尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年3月20日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇られ、一人の出家弟子に「富伽羅」の意味を説明するよう指示なさった。「富伽羅」とは、一切の衆生と有情輪迴六道を巡る主体を意味する古代インド哲学の名詞だということだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示くださった。「仏法が生まれる前の古代インドでは、有情衆生の輪迴を、インドの修行人はすでに知っていた。だが、輪迴の真の意義と本体が何であるかは知らなかった。輪迴が苦だとは知っていたが、いかにすれば輪迴の苦を未来世で出現させないようにできるかは分からなかった。極端な苦行法門を用いて、苦の極限を通して、輪迴の苦を断ち切ろうと考えた行者たちがいた。だが、これは執著相であり空性を理解していない。釈迦牟尼仏は成仏後に輪迴の真諦を開示くださった。当時のインドの修行法について、先ずは空性からではなく相の面から、『有』に執着していた当時の修行人に、十二因縁法、四聖諦法を解説なさった。十二因縁法、四聖諦法を用いて輪迴の相を滅してしまう。だが、真に輪迴を離脱しようとするなら、やはり空性、つまり般若の智慧を理解しなければならない。後に根器が利である衆生に出会うまで、仏は空性を開示なさらなかった。空性とは無いのではなく、空空如也(空っぽ)ではなく、座禅の際に空にすれば良いというものでもない。空とは無常のことだ。宇宙で起きる一切はすべて自性有ではなく、自然に生まれるのでもなく、すべては種々の因縁により生まれるのだ。因縁が生じた時こそ、滅の因縁の開始だ。

我々の苦痛はどこから来るのか?良い事が起きた時、良いことがいつまでも続くよう願う。良いことが永遠に変わらないよう願う。これこそ執著であり、煩悩苦痛が生まれる。この種の執著に対治するため、我々は般若智慧を用いる。智慧の真の本体こそ般若であり、空性の智慧である。空性とは何かの名詞を用い、上師の言語的な解釈を通して体悟できるというものではなく、仏法上での絶え間ない薰陶を通して、絶えず仏法内で思惟しなければならないのだ。この因縁が具備すれば、空性の実体を体悟できる。実体の『体』とは実在の眼、耳、鼻、舌、身、意により体感できる個体ではなく、仏が便宜的に用いられたので、『体』を以って現象を表しているのだ。

経典には『如仏所説。一切之諸法。無我無衆生無命無養育無富伽羅。』とある。

『宝積経』では六波羅蜜の般若を説く。一切の諸法とは一切の現象で、そうでなければ無我無衆生について触れることはない。これこそ『金剛経』で説く『破四相―無我相、無人相、無衆生相、無寿者相』だ。慈悲喜捨を修めない人は仏が仰せの空性が何であるかを体感することはできない。慈悲喜捨ができて初めて破我執ができ、破我執ができて初めて自分と他人、長短、正誤、良し悪し等の考え方、つまり二元法に対処することができる。仏法を用いて固定観念を破らないなら、仏法で精進することは永遠にできない。菩薩道を修める人は、顕教の教導から『無我無衆生無命無養育』をはっきりと知らなければならない。『無命』とは無寿者相で、我々の寿は見たところ一段一段だが、実は空性、因縁法であるということだ。

『無富伽羅』とは、我々は衆生の輪迴を目にするが、衆生の清浄な本性には輪迴はなく、輪迴するのは生生世世で為した善業と悪業によるのだということだ。仏の眼で見れば、衆生の清浄な本性は常に存在しており、輪迴したことはない。ただ一念無明なため煩悩が起き、貪嗔痴慢疑が起きて、善悪の業力に牽引され絶えず六道で輪迴しているだけなのだ。仏が仰せの『無』とは、この相は仮の相で、永遠不変のものではないということだ。我々は天道から獄道へ、地獄道から人道へ行く。それぞれの世で累積した善悪業が次の一世に影響を与える。つまり、本体は輪迴したことがないと言えるのだ。輪迴したことがないなら、菩薩はなぜこんなにも忙しく衆生を済度なさっているのか?それは、どうして輪迴するかを、衆生に必ず知らさなければならないからだ。いかにして輪迴を断つのか?輪迴を断つには、仏菩薩に救いを求めればよいというものではない。そんなに簡単ではないのだ。この一生で起きる事のすべては、自分が過去世で為したことによるのだと、はっきり認識しなければならない。未来で起きる事は自分の行為によるのだと、はっきり認識しなければならない。はっきり認識したなら、現在自分が正しい、或いは間違っていると考える事を般若の智慧で観察し、それが自分を輪迴させる力であるかどうかを見極める。輪迴を生じさせる力ならそれは悪である。人殺ししなければ悪でない、というのではない。そなたが輪迴し続けるだけで、たくさんの衆生がそなたといっしょに輪迴するのだ。例えば、そなたが誰かと怨恨を抱くような関係にある、お互いに借りがあるような状態なら、これこそ悪だ。

自分は学仏したので輪迴しないと思っているなら、それは大間違いだ。もしそうなら、『梁皇宝懺』はなんなのだ?現在の世論は一夫一妻制を提唱している。パートナーが不誠実なら、そなたは怒り、憎み、一切の方法を用いてなんとかしようとする。『梁皇宝懺』では、梁武帝のある妃が別の妃を嫉妒し憎み、寵を争う。妃は死後畜生道に堕ち大蛇になった。学仏人は、嗔恨心が重ければ死後は蛇道に堕ちると知らなければならない。福報があれば大蛇になり、少しマシなら龍になるだろう。学仏人は男であろうと女であろうと、嫉妒し、嗔念を起こすなら、死後は畜生道に堕ちるだろう。懺悔すれば大丈夫だなどということはない。改めないなら、再来するのだ。梁武帝は熱心に拝仏していたのだから、この妃は在世時にいっしょに拝仏する機会はなかったのだろうか?あったはずだ!梁武帝が説法を聞く時、彼女はいっしょに聞かなかっただろうか?聞いたはずだ!多くの修行人に会わなかっただろうか?会ったはずだ!いっしょに学仏しなかっただろうか?したはずだ!こちらでは学仏し、あちらでは嫉妒憎恨の心を起こす。振り返って仏菩薩に懺悔しても、踵を返せばまた同じだ。懺悔するだけで、改めないなら、やはり事態は起きるのだ。

一切すべてが空性であると理解しなければ、必ず何かを為したいと執着してしまう。すべては無自性なのだ。すべては自然に生まれるのではない。因縁によって生まれるのだ。幸せは空性であり、苦痛も空性であると明確に理解し、すべては縁生縁滅で、永遠に不変のものなどないとはっきりさせなければならない。輪迴も永遠ではなく、すべて無常なのだ。菩薩道を修める人はこの現象の真実諦、つまり勝義諦を理解しなければならない。勝義諦を理解しなければ得力を修行することはできない。勝義諦を理解するとは、つまり受け入れることだ。今後自分の考えで学仏してはならない。自分の価值観で経典を見てはならない。自分の発願で経典を見てはならない。

