尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2016年3月6日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参加者全員に貴重な仏法を開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に「隨念三宝経」の第2頁を開くよう指示なさった。「昨日ある出家弟子が『正法乃首善、中善、末善、義善、詞善』の段を開示するよう求めてきた。この弟子は実践しないので、言っても仕方がないと思い、最初は説明する気がなかった。だが、わざわざ求めてきたのだ。この縁起があるなら、上師として自身の学仏の経験と経典、及び尊勝なる直貢チェツァン法王が教導下さった仏法に基づき解説しよう。この言葉は先ほどの仏の功徳につながる。仏の功徳とはなんだ?それは衆生を観照することだ。

『安住観照衆生之地』とは、仏には一切の考えも欲望もなく、清浄だということだ。ただ衆生に利益するだけで、自己の欲望は少しもない。『安住』とは衆生観照に心が安住することだ。『観照衆生之地』の『地』とは、衆生が絶えず輪迴する場所、つまり輪迴の苦海だ。衆生は輪迴苦海の中でもがいている。仏の清浄功徳はすべて衆生に利益するためだ。衆生に利益する方法こそが正法だ。正法とは世間の読経、菜食、拝仏、拝懺することではない。ここでいう正法とは、仏が行われる事で、一般凡夫が行う事ではないのだ。

『正法乃首善、中善、末善、義善、詞善』の『善』とは、災害救援したり金銭を寄付したりするような慈善事業ではない。それは人世間の善だ。ここで言うのは、仏が言われる善だ。『首善』とは仏が仰せの一切の方法で、衆生の解脱、成仏果を助ける善だ。『中善』とは仏が仰せの一切の方法で、衆生の菩薩果位の証を得ることを助ける善だ。『末善』とは仏が仰せの一切の方法で、衆生の阿羅漢果位の証を得ることを助ける善だ。『義善』の『義』は『義』と『不了義』に分けられ、『義善』は『了義』の善である。すなわち、仏が仰せの一切の仏法は、出世法であろうと世間法であろうと、すべては空性理念に基づき講じられている。仏は何を仰せになるにも、必ずこうだ、絶対にこうではない、とは仰せにならず、縁起性空の縁から講じられる。宇宙の一切の事、一切の物、一切の人はすべて因縁により発生し、因縁により消滅する。よって、我々が眼にする一切の現象はすべて自性があるものはなく、因縁によって生まれているのだ。そなた達のいわゆる出世法或いは世間法も、すべては因縁法だ。

多くの弟子が皆、リンチェンドルジェ・リンポチェが言ったことを、これは仏法だ、これらは世間法だと分けたがる。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに何度も開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは生活において、世間法だ、出世法だと分けたことは一度もない。そなた達が分けているだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何をしようと、何をしたか弟子に告げる。絕対に『了義』の範囲を離れることはなく、またそなた達に対して何らかの後遺症を引き起こすこともない。自分は在家衆なので難しい、などと思ってはならない。そんなことはない。努力して事を行いさえすれば良いのだ。だが、あらゆる事はすべて因縁法で、因縁法はいつでも変化し、いつでも消えてしまうということを弁えていなければならない。不正当な手段を用いるなら、例えば欺騙により物事を行い、約束していながら取り消すようなのは、まさに不正当だ。自分にとって不利なので取り消したのだ、というかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前息子に、請け合った事は命をかけてでもやり遂げなければならない、と教えた。自分には無理だと思ったなら、最初から請け合ってはならない。だが今の人は皆、自己の利益のため、とりあえず請け合っておこう、という姿勢だ。事後に自分にとって不利だと分かったなら、あらゆる理由を考えて取り消そうとする。その果報として、因果を信じず、因果を受け入れず、慈悲心を修められない、となる。この種の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェのそばでリンチェンドルジェ・リンポチェがいう事を聞いていても、法を得る事は出来ない。なぜならこのタイプの人はすでに二分法を用いているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがビジネスについて話せば、これはビジネスの事だと考える。リンチェンドルジェ・リンポチェはビジネスについて話すにも、因縁法、因果法を用いる。できないなら、決して請け合ってはならない。請け合ったなら、全力で成し遂げ、これによって一切の衆生を傷つけてはならない。よって、具徳の上師が学仏し、仏法を講じる方法はすべて『首善、中善、末善、義善』にあるのだ。一切はすべて『了義』の中で仏法を講じ、『了義』の中で生きるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子に何年も騙されていた。誰もが騙されること、金を騙し取られること、損すること、傷つけられることを恐れている。リンチェンドルジェ・リンポチェは騙されることを恐れない。なぜならそれは布施と同じだからだ。ついに果報が成熟したのだ。つまり、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが得をしたということだ。損を受け入れれば受け入れるほど、多くの布施を行ったということになる。そなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座で話すことだけが仏法であり、普段話すのはビジネスで仏法ではないと思っているので、煩悩が生まれるのだ。学仏人が講じる仏法が『首善、中善、末善、了義』から離れればそれはすべて過ちだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが講じることは必ずそなたのためになる。なぜなら衆生に借りを作っていないからだ。

『詞善』とは耳に心地よいことを言うのではない。経典では柔軟語も説くが、柔軟語と詞善とは、衆生に利益し、衆生の改過を助け、そなたを害しない話だ。それは耳に心地よい話であるかもしれないし、人を罵る話かもしれない。だが、絕対に衆生を傷害しない。衆生が三悪道に落ちるのを恐れるから、口に出すのだ。柔軟語とは言葉を話す速度が遅いと言うのではない。一拍で言ってしまえることを十拍に伸ばす。それは中気が足りないのだ。ゆっくり話せば入定している、と思ってはならない。思考を用いるのでゆっくり話すのだ。入定中に開示すれば、あっという間に話し終わってしまう。よって『詞善』とは、仏が仰せの一切の詞が衆生の修行を助けるということだ。上師が学仏した上師なら、その詞は善だ。上師がいうことが、自分に不利で自分に良くないと思うなら、それはそなた達自身に悪念が生じているということだ。上師は事情を理解していないので、言い間違い自分を叱る、と思うなら、これも悪念だ。真の上師が世間法を理解していないなら、どうして出世法を教えることができようか?上師はこの仕事を理解していないと思うかもしれない。だが実はどの仕事も皆同じなのだ。すべては金銭のやりとりであり、利益得失の比較だ。みな損失を恐れている。上師は損失を恐れない。そのため物事をはっきり見られるのだ。上師は忍耐力がある。請け合った事は必ずやり遂げる。これこそ仏法だ。仏法は我々に約束を守ることを教える。衆生との約束は成し遂げなければならない。法会の開始時に毎回唱えるあの発願はまさにこれを言っているのだ。そなた達はできているか?できていない!生生世世にできていない。この一世で人に騙されるのも当然だ!

『詞善』とは、そなたを喜ばせ、感動させ、淚を流させる、というのではない。そうとは限らない。叱って怒らせたりしたほうが、リンチェンドルジェ・リンポチェを記憶し、帰宅してからゆっくり考えるということもあるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはやさしくは話さない。やさしさは人に害を与える。『詞善』とはつまり、上師の言葉により、自分の問題が何なのかが分かるということだ。攻擊されていると感じようとも、大損をしようとも、受け入れなくとも、すべてはそなたのためなのだ。金銭的な損失を負ったとしても、それに反して体には何事もなかったということもある。多くの人が学仏のおかげで健康になったとして、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深いといい、金儲けになると、リンチェンドルジェ・リンポチェは無慈悲だという。

