013:懺悔の心

主人と一緒に上師リンチェンドルジェ・リンポチェを拝謁したのは、結婚後ずっと子供ができなかったからであった。その後思いのほか短い三四年内に、私の念願がかなって、息子一人と娘一人を得た。こんなに早く願いが実現したには、他の兄弟子も皆驚いた。私は自分がもう皈依した仏弟子だったので、仏菩薩と上師は当然私の世話をしてくれるものと思っていた。実は定刻に法会に参加した以外、私は布施、持戒、供養をせず、法の教えにも従わなかった。帰宅後上師が開示した録音テープも聞かず、上師が言った通りの勉強もしなかった。道場の事務は主人に任せ、私はずっと裏に隠れ、其のほうが安全で叱られないと思った。愚かな私は、これは上師が自分の福報で弟子を守り、私たちの願いを実現させて、目の前の悩みを解消し、それで喜んで仏法の殊勝を受け、心を決めて上師に従い、仏法を学ぶ事が出来るように仕向けたとは知らなかった。段々私は生活が緊張し過ぎて、休みもないと愚痴を言い出した。また主人と供養の金額について喧嘩もした。「貪、瞋、痴、慢、疑」と「怠け」が完全に表われた。実は私は「怠け」と言われるのも失格だ。私は唯法会を参加し目の前の安楽を祈った信徒だけだった。

このまま数年を過ごした。主人との夫婦関係のぎこちなさが極まった時、上師は突然主人に資料全部を返させ、道場の事務も止めさせた。更に「彼の妻も同じだ」とおっしゃった。当時の私はまるで宿題をしなかった学生のように心細かった。勇気を出して何回も「宝吉祥宝石店」に上師に拝謁を求め、上師が許してくれるのを願ったけれど、上師は何回も断った。毎回待っている時涙を禁じえなかった。自分が断わられた事を悲しむわけではなかった。自分の目で上師が辛抱強くすべての拝謁者と面会して、同じ誤りを犯した兄弟子が何人も懺悔に来ても、上師は苦労を厭わず一人一人を叱って正す事を目撃した。私は上師が衆生に対しての大慈悲と心尽くしに感動して、恩知らずの自分を後悔した。長年にわたって、私はいつも悩みがあった時にだけ上師に会いに来た。上師と他の兄弟子に関心を持っていなかった。更に自分は道場に何のことが出来るかなどを考えたことも無かった。

その後思い返して、本当の大修行者の慈悲と知恵は一介の凡夫の考えでは及びも着かない事が分かった。上師は最初私たちと面会を断った。そして側に立って、本当に自分を反省する機会を私に与えたのだ。一方、私は家へ帰ってから以前上師の開示した録音テープを繰り返し聞いた。自分はもうとうの昔に世の中で一番大切な宝物を貰っていたことに気が付いた。目の前に現れたすべての障害と悩みを、上師は既に予見して、前もって対応の法門を教えて下さったのだ。教師としての私は、師の恩に報いる大切な事は師の教えに従い、実行することを知っているはずだ。

私のようなエゴ、愚痴、頑固な弟子は、上師に恩返しをしないばかりか、上師の妨げと成っていた。決定的な瞬間まで上師の大知恵と大慈悲に頼り、知らず知らずの内に懸崖の縁を歩いていた私を救われて、仏法を勉強する命を続けさせられた。ようやく上師の前で懺悔する機会が有り、上師は唯静かに私の話を聞いて何にも叱らなかったし、私を追い出すことも無かった。私は本当の懺悔は徹底的に法の教えに従い、自己を変える事だと悟った。

現在の私は毎日が忙しいけれど、今までなかった充実感と安全感が有る。自分が本当に大慈大悲を備えている金剛上師に出会えたことを喜ぶのである。

弟子李翠瓊

2009 年 02 月 05 日 更新