尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年04月11日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座に上がられ、参列者全員を六字大明呪を唱えるよう率い、並びに『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」を説かれた。
経典:「はじめより二乗の涅槃に入ることを楽はず」
仏法によって助けられる衆生がいる限り、我々は涅槃に入らない。仏を学び始めた頃、我々は寂静(じゃくじょう)という感覚を好み、心が静まり、煩悩が特にないと感じるものだ。実は、禅定を修めるというのは、これを修めることではない。こうした感覚がお好きであれば、声聞・縁覚(しょうもん・えんがく)を修める阿羅漢道に入りやすく、さらに大乗仏法とかけ離れ、菩薩道が学べなくなる。釈迦牟尼仏は慈悲深く、初めから仏を学ぶ初心者が、出家や在家を問わず、間違った心構えを持ち易いことを指摘なされた。
取り付きから仏を学ぶ初心としては、声聞縁覚の修習や、自身の輪廻解脱を修める阿羅漢果位を楽しむことにあるべからず。菩薩道を修めて他人を利益することにある。取り付きから仏を学ぶ位置づけが正確でなければ、後ろの部分は修め得られなくなる。まるで地蔵菩薩が説かれた「地獄が尽きない限り、成仏しない」ような概念を持たなければ、菩薩乗が学べない。しかも、そなたは阿羅漢道を修める資格もないから、どうすればいいのか。誦経して浄土に行けばいいと言う人もいるだろうが、そう簡単に行けようなら、仏様は『無量寿経』であれだけ多く説かれる必要がなかろう。
取り付きから、衆生利益できるように大乗仏法を修めて菩薩道を行うつもりがなければ、空性を体感することができず、執着するようになる。事をし間違えても気づかない上、てっきり自分が正しいと思ってしまう。ご自身の知見を持つことこそ、所知障になる。在世の間、菩薩道を修めようと決定しなければ、阿弥陀仏の身許に行けそうもない。初めてすぐの頃、良い暮らしの為やら、落ち着いていて人と揉め事がないようにやら、悩みがなくすべてが上手くいくようにやらと願ったら、菩薩道を修める事と無関係になるし、阿弥陀仏の身許にも行けようがない。阿弥陀仏浄土に行く者は、既に登録してある菩薩な故、地球で菩薩道を修める心構えを育っていなければ、どうして行けようか。阿弥陀仏の所へ行って、良い暮らしのためでもなく、生前に苦痛が全部なくなるようにというためでもない。こうした考え方は間違っている。
昨日、ある弟子から不共四加行の伝授の求めが来て、出家弟子の報告によれば、その弟子は既に面談を通ったとのことであった。私が面談の内容を確認したところ、該当の弟子は衆生に傷つかないように法を求めたそうだ。衆生に傷つかないことは、格が上がって菩薩道を修めるのとは無関係だというわけではないが、それは趣旨ではなく、五戒をしっかりと守れば自ずから衆生に傷つけることがなくなるからだ。該当の弟子は四加行を学ぶのが菩薩道のためではないから、授けないとする。寶吉祥道場では、不共四加行はやたらと授けるものではなく、物凄く厳しく選り分けるのだ。
菩薩道を修めるには、10年の顕教の基礎を必要とする他、不共四加行を修め切り、灌頂を授かる必要がある。そして灌頂後、どうして灌頂が要るのかが分かるようになる。そうでなければ、菩薩道が学べない。充分な福報を持ってはじめて菩薩道が学べる。福が足りなければ、善法を悪法に間違えたりする。何故なら、白法を受け止める福報を充分持っていないからだ。たとえ、上師が仏典に従い開示を進めても、彼は他所のほうに考えてしまう。それは、福報がないから、ひたすら安逸で苦しみのない生活ばかりしか頭になく、自然と菩薩道と無関係になる。大乗経典で開示された一切の仏法、上師が示現された一切の物事に対して、彼は疑ったりする。それは、彼の心には殊勝な仏法がなく自身のために修行に来ているに過ぎないからだ。