健康になり病気が遠ざかれば、それは医療費を節約できたということだ。医療費を節約できたのだから、商売では必ず損をしなければならないのか?病気になり医者にかかればたくさんの金が必要だ。財を使い果たし苦しんでも良くなるとは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を健康にしてやったのだから、別のところで損をしてもいいではないか。病による散財を遠ざけてやったのだから、別のところで散財するのは当たり前だ!散財しなければ、健康は再び悪化し始めるだろう。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは一度しか救わない、というのだ。すでにこのような例がたくさんある。心臓が良くないなら、最低でも一ヶ月二、三十万元の医療費がかかる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、50万元出さなければ救ってやらない、などといったことは一度もない。祝儀袋を受け取ってからでなければ救ってやらない、などといったことも一度もない。苦がありさえすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが知っていようがいまいが、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェを思いさえすれば、必ず問題を解決してやる。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェは無慈悲だと思っているようだが、実はそなた達が無慈悲なのだ。仏菩薩を利用し続け、上師を利用し続けている。問題を解決してやっているのは、そなた達が恭敬に救いを求めているからではない。恭敬に救いを求めているというなら、まじめに供養しているだろうか?していない!リンチェンドルジェ・リンポチェは勘定をしようというのではない。因果を説いているのだ。病を遠ざけてやったのだから、必ず何かが出現する。だが、そなた達は病気になりたくない、散財もしたくない、金儲けしたい、という。では尋ねよう。この一生でどんな好事を行ったのか?どれだけ行ったのか?ある時ある弟子は自動車事故で腕を骨折した。リンチェンドルジェ・リンポチェは尋ねた。これまでどちらの腕で鶏を捕まえ始末してもらっていたのか?と。ちょうど骨折した方の左手だったのだ。この弟子は皈依して長くなるが、自分が過去に鶏を殺したことがあるとは言ったことがなかった。施身法法会にずっと参加していれば大丈夫だ、とだけ思っていたのだ。上師は知らない、などと思ってはならない。実は因縁が到れば自然に知ることとなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは断言する。起心動念し上師に対して少しの懐疑でも抱けば、そなた達の福報はひたすら減損していくだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは在家衆である。大した学もない。立派なバックグラウンドもない。また転世のリンポチェでもない。それなのに、尊勝なる直貢チェツァン法王に今日まで絶えずご教示いただいた。それは、いくら供養したから、というのではなく、従順だからだ。尊勝なる直貢チェツァン法王のあらゆるお言葉、行為に対して露ほども懐疑を抱いたことがない。『尊勝なる直貢チェツァン法王は出家人であられる。我々の生活とは違う』とそなたはいうだろう。だが、尊勝なる直貢チェツァン法王にも父母がおられ、兄弟姉妹がおられるのだ。世話しなくとも良いのか?やはりしなくてはならない。だが、あれこれ言う人もいる。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、これらは尊勝なる直貢チェツァン法王の責任だ。リンチェンドルジェ・リンポチェに何の関係があるのか?尊勝なる直貢チェツァン法王がなさることはすべて正しい。衆生に利益するこんなにもたくさんの方法をリンチェンドルジェ・リンポチェにお教えくださったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが見たところ、上師はすべて正しい。何も言うことはない。よって経典では、上師の言葉や行為を不快に思い、気に入らず、受け入れられず、さらには悪念を生じるなら、それはそなた達の心に問題があるのであって、上師に問題があるのではない、という。そなた達に問題があるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達のプライベートな事を尋ねたことは一度もない。それなのに、そなた達はなぜ上師の一挙一動を知ろうとするのか?これでは不公平ではないか?不公平だ。上師にも人としての身体があるのだ。物を食べ、眠らなければならない。そなた達はもしかしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェの食事の様子を見るのが好きではないかも知れないが、この種の方法で上師を計ることはできないのだ。上師を検視する条件について以前開示したことがあるが、そなた達はまったく聞き入れない。つまり『詞善』とは、耳に心地よい話、うれしくなる話では決してなく、反対に苦痛に感じる話なのだ。苦痛でなければ、自己の検視を始めることはない。

『不相混』とは、いくらか矛盾しているように聞こえる。どういった意味だろうか?仏法が用いることは簡単に過ぎることがある。そなたが金剛乗を学ぶ根器でないなら、金剛乗を教えることはない。そなたに菩薩乗を学ぶ因縁がないなら、菩薩乗を講じることはない。阿羅漢道を学ぶなら、阿羅漢だけを講じる。そなたに講じたのはすべて『了義法』であり、世間法と混在させてはならない。用いた語彙は世間法のように聞こえるが、実はすでにそなたの因縁が見えているのだ。今年旧暦正月の法会に、飛行機に間に合わなったため参加できなかった弟子がいた。当初、旧暦大晦日の夜、用事が終わった後にすぐ飛行機に乗るよう伝えていたが、彼は人と写真を撮ったり握手したり話したり交際する方を選んだ。その結果法会に参加できなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェがそうするよう言うのは、必ず理由があるのだ。後になってたくさんの問題が起きている。一つには縁起が悪い、二つに上師の言葉に従わず、金銭が仏法より大切だと考えた。金銭が仏法より大切だと思うなら、学仏しなければ良い。上師は適当なことは言わない。上師が一たび口を開けばそれは必ずそなたの問題に関することで、そなたに益があることだ。それなのに、それに従わないなら、それは仕方がない。その人が衆生に対して、教派に対して、道場に対して非常に大きな貢献をしたのでない限り、リンチェンドルジェ・リンポチェが一人の弟子のために修法することはない。少しのことのために単独で修法することなどありえない。そんなことをしていれば、そなた達は千五百人余りもいるのだから、リンチェンドルジェ・リンポチェは死んでしまうではないか。そなたのタイプに応じて、上師はそなたに話をする。商売しているなら、商売に関する話をする。どんな分野でも、そなたに話すことができるのだ。

『完全具足』とは、これまで述べた一切の善を、仏はすべて具足だということだ。上師は学密なので顕教は分からない、密宗なので出家修行は分からない、などと思ってはならない。これらはすべて過ちだ。上師はすべて知っている。上師はただ機会を捉えて教えるだけなのだ。そなたの素材に応じてそなた達を教導するのだ。

『善依止世尊所説之調伏法』とある。世尊が開示くださる仏法は、我々に何かを与えてくれるのでも、何かを取り上げるのでもない。我々の心を調伏するのだ。『依止』とは仏が我々にお教えくださる方法で我々の心を調伏するのだ。仮に仏法を以って我々の心を調伏しないなら、我々の累世の貪嗔痴慢疑は減らないばかりか、増え続けるだろう。学仏しないが、それほど貪欲でない人がいる。学仏したのに、さらに貪欲になる人もいる。何かあると仏菩薩に助けを求め、何かあるとすぐにリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来る。自分の欠点は自分では見えないのだから、仏法を用いて調伏しなければならないのだ。そなた達には、世尊が自らお教えに来てくださるような福報がないのだから、上師に頼るしかないではないか。一人一人の上師が用いる方法はみな異なる。叱責を用いる者もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェの方法は棒喝だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに古稀なのだ。そなた達をゆっくり磨いている時間はない。

先日ある政治家が単独での会談を希望してきた。国家の大事、社会に有益な事のためなら、単独で会っても良いだろう。だが、プライベートな事情のためなら不要だ!リンチェンドルジェ・リンポチェにはそんな時間はない。リンチェンドルジェ・リンポチェのそばにいつまでもいれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが助けてくれるなどと思わない方が良い。そういうことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに古稀だ。人生のあらゆることをすでに経験した。この一生で果たすべき責任を果たせば、他のことは重要ではない。救えれば救い、救えないなら、見ているしかないではないか!これでは上師を怒らせてしまう、というのではない。上師はそなたに怒らせられることなどない。弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェをこんなにも長い間騙しており、リンチェンドルジェ・リンポチェも騙させているのだ。その数語で怒ったりするだろうか?このようにすれば上師は怒り、このように言えば上師を侮辱し、上師を毀損すると一日中言っている人がいる。上師が怒るのは、そなた達が衆生に約束した事を行わないので、そなた達が三悪道に堕ちるのを恐れるからだ。『リンチェンドルジェ・リンポチェに叱責されるのを恐れるのは、世界中で最も悪い人だ。なぜなら改めようとしないからだ』とかつて開示したことがある。自分は正しく、上師は間違っていると考える。それなら、なぜ来るのだ?ただ加護を求めに来るのなら、それでも良い。だが、恭敬心は表さなければならない。金を出すかどうかは最も大切なことではない。最も大切なのだ恭敬心だ。何かあれば来るが、何もなければどこに行ったか分からない。どこにそんな都合の良い話があるのだ?

