尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年06月14日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に登られ、殊勝なる施身法法会を主法された。リンポチェは法座にお着きになると、しばらく禅定に入られ、その後、六字大明呪を長時間にわたり持誦された。リンポチェが真言を持誦されると、大地は震動し、リンポチェの尊身と壇城は燦然たる黄金色の光を放った。会場では多くの参列者が全身の温かさや脈輪の震動を感じ、道場の内には勝妙なる香りが満ちあふれ、煩悩は自然と静まった。
リンポチェは修法を開始され、参列者に対し、助けを願う生者および亡くなった方の名前を、それぞれ三回唱えるようご指示になった。リンポチェが腿骨法器を吹き鳴らされると、その召喚の響きは高らかに天空へと響き渡った。すると、冷気が次々と道場の入口から壇城へ向かって流れ込み、堂内の気温はたちまち下がった。かすかに異臭が漂い、動物の悲鳴や人々のざわめきのような声も聞こえ、数え切れないほどの衆生が、一刻も早く済度を受けようと押し寄せてきた。リンポチェの法座の周囲は、まるで薄い霧に包まれているかのようであった。リンポチェは勝義菩提心をもって、自らの血肉と骨を甘露へと観想し、一切惜しむことなく、苦しみにあえぐ衆生へすべて布施された。
修法の途中、リンポチェは六字大明呪を持誦された。初めは、そのお声はゆったりとして深い悲しみに満ち、参列者一同もまた、その悲しみをともに感じた。やがて持誦の調子は次第に速まり、その響きは人々の心の奥深くまでまっすぐに届いた。修法が円満に終了すると、法座を包んでいた薄霧は消え去り、壇城は黄金色の光に包まれた。室内の温度も再び暖かさを取り戻し、参列者は皆、全身が温かくなるのを感じた。そして、リンポチェが一刻も早く衆生を輪廻から救い出そうとされる大いなる慈悲のお心を深く実感し、思わず涙を流し、感謝の念で胸が満たされた。
施身法の修法が円満に終了すると、リンポチェは護法の修法を行うようご指示になった。その後、リンポチェは慈悲をもって尊いご開示を賜った。
施施身法は済度のほかにも、長年にわたってこの法門を修し続けることで、多くの助けを得ることができる。例えば法本には、「内因悪業および業障」と説かれている。これは、過去世から積み重ねてきたあらゆる善悪の業によって生じた、内なる障碍のことである。また、「名縁邪魔および部多」とも説かれている。これは、過去に数多くの悪業を積んだため、邪魔や鬼神などの衆生と縁を結び、その結果として病や苦しみが生じるということである。施身法とは、その名のとおり、布施し供養する法である。したがって、布施・供養を実践しない者にとっては、法本にどれほど書かれていても、自分には何の利益もない。例えば、私は修法に入る前に、まず「私の身・口・意のすべて、すべての財物、すべての善根を本尊に供養いたします。」と読誦する。しかし、あなた方には、それができない。だから、その後に生じる苦しみは、私には関係のないことである。
法本には、このような病や苦しみが生じると説かれているが、実際には私たちの病気の九〇%以上は、こうしたことに関係している。医者にかかることは、ただ「自分は治療を受けている」「薬を飲んでいる」という安心感を得るためにすぎない。しかし、根本の問題は何一つ解決されていない。だからこそ、施身法を如法に修する者は、このような病苦や苦しみを速やかに鎮めることができるのである。また、「貪・瞋・痴の三毒も自然に静まり、どうか上師が私を加持してくださいますようにと祈る」のである。さらに法本には、「風気・胆熱・痰分の三病も自然に消滅する」と説かれている。私たちの病気の多くは、風気・胆熱・痰に関係している。中医師、説明してみなさい。ゆっくり、分かりやすく話しなさい。(黄姓の医師である弟子が答えた。)「はい、ご報告いたします、リンポチェ。風気病とは、身体の『気』の働きに関わるものであり、全身の気の巡りが乱れることによって生じる病です。」風気に関係する病とは、具体的にはどのようなものか。(答え)「例えば、心臓や肺など呼吸器系の機能異常は、風気病と関係があります。胆熱病は、消化器系や肝胆系の疾患に関係し、不眠なども胆熱病に含まれます。」糖尿病も、その範囲に入るのか。(答)「はい。糖尿病も胆熱病の範囲に含まれます。」では、痰分とは。(答)「痰分とは、体内の水分代謝の異常を指します。例えば、呼吸器の粘液や炎症なども、痰分病と関係があります。」
