尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年9月13日

法会が始まる前に、12名の弟子から、今回尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに従ってチベットに行った感想と体験を、参加者たちに話した。

一番目の弟子は、「9月1日から9月6日までたくさんの弟子が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに随行してチベットに参拝しに行った。旅中において尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を教え、衆生を加持し、及び教派を護持することを見て私はたくさんの感謝があり、今日はここで皆さんと分かち合いたい。」と話した。

「今回尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに随行してチベットに行った経験と感謝の気持ちを語る機会を弟子たちに与えてくれたことに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝したい。前回リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子たちを連れて祖寺に戻った時から4年も経過した。今回、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び弟子たちを連れて直貢梯寺に戻り、300人近くの弟子が祖寺に戻って参拝できたことはなかなかできないことだ。その過程において計画と実行にはたくさんの心力と努力が必要だった。交通と食事、宿泊のことだけでも、旅行会社が一般に処理できるものではなかった。

簡単な例を挙げれば、台湾人が中国に入国するのに台胞証(台湾居民来往大陸通行証)が必要で、チベットに入境するには入蔵証(チベット入域許可証)が必要だ。特別に申請しなければならない。今回チベット行きの期間はちょうど中国で大規模の閲兵が行われたため、特別な規定もあった。大変有り難いことだが、その期間に入蔵証が取れた団体は、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を連れて行ったグループだけだった。しかも、300人もの大グループだった。とても簡単にできることではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの時間と気力を費やしたため、300人の弟子はラサに入境でき、直貢梯寺に行けた。これはごく簡単な例に過ぎないが、ほかにもたくさんの例がある。

旅行上の手続きのほかにも、旅に出かけた寶吉祥の弟子にはお年寄りも、幼い子供もいたことを皆さんは知っていると思う。今回標高4000メーター以上の所に行った最年少の子供は8ヶ月、最年長のお年寄りは80歳過ぎだった。病気を抱えていた弟子もいたし、ガンの患者や行動不自由の人もいたが、300人全員が無事で法喜に満ちて台湾に帰って来た。とても簡単なことではなかった。私たちは寶吉祥にいてこのようなことを当たり前だ、簡単だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが賜ってくれた加持と加護に慣れ切って常に忘れている。だから、ここで皆さんにもう一度呼びかけたい。容易なことは一つもないのだ。

今回リンチェンドルジェ・リンポチェに随行してチベットに参拝しに行ったのは寶吉祥の弟子のほかに、雲南寺のナンジュ・ケンポスがいた。ナンジュ・ケンポスは寶吉祥仏法センターに来たことがあり、会った弟子もいるが、一部の弟子は会ったことがないだろう。私たちは出来が悪い。リンチェンドルジェ・リンポチェに追随する時は物事を見ても聞いても注意を払わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何をしたかを何も知らないし、リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力と大成就を全く知らない。いつも鈍い。

ナンジュ・ケンポスは今回リンチェンドルジェ・リンポチェに付き添って直貢梯寺に行った時、二つのことを語ってくれた。まずは一つ読みたい。瑞相の写真を再生した後、もう一つ読見たいと思う。以下はナンジュ・ケンポスの話の内容。

『尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、直貢噶舉派では修行の境界がとても高いリンポチェであり、上師に対するリンチェンドルジェ・リンポチェほどの恭敬心と敬虔心はどの弟子も持っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは修行において教派と上師のことを思っているだけではなく、尊勝なる直貢チェツァン法王に皈依して以来、始終身語意と財物で上師と直貢噶舉派に供養してきた。直貢梯寺、雲南、青海と国内外など至る所に需要があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも命で教派と上師に捧げる。これらのことは弟子たちができないのだ。9月4日に、リンチェンドルジェ・リンポチェが300人近くの弟子を連れて祖寺への七回目の参拝をした時、リンチェンドルジェ・リンポチェは梯寺を決して見捨てないことを感じて直貢梯寺の執事とラマ全員は大変感動した。執事ラマは『今まで寺院を護持してくれる人の中で、直貢梯寺にはリンチェンドルジェ・リンポチェほどの大功徳主はいなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは長年以来、直貢梯寺を続けて護持してきたので、私たちは大変感動したし、非常にリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝している。』と表した。最後に直貢梯寺を離れる時、ラマたちはリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上した。その意義は、リンチェンドルジェ・リンポチェは長く住世でき、仏法を広く発揚し、法脈を長らく伝承することを祈ることだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは一切の衆生、特に教派と弟子たちのために、70歳にもなろうとしているお年寄りの身でそれほど標高の高い所に上り、大殿とアキ護法殿で2時間近くも殊勝に修法した。これは私たちにとってとても求め難い加持だった。リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝したい。』」

続きに、話を語った弟子はハタ献上の過程を話した。「当時、リンチェンドルジェ・リンポチェはアキ護法殿から降りてきて梯寺を離れようとした。突然にリンチェンドルジェ・リンポチェは体の向きを変えて広場に戻った。その時広場に法座と椅子が置かれていた。たくさんのラマは、リンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上し始めた。それらのラマたちは大変恭しくリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上した。リンチェンドルジェ・リンポチェは荘厳な法相を見せ、優しくラマたちの供養を受けた。ラマたちは、祖師ジッテン・サムゴンの聖像、法本、大舎利塔、1パックの甘露丸とチベットの線香で供養したうえで、リンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上した。弟子として自分の目でその殊勝な儀軌、そしてチベット人が恭敬してリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上したのを見ることができたので、現場の弟子たちは皆感動した。その光景を見ることができて弟子たちは幸せだった。弟子たちを高所にある梯寺に連れて行ってくれたことに、リンチェンドルジェ・リンポチェに大変感謝している。

祖寺のラマたちは、リンチェンドルジェ・リンポチェが教派と梯寺を護持することに感謝している。ナンジュ・ケンポスの言うことには、リンチェンドルジェ・リンポチェの護持は国内外を問わず、しかも長年以来一度も中断することがない。ここで一つ簡単な例を挙げよう。皈依時間の長くない弟子は恐らく直貢梯寺の金頂を聞いたことがあり、寶吉祥仏法センターのサイトのフォトギャラリーを見る時は、煌めいてきらびやかな金頂を見たことがあると思う。直貢梯寺の金頂は、尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに指示して作らせたものだ。直貢チェツァン法王はかつて、直貢梯寺の金頂が完成される時は直貢噶舉派が興隆する時だと開示した。直貢梯寺の金頂は2000年に完成され、直貢教派も尊勝なる直貢チェツァン法王の言ったように興隆に発展している。

更に大事なのは、直貢教派が興隆になった以後のことだ。以前私は皈依時間の長い弟子から話を聞いたことがある。昔、梯寺に上るのは極めて難しかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年に初めて直貢梯寺に行った。それ以来、護持を続けてきた。今は道路もできた。以前の写真を見れば、本来下方の河床に村は殆どなかったが、今は村ができた。現地近所のお年寄りのチベット人は、自分の暮らしの頼りである仏寺の金頂が再びに輝いたのを見て涙が止まらなかった。チベット人にとって、仏寺は精神と生活に欠かせないものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは長年以来、護持を停止したことがない。これらは少しずつ積み重ねられてきた。過去の10年、20年以来、リンチェンドルジェ・リンポチェが教派と梯寺を中断せずに護持してきたお蔭で、弟子たちはこの殊勝な所に行って参拝できた。」

二番目の弟子は、自分の犯した悪いことについて公開謝罪の機会が与えられたことに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「9月1日から9月6日までのチベット参拝ツアーに参加できる福報、因縁がもらえたことに、上師に感謝を申したい。9月4日は弟子たちが祖寺である「直貢梯寺」に行く重要な日だった。当日は28台の車で車列が作られた。私は、高山病に罹った、ほかの体が不具合の弟子たちと一緒に28台目の医療用車に乗っていた。途中で証明書類が不足のため、セキュリティ検査の所で車ごとに止められ、通行できなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢梯寺での殊勝な修法に間に合わないところだったので、車内の全員は大変焦っていた。皆はそれぞれの意見があり、どう解決すればよいかも分からなかった。待ち受けていた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大変注意深くて優しく、その車内の老弱、女、子供の安否と近況に気を配っていたので、約2時間の後、本部から2台の小型車が派遣されてきた。私の乗った車の全員を2グループに分けて無事に梯寺に連れて行った。

間に合ってよかったと喜んでいたが、すでに過ちを犯してしまったことにも気付かなかった。一台目の小型車が着いたとき、早く乗らなくちゃという意念しか頭になかった。同車にお年寄りが二人いたことをすっかり忘れた。自分の具合が悪いことをしか思わなかった。その二人のお年寄りも調子が悪くて先に落ち着かせなけらばならないことをすっかり忘れた。文字で表せば、『自己本位で同情心もない』ことだった。

この一週間、私は毎日尊き上師と諸仏菩薩の法照に向かって懺悔してきた。大変恥ずかしい。自分の行動は全然仏弟子があるべきものではなく、上師の教えにも背いたので、大変恥ずかしく思っている。私はサービス業をしているので、そもそも細部のことをもっと理解、重視するはずだった。結局、『他人の身になって考える』という道理も分からず、自己本位の行動を取ってしまった。このことで、自分の根本的な心構えは確実に直されていないと暴かれた。何もかも自分自身の思い込みに過ぎない。起心動念は未だに自分自身を優先している。

上師は6年来、面倒を嫌がらないで心を込めて教えてくれてきたが、私は大変恥ずかしい。日常生活に実践していないし、家にいても親の言葉に対してすぐキレてしまい、後になって懊悩、後悔する。何時も繰り返している。散漫な心を持ったまま、身口意もきちんとしていない。そのため、境界が現れると、悪習の本性がすぐ外に現れる。。上師と諸仏菩薩の一喝でなかったら、上師が覚醒を促してくれなかったら、私は今でもだらだら過ごしており、目が覚めないままだった。

ここで、その二人のお年寄りに心から謝りたい。私は『一切の衆生を自分の親とする』ことを実践しなかった。平等心、慈悲心で一切の衆生に接せず、二人のお年寄りに苦労をかけた。どうか許してもらいたい。同時にも、自分を見直して改める機会をくれたことに、上師、仏菩薩に感謝したい。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、追随して修行できることは、代々から修めてきた弟子の福報であり、この出来の悪い弟子を見捨てないことにも上師に感謝したい。仏法の学習は目覚める道だと思う。上師の歩みに何れも奇跡、恩情が満ちている。『単刀直入に問題を指摘する』という上師の殊勝な教え方には法喜、慈悲が一杯だ。今回犯した間違い、この痛みを自分の心に刻み、常に警戒し、二度と犯さない。」

三番目の弟子は、自分の犯した悪いことについて公開謝罪の機会が与えられたことに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「9月1日、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがリードした300人のチベット参拝団に参加した。9月4日に直貢梯寺に向かった途中、運転手が通行許可書を持たなかったため、私たちの乗った車は検問所で止められ、2時間ほど待ち受けさせられた。漸く迎えの車が来たが、当時私は自分のことをしか考えず、同車のお年寄りと不具合の弟子のことに気配りしなかった。私の自己中心でお年寄りの弟子は先に乗車できなかった。私は早くも車に乗り込み、不具合の弟子が二人もいることに全く配慮しなかった。彼らは彷徨って道端にいたのに、私は自分が無事に法会に出られるかどうかのことをしか考えなかった。ちっぽけな慈悲心もなく、彼らを放っておいて自分だけが乗車できればいいと思った。身勝手で他人のことを全然気遣わなかった。しかし、二人が自分の親だったら、私はこうしなかっただろう。私は衆生のことを最上位におかず、自分自身を優先した。後になって自分は全くとんでもないことをしてしまったと分かった。

私の問題を指摘してくれた上師に感謝する。殊勝な教法で教えてくれた上師に感謝を申したい。このことを通して私の内心の悪を見直させ、犯した悪行を反省させてくれた。二度と同じ過ちを犯してはいけないと警戒させてくれた。状況があった時、その場で私は自分のことをしか考えず、起心動念も全部自分のためだった。ここでお年寄りの二人にお辞儀をして心から謝りたい。

更に感謝したいことがある。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、1ヶ月内に道場の67歳以上のお年寄り全員に、3箱の直貢香を差し上げること、及び1回の頂礼をすることを、私と同じ過ちを犯したもう一人の弟子に指示してくれた。殊勝な教え方で弟子を教えてくれたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申したい。

上師は私たちの経済的な問題をも心配してくれた。私たち二人は心から大変感動したし、上師にも感謝している。一見して上師は私たちを処分したように見えたが、実際に上師は常に私たちことを関心してくれた。上師の教え方はとても特別で殊勝だ。チベット参拝団に参加させてくれて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。この幸せな機会をもらえたのに、私は大事にしなかった。教えを守らない弟子だ。

昨日尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見を求めた時、上師は、私は人間として基本的なこともちゃんとしておらず、心にも上師と諸仏菩薩を思わなかったと、開示してくれた。その時、自分は本当にそういう人間だと、初めて真剣に考えた。私は、普段上師が教えてくれた仏法を生活において実践していない。上師と諸仏菩薩がくれた、仏法を学ぶ1年2ヶ月の機会に対して大変申し訳ない。私はこの有り難い機会を大切にしなかった。皈依して以来自分の行為を全然直していないし、依然として自己中心、独立独行、意固地のままでいる。人に優しくしてもらうのが当たり前だと思い、人の忠告を聞き入らず、普段上師が教えてくれた仏法も全部忘れた。皆さんに、私のことを教訓として覚え、同じ過ちを犯さないように願いたい。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が興隆になり、直貢噶舉派の法脈が永遠に伝承され、十方法界の一切の有情衆を利益することを祈る。」

