015:生命の中の導師
子供の頃から自分に対して厳しかったので、学生時代はいい成績を取るため、よく頑張って、すべてのことが完璧たるを望んだ。自分の資質が特に良くはなくても、努力をすれば必ず何でも出来ると信じていた。毎年誕生日には「試験は順調に行き、体は健康で…」等と祈った。最後に何か祈り漏れがあるのを恐れ、「心に思ったことは実現し、すべてのことが思い通りになる」と補った。このように始終自己にストレスを与えているので、大学三年生の時甲状腺機能亢進症になった。これは甲状腺ホルモンの分泌量が過剰になる代謝内分泌疾患である。いわゆる通称「腫れ首」である。常に眼球突出、手の震え、動悸、体重減少などの症状がある。
病気だったあの頃、しょっちゅうお腹が空き、いつも食べていて、また排便していた。体重は45キロから40キロまでに減った。体内の臓器は急速に動き、体はマジンガーZのように興奮して、心拍数は平均一分間130回にもなった。(普通は60~90回である。)心臓は動悸し、息は喘ぎ、いつも息を大きく吸い込み、また大きく吐き出していた。夜中に心臓の鼓動が激しく、其の音は太鼓の如く静かな闇の中に鳴り響くように思え、私は口から飛び出しそうな心臓を抑え込もうとしたが、どうにもならなかった。「明日の太陽が見れるだろうか」と自問自答したこともあった。この様に、二十代の若さであちこちの病院へ行き、名医を尋ね、検査をしたりしていた。医師は私の病因を探し出せなく、「遺伝だろう!」と言っただけであった。友達に「長い間台北で勉強していて、日ごろ何処に行っている?」と訊かれると、私は苦笑して「よく病院へ行く」と返事した。病院の待合室に居ると、見えるのはほとんどがお爺さんやお婆さんなどが患者だった。「此処は私のような若者が来る場所ではないだろう」心の底から悲しくなった。この様に漢方薬と西洋の薬を六七年も飲んでいたが、病状は一進一退だった。
2000年8月、手に傷を受けた母を助けるため、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。長い間法会に参加して、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えにより、今までの色々な望みは、実は目、耳、鼻、舌、身、意などの感覚器官に支配された欲望、貪欲である事が、始めて分かった。目は綺麗なものを見たがるが、結局は黒と白の判別さえできない。耳は他人の褒め言葉を聞きたがるが、結局は事実を蔽われている。舌は美食を味わいたがるが、結局は無数の命を犠牲にする。体は健康と気楽をむさぼるが、他の衆生を傷つけている。物事が思うがままに行かないので、私はよく失望と憂慮に沈んでいた。思えば、1日24時間中、全て「貪、瞋、痴、慢、疑」に影響され、徐々に私の心と体がむしばまれ、やせ衰えて骨と皮ばかりになった。この病気になった「果」はすべて以前自分が作った「因」であったのだ。
小さい頃から体がよくなかった。重い病気にこそ罹らなかったが、軽い病気はしょっちゅうだった。海辺に住んでいて、家に魚の養殖場もあったので、いつも様々な海鮮が食べられた。食欲を満足するため多く命を犠牲にして殺業を多く犯した。それで私は長期的に法会に参加して、リンチェンドルジェ・リンポチェが私に傷害された衆生を助けて済度することを祈っていた。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを日常生活に活かして、自分の行為を修正し、自分の心をコントロールすることを勉強した。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を変えることは世の中に一番難しい仕事で、間違いを直せば世の中で一番福報を得た人に成ると開示したことがあった。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも私たちを一喝し、何回も繰り返して諭された。それは食事の行儀から、立ち振る舞う姿勢や仕事の態度、回りの友達と家族に付き合う心構えなどに及び、その上生死輪廻から解脱して、衆生を利益する等等、巨細に渡り因果の論理を詳しく教えて、必ず仏法を日常生活に活かし身、口、意は四六時中仏法で考え行うのが真の仏法を学ぶことだと教えた。リンポチェのお助けに感恩。今まで既に六七年経っているが、亢進の薬を飲む必要がなく手術も受けなくて、眼球突出や腫れ首などの症状もなくなった。これはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェの大福報に加持されたからであった。
リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した頃は、丁度卒業して小学校の教師になった頃だった。教師の仕事は道を伝へ、業を授け、迷いを解く責任を負うので、学生、親、社会群衆は私達教師に対して厳しく人格の完全さを要求した。しかし私の役割が学ぶ者から教える者に変わって、心の中には多くの衝撃があった。学生は、間違う事は普通である。まだ学んでいるのだから。だが、教師は間違いが許されない。このように立場が違うので、私は常に緊張していた。自分が間違ったことを話していないか、間違った決定をして、学生に一生癒えない傷跡をつけていないか。幸いリリンチェンドルジェ・リンポチェの助けは、私の心に悩みがあると、そのわだかまりを解いて、順調に挫折を乗り越えさせて下さった。学生の成績が悪く、怠ける時は、「医師と教師は極めて愛情が必要な仕事である」との開示を思い出し、学生が秩序を守らず、再三勧告しても聞かない時は、「すべての事は因があれば、必ず果がある」との開示を思い出し、学生の行儀が悪く、怒りたくなる時は、「すべての子供を自分の子供として扱うべし」との開示を思い出した。リンポチェの開示は一言一句が宝物である。私の間違いを一言で指摘して、常に正確な人生の態度と処世の方法を教えて下さった。
何年か前、私の学生が事故で同窓を傷つけた事があった。被害者の親は裁判に訴え出る心算だったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲が両家のいざこざを解き、被害者の傷を治癒させ、加害者の自責の念を軽減させた。彼らの親達や、当の学生及び教師の心配事は取り除かれ、私はそれで教師を続ける勇気が出た。
学生の身分を離れて学校を出た後、私の側には常に間違いを是正してくれる先生が一人でもいなかった。更に正直に私の間違いを指摘する人も少なかった。私の両親でさえ、私は既に大人になって、物の道理をわきまえていると思っていたので、私のことをめったに聞かなかった。偶に彼らが私に説教する場合、私はうるさいと感じた。このような独断的な暮らしは、私をずっと苦しめていた。永遠に問題が何処にあるのか知らなかった。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を学び始めてから、私はこの世に永遠の導師を得た。リンチェンドルジェ・リンポチェは、私達は彼の法界の親族で、彼の子供のようである。子供が誤りを犯せば、親は必ず誤りを指摘して教える。親は目の前に子供が崖から落ちかかるのを見て、止めない訳が無い。例え打っても、叱っても、引っ張っても子供を危険と苦痛から離れさせる、とおっしゃった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが私たちに対しての教えであった。彼は生命で私達を導き、私達が輪廻の苦しみから離れて永遠の楽しみを得られることを望んだ。
2003年、寶吉祥仏法センター雲林県斗六道場が設立された。リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わなく、時間を割いて斗六で法会を開催し、台湾中南部の衆生を助け始めた。この因縁があったこそ、私の八十四歳の祖母と母は嘉義から斗六へ赴き、法会に参加することが出来た。私が記憶する限りでは、祖母は気管支喘息の病があり、常に咳をしてよく病院へ出入りしていた。喘息は発作すれば死に至ることもあるので、毎年ひどい発作を起こした場合、少なくとも二三回は何週間も入院せざるを得ない事もあった。今でも覚えているが、中学生の頃は、家の中に大きな酸素ボンベを置いてあり、また吸入ステロイド剤も常時用意して、急に備えていた。しかし思いもよらず、斗六の法会に参加してから、喘息発作回数が減り、祖母もリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。体は目に見えて良くなり、入院回数も減った。これは信じられない事だった。更に一度、私は早朝祖母を連れてバスで台北へ行き、午後の法会に参加した後、当日の夜すぐ嘉義へ帰った。一日掛の移動で、祖母が耐え切れるかと心配したが、数十年台北へ行っていない祖母は、嬉々として喜び、法会と往復のバスで、祖母は疲れも見せず、居眠りだにしなかった。帰宅した後も元気で、心配していた家族もそれを見て大喜びだった。すべてリンチェンドルジェ・リンポチェの加持の賜物である。感謝。