この縁起があるので、少し説明しよう。経文を理解してからでなければ、唱えてはならないのだろうか?意味を理解しなければ唱えてはならないという事はない。実は頭が良すぎても仏法を学べないのだ。学仏は、少しバカなくらいがちょうど良い。頭を働かせ過ぎても学仏できない。仏法は凡夫について説くのではなく、すべては生死解脱について説くのだ。生死解脱を決心せず、説明が多過ぎれば、聞き入れられず、説明が多過ぎれば、受け入れることもない。仏法を説くのは非常に困難であり、また非常に困難ではない。仏法を説くのは困難ではなく、また非常に困難でもある。仏法は我々に何かを捨て去るよう説く。だが、我々にはそれを行う勇気がない。学仏は我々の心を調伏するのだ。もし調伏を受け入れないなら、どうして改められようか?叱責されるのだけを恐れ、叱責されても何もなければまたやって来る。『妙法蓮華経』では、菩薩は火宅から衆生を救い出したが、菩薩が振り返ると、衆生はまたもとの堕落した暮らしに戻って行っていた、という。そんなにドライにリンチェンドルジェ・リンポチェと清算しようなどと思わなくとも良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは18歲から働いており、ちょっとした商売もやっていたのだ。計算できないということがあろうか?

上師、仏菩薩と決算しようなどとしなくとも良い。口頭で感謝というだけではないか。先ほど前に出て語った弟子も、感謝しても仕切れない、と言っていた。今では、感謝しても感謝しきれない、はそなた達の決まり文句になっており、そなた達が何をするのかは消えてしまっている。感謝とは上師の言葉を受け入れることだ。受け入れるとは、すなわち供養だ。金銭について言っているのではない。上師の教えを行わなければならないのだ。そなた達はまったくできていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはもうすでにあれこれこだわることはしない。そなた達もリンチェンドルジェ・リンポチェとあれこれ駆け引きしないでもらいたい。あれこれ計算するのが好きな人の果報は、自分も他人にあれこれ駆け引きされ、あれこれ比較されるのだ。計算しようとして、できない人がいるだろうか?

昨日ある弟子が来た。本来は往生した祖父の超度を求めに来たのだ。超度は超度だ。だが最後に、息子の家庭の和楽を追加で求めてきた。息子の結婚式にリンチェンドルジェ・リンポチェを招待してもいないし、交際中にリンチェンドルジェ・リンポチェに報告したこともない。それなのに、今になってリンチェンドルジェ・リンポチェになんの関係があるのだ?なぜあらゆることを仏菩薩に丸投げするのだ?もし、あらゆることを仏菩薩に丸投げするなら、一件毎に料金を徴収しよう。リンチェンドルジェ・リンポチェの能力なら必ずそなた達の問題を解決できる。しかし、求めるすべての欲望を叶えてやれば、他の事態が必ず発生する。リンチェンドルジェ・リンポチェは何人かの弟子の命を救ってやった。これら弟子はすぐにリンチェンドルジェ・リンポチェを食事に招待しようと考える。リンチェンドルジェ・リンポチェは食に困っているのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが知っている有名レストランはそなた達よりはるかに多い!何度か食事に招待すれば、生生世世にリンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを救わなければならないと思っている。この考えは過ちだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず衆生を救う。だが、衆生が救われるかどうかに関しては、分からない。

『安住観照衆生之地』という。仏菩薩はひたすら衆生を観照しているが、衆生はそれを知らない。なぜなら貪嗔痴慢疑に隠されてしまっているからだ。必要な時は必ず与えなければならない。不要な時はこれもしない、あれもいやだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの叱責を恐れる。上師が教える事は、やってもやらなくてもよい。すべてはそなた達自身の事だ。損を恐れる人は、この一生で菩薩道を修めることは絶対にできない。この一生で六波羅蜜を修めることはできない。この一生で慈悲を修めることもできない。この一生で唱える真言も役に立たない。この一生を業に従い全うするだけだ!

上師とあれこれ駆け引きしてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一生、駆け引きしてこなかった。尊勝なる直貢チェツァン法王はなぜリンチェンドルジェ・リンポチェをお育てくださるのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェが駆け引きしないからだ。駆け引きするのは実になんの意味もない。リンチェンドルジェ・リンポチェが指示した事は、できるならやれば良い。できないなら早く言うが良い。できるとしても、上師が準備できるよう早めに知らせよ。上師と、世間財について駆け引きする人は世界で最も愚かだ。断った金銭をリンチェンドルジェ・リンポチェが受け取っていたなら、とっくにいくつもの道場が建っていただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは世間の財には全く頓着しない。ほんとうに世間財を欲しているなら、いくらでもあっただろう。金銭は重要ではない。金がなければ何もできないのも事実だが、金銭はリンチェンドルジェ・リンポチェにとっては出入りするものだ。金が多ければ、多くのことができる。金が少なければ、できることは少ない。それだけだ」と仰せになった。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは「宝積経」の開示を続けられた。

『善男子。菩薩云何修行禅定。善男子。菩薩不著欲故。不著滅故。不著離欲故。不著自身故。不著他身故。不著色受想行識。不著欲界。不著色界。不著空。不著無相無願。不著此世界。不著未来世界。而行布施。不依止施。不依止戒。不依止忍。不依止精進。不依止禅。如是修行禅定。迴向阿耨多羅三藐三菩提。而不分別。是名菩薩修行禅定。』

「この部分は、一般の初心者にはかなり難しいだろう。この段には中観理論がある。『宝積経』中で釈迦牟尼仏は『中観論』という言葉を用いてはいない。龍樹菩薩が後に『宝積経』中で仏が仰せの空性の因縁法に基づき、中観論をお書きになったのだ。『中観』とは、中央に立って有無を見る、ということではない。これは誤りだ。我々人類の言語は、正確な言葉でこの世界の種々の現象を全て説明することはできない。なぜこの世界が生まれたのか?人類の言語では答えが見つからない。科学はすでに十分に発達し、原子よりもっと小さな素粒子もすでに見つかっている。だが、この種のものがなぜ出現したかをはっきりと説明できてはいない。

欧州には現在、大型ハドロン衝突型加速器というものがある。科学者は二つの素粒子を衝突させ、宇宙で生じる現象を観察しようと考えている。だが成功していない。アメリカも研究している。先ごろ報導されていた。我々人類の経験法則では、この法がどうして生まれたのかを体感することはできない。哲学だろうと別の宗教だろうと説明できないのだ。だが仏は数千年前にご存知だった。人類が理解可能な言語、空性、有為法、無為法などの名詞を用いて説明を始めておられた。仏はなぜ説明を始められたのか?なぜなら、そなたに菩薩果位まで証し、仏果と成って欲しいからだ。宇宙万物の生滅法を明確に理解しなければ、衆生とともに六道で簡単に輪迴してしまう。衆生は六道で輪迴する。なぜなら何かに執著するからだ。宇宙万物とは、ある宗教が説くように神が創造したのではない。宇宙は誰々が創造した、と仏は仰せでない。ただ因縁法を用いて存在する一切の現象を説明するだけだ。縁により生し、縁により滅するのだ。

仏は、微塵世界の中にさらに微塵世界があると仰せになっている。昔はそれを説明できなかったが、今では分子、原子を用いて説明することができる。一個の分子の中には、さらに別のものがあり、どこまでも分けることができ、それぞれのプラス、マイナスは同じだ。とても小さなものからエネルギーを生じ、そしてとても大きくなり、さらにとても大きいものから、ある因縁が出現する。そのうちの一個の分子が消えてしまえば、非常に小さくなってしまう。この分子は消えてしまったのだろうか?実は消えてしまってはいない。これはとても複雑な方法で世間万物のことを説明しているのだ。仏は簡単に言われる。執著してはならない。金持ちが良い、と執著してはならない。どんなに一生懸命貯めても、誰かが使ってしまう。苦痛に執著してはならない。快楽に執著してはならない。これらはいつでも変化しているのだ。菩薩道の禅定を学ぼうと思うなら、開悟したいと思うなら、これも執著だ。感応したいと思う。これも執著だ。禅定により経典を理解したいと思うなら、これも執著だ。禅定により智慧を開きたいと思うなら、これも執著だ。禅定により気脈を通じたいと思うなら、これも執著だ。執著がありさえすれば、空性の慈悲心を証することは永遠にできない。空性の慈悲心がないなら、慈悲の力には限界があり、さらには全くないこともある。

真に禅定を学ぶ人は、何かを得るためでは決してない。そのため『金剛経』では特に『破四相』について言うのだ。色相を用いて求めてはならない。音声を用いて求めてはならない。これこそ大手印の境界だ。大手印を学ぶ人は、自己の欲望に執着せず、すべての欲望を滅せよとの執着もしない。多くの人は空でありたいと願う。空では念頭を持ってはならない。『念頭を持ってはならない』というこれも一つの念頭だ。話頭を参究するのは、あれこれ考え、悪念が現われ出てくるのを防ぐためだ。話頭参究とは、すべての念頭を一つの念頭に集中させることで、悪の念頭を代表するのだ。これでもやはり念頭があるということになる。

