014:上師を信じて

長い間、私と家族は特定の宗教信仰と認知を持っていなかった。家族は年また一年と平凡な生活を過ごして来た。でも平静な日々は父の肝臓の病気とその後の交通事故で、大きな変化が起こった。

1999年、八十五歳高齢の父は吐血、血便、腹水腫などの症状が出てきた。食道の静脈の拡張と肝硬変を診断された。それで何度も病院へ出入りした。退院後のある日、道路を渡った時、カーブをきってきたトラックにぶつかった。開放性骨折になったので、国軍松山病院に送り、また手術を受けた。一連の病気と事故は若者でも 耐え得ないもので、ましては高齢の父にとって生理と心理の二重の苦痛だった。

家族も同じく心身ともひどく悩んだ。この間、私と家族の生活中心は病院へ移るよりほかは無かった。突然の意外は全家族の今まで規律のある安楽な生活を急激に変えた。家族の平和な雰囲気も、良く起こる小競り合いで変化した。父の病状が日に日に悪化するにつれ、家族の心配と不安は更につのり、間もなく発生することにどう向き合っていいのか全然分からなかった。ただ日々をむげに過ごし、もうすぐ父が直面することをはっきり向き合って話し合いたくなかった。

当時父の主治医謝先生は私たちの迷いと心配を見て、私にドラブ・ワン・リンポチェが主法する殊勝法会に参加してはと言った。それで私は初めてチベット仏教に接触したのだ。私と家族もこの因縁でこの法会を主催したリンチェンドルジェ・リンポチェと知り合った。それで毎週の金曜日の夜、リンチェンドルジェ・リンポチェが主法する「施身法」法会を参加した。当時特に父の病気についてリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めなかったが、毎週法会でリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法を聞き、家族の不安の心も段々落ち着いた。それでも、家族もまだ完全にはっきりこの事故に向き合わなかった。長い間平凡で安楽であった家庭で、私たちは全く信頼と従う心の方向を持っていなかった。またこんな事が家で発生する可能性は思ってもいなかった。特に事故が突然襲って来た時はそうだった。私もまず信じてみようとの態度で、できるだけリンポチェが道場で行なう法会に参加した。

慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは常に信衆の要請により、病院へ出入りして患者を加持した。あの時期、リンポチェは毎回松山病院で患者を加持した折、父を見舞った。更に私たちがいない時にも、何回も自ら見舞って加持をした。このことをリンポチェは言わなかった。事後看護婦が言わなければ、私たちは知る由もなかった。その後父は病状が悪くなり繰り返しICUへ出入りし、私と家族は始めて父が間もなく亡くなる事実を受ける心の準備が出来てきた。それで私と家族は宝吉祥宝石店でリンポチェを拝謁し指示を乞うた。リンチェンドルジェ・リンポチェは父がほぼ亡くなる時間を予言した。父は何回か重篤な症状でICUへ移動した時、リンチェンドルジェ・リンポチェも都合をつけて父を加持しにいらっしゃった。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回金剛杵を父の頭の上に置いて、呪文を唱えて加持した。父と話をした時にも再三「手助けします」と強調した。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持は父に生理的な苦痛を軽減させ、心理的にもにも安らかにさせた。毎回加持した後、父は嬉しそうだった。当時私と家族はまだ皈依していなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な助けを頂いたのは、千金にも換えがたい福であった。全家族は今までも心から感謝している。

1999年末父は亡くなった。享年86歳であった。亡くなった夜父は幸いリンチェンドルジェ・リンポチェが苦労して修めた殊勝なポワ法を頂いて浄土へ往生した。元々私たちはポワ法をよく知らなかったが、唯非常に殊勝で得がたい法だと知っていた。死者が亡くなった最初の何時間内に、もし縁が有って修行者にポワ法を修めてもらうと、阿弥陀仏の浄土に往生することが出来という。父の病状が危篤の時、リンポチェはちょうど中国へ行っていた。私たちは父が因縁がなく、済度してもらえないことを心配した。だがすべては周到に按配されていた。リンポチェが帰国後に父が松山病院のICUで往生したのだ。兄弟子の申し上げにより、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ法を修めた。家族は指示の通りに父の側で、「六文字大明呪」と観世音菩薩の御名を唱えた。約一時間後私たちはリンチェンドルジェ・リンポチェが法を修め終えた知らせを受けた。私たちは父の遺体を見て、本当に不思議だった。すでに冷たくなった父の体は修法の後、頭頂部の梵穴が暖かく凹み、体は柔らかくて安らかな面持ちだった。すべては経典に記載された法を円満に修めた瑞相と同じであった。つまり父は本当に阿弥陀仏の浄土に往生したのだ。その後リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く開示した。家族は開示に従って葬儀を手配して、父を円満に人生最後の道へ見送った。