四番目の弟子は今回のチベット参拝の感想を語ったと共に、この場を借りて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、今回の旅において犯した過ちを懺悔した。

「最初に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはどのように弟子の面倒を見たかを、一つ些細な事で皆さんに話したいと思う。弟子たちが祖寺に戻った日、私はスピーカーを運ぶ担当だったので、大変幸せで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの近くで待機していた。当日、梯寺の大殿で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、長旅で疲れ果てて少し疲れ気味でそれぞれの祖師と仏菩薩に頂礼した。頂礼を終えたリンチェンドルジェ・リンポチェはナンジュ・ケンポスにその後の予定を聞いた。そうしたら、ナンジュ・ケンポスは『リンポチェ、上のほうで用意ができているので、上がってください。』と答えた。上のほうとは、垂直高さが100メーター近くもあって登る必要があるアキ護法殿のことだった。その時、頂礼が終わったから、リンチェンドルジェ・リンポチェはアキ護法殿に案内されると、私は思った。

そしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェが『弟子たち全員が入ってから参る。』と答えたのが耳に入った。ケンポスはリンチェンドルジェ・リンポチェに席を手配しようとしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは『どの席でもいい。』と話した。そしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは大殿の真ん中に主法の座に近い座席に座って修法、加持し始めた。それから、300人の弟子は順番に大殿に入り、時計回りに大殿を回って頂礼した。その場面を見て私は涙をこぼした。

リンチェンドルジェ・リンポチェはラサから4時間以上もの長旅をした。ラサから梯寺までの道路は、ラサを離れた後最初の四分の一くらいだけが平坦で状況がよかった。その後の四分の三はでこぼこだった。車の揺れが激しくて車内にいる人は上下に跳ねる状態だった。お尻が座敷から少なくとも5センチ跳ね上がったほどだった。普通の人でもそんな上下に跳ねる乗車状況に耐えがたいのに、リンチェンドルジェ・リンポチェはひどいS型の脊柱側弯症があり、そんな激しい上下の振動に耐えるのに、私たちのような普通の人よりも体の負担は数百倍あったはずだ。

しかし、そんな厳しい状況でも、リンチェンドルジェ・リンポチェは自身が普通の人より数百倍痛いのを我慢しても、梯寺に着いた後は休みも取らず、すぐ梯寺の広場で弟子たちに開示し、その後は直ちに大殿に入り、頂礼、修法した。300人の弟子が順番に梯寺の大殿に入って頂礼するのを待っていた。私の見積もりでは、全部の時間は大体1時間だったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは臨時の法座に座って持咒、加持を続け、弟子全員が頂礼し終えるのを待って法座から降りた。

実際に、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の頂礼を終えた後休みを取り、弟子たちを大殿に残して頂礼させてもよかったのに。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはそうしなかった。代わりに、臨時の法座に座り、自分の疲れを気にせず、自らの加持とリードのもとに弟子たちに大殿で頂礼させた。リンチェンドルジェ・リンポチェは一途に衆生、弟子たちを思っている。

このことで、私は十数年前のことを思い出した。その時私はリンチェンドルジェ・リンポチェに付き添って青海に行って老ヨギーニを参拝した。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で一撮みのレーズンを手に取り、弟子たちに分けるので、老ヨギーニに加持をお願いした。青海に行った弟子たち全員は、老ヨギーニと上師の共同加持を受けたレーズンを確かに受け取った。

私はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して十数年にもなった。弟子たちを思うリンチェンドルジェ・リンポチェの心は、太陽のように大地を照らし、慈父のように子供を愛するように、加持、世話の心は決して変わることはないが、上師に対する弟子たちの心だけが変わる。中国には『一滴の水のような恩にも、湧き出る泉のような大きさでこれに報いるべし』ということわざがあるが、自分のことを反省したら、私は弟子として『リンチェンドルジェ・リンポチェから湧き出る泉のような大きな恩を受けたが、一滴の水のようにほんの僅かしか報いていない』のだ。

弟子に与えてくれるリンチェンドルジェ・リンポチェの恩恵を思い出す度に、私は大変は申し訳ない気持ちで一杯だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは母のために殊勝なポワ法を修めてくれた。弟が仕事を見つからなかった時に、仕事を与えて仏法の学習ができるようにしてくれた。私の家庭、仕事などにも面倒を見てくれた。今このように生活できたのは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが加持してくれたお蔭だ。

それなのに、私は皈依して十数年以来、リンチェンドルジェ・リンポチェに対する心も、供養する心も、学仏、出離の心も固めていない。何事も自分のことをしか考えず、自己本位で常に上師に感謝することもせず、上師の教えを背いている。上師からもらった恩徳を裏切った。ここで、私は本心で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔したい。

また、ほかにもリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔しなければならないことがある。今回はスピーカーの運搬を担当したが、リンチェンドルジェ・リンポチェが梯寺の広場で弟子たちに開示した時、自分担当のスピーカーは間に合って届けられなかった。このことが、私はリンチェンドルジェ・リンポチェのことを事前に手配せず、心に留めず、注意を払わなかったことを表した。リンチェンドルジェ・リンポチェの教え、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェがくれた恩徳を裏切った。私を処分することをリンチェンドルジェ・リンポチェにお願いしたい。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法体が安康で、法輪が常転し、教法が虚空に満ち、虚空にいる一切の有情衆生を利益するように祈る。」

続きは五番目の弟子の話だった。彼女は9月1日から9月6日までチベットに行った感想と心境の変化を語る機会が与えられたことに感謝した。

「私は皈依して10年になった。私にとって今回の旅は懺悔の旅だった。風邪をひいたら、梯寺に行くと、肺水腫や脳水腫になりやすく、旅行会社と上師に迷惑をかけてしまうので、出発前から、皆は風邪をひかないように注意された。自分は健康ではないと知っていても、うっかりして注意しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも私たちの面倒を見てくれるので、皆は漢方診療所で診察を受けられる。感謝している。私は漢方診療所で6種類の薬をもらってチベットに持って行った。胃腸などの不具合の症状を含め、あらゆる可能な体の状況に備えて薬を用意した。もちろん、漢方のお医者さんの入念な配慮にも感謝している。上師の負担にならないように、私は現地に行ったら、いろんな種類の薬を次々に飲んだ。それでも病気になって上師に負担をかけてしまった。

チベットに行ったら、最高級のホテルにチェックインした。そのホテルは最高級であり、グループ客ではなく、個人客をしか接待しないと知っていた。しかし、今回旅行会社は300人の寶吉祥弟子が宿泊できるように手配してくれた。弟子たちは最善の待遇を受け、お医者さんにも同行してもらった。しかも、保険もかけてもらったから、必要があれば使えた。ホテルに到着した時、先に(食べ放題の)食事するようにガイドさんに言われた。しかし、高原にあるラサクンガ空港は3600メーター以上の高所にあり、着いたら体はすぐ不具合になった。その時、早く食事を済ませて他車の家族のお年寄りの様子を見に行き、そして部屋に戻って休もうと一心で思った。胃痛があって食欲もなかったのに、おかゆを食べてしまった。体のためだから、少しは食べたほうがいいと思ったが、結局は鼓腸になってしまった。

鼓腸がひどかった時、リンチェンドルジェ・リンポチェはレストランで食事するので、一緒に行くように連絡が入った。大変だ、リンチェンドルジェ・リンポチェの前で戻してしまうのではないかと、私は心配した。その時、鼓腸の状況は大変ひどくて食べ物が喉ら辺まで戻った気分だった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが機会がくれたから、感謝しなければならないと思い、すぐ足を運んだ。

レストランに行ったら、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェに食事を済ませことを報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、麺を注文したから、なんどか食べようと現場の弟子たちに言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に微笑んだエネルギーがあったのを見てリンチェンドルジェ・リンポチェの調子は無事だと思った。また、大丈夫だろう、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持があるから、外に出て戻せば気分はよくなるだろうとも思った。本当に、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持してくれた。実際にその時は、何かを食べると、きっと吐き出す気分だったのに、結局私は湯麺を完食した。しかもその後は頭痛も胃痛もなくなった。もともと喉にかゆみがあって咳があったが、瞬間に咳が止まった。

やっと吐き気が消えた。私はリンチェンドルジェ・リンポチェを見て大変感動した。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは天井から床まで全面ガラスの側に座っていた。弟子たちは続々と入って来てリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼した。その最高級のホテルにいてリンチェンドルジェ・リンポチェは部屋で食事をとり、レストランで弟子たちと一緒に食事しなくてもよかったのに。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはそこに座って弟子たちの頂礼を受け、いつも優しい視線で弟子たち全員を見ていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた福報を弟子たち、高山病で具合が悪くなった弟子たちにくれたことを私は知っていた。更に、リンチェンドルジェ・リンポチェは18回や36回の頂礼をするように弟子たちに指示した。

上師は私たちに福報を与えた時、何の計算もないのだ。今回は懺悔の旅だと思ったのは、自分は上師に報う時、いつも心の中で計算していた。上師が私たちに接するのと同じ心で上師に恩返ししていない。この点は今回最も深く感じたことだ。今回私はナンジュ・ケンポスに会う機会があった。ナンジュ・ケンポスは雲南のある仏寺の住持をしているチベット人だ。私は皈依して10年もなり、リンチェンドルジェ・リンポチェは漢人の身でチベット仏教の中で大変苦労をしていることを知っている。しかし、ナンジュ・ケンポスがリンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭敬した様子を見て私は大変恥ずかしく思った。弟子たちの恭敬は本物ではないと、リンチェンドルジェ・リンポチェはよく言ったが、これで理解できた。

ナンジュ・ケンポスは仏寺の住持ではあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を大切にしている。初日にリンチェンドルジェ・リンポチェは長い間ヨーグルトを食べていないと言ったので、翌日ナンジュ・ケンポスは直ちにヨーグルトをリンチェンドルジェ・リンポチェに供養した。その後チベットにいた弟子たちは皆そのヨーグルトを食べさせてもらった。弟子たちはリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に同じ供養を受ける資格がないはずだった。皆さん、自問してはいかが。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちによい供養と食品を受ける機会をくれたのだ。

何故、食品はどれほどよいかを人に何度も言われて足を運ぼうとする人がいるだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のことを思っているのに、何故何度も人に言われなければならないのか。今回の旅で、弟子たちは心にもない供養をしないようにというリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を、私は理解できた。皆は怒られるのが怖い。私もそうだが、常に怒られるが、叱られるのも怖い。しかし、叱られた後、私はいつも教えてくれる上師がいるから、自分は幸せだと思った。私は既に40歳になった。今の社会には人の失敗、儲けないのを喜んで見る人、自分だけが儲ければいいと思う人が溢れている。互いに騙し合う社会になっている。過ちを犯したら、正すように直接に指摘してくれる人がどこいるだろうか。本当はどこにもいない。

私たちはリンチェンドルジェ・リンポチェを見る時、叱られるかと思って怖い気持ちを抱いているから、いつもおずおずしている。自分は根器が悪いだろうか、ナンジュ・ケンポスがリンチェンドルジェ・リンポチェの側にいた時大変恭敬して虚偽のない態度に、私はなれないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示したこうとがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の側にいた時、直貢チェツァン法王が指示した全部のことを、リンチェンドルジェ・リンポチェは如何に達成しようのことをしか考えなかった。上師の指示がなければやらないことは決してなかった。

しかし、私たちは皆そうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの指示がなければ、私たちはやらない。これも、この旅において自分を見直し続けたことなので、皆さんと励まし合いたい。今回は以前聞いたことのない開示を聞いたので、大変感謝している。私の理解していなかったことなので、聞けて大変ありがたいと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェは大修行者であることを皆は知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、リンチェンドルジェ・リンポチェは偉いと皆は知っているが、果たしてどれほど偉いかは知らないだろうと開示したことがある。実際に、私はその話をよく理解しておらず、以前も仏経をたくさん読まなかった。以前の私は反逆だった。叔母がほかの仏教団体にいて30年もなったし、従姉の二人も中部の仏寺で出家したが、たくさんの本を読む因縁がなかった。どうせ読んでも分からないからと思っていた。

今回、ナンジュ・ケンポスとリンチェンドルジェ・リンポチェの話を通し、弟子たちはいくら修行しても顔は真っ黒だというリンチェンドルジェ・リンポチェの言葉を理解した。ここにいる、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して5年や10年になった弟子がたくさんいると思う。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関を終えて帰って来たら、顔が変わることを皆も知っていると思う。今回チベットに行った時、リンチェンドルジェ・リンポチェの座席の頂上にスポットライトが三つあったので、リンチェンドルジェ・リンポチェが話したように、リンポチェの果位までに修行できた時の相の変化を私は見た。以前は食事を共にする機会があったが、見ても分からなかった。そのため、今回はこの話を皆と分かち合いたいと思った。