消滅に執着してはならない。近頃知識人の間に七禅が流行している。七禅を組めば『好漢(好ましい人物)』になっていると思っているらしい。七日間で開悟できるなら、大迦葉尊者よりすごいではないか。実は数日間、電話を受けさせずテレビを見せないだけで、禅定と言えるものではないのだ。自己の心を落ち着かせたいと思うなら、欲望を用いて修めなければならない。多くの知識人が禅七を好むのは、七日後には煩悩がなくなり、心が清浄になっていると考えているからだ。これこそ『滅』への執着だ。釈迦牟尼仏がお教えの禅ではなく、六波羅蜜の禅でもない。よって近頃流行の禅七は、すべて誤りだとまでは言えないが、六波羅蜜の禅定を遂げられないので、仏法の禅定ではない。

禅定修行には、一切の欲望を持ってはならない。神通を望むのも欲望に入る。ここでこんなにもたくさん講じたが、どうすれば不執著に到達できるかは講じていない。この理論だけを講じるのが、つまり顕教だ。どうすればいいのか?それは上師に頼るのだ。上師の灌頂を受けず、上師に口訣を伝えてもらうこともなければ、無理だ。足が折れるまで、脊椎が曲がるまで、座禅を組んでも、修めることはできない。これまであんなにも長く修行したのに、なぜ能力が足りないのか?実は能力が足りないのではなく、どのようにするかを、仏は経典中で仰せでなく、理論しかないからだ。かつて開示したことがある。禅宗は顕教の密法に等しい。なぜ近頃はこのように変わってしまったのか?それは上師の口訣伝承がなく、伝承が途切れてしまったからだ。話頭参究で成仏できるなら、『宝積経』は『見山是山、見山不是山、可以成仏』と書くだろう。だがこうは書いていない。これは、信衆の煩悩を消す手助けをする方便に過ぎないのだ。閉関し禅定を修めるなら、上師の灌頂を頂戴しなければならない。

『不著滅故。不著離欲故。』とある。禅定時には目を閉じなければならないと考えている人がいる。だが禅定時リンチェンドルジェ・リンポチェは目を開けている。ただ目玉は不動だ。目を閉じなければ心が定まらないと考える人がいる。だが目を閉じても、やはり呼吸はできる。たとえ亀息法を用いて皮膚呼吸したとしても、心臓は動いている。自分の心拍を一時間一回にすることもできるが、血液はやはり流動している。血液の流れを非常にゆっくりにすることができたとしても、気は動いている。気を非常にゆっくりにすることができたとしても、皮膚にはやはり感覚がある。口中がカラカラに乾いてしまうのも、過った座禅だ。座禅の際、舌を上顎につければ、口中は自然に潤う。潤えば、唾液を飲み込む必要がある。あらゆる生理的機能をすべて止めてしまうことなど不可能だ。座禅では一切の欲望から離れなければならないと言う考えは、誤りだ。欲には七情六欲ある他、我々の身体には生存欲がある。これは制御不能だ。『華厳経』に基づき、眼耳鼻舌身意人にある53の心所を、一つ一つ断っていかなければ欲望がなくなりはしない。『華厳経』はどのようにすると言うのか。一つ一つの神経叢の根を一つ一つ断ち作用しないようにすれば、意識も作用しないようになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったことがある。直貢梯寺には大修行者、テンジンニンマ・リンポチェがおられる。テンジンニンマ・リンポチェのある弟子は食事が不要な段階まで修めた。つまり、空腹を感じる神経叢の結をすでに断ったのだ。食の欲望を断ったのだ。このような禅修行は役にたつだろうか?役にたつ。より長く座禅が組めるようになる。だが開悟に役立つだろうか?そうとは限らない。

一切の感覚を持たないことに執著してはならない。座禅の際に何も聞きたくない、何も感じたくない、と考える人がいる。こうすれば容易にどうかなるだろうか?」とお尋ねになった。すると出家衆が小声で「昏沈」とお答え申し上げた。この時リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子を叱責なさり、大きな声で答えさせた。「上品振るな。温柔語の振りをするな。大きな声で言え。間違っても怒られるだけだ。そなた達は叱責を恐れている!」と仰せになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示くださった。「自分も以前顕教を学んでいた際には過ちを犯した。二度このような経験がある。一度は家で座禅を組んでいた時だ。その時 リンチェンドルジェ・リンポチェは、念頭を持ってはならない、何も聞かず、何も感じてはならないと考えていた。すると突然、一切の音が聞こえなくなり、人が後から来て通り過ぎたのさえ感じなかった。これは定ではない。昏沈だ。心の力が一瞬のうちに下りたのだ。現代的に説明すれば、身体の生命機能が一つ一つオフになり、最後に心拍と呼吸だけが残り、活死人のようになり、ゾンビのようになってしまったのだ。若い女性の透き通った笑い声を聞き気がついた時には、二時間あまりもたっていた。家人は皆寝ており、そばに若い女性などいるはずもなかった。それは非常で美しい声だった。その時リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王にまだ皈依していなかったが、後で考えてみると、それはアキ護法ではなかったかと思う。この笑い声がなかったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは起きられなかっただろう。これこそ離欲ゆえに犯した過ちだ。近頃の禅七を好む人は、座禅を組めば煩悩がなくなると思っている。禅七は七日間だけ肉を断つ。寶吉祥仏法センターでは厳格に菜食を規定している。なぜなら肉食し続ければ、煩悩を断つことなどありえないからだ。我々は人道にいる。細胞は人の細胞だ。我々人が食する食物は営養となって細胞内に届く。よって、牛をたくさん食べれば牛のようになり、豚をたくさん食べれば豚のようになる。カニ、魚をたくさん食べれば、カニ、魚のようになる。海鮮好きの人の体質は『寒』でなければ『熱』だ。なぜなら海の中の生物はどれも体質が『寒』、つまり冷血だからだ。そのため毒が排出できない。海鮮をよく食べる人は必ず皮膚病、ガンになる。今では海の中の生物の多くはガンを患っている。

かなり以前リンチェンドルジェ・リンポチェが信衆に接見している時、ある弟子が、二人にそれぞれ左右から支えられ入ってきた。全身が硬直しているが、医者は原因が分からないという。リンチェンドルジェ・リンポチェは『カニを食べたか?』と聞くと、その弟子は食べていないという。リンチェンドルジェ・リンポチェがさらに『カニを食べたか?』と聞いても、その弟子はやはり食べていないという。最後にリンチェンドルジェ・リンポチェが『これ以上、食べていないというなら、そなたを追い出すぞ』というと、その弟子はようやくカニを食べたことを認めた。皈依した後に高雄で結婚式に参加したのだった。すでに皈依しているのに、他人に刺激され、『自分は高雄、リンチェンドルジェ・リンポチェは台北だ。見られない』と考え、カニを一口食べたのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェは見るなり分かった。この弟子は海鮮中毒だ。中枢神経が中毒を起こしているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが加持すると、彼女は歩いて出て行った。これは、欲望を離れずに学び、加護を求めていたということだ。アキ護法が慈悲深くていらしたおかげで、一度食べたことで中毒を起させた。そうでなければ、何度もこっそり食べ、最後にはガンになっていただろう。

上師が禅定中でこの方法を用いて禅定したなら、衆生を見ることはできない。なぜなら執著しているからだ。よって『不著離欲故』は非常に重要だ。もう一度は基隆のある寺廟でのことだ。外は大雨だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定を始めてすぐに没頭し、雨音も聞こえなかったが、後にポケットベルの音で呼び覚まされた。この二つの経験で、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の禅定法が正しくないと気がついた。後に大手印を修めて、この二者間の差は非常に細微だと気づき、こうして定とはなんであるかを初めて知った。はっきり知ったことで、ようやく『非想非非想天(有頂天)』に至る機会がなくなった。禅修行をとても上手く行い、四禅八定まで修め、『非想非非想天』へ至っても、やはり輪迴で再来する。これは非常に細微な差異だ。今日講じたのは理論だ。禅定でこの範囲に至るなら、それは誤りだ。