この話を通じて我々を戒めたのは、取り付きから正確な観念を持つためだ。でなければ、果てはよくない状況が生じるようになる。物事に対し皮相だけ考えて動くなり、後遺症を無視するなり、事をし損なっても気づかなくなりがそうだ。
経典:「無生無滅のもろもろの三摩地を得」
涅槃に入らない場合、どんな苦があるかを心配する必要はなく、菩薩道を学んだ以上涅槃に入ることを考える必要がなくとも、依然に無生無滅の諸の三摩地を得ることができる。何故なら、そなたは諸法性空を知り、一切は縁起性空、不生不滅であって、生滅が有るのは我々が考え出し、全て我々の煩悩業力によるものであるからだ。これも因縁法で、縁生縁滅は永久ではないのだ。
三摩地は、即ち禅定力である。一切が無生無滅だと知れば、煩悩がちっとも生じない。たとえ、世間的な煩悩が起きたとしても、そなたは対処に力を尽くしながらも、苦痛を感じない。言うのは簡単だが、この程度まで修めるのは決して容易な事ではない。『心経』で説かれたように、一切が無いとあるが、無いとは存在しないのではなく、仏様は我々に、そなたが涅槃に入らずしても、無生無滅の諸の三摩地が得られるから、ご心配なくと教えている。
輪廻苦海の中で、何か苦痛が現われたとしても、全てが無生無滅だ。四無量心では最後の一個に「遠離愛憎住平等捨」があるが、どんなに好きであろうと、どんなに嫌いであろうと、平等心を以て捨てるべきだ。それは、好きかどうかも生滅法だからだ。好きなものだけ留め、嫌いなものを捨てて、縁起性空に背いたままでは、如何なる法門も得法できない。
ある女性らが会見を求めに来て、どうのこうのと旦那さんに苦しめられたと言う。嫁いだ時は、その良さしか目に見えず、良くない所が見えなかったのに、何が苦痛なのか。悪霊によって目を遮られたと言っても、その実、ご自身の欲望によって目が遮られたのだ。悪霊なんてあるか。有っても取り立ての業力が現われただけなのだ。
そなたが菩薩道を修めない上、阿羅漢道を修める資格も持っていない。このままでは、ちっとも福報が持てない。たとえ、出家相が現われても、帰依してあっても悩んでいる。何故なら、間違えた決定をしたからだ。所知障とは、そなたが持っている見解のこと。我見が重い人は仏法が学べない。その人が目にした物事がすべて間違っているからだ。自分だけしか正しくないような考え方があれば、仏を学ばないよう勧める。出家相を現わしても、永遠に空性を証する事ができず、無生無滅という道理を分かり兼ねるであろう。
縁起性空を証すれば、体得でき、悟りが開けて、そなたの心は永遠に禅定の中に留まる。禅定とは、そこいら数時間、結跏趺坐で据えるのではなく、或いは大迦葉尊者が今でも禅定の中にいるような事ではない。それは彼の因縁で、そなたと無関係だ。諸の三摩地とは、そなたの身口意は、外在・内在による一切の煩悩によって動じることがなく、縁に随い日々を暮らすような人間で、そして、一切衆生のいわゆる良い事やら悪い事やらはすべて因縁法だとのお考えである。私もしばしば言うように、菩薩の視野では、良い人や悪い人などの区別がなく、その因果に着眼しながら、何をしたかを見るのではない。彼がしたのが、良い事やら、悪い事やらも因縁法だ。菩薩の心では、衆生はみな平等であるから、衆生が善・悪の因をしようと、善・悪の果を得ようと、すべて因縁法だ。
だから、四無量心の最後に「遠離愛憎住平等捨」がある。ある物事のあるかないかに執着する場合、輪廻に行くつもりなのだ。出家すれば輪廻に入らないと思ってはならない。「私はこのお経が好きだ」、「私はこの真言が好きじゃない」、「私はこうした唱え方が好きではない」なんて、何れも執着だ。こう考えていれば、輪廻するのだ。何故なら、そなたが強烈に我見、執着を起すと、無生無滅諸三摩地を得ることと関係が無くなる。