昨日ある男性出家弟子が請法に来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの男性出家弟子に『毎日念誦している早晚課発願文はすでにすべてを網羅している。それができているならもう十分だ。それができたなら菩薩だ』と開示した。つまり、みなできていないのに、自分が特別でありたいと願っているのだ。一尊一尊の仏の願力はそれぞれ違うので、違った仏に成就できる、という人がいるかもしれない。これらは、法身菩薩の果位まで証した後に初めて発する願力だ。そなた達は登地菩薩までもできていないのに、何を以って違った願を発するのか?普段の三皈依、四無量心ですでに十分だ。自分で特別な願を発してはならない。発明家になって盲滅法無用な修行をしてはならない。チベット仏教が非常に速く修行できるのは、学ぶべきを法本内に濃縮し、教えに従いその通りに行うだけで良いからだ。うるさく言わず、変わったことをせず、仏の仰せに従い行うのだ。

前回リンチェンドルジェ・リンポチェは、分からない名詞にぶつかり、分からないと言った。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはさらっと通り過ぎることもできたのだ。けれどもこれでは破戒してしまう。どんな戒を破るのか?誑語の戒だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示の際、正法を講釈するために面子は要らないが、破戒することはできない。誑語の戒を破ってはならない。最も重要なのは仏法の面でだ。分からなければ分からないといい、知っている人は他人に請示されたなら、説明してやらなければならない。状況に応じて、根器が合っていないなら話さないということも当然あろう。学密の料でないなら、その人に密法を説いてはならない。

仏が開示くださった般若智慧は、宇宙の真相についてはっきりと認識させてくれる。こうすることで、ようやく執着しなくなる。必ずどうしたいと執着しなくなる。仏は、一切は随縁、衆生の縁に随い、自分の縁に随うと仰せだ。自分の縁とは過去世で為したものの他に、この一世の努力も含む。たとえ過去生で多くの善縁があったとしても、この一生で努力して行わなかったなら、良いはずがない。転世のリンポチェがこの一世で修行を続けず、衆生に利益する能力がないのを見たことがある。はっきりと理解した後でなければ、修行において、人や物事に対処するにおいて、障礙が減ることはない。

経典には『善男子。云何菩薩摩訶薩楽法。』とある。

楽法とは、いわゆる非常に楽しい、ということではない。仏法を聞き、とても深い、自分には理解できない、考えたくない、或いはとても難しいと考え、修行したくないと思う人がいる。ここで言う楽とは、仏法であるなら必ず法喜の心が起きるということだ。学べるか学べないか、修められるか修められないかに関わりはないということだ。仏法を聞き、とても難しいと感じ、自分にはできないという念頭が起きたなら、自分に一つの限界を設けたということだ。この念頭は生生世世に影響を及ぼす。

楽法とは、上師が正法を説きさえすれば、喜んで聞かなければならないということだ。喜んで、とは自分が理解できるもの、聞いたことがあるもの、現在修めている法を選んではならないということだ。仏は在世時に八万四千の法門を説かれた。法門は学んでも学んでも尽きない。なぜか?それは我々の八万四千種の煩悩に対処しなければならないからだ。一つ一つの煩悩には、対処できるそれぞれ一つの法がある。世尊は49年をかけて仏法を説かれたが、それでもすべてを説くことができず、涅槃を前に阿難尊者に『憂うな。500年後に再来する』と仰せになった。

『菩薩摩訶薩楽法』とは、ある法王、あるリンポチェが灌頂する、仏法を説くと聞いて、そこへ馳せ参じるのではない。灌頂を受けさえすれば修めなくともよく、灌頂を受けさえすれば、うまく修められるというのではない。楽法とは、因縁があり仏法を聞く、ということだ。『楽』とは、仏法を聞いたので仏法を得ることができる、自分は仏法をよく聞いたので、仏法に関わるたくさんの人が自分を尊重してくれる、というのではない。楽法とは、菩薩道を行うには、衆生を助ける多くの方便法が必要だということだ。『地蔵経』では、無量の菩薩摩訶薩が忉利天宮で釈迦牟尼仏が説かれる仏法を聞くくだりがある。これこそ楽法の姿勢だ。菩薩はたくさん法を聞いたので、すぐに果位が上がったのではなく、衆生に利益する心が永遠に停止することがなかったからなのだ。菩薩道行者にとっては、この法を理解できようができまいが、聞いたことがあろうがなかろうが、衆生に有益でありさえすれば、仏法を説くのでありさえすれば、喜んで聞くのだ。地蔵菩薩は『地蔵経』で、千万億に化身できるのは仏威神力に寄るのであり、そのおかげでこそ広大無量の衆生に利益できるのだと仰せだ。我々が衆生に利益するのは、個人の力量に頼るのではなく、一切の仏菩薩、護法、勇父、空行母、一切の上師護持に頼るのだ。大法会に参加している人すべてが大きな喜びを感じる。喜びはそなたの問題を解決するのではない。そなたの祖先を超度させ、嬰霊を超度させ、ペットを超度させるのではない。これでは仏法を見下している。楽法とは、菩薩道を修め、菩薩道を行うなら、いかなる仏法であろうとすべて喜んで聞かなければならない。仏法を聞けば、六波羅蜜に対する理解を深められ、六波羅蜜をより正確に行えるようになるのだ。さもなくば過ちを犯しても気づかないということになる。

経典には『善男子。菩薩摩訶薩。性自楽法喜法潤法。』とある。

『性自楽法』とは、法喜楽の心が自然に出現する、ということだ。振りをするのではなく、何かのために聞くのではなく、何らかの物事のために求法するのでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王に求法する際には、自分のためではなく、喜びの心で衆生のために求めるのであって、申し訳ないとは全く思わない。喜びを感じるのは、自分の法本、灌頂が増えるからではなく、自分がすごいからではない。自分のためではなく、衆生に利益するために求法するのだ。衆生のために何かをすると決めてから、求法するのだ。そなた達のように申し訳ないとは思わない。欲望の心で求法するのではない。母親が病気なので仏法を求め、事業がうまくいかないので仏法を求める。これはすべて菩薩に救いを求めるようなものではない。そなた達はみな菩薩ではなく、菩薩道を行っているのではない。たとえ菩薩戒、燙疤を受けたとしても、数のうちには入らない。『宝積経』の通りに行っていないなら、菩薩ではないのだ。

『菩薩摩訶薩』とは自性、本体、法性であり、一切の立場を設けずに、仏法のすべてを非常に愉快に聞き、学び、受け入れることだ。『菩薩摩訶薩』は凡夫とは異なり、智慧があるので、この仏法は真に仏が説法されたものであるか、真に上師が説法されたものであるかを判断することができる。正しく判断できるなら、菩薩摩訶薩は楽法なのだ。自性とは考える必要がなく、無理に行うのではなく、先ほど語った弟子のように何度も申し訳ないという必要もない。なぜ申し訳ないと感じるのか?欲望から求法し、欲望が満たされない。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る度に叱責されるのを恐れ、再度来てもまた叱責される。叱責されるのを恐れるなら、いっそのこと来なければ良い。来ない方が良い。『自性性自楽法』とは、強制する必要もなく、本性が非常に自然に仏法を聞き、聞けばすぐに実践するということだ。