『不著自身故。不著他身故。』は、一時期非常に流行したが、現在これを行う人は多くない。つまり座禅の際に自己の身体を観想するのだ。最後には自分の胃腸、心臓等内臓が見え、こうして人生が無常であると知る。これこそ自身への執著だ。自己の身体状況をひたすら反観すると、意識はゆっくりと内へ向かい、こうして自己の内臓が見える。これは仏法の禅定ではない。外道でも良い。インドの禅でも、道教の禅でもできる。これも欲望だ。今日我々が座禅を組む際、我々は身体が座禅を組んでいると執著してはならない。なぜなら身体は補導の作用を有し、我々の心と気が散乱しないようにするからだ。禅定は主に我々の心を調伏するのであって、身体ではない。我々は隨時入定できるまでまだ訓練できていない。よって座禅が必要なのだ。そなた達は座禅から始め、動静自如まで行わなければならない。我々は毎日動いており、一時さえ止まったことはない。全身の気脈は乱れている。禅定を通して、我々は先ず身体を静め、こうして初めて気も静まり、気が静まって初めて心もゆっくりと静まるのだ。よって禅定は、他人より腰をピンと伸ばしていれば、見た感じ荘厳というのではない。下顎をしっかり引いていれば、定印がきれいに見えるというのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでも入定できる。手を適当においても入定できる。誰かが請示すれば、いつでもすぐに入定できる。姿勢を準備しなければ入定できないということはない。

仏は我々に七つの坐をお教えくださり、禅定時には手をどこに置き、姿勢はどうあるべきかとお教えくださる。だが、必ずこれら動作を行わなければ禅定できないのだろうか?これは仕方がないのだ。すべての凡夫は静に慣れていない。身体の静を通して、我々の気脈を復位させるのだ。我々は一日中動きまわり、食い回っている。それで乱れるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは特に一人の出家弟子に対して開示している。なぜ神経が不調なのか?それは心が乱れているからだ。これ以上禅定しなくともよい。たとえ持咒しても、絶対にどれだけ念じようなどと思ってはならない。学仏はもちろん急がなければならない。だが、身体の状態が良くないなら、まずは調息調伏しなければならない。身体の調子が悪いのに無理して行えば、副作用が生じる。仏陀は苦行を勧めてはおられない。苦行を通して成就した修行人もいるが、釈迦牟尼仏はそれを奨励してはおられない。仏が奨励しておられるなら、6年苦行した後に出てきて、この方法は良くないと我々にお教えになることはない。もし閉関苦行を続けたなら必ず開悟するのだ。これこそ、苦行は成仏の方法ではないと教えているのだ。数人の侍者は、苦行を離れたと言って、仏陀を見下した。そのため後に仏陀は、この数人の侍者に対して四聖諦法、十二因縁法を開示なされたのだ。

我々は凡夫の身だ。禅定を学ぶのは、我々の何かを変えるためではなく、禅定を通して我々の心を調伏するためだ。ちょっと何かあったと言って、すぐに心を外に向けてはならない。ちょっと何かあったと言って、すぐにあれも欲しいこれも欲しいと思ってはならない。禅定は我々の心を調伏するのだ。心を調伏できないなら、無理に定めようとしても不可能だ。

我々の身体は業報身だ。善業と悪業がこの身体を生んだのだ。だが、この身体がなければ、我々は修行することができない。この身体をいかにして労わろうとも、禅定を通して身体状態を良くし、精神状態を良くしようとも、いつか必ずこの身体は消失する。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を学びながら、自分の外観が良くなるよう願ったことは一度もない。だが自然に変化した。なぜなら身体が変化し、心が変化し、心が調伏され、様々な事が自然に変わったからだ。この業報身には善業悪業があるということを我々ははっきりと知っている。善業があるので、我々は禅定修行をしている。だが、座禅を組んでいる際、他人と違うよう自分の身体が変化し、身体状況が良くなるよう執着してはならない。善業があり禅定が学べているのだ。歓喜心があればそれで良い。どの程度までできるかは重要ではない。禅定を修めること、とても定まっていると他人に思われることに執着してはならない。机はそこにある。それも非常なる定だ。外在の様子に執着してはならない。真の定は視線だ。身体ではない。身体が定となっているとはどういうことだろうか?認知症が始まり、老化現象が始まれば、多くの弟子の身体は非常に定となる。反応が上師より遅くなる。この種の状況が現れるのは自身、この身体に執着しているからだ。反対に、反応が速く動作が機敏な人は、自己の身体に執着していないからそうなのだ。自分の身体を犠牲にせよ、破壊せよ、と言っているのではない。身体は何のためにあるのか弁えよというのだ。身体の作用は何だ?身体はどうしてあるのか?身体はなぜ消えてしまうのか?それが分かったなら、禅定は身体のためではなく、自己の心を調伏するためだと分かるだろう。これこそ菩薩道の禅定で、六波羅蜜の禅定なのだ。煩悩を減らすため、というのはすべて出鱈目だ。

『不著他身故。』という。自己の外観が、禅定によってある御本尊のように変わり、本尊を目にできることを望む人もいる。よって、『金剛経』では色相により求めてはならな、と特に説くのだ。密法を修める人の中には、ある本尊を修めれば本尊と同じになると思っている人がいる。本尊と同じになると言っても、外相のことではなく、心のことだ。本尊の真のご様子はいったいどのようなものだろうか?仏像が、仏が御自ら作られたものなら、仏はもちろんご自身のご様子を塑像になされただろう。だが、現在の仏像は、どれほど荘厳だろうと、人が作り、人が描いたものだ。当然人の主観があり、最も荘厳だと考える様子に仏像を作っている。仏像の面前に座れば、仏が目の前に現れてくださる、と思うなら、自分も仏と同様にならなければならない。これこそ『著他身故』だ。これは非常に重要だ。ちょっとの不注意で、『楞厳経』が説く『飛精入口』になってしまう。魔が口から入ってしまうのだ。自分では気づかない。外観は普通の正常な人と同じだが、心の中では、輪迴を解脱したくないと思っており、念頭はこの方向に向かっている。実はそなたはすでに魔事を行っているのだ。魔事を行うとは生死を解脱したくないと思うことだ。魔もそなた達に善事を行うよう言い、仏法も講じる。魔王波旬は仏法を聞いていたのだ。魔が必ず悪事を働くよう指示すると思ってはならない。魔が必ず醜い姿をしていると思ってはならない。魔が醜いとは限らないのだ。釈迦牟尼仏が開悟なさる前、魔王は自分の娘を遣わし、菩提樹の下でセクシーなダンスを踊らせたことがあった。醜くかったなら、その娘は踊っただろうか?仏と魔の違いは、仏は衆生に生死を解脱させ、再び輪迴しないよう手助けくださるが、魔は衆生が生生世世に自分の手下として輪迴を続けるよう狙っている点だ。再来を発願する団体もある。だが、再来しても、その団体が存在していなかったら、彼らはどこへ行くのか?これこそ魔事を行うと言うことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も言った。リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王にお目に書かれたのは、一人の友人の紹介だった。初めてお迎えした仏像も、この友人が手引きしてくれたのだ。彼は多くの灌頂を受けている。大修行者、各教派の法王にも会ったことがある。彼は3、4年前に亡くなった。ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時『この一生で色々やったので、次の一世は再来してこの一世で行った事の善果を得たい』と言った。ところが、この念頭のため、この一生で行った功徳はすべて福徳になってしまい、累世の業を転じることができなくなってしまった。この友人は最後は脳卒中で逝ってしまった。生死を解脱できなかったのだから、本当はこうではなかったはずだ。再来して善果を得たいと願ったので、この一世で為した善が転業できなかった。仏法ではこれを魔道と定義する。

我々は『乗願再来』というが、できているかどうか自問しなければならない。できているなら、乗願再来するが、できていないなら、乗業再来する。釈迦牟尼仏はどうして阿彌陀仏の法門を開示なさったのか?釈迦牟尼仏は慈悲深く、地球の衆生が、この一世だけですべての業をすっきり消してしまい、修められることなど有り得ないとご存知だったのだ。よって特に、阿彌陀仏をご紹介くださったのだ。これにより衆生は阿彌陀仏の浄土へ行き修行を続け、仏果となった後に再来して度衆することができる。もしこんなにも簡単に読経し、菜食し、持咒し、座禅を組んでいるだけで生死を解脱できるなら、釈迦牟尼仏は、持ち時間がすでに少ないご老体だ。阿彌陀仏をさらに紹介するなどと余計なことはしなかっただろう。

