005:殊勝なる加持の証
2002年末、宝石店にて初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しました。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても親しみ易く、耳にしていた厳格さとは異なる印象を受けました。その後上師から『懺悔』のテープを頂きましたが、聴聞後、自分が諸々の悪業を犯していたにも関わらず知らなかったことを理解しました。続いて上師に、金曜日の『施身法法会』及び日曜日の『共修(合同修行)法会』への参加の御許しを得ました。しかし自分の懺悔心が十分でなかった為、数ヶ月の間、法会には参加しませんでした。2003年6月、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに法会への参加を願い出、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲によって私の願いに応えて下さいました。
7月下旬、法友の艾芬さんが7月27日に皈依を行うことを電話で知らせて来ました。その時は心を決めることができず、私は宋七力より凄い僧侶に皈依することができるのだろうかとずっと考えていました。二日考えて、皈依前のある日、退勤後に霊験あらたかな行天宮へ行き『筊杯』(台湾式占い。主に木製の二つ一組の道具を投げて表と裏の組み合わせで占う。)で関聖帝君にお伺いを立てました。最初に「『寶吉祥宝石店』が私に皈依を通知して来ているが、皈依してもいいのかどうか」を質問しました。連続3回聞いた結果は『笑杯』(両方表。質問の意味が不明であることを示す。)でした。そこで私は、「皈依するかどうかは私自身が決定することなのか」と聞きました。今度は『聖杯』(表と裏。肯定、許可を示す。)が出ました。次に、「私は皈依したら行天宮に参拝に来られないが、それでもいいのか」と質問すると、『笑杯』でした。この時突然、6月に行天宮で御神籤を引いたことを思い出しました。それには「今後更に順調でなくなるが、貴重な人物に出会う故、チャンスだと思って機会を逃さずにその人に着いて行きなさい。」と書いてありました。そこで「文中の人物はリンチェンドルジェリンポチェかどうか」と改めて聞くと、『聖杯』でした!そこで三日後歓喜の心で皈依致しました。この話を取り上げたのは、法と共にある修行者は神さえも賛嘆することを皆さんに知って戴きかったからです。衆生が仏教を学び更に多くの衆生を利益する機会が持てるよう願っております。
皈依の後はただリンチェンドルジェ・リンポチェから無上の利益を得ただけで、弟子のすべき責任も果たしていませんでしたから、上師の教えに従うことも元よりできませんでしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲は私を放棄することはなく更に数回、上師の御加持を得て危機を乗り切りました。それは次のようなことでした。
2004年末、私達家族は土城にある家を売却することになり、リンチェンドルジェ・リンポチェに売却してもいいかどうかをお聞きしました。上師は頷き、早ければ早い程良いとお答えになりました。その時は知らなかったのですが、その家の辺りには以前処刑場があったことを後で知りました。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェの指示に基づき、事実を『寶吉祥不動産部門』に伝えました。家は二日後に二人の購入希望者が価格を競い合い、予定の売却額よりずっと高値で売れ、これは不動産業界の中でも空前の出来事であったようです。当時、隣人も別の不動産業者に委託していましたが、翌年2月、私達が家の引渡しを終わった後も未売却でした。
家を売却した後は新しい家を探さなくてはなりません。気に入った家がありましたので、リンチェンドルジェ・リンポチェに再び開示を求めると、リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定に入り、階段が暗いのでライトを付けて改善するよう、また、台所の管路に問題があるから恐らく全部取り壊して作り直さなければならないと話されました。そこで管路を検査するとガス管路の穴があいていないことが分かりました。また、トイレの排水がスムーズでなかったので不動産屋さんに修理してもらいました。これで問題はなくなり旧暦前に引っ越しました。家の売却、購入、引越しで非常に疲れていた私は、やっとのことでちょっと休める時間ができました。しかしこの時、業報が目前に現れたのです。天上の神は私に大晦日の晩御飯を食べさせてくれただけで、台所は、その日の天気と同じように雨が降り続く状況になりました。台所に入るのと外出には、傘を差すか笠を被る必要がありました。丸一ヶ月余り、弁当食べて一日一日を過ごしました。更に悲惨な事に、隣人曰く、この建物は海砂で作った家かもしれないというのです。これは実に、青天の霹靂、寝耳に水でした。そこで急遽リンチェンドルジェ・リンポチェに、この家が海砂の家かどうかの開示を求めました。リンポチェは家の構造には問題はないとおっしゃられました。不動産業者はこの問題に対して検査部門に検査させ、結果は安全範囲内でしたので漸く胸の痞えが取れました。