法本には、「これらは自然に消滅する。どうか上師が私を加持してくださいますように」と説かれている。しかし、あなた方は、そのように祈り求めたことがあるだろうか。ない。では、基準にかなう弟子であったことがあるだろうか。それもない。だから、上師の加持を得ることができないのである。私はもともと病気の多い人間だった。だから施身法をひたすら専修した。その結果、歴代の上師方が私を加持してくださった。もちろん、自分が非常に健康だとは言わない。しかし、八十歳になってなお、このようにできるのだから、十分に健康と言えるだろう。だから、心臓病のある者は、一日中、名医だとか専門家だとか、大統領の診療をしている医者だとか、そのような人ばかりを信じていては、人にだまされるだけである。そんなに簡単にだまされるのか。法本にはきちんと書かれているのに、誰一人として心に留めていない。法本には「五大不調」──地・風・水・火・空──について説かれている。多くの医者は診察を重ねても、結局は痛みを少し和らげるだけであり、この三種類の根本的な病を解決することはできない。なぜ風気が乱れるのか。風が不足するのは、貪りの心が重いからである。では、なぜ胆熱の病となり、消化器系が悪くなるのか。それは瞋りの心が重いからである。そして、なぜ痰分が増えるのか。それは愚かさ、すなわち因果を信じない心によるのである。」
皆、家に帰ってよく考えてみなさい。今日この瞬間まで生きてきて、一体どれほどの仏法を本当に心に受け入れてきたのか。今日、私は法本の中から一つの言葉を取り上げただけである。「どうか上師が私を加持してくださいますように。」この「祈り求める」ということには、必ず条件がある。その条件とは何か。あなたは、本当に弟子としての基準を満たしているのか、ということである。例えば今日、私はある亡くなった弟子を済度した。その人は六、七年もの間、供養をしていなかった。しかし、道場を離れることはなかった。私は以前から約束している。「道場を離れない限り、私は必ず済度する。」だから私は済度した。しかし、その人は長年供養をしなかった。たとえ私が済度して三悪道を離れ、三善道へ生まれ変わることができたとしても、供養をしなかった以上、その人には慳貪の心、すなわち惜しむ心、手放せない心が残っている。そのため、来世において豊かになることはないのである。
最近、ある弟子も同じようなことがあった。その弟子は癌で亡くなった。亡くなる一か月余り前から、私はずっとその人を助けていた。それにもかかわらず、その人はこう言った。「この娘にはお金を渡してはいけない。この子はそのお金をリンポチェに供養してしまうから。あちらの娘に渡しなさい。あの子は仏法を信じていないから、リンポチェに供養することはない。」だから、その人は来世において必ず貧しい境遇となる。しかし、その人は道場を離れなかった。だから、リンポチェはやはり済度を行い、三悪道に堕ちないようにした。とはいえ、自分で蒔いた因、その果報については、自分自身が負わなければならない。だから昨日、私は「あなたは弟子としての基準を満たしていない」と叱ったのである。あなた方が帰依した時、私は「定められたとおりに供養を行いなさい」と教えたではないか。(大衆答:「はい。」)
多くの人は、「供養は上師のためにするものだ」と思っている。そうではない。私たちの福報は、すべて供養から生まれるのである。施身法の法本も、その冒頭はすべて供養と布施から始まっている。どの法本も同じである。真言を唱えるのは、その後である。なぜなら、先に供養と布施があってこそ、真言の持誦が本尊と相応するからである。十万遍を早く唱え終えれば、それでよいなどと思ってはならない。何の効果もない。なぜ効果がないのか。そのことを、あなた方は私に尋ねたことがあるか。私たちの修法は、回数の多さだけが大切なのではない。最も重要なのは、その質である。その質は本当に伴っているのか。法本に説かれていることを、あなた方は実際に行っているのか。特に上師相応法を修するようになっても、供養の意味を理解していない。真言を唱え終えれば、それで供養も終わったと思っている。だから私は、自分自身の経験をこれほどまでに話して聞かせているのに、誰一人として本当に心に受け止めようとしないのである。
もう一度言う。法王は数百人がいる公の場で、はっきりとこうおっしゃった。「私のこの弟子は、一千六百万米ドル以上を供養した。」これは法王ご自身がおっしゃったことであり、私が言ったのではない。しかも、それは法王が把握しておられる分だけであって、把握されていないものがどれほどあるかは分からない。あなた方は、その金額のほんの一部にも及んでいない。それなのに、どうしてあれこれと求めることができるのか。法会に参加できるだけでも、すでに大きな福報なのである。法会に来れば法が得られるなどと思ってはならない。あなた方は、いったいどのような供養をしてきたのか。自分自身に問いかけてみなさい。リンポチェは、あなた方の供養を必要としているのではない。例えば、何年もの間供養をしていなかったあの弟子である。一昨日の夜、その弟子から電話があり、「妻が亡くなりました」と言ってきた。私はすぐに修法を行った。その時も、「先に供養してから修法してあげよう」などとは、一言も言わなかった。その人の奥さんが亡くなった時は、目も口も開いたままであった。しかし、私が修法を終えると、その弟子は自分の目で、目が閉じ、口も閉じ、さらに穏やかな微笑みまで浮かんだことを見た。その時になって初めて、その弟子は理解したのである。リンポチェの力は本物であり、決して偽りではなかった。と。