我々は当然発願しなければならない。願力がなければ修仏は行えない。だがはっきりさせなければならない。そなたの願はこの一生で成し遂げられただろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずそなた達に伝えている。決心したか?と。世間に対する出離心は生まれたか?と。いわゆる出離心とは厭離ではない。出離とは、輪迴の家を離れることだ。厭離とは嫌うことで、マイナスの考え方だ。修めれば修めるほどマイナスになる。なぜ出離しなければならないのか?なぜなら衆生を救わなければならないからだ。自分が先にこの輪迴の世界を出離するのだ。そなたがこの輪迴の家を出離できないなら、どのように行えば輪迴しないかを、どうして教えることができるのだ?一日中度衆したいと思っている。何に基づいてだ?読経し、拝懺するよう教えるだけではないか。自身に執着してはならない。他人の身体に執着しないのも、この範囲内だ。再来したいという観念がありさえすれば、菩薩道を行う能力があるかどうか、六波羅蜜を行えているかどうかと、虚心を以って先ず自身に問わなければならない。そうでなければ菩薩道を修めることはできない。なくとも構わない。決心すれば良いのだ。上師と三宝に対する信心、恭敬心が減らなければ、浄土に往生できる。

衆生の根器は一人一人異なる。どの程度まで行わなければならないと要求することはできない。仏は方便法門を開いておられる。たくさんの門を開いているのではない。これができなくとも大丈夫だ。違った法門があるとお教えくださるのだ。上師もこれに基づき講じる。どうやって決めるのか?それはそなた自身を見て決めるのだ。そんなに簡単なら、1500人の弟子を、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この者たちは阿彌陀仏の方へ行き、あの者たちは地藏王菩薩の方へ行き、他の者たちは禅を修めよと分類できるだろう。密法では、金剛種性の修行に適しているか護法種性の修行に適しているか、どの法門の修行に適しているか見極める法門がある。さらに、一輪の花を捧げ、護法の助けに従い決定するのだ。無理に分類するのではない。『息懐增誅』というあの法門を修めるにも一輪の花を捧げ、さらに持咒しなければならない。

上師の話のうち、ほとんどは自分には役に立たない、と思うかもしれない。だが、上師が何を言おうと、仏法に関するものであるなら、決心を下さなければならない。決心し、因縁が備わったなら、上師が教えた仏法は、必ずいつか役に立つ。孔子が講じた『有教無類』のように、どれだけ頭が良くとも、バカでも、雄弁でも、どれほど金持ちでも、貧乏でも、そなたにとってはみな同じだ。『不著他身故。』なのだ。非常に慎重でなければならない。多くの人は禅定で最後の段階に至ると、自分はどのように変わったなどと滅茶苦茶に言うようになる。これこそ『著他身故』だ。

『不著色受想行識。』というように、禅定を修めた人は執著しない。不執著は消えて無くなってしまうことではない。不執著とは、すなわち無くなることだと考えている人が多い。不執著は追いかけないことなのだ。例えば、禅定の際に長く座っており、とても暑く、明らかにすでに汗をかいているのに、汗を拭わず、『空になっている』と言う。これはわざとらしく不自然だ。明らかに神経がまだあり、切られていないではないか。たくさんの人がこのようだ。これこそ色受想行識への執着だ。汗をかけば痒く感じてちょっと掻き、さらに座禅を続けても別に良いのだ。蚊が飛んで来れば、わざわざそれに構わないのもわざとらしい。慈悲心があるなら、ちょっと血を吸わせてやれば良い。慈悲心がないなら、離れてくれるようにすれば良い。自分は禅を学ぶ修行人だと、わざわざ考える必要はないのだ。禅修行で講じるのは自然だ。我々は色受想行識を具備している。なぜなら我々は生存しなければならないからだ。だが、そなたがそれを具備するからといって、色受想行識の感覚を追い求めなければならないということではない。自然に従っていれば良いのだ。眠くなれば眠り、腹がへれば食べる。肉体があるなら、これらは自然だ。それは仕方がないのだ。だがこれは我々が座禅を組んでいる時、ある意識が生まれないよう考えず、耳に一切の音が聞こえないよう願うのではない。これこそ色受想行識への執著だ。座禅はこれらを訓練するのではない。我々の心を調伏するのだ。心が調伏できれば、これらが影響を及ぼすことはない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定の際、周りがどんなに騒がしくとも、影響を受けて心が乱れることはない。座禅時に誰かが音を出し、それに怒ったなら、これも色受想行識への執著だ。そなたの禅定の努力がどうだ、と思ったのかもしれない。そなたの横でわざと大声で話し、音を出す人がいるかもしれない。これもそなたの因縁だ。縁が良いなら、そばを通る時ゆっくり歩いてくれるだろう。縁が悪いなら、故意に音を出すだろう。それは、そなたが過去世で他人が座禅を組んでいる時に邪魔したことがあるからだ。一切すべては因縁だ。我々はこの宇宙で、空性に入るまでは、一切の現象はそなたと因縁がある。他人がわざと邪魔するなら、必ずそなたと因縁がある。以前他人が座禅を組んでいた時、そなたが故意に石を投げて他人の邪魔をしたのだろう。歷史上このよう故事がたくさんある。

リンチェンドルジェ・リンポチェがインドで閉関した時、関房内には窓がなく、扇風機もなく、ドアも窓も開けられなかった。済顛のように扇子で扇ぎながら座禅をするのでもない。室内の温度は四十度を超え、耐えきれないほど暑かったが、その時、火地獄の衆生に代わり苦を受けていると観想したところ、すぐに涼しくなった。これこそ色受想行識への不執著だ。密宗では転といい、消滅ではない。酷暑の環境を清涼に転じたのだ。これこそ心の転だ。これは関房内でのことだ。そなた達には真似できない。なぜなら、十分な基礎がなければ、ここまで為すことは無理だからだ。極寒の地で、自分は衆生に代わり寒冰地獄にいる、と考える。それでは、簡単に風邪をひいてしまうだろう。関房では、ドアを閉めればそれで良いというものではなく、多くの儀軌がある。『閉八関斎戒』とは、ドアを閉めれば始められるというのではない。『八関斎戒の閉閑』するには、特に灌頂、口伝を受け、多くの儀軌を行わなければならない。現在は場所も金もない。場所を買い、関房を作る準備をしてはいるが、上師の福報が不十分なのだ。他の道場ならとっくにできていただろう。金もとっくに準備できていただろう。

『不著欲界。不著色界。』という。昇天したいがために禅を学ぶ人がいる。天界には欲界天、色界天、無色界天がある。学禅は色界天、欲界天へ行くためではない。禅定の能力が高ければ高いほど、行ける天も高くなる。禅を修めれば色界天と無色界天へ行ける。我々が今いるのは欲界天だ。次に高いのは色界天だ。色界天へは禅を修めた人でなければ行けない。禅を修めていない人は行けないのだ。四禅八定であれば、これらすべてへ行ける。なぜ、これらへ行けるのか?なぜなら『著他身』と『著自身』が行けるからだ。天界へ行きたいと願っても、輪迴してしまう。仏法の禅定は昇天のためではない。外道とは違うのだ。天界の天人もやはり輪迴する。

