尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2018年12月16日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで自ら殊勝なる施身法法会を主法なされた。
リンポチェは法座に上られると、すぐに修法を開始され、苦の中にいる亡者を済度なされた。リンポチェは大手印禅定と共に、殊勝なる施身法を修持くださり、勝義菩提心で、自身の一切の血肉、骨を、残らず諸仏菩薩に供養申し上げ、一切の六道衆生に布施するよう観想くださり、六字大明咒を長々と持誦くださった。慈悲なる法音は辺りに満ち満ちた。参会者は皆、衆生を輪迴苦海から救おうとなさるリンチェンドルチェ・リンポチェの真心からの大悲心を感じ、知らず知らずのうちに涙で満面を濡らした。
修法は円満となり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは開示を賜った。
今日の修法は非常にスピーディだ。護法を修める前に、なぜ私が仏法で衆生を救うことができ、そなた達にはできないかを知ってもらうため、私の修行過程について話そう。私は、諸仏菩薩と上師の加持のおかげで、衆生を救う能力を有しているのだ。
1995年、その頃、私はただの上師に過ぎなかった。初めてチベットへ赴き、直貢噶舉で最も古い寺院「直貢梯寺」を参拝した。その頃のラサでは、道路を走っている自動車などほとんどなく、大部分が三輪車だった。ラサから直貢梯寺へ向かうには、早朝5時に出発しなければならない。その頃は道らしい道がなかったのだ。梯寺に着くのは午前10時から11時だ。今は便利になり、長くとも一時間余りで着いてしまう。
その日、梯寺に到着後、私は最初の問いとして「梯寺に最も年長の修行者はおられますか?」と尋ねた。私が話し終わると、横で聞いていたあるラマが、中国語が話せるラマに「リンポチェが、今日外地からある人がやって来る。その人が会いたいというのは、この人に違いない。私が連れて行こう、と仰せだった」と言われた。それで梯寺からさらに関房へと登った。およそ標高にして五、六百メートルほどさらに登った。今登れと言われても、おそらく体力的に難しいだろう。上の方の関房でお暮らしであったのは、私の皈依師の一人であられるテンジン・ニンマ・リンポチェだ。チベット密教では、閉関中に人に会うのだろうか?古代には関房に窓口が開けられていた。それは扉に開けられた穴のようなものでもあり、その穴から食事が差し入れられていた。
その日私が向かうと、侍者がリンポチェの窓口の木の扉を叩いた。数分待った後、テンジン・ニンマ・リンポチェは、窓口から頭を出し、私に、頭を挿し入れるよう言われた。私は最初は、私に加持くださるのだと思っていた。ところが、私が同意するか否かに関わらず、ハサミで私の毛髪を一掴み切ってしまわれた。チベット密教では髮を切るのは、相手の皈依を受け入れ、相手を皈依させるということなのだ。髮を切った後、私の法号を改められ、関房前で自分に対して九回の頂礼を行うよう指示された。通常私達は三回の頂礼を行う。なぜ九回の頂礼をご指示になったのか、私は今になっても分からない。
その後私は何度も弟子を連れてテンジン・ニンマ・リンポチェにお目にかかっている。普通リンポチェの関房に他人は入ることはできない。だが私は二度入ることをお許しいただいた。ある時は私が入り、通訳も私とともに入室した。リンポチェは突然「ヨーグルトは食べるか?」と私に尋ねられた。私が「食べます」と答えると、リンポチェはあちこち探して、部屋の中に碗を見つけ、ヨーグルトを装ってくださり、スプーンもヨーグルトに添えてくださった。この話は以前から何度も話している。リンポチェはスプーンを長いあいだ舐めていらっしゃった。そのスプーンを舐めて、きれいにしようとしておられたのだ。その頃、リンポチェはもう七十歲代だった。そなた達も知っておろう。チベットの古い世代の人は入浴しない。チベット人は一生に三回しか入浴しない。一回は出生時に、二回目は在家衆なら結婚の時に、出家衆なら出家の時に。最後の一回は死ぬ時だ。私の見たところ、リンポチェは歯磨きもしておられないようだ。これら重要でないことに、金の無駄遣いをしないのだ。