元々混乱していた家族はリンチェンドルジェ・リンポチェに会ってから仏法の教えを受け始めた。すべてのことは穏やかで落ち着いてきた。私たちは家の大黒柱が亡くなったことを悲しんだけれど、もう迷わなかった。突然の事故は最後に順調になった。もしリンポチェと諸仏菩薩の導きが無ければ、私と家族はどうやってこの一番苦しく悲しい時期を過ごせたか分からなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェを知る前、私も「因果」を信じていた。常に「現世での報」を自分の座右銘として謹慎していた。皈依後長期リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いて、「因果」をもっと深く信じるようになった。それでリンチェンドルジェ・リンポチェに対して十分な信頼を築き上げた。その「信頼」は私とリンチェンドルジェ・リンポチェの縁を今まで保って来させた。更に何回も私が危難に出会った時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの福報のお陰で安全に過ごす事が出来た。

ある年、私はヘリコプターで屏東恆春保力山射撃練習場へ赴く任務に就いた。地形に詳しくないので、着陸した瞬間、リコプターは突然左側に傾き倒れた。私と右側の教練指導官は脱出に間に合わなく、操縦室で逆に吊られ、機体は瞬間ひねり曲がって変形した。メインローターはエンジンからの動力でまだ急激に回転していた。私たちは全く逃げる機会がなく、唯操縦室で待つしかいなかった。あの一分間はまるで一世紀のように長かった。幸いヘリコプターは爆発しなかった。エンジン停止後私たちは奇跡的にシートベルトをはずして操縦室から出た。私たちは幸運で無事だった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩のお守りがあったからだ。

同じ年の年末、私は再度ヘリコプターで屏東高屏溪萬大橋近くのある予行演習に参加した。当時着陸場箇所近くの地形が狭いので、私は第一回目の着陸を諦めて再度飛び上がり、旋回して横風側に入ったが、瞬間に風向が変わり、メインローターの回転力が突然落ちた。機体は十分な上昇力と速度を保てなく、上昇できなかった。最後に私は河に不時着しなければいけなかった。操縦室で回転翼と機体が水面にぶつかって波が砕けるのを目の前で見るしかなかった。機体の周りには濃い煙と石油が溢れていた。機体が川底に沈む一瞬前、私はシートベルトをはずして順調に操縦室から出る事に成功して、操縦室のドアを開け、また右側の副操縦士が脱出するのを助け、彼を水面に引き上げた。二人は無事だった。再度リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩に感謝した。

幸運が毎回あるわけではない。人間は運に任せて日々を過ごせるわけではない。何回も危難に逢ったのに無事にだったのは決して好運と偶然ではなく、私たちはいつでもリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩がお守りになっているからであった。これ等の体験は、私の信心を尚更深くした。上師リンチェンドルジェ・リンポチェを十分に信頼すれば安全の保障があった。すべてのことは最高の手配をされる。

父の往生の苦痛と二度の危険な意外から脱出したことを経歴し、リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の前で、私たち一家は確かに「差し上げた」物より「授かった」物の方が多い。私たちは昔の傲慢と無知の自分を恥ずかしく思った。自分が仏法を学ぶ信念の戸惑いと怠惰も反省した。この一生で家族と一緒に真の懺悔をし、固い決意で、永遠に私たち法界の父―リンチェンドルジェ・リンポチェに従おう。

弟子 盧濟明

2009 年 02 月 23 日 更新