2007年、尊勝なる直貢チェツァン法王は、ラプチ雪山で閉関するようリンチェンドルジェ・リンポチェに指示なさった。尊勝なる直貢チェツァン法王がちょっと口にされただけで、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに行った。なんのために閉関するのか?どのぐらいの期間か?閉関を終えたらどうなのか?どのような法を伝えてもらえるのか?まったく分からなかったが行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、特に何か準備する必要があるか、いったいどうなるのか、聞きもせず、行って閉関した。リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関を阻止できる理由はない。心配したこともない。死ぬ時は死ぬのだ。そなた達のように、どのような法を伝えてもらえるのか、この本尊でどうなるのかを先に知りたいと言うようなことはない。金儲けができる、良い妻が娶れるからと言って閉関する人がいるとも聞く。尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに閉関をご指示になった時、一度聞いてだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに行った。尊勝なる直貢チェツァン法王は別の一人にも閉関に行くようご指示になったが、その人は今になっても行っていない。菩薩道を修める人は法を聞けば自然に受け入れ、すぐに行い、これは良いものが訪れたと分かるのだ。

楽法とは自分が仏法を受け入れ、喜法とは自分が受け入れた仏法を消化し、自利利他でき、この喜楽が自然に生まれることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関に行くように、ある境界まで達すれば、その喜びは金で買えるものではないし、感覚的なそのような楽でもない。そなたが念仏している時、夫が電話でそなたの邪魔をしたりせず、そなたが非常に幸せな気分で念仏できれば、法喜充満というのではない。

いわゆる法喜充満というこの語句はすでにスローガンとなっている。人を見て、法喜充満ですね、と言ったりする。法喜とは自性が顕現したものであり、わざとらしいのではなく、考えたことさえないことだ。心中から自然に尽きることなく湧き出すものなのだ。法喜を得られていないなら、衆生に対して疲れを感じ、退転してしまい易い。いわゆる退転とは、修行を止めることではなく、度衆に倦むことだ。菩提心が退転し、修阿羅漢となってしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達1500人の弟子に対する。倦み疲れ嫌になるとまでは言えないが、疲れを感じることはある。この種の境界は菩薩摩訶薩にしかない。そなた達は菩薩でもないので、当然法喜充満の体得もない。六波羅蜜を常に修め続けるなら、菩薩果位は自然に生じる。いつ生じるかなど聞く必要はない。水が流れれば溝は自然にできるのだ。六波羅蜜を為せないなら、少なくとも言いつけに従わなければならない。

『宝積経』を説く道場はほとんどない。なぜなら、少しでも説けば、みな逃げ出してしまうからだ。中の名相が分からないこともある。分からないなら、分からないと言えばいい。リンチェンドルジェ・リンポチェは大法師ではない。破戒を恐れるが、面子をつぶすことは恐れない。菩薩道の端にでも触れられ、修行においてこの境界まで体得出来ているのでないなら、『宝積経』での釈迦牟尼仏の仰せを説明することはできない。菩薩道を修めれば、釈迦牟尼仏はほんとうに慈悲深く、良いことをたくさん語ってくださっていると初めて知るだろう。喜法と楽法は、菩薩の境界へ行けば知ることになるが、現在は無理だ。だが少なくとも行えることが一つある。それは信だ。仏は、信は一切の功徳の母だと仰せだ。信とは、諸仏菩薩と上師の教導が、生死輪迴からの解脱を必ず助けてくれると信じ、自分はいつか必ず成し遂げられると信じることだ。自分の心を信じることではなく、自分の要求を信じることではなく、自分の欲望を信じることでもない。信の基礎ができたなら、いつか必ず成し遂げられる。先ほど語った弟子は不信なので、隠れているのだ。つまり、我々の未来が良くなるよう仏法が必ず助けてくれると信じていないのだ。どうしてすぐに良くなるだろうか?世間法を用いても、そなたが他人に金を借りたとして、他人の金を騙し取り返済に充てるか、或いは強盗でもしない限り翌日すぐに完済できることなどあり得るだろうか?騙さず盗まないなら、ゆっくり稼ぎ、ゆっくり返すしかない。そなたが過去に為した悪業が、今日リンチェンドルジェ・リンポチェに会ったからと言って、その場でなんともなくなり、その日の夜になんともなくなる、ということがあろうか?経典はこのようには講じてない。我々は、自らに障礙を為す力を止めることができるだけだ。消してしまうのではない。どうすれば消せるのか?改めるのだ。厳密に言えば、消すとは言えない、転じるのだ。

今日、六波羅蜜を修めないなら、法に対する楽と喜を自性が生じることはない。無理をして法を聞きに訪れ、夫や姑に叱責されるのではないかと恐れ、妻が機嫌を損ねるのではないかと恐れる。なぜこうなるのか?それはそなたの自性が楽と喜を生じていないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも在家だが、この空の下の誰であろうと、リンチェンドルジェ・リンポチェの聴法、閉関を妨げられる者はいない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは決心を下したからだ。振り返らず、ひたすら前をのみ見ているからだ。

『潤法』の『潤』の字を、リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて経典中で見た。別の経典では普通は喜法、行法という。潤法の『潤』にはいくつかの解釈がある。人生六道一切の苦に対して、その苦を減らす方法は一つもないが、苦の味を変化させることはできる。仏法だけが苦に潤いを与えることができる。種が泥の中で雨水の潤いを得なければ発芽できないようなものだ。我々が楽法、喜法となった後、この法は我々自身の菩提種子を絶えず潤わせ、菩提心は自然に生まれる。こうして初めて菩提願、菩提行を為せるのだ。法の潤いがないなら、唇の皮が破れるまで念誦しても役には立たない。この法とは生死解脱の法だ。末法時代の在家衆、出家衆は、六波羅蜜によらなければ生死を解脱できない。生死解脱とは、死後に不再来を発願すれば再来しないというものではない。生死解脱とは生死自在で、来たければ来られ、業力に引きずられて来るのではなく、その地に善縁がないなら来る必要がない、ということだ。潤法は一切の衆生の菩提種子を潤わすことができる。

これらはこれまで聞いたことがないだろう!これは仏が説かれた仏法だ。仏が説かれた仏法にはある特色がある。それはそれぞれの層が繋がっており、仰せの一つ一つが単独ではないということだ。楽法、喜法によりそなたの菩提種子を潤わせ、そなたの慈悲心に灌漑し、衆生の苦を潤わす。実際の修行経験がないなら、この『潤法』をいかにして解釈するかは分からないだろう。仏はしばしばたった一字しか開示くださらない。それは、推測せよ、というのではなく、上師により仏法を開示し、我々が生生世世に播いてきたほんの少しの慈悲の種子、ほんの少しの菩提種子を潤わすのだ。過去世で仏法を聞いたことがなかったなら、この一世に出現することはなかったはずだ。だが、過去世で実に憎たらしく反抗的だったなら、この一世でも反抗的だろう。

経典には『若見沙門若婆羅門如法人已。随所有物而以奉上。若飲食等一切之施與。乃至合掌生恭敬心。生恭敬已。從彼聞於未曾聞法。菩薩如是求正法已如実修行。』とある。

ここは菩薩請法について説く。菩薩請法の対象は出家衆とも在家衆とも限らない。如法修行の修行人だ。『宝積経』はこの種の境界線を打破しているのだ。古代インドでいう沙門は出家衆で、婆羅門は在家で果位を持つ修行人だ。中国語で言えば在家居士だが、古代インドで『在家居士』ということはできない。それは、在家居士は自ら修行するだけで、弟子をとってはならないからだ。だが、チベット仏教では仏の教えに基づき行うので、在家の上師、出家の上師が存在する。四大教派の法王でも、出家の方もおられ、在家の方もおられる。在家の法王の弟子の中にも在家もおり、出家もいる。その根拠は経典から来ているのだ。