リンポチェはスプーンをすっかりきれいに舐めた後、ヨーグルトをひと匙すくって私の手の上に載せてくださったので、私はすぐに食べた。これは仏法の考え方から言えば、上師に与えられたものは、すべて受け入れなければならないからだ。第二に言えるのは、分別心を起こせば「歯磨きもしていないのに、こんなに長いこと舐めていた。唾液がいっぱいだろう」と思うだろうということだ。唾液を口に入れれば必ずその人の言うことを聞かなければならない。これは広東人の言い方だ。だが私達にとっては、これはリンポチェの甘露だ。分別心がないのだ。上師に対して分別心を起こさない。そうでなければ、衆生に対して、物事に対して分別心を起こさないよう自身を訓練することはできない。分別心とはなんだろうか?それは心の中で、これは良い、これは悪い、と区別することだ。菩薩乗修行には良いも悪いもない。善と悪の因果因縁しかない。この世間では、良い悪いの判断は民族によって、人によって、物事に対して、利益に対して、それぞれ見方が異なる。そのため、上師から賜ったヨーグルトを食べたことで、私の持咒は広大な衆生に利益できるようになったのだ。
二度目に訪れた時は、夏の、8月末頃だったが、梯寺から登って行く際に、雪が降り出した。その時空には雲がなかった。雲があって雪が降るなら、当たり前だ。だがその日は雲がなかったのだ。直貢梯寺の脇には天葬台がある。遺体を食べる鷹がその辺りにはいるが、彼らは普通、午前11時を過ぎると飛んで来ない。巣穴に帰るのだ。だがその日は、私がリンポチェの関房へ行くまで、鷹達は私の上空で旋回していた。
その際、テンジン・ニンマ・リンポチェは私を関房へ入れてくださった。侍者にあちこち探させ、長い間探して、人民元500元を見つけ、私にくださった。道理に従えば、弟子としては、上師が自分に金銭をくださるなどあり得ない。私は受け取ることができなかった。だがリンポチェは、受け取るよう、強く仰せになる。これはどう言うことだろうか?これは「リンポチェが権利を授けてくださった」と言うことなのだ。私はあらゆる衆生の供養を受けてもよく、またリンポチェは、ご自身の福報を私にくださる、と言うことだ。私が以後非常に多くの事を行うと、リンポチェはご存知だったからだ。最後にお目にかかった時、リンポチェは私の弟子が献じたハタさえお受け取りにならなかった。私のものだけをお受け取りくださり、他の人の供養は一切受け取られなかった。いっしょに行った者は知っている。全くお受け取りにならなかった。布さえもお受け取りにならなかった。なぜか?それは、そなた達、これら学仏人でない者に借りを作りたくなかったからだ。「自分は供養し、リンポチェは受け取ったので、今後自分には福報がある」などと思わないことだ。真の修行人は人に借りを作りたくないので、何も受け取らず、構ってもくれない。私のハタだけをお受け取りくださり、他の人のを受け取られなかった。今日この話をしたのは、私が衆生に利益する資格がないなら、大修行者は会っても下さらなかっただろう、と言うことを伝えるためだ。その後のことは言うまでもないだろう。これはこの話の一部に過ぎない。
私が施身法を学んだ事については、最も特別なのは、法王を知った後のことだ。ある時、私はインドで閉関した。法王は翌日の夜、関房を出て法王の関房へ来るようご指示になった。法王は私に施身法の灌頂を下さろうとお考えだったのだ。その日の夜、私が関房を出たのは、8時ごろだった。空は真っ暗で、足元が全く見えないほどだった。星も月もまったくない夜だった。法王の関房へ着くと、法王は私に施身法の灌頂をお授けくださった。灌頂が終わり回向を修めていた時、突然雷鳴が轟いた。その音は非常に大きかった。音が鳴り止むと、法王はちょっとご覧になった。そして修法後に「以後そなたはこの法を修めれば成就が得られ、広大な衆生に利益できるだろう。今、確かにそうであることが証明された」と私にお伝えになった。関房を離れる時、どうしたことか!星も月も出てきていたのだ。雷鳴が轟いたのだ。音だけの雷であろうと雲はあるはずだ。だがこの時、空にはまったく雲がなく、空全体が光明を放っていた。密法では「そなたはこの法を得た。未来の修行は光明だ」と言うことを示す兆候とされる。
これら物語は私の能力を標榜するものではない。このような事柄に触れられる累世の善縁が私にはあると言うことを示しているのだ。そなた達にはないのだから、自分には能力があるなどと思ってはならない。世間の種々の名利も財も富も権勢も携えていくことはできない。この一生でどれだけ手に入れようと、最後の1秒には何もなくなってしまう。昇進を願っている人が非常に多い。それこそがこの一生の願望だと思っている。それが手に入ったところでどうなのだ?手に入ったところで、どうにもならない。大した特にはならない。人生は僅か数十年に過ぎない。私達がこの地球に来たのは、ただ四つの事のために過ぎないのだ。返済、取り立て、報恩、報仇の四つだ。この一生は、この4つの事をやり遂げれば去るのだ。そして次の一世に又やって来る。