仏の説かれた方法に則って修めれば、きっとそなたを成仏させるどれか一つの道に出るようになる。『宝積経』では、菩薩乗、空性を説かれている。龍樹菩薩の中観論は『宝積経』によったものである。以前、私は法王に、中観論を拝読する必要があるかどうかについて、指示を請うたことがあるが、法王は「必要がない、大手印まで修めれば分かる」と仰せになった。大手印は直貢噶舉で特有の禅定方式である。中観論を単に文字から読めば、迷うようになる。有ることでもないが、無い事でもない。左寄りに据えないし、真ん中に据えてもならない。それでは、どこだろうか。龍樹菩薩が中観論を開示された折、実は大菩薩を相手に説き聞かせたのだ。凡夫としては、自分が修行方向すら決めていないのに、どうやって中観論を分かり得ようか。それどころか、その時間を使って六字大明呪を多めに唱えるようにしろ。
仏は、「はじめより二乗の涅槃に入ることを楽はず、無生無滅の諸の三摩地を得」と言いながらも、これは菩薩道まで修めなければ得られないものである。
経典:「および一切の陀羅尼門」
如何なる持呪の法門からも得られる。菩薩道を修める者は持呪を理解しているに決まっており、持呪を通じて無生無滅諸三摩地を得る。最後まで持呪することによって、心にある「結び」が一つずつ解かれていき、自ずと本尊と相応し、無生無滅が得られる。
経典:「広大なる諸根・弁才決定を得」
ここでの弁とは、弁解のことでもなく、仏典や、聞法(もんぽう)や、論から得られるものでもない。それは、そなたが無生無滅諸三摩地を得た後、呪文の法門で修行する中で、呪文を通じて閉関修行などしてから、眼耳鼻舌身意という六根を以って仏典にある疑情(ぎじょう)をはっきりと言い聞かせることであって、仏典を以って人と弁論したりすることではない。こうして修めると、自ずと智慧が開くから、求める必要がない。
経典:「菩薩蔵法において、 よく了知して」
如何なる菩薩も、願力、事業、功徳をそれぞれ持つ。また八大菩薩は、事業、功徳と願力がそれぞれ違う。弁の才に長けてはじめて、諸仏菩薩の秘密蔵(即ち、その菩薩になった方法)を自然に分かるようになる。時間を掛けて分かるのもいれば、素早く分かるのもいる。
昔は新しく学んだ本尊の呪文があってもその呪文の意味が体得できなかったが、ここ数年は分かるようになっている。呪文は本尊の願力、事業、功徳を短い幾つかの字で表すことだ。ある本尊の呪文を唱えると、つまりその慈悲、功徳、事業と智慧を唱えていることになるのだ。ひたすら唱えれば、自ずと本尊の菩薩蔵は何だと分かるようになるから、説明してもらう必要がない。
多くの者は大悲呪を詳しく解説する傾向がある。それはあってはならないことだ。人類の考え方で呪文を解釈すると、菩薩の呪文ではなく、そなたの呪文になる。以前、私が顕教を学んだ際に、ある人が大悲呪の解説を私に見せようとしたが、私は読む必要がないと断った。仏典では、呪文の解説を教えていず、呪文の唱え、発願のやり方、自分の動きをどう改めるかしか教えていない。多くの者は、呪文の意味を聞いている。それは、そなたと無関係だ、そなたが菩薩道を修めなければ、単なる幾つかの音を発声するだけに過ぎない。菩薩道を修めようと決心しなければ、呪文はそなたにとって、単に善の機根を強める働きであって、成就することはない。もし、菩薩道を修めようと決心すれば、如何なる本尊の呪文も、そなたを成就させることができる。つまり、自分と衆生を生死から解脱させることができるのだ。
持呪をすれば、現在の情況が変えられるというお考えなら、間違いだ。現在の情況は、過去にご自身が為した事によって果報として現われたのだ。仏菩薩もその呪文はそなたの果報を変えられると言っていない。もし、六字大明呪を持すれば、そなたの果報が変えられるなら、そなたが持呪した果報も無くなる。持呪は、そなたの果報を軽くするなり、たとえ果報が成熟したとしても、そなたが仏を学ぶ心構えに障りなく、そなたに仏を学び続けるようさせるのだ。
二週間前に二人の女性信者が会見を求めに来たが、その弟がとある細胞に攻撃され、腸閉塞で集中治療室に入っているそうだ。私が入定して見ると、彼は毎日座ると10時間も動かず、から揚げや煮卵、そして脂の乗った肉を好んでいることが分かった。私はこの人と会ったこともないのに、その状況を知った。私は加持を与えてから、そのお姉さんに、暖かいタオルでその足部に温罨法をし、そのふくらはぎにマッサージを施してあげようと言い付けた。今は病状が落ち着いてきた。昨日、その母親はまた貪って、それが治るように求めた。私が救ったのはその命で、治すには医者に診てもらう必要がある。