『不著空。』という。空に執着し、空でなければ、と常に考え続けるなら、頑空に陥る。空とは『無い』ということではない。不存在ではない。空とは万法がすべて因縁生滅法であるということだ。つまり、宇宙の中の万法はすべて自性で生まれたのではなく、実体がないということだ。それに実体があるように見えるのは、我々の肉眼が実体があるように感じているのだ。机がそこにある。動いていないように見える。だが実は内部の分子、原子は常に動いている。表面上は動いていない。だが、どうだ?動いていると言えるか?言える。絶えず生滅し、分子、原子は分裂している。百年後は分裂の末に破壊されてしまい、形状がなくなってしまうかもしれない。だが真になくなったのか?そうではない。分子はまだ存在する。我々人類のコミュニケーションにおける方便のために、この形状を机だ、コップだと呼んでいるだけなのだ。その本質はコップだろうか?そうではない。机は木、釘、ペンキで構成されている。誰かが設計し、多くの因縁があって、初めて我々が机と呼ぶものが生まれるのだ。すべての因縁は開かれる。この物がないのではなく、この形象がないのだ。空はどんなものも欲しいと思わないことであると執着してはならない。空にひたすら執着するなら、非常に消極的になってしまうだろう。どんなこともしたくない。毎日そこらに座っている。多くの法師がこの罠に陥ってしまう。空でありたい、煩悩から離れたい、とひたすら願う。これこそ空への執著だ。これは菩薩道を修める心持ちではない。『不著空。』とは一切の相は縁起性空であると理解することなのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの経を読まなくとも、なぜこんなにも多くを理解できるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関時、関房が小さいと言っても、食後はやはり立ち上がって歩きまわる。閉関時には、動静自如をすでに修めていた。ある日歩き回っていた時、うっかり椅子の足を蹴ってしまった。するとその瞬間、空性を悟ったのだ。この種の体悟を言葉で形容するのは非常に難しい。これは多くの条件を備えていなければならない。因縁が成熟すれば突然悟るのだ。真似しなくとも良い。帰宅後一生懸命椅子の足を蹴るのか?三年、五年蹴り続け、椅子の足が折れてしまっても、開悟することはないだろう。なぜなら、条件の多くがそなた達には備わっていないからだ。禅宗でも、湯呑みを割った瞬間に空性を悟ったという人がいる。ある種の音声を耳にしたことで開悟する行者がなぜ多いのか?それは、地球の人類は耳根が最も敏いので、音声を耳にすればすぐに作用を生じるからだ。試してみるが良い。そなたが今見ている映画に音声がなく、表情を見ているだけなら、それほど激しいとは感じないだろう。それに音声が加わり、殴られたり殴り返されたりすれば、何をしているのかを感じることができるのだ。プライムタイムの台湾ドラマに音声がないなら、登場する姑もそれほどキツイとは思えないだろうが、音声を聞いて初めて『わー!この姑は実はこんなにもキツイ人だったのか』と思うだろう。我々人類にとって五感の中で最も敏感なのは耳なのだ。耳は本当にすごい。空性をいくらか体悟している人には、文字で説明することができる。体悟していない人には、いくらかの名詞を用いて説明することしかできないが、やはり理解できないだろう。

『不著無相無願。』とは、禅定を学べば執著に相がなくなると思ってはならないということだ。『相』とはどういう意味だろうか?外側の相ではない。学仏は一切の無為、一切の不執著、一切の不計算を感じることだ、というのは過ちだ。我々学仏人が、一切計らないというのではいけない。自分が為した事が他人に利益できるかどうかを計らなければならない。為した事が生死解脱につながるかどうかを計らなければならない。何を欲するかに真に不著相となるためには、たった一つの方法しかない。それは、この肉体を原子、分子にしてしまい、この空中で漂流させるのだ。多くの人が学仏でこの名相上の過ちを犯し、不著相だと思っている。不著相とは、なにかの相が永遠に存在するかどうかに執着しないことだ。自分は何らの『相』も必要ないと思うことではない。一切の相が不要なら、一つ目に崩れてしまうのは人の倫理だ。親孝行する必要はない。何もかもどうでもいい。仕事に行かない。勉強もしない。何もかも気にしない。一日中座禅を組み、禅悅に浸っていればそれでいい、と考える。だが、これはあってはならない。座禅だけで日々を過ごして良いなら、なぜこれまで多くの寺廟、あらゆる出家人が自ら畑を耕したのか?この種の不著相の観念を破るのだ。仏は、相は虚偽だと仰せになったことがある。だが、この虚偽の意味は無いということでは無い。これら相は永遠に不変ではない、変化する、ということだ。愛情さえも変化する。あらゆるものは変化する。良いものが悪くなり、悪いものが良くなり、ひたすら輪迴する。座禅は、世間のすべての相を捨てるよう言うのではない。どんな相であろうと一切不要なら、なぜ水を飲むのか?なぜものを食べるのか?なぜ呼吸するのか?すべて要らないのではないか?機械に変わってしまえば良い。だが機械であっても、オイルを入れなければ動かないのではないか?これは誤った考えだ。

『無願。』と言う。自分が禅定を学ぶのは、しっかり仏法を体悟するためだけで、願があるかどうかは重要でない、と考える。これも誤りだ。学仏のすべての願は自己の利益、衆生に利益し生死を解脱させることと関係がある。願がなく、欲望で学仏し、リンチェンドルジェ・リンポチェに従い学仏して、商売をうまくやろうと考える。これは欲望だ。願ではない。禅定時に一切何も求めないで、そこに座って昇天すればそれで良い、と考える。これも願ではない。我々はなぜ禅を修めるのか?それは自心を調伏し、それによって衆生の調伏を助けるためだ。これも一種の願だ。なぜ禅定するのか?菩薩は何らかの事情を見る際には、必ず先に入定なさる。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに救いを求めるが、リンチェンドルジェ・リンポチェが先に入定してから話し出すのを眼にするはずだ。つまり、適当に言っているのではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて意識を一時停止させ、完全に定境内で世間の変動を見る。そなたが『無願』といい、禅を修め、六波羅蜜を修めるのに発願が不要だと思うなら、これは過ちだ。妻、夫が自分とともに学仏することを望み、孫が一刻も早く上師の加持が得られるよう願う。これらもすべて願ではない。上師に迫っているのだ。『願』とは、一に自分が生死解脱を願い、二に将来衆生の生死解脱を助けると願うことだ。座禅の前には先ず祈請文を唱えなければならない。線香を灯し、胡座をかけば座禅が始められ、毎日必ず30分坐れば入定と呼ぶというのではない。

『不著此世界。不著未来世界。』という。多くの世界が仏法を求めている。畜生道も仏法が必要だ。地獄道も仏法が必要だ。必ず戻ってきて度衆すると執著するなら、これはこの世界への執著だ。必ず地球に戻って来るだろうか?そうとは限らない。必ず地球に戻って来たいと執著するなら、それは菩薩道が修められていないということだ。菩薩道を行うには六道の衆生を済度させなければならない。釈迦牟尼仏はある一世で地獄におられ、ある一世では熊で、ある一世では孔雀で、ある一世では鹿だった。畜生道で度衆しておられたのだ。この世界に戻って来たいとは全く執著しておられなかった。尊勝なる直貢チェツァン法王が御自らリンチェンドルジェ・リンポチェに賜った長寿祈請文『自在於諸善縁所伏洲』にも、それがどこであろうと、善縁があれば、そこに行って度衆する、とある。必ず娑婆世界とは言っていない。尊勝なる直貢チェツァン法王はなぜこのように書かれたのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェがとてもイタズラ好きで、あちらこちらと動き回るので、善縁がなければ来ないとご存知だからだ。禅定発願は、まだ済度させ終わっていない衆生を済度するため再来するというのでは絕対にない。何様なのだ?仏でさえ済度させ終わっていない衆生がいるのだ。必ず再来して度衆すると考えるなら、それは執著で、それは心残りだ。必ず輪迴する。

『不著此世界。』という。学仏後に地球に戻って来られるかどうかは、そなたの縁だ。そなたの願ではない。この生で菩薩道を行い、地球で多くの衆生と善縁を結んだか?結んだのなら、この善縁がそなたを再来させる。結んでいないなら、十数人の小さな道場を開いただけなら、この十数人の縁が再来するよう引っ張ってくれるのか?そなたの業力はこれら縁よりはるかに多い。そなたの道場は人が多く、善事を行うので、この縁がそなたを引っ張って再来させてくれるのではない。菩薩はどんな原因で再来なさったのか?衆生の生死解脱を助けたのだ。衆生が輪迴解脱の道を求めず、すべてが財を求めるなら、善縁はなく、再来することはない。禅定を学ぶ人は何かに執著してはならない。阿彌陀仏浄土へ行くことにしか執著してはならない。当然仏の浄土へは行けるが、条件として菩薩果位まで修めなければならない。そなたにはできない。慈悲なる阿彌陀仏に一切の衆生が浄土へ行けるよう託すしかないのだ。禅定の際、浄土へ行くことを発願し、禅定の功徳を浄土に廻向すれば、そなたは必ず行けるだろう。禅定の功徳で開悟を求めるなら、絶対に行けない。なぜならまだ開悟していないからだ。迴向は非常に重要だ。我々は必ず行わなければならない。迴向を行えば、累積した少しずつの功徳は、仏菩薩及び上師の功徳大海といっしょになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法にいくらかの成就がある。一切の功徳をすべて迴向し、どこへ度衆に行きたいなどと発願したことは一度もない。学仏人であるなら、必ず仏菩薩、上師に頼ることができ、仏菩薩、上師が自然にお膳立てしてくださる。百万人の出家を手伝うと大願を発した人がいるとする。仏でさえこのような宏願を発したことはない。これこそ発願の乱発だ。