菩薩は如法の修行人を目にすれば、とあるが、如法とは六波羅蜜に従い為すことで、しかもそれができている修行人だ。修行人は出家であろうと在家であろうと、必ず『随所有物而以奉上』でなければならない。ここで言う『随』とは、騙すのではなく奪うのでもなく借りるのでもなく脅迫するのでもなく、あるだけを差し出すということだ。自分のものを売ることもできる。供養は必ず自分のものを用いなければならない。またパートナーに『供養したいけど、あなたが許してくれないなら、私たちの結婚生活には大きな問題が生じる』などと言ってはならない。これこそ脅迫だ。かつて南部のある寺に、一人の女性信衆が金を出し五百羅漢像を奉納しようとした。五百羅漢像を奉納するにはかなりの額の金が要る。これは良い事だと言う人もいたが、もし誰かが止めようとしたなら、それは反対にとても悪い事になる。この女性信衆は聞きに来た。夫が同意するよう、自分に修法しくれないかと言うのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは受け入れなかった。なぜならこれも脅迫になるからだ。なぜ仏法は多くの人に誤解されているのか。仏法は夫婦を不仲にすると思われているのか。それはこのようなことがあるからだ。

『随』とは、あるものをあるだけ供養する、ということで、少し手元に残そう、などと考えてはならない。チベットでは我々教派のすべての修行人は、身体上のすべてのものを取り出して供養しなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは教派中の大成就者を見たことがあるが、まさにこうだった。他人が引き合わせてくれた人もいるし、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分で尋ねた人もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェが出会った教派の大成就者は、供養時には身につけているすべての財物を取り出していた。

経典には『乃至合掌生恭敬心。生恭敬已。從彼聞於未曾聞法。』とある。

『從彼聞於未曾聞法。』とは法門無量ということだ。なぜ『地蔵経』中では、多くの菩薩摩訶薩は忉利天宮で釈迦牟尼仏の説法を聞くのか?これも法門無辺を表している。仏はすべての法門をご存知であるが、八万四千種の法門を、一人の菩薩がすべて理解するのは不可能だ。聞いたことがないものが必ずあるだろうし、或いはまだ深く体感できていない部分もあるだろう。たとえすでに聞いたことがある法門だとしても、法の真義を自分が体得できているかどうかに自信がなく、やはりもう一度聞かなければならないということもあるだろう。さもなくば、菩薩たちが遥々忉利天へ釈迦牟尼仏の『地蔵経』開示を聞きに行かれることなどあろうか。菩薩道を行う修行人は、衆生に利益するため、さまざまな法門が必要なので、衆生に利益できる法が聞けるなら、心に愉悅が生まれるのだ。『地蔵経』は簡単だ、などと思ってはならない。因果を説いているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが『地蔵経』を開示するなら、たくさんの内容を講じることができる。それらをそなた達はまったく聞いたことがないだろう。

一切何も持っていないなら、恭敬合掌することも供養だ。かつてある人はこの生でリンチェンドルジェ・リンポチェを信じず、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子でもなかった。過去世でリンチェンドルジェ・リンポチェが出関したばかりの時、その一世のリンチェンドルジェ・リンポチェは出家相だったが、その人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが出関し通りがかった時に恭敬合掌した。そのため、この一世でリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法超度を得た。だが、そなた達が合掌しても役には立たない。なぜならすべてわざとらしく、真の恭敬心がないからだ。

経典には『菩薩如是求正法已如実修行。』とある。

法を求めた後は着実に行い、言われた通りに行い、自分の意見、自分の考えを完全に挟まず、自分の加減法を用いてはならない。経典で何を説こうが、何かを足して、何かを引いて、というのを勝手に行う人がいる。上師が法を伝える。上師の話は多すぎる、少なすぎるなどと思って、自分の方法を用いてはならない。これこそ誤りだ。上師は故意にそなたを懲らしめることもある。そなたが過ちだと思うところを、わざわざ話して聞かせることもある。他のところで仏法をたくさん聞いて来た人は、寶吉祥仏法センターの道場で学仏するのはとても大変だ。聞いたことがある、知っている、学んだことがある、と考える。『宝積経』の基準から言えば、学べて修められている人は一人もいない。簡単に言えば、行菩薩道を最初から、ゼロから始めなければならないということだ。求法の心構えさえ改めなければならない。痛みが治まるように、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求め、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深いというのではない。

経典には『菩薩於彼持法法器。生於尊想。』とある。

これは、上師はある衆生と縁がなかったが、ある菩薩、ある修行人を通して、この菩薩及び修行人が別の衆生と縁ができ、この菩薩と修行人がこの法を学んだ後、この法を把持し、この法を法器とすることで、法器に対して尊貴な考えを生むということだ。つまり、いかなる仏法であろうとすべて尊重しなければならないという意味だ。たとえ一つの偈、一つの字であろうと、すべて重要で尊重しなければならない。簡単だと思ってはならないのだ。仏法には簡単も複雑もない。上師の仏法開示を聞いた時、仏法は簡単だと感じたなら、それはそなたの心があまりにも複雑だということだ。複雑だと感じたなら、それはそなたの心があまりにも『蠢(愚か)』だということだ。純潔の純ではない、蠢(愚か)だ。

『地蔵経』には、ある一世の地蔵菩薩の母は三宝を軽視した結果、地獄に堕ちたとある。自分は『地蔵経』を聞いたことがあると思うなら、それこそ三宝への軽視だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが『地蔵経』をそれほど豊かに講じられると誰が知っていただろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは常に仏法を第一に考える。世間のあらゆる事は、リンチェンドルジェ・リンポチェの学仏を妨げることはできない。そなたが法を聞く時、法は法器であり、自分に利益し、衆生に利益し、一種の尊重の考えが生まれる。この法師は有名だろうか、すごいだろうかなどと考えたりせず、法がすごいかどうかを分別するのだ。この上師が六波羅蜜の範囲内で行っており、行えているなら、その伝える法は尊重しなければならない。考えてみよ。六波羅蜜を用いて一日過ごす。そなた達なら耐えられないだろう。すぐに『止めた』というだろう。

経典には『生和上想阿闍梨想。』とある。

阿闍梨とは仏法を伝える人だ。在家であろうと出家であろうと、如法の修行人であるなら、その人を和尚と考え、出家でなかろうと出家であろうと、その人は我々に輪迴出離を教えてくれる、ということだ。『生阿闍梨想』とは、阿闍梨の果位まで証していなくとも、それが伝える法が仏のお教えなら、それは阿闍梨だ、ということだ。なぜそなた達はあれこれ道場を巡るのか?それは、そなた達には智慧がなく識別できないからだ。あちらこちらと道場を巡ってはならない。よって、上師の伝承と修行過程は非常に重要だ。自分は法王だと突然言いだせば法王だというのではない。リンポチェだと言いだせばリンポチェだというのではない。自分は意の転世だと言いだせばリンポチェだというのでもない。我々は誰でもすべて釈迦牟尼仏の意の転世だ。信じない人もいるだろう。我々が仏法を聞けるのは、身口意の意の中に釈迦牟尼仏が仰せの仏法があるからだ。よって、一人一人すべて転世なのだ。伝法人が如法なら、そなた達はその人を和尚として考えなければならない。『宝積経』はリンチェンドルジェ・リンポチェにとっては本当に宝物だ。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは在家だからだ。