仮に、私の持呪に力が足らなければ、他人をどうして助けられようか。つまり、私は「無生無滅の諸々の三摩地を得、および一切の陀羅尼門・広大なる諸根・弁才決定を得、菩薩蔵法において、よく了知す。」なのだ。よって、そなたらの初心と関わり、今決定していなくてもまだ改めるのに間に合うが、これ以上改めないと、仏法とそなたとの関係は、せいぜい人天福報に過ぎず、生死解脱させることはない。
「私はリンポチェのように、することができない。どうしよう。」どうしようもないということはなく、話を聞き実行すればいい。地球で修め得られなくても、阿弥陀仏の身許へ行って修めれば、まだ機会がある。釈迦牟尼仏は慈悲深く、四十八願を説くに先立ち、これらの条件を満たすよう実践すべきだと、皆に説き聞かせる。迷信せず、自ら実行すべきだ。そなたがこの時点で菩薩だと言っていないが、こうした心構えを持ち、決定すべきだ。いつ成し遂げられるかは大切ではなく、すべてそなたの福徳因縁によるのだ。
苦労が我慢できないやら、苦労を飲み込めないなら、菩薩をする資格などない。歴代で成就された行者は、一生の中でたくさん苦労を経験した。出家衆で苦労をしたことが無ければ、どうぞ苦労しなさい。出家だけすれば、快適な暮らしがあったり、悟りを開いたりできると思うのか。仏典ではそう言っていない。苦労しなければ、苦が分かり得ようか。苦を理解しなければ、衆生を苦から離れさせようことがあろうか。在家衆全員を含め、もし仏を学ぶのは安逸な生活の為だと思うのなら、学ばない方が良い。
私は、生涯で多くの苦を経験し、そなたが挙げるような苦を、手術以外の苦を全部経験してきた。菩薩道を修めては、自分自身の苦に対してすら怯えるならば、どうやって衆生に苦を解決させようか。「苦労することを、栄養の補充のように」。苦があれば、良い事だ!債務を返させてくれるから。かつて、私が食事に事欠いて貧乏だった際に、また一つ借金が返せて、なんて嬉しいことだろうと思った。そなたらはちょっと病気したらさんざん文句を言うようになり、「私が良くやっていないから、観世音菩薩に守られない」と考える。私も屡々いうように、菩薩道を修める者は「地獄に堕ちるのが、私にとって良いのなら私を堕とせばいい。」、「病気になるのが、私にとって良いのなら私を病気にならせたらいい。」と言う。それは、全部の債務を返済し切ろうという意味だ。そなたらは地獄に堕ちるのを恐れ、「菩薩よ、私を健康にしてくれれば、もっとたくさんの衆生を利益します」と、ひねもす求めてばかりいる。こんなのは、求めなくても良い。健康かどうかは、そなたの福報に関わる。多くの者は、道を間違えたり、決定を間違えたりする。釈迦牟尼仏は慈悲深く、簡単に幾つかの話でそなたらの問題を全部引き出している。
経典:「仏華三昧を時に随ひて悟入し」
この華は花で、三昧は戒定慧である。多くの者は智慧を開くと言うが、智慧はもともと具備してあるもので、求めて得られるものではない。
現在、私が修行でたどり着いたこの境界では、随時悟入(ごにゅう)できるのだ。因縁が成熟すれば悟るものだから、求める必要がない。ひたすらこの法門に照らして修めれば、何も求めずしても、自ずと生じるものだ。まるで法王が仰せになった、私の修行の成就が自然に生じたもののようにだ。そなたが、こうして因縁が成熟して福報が足りるよう修めれば、自ずと生じるものだから、まだ求める必要があろうか。何故、私が持呪して入定できるのかは、正にこの幾つかの話だ。成し遂げられれば求める必要がない。因縁が成熟すれば随時入ることができる。菩薩道で一切を円満させると、成仏するならすぐさま成仏するから、わざわざ菩提樹の下で待機する必要がない。仏は、そなたが一切を円満にさせれば、随時悟ると仰せになった。
経典:「菩一切種の甚深の禅定を具して」