あなた方は、死んでから試そうなどと思ってはならない。先ほども話したように、風気・胆熱・痰分、この三つの病は自然に消滅すると法本には説かれている。その意味は何か。弟子としての基準を満たしていれば、上師は必ず助けてくださるということである。しかし、あなた方は誰一人として、その基準に達していない。だから今日、この法を修する最も大きな目的は、亡くなった衆生を救うことにある。あなた方自身のことについては、どうすることもできない。なぜなら、言うことを聞かないからである。先ほど話したあの弟子もそうだった。供養することを惜しみ、「お金は帰依していない娘に渡しなさい。リンポチェに帰依している娘には渡してはいけない。」と言った。私はこれまで本当に多くのことをしてきた。あなた方にとって、お金はとても大切なものだろう。それは私も、そのとおりだと思う。しかし、供養しなければ、結局は何も得ることはできないのである。
昨日、私はいくらの供養をお返ししたか。(出家弟子答:「ご報告いたします、リンポチェ。百二十二万元です。」)信衆を接見する時、お前は私の隣に跪いて話を聞いているな。もうどれくらいになる。(出家弟子答:「二年ほどです。」)二年だけか。(出家弟子答:「いいえ、それ以上です。」)三年か。(出家弟子答:「四年くらいになります。」)四年か。平均すると、一週間に百万元くらい供養を返しているな。(出家弟子答:「それ以上です。」)それ以上か。(出家弟子答:「はい。平均すると、一週間に二、三百万元くらいになります。」)では、一年で私はどれくらい返していることになる。(会場笑)少なくとも四千万元くらいか。(出家弟子答:「それ以上です。」)それ以上か。(出家弟子答:「はい。」)はあ……。それでもリンポチェは金に執着していると言うのであれば、あの弟子の奥さんが亡くなった時、私はすぐに頼姓の弟子へ電話をして、「あの人は供養をしていない。一度供養して福報を積まなければ、奥さんを助けることはできない。」と言っていたはずである。しかし私は何も言わず、すぐに修法した。しかも、その後も供養は一切受け取らなかった。今日に至っては、私はその人に「供養してはならない」とまで言った。なぜか。罰するためではない。その人は供養を惜しむ心があるからである。そのような人に無理に供養させれば、心の中であれこれ考え、「本当に供養したほうがいいのだろうか。お金がなくなったらどうしよう。」と迷い続ける。そうなれば、その人の果報はさらに重くなってしまう。それなら、いっそのこと供養しないほうがよい。そのほうが問題は起こらない。リンポチェは慈悲深いのである。供養を受けないのは、あなた方が心の中であれこれ迷い続けることのないようにするためである。「本当に渡すべきだろうか。後で自分にお金がなくなったらどうしよう。」そのような悪い念を起こせば、その供養は何の功徳にもならないのである。
多くの人は、仏法を学ぶにはお金がかかると思っている。それなら、私から一つ聞こう。この世の中で、お金のかからないことが一つでもあるのか。それに、あなた方もよく分かっているはずだ。リンポチェは絶えずあなた方を助け続け、皆がこの一生において――。あなた方がこの一生で生死を解脱することは容易ではない。しかし、阿弥陀仏の浄土に往生できるだけでも、それは計り知れないほど尊いことである。少なくとも、身体は健康でなければならない。先ほど話した三つの病は、あなた方全員が持っている。そうだな、黄先生。(黄姓の医師である弟子答:「ご報告いたします、リンポチェ。そのとおりです。臨床でも、この三つの病は非常によく見られます。」)君の後ろに座っている黄姓の弟子などは、心臓の具合がどうにもおかしい。それなのに、一日中、自分は有名な医師を知っている、その医師は複数の大統領の診療もしてきた心臓病の専門家だから大丈夫だ、と思い込んでいる。
