尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年10月20日

法会の始まる前に、一人目の弟子が発露、懺悔の機会を与えて下さったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べた。まずリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した因縁を分かち合い、続いて皈依して二年余りの間、教えに基づく実践ができておらず、それにより犯した多くの過ちを懺悔し、並びに、彼女に対するリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持に感謝をした。

皈依する前、彼女は生命に対する疑問と不満でいっぱいだった。毎日、欲望の中でもがき、自縄自縛に陥り、精神的に安定できる場所が見つからなかった。彼女の妹は中度の小児麻痺を患っていたが、彼女はこの事実にずっと向き合えないままだった。2004年、妹は突然、腎臓が働きを失ったことを宣告され、彼女は極度の驚きと恐れを感じていた。次の年、妹は腎臓移植をし二年間維持していたが、その後、毎年拒絶反応を起こし入院治療が必要となった。2010年9月、腎機能が再び高い数値になったが、医師は原因を見つけられず抑えることもできずに彼女を退院させた。その時、彼女は精神的ダメージを受けてパニック状態に陥っていた。彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた後、妹の数値は正常値に下がり、その後入院も少なくなり、状況は安定した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの妹に対する慈悲の救いに感謝した。

彼女は以前、別の道場に7年間いたことがある。2004年道場の師父が往生した後、彼女の心は静まることがなかった。情の執着が非常に重く、問題が山積みとなった。リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた後、彼女は自分が救われたことを知り、二週間後、元々の道場を離れることを決めた。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、彼女は家族に対する気掛かりをゆっくりと解き放ち、混乱した心も徐々に静まった。しかし、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学ぶ決意を始終固められず、様々な悪行が露顕され続けたことを懺悔した。

一週間皈依した後、彼女は道場を離れようと思い、三日間葛藤したが、その後、妹と両親のために留まることに決めた。その時彼女は、現世安楽だけを求め、庇護を求めるだけで、仏法を学ぶ決意をしていなかった。自分がこのような人であることに気付かなかった。彼女は、自分の皈依する心が間違っていて、上師、諸々の仏菩薩に申し訳ないことをしたと懺悔した。

皈依後、リンチェンドルジェ・リンポチェはアキ護法と観音法門を伝授した。だが、彼女は自分の考えが山積みになっていて、朝晩の勤行をしっかりしていなかった。頭を使って少しでも早く修したいと思い、いつもいい加減な考えが浮かんだ。一ヶ月余りかかってやっと、無理矢理に壇城を設えた。それはまるで、まま事遊びをしているかのようだった。半年も経たない内に、壇城は強風で二度吹き飛ばされたが、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの御写真だけが、微動だにせず落ち着いていた。彼女は自分の心が混乱し、三宝を敬わなかったことを懺悔した。

土曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場で衆生に面会された。法座から下りられた時、彼女は兄弟子達と一緒に「リンポチェ、お疲れ様でした!」と叫んだ。その時彼女は、自分の行動は作り物だと思った。心と口が一致しておらず、口元でちょっと笑った。頭を起こすと、リンチェンドルジェ・リンポチェがちょうど目の前を通りかかった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの視線がまっすぐに注がれるのを見て、その場で両足の力が抜け、どうしようもない程深く恥じ入った。彼女は、自分に羞恥心がなく、利己主義で、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を済度する偉大な慈悲心を心から感じ取っていなかったことを懺悔した。

彼女はある時、コーヒーショップで昼食をとっている時に、幸いリンチェンドルジェ・リンポチェに会った。その時彼女はとても緊張して、食事が終わってもいい加減に動くことなく、神経が張り詰めて、次にはどうしたら良いのか分からなかった。少しの間頑張ったが、理由をつけて先に席を立った。それが非常に礼儀がなく、大きな過ちを犯したことを後で知った。彼女は上師を心の中に入れておらず、上師を敬わなかったのでこの様な行動を起こしたことを懺悔した。

皈依して二年余りの間に、彼女は自分の様々な問題を見た。破戒は数え切れない程であったが、努力して改める決意をまだしていなかった。古い習慣に固執し成り行きに任せて日々を送っていた。そして、ついに今年(2013年)7月14日、リンチェンドルジェ・リンポチェから指摘された。彼女は「懐法」を包容と解釈し、ひどく叱責された。彼女は間違いをしたことが見つかるのをいつも心配していて、ついにこれが起きてしまったが、却って心が落ち着くのを感じた。

続いて、彼女は、説法テープのノートを取る事で犯した数々の過ちを懺悔した。6月23日の法会で説法テープを聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、説法テープの内容を書き、記録したものを提出するようにと伝えられた。彼女は説法に集中しておらず、兄弟子達が動き回るのを見て、自分が邪魔されたと少し怒っていた。目をつぶっても心には恐れによる不安が感じられて、集中できなかった。彼女は自分が自己中心的であり、怒りっぽくて性悪であることを懺悔した。怒りが起きるとすぐに、広野を焼き尽くす炎の如く収拾がつかなくなり、どれ程の人を傷つけたか、どれ程の悪業をつくったかは知る由もなかった。毎回後悔し続け、心身を苛ませた。長い間、彼女は深くその苦しみを受けており、対治し、悪習を改める努力を続けていた。だが、進歩は非常に遅かった。リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学び始めてから、上師の厳しい教えと模範的な行動は、いつも見ているうちに自然に身に染み込んでいた。絶え間ない薫陶の下、怒りは大幅に減り、現在では怒ることが少なくなった。だが、その日の法会で、彼女はやはり怒りを起こした。上師の教えをすっかり忘れ、慈悲心をまるっきり忘れてしまった。彼女は、自分の無始以来の怒りの罪業を心の奥底から懺悔した。必ずこの罪業を二度と犯さない努力をする。

