007:リンチェンドルジェ・リンポチェ、我が父を助ける

私の父は2007年8月1日に体調を崩し、病院の急診室に入ったが、すべての検査の結果は正常だった。父は少し認知症ぎみだったが,病院を去ろうとした際、醫者がレントゲン写真で、肺に大きさが十元玉ほどの陰影を認めた。醫者の直覚で腫瘤と判断し、父に入院を勧め、精密検査をした。1週間ほど病院に滯在した後、私は父を家に連れて帰った。その当時、我が上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは長期に渡る閉関修行にあり、大体8月8日頃台湾に戻って来る見通しだった。上師 リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず衆生に利益するため、ご自身が消耗され、閉関期間中に危うく圓寂するところだったと聞くに及んで、心中非常に悲しく、上師 リンチェンドルジェ・リンポチェにすまなく思った。なぜなら私は教えの如く行わず、大小事ごと上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに頼りきって解決して貰っていたのだ。私一人でさえもこの有様なので、700余名の弟子は尚更 リンチェンドルジェ・リンポチェの重荷になるだろう。もし私がもう少し父の為に多くの事をすれば、上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの荷は少し軽くなり、ほかの助けを求める人を救う事が出来るだろうと思った。今は私は リンチェンドルジェ・リンポチェがきっと父親に最良の世話をすると信じ、心配する事なく、より多くの「大礼拝」を行い、「六文字大明呪」を唱えよう。しかし私は上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに供養することも大切だと思い、父親の意識が未だはっきりしている頃合を見計らって、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養する事を話したら、父親は自分のお金で供養すると言った。それで閉関終了後、リンチェンドルジェ・リンポチェが道場に帰って第一回目の法会で、私は父親に代わって リンチェンドルジェ・リンポチェに供養した。その機縁で父は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する因縁福報を得た。

その年8月の終わり頃、母親は喘息で松山病院に入院した。病状がひどかったので,集中治療室に移った。当時、私は本当に慌て慄いていた。父が肺がんで倒れ、母親がまた危篤になったのだ。それは蝋燭が両端から燃えているようだった。その時、本当にどうしようもなく リンチェンドルジェ・リンポチェに伺って助けを求めた。 私は上師の目の前に跪いて崩れそうになり、まず母親の情況を伺った。上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは母が最近蟹を食べたかと聞いた。私は義兄が二週間前、蟹を一匹持ってきて、母に煮て食べさせた事を思い出し、はいと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたの母は今回は死なないだろう。彼女は精進料理にしてますか?」私がいいえと答えると リンチェンドルジェ・リンポチェはそれなら「甘露丸」は与えないと言った。(ただ、先日私が寶吉祥宝石店に赴き、上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの画像に頂礼をした後、母の病状は好転していた。)続けて父が入院して検査した結果、肺がんだったと申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは私を一目睨んだ後、私の父のように「なぜ今始めて言い出した、まだ苦労をし足らないのか」上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは私の事情をよく知っておられた。私は1人子で両親の世話を一手に引き受けていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き「父親を連れて来なさい」言い、私は本当にうれしくて「はい」と答えた。

私は父と連れ立って宝石店へ上師 リンチェンドルジェ・リンポチェを供養しに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは父を加持し、父がなぜ肺がんに罹ったかを開示した。それは父が若い頃釣りが好きだったので、その報いとしての業だった。私は父のために済度法を願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「いいでしょう、但しあなたが如何するかによる」と聞き届けてくださった。私は嬉しかったが心配でもあった。何故なら リンチェンドルジェ・リンポチェは但し書きをつけたからだ。私は上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの開示をもっと注意する様にと自分自身に言い聞かせた。

父は上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けたので、療養中、何の治療もせず、痛み止めを1粒も飲まなかったにも拘らず、息があえぐ事さえも無く、とても面倒が見やすかった。上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの加持が得られなかったら、父はきっと苦しかったに違いない。

2007年11月、父の体は日に日に痩せていったが、精神面も飲食面も大体良かった。だが、12月に入ると父の容態は急速に悪化した。その間、父は痛みも喘もなく、横になって眠ることができた。ただ、食欲不振になったが、私は無理に食べさせなかった。そして常に上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの画像を父に見せ、如何なる事が有っても上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに従い、恐れないでと話した。聞こえたのか見えたのかは分からなかったが、父はいつも頷いて「はい」と言っていた。私もよく具合が悪かどうかを聞いたが、彼は常に大丈夫だと言って、病院へ行こうかと聞いても、いつも「医者に見て貰っても無駄だ。年を取るとこうなる。大丈夫だよ。」と言った。もし病を患ったのが私だったら、彼のように諦めがついただろうか?私は全て上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの絶えざる加持が、父の痛みを最低限に抑えたのだと思う。