その後も水漏れ問題は解決されないまま引き伸ばされていましたので、不動産業者の告訴を考えていました。そこである法会で上師は家の問題について私を訓示致しました。通常リンチェンドルジェ・リンポチェが法会上で弟子を指斥するのは、弟子が誤りを犯したのでなければ弟子の業障を消除する為に為されるものです。私はリンチェンドルジェ・リンポチェは指斥と同時に弟子に加持を授けたのを直感しました。私は、法会が終わり家に戻った時、台所の水漏れはなくなっているのではないかと推測していました。更に感動的な物語は実は後にあったのです。
2004年2月9日、私は、出勤、前の家の掃除、及び家の引渡しと、忙しい一日でした。朝10時過ぎ、突然、娘から「胸が痛み昼まで我慢したが耐えられず自分で三峡の恩主公病院に行った」と電話がありました。午後3時過ぎにまた電話があり、胸の痛みが酷いので医者が即入院するよう言っていると話していました。そこで私は、即刻病院に行き救急車で新光病院に転院させました。新光病院には医者の法友がおり安心ですし、家や会社からも割と近く面倒を見るのに便利だと思ったからです。救急車はサイレンを鳴らして新光病院に向かいました。救急治療室では担当医師と胸腔科の医師が恩主公病院でのレントゲンを見ていましたが、首を振り、患者はどこにいるのか聞きました。私は「トイレです」と伝えると、二人の医師は非常に吃驚して「こんなに酷い状況だったらベッドの上で動けないのが当たり前。どうして自分でトイレに行けるのか。」と言い、娘が戻ると直ぐに手術室に移動させて管を挿入しました。二日後、後日の再発を防ぐ為に胸腔内に隔膜を入れる手術をしました。手術当日、私は娘のボーイフレンドと共に手術室の外で六字大明咒を唱え、リンチェンドルジェ・リンポチェが娘を加持して下さるのを観想しました。観想中、全身黒衣のリンチェンドルジェ・リンポチェと二名の法友が手術室内に入っていくのが見えたようでした。
長い待ち焦る時間もやっと終わりました。その日、三名の若者が同病状で手術を受けましたが、娘だけが順調で、他の二名は更なる処置が必要であったそうです。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、娘は生命の危機に面していたかもしれません。その日医者は、「病院に到着するのがあと1時間遅れたら命はなかった」と話されました。医者達の協力と世話、及び法友達の気遣いに私は非常に感銘を受けました。
2005年9月、私は福徳因縁が実り、衆生を代表してリンチェンドルジェ・リンポチェに伴いインドで法王に謁見しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは法王が衆生の為に奔走し疲れていることを気遣い、法王の閉関前にインド旅行に数日間お連れして休ませたいとの考えがありました。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身も休息を取っておらず、更に疲れていました。何故なら、上師は随行している30名の弟子の安全を始終気に掛けておられたからです。私達が早朝4時過ぎにデリー空港に到着し、搭乗橋を離れた時、上師は既に荷物受取場で弟子達が出て来るのを待っておられ、しかも弟子達一人一人に加持を与えた後、やっとホテルに戻られました。数日の日程においては、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に法王に付き添いながら私達を振り返り、その様子は、まるで子供の迷子や事故を心配して何時も振り返る父親のようであり、正直なところ感動したとしか言い様がありませんでした。最終日はデリーホテル内でインド市民達に謁見をし休息時間は全くありませんでした。
三日目のジャイプールで、私は、上師が私の首に加持を与えて下さる夢を見ました。実は、2、3ヶ月前から首のリンパ節の腫れがまた生じていました。高校の時に腫れたことがありましたが、数ヶ月間の治療で消失していました。祖母や伯母はどちらもこの病気の悪化で亡くなっていましたので、業報が目の前に現れ、何と恐ろしいことかと思いましたが、その後、歴代の上師、リンチェンドルジェ・リンポチェ、及び護法神の庇護を考え、二度と恐怖を感じませんでした。夢の中でリンチェンドルジェ・リンポチェはある一定時間加持を与えてくださった後立ち去ろうとしましたが、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに帰らないよう願いました。その時リンチェンドルジェ・リンポチェは、カーキ色の長ズボンと茶色のレジャーシューズを履いていたことを覚えていますが、その後の夢は曖昧模糊で記憶にありません。翌日目が覚めた時に首に触れてみると、何とリンパ節の腫れは既に退いていました!一番大きいものも小さくなっていました。驚嘆すべき事は、夢の中のリンチェンドルジェ・リンポチェの服装はインド最終日に着用されていた衣服とほぼ同じだったことです。
上師の衆生に対する慈悲及び加持力は実に比較となるものがない程殊勝なものです。大慈悲、大智慧の上師に従える事は、無上なる福徳の果報であり、更に多くの衆生が上師の御加護を授かることを願っております。
敏汾 合掌
2009 年 02 月 02 日 更新