003:尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼

舅が2002年前後に肝臓硬化末期であることがわかった後、家族は経済的にひどい困難に陥りました。効果があると言われる医療方法を見ては様々な薬を試してみましたが病状は一向に変わりませんでした。2002年から2003年にかけて、舅は基隆の礦工病院、台北の三軍総病院の常連客でした。2003年5月、妻(何瑾瑜)と同僚(朱甚珍さん)の説明を聞き、逸仙路にある『寶吉祥宝石店』でリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しました。何故なら、妻がリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに従い継続的に法会に参加している内に、舅の苦しみが奇跡的に軽減されていたからです。その後、私は好奇心に駆られ妻に伴い『寶吉祥宝石店』でリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いしました。初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼した後、無作法にも舅、姑と共に椅子に座りリンチェンドルジェ・リンポチェに質問をしたことを思い出します。初めて「施身法」に参加した時、理由なく涙が溢れ、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲によって累世の冤親債主が済度されるのを感じていました。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェが高座にて話された「一切衆生は我々の父母である」というこの一言が私を深く懺悔させることになりました。修法の過程において十数年前私が銃殺した多くの犬が見え隠れして(犬の形のような光の点、犬を殺した事は他人には言っていませんでした)共に法会に参加した後に消えました。しかしその時は眼を閉じておりましたので幻覺ではないかと疑いました。二回目、三回目の「施身法」に参加した時、同じように顔全体が濡れる程涙が溢れました。私は眼を開けていましたが、やはり犬の形の光の点が見え前回より少なくなっていました。この時既にリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲心と大能力を深く体験しておりました。これに続く日曜日には第一回目の共修(合同修行)法会に参加致しました。2003年6月の皈依法会と覚えていますが、親孝行の妻が台上で跪き皈依をして髪を切るのを目にして非常に羨ましく感じたものの、なんだか妻と私は別の世界の人であると思えました。その後、仕事の関係で(私は職業軍人)8月初めにやっと時間ができ、皈依共修法会に参加しました。8月以後にも再び皈依法会があり、二回とも皈依したいとは思いましたが最後には迷って決められず、2003年11月23日にやっと皈依するに至りました。皈依の前に『寶吉祥宝石店』で南部に転勤することと、法会に参加する機会は少なくなるが休みの時には必ず参加することをリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えました。リンチェンドルジェ・リンポチェはただ単に「裁判官はいい。毎週法会に参加できますよ!」とおっしゃられました。その時心の中ではこの言葉を気に掛けず、リンチェンドルジェ・リンポチェは軍人になったことがないから分からないのだろう、十数年軍人をやっていますが、毎週休みの取れる部署など聞いたことがないと思いました。(野戦部隊は必ず留守が必要で、交替制である)。二週間後、私はリンチェンドルジェ・リンポチェの話に全くの誤りがなかったことを知りました。リンチェンドルジェ・リンポチェの御話は法語だったのです!私は本当に毎週、共修法会に参加しています!

2003年12月のある土曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェの御加持を戴く為に車で『寶吉祥宝石店』まで行きました。次の日の法会後、ある兄弟子の家を出てT字路で右折しようとした所、右からバイクが疾走して来たので私はもうちょっとでバイクの運転手をペチャンコにしてしまいそうになりました。幸い慌ててハンドルを切りましたので、後方をちょっと傷付けただけで済みました。これもまたリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の証と言えるでしょう。

2003年12月29日午後、三軍総病院の医者が舅の危篤を知らせてきました。私と妻は『寶吉祥宝石店』へ行き、リンチェンドルジェ・リンポチェに病院での御加持をお願いしました。翌日、リンチェンドルジェ・リンポチェは三総で舅を加持して下さいました。舅はベッドの上で昏睡状態のまま目を覚ましませんでしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持を終えると廊下で姑に四つの事柄を話されました。

  1. 御主人は入院前に多神教の供養の下がり物である白い物を食べた。
  2. 嘗て憑依されたことがある。
  3. 御主人は若い頃つまらない事に関わるのが好きであり、それは特に人の事ではなかった。
  4. あなたは最近多神教を拝みに行った。

姑はこの四つを聞き即座に否定しました。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは傍らにいた妻の兄を見て「彼は誰か」と尋ねました。姑が「長男だ」と答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場を去りました。リンチェンドルジェ・リンポチェを階下まで御見送りする途中で「お母さんに聞いて御覧なさい。お母さんは先程の長男の為に拝みに行ったのです。」とおっしゃいました。私達が病室に戻った後、四つの出来事の真実性が一つ一つ証明され、リンチェンドルジェ・リンポチェの法力が際限のないことを知りました。そして、私達の殊勝な仏法への信心は高められ、更に、輪迴世界の苦に対する大きな出離心を発することとなりました。

2004年5月16日午後6時50分、舅は往生しました。リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な「ポア法」を得た舅の身体を私達数人は確認しました。冷房の中、呼吸停止後の二時間半、舅の四肢は温かくて柔らかく、頭上のサハスララチャクラの下の窪んだ箇所に汗をかき、鼻孔には血とは異なる濃い褐色の液体(紅白菩提)が少し流れていました。夜11時過ぎに基隆市立葬儀場に送った時もまだ柔らかく、一切はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の顕現であると感じました。

出棺当日、葬儀社が舅の遺体を家に運び葬式をする時、不注意にも舅の手がとび出してしまいましたが、手はやはり柔らかく揺れ動いていました。通常の理論から言えば2週間の冷蔵を経過すれば身体がこのように柔らかいはずはありません。家での葬式前に二名の僧侶が舅の為に念仏を唱えて下さいました。念仏が終わり僧侶の一人が二枚の硬貨を長男に渡し、それを投げて「今の気持ちはどうか」を聞きなさいと言いました(台湾式占い)。連続7回投げても結果は出ませんでした。火葬後、遺灰を甕に入れる時、骨に多種の色彩が現れていることに気が付きました。頭蓋骨の中間には一つの小さな穴があり、これらは全てリンチェンドルジェ・リンポチェのおっしゃっていたポワ法修法の成功現象であることがわかりました。舅は往生しましたが私達はただ懐古の念だけで悲しみ沈むことはありませんでした。舅はまだ逝っていないのと同じです。これら一切は阿弥陀仏浄土に往生した最良の証だと感じています。

仏法は聞き難く、上師には逢い難し。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう話されました。「人が仏法を聴聞でき、仏法を修習できるのは、茫々たる大海中の海亀が百年に一度、海面に姿を現すが如く得難いものです。德を備えた上師に出会えるのは、海上の枯木にある一つの丸い穴に海亀が丁度入り込み空気を吸う如き得難いものです。よって、人身を得て、仏法を聴聞し、しかも德を備えた上師の下で仏法を学べることは、非常に殊勝な事なのです。」

仏法を学ぶ心は、少女の美しい髪が火で焼かれたかのように緊迫すべきものです。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して仏教を学び既に一年が経ちました。一年以来、自分の身口意はまだ清らかではありませんが、慈悲の上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに導かれて実に多くの気付きを得ました。実際に教えを守り修行を続けることだけが上師の恩に報じる最高の方法であると感じています。仏教を学ぶことについての私自身の若干の感想が多くの縁のある衆生に役立てられることを祈願致します。

弟子 陳大舜 合掌

2009 年 02 月 02 日 更新