リンポチェは黄姓の弟子をお叱りになった。「年を取るほど、ますます分別がつかなくなったのか。帰依するとき、「悪友を遠ざけなさい」と教えられただろう。それなのに、どうして一日中そんな人たちと付き合っているのだ。暇で誰かと話したいのなら、それでも構わない。では、謝姓の弟子に話し相手になってもらいなさい。謝姓の弟子よ、黄姓の弟子は寂しいのだ。年を取ると寂しくなるものだからな。お前は会長なのだから、彼は前会長でもあるし、時間があれば話し相手になってあげなさい。分かったか。」(謝姓の弟子答:「ご報告いたします、リンポチェ。承知いたしました。」)「何を承知したのだ。」(答:「お話し相手になり、よく話をしてまいります。」)黄姓の弟子は、ある人物を信じ込んでいる。その人物は「自分はアメリカ大統領の心臓も診たし、どこそこの国家元首の心臓も診た」と言っているそうだ。私は、黄姓の弟子にそれほど大きな福報があって、そのような大人物と知り合えるとは思わない。黄姓の弟子よ。もしお前が本当にそんなすごい人物だったら、私の弟子になどなっていないはずだ。暇を持て余しているのか。謝姓の弟子一人では足りないというなら、もう一人、お前の話し相手を探してやろうか。「遠離惡友(悪友を遠ざけよ)」という四文字の意味が分からないのか。その人は、お前に悪事を働けと言ったわけでもなく、肉を食べろと勧めたわけでもない。しかし、一日中、でたらめな神話のような話ばかり聞かせ、お前の心を揺さぶっている。そして、気づかないうちに金までだまし取られているのだ。
リンポチェは謝姓の弟子にご指示になった。「忘れずに黄姓の弟子へ電話をして、話し相手になってあげなさい。この孤独で退屈している老人を、少し気に掛けてやるのだ。妻がいるのに、とても孤独なのだ。お前よりも孤独だぞ。お前の妻は、最近ようやくお前に優しくなってきたな。」(会場笑)(謝姓の弟子答:「リンポチェに感謝申し上げます。」)それが私と何の関係があるのだろう。(謝姓の弟子答:「私の身・口・意は、すべてリンポチェから賜ったものです。」)その妻は、私がお前に与えたのではない。(会場笑)(答:「それは、うっかりしたことでした。」)お前は私に帰依する前から、彼女と結婚していたではないか。(答:「はい。それは、うっかりしたことでした。」)それは私と何の関係がある。何でも私のところへ持ってくるな。言えるとすれば、お前は毎日私に叱られているから、少し福がついてきて、妻も以前よりお前に優しくなったということだ。忘れずに、彼の話し相手になってやりなさい。分かったか。(答:「はい。」)
黄姓の弟子はとても孤独なのだ。一生を通して、そういう人を信じ続けてきた。私は前にも言っただろう。そんな荒唐無稽な話があるものか。もし本当にそんなにすごい人物が台湾にいるのなら、どうして政府全体がその存在を知らないのだ。それなのに、自分は偉大な人物と知り合いだと思い込んでいる。リンポチェはさらに黄姓の弟子におっしゃった。「もしお前が、その人とそんなに親しくしていたいのなら、私の弟子をやめることも考えてみたらどうだ。」(黄姓の弟子答:「一生涯、リンポチェの弟子でございます。」)私は、お前のことが本当に心配なのだ。(黄姓の弟子答:「リンポチェ、ありがとうございます。」)私が何を心配しているか分かるか。年を取ったことを心配しているのではない。いつかその人に引きずられて行ってしまうのではないかと心配しているのだ。その時になって、お前の奥さんが私のところへ来ることになる。お前はこれまでにも何度も間違いを犯してきた。それでも、まだ間違いを重ねるつもりなのか。」
リンポチェはさらにご開示を続けられた。もう年も重ね、私について長い年月になるのだから、この人の立派な功績を一つ話してあげよう。以前、この人に会長を務めるよう言ったことがある。すると、「私にはできません」と言った。私は「なぜできないのだ」と尋ねた。すると、この人はこう言った。「妻が病気の父母の面倒を見てくれたので、その恩義に報いなければならないのです。」リンポチェは黄姓の弟子に向かっておっしゃった。「では、お前は上師への恩はないのか。お前の命は、この私が救ったのではないか。」(黄姓の弟子答:「はい、分かっております。」)こういうのは、でたらめを言っているというのだ。しかし、それもまた本人の業なのである。先ほど話したように、それがまさに業障なのだ。
だからこそ、これらの病は自然に消えていくのである。そのためには、まず弟子としての基準を満たさなければならない。そして上師に祈り求める。そうして初めて、上師は加持してくださるのである。上師相応法を急いで修し終えれば、上師と相応できるなどと思ってはならない。私は決してそのような相応はしない。なぜなら、そのような修法をしなさいと、私は一度も指示したことがないからである。温姓の弟子よ、また始まったな。得意そうに、自分がいかにできるかを私に話している。リンポチェは頼姓の弟子にご指示になった。今回、この人の閉関は取り消しなさい。そして温姓の弟子におっしゃった。「お前は教師なのだろう。学生が言うことを聞かなかったら、どうする。出した課題について、自分が指示していないやり方で学生が勝手にやったら、どうする。人間の小賢しい頭だけで仏法を学ぼうとしてはならない。あなた方は一日中、私に問題ばかり持ち込んでくる。在家の身であるなら、在家の者らしくしなさい。」