2005年祖母は急に体調を崩した。元々元気な体は虚弱になり、痩せ細った。無気力に病床に横たわった祖母は、体に触られると、耐え切れなく痛いほどの重態だった。食欲がなく、寝返りが出来なく、排便もスムーズに出来なかった。医師がいくら検査をしても、原因が分からなかった。何週か入院すると、皆が心配し始めた。しかし、五月に私が青海の「八大ヘルカ」灌頂法会に参加した折、リンチェンドルジェ・リンポチェから賜った甘露丸と甘露水を、急いで家に送り、祖母に与えたところ、祖母は二日以内に排便でき、体の痛みも急に止まった。数日後、医師は祖母が退院して家で休養するのを許可した。
祖母は今回の病気で足に力が入らなくなり、自分で歩けなくなったので、車椅子を使うようになった。あまり長くは座れなく、病状は一進一退だった。ある時期は話しをする気力もなく、気音しか聞こえなかった。うつろな目は前を見つめ、ドロンとしていて、水を飲む力も無いようになった。薬を飲むと口から水をたらし、あごは下に落ち、頬もくぼんだ。母は私に「祖母が亡くなる心構えをしたほうがいい」と言った。私は悲しみながら母にリンチェンドルジェ・リンポチェが教えた病者の往生前後注意すべき事項を説明した。祖母が亡くなる時の苦しみを少しでも軽くしてあげたかった。例え祖母は亡くなるとしても、せめてもう一度リンチェンドルジェ・リンポチェに会わせようと、台北で施身法法会に参加させる事を、私は固く決心した。その時祖母の状況は、台北まで三時間の道程を、車で行くには無理だった。更に家族も許さず、危険を冒してまで、車を運転してくれる者も居なかった。皆は私は気が狂ったと思った。祖母はこんな状況なのに、また苦労して三時間もかけて車で行かせるのかと皆は言った。でも私は本当に祖母を助けられる方はリンチェンドルジェ・リンポチェを置いてほかには無い事を知っていた。私は毎日上師とアチ護法に祈り、家族が妨げないこと、車を運転する人がいること、台北へ行く道程を祖母が耐えて順調に法会に参加できることを願った。上師とアチ護法の助けに感恩。様々な障害を乗り越えて、父はようやく弟に車を運転させ、祖母と母を連れて台北の法会に参加することに同意した。
台北に到着し、私が不安気に車のドアを開けた時、私は信じられない光景を目の当たりにした。祖母がまた生き返ったような様子を見たのだ。彼女の話す気力が蘇えった。元々この世でもう二度と私の名前を呼ぶ声が聞かれないと思ったのだが、今祖母はパンを一つ食べ、自力でストローを使って飲み物を一本飲んだ。目に力が浮かび、私を見つめた。頬もふっくらとして自分で何歩か歩いた。私は自分の目を疑った。一体如何いう事なのだろう?私がよく知っている以前の祖母が目の前に戻ってきたのだ。法会の間、祖母は二時間くらい車椅子に乗っていたが、私は彼女が大変辛いと知っていた。だがそれを見出す者は誰も居なかった。もともと彼女は死に掛けた人だったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩に感恩。
あの時の病気以来、祖母の体調は前より悪くなっていたが、その後一応落ち着いた状態を保っていた。今の祖母は、よく自分では気が付かないうちに大量出血して、夜用のナプキンを真っ赤にしていた。しかも続けて一二ヶ月出血が止まらなかった。しかし、祖母は痛みを感じなく、大量出血のせいで脳が酸素不足で昏睡に至る事は無かった。医師は癌を疑ったので、病理検査を行なって確認したかった。家族は祖母はもう八十八歳なので、彼女に手術の苦痛を与えたくないと思った。それで祖母は手術と検査の痛みを免れた。すべてはリンチェンドルジェ・リンポチェの加持が、愛する祖母を助けていたのだと私は知っていた。
私の仕事を含め、私の健康や私の家族など、全ての事でいつもリンチェンドルジェ・リンポチェのお世話になっている。リンチェンドルジェ・リンポチェが居られるので、私はこれからも恐くはない。リンチェンドルジェ・リンポチェが居られるので、私には頼りになる方がある。リンチェンドルジェ・リンポチェが居られるので、私は生きていく力を持っている。
2007年王孝玲が恭しくしたためた
2009 年 05 月 23 日 更新