リンチェンドルジェ・リンポチェの頭蓋骨の両側は少し凹んでおり、おでこと眉間の中心の骨が出ている。パドマサンバヴァの仏像も同じだ。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェがプルパ金剛を修めて忿怒尊を現すのを待たなくても、弟子たちは上師が大修行者であることを知るべきだ。上師は頭の骨が変化したまでに修行したのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子を見れば修行しているかどうかが分かると言ったことがある。修行の道を歩んだ者こそ、如何に前進するかを教えてくれるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いた後、私は大昭寺に行った。アキ関房の中にも大きいパドマサンバヴァの仏像があった。私は仏像の前で瞻仰し、見れば見るほど恥ずかしく思ってきた。弟子たちは皆、リンチェンドルジェ・リンポチェは偉いと知っているが、どれほど偉いかが分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子の面倒を見るのは当たり前だと皆は思っているが、私たちは果たしてリンチェンドルジェ・リンポチェに世話してもらうためのことをしたのか。私たちは皈依したが、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを聞き、守っているのか。

今回はヨーグルトの供養もあり、壊れたこともあったので、私は感慨深かった。今回私はアキ関房の中で、テンジンニンマ・リンポチェの金箔貼り法像を見た。前回チベットに行ったのは大体9年前のことだった。その時のことをも今回の旅でほかの弟子に話した。9年前、リンチェンドルジェ・リンポチェは200人の弟子を連れてチベットに行った。その時の弟子たちは騒々しかったが、今回も同じだ。寶吉祥弟子として、私たちはきちんと行動していないので、皆で真剣に考えなければならない。

前回チベットに行った時弟子たちは騒々しかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆は誠意を持たない、お年寄りにも迷惑をかけてはいけないからと言って抽選で10人の弟子だけをテンジンニンマ・リンポチェの拝見に行かせた。テンジンニンマ・リンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師。その時の抽選で私は警告と教訓を覚えた。その時の抽選人数は200人だった。抽選前に、私は『こんな高い所までに来たのに、更に5000メーターの所までに登らなければならないし、道もないかもしれない。自分は鼻、体、肺、心臓が悪いから、上までに登れば、気を失ってリンチェンドルジェ・リンポチェに迷惑をかけるかもしれない。』と思った。ちっとも自信がなかったから、抽選に外れたのも当たり前だった。

奇妙なことに、全員で抽選した後、当たりのくじは10個あったが、当たったのは7人しかいなかった。その中の一人は80歳にもなったのに、両膝は人工関節に入れ替えられたにもかかわらず、大修行者に会えることで自分の体の状況を全く気にせず、子供みたいに嬉しかった様子を見た。それに比べれば、私は自分の体の痛みをずっと思っていた。本当に厚かましくて恥を知らなかった。そのお年寄りの弟子を見て私は思った。自分は弟のお蔭で寶吉祥仏法センターに来られたのに、自分はチベットに来れたが、弟は来れなかった。弟は来れなかったから、自分は単に弟の代わりに来たという狭い考え方を持ってよかったのかと私は考えた。その場で私は自分の自己中心、意固地を懺悔した。穴があれば入りたかったくらい気持ちだった。7人しか当たらなかったので、私はもう一度くじを引いていいかと聞いた。結局は当たってテンジンニンマ・リンポチェに拝見する機会をもらえた。

テンジンニンマ・リンポチェはもう誰も接見しないことになっていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの関係で、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子を接見した。その時、テンジンニンマ・リンポチェは両手でポケットから氷砂糖を取り出してリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子にあげたので、もらった弟子たちはそれを受け止めてほかの弟子たち全員に分けた。

今年再びチベットに行った時、テンジンニンマ・リンポチェはもうこの世にいない。私の皈依して以来、ドラブ・ワン・リンポチェ、テンジンニンマ・リンポチェ、125歳の老ヨギーニ、ユンカ・リンポチェは皆この世を去っていった。ただ10年の時間だった。皆にはまたいくつかの10年があるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと私たちの側にいてくれるとでも思っているのか。私たちは往生する日に確かに上師を見つけられるだろうか。私はアキ護法殿で跪いた時、自分はこの10年を大切にしなかったことを深く懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを連れてチベットに来たこと、そして相変わらず面倒を見てくれたことに大変感謝している。上師が教えてくれたことに対して恥のないようきちんと行動するようとに、皆さんと励まし合いたい。」

六番目の弟子は今回お母さんと一緒にチベットに行った。彼はお母さんの付き添いでチベット聖地巡礼の体験を語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「まずは縁起を簡単に話したいと思う。私は2014年9月7日に、母と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した因縁と経過を話した。子供の頃は病弱の関係で母と一緒に、リンチェンドルジェ・リンポチェから本当の仏法で済度と助けを受ける機会が得られた。

私は糖尿病、両眼網膜剥離の手術、透析と腎臓移植を経験してきたので、チベットは遥かでとても行けない所だと私は思っていた。しかし、初めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った後、体に大きな変化が起こった。血色素の数値が大幅に増加したのは最大な変化の一つだ。過去病気の時は最低の7くらいに下がったこともあったが、ちょうど血色素が最高基準、つまり17から18くらいに達した頃、今年の9月に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに追随してチベットに行くことができた。

今回の旅において私は風邪で一回の注射を受け、そしてちょっと酸素を吸入したほか、高山病の症状はほとんどなかった。ほかは全部無事だったので、大変驚いた。私は今回チベットの旅に出かけた弟子たちの中で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに加持してもらった一例だけだ。弟子たちを助け、チベット聖地巡礼の因縁を賜ったことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申したい。

旅行路線は台湾から西安へ、そして航空便でラサに向かった。西安に到着した時、何れのレストランやホテルも入り口で『歓迎直貢噶舉派寶吉祥仏法センターリンチェンドルジェ・リンポチェ御一行様』の看板を用意して皆の到着を迎えてくれた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの名前がレストランやホテルの入り口に現れたのを見た時、上師はいつでも弟子たちを加持していると、皆は実感し、心が感謝と賛嘆で一杯だった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になれて私は大変幸せ、幸運だと思う。また、『弟子がいる至る所に、リンチェンドルジェ・リンポチェもそこにいる』と深く感じた。

ラサ到着後、空港を出て皆は続々とそれぞれの車に乗ったが、リンポチェが見えたと、チベット人ガイドさんが言った時、弟子たちは期待の気持ちでそれぞれのワゴン車から降りて恭しく出迎えた。そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが空港から出てきたのを見た途端、心は大変感激だった。間もなく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら300人の弟子を連れてラサを出発して直貢梯寺に向かうのを皆は知っていたからだ。

ラサ市内に向かう途中、上師の車が先導して30台近くの車に分乗した弟子たちをリードし、その車列は大変壮観だった。ラサのホテルに着いて部屋に入ると、『本当にチベットにいるのか。』と思ったくらい豪華の部屋が目に映った。ホテルの環境と施設は快適なので、弟子たちはそこで高原の環境にゆっくりと適応でき、十分に休みを取ることができた。また、同行のチベット人医者が5人もいて24時間待機し、皆の健康状況に対応していた。これらのことから、上師は弟子たちのことを極めて気遣い、お年寄りから幼い子供まで沿道で面倒を見ていたことが分かる。祖寺に行く前日、上師は弟子たちと一緒に食事することが分かったので、弟子たちはその日のお昼にホテルの入り口からレストランまで2列の行列を作り、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを敬って迎えた。上師はあらゆる方法を通して祖寺に行く弟子たち全員を加持し続けていると、その時私は感じた。上師に感謝する。

祖寺に向かう日に、母はラサ到着の時に少し高山病の症状があり、数回吐き出し、点滴を打ってもらったので、その日の朝、私たちは後ろの車に乗るように手配された。具合の悪い弟子たちが乗った車だったが、お医者さんも同乗してくれた。祖寺への道は途中から道路状況が悪くなり、揺れが激しかったので、同車の弟子たちは嘔吐するだろうと、私は心配したが、大変奇妙なことに、車の揺れは激しかったが、母を含めて車内にいた不具合の弟子たちは皆無事だった。チベット人ガイドさんも沿道で携帯電話を使ってよく知られる英語の古い歌を聞かせてくれたので、皆はリラックスしていた。まして、帰り道でガイドさんとずっと話していた弟子もいた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに随行して皆の調子は妙によくなった。本当に上師に感謝したい。

車列が祖寺のふもとに到着したら、暫く停車した。山腹に祖寺と金頂が明らかに見えてきた。その時私はただ『本当に直貢梯寺に来た』という思いしかなかった。そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの乗車が先に祖寺に入り、ほかの車も後について行った。祖寺にいた時、上師はいつも一番前でリードしていた。行動の速度からはとてもお年寄りのように見えなかった。私の乗った車は最後に祖寺に到着した一台だった。ほかの弟子の話によれば、弟子たち全員は大殿に入って一回りをしたが、上師は上のほうに着いた時からずっと修法し続け、その後は大殿で全部の弟子の到着を待っていたそうだ。

大殿に入ると、全員は一回りした後に上師の前に行って頂礼したが、その時私の心は再び大変感激した。その気持ちは、仏の宮殿を一回りした後に中央の菩薩に頂礼したような感じだった。その後、上師は主殿での修法を終え、晴れていた天気は太陽が出ていたのに細かい甘露雨が降った。本当に奇妙だった。それから、上師は休憩室に入った。当日、現場の寶吉祥弟子全員は祖寺のラマたちから手厚い接待をもらった。それは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお蔭でそんな待遇が受けられたと、私たちは分かっていた。もう一度上師に感謝を申したい。

昼食の時に、間もなくアキ護法殿に行くと、弟子からの知らせがあったので、皆は上師が休憩室から出るのを迎えた。その後、上師は再び一番前で皆をリードして更に高い所にあるアキ護法殿に足を運んだ。私は、母とほかの弟子たちと一緒に前進した時、ハゲタカがますます多くなり、アキ護法殿の法に飛んで行き、飛び回っていたことに気付いた。そこは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが到着した所だった。アキ護法殿への道は上り坂で歩きにくかった。歩きながらも『リンポチェは速く上に着いたね』と思った。最後に、上師が言ったように法界眷属のように、弟子たちは助け合い、共に歩いて続々とアキ護法殿に到着し、そして、指示に従ってアキ護法殿を一回りした。

アキ護法殿に入って間もなくラマたちの荘厳な持咒声が聞こえ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは真ん中にに座り、修法したラマたちに囲まれていた。その時尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェも大殿にいた時と同じく、再び弟子たち全員の到着を待っていた。私たちはアキ護法殿から出た後、やがて空の雲は明らかに周りに拡散していった。大変眩しくて強い太陽の光が空から射して全ての物を照らした。

同時にたくさんのハゲタカがずっと飛んできた。列の前にいた弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは修法に少し時間がかかるので、皆にまず休んでもらうと言ったことを教えてくれた。修法に忙しくても、上師は相変わらず衆生、弟子たちのことを思い、自分のことを考えなかった。上師は修法を終えた後、弟子たちの感恩と感謝を浴びながら、素早く下山して大殿の広場に戻った。広場に戻った途中、以前梯寺に来たことのある弟子と話した。話によると、以前は小型バスで来たが、祖寺のふもとに駐車して歩いて登らなければならなかったそうだ。今は道ができたから、皆は車で上までに来られたそうだ。また、以前梯寺に来た乗車時間は10時間近くもかかり、上師が初めて来た時はジープで道路状況の悪い旅をしてやっと来られたそうだ。その時私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自身のひどい脊柱側弯症を言ったことがあると思いついた。衆生、仏法、教派のために上師が持っている一切の力と意志は極めて不可思議だ。きっと私たちの想像を超えた苦労と疲れをたくさん耐えているに違いない。上師に感謝した。

それから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大殿前の広場で弟子たちに開示した。同時にラマたちは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上して供養した。そして弟子たちは一斉に声をあげて感恩と感謝を言い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ見送った。最後にラマたちは、需要のある衆生たちと結縁できるように、弟子たち全員にハタを渡して数多くの貴重な甘露丸を与えた。受け取った時、私はその数の多さにびっくりした。本当に上師に感謝しなければならない。

祖寺にいた最後の時間を利用し、初めて来た多くの弟子は金頂に上った。本当の金頂だ。インターネットのイメージ図や写真ではなく、本当に私たちの目の前にあった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは一体どのようにここの全てを護持してきたかをもう一度考えてみたが、とても想像できなかった。

祖寺を離れた翌日はラサ空港から西安に戻った。弟子たち全員がセキュリティ検査を通過した後、上師はもう一度空港に姿を現して皆と一緒に搭乗を待った。今回の旅において上師はいつでも弟子たちの側にいて守り続けてくれていたと実感した。また、西安に戻った後でも、レストランやホテルでも同じく『歓迎直貢噶舉派寶吉祥仏法センターリンチェンドルジェ・リンポチェ御一行様』というおなじみの文字で皆を待っていた。上師に感謝する。

今回は有り難くて貴重な旅だった。最初から最後まで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと弟子たち、そして需要のある衆生と一緒に同行したうえで、とことん皆のことを気遣って全員を加持していた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければならない。上師でなかったら、今回はこんなたくさんの弟子がチベットに行けるはずがなかったし、旅中も最高の宿泊と食事を享受できるはずがなかった。上師がしてくれた一切のことは、仏法学習、生死解脱の道をしっかりと歩めるように、皆にさせたいためだった。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。上師でなかったら、私と母を含めて多くの弟子はそんな標高の高い所に行って参拝できるという自信もなかったまま、無事に伝説の直貢梯寺に行けたはずがない。私たちは上師の弟子だから、上師は私たちを加持する以外、何も望まない。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。上師がいつも一番前で弟子たち全員、または衆生をリードし、考えられない障害を取り払ってくれなかったら、私たちは家に帰る道も分からなかっただろう。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩し、上師に感謝する。またこの旅で同行した弟子たち、及びほかの人、こと、ものに全部感謝したい。私たちは、精進を図り続け、最も固い決意で、珍宝のような尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従って本当の仏法を学び、全員で生死解脱、離苦得楽ができるようにしなければならない。こうして上師、仏、親と衆生に恩返しするしかない。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が健康で、法輪が常転し、仏法事業が興盛になり、直貢噶舉の法脈が永遠に伝承されるように祈る。」