リンポチェは出家弟子に、参列者を先導して回向を行うようご指示になった。回向の後、リンポチェは引き続きご開示を賜った。
十九日から仏寺で閉関に入るため、二十一日の日曜日は法会を行わない。もし仏寺へ行って真言を持誦したい者がいるなら、自分たちで相談して段取りをしなさい。(参列者一同:「リンポチェ、ありがとうございます。」)昨日、温姓の弟子と一緒に来て、「上師相応法を修し終えました」と言った者は誰だった。(頼姓の弟子答:「呉姓の弟子です。陳姓の弟子のお母様です。」)私は、この人にどれくらい前から法を伝えていた。(頼姓の弟子答:「かなり前からです。」)いつからだ。(呉姓の弟子答:「五月二十三日にお伝えいただきました。」)ずいぶん早かったな。閉関には申し込んでいたのか。取り消しなさい。(呉姓の弟子答:「はい。弟子は懺悔いたします。」)進度を急いでいたのか。私がこの法を伝えた時、「急いで修しなさい」と言ったことがあったか。(答:「ありません。」)思ってもみなかっただろう。前の段階では進度を急ぐこともあったが、上師相応法に入ったら、急いではならないのだ。(呉姓の弟子答:「弟子が間違っておりました。」)間違っていましたと言う必要はない。あなた方は皆、功を急ぎ、成果ばかり求めている。修し終えれば、次の法を教えてもらえると思っているのだろう。温姓の弟子も、お前も同じだ。私はもう、この二人には法を伝えない。あなた方の心の中には、上師がいない。法本を渡したら、あとは好き勝手に修してよいと思っている。毎日ひたすら読誦すれば、それでよいとでも思っているのか。そんなことで、上師と相応できると思っているのか。」(呉姓の弟子答:「弟子は懺悔いたします。」)「懺悔します」ばかり言うのはやめなさい。あなた方は二人とも教師だ。私は以前から言っている。教師と医師は、最も教えにくい。人の言うことを聞かず、自分の判断で勝手に進める。十万遍の真言を早く唱え終えれば、それでよいと思っていたのだろう。残念だが、それは完全に間違いである。
皆、よく聞きなさい。いかなる仏法も、自分の考えで決めるものではない。どの法本にも繰り返し説かれているのは、上師の加持が必要だということである。では、上師はどのような者を加持するのか。それは、その人が弟子としての基準を満たしているかどうかによる。帰依の時にも、そのことはすでに話したはずである。その基準に達していなくても、上師はあなた方を見捨てることなく、教え続けてくださる。しかし、本当に基準を満たして初めて、加持を祈り求めることに意味がある。基準に達していなければ、あなた方はまだ信衆の立場にすぎない。この二人は、不共四加行を修し終えれば、リンポチェが密殿へ上がることを許してくださると思っていたのだろう。それなら、待っていなさい。それは、あなた方二人の勝手な思い込みだ。そうだろう。温姓の弟子よ、お前も待っていなさい。何でも自分で決めてしまう。仏法を学校の勉強と同じだと思っているのか。小学校を卒業すれば中学校、中学校を卒業すれば高校、高校を卒業すれば大学、大学を卒業すれば大学院、その次は博士課程――そういうものだと思っているのか。あなた方二人は高学歴だ。では聞こう。大学院に進む時、教授が学生として受け入れるかどうかは、教授が決めるのではないか。そうだろう。学歴が十分あっても、それだけでは何の意味もない。今のあなた方は、まさにその状態なのだ。あなた方は不思議に思うだろう。「進度を早めることの、どこが悪いのですか。」前の段階では、大礼拝をしている時に「もっと早くやりなさい」と私は何度も叱った。ところが、今度は進度を急いだら、逆に叱られた。
第一に、上師の心は、あなた方には理解できない。第二に、私がいつ態度を変えようと、それは私のことだ。あなた方には関係ない。第三に、私は、その人がどのような心でこの法を修しているかを見ている。今、少し尋ねただけで、すぐに分かった。この二人は、一日も早く密殿に上がりたいと思っていただけだ。この法をしっかり修し、上師がどのように修行を成就してきたのかを学ぼうとしていたのではない。上師を理解しようとしていたのではなく、自分に密殿へ上がる機会があるかどうか、そればかり考えていたのである。私はこれまで、不共四加行を伝える時に、「不共四加行を修し終えれば、密殿へ上がることができる。」などと約束したことがあるか。」(大衆答:「ありません。」)この二人が勝手にそう思い込んでいただけだ。今、密殿には、不共四加行をまだ修し終えていない者もいる。それでも私は、その人を入れている。なぜなら、その人は言うことを聞くからだ。しかし、この二人は言うことを聞かない。表面では、とても恭敬し、私を尊敬しているように見える。だが、心の中では、それぞれに自分の計算をしている。先ほど話した、亡くなったあの女性の弟子も同じだった。亡くなる前に、自分ですべてをきちんと手配したつもりでいた。それで万事うまくいくと思っていた。ところが今では、二人の娘が問題を抱え、争い始めている。なぜそうなったのか。娘たちが悪いのではない。悪いのは、その弟子である。自分の家のことは、自分で決めればよいと思っていた。上師など関係ないと思っていた。あれこれ勝手に取り決めた結果、今では解決しなければならない問題が山ほど残ってしまったのである。