そなたが持呪し菩薩道を修めれば、そなたが思う様々な最深の禅定が具備される。ある時、私が閉関修行の際に、無生無滅と入定との違いを悟った。多くの者は禅定を空性と見なしているが、実は無生無滅は微細な心構えに変化があるのだ。菩薩道を修める者にとっては、如何なる禅定も得られ、衆生を済度するだけで禅定に入る。例えば、私が如何なる衆生を加持しようと、禅定の中で施す。こうしてはじめて、彼に何があったか分かる。まるで先ほど例に取り上げた信者の話のように、その家族は彼が何が好きなのか言わないものの、私は知っている。しかも、彼のお父さんは法王の事をしっていて、お父さんはその娘に、このリンポチェが厳しいから、このリンポチェのところへ行けと言った。
そなたが菩薩道を修めていれば、仏門でのあらゆる事をわざわざ手配する必要がなく、自ずと有るようになる。私は、禅一、禅三、禅七、仏七などを全部打ったことはあるが、菩提心を発さず、何れも菩薩道の方法で修めてはいなかった。自分がこうしたら、心がより静まり、くよくよ煩わなくなれればと、ひたすら願ったら、役に立たないのだ。
経典:「一切の諸仏みなことごとく見前す。」
そなたが一切の諸仏を知るのではなく、一切の諸仏がそなたは何しているか知っているのだ。菩薩道を行おうとそなたが決心すれば、仏はそなたが現在菩薩道を修めていると知る。そうだったら、仏はそなたを加持しないだろうか、保護しないだろうか。『華厳経』には、如何なる衆生も、大願を発し、菩薩道を修めるよう大心を発すれば、諸仏は讃歎し、そなたの業力をゆっくりと転じられるとある。そなたらは今とても転じられそうにないが、それはまだ凡夫の枠にあるからだ。
もし菩薩道を修めれば、すぐ人に自分が菩薩だと感じさせられると思う人が居れば、それもまた間違いだ。菩薩は相に執着しないとし、衆生の業によってある相を現す。菩薩ではない人等に、どうして菩薩の相を見せられようか。まるで私がそなたらの凡夫を度す時、もちろん凡夫の相で見せているようにだ。天眼を開いたり、四臂観音のように手を四本見せたりすることはなかろう。
唐の時代で使われた言葉は現代のと違い、現代の文字で解説できない。そなたはまだ仏の境界まで修めていず、どうして仏を知ることはあろうか。それが為に、釈迦牟尼仏より阿弥陀経を紹介された。普賢菩薩、観世音菩薩からのではない。同じ境界にあるからこそ、この方の仏の境界を知り得る。
我々がこう修めようと決心し、禅定に入る時、自ずと仏は知る。ただ、仏がそなたの修めていることを知らない時の理由は、そなたに禅定がないからだ。持呪しながら、旦那や息子が何時に帰ってくるだろうと心配している。そんなことで仏はどうしてそなたを知るわけがあろうか。何故、阿弥陀経を称名しても効果が出ないのか。それは、唱えながら阿弥陀仏は来るかなと心配しているから、禅定がない。仏はずっと定の中に居られ、仏は動じない。そなたは心が動じないまでしなければ、そなたの持した仏の呪文は仏自身の願力と接することはない。そうしてはじめて、仏はそなたが修めていることを知って、その身の周りの護法が動き始め、加持力が伝わってくるようになる。
決して、禅定に入ればすべての仏を知ると、取り違えないように。いくらそなたが十六地菩薩を修めようと、仏果を証するまでは仏の境界を知り得ない。いったい仏の涅槃という境界は何なのだろう。我々は字面から少しだけ理解することはできるが、我々は紛れもなく知らない。まるで小学生なら決して博士の学問がどれほど深いか分からないように、説き聞かせても知れることはない。我々は小学生に過ぎない。仏だけが仏の境界を知り、菩薩の境界を知る。前の部分が全部実践できた時に、十方にある諸仏はそなたが菩薩道を修めていることを知り、自ずと加持に来てくださるようになる。
見前とは、そなたが菩薩道を修めるにあたって、一切の諸仏がそなたが修めているのを知るようになると、仏からの加持力が伝わってくる、これが仏の化身の現われだということを指す。多くの者が経験したように、切に願うとリンポチェが現われたのを見かけた。それは、私に分身があるのではなく、そなたが切に祈り求める際に、知らず知らずのうちに禅定に入っているからだ。禅定とは如如不動ではなく、その念頭がとある物事に置くことであり、たとえばある法号やら、呪文やらにあると、自ずと清浄なる本性は開かれる。清浄なる本性は、仏菩薩の清浄なる本性と接すると、仏菩薩はその存在を知るようになる。知っていたら、仏典で説かれたような化身仏が現前してそなたを迎えるのだ。もし、そなたが在世で菩薩道を修めていなければ、仏はそなたの前に現前して見せることはない。