七番目の弟子は、300人近くの弟子を率いてチベット直貢梯寺に参拝しに行ったことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「2015年9月上旬に、全世界から寶吉祥仏法センターの弟子300人は大変幸せで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのリードのもとに、教派の祖寺である直貢梯寺に参拝に行くことができた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝しなければならない。

ガイドさんの説明によれば、チベットのラサの標高は3,650メーターもあり、教派の祖寺、直貢梯寺は更に高い4,300メーターの所にあるそうだ。9月2日にラサに到着した後、弟子たちは多少の高山病の症状が現れ、お医者さんの処置が必要の弟子もいた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは68歳の高齢でS型の脊柱側弯症もあり、肩甲骨と頚椎の具合もよくないのに、私たちのような出来の悪い弟子と衆生に因縁福報、学仏資糧を累積させるため、無理しても弟子たちを連れて祖寺、直貢梯寺に行って参拝した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに心から厚い感謝を申したい。

2000年、つまり15年前に、私は50数人の弟子と一緒に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェについて梯寺参拝に行ったことがある。当時の物資、条件などは大変不便だった。ラサから梯寺に行くには、泥道や河床の丸石を通らなければならなかったため、4人で1台のジープに乗り、激しい揺れを耐えながら梯寺に行くしかなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自身のS型の脊柱側弯症の不具合を気にせず、早朝の3時に起き、0度の低温の中で全員の車両を一台ずつ加持し、弟子の旅が無事になるように祈ってくれた。それなのに、弟子たちは愚かだった。現場で上師を迎え、感謝することも知らないでのんびりと遅れて現場に現れた。弟子を大事にする上師の気持ちも分からず、大修行者を粗末に扱った。その時の愚痴と無礼で弟子たちは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔しなければならない。

当時は悪い道を通って8時間もかからなければ、梯寺には行けなかったが、今回9月4日の朝、ラサから梯寺に出発する時、ガイドさんは『今道の状況はよくなったので、3時間過ぎで着ける』と言ってくれた。それを聞いて私は心の中で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに大変感謝した。この数十年来、上師が命を惜しまず教派、梯寺を護持し続け、教派に興隆にさせたし、政府にも支援してもらえた。そのお蔭で弟子たちと衆生は『よい』道を歩くことができた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに本当に感謝しなければならない。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、私たちのような福報が少なくて因縁が浅い、できの悪い弟子に梯寺巡礼に行かせるために、事務的なことのほか、旅の計画についてもたくさんの配慮をしてくれた。全世界からの弟子は300人、年齢も体質もまちまちなので、上師は、飛行機で中国に行ってから1日の調整と休みがとれるようにしてくれたし、それから、標高の高いラサに行ってまた1日休んでから更に高所にある直貢梯寺に参拝に行くように手配してくれた。帰りも同様に少しずつの調整をさせてくれた。弟子たちの体に用意ができるようにしてくれた。旅行中はほかの弟子が話したように、福報も因縁も少ない弟子を加持し続け、弟子たちに参拝の旅を無事に完成させた。梯寺に行く途中も、弟子たちのために黒砂糖、インスタントショウガ汁、食べ物を用意するように旅行会社に指示した。弟子の面倒を見る上師の心が本当にきめ細かかった。

しかし、皆さんは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは68歳の高齢だし、脊柱はS型の側弯症もあることを思ったことはあるだろうか。今年年初屏東で修法して衆生を済度する法会の時から、利益衆生のために、上師の具合は何度も悪くなった。上師はお年寄りの身なのに、私たちのような出来の悪い弟子と衆生に因縁福報、学仏資量を累積する機会を与えるために、自分の体に無理をして私たちを直貢梯寺に連れて行って参拝した。梯寺への道は以前に比べてよくなったとはいえ、途中に道路状況の大変悪い所がある。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはお年寄りで脊柱はS型の側弯症もあり、肩甲骨と頚椎も不具合なので、その部分の道を通った時はきっと辛かったと思う。

しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが梯寺に着いて開示した時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは体の不具合と旅の疲れを我慢し、わざと元気を出して加持してくれた。そのことはその声から分かった。

『今日皆は直貢噶舉の最も古い寺院である直貢梯寺に戻ってきた。祖師ジッテン・サムゴンは八百数年前にこの聖地を選んでチベットの最初の寺院を建設した。皆にここに来させるために、時間などを含めてたくさんの支度をしたうえで、数々の困難をも乗り越えなければならなかった。ここに来られたことで、皆は八百数年来、今までこの場所を維持し続けてきた直貢噶舉の出家衆に感謝しなければならない。

1995年リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて直貢梯寺に来た。当時は泥道しかなくてアスファルト舗装道路もなく、上る道は一台の車しか通行できないくらい細かった。この十数年以来、直貢梯寺にはたくさんの施設が増え、道もたくさん開通された。直貢梯寺の出家衆と信衆の護持のお蔭だ。もちろん、宗教に対する政府の支援もあったからこそ、今日の直貢梯寺はますます発展できた。

今日、皆はここに来たが、単に聖地巡礼の思いではなく、謝恩と感謝の気持ちがなくてはならない。もし、この八百数年来、これほどたくさんの人々がここを守ってくれなかったら、皆はここに来る機会もなかったはずだ。そのため、直貢梯寺を助けてくれた人々、直貢の信衆であるかどうかは関係ない。この場所のために力を出してくれた人々、関心してくれたたくさんの政府役員をも含めて彼らに感謝しなければならない。

後ほど、皆はまず大殿に入るが、以前祖師ジッテン・サムゴンは大殿で法座に上がって説法していた。典故はたくさんある。大殿はスペースが限られている。今日の300人近くの人数では、一回で全員が入るのが無理なので、三回に分けて100人ずつ入りなさい。皆は順番に列を並び、大殿に入った後は壇城に向かって3回頂礼し、一回りをして出てくる。秩序を守り、大声を出さないようにすることだ。

大殿での頂礼が終わった後、皆をアキ護法殿に連れて行く。時間があれば、あなたたちも体力があるなら、金頂の蔵経閣を見物しに行ってもいい。あまり緊張しなくていい。今日は仏法に対するチベット人の堅持を皆に見せると同時に、文化に対するチベット人の保護ぶりを見せて漢人の私たちに見識を深めさせたい。仏法は中華民族の文化の一部だ。そのため、あなたたちが仏法に接することは、中華民族の文化をより理解することになる。今回の機会を大事にしなさい。』

梯寺は標高4,300メーターの所にあり、空気は更に薄い。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちに、ゆっくりと行動して秩序を守り、そして、大声を出したり、緊張したりしないように指示した。自分は旅の疲れと体の不具合を耐えながら、大殿とアキ護法聖殿で座り続けて2時間以上も修法した。弟子たちのそれぞれに、焦らずに順番に大殿とアキ護法聖殿で参拝、頂礼ができるようにさせ、弟子たちと衆生に因縁福報、学仏資糧を累積する機会を与えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければならない。

アキ護法聖殿は梯寺より更に100メーター以上の高所に位置しており、道の状況もよくなかった。まずは建設中の土地を経由し、それからは懸崖のジグザグ道に沿って登って行かなければならなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは体の疲れを我慢して弟子たちを参拝に連れて行った。更に、沿道で朝早くから一番よい服を着てお年寄りと子供を連れ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝見しに来たチベット人を加持した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを支えて同行したラマによれば、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは歩いた時大変しんどくて息が苦しかったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは登る途中で何度も足を止めて弟子たちはついて来たかを振り返って確認したしうえで、口で持咒し、後ろにいた弟子たちのために加持し続けていたそうだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはアキ護法聖殿で修法した時も、具合の悪い人は外で風に吹かれるのを避けて大殿に入って待ちなさいと指示した。この世の大修行者に皈依でき、自身のことを構わないで全身全霊で弟子たちに気遣って面倒を見る上師に頼ることができ、弟子たちは大変幸せだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。

直貢梯寺の蔵経閣の金頂は、リンチェンドルジェ・リンポチェが1999年インドのヂャンチュウブリンで閉関した時に、根本上師尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに指示して護持、建設されたものだ。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは財務的に困難があったが、根本上師尊勝なる直貢チェツァン法王の指示だったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは躊躇いなく奮って2000年に完成した。

完成後、現地たくさんのお年寄りのチベット人は涙が止まらず、続々と参拝しに来たので、教派もそれ以来増々興盛するようになった。多くの弟子はインターネットの実景地図の衛星写真を通して金頂を見た。衛星写真で見れる人類の建築物は多いが、大体は国や団体の力で完成されたものだ。それに対し、直貢梯寺の蔵経閣の金頂は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが一人で最も難しい時期に完成したもので、殊勝で有り難いのだ。弟子たちは参拝、瞻礼に行った時、金頂の眩しさと輝かしさで金色の光が虚空に満ちるのを見た時、皆は心から感動し、正法を広めて教派を護持した尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの心はダイヤモンドよりも固くて強いことを賛嘆した。上師に感謝、賛嘆を申したい。

この場を借りて去年尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに仕えた時の出来事を話したいと思う。その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェには10分後重要な会議があったが、会議の内容、話すこと等について尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは何の討論もせず、ただ、ある母子家庭の弟子にメッセージを伝いなさいと私に指示した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは『彼に心配しなくてよいと言ってあげなさい。彼には私という上師がいるし、寶吉祥という大家族がいるから、何もないわけではない。』と私に指示した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは2回指示した後、水を飲んで立ち上がって会議に出ていった。上師は自身のことについて何の罣礙もなく、自在で従容としている。却って私たちのような出来の悪い弟子と衆生のことを心配している。弟子の皆さん、私たちには何もないわけではない。私たちには上師がいる。例え本当に何もなくなっても、私たちには上師がいる。

『今の道は平坦だ。もうすぐ着く。』というガイドさんの言葉のように、この仏法学習の道は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の体、健康、家庭、事業、そして自分の修行時間を犠牲にして弟子たちにくれたのだ。上師は自分の全てを犠牲して正信の仏法を学ぶ機会をくれたので、弟子たちは上師に感謝し、上師が正法を広める、衆生を利益する苦心を裏切ってはいけない。曹渓寺のおみくじによる諸仏菩薩の指示『莫要頼仏加顕栄、虔心戒意尊依奉、自然功円果位栄。』のように、きちんと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに頼らなければならない。上師がくれた勝利の教法は既に私たちのために、生死の輪廻から解脱できる黄金色の明るい道を広げてくれた。そのため、私たちは上師に頼り、教えに従って修行しなければならない。」

八番目の弟子は、今回金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに随行してチベットの直貢噶舉祖寺である直貢梯寺に戻った感想と体験を語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「今回の参拝の旅において、旅行会社は長い旅中に皆がより快適に乗車できるようにしてくれるため、車両を4年前の9台の大型バスから28台のワゴン車に変更し、且つ車両ごとに現地ガイドさんの同行を手配してくれた。9台の車両には、9人の運転手に9人の現地ガイドさんを加えれば済むことだったが、旅行会社はコストを惜しまず、28人の運転手と28人の現地ガイドさんの組み合わせに変更してくれた。それは、高原エリアで皆がより快適に乗車できるようにしてくれたためだったし、現地のチベット人に働く機会を与えるためでもあった。

9月5日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、実話を語るようにある弟子に指示した。日本で風災が起きた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは現地のある日本企業の運営が影響されるのを心配し、大量の商品を販売できるかどうかをも考えず、直ちにその企業に500万の注文をした。リンチェンドルジェ・リンポチェは商売でいくら儲けられるかを考えず、日本の風災で現地の人々は助けが必要かもしれないことをしか考えなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようなやり方で被災地の人々に対して関心を表し、すぐ相手に500万の発注をしたいと伝えた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのこのような情義と高尚な人格でその企業は大変感動した。そのため、糖尿病患者も食べられる砂糖のことをリンチェンドルジェ・リンポチェに話した。皆さんも分かると思うが、日本は最高品質の物を国内に留保して決して海外に輸出しない文化がある。このようなよい商品は多くの日本人も食べられないのだ。何故なら、企業はこのような砂糖を公開せず、軽々に販売しないからだ。皆さんはこのようなよいものが食べられるのが、リンチェンドルジェ・リンポチェが商売する時はいつも先払いして早々に注文するお蔭だ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、いつも人の立場に立って考え、最初から自分のことを考えず、自分が損しても他人から利益を得たいと思わない。日本食品店にはこのようなよい商品がたくさんある。隠して自分だけが享受することのないように、皆さんに呼びかけたい。このような理念と食品をもっと多くの親友に薦めてあげて彼らにも安心で健康的に食べてもらおう。

私は仕入の仕事をしているので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのように商売する人はいないことを知っている。普通は入荷後代金が払われ、しかも月締めで支払われる。支払は遅ければ遅いほうがいいのだ。誰も損したくないから、損得に拘っている。私もそうだし、いつも計算しているし、つまらない利益にひどくとらわれている。