現在すべてのチベット密教の教派の中で、これほど多くの衆生の面前で施身法を修められるところは、他にはないだろう。特に今日用いている法器は法王が前世でお使いになったことがあるものだ。この一世ではない。ラマがチベットから持ち出してきて法王に献上したものだ。簡単に言えば、施身法の伝承とは私の身にある。法王が前世から現在まで伝えられ、私の身にある。
施身法は世間法と出世法の両方に必ず役に立つ。一切の事柄を円満にできる。顕教において、この法について述べれば、『大般若経』内のすべての精神を以て施身法を書く。『大般若経』は釈迦牟尼仏は非常に多くの時間をかけて講じられた経典で、『大藏経』のおよそ四分の一を占める。講じておられるのは、空性に対する菩薩道の理論、実践、体悟についてだ。その意味するところは、施身法とは顕教においては、『大般若経』を理論の基礎としていると言うことだ。密法においては、事部、行部、瑜伽部の三部を修法の力とする。
禅定においては、噶舉派大手印の第一の次第は専一瑜伽で、第二の次第は離戲瑜伽だ。離戲瑜伽まで証できていなければ、この法を修めることなど不可能だ。大手印の離戲瑜伽まで修めていれば、一心不乱に咒語、仏号を念じることができる。大手印で専一瑜伽まで修めていれば、持咒と仏号を念じることで、念仏成片を成し遂げられる。「仏号を念じる際に、念じれば念じるほど心が乱れる」と言う人がなぜ多いのか?それは、第一に灌頂を得ておらず、凡夫の身口意を諸仏菩薩と同じ清浄な身口意に転じて持咒していないからだ。当然そなたらは凡夫の心で念じている。凡夫の心とはどんな心だろうか?貪嗔痴慢疑の心だ。念仏で求生浄土を願うのも、厳密に言えば貪だ。
『寶積経』で、弥勒菩薩が釈迦牟尼仏に「菩薩はどのような法門を修め、阿弥陀仏の浄土に往生されたのか?」と請示したところ、釈迦牟尼仏は「すべての菩薩は、修めた一切の善が浄土へ回向する事を発願し、必ず阿弥陀仏浄土に転生される」とお答えになった。簡単に言えば、菩薩道まで修めていないなら、毎日念仏するだけで行けるだろうか?と言うことだ。浄土宗では、三福をすべて修めているなら、と言う。三福を修めていないなら、往生できる福徳因縁は絶対にない。
仏号を念じる時には、ダラダラしていてはいけない。ある出家弟子は、いつもダラダラしている。死に臨んでも、ダラダラすることになるだろう。いつになっても改めようとしない。なぜダラダラしてはいけないのか?それは、そなた達の心が容易に乱れるからだ。容易に別の考えを起こす。咒語の一つ一つをはっきりと念じれば、持咒語時の短い時間の念頭は清浄だ。ダラダラと行うのは、わざとらしい。
「オン・マ・ニ・べ・メ・ホン」と念じる時、「ホン」とは「定」のことだ。「定」のその瞬間、普段しっかり訓練できていれば、往生の際に阿弥陀仏が現れてくださる。決してダラダラと念じてはならない。ダラダラ念じても役には立たないのだ。つまり、この出家弟子は改めないなら行くことはできない。仏号を念じる時、唱誦の方式で行うのは、繞仏の時のやり方だ。信衆の心は乱れ易いので、この唱法で心をいくらか清浄にする。だが自分自身で念じる時には、咒語は一つ一つ区切ること。ダラダラ繋げてはならない。
リンチェンドルチェ・リンポチェは阿弥陀仏の正しい念じ方をお示しくださり、開示をお続けになった。
分かったか?六字大明咒を念じられなくても構わない。このように訓練するのだ。ダラダラ繋げてはならない。念じる時、止まれば、自分が定まったことが感じられる。その瞬間にそなたは浄土へ行くに十分となり、その瞬間にそなたは三悪道へ行くに十分となる。これは訓練しなければならない。怠けてはならない。念仏の際に後ろの方をダラダラと念じる人がとても多い。これでは役に立たない。これは遊んでいるのだ。念仏では集中しなければならない。ごまかしてはならない。この出家弟子の念仏の方式は、以前信衆を率いてこのように念じていた際の習慣だ。だんだんと怠けるようになったのだ。そなた達もこうなり得る。少しでも怠けたなら、自然に気が抜けてしまう。気が抜けてしまえば、妄念はすぐに出てくる。それでどうして行けるだろうか?今日は実に多くを教えた。