経典には『起如是意。我從昔来久失導師。今忽遇之生導師想。』とある。

ここで一つの念頭を起こさなければならない。我々はすでに非常に長い間、導師の引導を受けていない。この言葉から学仏には必ず上師が必要だと知ることができる。家で一人で読経し、座禅すれば修められるというものでは絶対にないのだ。上師に管理されたくない、上師は法を伝え自分は家で修めれば、いつか必ず開悟できる、或いは家でテレビで説法を聞けばそれで良い、という人もいるが、これは絕対に不可能だ。テレビを見れば修められ、書を読めば修められ、戒を受け座禅を組めば修められるなら、未来には四角の箱があり、中に人がおり音声が流れ、見れば修められると、釈迦牟尼仏は予言なさっていただろう。釈迦牟尼仏はこのように仰せではない。つまり、学仏には上師が必ず必要なのだ。三皈依後には当然具徳の上師に従い学習しなければならない。ちょっと離れてまた戻って来るというのではない。これは上師とは関係がない。そなたの事だ。菩薩であっても導師が必要なのだ。そなた達のような者が、どうして自分で修められるというのか?今日縁があり出会ったのだ。その人がそなたを弟子と考えなくとも、そなたはその人を導師として考えなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る人は、ちょっと聞きたいことがあっただけかもしれない。これらの人は菩薩道を修めるのではないのだ。

今日どんな修行人に会ったとしても、出家だろうと在家だろうと、有名であろうとなかろうと、その講じる法が経典、上師の教導、自分の修行経験に基づいているなら、我々はその人を導師としなければならない。輪迴解脱の法を教導できるなら、我々はその人を導師として考え、敬わなければならない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依しているとしても、ちょうどあるところであるリンポチェの仏法開示を聞く機会があったなら、やはり恭敬しなければならない。リンポチェが講じる法は理解できない、或いはある法王が講法するなら、それは特別なので必ず聞かなければならない、などと考えてはならない。誤りだ!

そなたに分別心があるなら、そなたに法を説く人がそなたの導師だとは思わない。それなら、そなたとその人との未来世での縁はなくなってしまう。衆生はすべて成仏できる。誰かが講じているのを目にし、もしかしたらこうではないのではないか、と考えたなら、相手を導師と考えないなら、それなら来世で相手がもし早めに成仏しても、その人はそなたの導師ではない。未来でそなたは相手より早く成仏したとしても、その人がそなたを導師とすることはない。これこそ因果だ。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは今日上師でいられるのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがすべての人を自分の導師としてきたからだ。

実は世間法であろうと出世法であろうと、我々を教導できるなら、我々が聞いたことがなく、見たことがなく、学んだことがないなら、我々はすべてその人を導師としなければならないのだ。一人一人すべての人が我々の導師だ。今になっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの人に教えを乞うている。立派な振りをしてはならない。自分は分かっていると思っていても、いざとなったら何一つ分かっていない。そのくせ、分からないのは当たり前だ、と思っている。そなた達がこれを為すのは非常に難しい。なぜならあまりにも思い上がっているからだ。みな自分はたくさん分かっており、たくさんできると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは習慣にしている。誰がどんな話をしていようと、すべて自分を教導していると考え、耳を傾けるのだ。これこそ相手を導師とするということだ。だからこそ、リンチェンドルジェ・リンポチェは高卒なのに、こんなにもたくさんの事を知っているのだ。良いことであろうと悪いことであろうと、すべて我々に教えている。リンチェンドルジェ・リンポチェの父親はリンチェンドルジェ・リンポチェに教えてくれた。幼い頃から、父親が年長者と話している時には、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェをそばに座らせ聞かせた。大人しく聞いていなければならないが、問い返してはならない。そなた達は反対にむやみに問いたがるが、そうである訳を聞くことができない。なぜなら分からないからだ。彼らの人生経験は、そなた達が体感できるものではない。

仏法は生活に用いることができるだろうか?もちろんできる。そなたがあらゆる人をすべて導師として考えるなら、自然に多くの事を非常に明晰に見られるようになる。あちこちで怒りまくることはなくなるだろう。たとえ相手が間違ったとしても、同様の間違いを犯してはならないと教えてくれているのだ。他人の誤りを見つけても、そなたが上師でない限り、慌てて指摘してはならない。他人の過ちを目にする。因縁時機が成熟したなら、二、三言の忠告を与えても良いが、そうでないなら、批判してはならない。みなの反感を買うことになるだろう。特に仏法を用いて人を罵ってはならない。それは最も悪い事だ。仏法は己を改めるために用いるのであって、他人に訓示するためのものではない。仏法は自分を調整するために用いるのだ。自分を調整した後でなければ、他人を調整してはならない。知ったかぶりをして教えたがるものではない。ここの導師とはそなた達を言うのではない。これまで挙げた条件を備えていなければならないのだ。そなた達には無理だ。足るを知れば良い。この産業分野についてリンチェンドルジェ・リンポチェは詳しくないので、言われたことに従う必要はない、と思っている人がいる。これこそリンチェンドルジェ・リンポチェを導師とみなしていないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、法座上では仏法を説き、法座を下りれば仏法ではない、という区別はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの生活はすべてが仏法の中だ。

経典には『又作是念。我常縛在世間牢獄。』とある。

我々は生生世世にこの輪迴の牢獄の中に繋がれ、絶えず作業している。ここを聞いて反駁する者もおろう。自分は学仏し、殺生も悪口も犯していない、と。だが実は、菩薩道を行えておらず、利己的なのだ。息子をリンチェンドルジェ・リンポチェに見せれば加持が得られ、健康になる、と思っている人がいる。この世で息子がいるのはそなただけか?あらゆる人の息子を、リンチェンドルジェ・リンポチェは単独で加持しなければならないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵菩薩ではなく、千億に化身することはできない。これこそ行悪だ。利己的な念頭がありさえすれば、この輪迴の牢獄に繋がれる。よって上師の教導と救いが必要なのだ。導師の救いがなければ、輪迴を解脱しようにも、出口さえない。