今回の参拝の旅において、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんのことを示してくれたうえで、何事も当たり前だと思ってはいけないし、当たり前のことはどこにもないと開示してくれた。何事でも陰で努力する人がいたから、私たちは今のように享受できる。そのため、全てのことに感謝し、得ることは当然だと思ってはいけない。先人が木を植え、後人がその木陰で涼むようなことだ。現場の大徳、弟子たちの皆さんにも、心に感恩心を抱き、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに追随して仏法を学ぶ機会に感謝、重宝するうえで、地道に教えに従って修行することを願いたい。常に感謝の心を抱くことにより、何事でも当然だと思わなくなるし、入念な忠告で正信の仏法を広める上師の苦労を無駄にすることもなくなると思う。

また、少し前にチベットでは死者のためにリンポチェにポワ法を修めてもらうのに、少なくとも死者と同体重の黄金を供養しなければならない話をほかの弟子が語ってくれた。50キロの死者の場合、昨日9月12日台湾で公表された黄金価格、一銭(約3.75グラム)につき4480台湾ドルで計算すれば、黄金価格は6000万台湾ドル弱になる。現場にいる弟子たちの中で、家族が往生した時に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに殊勝で有り難いポワ法を修めて済度してもらった人が何人いるだろうか。上師に百万台湾ドル以上の供養をした人がいるだろうか。恐らくいないと思う。私はここで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝、懺悔したい。5年前に父のために、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは貴重、殊勝で有り難いポワ法を修めてくれたことで感謝したい。また、供養と言えるほどのものではないが、自分が結婚した時に持った全ての黄金ネックレスとブレスレットで供養しかできなかったことで懺悔したい。

上師は自分の命をも惜しまず、衆生を利益しても見返りを全く求めない。仏法の助けで衆生は一日も早く離苦得楽ができるよう一心に望んでいる。私も父も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに命を助けてもらった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩大徳に報うこともできない。そのため、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの念入りの忠告と決して見捨てない教えに感謝するうえで、常に自分の身口意に注意を払い、懺悔して自分を改めて見直し、仏法学習、及び生死の輪廻から解脱する信念を培って固めるしかない。

先週、道場では法会が行われなかった。皆さんはどう思っているだろうか。心から反省して自分の仏法を学ぶ心を見直しているだろうか。今回尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェについてチベット参拝に行った人の中で中国からの皈依弟子も多かった。彼らは遥々と中国からでも頼れる具徳の上師を求めたいと思っている。それに対し、台湾にいる私たちは毎週の法会を当たり前だと思っている。実際に法会を必要とするのが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェではなく、福報も因縁も少ない私たちのような弟子だ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは厳父でもあり慈母でもあるように、教派、衆生のためにたくさん心配している。皆に健康な体で仏法をしっかりと学習させるために、コストを惜しまないで日本食品店を開き、大勢のよい商品を取寄せた。また、病気で苦しまれる衆生を憐れみ、漢方診療を開設し、最上級の漢方薬で衆生を助ける。そのため、私たちは自分の健康をきちんと注意せず、ずうずうしく上師に加護と加持を求めるわけにはいかない。今生にこの具徳で話をする仏菩薩である尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会い、皈依できたのは本当に有り難いことなので、大事に思い、感謝すると共に、思いやりを持って尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのことを考えることを、大徳と弟子の皆さんに願いたい。上師はできの悪い弟子である私たちのために苦労せず、代わりに更に多い無辺の衆生を利益するために多くの気力を使えるように願いたい。最後に、上師のご健勝を祈り、尊き身命が末永いことを祈り、事業が円満隆盛であることを祈り、無離上師の加持が得られることを祈る。」

九番目の弟子は、大徳と弟子たちに、今回尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェについてチベットの祖寺に戻り、旅中の体験と感想を語る機会が与えられたことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

「2ヶ月前に妻はほかの弟子たちとコーヒーショップで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子たちを連れてチベットの祖寺参拝に行くことが間もなく発表される話を聞いたので、妻はその場で私の代わりに旅行会社に申し込んだ。そのため、私たちは一番目の車両に、つまり8月30日の日曜日に成都へ出発する最初のグループに手配された。私たちは成都に3日滞在し、現地で最も有名な名勝・旧跡をたくさん見物した。

現地で最高の精進料理のレストランを特別に手配してくれたことに、旅行会社に感謝したい。テーブル毎に弟子たちはそれぞれのアイデアを発揮して料理を注文した。毎回の食事も素晴らしくて本当に感心した。旅行会社は更に最高のガイドさんを選んでくれた。そのガイドさんの知的で感性的な説明により、一番目の車両に乗った弟子たちは成都の文化とグルメに魅了され、皆はこの旅に出て本当によかったと思った。あそこの土は粘り強いと聞いたことがあるが、行ったら離れたくなくなるのは本当だ。しかし、そう思っても皆は一つの結論を出した。それは、成都はいくらよくても台湾に比べられないものだという結論だった。理由は、台湾には尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいるので、私たちは仏法が学習でき、上師がいる所こそ最高の場所だからだ。そのため、私たちは心から、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがこの世で長生きして一切の有情衆生を利益することを願いたい。

旅行中のエピソードだが、台北から成都に出発する際、飛行機が離陸したばかり、上昇している間、急に機体が激しく振動して左右に揺れたり、上下に跳ねたりしてまるでコントロールを失った状態になった。シートベルト着用のサインが点灯したうえで、客室乗務員が着席するよう、パイロットからのアナウンスも聞こえた。しかし、窓の外は雲による明らかな妨害がなかった。私のパイロットをしている経験から、当時の様子は普通ではなく、自分の経験した普通の乱気流とは違うと判断したので、『まさか。』、『この便の乗客は皆業が重いのか。』と思い浮かんだ。本能でどう処置したらよいかを思ったところ、様子は正常に戻った。隣に座った妻は乱気流を極めて恐れるタイプだったが、当時は一心でアキ仏母のことを思い、心配も恐怖も全く感じなかった。そのうちに飛行機は正常状態に戻った。このことで私は一つの会得があった。個人的に専門知識と能力を持っていても、本当は些細なものに過ぎないのだ。そのため、私たちは常に上師のことを思い、護法を信頼しなければならない。完全に頼り、完全に投降しなければならない。大事な時がくる時、俗世間の全ては何も頼りにならない。上師だけが私たちの法身慧命の頼りになる。上師と護法に感謝する。

この旅の最も肝心な場面はチベットのラサにある。宿泊はチベットの五つ星のセントレジス・ラサリゾートだった。そこからポタラ宮を眺めることができ、ホテルの内部は金箔作りのプールがあり、建物は古典で優雅だし、サービスも最高だった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの随行でなかったら、私たちの命数と福報ではこれほどの待遇を受ける機会もなかっただろう。チベットのラサは標高3600メーターの高所にあり、祖寺は更に高い4300メーターの所にある。この標高に行ったら、一般の人は生理的に具合が悪くなり、高山病に罹るのは普通だし、ひどい場合は胸水がたまる可能性もある。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲なる加持に感謝を申したい。二日連続で同じレストランでの夕食を手配してくれた。夜が遅くても上師は疲れていても夜の9時過ぎになってずっと弟子たちと一緒にいてくれた。特に、祖寺に行く前日は現地で最も豪壮華麗なインターコンチネンタルホテルで弟子たち全員と一緒に昼食を共にした。このような加持で8ヶ月になった幼い赤ん坊から、80歳過ぎのお年寄りまで、全員で高山病の生理症状を克服し、遠い旅をして今回の祖寺参拝の旅を完成した。上師に感謝しなければならない。

未明に300人近くの弟子は28台の車両に分乗して威風堂々と祖寺へ出発した。車列はラサの河谷に沿って延々と続いて走った。清らかな渓水は壮麗で連綿となる山脈を流れ、景色は大変きれいだった。3時間もないうちに運転手は間もなく祖寺に到着すると言ってくれた。20数年前に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが初めて祖寺に戻った時はジープに乗り、橋も道もない一部の所を通るしかなく、疲れ果てた後やっと着けたのを考え、当時たくさんの苦労をして旅したことがとても考えられない。

今回チベットの旅はちょうどチベット自治区50周年の敏感な時期に際したため、セキュリティは尚更厳しかった。長年来、上師が力を尽くした護持と精一杯の取り組みのお蔭でなかったら、一般の人は入ることもできなかった。梯寺に到着する前に、車列は再び集合して整列した。私たちが下車して体を伸ばした時に、山の雄大さは目に映り、仰ぎ見た時、空は青くて白い雲は雪みたいだった。太陽の周りに日暈が現れ、光を放った日暈の写真を撮った弟子もいた。まるで経文に書かれた赤、黄色、青、緑、白の五色のような光だった。その中で宝瓶のような微小なチェックの模様がちりばめていた。同時に山からハゲタカの群れが次々と飛んできた。それらの瑞相は何れも大修行者である尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの訪れを迎えていた。賛嘆しなくてはいられなかった。

祖寺は山腹で山に沿って建てられたため、最後の道は坂を上らなければならなかった。4年前に初めて上師に随行して祖寺に戻った時、その道は甚だしく破損していた。私たちの乗った車は逆方向に滑り落ちたこともあり、崖に落ちそうだった。その時、『私たちはポワ法を得られるかもしれないね、得した。』と冗談を言った弟子もいた。しかし、今回戻った時山の道は大変平坦に建設された。私たちは車に乗って直接に主殿に行き、歩く必要もなかった。教派を護持し、寺院を修復し、橋、道路を建設してきた上師に感謝しなければならない。全てんことはただ利益衆生のためだった。私たちは本当に幸運にも上師の歩む道を辿ることができた。愚かな私たちは教えを聞き、しっかりとついて行く以外に、何ができるだろうか。

到着後、弟子たちは恭しく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの到着を待っていた。上師は自身の疲労を構わず、主殿に入ると、直ちに長らく待っていたチベット人とラマたちを加持し、並びに弟子たち全員に今回遠くから長い旅をしても祖寺に戻って来た意義を以下のように開示した。『祖寺参拝だけのことではない。800年来梯寺を護持した全ての衆生、チベット人やラマを問わず、もちろん政府の関係官庁をも含めて十方各界の支援と協力がなかったら、私たちは来られるはずがなかった。800年以来、チベット人が仏法を伝承し、法脈を護持し続けてくれたことに感謝しなければならない。そのお蔭で、末法時代の衆生は仏法を続けて学ぶことができる。私たちが得られた全てのことを決して当然だと思ってはいけない。感謝の気持ちを抱き続けなければならない。』

それから、上師は主殿に入って修法した。弟子たちは順番に殿内に入って頂礼した。主殿に入った時、上師はあぐらをかいて主殿の中央に座り、祖師ジッテン・サムゴンの聖像に向かっていた。主殿内の酥油灯の光は上師の荘厳な法相に照らし、上師の全身から金色の光を放った。それ場面を見て私は思わず800年前祖師ジッテン・サムゴンがここで修法、説経した時の荘厳な法相のように思えた。私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが独力で蔵経閣の金頂を修復した時が、教派が再び復興する時だと深く信じている。これこそ尊勝なる直貢チェツァン法王が上師に『リンチェンドルジェ』という祖師ジッテン・サムゴン法名から賜った授記ではなかったか。ここまでのことを思うと、私は大変感動して涙が溢れ、なかなか止まらなかった。しっかりと上師に追随し、仏法学習を精進し、決して懈怠することのないように誓った。仏、上師そして衆生の恩情に報いたいと思った。

上師は弟子たちに福報を累積させるため、弟子たち全員が殿内に入って礼仏し終えるのを待ってから、修法を終えて主殿を出て少しの休みを取った。寺院側もわざわざ弟子たちのために酥油茶などのお菓子と豊富な昼食を用意してくれた。こうしてくれたのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが20数年来祖寺と教派に対する無私な貢献と護持に感謝するためだった。弟子として私たちはこれほど温かいおもてなしと見返りを分かち合うことができて本当に幸せだ。

食事の後、上師は弟子たちを率いてアキ護法聖殿に行った。途中、あるジグザグの狭い道を通る必要があり、下山しようとしたチベット人は皆道を譲って寶吉祥弟子に先に通過させるため、道もない急斜面を歩いて行った。両手で歩き始めた幼い子供の手を引いて揺れながら難しそうにその斜面を下ろうとしたチベット人もいた。極めて危険だった。下の方は尖がる石が溢れ、落ちるときっとひどいけがするに違いない場面だった。衆生に感恩するといった上師の開示が聞こえたように、たくさんの弟子は前に出て善意で道を譲ってくれたチベット人を支え、当時の危機を解消した。

アキ護法殿に入って頂礼する時、私たちは上師がアキの聖像の前に座って修法したのを見た。そして、たくさんのラマは側で真言を唱え、鼓の音は雷のように聞こえ、まるで一種の儀軌で上師の修行貢献と証果を加持、灌頂しているように見えた。その場面は極めて荘厳で震撼的だったので、弟子たちは大変感動した。弟子たち全員が順番に殿内に入って頂礼を終えた後、その儀軌はまた長らく続いた。そして、上師が正殿から出てきた時、空に雲が去って太陽が現れて光線を射した同時に、たくさんのハゲタカが上空を飛び回り続けた光景を見た弟子もいた。その瑞相を賛嘆しなくてはいられなかった。