経典:「一念のなかにおいて、 あまねく仏土に遊び」
この話は、幾通りに解説することができる。例えば、浄土十六観ではどの観も浄土に何があるについて観ずると説かれ、これが一つの念頭で仏土が見えることだ。観想を通すと言いながらも、その実、阿弥陀仏の仏土も観想を通して成り立ったのだ。愚かな衆生の心で見れば、実報荘厳土のようだが、それも最初は仏の願力、念頭によって観想されたものだった。
密法を瑜伽部まで修めれば、一つの念頭で仏土が見える。本尊が浄土に居られるのを観ずるのも、この観念だ。一つの念頭に於いて仏土を遍歴する。我々は、体、魂、神識 (しんしき)の何れも行かず、念頭だけ赴く。浄土宗を修める者は、信、願、行が必要である。浄土なんて無いと疑ってはならない。浄土があると信じれば、それはある。一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)であり、一切の事象は心によって作られるとされる。もし「仏法、リンポチェから、ご加護があるから、私は最も幸せな人だ」と思うと、そなたは幸せだ。もし、そなたがひたすら「リンポチェは私の考え方を満たしてくれないから、苦しい」と思っているなら、そなたは考え方が満足されず、苦しい人だ。全てはそなたが考え出したのだ。
地球に居るにも関わらず、我々はこの法門に照らして修め、我々は浄土に居るという念頭が起きれば、浄土に居るのだ。これも日頃からの訓練を必要とし、いわゆる「心を静めれば、仏土が静まる」である。釈迦牟尼仏の道場は地球にありながら、地球では滅茶苦茶な事が多いが、釈迦牟尼仏の心は清浄である。そなたが目に見えた好ましくない事は、業力、執着によって生じるものだ。仏の心では、一切が無生無滅である故、ここが浄土と観想すれば、ここが浄土である。
我が道場が浄土であると思えば、ここが浄土だ。毎回、修法する前に私は必ず壇城とこの場所が浄土と観想している。一念で浄土に居る。今は神足通(自由自在に飛んだりして行き来できること)を持つように修めていないが、念頭にしか頼らない。上記の条件がすべて備えたら、一念であまねく仏土を遊ぶことができる。つまり、そなたの光はたどり着くのだ。仏典では十万億の仏土とあるが、空性にまで、菩薩道にまで修めるに先立ち、こうした観念を持つのだ。
私がポワ法で衆生を阿弥陀仏の身許へ送る際に、ちっとも10万億仏土を考えていない。単に一念だけで、これが浄土だという念頭が起きれば、衆生が赴くのだ。十万億仏土なんて、ロケットに乗っても行けそうにないと悩むのではない。我々の念頭は光速より速い。現在、あらゆる科学機器も、念頭が速いか脳波が速いかと測定することができない。念頭のほうが速いのだ。心に念頭が起きなければ、脳の電波は稼働しない。念頭があっての脳波の稼働だ。菩薩道を修めるのは、これだけメリットがあるのだ。
経典:「周旋し往返するに、その時を異にせず。」
往復にして時を異にしない。亡者を済度する場合、亡者を阿弥陀仏の身許へ連れて行く必要があり、私自身は行き方を知っているべきだ。何故なら、私は亡者を連れて行ってすぐ戻るのだ。全て私の念頭だ。念頭をどう訓練するのか。戒定慧、持呪によって我々の念頭を訓練するのだ。強烈な念頭を起して、一念の中で往復でも時間の錯覚を生じさせない。
宇宙では、もし惑星の運行を見かけていなければ、宇宙の最も深い所では時間という観念がない。時間は人類が考え出したものだ。まるで『金剛経』にある破寿者相のように、寿とは寿命ではなく、無寿者相は時間が無いことだ。腸閉塞したその信者の件のように、その名前以外、どの病院ですら分からないのに、往復する間にすでにその事情を分かっている。何故なら、私は彼を助けるという一つの念頭しかないからだ。この念頭が起きると、本尊が加持して、私に事情を分からせたのだ。