経典には『無解無救無推訪者。』とある。

我々はこの牢獄内で輪廻しており、誰も我々を救うことはできず、誰も我々を訪ねることはできず、誰も我々を押し出すことはできない。仏法の他に、この世界で我々を救える、我々を牢獄から押し出せるものはない。自分の家にはたくさんの人が来るぞ!という人がいるかもしれない。だが、その人たちも、そなたを世間牢獄から押し出すことはできない。夫はとても自分を愛してくれている、と思う人もいるかもしれない。これは愛の牢獄だ。子供はとても親孝行だ、という人もいるかもしれないが、これも牢獄だ。そなたを輪迴中から出てこられなくするものは、すべて牢獄だ。写真をリンチェンドルジェ・リンポチェに見せて、孫の目は大きいでしょうか?と聞く者もいる。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェもそなたといっしょに牢獄に入らなければならないということか?そのためリンチェンドルジェ・リンポチェは見ない。菜食しない子供が孫を産んだが、自分は毎週法会に参加しているので、仏菩薩と上師の加持をもらいたいとなお言う。これはすべてそなた達自身の縁だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは絕対に関わらない。肉食する子供は、100%親孝行だとは言えない。

経典には『今忽遇之生推覓想。又作是念我久遠来睡於世間。愚癡盲目。忽於今者令我目開。即起覚想起開示想。』とある。

今日導師に巡り会えた。導師は自分を牢獄から離れさせてくれ、牢獄から離れられる道を探してくれるという念頭を生起しなければならない。この念頭がないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏するのは非常に大変だ。なぜならそなた達はすべて欲望だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の母親の欲望をさえ満たしてやらないのに、そなた達の欲望を満たしてやることなどできようか?往生を前にした母の数ヶ月の苦しみを目にし、息子としては非常に辛かった。だが同時に、母の上師として、リンチェンドルジェ・リンポチェは人の行為を放棄しなければ、往生時に母が苦痛を免れられるようすることはできない。亡くなった人の口がしっかり閉じられているのを見たことがあるだろうか?人は死を前にし、最後の息をするために、努力して口を大きく開けるものだ。真の修行者でなければ、口をしっかり閉じることはない。リンチェンドルジェ・リンポチェの母は臨終の際、自分は眠っていると思っており、自分がこの世を去ろうとしていることを知らなかった。母は往生を前にして、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の上師だと思い出し、福報が戻ってきたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが高い能力があり、修法にすぐれ、そなた達の問題を好転させてくれると考え、学仏しに来ているなら、これらはすべて欲望だ。一度しか救わないと、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに何度も開示している。その後も修めず、学ばず、改めないなら、本当に仕方がない。道場には多くの例がある。洪という性の弟子の例、吳という性の弟子の例をそなた達も見ただろう。そなた達はそれでもまだ信じない。自分とは無関係だと思っている。彼らが信じないのだ、自分ではない、と思っている。だが、そなた達はいいつけを守っているか?いいつけを守らないなら、それはリンチェンドルジェ・リンポチェを導師とみなしておらず、リンチェンドルジェ・リンポチェを道具として利用し、利用したとしてもどうということはないと考えているということだ。

経典には『又作是念我久遠来睡於世間。愚癡盲目。』とある。

自分はよく修め、多くの法会に参加し、出家しているので非常によい、などと思ってはならない。我々はこんなにも長い間一度も目覚めたことはなく、世間に眠っていると考えなければならない。世間の事情が最も重要だとひたすら思ってはならない。そなた達は皆、彼氏を探すのが最も重要だ、彼女を探すのが最も重要だ、夫を探すのが最も重要だと考えている。仏は、我々のこれら行為に反対はなさらない。だが、人生の最重要事項と考えてはならない。縁があれば巡り会うのだ。そなたが最も好きな人は、そなたにとって最も良くない人かもしれない。我々は仏法僧上師を第一に考えなければならない。だが、そなた達はみな仏法僧上師を最後に据えている。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と同じように在家なのに、できているのか?それはそなた達がみな自分は起きていると思っているからだ。仏の仰せに基づけば、輪迴を解脱していないなら、菩薩であろうとやはり長く世間で眠っているのだ。我々はこの世間でひたすら深い眠りについており、目覚めたことはない。これこそ『心経』でいう『顛倒夢想』だ。顛倒夢想とはなんなのか多くの人は知らない。それはまさにこれなのだ。

菩薩道を修め導師に巡り会いさえすれば、自分は長くこの世間に眠っており、愚痴盲目なのだと必ず思わなければならない。我々は、自分は起きていると思っており、自分は愚昧無知で目が見えないと分かっていない。因果を信じず、輪迴を信じず、死亡無常を信じないなら、愚痴盲目だ。我々の起心動念はすべて業であり、すべて罪だ。だが誰も信じない。このように慎重に少しずつ進むのはとても大変だと感じる人もいるだろう。だが、我々はもともと慎重に少しずつ進むべきなのだ。道を渡る時、慎重ではないのか?慎重だろう。それは、注意を払わなければ、車にぶつかる恐れがあるからだ。そなた達はみな死を恐れている。だが人として生きるに慎重ではなく、自分の心を放縦している。それは、すぐに死に結びつくことはないからだ。愚痴ではないか?そなた達は小事だと思うだろう。だが小事が積み重なって時が到ればアクシデントが発生する。いわゆるアクシデントのすべては、小悪が積み重なって起きるのだ。だが、そなた達は恐れない。なんと奇妙なことか!それは、自分は愚痴で目がなく盲目だ、などと考えたこともないからだ。非常に寒冷なある国では、多くの芸能人が美容整形を受けている。みな知っているのに、そなた達はなおカッコイイ、美しいとほめそやしている。これこそ盲目だ。

経典には『忽於今者令我目開。即起覚想起開示想。又作是念。』とある。

盲目とは法眼がまだ開いておらず、愚痴盲目だということだ。たとえ清浄本性があろうと、法眼は開かない。法眼は正法を識別し、間違った法を識別する。法眼はどうやって開くのか?それは、そなたの上師、導師に頼るのだ。仏はあまりにも慈悲深い。少し後で誰かを叱責するとなると、ちょうどその段を開示なさる。今日導師に巡り会い、我々の法眼を開かせてくれた。それなら覚悟すべきだ。この導師は仏法を開示してくれる。上師は法座上でのみ仏法を開示すると多くの人が思っている。だが実は、法座を下りても、上師が語ることは仏法開示なのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの生活は常に仏法にあり、人に害を及ぼす言葉は一言足りともない。そなた達は、ある分野の業界について、リンチェンドルジェ・リンポチェがいうことに自分達は納得できないと考え、従わない。そなた達は、これは聞き、あれは聞かないと区別し、それぞれ考える。これはまさに導師を尊重していないということだ。実はリンチェンドルジェ・リンポチェがいうことは、出世間であろうと世間事であろうと、すべてそなた達の未来を予見しているのだ。すべて何を行うべきで、何を行わないべきかを開示しているのだ。そなた達は選り好みし、従いたいことを行う。それは実は、上師が、そなた達が求めるものを知っており、自分達の考えを満たしてくれることを希望しているのだ。開示が自分が思うこと、欲していることでないなら、上師は開示していないと考える。この種の学仏人は、たとえ子供が病気になり道場へ来たとしても、好転することはない。この種の人は懺悔心がなく、三宝を尊重していないのだ。三宝が医者なら、それなのに三宝が処方した薬を飲まず、注射でしか薬を身体に入れられないのに、注射は痛いから嫌だという。医者が薬を処方したのに、薬は苦いから嫌だといい、糖衣で包めば、大き過ぎて飲み込めないという。そなた達はこのように、仏法を受け入れようとしない。自分の考えと理由を山のように持ち出し、上師を導師と考えたこともなく、上師を道具だと思っており、自分の病を癒せ、家庭を穏やかにできると思っている。このようなら、一件毎に報酬をもらおう。そなたの家人が二年間病気にならないようにしてやる。こうして節約できた医療費の半分をもらおう。なぜならそなた達は、医者に掛かる金がないのではないからだ。だがリンチェンドルジェ・リンポチェはそうしていない。そなた達はたまに祝儀袋を持って来て、上師はそなた達のためにすべての問題を解決し、そなた達のすべての欲望を満たさなければならないと要求する。このような学仏の心構えは間違っている。だが良かった。『宝積経』があるおかげで、釈迦牟尼仏はリンチェンドルジェ・リンポチェに加持をくださり、そなた達を改める力をくださる。