2008年1月3 日の早朝父を訪ねた。父はただ「私はもうだめだ,私はもうだめだ」と言うばかりだった。私は早速上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの画像を父親に見せて「お父さん、上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの容姿を良く覚えて。リンチェンドルジェ・リンポチェは貴方を助けて下さるから。分かった?」と言った。父は相変わらず頷くだけだった。母は病院へ薬を取りに行くので、私は早めに病院へ行って薬を取り,仕事を片付け、この2・3日は休暇を取って、家で父の傍に居ろうと思った。だが11時頃、家から電話があって父はもうだめだと伝えて来た。その時、私は家に向かう途中だったが、私が家に着くと、ちょうど父が息を引き取った所だったので、私はまず「甘露丸」を父の口に含ませ、それから急いで宝吉祥宝石店に電話して上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに法を修めて頂くようお願いした。

私は父のそばで上師 リンチェンドルジェ・リンポチェを観想しながら「六文字大明呪」を唱えた。こうして1時間が経ち、2時間が経ったが冠云からの電話は掛かって来なかった。心の中では焦りながら上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に私を騙さないと信じた。上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは私の願いを聞いて下さったから、必ず父を助けて下さる!父が他界した折、その顔つきは安らかで微笑さえしている様だった。滑々としたお顔の皮膚は薄っすらと赤みさえ帯びていた。此れを見ると父を失って悲しかったが、私の心の中には喜びの念が湧き上がった。およそ八時間唱えた後、私は突然父の梵穴に触ってみようと思った。触れてみると、本当に嬉しかった。暖かかった!しかし額は冷たかった。もう一度触ってみて間違いのない事を確かめた。上師 リンチェンドルジェ・リンポチェがみつからなくて直接法を修めて貰えなかったが、上師 リンチェンドルジェ・リンポチェを信じれば、同じく加持を与えられるのだ。

父が遺体置き場に安置された後、叔父さんや叔母さんは遺体を見に来たが、父の顔つきは他界した時と変らず,叔母さんは「あなたの父の様子は本当に安らかだね」と何度も言った。家に来られた検屍の医者さえ本当に肺がんで亡くなったのかと目を見張っていた。いろいろ肺がん末期患者の症状を聞かれたが、父はそれらの症状が無かった。医者はそんな事が有り得るかと不思議がっていた。これらの全ては上師 リンチェンドルジェ・リンポチェのご加持のお陰だ。

父が無くなる直前、私はすぐ上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに供養したほうがいいか、或いは父が亡くなってからした方がいいかと考えていた。考えが未だ決まらぬうちに、父は他界してしまった。私の心の動揺が、父の福報を積む事を妨げ、臨終にすぐ上師 リンチェンドルジェ・リンポチェを見つけて父の為に法を修め、済度することを出来なくした。それでも、上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは約束を守って弟子の願いを聞き入れ、父を西方の極楽浄土へ行かせて下さった。

私は二人の父に大変感謝しています。一人は私を生んで養ってくれた父、彼には私に彼の人生の最後の段階まで付き添わさせて下さり、親孝行をさせて下さったことに感謝します。もう一人は、わたしに仏法を教えて下さったリンチェンドルジェ・リンポチェ、私が父に育てくれた恩に報いることが出切る様にして下さいました。本当に非常に感謝しています。

上師 リンチェンドルジェ・リンポチェはよく我らに「仏法が聞けることは難しく,上師に出会えることも難しい」と開示した。我らは何と幸せなことだろう。本当に実修実証された上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに出会い、聞けることが難しい仏法を教えて頂いた。我らはしっかり上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに従ってその教えを受け、法の教えに従って行いを改めるべきだ。そして上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに心配を掛けない事が我々最高の供養だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれで尚大勢の助けを求めている衆生を利益することが出来る。これぞ我々弟子が行なうべき事なのだ。

私の最も尊き上師 リンチェンドルジェ・リンポチェのご恩に感謝。

六組  徐淯萱

2009 年 01 月 21 日 更新