私たちはようやくこの人生で仏門に帰依し、仏法を学ぶ機会を得た。しかも、命を惜しむことなくあなた方を導き続ける上師がおられる。どうか、人間としての考え方を手放して仏法を学びなさい。できるか。(大衆答:「できます。」)もし、まだ人間の考え方を捨てられないのであれば、ここへ来ないほうがよい。ここは修行の道場である。私も世間で言われる『人間仏教』のようなことを話すことはできる。そうすれば皆も喜び、私も楽で、あなた方も気楽だろう。しかし、結局のところ、あなた方は何一つ得ることはできない。先ほど話した、何年も供養をしていなかった弟子のことも同じである。電話が来ると、私はすぐに修法を行った。なぜか。少なくとも、その人は道場を離れなかったからである。その一点だけで十分だった。リンポチェが約束したことは、必ず実行する。私が引き受けたことは、必ずやり遂げる。しかし、引き受けていないことは、誰に何を言われても決してしない。それと同じように、あなた方も帰依の時に約束したことがある。しかし、あなた方はそれを果たしていない。私は帰依の時に、一人一人へ「できますか」と尋ねた。あなた方は皆、『できます』と答えた。ところが、時が流れるにつれ、その時の約束は少しずつ薄れ、次第に忘れ去られてしまったのである。
仏法を学ぶとは、すべてを捨て去り、何もかも放り出して仏法だけに生きなさい、という意味ではない。そうではない。まずは弟子としての基準を満たしなさい。その一つが、「定められた時に供養すること」である。これは、あくまでも弟子としての最低限の基準にすぎない。その中には、「どのように供養しなさい」とは書かれていない。ただ、「定められた時に供養しなさい」とあるだけである。では、「定められた時」とは何か。それは自分で考え、きちんと段取りをしなさいということだ。仏は、その方法までは教えられていない。仏はとても慈悲深く、財の四分の一を供養しなさいとだけ説かれている。これは仏がおっしゃったことであり、私が言っているのではない。だから、皆よく考えなさい。なぜ仏法を学ぼうとしているのか。たとえ加護を求め、自分の健康がよくなることを願うとしても、上師の加持をいただくためには、最低限、弟子としての基準を満たさなければならない。昨日、ある出家弟子を私は叱った。《華厳経》一冊は、その弟子が供養したものである。私はここに置いたまま忘れていた。昨日、そのことを確認すると、その弟子はすぐに駆け寄ってきた。なぜなら、その人の心の中では、その《華厳経》は供養したとはいえ、まだ自分のものだと思っていたからである。
リンポチェは、その出家弟子にお尋ねになった。「私は、お前に壇城へ上がるよう指示したか。」(答:「いいえ、していただいておりません。」)私はまだ生きている。私が亡くなったら、お前はいったい何をするつもりなのだ。続いてリンポチェは、出家弟子たち全員におっしゃった。「いつの日か私がこの世にいなくなった時、この者が少しでも勝手な考えを起こしたら、すぐに道場から出しなさい。分かったか。」(出家弟子一同答:「はい、承知いたしました。」)
リンポチェは、その出家弟子にお尋ねになった。「お前は家の中でも、自分の言うことがすべて通ると思っているのか。今の自分は変わったと思っているのか。護法はとても厳しい。ほんの小さなことでも、お前の心を見抜いてしまう。昨日、お前はとても慌てていたな。すでに供養したものである以上、私がどう指示しようと、お前には何の関係がある。それは、お前のものなのか。以前、ある弟子が私に翡翠を供養したことがあった。私はその翡翠を宝石店に預けていた。その弟子が娘と一緒に店へ行った時、娘が『お母さん、これはお母さんのだよね』と言うと、その弟子も「そうよ、これは私のものよ」と答えた。だから私は、その翡翠をその弟子へ返した。では、この《華厳経》もお前に返そうか。持って帰りなさい。供養する時には、「これは絶版で、今ではもう手に入りません」と言っていたではないか。ずいぶん大したものだな。私が《華厳経》を見たことがないとでも思っているのか。お前は《華厳経》を何回読んだことがある。」(答:「ありません。」)「私は全巻を三回読んでいる。お前はどうだ。」(答:「ありません。」)「それでいて、自分は顕教を学んでいるなどと言うのか。」