経典には『我久遠来沒深泥中無拔済者。今忽遇の生拔済想。又作是念。』とある。

我々は長く世間に沈睡している他に、身口意が為す業について考えなければならない。泥の中に両足が深く埋まっており、抜けないようなものだ。自分にどれだけの面倒があるか考えてみよ。これら面倒はすべて、そなた達の身口意が犯した悪業だ。先ほどのあの弟子(度衆事蹟第793篇を参照)は、なぜ一先ず数年間離れると言うのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェを自分の導師と考えていないからだ。手紙で、何年か後に戻ってくると言う。ゆっくり来るがよい!彼女の父親の債務問題はなぜ解決しないのか?それは父親が、欲望を抱いて、仏菩薩が返済を助けてくれるよう願っているだけだからだ。そんなことができるだろうか?仏菩薩は金儲けもしていないのに、どうしてそなたの借金返済を助けるのだ?上師が返済を助けてくれるよう願い、天から金が降ってきて返済できるように、それとも他人の金を騙し取ってきて返済に充てられるように願っているのか?もちろん不可能だ。その父親は上師を導師とみなしていない。上師に返済を助けてもらいたい、とはどういう道理か?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の子供が借金を作っても、返済を助けてはやらないのに、何の道理があって、そなた達のために借金返済を助けるのか?そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの子供なのか?

深い泥に陥るのは、我々の善悪業、我々の無明のためで、因果を信じないためだ。我々は長い間、両足が泥の中に深くはまり込み、抜け出せないようなものだ。ここでは『沒』を用いる。もっと悲惨だ。我々の善悪業と無明は、我々を完全に埋没させてしまい、それによって輪迴の苦を離れることはできなくなる。自分は平穏な暮らしを送っているので、非常に幸せだと思っている人がいる。だが実は、誰もが善業悪業に埋められているのだ。泥の中に深く落ち込むように、抜け出そうとしても抜け出せない。どこに真の幸せがあるだろうか?

『無拔済者。』とは、誰も助けることができない、ということだ。自分自身でも抜け出すことはできない。どれほど多くの知識、財と富、権力があっても、助けてくれる人は世界中どこにもいない。仏法だけが為せるのだ」と仰せになった。かつて別の宗教を信仰していた弟子が「別の宗教では、彼らの主に皈依すれば、すべての罪は赦免されると考えています」と報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示くださった。「仏法では、誰かがそなたに与えるのではなく、誰かがそなたを助けるのではない。そなた自身だ。よって、仏は、そなたが仏を信じれば、一切の悪霊は近寄ってこない、とは仰せでない。仏は我々の導師であると仰せだが、仏はそなたの主であるとは仰せでない。なぜなら仏が、我々を教導くださった後、我々は自分自身で行わなければならないからだ。『今忽遇之生拔済想。』とは、今日一人の導師に巡り会ったが、この導師の教導は、我々をこの深淵から抜け出させてくれ、我々を救治できると考える、ということだ。

経典には『我久遠来失於導師引導衆生。今忽遇の起導師想。又作是念。』とある。

長い間、導師の教えに触れておらず、導師が衆生の輪迴世間解脱を引導することもなかったが、今日突然巡り会ったのだから、導師と見なさなければならない、ということだ。好奇心で会いに来るのではなく、会えば加持が得られると考えるのでもない。誰かが会いに来ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、どうしたのだ、と尋ねる。すると彼らは『なんでもない。ただリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ただけだ』というので、リンチェンドルジェ・リンポチェは『では会えたので、さようなら、だな』とユーモアを交えて言う。これらの人は会えれば加護があると思っているのか?『リンチェンドルジェ・リンポチェ本人と写真とに違いがあるか、見に来たが、違いはない。写真と同じだ』と言う者もいる。

経典には『我久遠来閉在世間。貧苦難処無救接者。今忽遇之是故即生救接者想。又作是念。』とある。

世間法から言えば、世間には多くの貧苦で苦しむ衆生がいるが、仏法的には、仏法がないのが貧苦だ。導師の教導を受けられなければ、難がある。輪迴の難だ。六道中にも難がある。輪迴の難だ。すでに貧と苦の中にあるのだから、誰かに救ってもらうのは非常に難しい。引き上げてもらうのも非常に難しい。『救接者』とは、輪迴世間から離れさせ、浄土に引き上げてくれる人だ。慈悲の悲とは、衆生を浄土に引き上げることだ。それができないなら、自分は度衆すると言ってはならない。導師に巡り会ったなら、自分の問題の解決に利用するのではなく、この導師を、自分を救い、輪迴苦海を離れさせてくれる導師としなければならない。このように考えるなら、そなたとこの導師との関係は非常に密接となる。なぜ尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは30年前は尊勝なる直貢チェツァン法王の弟子だったが、30年後も尊勝なる直貢チェツァン法王の弟子だと仰せになったのか。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが、尊勝なる直貢チェツァン法王を自分の導師と考えているからだ。いつか自分が菩薩になったとしても、尊勝なる直貢チェツァン法王はやはり自分の導師であられる。上師が自分を救い、お教えくださるのだ。

経典には『我久遠来遇難愈病。無有良医能療治者。今忽遇之起良医想。又作是念。』とある。

ここで言うのは、世間の病ではない。心の病だ。因果を信じず、輪迴を信じず、死亡無常を信じないなら、仏法から見れば、それは心が病んでいるのだ。この種の病は、世間の医者も薬も治すことはできない。だが今、一人の導師に巡り会った。この導師を名医と考える。導師は、絶えず輪迴するという我々の病を治すことができる。このように考えることができれば、学べるし修めることができる」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて、アキ護法をまだ伝えられていない弟子に貴重なアキ法本を賜り、慈悲なる開示をくださった。

「顕教にも護法がおられる。一人は韋馱護法だ。韋馱護法は主に仏法、仏教を護持なさる。もう一人は伽藍護法で、真に修行する僧衆を主に護持くださる。韋馱護法は極めて高い能力を備えておられる。多くの事で、韋馱護法はリンチェンドルジェ・リンポチェを手伝ってくださっている。このお二方の護法の他に、顕教では他の護法は修めないが、チベット仏教では不共の護法を修める。護法とは仏法を保護し、真に仏法を修行する人を保護するものだ。