その後、弟子たちは上師の後について小道を通って主殿の広場に戻った。その時、ラマたちは、祖寺を絶えずに護持し、教派に貢献してきた上師に感謝するため、ハタ献上の儀式を行った。ラマたちが米粒を撒いて祈った同時に、上師も米粒を撒いた。その真善美の場面は本当に感動的だった。そして、上師は、それはラマたちが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳に感謝するため、上師がこの世に常住して一切の有情を利益するように祈るための儀式だと、開示した。このような福と慧を共に修め、功徳と能力を兼備し、衆生を憐れむ大修行者に追随でき、私たちは大変幸せだ。今回は衆生を代表してこの盛大な会合に参加できたのは、上師が弟子に賜った文章では表現しがたい最大な福報だ。それから、弟子たちは上師の護持で修復された金頂を見た後、今回の祖寺参拝の旅を円満に終えた。

収穫をたくさん抱えて私たちはラサに戻り、チベットからの出発を準備した。意外に飛行機に搭乗する前に、上師はもう一度昼食を共にする機会をくれた。食事の時、ある弟子は、重々しく心を込めてナンジュ・ケンポスが上師の貢献、及び上師の事業に対する日本食品業者の賛嘆を私たちに伝えた。その話を聞き、愚かな私とほかの弟子たちは大変恥ずかしく思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは教派の中で修行した果位が非常に高い修行者であり、尊勝なる直貢チェツァン法王への恭敬心と供養も、教派と寺院への護持と貢献も、弟子と衆生への慈悲と気遣いもそうだし、事業に無私にも奉仕して一切の衆生をも利益することも同じだ。弟子たちは決してこれらの全てが簡単に得られるものだ、当然だと愚かに思ってはいけない。感謝と恩返しを知らなければならない。上師の身語意は本当に、確かに表して見せてくれたので、上師は大成就の修行者であることを深く会得しなければならない。上師のいる所は道場だ。上師の開示は仏語だ。上師の事業は仏行の事業だ。私は誓う。真摯かつ恭敬の心で三宝に仕え、慈悲かつ感恩の心で衆生に接し、懺悔して正した心で自分を見直す。上師の教えを常に心に思い、広くて無辺無量の菩提心を培う。仏と無二無別の上師に感謝する。」

十番目の弟子は、今回のチベットの旅について感想を語る機会が与えられたことに大変感謝していると表した。「チベットに行ったのは初めてではない。2006年卒業の時、学校のサークル活動で行ったことがある。その時は1ヶ月チベットに滞在して現地の中学校で英語と政治を教える予定だったが、現地の中学校には外国人の英語教師がいたので、英語を教えることが中止になり、結局はチベット各地を旅行するようになった。エベレストベースキャンプなどに行ったし、ガリ(阿里)地区以外のほかの所を殆ど回った。その時は旅行の気持ちでチベット人の転山(山を回って礼拝する儀式)を見ていたが、心は少しショックを受けた。中国に多くの文学青年、企業家は心の浄化のために度々チベットに行っている。その目的で行った人は多いし、感じたことも皆大体同じだ。

前回チベットに行った時、下痢の高山病の症状のほかに、特に問題はなかった。今回リンチェンドルジェ・リンポチェについてチベットに行って感じたことは以前とかなり違った。私自身は高山病の症状が一切なかったので、気楽だった。もちろん、リンチェンドルジェ・リンポチェの強烈な加持力をも感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちの体の状況に面倒を見たなど、そして旅行会社の効率のいい組織力について、先ほどほかの弟子たちは詳しく話した。

私の場合は、国内の状況についてより詳しいし、先進青年の代表にも選ばれた。大学時代、刑事案件の捜査・解決に参与したことがある。外国の嫌疑者に係わったので、政府から人員の介入があって私は大いに見識を広げた。自分の感じたことだが、国内の政治体制は高度的かつ効率よく運営され、外部は緩んでいるようが、内部はしっかりとしている。締まっており、隙間はない。おろそかではあるが、漏れることはない。効率よく働いている。そのため、今回チベットに行った時はチベット自治区の設置50周年と対日戦争の勝利70周年の時期と重なったこともあるので、チベットでのセキュリティは大変厳しくて行きたければ行けるものではなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェが皆の体への加持と仏法に関する教えについて、皆さんは理解していると思う。しかし、具体的に、リンチェンドルジェ・リンポチェを含め、どんな人であってもこのような活動を組織しようと思えば、非常に難しいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェと寶吉祥仏法センターは今回の活動を順調に手配できたが、極めて大変だったと思うので、心から賛嘆するしかできなかった。極めて強い願力がなかったら、達成できなかったと思う。特に、コントロールできない要素もあった。帰り道のセキュリティ検査にも状況が起きた。身分証明書を持たなかった人がいたので、長く検査を受けさせられた。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を終えた。数時間の乗車の揺れを我慢しながら、ラサ市に近づいていたが、その出来事で更に車内に1時間以上もい続けなければならなかった。不可抗力のことがたくさんあった。そんな強い圧力を受けてくれたことに、リンチェンドルジェ・リンポチェと旅行会社に感謝しなければならない。この活動の取り組みで担当者はきっと強大な圧力を受けていたと思う。

私はラサにいてある夜にリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に食事をする機会があり、その時はナンジュ・ケンポスとほかの弟子も一緒だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢梯寺の発展史について話し、並びに一銭、一毛、一元を問わず、何れの敬虔な信徒もそれなりの方法で寺院を供養していると開示した。その場、ある弟子は、一毛をガラスに貼ったのを見たが、妥当だろうかと言った。それを聞いてリンチェンドルジェ・リンポチェは直ちにその弟子を叱った。この縁起で以下の開示があったわけだ。一銭、一毛、一元の累積があったからこそ、そして僧衆と信徒たちの継続的な護持があったうえで、梯寺は今の発展が見られた。その過程において僧衆、梯寺の管理者とチベット政府からの支援があったことも正しいのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは大修行者ではあるが、これほどたくさんの力を尽くしてきたので、政府からのサポートが得られた。そのため、今回のチベットの旅は順調だった。これは誰でもできることではないのだ。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けた。チベット族は仏教と仏経を大切に守ってきた。そのお蔭で、私たちは末法時代にいても仏法の研究を続けられる。これは仏法事業に対してチベット族とチベット仏教の重要な貢献だ。この観点から言えば、漢民族はチベット族に借りができたことになる。私たちは仏弟子として、感謝の気持ちで接して学ぶべきだ。仏法は簡単に求められるもの、上師は容易に得られるものだと思ってはいけないし、いい加減に批判したり、論評したりしてはいけない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは更に自分も、ナンジュ・ケンポスも、修行と学仏の過程においてたくさんの困難と障礙を克服してきたと表した。『直貢梯寺は今日までの発展ができたが、決してたやすいことではなかった。たくさんの人の犠牲と貢献があったからこそできたのだ。今回のチベットの旅で、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの辛い思いをしたことをあなたたちは知らないが、ナンジュ・ケンポスは知っているだろう。』リンチェンドルジェ・リンポチェの真心の開示を聞いた弟子たちは皆大変感動した。私たちは本当に分からなかった。大修行者は修行の過程、そして今回の活動を手配した過程において受けさせられた辛い思いとプレッシャーについて、私たちはちっとも知らなかった。その時ナンジュ・ケンポスは側に座っていた。ナンジュ・ケンポスに目を向けたら、ナンジュ・ケンポスは涙が溢れていた。その場面は大変感動的だった。リンチェンドルジェ・リンポチェとナンジュ・ケンポスはその裏話を知っていた。側にいた弟子たちは皆感動したが、具体的なことは知らなかった。恐らく、私たちの知らない作業がたくさんあったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは私たちのために完成してくれただろう。それで、たくさんの弟子を高所にある直貢梯寺に連れて行くことができただろう。

その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは更に開示した。『皆は修行者の仏法学習についてその裏にあった難しさを全く知らなくても、敬虔な心で学び、大切にしなければならない。そして謙虚な気持ちを抱いて時々自分を見直さなければならない。現地で寺院を護持してくれる人と彼らの努力を尊重すべきだ。『郷に入れば郷に従え』という言葉の如く行動すべきだ。この言葉の道理は簡単だが、そうする必要があるだろうかと思う人もいる。自分はここまで修行できたし、長年に念誦してきたし、たくさんのことを知っていると思う人がいる。しかし、彼らは800年来現地でどれほどの心血を注いできたのか、私たち分からない。どれくらいの辛い思いをしてやっといろんなことが達成できたか、私たちも分からない。』リンチェンドルジェ・リンポチェの言葉と行動から、私はたくさん勉強した。リンチェンドルジェ・リンポチェもまた、貢高我慢、意固地になってはならないと教えてくれた。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安康で、法輪が常転し、この世で長生きし、法脈が永遠に伝承されることを祈りたい。」

十一番目の弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子たちをチベットの祖寺に連れて行った旅から殊勝で不可思議な体験が得られたことに感謝した。

「私は2011年に上師に随行してチベットに戻ることができなかった。それ以来、今生において上師について祖寺に戻る機会が再びないだろうと、心の中でずっと懺悔してきた。リンポチェは7月に300人の弟子を連れてチベットに戻ることを発表した。その時、私は上師に追随する殊勝な因縁を賜ってくれることに、上師に大変感謝した。

チベットのラサに到着した後、五つ星のセントレジス・ラサリゾートに泊まったうえで、インターコンチネンタルホテルのような七つ星の場所で食事できた。これらの手配は旅行会社が特別にアレンジしてくれたものだ。しかもグループ専属のお医者さんの同行を手配してくれた。全ては上師と祥楽旅行社に感謝しなければならない。私には分かっていた。上師がいなかったら、今生はチベットに行くことがなかったし、快適、安全に旅行できることもなかっただろう。全てのことに重ねて感謝しなければならない。

梯寺に向かった途中、弟子たち全員は旅行会社が手配してくれた真新しいワゴン車乗っていた。新しい車を用意してくれたお蔭で、乗車による体の不調を減らしてくれたことに、上師の思い遣りに感謝する。ふもとから、山にある梯寺に上っていく道は平坦なアスファルト舗装道なので、ワゴン車は梯寺の広場までに直行できた。皆は大変感心した。以前は写真で梯寺、梯寺の金頂の殊勝さ、梯寺の周りの山の景色を見ることしかできなかった。いつか祖寺に戻り、諸仏菩薩の浄土に戻れたらとずっと望んでいた。自分の足が梯寺のコンクリートの地面についた瞬間、梯寺の壮大さと荘厳さが目の前に現れ、やっと帰ってきたと心の中でつぶやいた。上師に感謝したい、諸仏菩薩に感謝したい。

その日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは広場で弟子たちに開示を賜った。『今日私たちは梯寺に戻って来れた。これはこの800年来、あらゆる修行者、ラマ、信衆、政府、そしてたくさんの人々、彼らは無私の精神で梯寺の全てを維持してきてくれたので、私たちは今日ここに戻って来られた。彼らに感謝しなければならない。』

弟子たちが梯寺に到着してリンチェンドルジェ・リンポチェが大殿に入るのを迎えた時、多くの弟子たちは私と同じく高山病の症状があり、ちょっと動いたり、頂礼したりすると、眩暈や不調を感じてしまった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは大殿とアキ護法主殿に入ると、すぐ修法し始め、自身の不具合も構わなかった様子を見た。仏法と衆生のため、リンチェンドルジェ・リンポチェは少しの休みも取らず、法座に上がって直ちに2時間ほど修法した。弟子たちは主殿とアキ護法殿に入り、一回りして頂礼した時、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法したのを、恭しい気持ちで見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは全く疲労と不具合を見せなかった。その様子を見て皆は心から、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生のためにしてくれた全てのことに感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の体と利益も構わなかった。ただ一心に衆生のことを思っていた。

リンチェンドルジェ・リンポチェが修法した時、弟子たちは空行母が空に集まってくるのを見た。しかも数量がどんどん増え、ますます近づいてきた。後で写真を見ると、まるで空に舞ったように、ある方向に向かって飛んだように見えた。空中舞踊で大修行者が持つ衆生を利益したい心を賛嘆したように、舞踊を披露するように殊勝だった。

成都に戻る前、弟子たち全員はリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に昼食をする機会が与えられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは数名の大徳から供養されたヨーグルトとクッキーや飴を弟子たちに賜った。弟子たちは最高の食品を味わせてもらったと共に、上師の加持をももらった。リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申したい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは更に弟子たちに開示した。病気でリンポチェに助けを求めた10人の大徳の中で、9人は食べ物で病気になった。よい食品は一見に高く見えるが、実際にはお金の節約になる。健康な体がなければ、仏法の学習はできないのだ。

日本食品店の輸入した砂糖は、糖尿病患者でも食べられるものであり、日本の企業は決して外国に販売することがなかったが、その日本企業はリンチェンドルジェ・リンポチェの商売のやり方に尊敬したと共に、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝したかったので、販売してくれたのだ。そのため、皆はこのよい食品を見れて食べられるようになった。

以前、妻は日本食品店の輸入した干し柿を義理の姉のお爺さんにあげたことがある。その後、そのお爺さんは90歳の高齢になり、数年前に体の調子が悪くなって往生のしばらく前、急に干し柿が食べたくなった。彼の家族はいろいろと探したが、お爺さんは全部違うと言った。結局、干し柿が食べれないまま往生した。また数年前、妻もまた干し柿を同級生のお父さんに贈った。そのお父さんは大変喜んだ。2年前、そのお父さんは重い病気に罹り、同じく往生前になって干し柿が食べたくなった。しかし、その後は食べる機会もなくて往生してしまった。