これら出家衆は数十年出家しているのに、この種の修法を聞いたことがない。しかも、このように念じたなら、心と気を集中させることができる。自分には気がなく、力が不足していると思っていても、このようにしなければならない。自分で念じる時にも一言一言区切り、途中でちょっと一時停止する。止まるのではない。一時停止すれば、すべての妄念が消えてしまうのをゆっくりと感じられるだろう。その瞬間、時間は非常に短い。そなた達は信じない。往生の時、事切れる、その瞬間は非常に短いのだ。1秒にもならない。1秒の百分の一にも至らない。私達の普段の訓練によるのだ。普段の訓練が十分なら、時が至れば、仏菩薩と上師と言うこの力があるだろう。
なぜ毎日念仏しなければならないのか?それは訓練しなければならないからだ。たくさん念じれば、阿弥陀仏が面前に現れる、3年念じれば、阿弥陀仏が出現くださる、と言うのではない。阿弥陀仏が出現くだされば、そなたが去る時だ。「私には実現させていない願いがまだたくさんある。まだ満願していない、まだどうだこうだ⋯⋯」と去りがたく思っている人が非常に多い。
今日の開示ではっきりしただろう。皆念仏しているのに、なぜ一部だけが行けるのか?行けない人がいるのか?なぜ、行けるお婆さんがいるのか?それはお婆さんは気が不十分なので、一言一言念じるからだ。だから行けるのだ。そなた達は気が十分にすぎる。そのため返ってダラダラ念じてしまい、行けないのだ。つまりは心法だ。済度でき、ポワ法を修めた人は、衆生の念頭が理解できるからだ。そなた達は衆生の心を理解する力がないため、自分の心も理解できない。帰宅後に、それまでの方法とどこが違うか、このような訓練を試してみるがよい。ゆっくりと体得できるだろう。一区切りすると、すべての妄念が切断されるのを感じるだろう。その刹那に。その刹那を、言葉で説明することはできない。考えることさえ及ばない。だが、断ち切ってくれる。これは絶えず訓練しなければならない。自分は行けるだろうか、などと心配してはならない。このような念頭をさえ持ってはならない。最も大切なことは自分を訓練することだ。訓練時間が十分なら、時が至れば、阿弥陀仏が十分だと伝えに来てくださり、行くことができる。ほんとうにそうなのだ。心配する必要はない。
六字大明咒の持誦を始めたばかりの時、なぜ「ホン」を念じる時、特に大声なのか?『普門品』を念じたことがあるなら、「悲体戒雷震」との言葉を聞いたことがあるだろう。この言葉の意味を説明できない人が多い。衆生がこんなにも頑劣なら、たくさんの累世の業が纏わり付いており、清浄の心が開かなくなってしまっている。そのため、ある程度の力を用いて、一時的に開かせるのだ。清浄な本性を一瞬、顕露させる。こうしなければ、その衆生は仏法に触れることはできない。先ほど「ホン」と念じた時、みな驚いただろう。一瞬びっくりすれば、一瞬止まる。慈悲の心を本体としないなら、清浄な菩薩戒はない。この「雷」こそ、この「ホン」の音だ。皆を震わすことなどあり得ない。この音が出現することはあり得ない。この「ホン」の音は、肺からではない、丹田から出ているのだ。普段から念じているので、今日みなを救う方法があるのだ。
分かったなら、仏法を軽視してはならない。「仏法は簡単だ。経を念じれば仏法修行だ。今日法会に参加したので自分はもう信衆だ」と思っている人が非常に多い。そなた達は皆そうではない。結縁に来ているだけなのだ。仏法について講じるには長い時間が必要だ。釈迦牟尼仏は四十数年講じられたが、完了していない。どのような理由からであろうと、ちょっと法会に一回来て、知った、理解した、分かった、体得した、と思うなら、それらはすべて傲慢だ。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率いて、アキ護法及び回向儀軌を修持なされた。法会は円満となり、参会者はみんな尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲なる修法及び殊勝なる開示を下さったことで、無辺の有情衆生に利益なさったことに感謝を申し上げ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。
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2019 年 01 月 12 日 更新