護法は世間型護法と智慧型護法に分けられる。世間型護法は鬼神も含む。多めに供養すれば、助けてくださるかもしれないが、無明と人の習気(習慣の残り香)をなお残している。行為が気に入らなければ、懲らしめられるかもしれない。危険性があるのだ。さらに、出世間の護法もおられる。皈依戒、菩提心戒に背いていないなら、出世間の護法は出世間の方法で守ってくださるが、護法を修めても、世間的な事でそなたを満足させてはくれない。アキ護法は法身大菩薩であられるが、アキはさらに何層もの外周護法に囲まれている。これら外周護法にはなお幾らかの無明がある。法本をちょっと学んでも実践できておらず、或いは護法を軽視したなら、相手にしてはくださらない。アキはそなたの家には行かれない。外を囲んでいるそれら発願がアキ教法を護持する護法だ。

2007年リンチェンドルジェ・リンポチェがラプチ雪山で閉関した時、ある護法が山谷で巡視しておられるのを関房内で見た。それは女性の護法で麒麟に跨っておられ、毎日現れた。見た、と言っても、窓を開けて見たのではなく、非常にはっきりと見えたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれまで、この護法を見たことはなかったが、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェを保護してくださっていることははっきりと見て取れた。出関して二日目、尊勝なる直貢チェツァン法王は、標高五千数メートルの地にある直貢噶舉が建立した小さな寺にリンチェンドルジェ・リンポチェをお連れくださった。それはかつてミラレパ尊者が修行なされた山洞だった。尊勝なる直貢チェツァン法王が昇座された後、リンチェンドルジェ・リンポチェはお側に付き従い座った。そして顔を挙げると、そこにはアキ護法のタンカがあり、タンカにはこの護法が描かれていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に請示申し上げた後、アキ護法にはそばを取り囲むこれら護法の他に、外を取り囲む護法がいるのだと初めて知った。それが麒麟護法だった。そう、毎日目にしたあの護法だ。かつてミラレパ尊者が閉関なさった時、この護法はミラレパを保護されたのだ。よって、そなたが一切如法で何も求めず、真に仏法を修行し閉関するなら、護法は自然に保護しに来てくださるのだ。
護法の外周にはさらにたくさんの護法がおられる。なお無明のものもおり、そなたの家へ行くのは、アキの外周の外周の外周の護法の護法だ。そなたが法本を念じるのを見れば、護法はすぐに分かる。護法は一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、四ヶ月、五ヶ月、六ヶ月、七ヶ月と観察し、行わないなら、そなたに平手打ちを食らわすだろう。なぜなら、すでに念じたのに、まだできていないからだ。少なくともそなたの心はこのように考えなければならない。よって、アキを修めれば、アキが来てくださるなどと思ってはならない。来られても、平手打ちかもしれないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが観察したのも、本当にそうだった。なぜこれまで言わずに、今日になってようやく言うのか。実は以前も言おうと思ったが、今日は因縁があるので、伝えたのだ。

護法を軽視してはならない。自分の欲望を用いて護法に求めてはならない。要求を満たせなかった時、護法が助けてくれなかった、護法には霊験がない、という。これこそ護法への軽視だ。世間的な欲望を以って求めれば、アキは当然相手にしない。よって、護法を修め始めれば、自分が素晴らしくなる、などと思ってはならない。護法が自分の問題を解決してくださるなどと思ってはならない。護法はそなたのために喧嘩になど行っては下さらない。

世間型の護法は、そなたがたくさん供養すれば、もしかしたらそなたを助けてくれるかもしれない。だが、アキ護法は智慧型出世間の護法だ。違うのだ。法本中の一言一言はすべて、いかにして仏法の成就を求めるか、どうやって修めるか、どうやって衆生に利益するかを説いている。絕対に世間の成就ではない。息子の病が早く治るよう求めたり、孫の目が大きくなるように回向するなど、絕対にあってはならない。先にはっきり言っておく。アキ護法は相手にしては下さらない。護法の定義をはっきりさせなければならない。護法が世間事で助けてくれるなどと誤解してはならない。このような考えがあれば、護法を軽視する。リンポチェの果位であるか、或いは教派のため、仏法事業のためでないなら、護法に助けを求めることはできない。もし、そなたが護法に世間事で助けを求め、法本に基づき行わないなら、外周護法はそなた達を懲らしめるだろう。修行の面で、護法はそなたを助けそなたを保護する。少なくとも『宝積経』の教えと同じに、思惟しなければならない。これさえできないなら、どうしようもない。伝法の後にリンチェンドルジェ・リンポチェが護法の修法を開始したなら、そなた達には秘密はなくなってしまう。護法は誰が伝えるのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェが伝えるのだ。よって、護法はリンチェンドルジェ・リンポチェに教えてくださる。念じたなら行わなければならない。できないなら、受け取らなくとも良い。できないと思う者は法本を受け取ってはならない。護法を修めてはならない。

直貢噶舉の護法はアキ護法だ。アキの父母がネパールへ行き蓮師の仏塔を巡った時、アキの父母は息子を求めたが、娘が生まれた。だが、アキの父母はそれでもとても喜んだ。アキの父母は仏法修行をせず、非常に早く世を去った。昔の結婚はすべて父母が決めたが、アキは自分で結婚相手を選んだ。そなた達、未成年の者はこれはならないぞ。アキが結婚したのは、寧瑪巴の鞥阿巴だった。そして息子が生まれ、父親とアキの修行を引き継いだ。アキの息子は後に息子に恵まれた。それがジッテン・サムゴンであられる。よって、アキはジッテン・サムゴンの祖母君なのだ。顕教にとってアキは度母であるが、密法にとっては、金剛亥母だ。アキの誓いの言葉は、直貢噶舉とすべて弟子を保護するとのものだ。よって、そなた達が成仏するまでは、アキが不慮の死を遂げないよう、守ってくださる。

護法は毎日一座修めなければならない。護法を修める儀軌は、一杯の茶を用意するだけで良い。アキはチベット人なので、プーアール茶が最も望ましい。最高のものを用い、しかも無毒でなければならない。アキを中毒死させてはならない。修法が完了したなら、茶を撤去し、衆生と結縁する。自分で飲んでしまってはならない。先ず茶を石臼で挽いても良い。だが、小沱茶を手で半分にし、ナイフで四分の一にするなどしてはならない。そのように節約してはならない。半分しか供養しないなら、半分しかないのだ。そなた達は何であろうと、仏菩薩はそなた達を満足させなければならないのに、仏に供養するには、こんなにも吝嗇だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に理解できない。『地蔵経』では、鬼神を遣わしてそなたの心を固めるとある。チベット仏教では直接護法を修める。いわゆる休暇申請はない。なぜならアキには休みはないからだ。どこかへ行くので不便だということもあるかもしれない。だが、アキ護法の修法はすでに十分簡単だ。一枚の法写真、一杯の茶がありさえすれば、どこででも修められる。リンポチェ果位なら多瑪も必要だが、そなた達は不要だ。一杯の茶があればそれで十分だ。アキはご自分の浄土をお持ちだ。そなたがこの一生で專修すれば、アキの浄土へ行くことを発願できる。アキ咒語を持誦しても良いかと尋ねる人もいるが、これは持誦しても良い。教派中のラマでアキ浄土へ行けるよう発願し、アキを專修している人もいる。観想の部分は灌頂しなければならない。後で何人かを選んで前に出そう。

« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2018 年 04 月 10 日 更新