『不著未来世界。』という。未来世界でも執著しない。菩薩は衆生に従い、衆生の縁に従い出現なさる。来たいから来るのではない。衆生がそなたの再来を望まなくとも仕方がない。衆生に縁がないなら、来ても役に立つことはない。よって、転世のリンポチェの中には、来てもすぐに去ってしまう人もいる。衆生の学仏の縁がないので、離れるのだ。

『不著未来世界。而行布施。』という。禅定において、未来世界に執著し布施を行う。これは誤りだ。この種の考えは、どの仏土に生まれたいので、ひたすら布施し、そのためこの禅定を行うというものだ。一般の信衆がこの種の考えを持つことはない。密法を修める場合に、この種の考えを生じやすい。なぜなら毎日禅定を修める時には、供養布施を行い本尊に供養し、仏に供養する必要があるからだ。そのため、禅定し供養布施したので、恐らく本尊の世界に生まれられる、という考えは、あってはならないのだ。

『不依止施。不依止戒。不依止忍。不依止精進。不依止禅。如是修行禅定。迴向阿耨多羅三藐三菩提。而不分別。是名菩薩修行禅定。』

禅定を修めるには、布施の福報に依止して修めるのではなく、戒律に依止して修めるのではなく、修忍に依止し福報を得て修めるのではなく、精進し毎日長く座禅を組む方法に依止して修めるのではなく、禅修行に依止し禅宗を修行するのでもない。どれも誤りだ。例えば、自分は今『守八関斎戒』で禅定しているので、今日自分は『八関斎戒』に依止し禅定を修め、自分は『八関斎戒』に依止し禅定を修めたので、功徳は多く、禅定も進歩した、と考える。この考えは誤りだ。『阿彌陀経』では『若一日、若二日』という。これは閉八関斎戒を指している。この一生で一日でも、或いは七日間でも『閉八関斎戒』するなら、この生で阿彌陀仏浄土へ行けると保証する、というのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは小切手を切ろうかと思うが、我々には修行のための関房がない。簡単に言えば、禅定とは、我々の心を調伏するのだ。何かに頼れば、もっと良くなる、というのではない。人より良く戒律を守れば、心は簡単で、禅定も人より上手く修められる、というのでもない。これこそ依止だ。自分は多くの布施供養を行ったので福報が大きく、より速く禅定できる、というのでもない。この種の考えこそ依止だ。布施供養により生まれる福報は、禅と関係があるが、それに依止するのではなく、ひたすらたくさんの布施を行えば、禅定を人より速く修められる、というのでもない。ミラレパ尊者は大福報はなく、殺人も犯したが、大手印まで証できた。それはこれらに依止せず、上師の教え通りに行ったからだ。

『迴向阿耨多羅三藐三菩提。而不分別。是名菩薩修行禅定。』という。この方法で禅定を修め、一切の功徳を『阿耨多羅三藐三菩提』に廻向する。『不分別』とは、今日、菩薩道を修めたので迴向し、大福報を得たのでより精進する、と考えるのは過ちだということだ。なぜなら、阿耨多羅三藐三菩提に廻向しないなら、自分が修めた功徳を福報に転じてしまい易いからだ。先ほど挙げた古い友人もそうだ。迴向しない。迴向とは口で言うのではなく、心で行うのだ。簡単に言えば、自分は要らない、すべて与える、ということだ。すべて与えた後でなければ、一切の諸仏菩薩、伝承上師の阿耨多羅三藐三菩提の中で、修行上の危険がなくなることはない。『宝積経』で説くように、傲慢であってはならない。自分は多く学んだなどと思ってはならない。自分はこんなにも恭敬だなどと思ってはならない。この種の心がありさえすれば、阿耨多羅三藐三菩提とは関係がなく、菩提心を証することなどできない。菩提心がないなら、菩薩道を行うことなどできない。阿彌陀仏浄土へ行けば、六波羅蜜を修める必要はない、などと思ってはならない。六波羅蜜を修め、阿彌陀仏浄土へ行けば、上品上生だ。非常に速く成仏できる。浄土では楽しんでいれば良い、という人もいる。毎日楽しく暮らし、六波羅蜜を修めないなら、下品下生は12の小劫だけで良いのだ。それより少し悪くなれば、疑城へ行く。そこは阿彌陀仏の仏土の外だ。三悪道へは堕ちないので、ここにいて、500世の間、仏にお目にかかれず、仏法を聞くこともできず、500世の後には輪迴し続ける。仏の仰せを聞き入れず実践しないなら、それは疑だ。一人一人の業力は異なるが、修行の理念を変えることはできない。なにを以って変えるのだ?そのために、学仏しても力が得られず、どんなに唱えてもこのザマなのだ。このような方法で修めるのが菩薩修行禅定なのだ。条件は非常に厳格だ。『宝積経』を聞かないなら、自己の誤りを知らず、道を誤ってしまう。

釈迦牟尼仏は慈悲深く、ジッテン・サムゴンは慈悲深くあられるので、リンチェンドルジェ・リンポチェに『宝積経』を講じよと迫られる。これにより、そなた達は誤りを知ることができるのだ。だが、菩薩道は非常に厳しいので、難しいと考えるだろうが、実は決心を下しさえすれば、必ずいつか成し遂げられる。それがいつかは重要ではない。机の足を蹴って開悟するのがいつになるかは、重要ではない。もう一度言おう。机の足を蹴っても無駄だ。因縁が具足でなければ役には立たない。現代語で言えば、因縁具足、とは準備ができた、ということだ。チャンスが来たなら、それでOKなのだ。準備ができていないなら、どんなに蹴っても役には立たない。5年、10年と蹴り続けても、開悟することはない。湯呑みを割った瞬間に開悟した法師がいる。ギリシャ人は何かの祭りで皿を放り投げる。一度に百枚の皿を放り投げるのだ。彼らはみな開悟しただろうか?もちろんそんなことはない。

なぜ音が聞こえた瞬間に開悟したのか?それは音が響いた瞬間に定の中にいるからだ。因縁が具備したなら、法性が顕露した瞬間に、過去世とこの一世で修めたものが、その瞬間に清浄な状態で法性中に入ってきたのだ。上師の教え、仏の教えを体悟するには、多くの準備作業が必要だ。一朝一夕でも、一年二年や七、八年というのでもない。どれだけの時間が必要かは分からないのだ。大迦葉尊者が花を摘み微笑なさったという故事を聞いたことがあるだろう。仏が説法なさるとなると、毎回少なくとも1200人の弟子が集まったが、大迦葉尊者だけが開悟なさったのだ。そなた達はどうだ?上師が大笑いし、笑ったその口が落っこちて来ても、そなた達は開悟できないだろう。我々はそのような素材ではないのだ。謙虚でなければならない。教えを守っているだけで良い。応じた事を行わないなら、これはそなた達の未来に関わってくる。応じた事を行わないなら、他人も当然そなたとの約束を果たさなくなるだろう。そなたが利のために手段を選ばないなら、他人もそうなるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助けようとすると、なぜ多くの人が手伝ってくれるのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェが利に疎いからだ。あらゆるものを与えているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの任務はそなたを教え、そなたに警告し、そなたにヒントを示すことだ。そなたが聞き入れるかどうかは、そなた達の運にかかっている。

尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは30年前は尊勝なる直貢チェツァン法王の弟子だったが、今でも尊勝なる直貢チェツァン法王の弟子だ、となぜ仰せになるのか?なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが変わっていないからだ。教えを守ることにおいて変わっていない。そなた達は変わったか。誰でも老いる。白髮が増える。いつまでもリンチェンドルジェ・リンポチェから隠れているが良い。だが因果からは隠れられない。出家弟子は、どこまで開示したと記憶しておくように。リンチェンドルジェ・リンポチェに、この古稀に近い人に、記憶のために時間を使わせないでもらいたい。出家弟子がまた覚えていなかったなら、そなた達を責めるだろう」と仰せになった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を率い阿奇護法と迴向儀軌をお修めになった。法会が円満となり、弟子たちは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる開示に感謝申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお見送り申し上げた。

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2016 年 12 月 11 日 更新