以上のことで、私は考えた。往生前の人は何故皆おいしい干し柿が食べたくなるだろうか。往生寸前の人だけが本当によいものは何かが分かるのだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェはよい食品を輸入しているのに、私はほんとにバカだった。上師の心遣いも分からず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子たちのためにしてくれた全てのことに感謝することも分からなかった。上師がしてくれた全部のことについて理解できなかったら、私たちはこんなによい食品と商品を享受する福報もあり得ないし、感謝と懺悔の心が生じることもないだろう。

私は梯寺のふもとでリンチェンドルジェ・リンポチェの到着を迎えた時、瞬間に空に祥雲が現れ、直ちに太陽も現れた。日差しが強かったので、肉眼でははっきりと見えなかったが、突然空に瑞相が現れたので、私はすぐカメラでその時の殊勝な瑞相を撮った。太陽は14本の光を放ち、五彩の光もあったし、真ん中に二つの光暈も見えた。光線の間にいくつかの映像があった。あまりにも殊勝だったので、後で考えてみれば、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持があったからこそ、その光景が撮れたと、私は信じた。写真を撮った時、私はサングラスをかけていたので、本当は何も見えなかった。しかし、後で写真を見た時、自分もびっくりした。リンチェンドルジェ・リンポチェが賜った全ての加持に感謝する。諸仏菩薩に感謝する。」

十二番目の弟子は、「直貢梯寺は創立以来800数年にもなり、リンチェンドルジェ・リンポチェは最初の漢人リンポチェとして祖寺で修法、持咒ができた。このことはどんな意義があるかは、皆で考えよう。」と表した。

「先ほどほかの弟子も話したように、リンチェンドルジェ・リンポチェは最初の漢人リンポチェとして祖寺で法座に上がって修法できたが、一体どれほどのことをしただろうか。もちろん修行、供養と政府当局の支援だけではないのだ。食事の時、私は、リンチェンドルジェ・リンポチェが『上師になって以来、物事を話す時は大変慎重で、他人とも軽々に一緒に写真を撮らないようにしている。』と軽く話すのを聞こえた。これは教派を護持し、法脈を永らく伝承するためだし、弟子と直貢噶舉派全体のためでもある。リンチェンドルジェ・リンポチェは慎み深い方だ、物事の先を考えるし、遠い将来を見通している。私たちは想像もできないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、『直貢梯寺にいた時、リンチェンドルジェ・リンポチェの話し方がちょっと異なったと皆は気付いただろう。理由は現地の習慣に合わせるためだった。』と開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは大修行者であるのに、郷に入れば郷に従えという道理にも従った。実際には堂々と意見を表してもよかったが、結局は後始末を他人に収拾させることになる。もちろんそうするわけにはいかなかった。私たちが離れた後でも、祖寺のラマ、僧衆たちは現地にいるので、迷惑をかけるわけにはいかないのだ。微小なことばかりではあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは身をもって教えてくれた。

祖寺の金頂のほか、今回私たちが祖寺を発つ時、数多くの僧衆はリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上した。その後、弟子たちも皆ハタと甘露丸をもらった。弟子たちは甘露丸をもらう資格なんかなかったはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて言ったことがある。ドラブ・ワン・リンポチェは、どうしても直貢梯寺の伝統を継続させなければならないと、リンチェンドルジェ・リンポチェに指示したことがあるそうだ。つまり、250人のラマにより、45日連続で毎日24時間中断なく、『六字大明咒』を念誦し続けて修めて甘露丸を得る伝統だった。ほかの人が梯寺に行っても甘露丸がもらえないのに、弟子たちはリンチェンドルジェ・リンポチェに随行したお蔭で、甘露丸がもらえたのだ。理由は、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行と20年来長らく梯寺を見捨てないこと、そして直貢噶舉に対する全身全霊の護持があったからだ。ナンジュ・ケンポスも言ったように、リンチェンドルジェ・リンポチェを必要とする所があれば、四川、雲南、チベット、青海を問わず、至る所に必ずリンチェンドルジェ・リンポチェの護持の跡と足跡が見られる。

リンチェンドルジェ・リンポチェの修行について更に話す必要はないと思うが、皆は祖寺にいた時、多くの僧衆がリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上したのを見た。これは800数年来、初めての漢人リンポチェが祖寺で僧衆からハタ献上を受けたことだ。後ほど、皆さんはたくさん瑞相の写真を見ることができる。私は、以前紅教時代の弟子にそれらの瑞相を話したことがある。彼らは紅教のリンポチェにその話を報告した。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェがいた所に必ずハゲタカがいたのを見たが、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示によると、皆は瑞相をしか知らず、それらのハゲタカが空行母であることを知らなかったそうだ。当時私は二つの太陽を見て大変びっくりしたが、先話した紅教のリンポチェは以下のように表した。『その光景は天人と空行母がリンチェンドルジェ・リンポチェにハタを献上したことだが、皆には見えなかっただけだ。ふたつの太陽ではなく、ニマダワだ。そして、花びらはメドマ、即ち華女のことだ。ハタ献上を念誦したことのある弟子は知っている。また、もう一本の光線が現れたのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏菩薩の心続と繋がったからだ。』リンチェンドルジェ・リンポチェはそんなに立派だと、私たちは知らなかった。しかし、ほかのリンポチェは知っているのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがアキ護法殿で修法した時、私は運がよくてリンチェンドルジェ・リンポチェの後ろに座った。その時、突然にアキ護法殿はすっかり消え、まるで山頂にいたように感じた。私はリンチェンドルジェ・リンポチェの後ろ姿を丸ごとに見えず、ただ側面の姿が見えた。私は急に悲しくなった。先ほどほかの弟子の話でリンチェンドルジェ・リンポチェとナンジュ・ケンポスとの対話が触れられた。修行の道では、私たちの理解できない厳しさと辛い思いがあるという話だった。私もその場にいたので、涙が溢れたナンジュ・ケンポスを私も見た。ナンジュ・ケンポスの辛さはリンチェンドルジェ・リンポチェが知っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェの苦しみを構ってくれる人がいないのだ。弟子たちは旅中においてずっとリンチェンドルジェ・リンポチェの保護と加護をもらっていた。私はアキ護法殿でリンチェンドルジェ・リンポチェの後ろ姿を目にして心に思いが浮かんだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは高い果位を成就したが、世間にリンチェンドルジェ・リンポチェと対話できる人は滅多におらず、リンチェンドルジェ・リンポチェを見つめているのはアキ仏母の慈愛の目だけだという思いだった。

教派の年長なリンポチェはどんどん年を取って円寂してしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは重い責任を背負っているが、弟子たちに何も言わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は10数年以来、映画を見たことが一度もないと言ったことがある。一体、リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな日々を送ってきただろうか。慈悲力がなかったら、衆生、弟子、教派と上師のためでなかったら、そんな暮らしを過ごせる人はいないだろう。それなのに、私たちはATMからお金をおろすように、リンチェンドルジェ・リンポチェに甘えることを当たり前だと思っている。

私は本当に悲しかった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェを慰められるのは、恐らくアキ仏母の慈愛の目のほかに何もない、その慰めでリンチェンドルジェ・リンポチェは南瞻部洲で調伏しがたい弟子と衆生を調伏し続けられると、私は感じた。今回の旅で私はいろいろな感触があった。前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』を開示した時、疑、惑、不決定について話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、不疑、不惑、決定の信念でこの歩む人もいない道を歩いている。しかし、弟子たちは疑、惑、不決定のままでいる。時間をほかの弟子に残したいので、私の話はここまでにしたいと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を申したい。」

次に、チベット参拝の旅で弟子たちが見た、そしてカメラや携帯などの装置で撮った各種の瑞相の映像が流された。中には当時に現れた彩色の二重日暈、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法した時に直貢梯寺の上空に現れたハゲタカが飛び回った光景、太陽の周りに花びらみたいな輝き、空際からアキ護法殿に直射した一本の光線、飛行機を囲む虹や後光など数々の殊勝な現象が含まれた。

カメラマンをしている弟子によると、彼は自身の撮影に関する専門知識と科学で、撮れた瑞相の原因を解明しようとしたが、何れも合致せず、全く説明できなかったそうだ。彼によると、それらの瑞相を作るには、光線、角度などの調整による環境的な条件がたくさん必要であるうえで、成功できるのも滅多にないそうだ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが行ったあらゆる所に頻繁に現れたのだ。これは大修行者の成就があるからこそできたに違いない。

パイロットをして30数年を経った弟子は、飛行機を包んだ虹と後光を見たので、大変感心した。彼は戦闘機と旅客機を長年操縦し、その経験から常に空の様子に気を配っていた。しかし、彼はその時の殊勝な光景を見ることがなかったそうだ。今回は4エンジンの747型の大型飛行機に搭乗したのに、後光に完全に包まれたことに、彼は大変不思議に思った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座位に上がり、参加者たちに貴重な仏法を開示した。

「今日は皆に写真を見せたが、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行を自慢するためではなかった。諸仏菩薩と護法は、今時のいわゆる仏法学習をしている信衆と弟子は上師に対して疑、惑と不決定を抱いていることが分かったからだ。写真の映像は神話や物語ではない。また、誰かのためにあれらの現象が生じたわけでもない。仏経に、いろんな種類の雲、光、香花などが記述されたからだ。ほかの所では見れず、必ず直貢梯寺に戻らなければならない理由がある。一つは、あそこに大勢の修行者が800数年も修行してきたので、一切の護法と空行母は自然にあそこに集まってくるからだ。一つは、祖師ジッテン・サムゴンはかつて、どの石がどの場所に置かれるのも、それなりに特別な因縁があり、偶然ではないと開示したことがあるからだ。

金剛乗の観点から言えば、雪域(チベット、青海等のエリア)は何れも本尊の壇城だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ネパールのラキ雪山で閉関した。そこはミラレバ尊者の閉関の場所でもあり、勝楽金剛の壇城でもある。仏経には五濁悪世という言い方があるが、地球も多くの諸仏菩薩の壇城宮殿である。肉眼では見れないし、科学装置でも探測できないのだ。修行者本人の修行を通さなければ、諸仏菩薩と空行母などが現れたエネルギーには感応できない。顕教にも『感応道交』という言い方がある。それは、全身がしびれる、或は目を閉じて色が見えてくることだと思う人が多いが、そうではないのだ。その境界までに修めなければできないのだ。

もし、行者の心続は仏菩薩の心続に繋がりがなければ、『感応道交』は無理だ。心続とは、行者の修行は本尊の願力と一致できるかどうかのことだ。修行は全部自分の健康のためであれば、例え100年、100万年、1000万年の修行をしても、何も変わらないのだ。諸仏菩薩と護法には皆願力がある。諸仏菩薩と護法本尊に感応したければ、諸仏菩薩と護法本尊の願力を学んで実践するしかない。学仏者は意固地であれば、決して学べないのだ。諸仏菩薩と護法の願力を学びたくても間に合わないのに、自分の考えを発明する余裕があるわけがない。そんな考えを持っていれば、いくら修行しても無駄だ。自分の健康問題でさえ解決できないのに、自分の修行は上出来だと思うことはあまりだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは病気を治さない。密宗の上師に出会えれば、病気は治ると、多くの人は思っている。病気が治るのは確かだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の病気を治したからだ。しかし、何故衆生の病気を治してあげないのか。『宝積経』の言うように、疑、惑、不決定が理由だ。今回の参拝でリンチェンドルジェ・リンポチェは、自分の修行方向と目標は正しくて道に迷わなかったと確かめられた。諸仏菩薩と護法はリンチェンドルジェ・リンポチェより、数千万倍、数千億倍も偉い。修行者の戒律が浄めたものでなければ、願力が諸仏菩薩の願力と一致していなければ、いくら偉くてもあれらの瑞相は現れるはずがない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆に見せるため瑞相を表すように諸仏菩薩に求めることがなかった。あれらの瑞相が現れたからと言って他人とは違うと思っていない。却って尚更慎重になり、薄氷を踏むかのよう慎重になって修行する。ちょっと間違った念頭があれば、すぐ退転する。高い階位になればなるほど、こんな気持ちで修行しなければならない。修行は禅定だ、座って動かない、人のために仏事をする、菜食するように勧めるなど、こう思う人は多いが、これらはただ仏菩薩と結縁するように衆生を助けることだ。修行は、輪廻に導く自分の行為を徹底的に改めることだ。自分の病気でさえ上師に解決してもらいたかったり、上師に治してもらえたら、上師は慈悲だと思ったり、直してもらえなかったら、上師の不慈悲で病気を治す最適なタイミングを失ってしまったと思ったりするのが間違いだ。

もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を離したくなかったら、寶吉祥仏法センターには今5000人を超える弟子もいるだろう。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を止めさせたのか。皈依の時、皆にはっきりと言ったはずだ。教えを聞く気がなければ、上師は善事も教えも与えないと言ったはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェ1995年から、仏陀の教えに謹んで従い、弟子を教えてきた。それで、今日は仏法面において仏菩薩と相応できる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはお金のために仏法を広めることをしない。最近は大手食品メーカーの不祥事が起きた。このことを皆は知っていると思う。あの企業の社長は単独的に仏法を教えてもらいたいと、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはその要求を断った。他人だったら、一人の企業家を済度すれば、従業員にも仏法を学ばせられるから、たくさんの人を済度することができると思って応じてあげたかもしれない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェの身分で従業員に仏法を学ぶように要求したことがない。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時あの社長の要求を断った。単独的に教えるとは、大きい道場でなく、彼の所に行って仏法を教えることだ。大企業家だから、単独的に教えてあげるのはすごいことだと、多くの人は思うだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは金銭に惑わされない。それで、その不祥事に巻き込まれなかった。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に一人教えていたら、最近のこのニュースで、リンチェンドルジェ・リンポチェも公衆人物になってしまっただろう。