あなた方は幸運だ。これほど厳格な上師に帰依することができたのだから。しかし同時に、不運でもある。なぜなら、私は非常に細かいところまで見ているからだ。これは法王がおっしゃったことであって、私が言っているのではない。あなた方の一つ一つの動作、一つの眼差し、一言一句を見れば、次に何をしようとしているのか、私はすぐに分かる。あなた方をこれ以上輪廻に流転させないために、その輪廻へ向かう心の働きを、早いうちに断ち切らなければならない。あの出家弟子の行為は何だったか。「惜しむこと」である。では、この二人が「修し終えました」と報告に来た、その心は何だったか。慢心である。本人たちは、自分に慢心などないと思っているだろう。進度を早めれば、リンポチェも喜んでくださる。ようやく、このように修する弟子が現れたとお思いになるだろう。そんなふうに考えていたのである。
仏法を学ぶ者は、一つの心を保たなければならない。それは、本当に輪廻から離れようと決意しているかという心である。輪廻を離れると決めたなら、この世のあらゆる出来事は、すべて一場の夢、一つの仮の現れにすぎない。何をするにも、仏法を基準として行わなければならない。私は時折、深く考えさせられることがある。例えば、多くの他宗教の人たちは、口を開けば、「すべては彼の栄光によるもので最善へと導いてくださったのです。」と言う。では、あなた方は外でそのように言えるだろうか。「菩薩とリンポチェの加持があったからこそ、今日の私があります。」そう言えるだろうか。言えない。人から迷信だと笑われるのを恐れているからだ。しかし、西洋の宗教を信じる人たちは、いつでも口を開けば、「すべては彼の栄光です。彼のなさることは、すべて良きものです。」と言っている。それに対して、あなた方はどうだ。私のすることが少しでも自分の気に入らなければ、すぐに顔色を変え、反発してしまう。何年も供養をしなかったあの弟子も、まさにそうだった。私はその人に一度機会を与え、理事会と話をするようにした。しかし、話し合いが終わっても、結局はなお求めに来なかった。自分は仏法を学びに来ているのだから、上師は当然教えるべきだ。どうして理事会にお願いして、供養を再開させてもらわなければならないのか。そのように考えていたのである。
なぜ仏教は次第に衰えていくのか。それは仏に力がないからではない。衆生の業がますます重くなっているからである。イスラム教の国々を見てみなさい。食品を輸入するには、必ずその国の検査基準を通らなければならず、豚に関わる成分が少しでも含まれているものは、決して輸入することができない。では、私たちはどうか。二週間ほど前、ある弟子の息子を私は道場から追い返した。その場で帰依弟子のベストも脱がせた。なぜなら、肉を食べていたからである。ところが、その父親は信じようとせず、家に帰って息子とゆっくり話し合い、「リンポチェは何か誤解しているのではないか」と思っていた。その子もまた、最後まで言い張って、「私は肉そのものを食べませんが、肉と一緒に調理された野菜だけを食べています。」と言っていた。明らかに肉を食べているにもかかわらず、それでも肉は食べていないと言い張るのである。
昨日も、一人の子どもが海外留学に行くので、オンライン法会への参加を許可してくださいと願い出た。私は許可しなかった。なぜなら、その子の母親は大きな期待を寄せ、多くのお金をかけてシンガポールへ留学させ、その後さらに日本の有名な大学へ進学させようとしているからである。母親は大変な苦労をして、多くのお金をかけて子どもを学ばせようとしている。それなら、その子は勉強に専念すればよい。オンライン法会など見なくてもよい。見れば見たで、あれは駄目、これは駄目と私に叱られるだけだ。それなら、しっかり勉強したほうがよい。母親が子どもに勉強してほしいと願っているのだから、私は衆生の願いをかなえる。その母親は、本当はよく分かっている。この家は、もし私がいなかったら、今ごろとっくにばらばらになっていただろう。それでも、その人が望むのは、息子が海外へ留学し、外国で学んで帰国し、月給が一万、二万元ほど増えることだけなのだ。あなた方も、結局はそのような弟子なのである。