念頭が悪なのであれば人が傷つき、念頭が善なのであれば人助けする。そなたの念頭がひねもす仏土を遊歴したいのなら、そなたは行く。そなたが気が狂って白昼夢を見ていると言うのではなく、仏土を遊歴するのもレベルの区分けがある。どう観想しようかと授け、そなたが観想してから、入定すると仏土は同様だ。
「阿弥陀仏無遮大済度法会」の時に、済度を受けに来る鬼衆は数百万であり、数百万という亡霊を私一人の力に頼っては無理だ。もし、仏土を観想して本尊を招請(しょうせい)しなければ、度しようがあろうか。上記のあらゆる条件を成し遂げたら、非常に深い禅定に入り、陀羅尼門を得てはじめて済度できる。だから、多くの儀軌は、仏土を観想できるよう助けてくれる働きをする。これら来てくれる衆生にここが良いなぁと思わせるようなら、来てくれる。
誦経などすれば済度できるわけではなく、もし仏土を観想できなければ、仏と相応し得ないなら、衆生がここに来ても別に地獄と変わるところがないように思うだろう。良い所に居るんだと思わせない限り、行かないのだ。観想の力が不足している人は済度し得ないのだ。誦経したり、阿弥陀仏を称名したりすれば済度されると思ってはならない。上記の条件を成し遂げなければ、不可能だ。
今まで、この段落の経文を読んだことはないが、私は済度とは何だと知っている。我が道場はこれだけ多くの人がおり、これだけの人が往生してきたが、何れも臨終誦経の団体を作ったこともない。そなたらに危害を加えたくないし、亡者にも危害を加えたくないのだ。
施身法の行法時、私が大腿骨の法器を吹くと、済度を受けに入ってくる衆生は数えきれないほどだ。だから、修法する際、必ず道場を浄土に観想しなければ、彼らを受け入れられない。彼等は入ると、そなたらのことが見えない。そなたが切にお父さんの名前を唱えているから、彼が入ったらそなたが見えると思ってはならない。見えないのだ。だが、そなたが切に唱えているから、上師の慈悲心を感応する。上師の慈悲心は更に観世音菩薩を感応して、観世音菩薩が彼に来るよう招くのだ。彼等が駆け込むと、壇城前に食べ物があることしか見えない。
今年は大法会の挙行を中止する。そなたらは誰も分からない。リンポチェへの弥縫策に、親友を大法会への参列に招いている。もし衆生が進んで仏道修行に励むなら、私は苦労してもいいのだが、誰も励まないなら、挙行するのは何のためだ。二日間の閉関修行に、早起きに、四時間の修法なんて、そんなに苦労する理由があろうか。
経典:「難・非難の辺においてよく諸辺を了らしめ 」
地球には人口が73億ある。毎日多くの人々が往生する中、どうやったらこれといった亡霊を見つけて済度できるのだろうか。それは、毎回は観世音菩薩に助けていただいているのだが、きっと大菩薩でなければ、これといった亡霊を選定することができない。確かに私が済度の法を修め始めた頃に、その亡霊を見つけ出すのが困難だったが、今に至っては非常に容易だ。
我々は用が多く仏を学ぶのが難しいことを知っているが、無生無滅、縁起性空のことさえ理解できれば、難しいと思えるのは我見、執着のせいだと分かるようになる。自分にはできないと思ったら、できなくなる。いつになったらできるようになるのだろうか。絶えず実践すれば、きっとある日できるようになる。この世ではないかもしれませんが、少なくとも死ぬ前に自分ができるかどうかを知る。死ぬ前に苦痛があるかどうかということは、明白で誤魔化せそうにないことだ。
衆生済度が難しく境があるように思うだろう。地獄の衆生を度するには、我々にとって境があろうか。我々は降りられようか。不可能だ。だが、何故地獄の衆生が出てくるのだろうか。それは因縁だ。衆生が求めに来たところを、折しも上師の心では衆生を助けようと思った時、そしてちょうど上師が修めた法門が本尊と相応している。本尊と上師と相応しているからこそ、本尊は自然と我々のあらゆる困難な出来事を解決し、これと言った衆生を探し出してくださるのだ。