あなたたちが思ったのと違う。仏法は決して一定の対象を済度しようとしない。『隨縁度衆』、つまり衆生の縁に合わせて大衆を済度するのだ。もし、衆生の要求は生死解脱に関係せず、上師も断ることが分からなければ、輪廻の渦巻きに巻き込まれてしまう。今回弟子たちを連れて直貢梯寺に戻った時撮った写真を、上師に対して恭敬心も尊重心もない人たちに見せたいのだ。あれらの現象は現場にいた人たちが肉眼で見たのだ。あなたたちも話を自分の耳で聞いたはずだ。写真にはUFOみたいに、飛び回る白い点がある。白い点が出たのはわけがあったのだ。今は話さないが、もちろんリンチェンドルジェ・リンポチェに関係がある。

実際に、写真から見えたたくさんの現象は、あなたたちが知っているハタ献上の念誦にある多くの内容だ。法本の内容はただ念誦用だと、あなたたちは思うかもしれないが、本当に存在しているのだ。仏は、一切の相を破ること教えてくれた。あれらの瑞相が現れても因縁法に過ぎず、いつでも消えるのだから、執着する必要はない。また、これらの写真を外部に流さないように言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェが批判されるのを恐れるわけではなかった。他人に口業を作らせたくなかったからだ。弟子の間で分かち合うくらいはいいだろう。

これらの写真はでっち上げられないのだ。他人の場合は、いろんなことを加工してしまうだろう。例えば花の瑞相があった。あれはマンタの供養だから、プリントして加護として皆に持たせるようなことをする。また、二つの太陽が同時に現れたのは太陽と月が同時に本尊、上師と結びついた現象だった。あの写真をポケットに入る小さいカードにして後ろに署名まで入れることもするだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そんなことが弟子たちのためになるとは思わない。あなたたちの心を改めなければ、上師は何をくれるかを常に計算していれば、何も得られないのだ。

2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェはラキ雪山で閉関した。閉関の二日目から麒麟を乗った一人の護法が毎日山谷を巡回したのを見た。尊勝なる直貢チェツァン法王は事前にリンチェンドルジェ・リンポチェに教えなかったし、リンチェンドルジェ・リンポチェもその護法を見ることがなかった。閉関を終えた後、尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを約6000メーターの高所にある、以前ミラレバ尊者が閉関した洞窟に連れて行った。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェの座った位置の右側に一つのタンカがあった。その時初めてリンチェンドルジェ・リンポチェはその護法を見た。アキの外部護法だった。

今回リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢梯寺に行った時、休憩室でミラレバ尊者のタンカをひとつ見た。そのタンカの左下のほうにも先ほど話した護法が書かれた。あなたたちは発心して皈依し、衆生のためにあらゆることをしていたら、知らない護法も守りに来てくれる。リンチェンドルジェ・リンポチェはその護法を修めたことがないが、その護法はミラレバ本人の護法であり、アキの外部護法でもあった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその護法の真言も知らなかったので、その護法を呼び付けるのが不可能だった。仏法の学習は心を改めることだ。別に何かを念誦、参拝する、或は何かの宗派を修めることではない。心の調整をしなければ、一番偉い護法は決してあなたたちを相手にしない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはその日直貢梯寺で見たから、初めてその護法はミラレバ尊者の護法だったと分かった。ミラレバ尊者のタンカには普通ほかの物が書かれず、ミラレバ尊者本人の様子しか書かれないのだ。しかし、そのタンカには護法が書かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェにとっても初めてのことだ。この話は皆にはっきりと教えている。つまり、修行は必ず法(仏が話した全ての方便法)、義(私たちの生死解脱を助けてくれる道理、内容と空性の意義)に従わなければならないことだ。ガンが治って修行させてくれるように上師に求めるなどのことではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示したが、金剛乗の修行は『病為道用』、つまり病気がほしくないと言う思いでなく、病気があったからこそ修行に対する病気の助けが分かる意味だ。ほかの人はこの話をする資格がないだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェは違う。何故なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚ガンに罹ったことがあるからだ。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは病気が治るように仏菩薩に願わなかったし、ガンの治療にどの法門を修めればいいかを尊勝なる直貢チェツァン法王にも聞かなかった。ガンに罹った多くの弟子は上師に恭敬していたから、治った。一部の弟子は上師に恭敬せず、自分は悪い弟子だと自称するが、実際に悪い弟子ではない。ただ生死の苦海から離れようと決めず、死亡の無常さを信じないだけのことだ。このままでは、いくらここに来ても何も変わらない。

双子姉妹の弟子がいる。お姉さんのほうは乳ガンに罹った。彼女はその時毎日リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られていた。しかも時間は長かった。今年になってだんだん叱られなくなった。結局、彼女の乳ガンは治った。リンチェンドルジェ・リンポチェは加持してあげなかった。彼女自身がリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したから加持が得られたのだ。そして、双子の妹さんのほうも病気になり、水腫の症状があった。彼女は医者の診療を受ければ治るはずだった。しかし、彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェは腹水には衆生が一杯いることを開示したから、自分は衆生を傷つけたくないと、突然にこう話した。でたらめの話だ。貪欲があるからこそ、腹水があるのだ。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェに苦労をかけている。こう思うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは思わず嘆いてしまう。

この話のポイントは、リンチェンドルジェ・リンポチェに迷惑をかけるかどうかのことではない。その双子姉妹のお姉さんは毎日責められたから、よくなったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは妹さんを責める機会がなかったから、結果は違った。あなたたちが思うのと違う。仏法の慈悲は必ずしもいい顔をして優しくしてあげる、或は優しい言葉を言ってあげることではないし、あなたたちの望むことに全部応じてあげることでもない。その通りするのは、ただのお人よしだけだ。衆生の因縁と因果を知らず、いい加減に衆生を助ければ、その人は地獄に堕ちる。『隨縁度衆』とは、衆生の縁に従って助けてあげることだ。もし、衆生に福徳因縁がなければ、助けてあげることはその人を害することになる。何故なら、その人は仏と法を誹謗するからだ。

寶吉祥仏法センターは法を広めて10年、20年にもなったが、大企業家が入って来られないのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは単独に仏法を教えないし、大金持ちや政治家だからと言って特別扱いしないからだ。政治家や大企業家を利用して道場を有名にするくらいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは一層修行を止めたい。縁がなければ、ここに来ても好ましくないことが起きる。縁があれば、求めなくても自らここに来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは68歳にもなった。命は後どのくらい残っているかも分からない。やれるだけのことはする。あなたたちはどれくらい聞き入れられるかは、あなたたちの好きにしてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず助けてくれると勘違いしないでほしい。

あなたたちの法身慧命をリンチェンドルジェ・リンポチェは必ず助けるが、肉体はあなたたちの業報の身だ。業報の身はリンチェンドルジェ・リンポチェや仏菩薩が作ったのでなく、あなたたちが作ったものだ。未だに決定せず、仏法に対しても疑惑を抱いているなら、あなたたちは一体何乗を修めているかは、リンチェンドルジェ・リンポチェも分からない。小乗でもないし、菩薩乗でもない。安らか暮らしができるように修めているかもしれない。気を付けなさい。体が一旦なくなったら、後悔してももはや間に合わない。やり直して人間になりたくても100年以上を待っても機会がないかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年から弘法して以来、上達が速いが、その理由を理解できない人は多いと思う。方法は簡単だ。別の法門はない。諸仏菩薩の願力と教えてくれた仏法を学び、上師がくれた全ての教えを守り、自分の身口意に注意を払い、決して自分の利益で間違った仏法の観念を抱かない。ただこのくらいのことだ。

昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、お年寄りを後にして先に前に駆け付けた若い弟子を叱った。リンチェンドルジェ・リンポチェは死ぬまでに利益衆生のことを考えているが、その弟子は死ぬ時がまだ来ていないのに、お年寄りの面倒を見ようともしなかった。何故そんなに自己本位だったのか。慈悲を学ばない、修めない、ただ加護を求めることを修めたからだ。また、帽子を被ってアキ護法殿に入った弟子のことだが、義理人情ではないか。誰もがどこかに入る時は脱帽すべきだと知っている。常識なのに、何故そうしなかっただろうか。簡単に言えば、その弟子は直貢梯寺に行って気持ちがよくなり、嬉しくなり、悩みも忘れたから、一般的な常識を忘れてしまった。このような心構えで仏法を学んでいれば、自分に問題をもたらす。仏菩薩があなたに問題を起こすわけではない。あなた自身が問題をもたらすのだ。

今日は皆に写真を見せたが、上師の功徳を知らせるためではなかった。諸仏菩薩は、修行と学仏をしたい人々を護持してくれることに賛嘆したかったからだ。求める必要はない。諸仏菩薩は加護してくれる。仏経に、天竜八部、諸仏菩薩は必ず発心した菩薩を護持することが書かれている。理由は、このような人は稀で有り難いからだ。仏経は、学仏者は立派な人間の行動をすると言っている。それは、普通の人はそうする勇気がないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に開示しているが、出世法をちょっとした境界までに修められれば、世間法のほうは自然に無事になる。仏菩薩と護法は自然に近寄って来る。言わなくてもあなたが一体誰かは分かる。自然に近づいて来る。

あなたたちは写真から二つの太陽を見た。しかも光が強かった。これは天文学で解釈できないことだ。偽造したくても無理だろう。二つのランプを同時につけなければならないし、空でできるわけもなかった。例えあれはUFOであっても、二つとも輝くはずがなかった。私たちのような平凡な人間に見せるため、仏菩薩が示してくれたのだ。一定の境界までに修行できたら、あの相は現れる。しかし、あなたたちにあの相に対して執着を持ってほしくない。あれは副生した現象に過ぎなない。自分は正しい方向に向かっているかを、あなたたちに知らせたいのだ。あの相は求めた、或は望んで現れたのでなく、わけも分からないで現れたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで、瑞相を弟子に見せたいからと言って諸仏菩薩に求めることが決してなかった。何れの念頭も衆生と弟子を利益したいと思っている。これも諸仏菩薩の願だ。あなたたちの願は何れも自分のため、また、一定の相手に回向したいためであれば、諸仏菩薩は応じてくれるわけがない。自分は動かず、2時間念誦し続けられるかを考えてみなさい。あの日は殊勝だった。ラマたちはアキ大殿で7日連続で修法した。リンチェンドルジェ・リンポチェが行った日はちょうど最後の日だった。ラマたちの念誦は終わるところだったが、リンチェンドルジェ・リンポチェが全く動かず、念誦し続けたから、彼らも終了しずらくて最初から唱え直すしかなかった。最後にリンチェンドルジェ・リンポチェも悪いと思った。円満になったから、ラマたちに休んでもらわなければならないと思った。

護法は一切のことを手配してくれる。ラマたちはそれまでに6日間念誦していた。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが行った日は円満の日だった。直貢梯寺に行く日を選ぶ時は暦を見なかったし、アキにも聞かなかった。ただ一つの日付を決めただけだ。自然に諸仏菩薩は働いてくれる。仏法を学ぶ以上、まずは因果を深く信じなければならない。そして、死亡の無常さをも信じなければならない。死亡の無常さを信じれなかったら、仏法の修行をしても無駄だ。また、諸仏菩薩と上師がくれる加被は決して今生の欲望のために助けてくれるのでなく、生生世世、輪廻の苦海から解脱できるように私たちを助けることをも信じなければならない。

もし、疑、惑、不決定を抱いたまま、今生が過ぎたら、再びに来ようとしても難しい。簡単なことではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは『宝積経』の開示でわざとこれらのことを触れたが、理由は、菩薩道を修めたくなければ、ほかに修められる法門はないからだ。世間には出家衆らしくない出家衆がいる。在家衆らしくない在家衆がいる。めちゃくちゃだ。そのため、釈迦牟尼仏は優しく菩薩道の修行方法を開示してくれた。在家や出家を問わず、仏の話を信じれば、必ず生死解脱ができるのだ。

末法時代の人々は毎日閉関して修行する福報がない。この福報がないからこそ、私たちは内心から調整し、自分を改めなければならない。こうすることにより、今生に希望を与えられるのだ。毎回の過ちを自分の進歩に変えなければならない。間違っても間違った原因が分からない、ただ間違ってはいけない、こんなバカをしてどうしようなど、こんなことをしか思わない人は改めることもできない。間違ったという言葉は、貪、瞋、痴、慢、疑の五毒を消したり、減らしたりせず、依然として自分の意識と欲望を抱いたまま日々を過ごす意味だ。今はよい暮らしをしていると自認していても、無常が来れば、どんなよい暮らしもあなたには無関係だから、慎まなければならないのだ。」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法の儀軌と回向の儀軌を修め、法会は円満に終了した。参加者たちは起立し、合掌して尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを恭しく見送った。

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2016 年 06 月 17 日 更新