私の弟子の中には、台湾で学業に励み、優秀な成績を収め、その後就職しても十分な収入を得ている者が大勢いる。だから昨日、その子が泣き崩れていたとしても、私にはどうすることもできなかった。なぜなら、私はその家族の親子の情を壊すことはできないからである。母親が、どうしても息子を海外へ留学させたいと望んでいる。その思いを私が壊してしまったら、母親があまりにもかわいそうではないか。シンガポールへの留学には、決して少なくない費用がかかる。その後、日本の早稲田大学へ交換留学するにも、また費用が必要である。これほど多くのお金をかけられるとは、普段はとてもお金がないように見えていたので、今になって初めて、実はこれほど余裕があったのだと分かった。もちろん、子どもに教育を受けさせることは当然であり、私は反対しているのではない。しかし、学ばせると決めたのであれば、しっかり勉強に専念させなさい。それなのに、海外へ行ったら加護を得られないのではないかと心配し、オンライン法会への参加を願い、リンポチェに守ってもらい、勉強がうまくいき、帰国後には少しでも多く稼げるようにしてほしいと思っている。お願いだから、これ以上そのように私を利用しないでくれないか。留学して、きちんと学び終えてから、また私の弟子として戻って来ればよい。その時には、私は必ず戻ることを許す。
例えば、王姓の弟子の子どもたちは、海外へ出て行ってから、一度も戻って来ていない。あの家族も、もともとは私が救ったのである。今、彼女が住む家を持っているのも、ほとんど私が与えたようなものだ。それなのに、子どもたちが外へ出てから、彼女は一度も「戻って仏法を学びなさい」とは言わなかった。私にも子どもはいる。誰もが、子どもには立派になってほしいと願う。しかし、自分自身や家庭の背景をよく見てみなさい。たとえその子が本当に立派になったとして、その後どうなるというのか。皆、もっと現実的に、もっと正直になりなさい。自分の現実の生活を、ありのままに見つめなければならない。これ以上、夢ばかり見て、すべての希望を次の世代に託してはならない。法本にもはっきり説かれているではないか。次の世代は、恩を返しに来る者でなければ、借りを取り立てに来る者である。私は、次の世代に何かを期待したことは一度もない。たとえ次の世代が皆、私のもとを離れて行ったとしても、私は何とも思わない。なぜなら、私は修行者だからである。
あなた方のようでは、私はもう何も言うことはない。ただ一つ言えるのは、お前たちは修行者ではない、ということだ。修行者でないのであれば、この一生は自分の業力に従って生きていくしかない。その時、もしリンポチェがまだ生きていれば、済度してあげることもできるだろう。しかし、もしリンポチェが亡くなっていたなら、その時は自分のことは自分で引き受け、自分で何とかするしかない。もし、この一生で弟子としての基準を満たしていたなら、たとえ私がこの世にいなくても、私の法号を唱えさえすれば、私は必ず加持する。それが私の誓願だからである。私の修行は、ほかの人とは違う。私は本尊に対して、はっきりと誓った。私の名を口にする者、私の姿を見る者、私の声を聞く者は、皆、済度されるように。しかし、その人に私との縁がなければならない。縁がなければ、私の姿を見ても、何て見栄えのしない人だと思うだけだろう。
だから今日、施身法を修するのは、あなた方の先祖を済度するためだけではない。あなた方自身の貪・瞋・痴・慢・疑をも済度するためなのである。(大衆一同:「リンポチェ、ありがとうございます。」)そして、仏法を学ぶ者は、自らの信念をしっかり持ち、決して退いてはならないということを理解しなさい。何事も上師に相談せず、自分の考えだけで決めて行うのであれば、それでも私は止めない。家はあなたのものであって、私のものではないからだ。しかし、行動に移す前に、一度仏法に照らして、このようにしてよいのかと考えることはできないのか。先ほどの肉を食べていた子どものこともそうである。父親はまったく知らなかった。なぜなら、その子を上海へ働きに行かせたからである。上海へ行けば、人口は十四億人もいる。しかも男性のほうが女性より少ない。そのような環境へ行けば、もう戻ってこられなくなるのは目に見えている。王姓の弟子の子どもたちも同じだ。彼女は「行かせない」と貫くこともできた。しかし結局は、子どもの望むままにさせてしまったのである。
今日、これほど多くのことを話したのは、私も年を取り、残された時間が少なくなってきたからである。だからこそ、私が理解し、知り得た仏法の要点を、生きているうちにできる限りあなた方へ伝えておきたいと思っている。あなた方がその要点をしっかり受け止めることができれば、たとえ私がこの世を去った後でも、三悪道に堕ちることはないと私は信じている。なぜなら、ただ私の姿を思い浮かべるだけでも、決して三悪道には堕ちないからである。」(参列者一同感恩しながら声をそろえて:「リンポチェ、ありがとうございます。」)しかし、大切なのは絶対の信心を持つことである。少しでも疑いの心を起こしてはならない。ひとたび疑いが生じれば、その加持は届かなくなる。本当にその通りなのだ。リンポチェは決してあなた方を欺いたりはしない。」(参列者一同、感謝して声をそろえて:「リンポチェ、ありがとうございます。」)
2026 年 06 月 18 日 更新