ポワ法のテキストに「鳥のたどり着ける場所ならどこでも、修法は成就する」とあるが、果てしない事を表すのだ。私は3,000キロ余り離れた場所から、台湾に居た弟子に法を修めさせたことがある。しかも、ステンレスの遺体保存冷蔵庫越しに、亡者の頭頂部にある梵穴に穴を開けた。ステンレス越しに穴を開け、分厚いステンレス板を破壊せずできたのは、全て心念と菩提心に依るのだ。
此の時、ある出家弟子は開示を聴聞するのに専念せず、仏典を読んだ。リンポチェは直接彼女に癖を直せと咎めたのち、後ろに座れと命じられた。
経典:「実際を敷演して」
これらの修行方法に基づくと、衆生に分からせる為に、実際にその前触れが顕われる。仏法は殊勝であり、単に理論や口先などに頼るものではない。外道ですら唱えたりすれば、感じ取れるようになるくせに、仏法ではそれがない理由はなんだろうか。きっとある。ないなら、それはそなたができていないのだ。
私は現在74歳の年だが、まだ様々な法を学んでいる。この法を修めるのに先立ち灌頂が必要だ、とはっきり講じているテキストがある。法によっては、一年の中で決まった時間しか修められないのもある。助けられる人に、仏法の殊勝さを明白に分からせないと、その信心が起きない。理論に則って言ったりなどするのではない。そなたらはさんざんに怒られてもまだここに留まっているのは、私の凄さを知っているからだ。でもその凄さは私ではなく、全て仏法によっているのだ。釈迦牟尼仏と上師に教わった教えに沿って、着々と実践していき、自然とできるようになるのだ。
経典:「差別よく知り」
仏法に差別があるわけではなく、衆生の業力や果報に差異があるのだ。先ほど自身の経験を語った弟子のように、その家に魚の養殖場があったにも関わらず、前の世代のことだから、と大した事ではないように思っていた。弟子がその事を私に打ち明けようとしないが、私はすぐその問題点を指摘した。かつて、ある弟子が子供に蛙を食べさせたが、その弟子が会見を求めに来た際に、私がその原因(衆生済度事跡第226号を参照)を解き明かしたところ、そのお父さんが浮かない顔をしてその場を去った。これこそ因果を信じないのだ。ふとして蛙を食べてはこう深刻な事態になり得るのか。だが、私が入定すると、すぐかつての彼等のやったことが分かったのだ。
経典:「仏の弁才を得て普賢の行に住し」
本日説いたのは基礎であり、菩薩はどうやって修め得られるのか知って欲しい。手に三つの戒疤(かいは)を焼き付けば、菩薩と自称できるのではなく、ある兆しが現われてはじめて菩薩と言えるのだ。自然と仏の弁才を得て普賢の行に住するようになる。仏の弁才は、必ず人に勝とうとするのではなく、その真実の道理を衆生に説き聞かせることだ。普賢菩薩のように、絶えず修行し続けるべきだ。
私がこれだけ多くの法を学んだのは自分自身の為ではなく、衆生によって業力が違う故、該当の症状に対して処方するように励んだからだ。あらゆる衆生の出来事が、単に一句の六字大明呪で解決し得るのではなく、また単に一つの表情であらゆる衆生を度する事ができるわけではない。喜怒哀楽を随時披露しているのだ。リンポチェが最高の俳優であって、衆生に応じて様々な度し方を演じている。
灌頂も部分けの際、蓮華部、護法部、金剛部、上師部と分けられるようにだ。例えば、ある衆生は金剛部の法を以って対処すべきなら、蓮華部の法では助けられなく、助けるには怒目金剛の法しかない。あらゆるリンポチェは、息・懐・増・誅を円満に修め、成就することとする。これもアキ護法のテキストに書かれている。
菩薩がとりわけ凄い、とりわけ威風堂々だというのではなく、菩薩は多く学び多く実践するから、決心が必要なのだ。今は私ほど十分に実践できないが、決心すればきっとできるに違いない。いつ成就するかは、その機根、業力と決心によるのだ。決心が肝心かなめで、この一生で小さな成就にまで修められたのは、私が格別に賢いのではなく、とりわけバカだからだ。
« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »
2021 年 06 月 14 日 更新