達に何を話してくれるのだろう、私達を助けることができるのだろうかという不安、疑い、迷いがありました。リンチェンドルジェ・リンポチェはまず、和やかに親しみを込めて、どんな問題があるのかをお聞きになりました。私達が簡単に、子供が欲しいことを言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは、私達の為に多種の検査を行ってくれた医者のように、すぐに正確に、妻の卵管のつまりの問題を指摘しました。私はリンチェンドルジェ・リンポチェに、このような状況の下では、漢方医に診て貰った方がよいのか、それとも西洋医に診て貰った方がいいのかを聞きました。思いも寄らぬことにリンチェンドルジェ・リンポチェは、「どちらも必要ない」と答えられました。「それなら、私達はどうしたらいいのでしょうか」と追って質問すると、私が覚えている限りでは、リンポチェは「布施と供養」だと答えられ、並びに、私達に「人生にとって、子供を持つことが満足感をもたらすとは限らない。また、子供がいないことが欠乏感をもたらすとは限らない」と教示されました。当時、一心に子を求めていただけで、この教示は耳に入りましたが、真面目に思考しようとは考えませんでした。この時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた、殺生を続けてならないと説き、週一回の法会に参加してもよいと仰いました。通常、肉類を食べる量があまり多くなかったので、二人の食事は自然と菜食になり、リンチェンドルジェ・リンポチェの法会に毎週参加するようになりました。その頃、丁度、リンチェンドルジェ・リンポチェが宗派の為に主催した金剛舞の公演が中正紀念堂でありましたので、私達は入場券を購入し、友人達を招待しました。

過去において私は法会に参加したことはありませんでした。法会の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法の理論と私達の日常生活を結合し、説法の内容は、全て心に染み入るもので、私達が如何に衆生を傷付けてきたのかをはっきり説くものでした。法会での結跏趺坐は足が非常に痛いのですが、毎回法会が終わった時、収穫利益も大きく、私を深く感動させました。そこで、2001年7月15日、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。万難を排して法会に参加する度に、更に深くリンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の真理を体得でき、法会の参加期間には、それぞれの法友達のリンチェンドルジェ・リンポチェに助けられた物語を聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェに対する信心を更に堅固にしました。同時に、人生が無常であることを体験し、仏教を学ぶ機会が貴重であることを認識し、その場で過去に為した不当な言葉と行動を懺悔し始めました。

数ヶ月後、医療の助けを全く受けずに、私達は家で妊娠を確認した処、妻は自然に妊娠していました。夫妻二人は歓喜に満たされましたが、一方で胚胎が順調に成長するかどうか、胚胎に心拍数があるかどうかを心配していました。妻は当時、リンチェンドルジェ・リンポチェへの信心が不足しており、慌てて友人の紹介を信じ、今まで行った事もない産婦人科で診断してもらいました。その医師は、妻に薬を出していましたが、私は非常に不安で、その薬が胚胎に影響を及ぼさないかを心配していました。二日目、私は、妻を連れて台北長庚医院の著名な女医を尋ね、これらの薬を服用してよいことを確認しました。そして、恐怖と不安が依然と続く中、急いでリンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を求めました。リンチェンドルジェ・リンポチェは親切に医者の名前を聞き、この先生が私達に助力してくれることを確認し、同時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは妻を加持し、毎日『地蔵経』を読誦すること、私達夫婦が一緒に継続的に法会に参加するよう教示されました。最後に因縁が結実し、血液検査により、以前の流産の原因が突き止められました。妻は抗体が過強(血液 ANA 指数高過ぎ)で、胚胎に血液を順調に輸送することができないことから、胚胎に心拍がなかったのでした。今回、胎児は終に心拍を得ました、四回目の妊娠で、病院が配布している「母子手帳」を、終に手にすることができたのです。妻は母となり、もともと半信半疑であった妻の心に堅固な信心が生まれました。妻は、2001年10月15日、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しました。体質の関係で、妻は、妊娠高血圧症候群に罹りました。胎児には心拍がありましたが、成長には危険性を含んでいました。リンチェンドルジェ・リンポチェの福徳、庇護、加持の御蔭で、妻は、私の話を聞いて、お腹の子供を抱えて私と一緒に週一回の法会に参加しました。胎児は妻のお腹の中で特に聞き分けがよく、胎動も多くなく、妊娠期間を無事に過ごさせてくれました。妊娠末期には胎位不正で、帝王切開前に再度、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を授かり、順調に一子を出産しました。出産時には、妻は特別な痛みを感じませんでした。胎児は2700g前後で、小さ目のベビーでしたが、おっぱいを飲む力が特別強く、出産後の数時間であってもスムーズに母乳を与えられました。これら一切はリンチェンドルジェ・リンポチェの御蔭です。心から感謝致します。

私達の息子は出生六日目にリンチェンドルジェ・リンポチェの御加持を得、同時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、息子の命名と、今後息子を伴って法会に参加したいという私達の望みを受け入れて下さいました。息子は活発で腕白で可愛く、生まれてからここ数年間、この得難い小さな生命を迎える為に、数倍の加護を与えていましたが、仕事と家庭の両立は実に難しいことで、この間、息子は三度、風邪により肺炎を起こして入院しました。幸いリンチェンドルジェ・リンポチェの甘露水及び甘露丸の御蔭で、息子は数日の入院だけで退院ができました。また、息子もまた2004年8月22日にリンポチェに皈依しました。二歲半の時、ベビーシッターは、息子がいつもテレビをくっつくように見ていたのを発見し、方一強医師に見てもらったところ、乱視度数が-0.4と診断されました。入学前の子供にとり、これは珍しく非常に重大な問題で、今後眼鏡を掛けてもはっきり見えない可能性もある、即ち、俗称「弱視」でした。私達はリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求め、リンチェンドルジェ・リンポチェが息子に再度加持を授けて下さった御蔭で、眼鏡による矯正の効果は、異常なほど良好でした。最初、眼鏡を掛けてもはっきり見えませんでしたが、四歲過ぎには、眼鏡をかけて物がはっきり見えるようになりました。家には子供が一人しかいませんので、いろいろな事を知り得る年齢になると、毎日、私達に遊んでくれとせがむので、私達も仕方なく、やっていることを横に置いて遊んであげています。思い出せば、子供がいない時はずっと子供を欲しいと願いましたが、子供ができると、いつでも子供のことを考えて、面倒を見て、心配しなければなりません。この時初めて、リンチェンドルジェ・リンポチェが以前私達に説かれた「人生にとって、子供を持つことが満足感をもたらすとは限らない。また、子供がいないことが欠乏感をもたらすとは限らない」という御言葉を実感しました。元来、人生というものは苦が多く幸せが少ないものです。しかし、私達は、幸せを追求することに執着し、幸せの開始が即ち、苦痛の開始でもあり、追求を続けるのと同時に、衆生を傷付け続けてしまうのです。

リンチェンドルジェ・リンポチェの長年の深い御教えの御蔭で、私達は自己反省し、正しくない行為を改め、悪を為す機会を減らし、仏法の偉大性を悟りました。更に私は、自分の現在の全てを率直に受け入れ向き合うことができるようになりました。また、リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学び、修行を続けることにより、永遠に輪迴を離れ、この一生を無駄に終わらせないことを願っています。

趙仁強、顏芳靖

2009 年 04 月 26 日 更新