帰宅後、彼女は法会での説法内容を忘れてしまった。心を静めて回想する努力もしなかった。先に頭を動かして、説法テープの内容はこんなにも多いから、リンチェンドルジェ・リンポチェは我々に全てを書かせることはないだろうと、勝手に推測した。それに、こんなにも沢山ノートを取って、こんなにも沢山の字を書いたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは見るのに苦労するのではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェが法会で聞いた内容を書くようにという言い付けも、彼女はとっくの昔に、遥か彼方に放り出して、すっかり忘れてしまっていた。だから、脳裏の中に深く残った事、自分に意義のある法話を数言書き記して、簡潔なノートを完成させる。彼女は、自分に都合のよいことばかりを求めて、自分の逸楽に従ったことを懺悔した。慎重でないばかりか、心を尽くしていない。態度は非常に自分勝手で、上師の指示に従わず、自分の方法で仏法を学んだ。過ちを犯し、悪業を作り続け、上師を敬わず、上師を心に留めなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの指導に申し訳が立たないと感じた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「息」「懐」「増」「誅」の四つの法を説いたことがある。その時、彼女は「懐柔」の意味を理解できなかった。法会開示を見てみたが、やはり分からなかった。そして、突然悪念を生じさせた。6月23日、法会のその日、再び「懐柔」について聞いた。しかし、前回と同様、聞き終わると、まるで風が吹き飛ばしてしまったように、すぐに忘れてしまった。帰宅後、ただ「懐柔」という二文字だけが浮かび、ずっと考えてみたが思い出せなかった。そこで、先に「包容」について書き、一時的に放っておいた。だが、その後、検査した時、自動的に飛び越え、完全にその二文字を忘れてしまった。彼女は法を敬わなかったことを懺悔した。無責任に批判をし、でたらめに改変し、傲慢は山の如く高く法の水は入り込めず、自業自得であった。

今年(2013年)7、8月に、彼女は、海外法会団に二度参加した。殊勝な法会において、また間違いを犯した。7月15日、彼女はインドのラダックの法会に参加した。法会が終わると、尊き直貢チェツァン法王が慈悲深く寶吉祥の弟子を気遣い、贈り物を下さった。彼女は順に並んで、直貢チェツァン法王から贈り物を受け取った。その後、突然、リンチェンドルジェ・リンポチェの手にも一包みの物があるのを見て、貪欲が起き、すぐに、リンチェンドルジェ・リンポチェに叩かれて目が覚め、一瞬頭の中が真っ白になった。彼女は上師に対する不敬を懺悔した。少しも上師のことを気に留めていなかった。台湾に戻って二日後、彼女は突然、二十数年間悩ませられた頭痛と、いつも感じていた不快さが消えたことに気付いた。まるで脳みそが取り替えられたように、とても軽くなった。

今年(2013年)8月に日本で行なわれた「地蔵菩薩の祈願法会」にも彼女は参加した。法会の当日、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に法会会場に入ってはならないと指示した。その時、彼女一人だけが入場を禁じられた。彼女はこの現実に向き合って受け入れようとせず、道場の外でいい加減なことを考えていた。彼女は心の中で、もし台湾で先に指示を仰いでいたらこの様な事は起きなかっただろうと思い、兄弟子に瞋(怒り)が起きた。その後、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがかつて説かれた話を思い出した。全ての物事は、全て因縁と果報だ。心を静めると、自分が兄弟子の話を誤って解釈していたことに気付いた。申し込めば必ず法会に参加できると、軽率に自分勝手に考えていた。

あれこれとくだらない事を考え、よく頭の中が混乱し、心は奔放な野生の馬のようになってしまう。彼女はいつも飛び交う雑念を追いかけ、気付いた時にはすでに多くの悪業を作った後で、ただ後悔だけが残る。このように、悪循環を続けていた彼女はどうしたらよいのかが分からなかった。
7月14日、リンチェンドルジェ・リンポチェにつつかれた後、彼女の頭はそんなに多くの雑念が現れなくなり、心全体が落ち着いた。彼女は、元々自分で自分をずっと放任し、その習慣が非常に長い間続いていたことを自覚した。彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持に感謝した。

皈依して二年になる現在、彼女はやっと、自分が上師を信頼し従っていないことに気付いた。また、上師について仏法を学ぶ決意をしていないことも理解した。ただ繰り返し自縄自縛に陥り、傲慢な心を拡大し、人を傷つけ自分を傷つけ、自分の仏法を学ぶ道を邪魔していた。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学ぶ殊勝な機縁だけが、輪廻の苦海から抜け出せる唯一の拠り所であることさえも忘れていた。彼女は再び、リンチェンドルジェ・リンポチェの偉大な慈悲力による加持に感謝した。最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御健康、法輪が常に転じられ、この世に長らく住され、仏法事業が隆興し、直貢噶舉派の法脈が永らく伝えられることを願った。

続いて、二人目の弟子が舞台に上がり、この場で発露、懺悔の機会を与えて下さったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べた。

昨年(2012年)4月15日、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆をリードして六字大明咒を唱えた時、彼女は手に数珠を持ち、精神を集中させず、頭を揺り動かし、身体を曲げていた。真言を唱え終わった後、厳しく怒鳴られ、その場でベストと法本を返却するよう言われた。その後、彼女はただ信者になることができるだけだった。彼女は、彼女を捨て去らずに、続けて日曜日の共修法会に参加させ、過ちがどこにあるのかを理解させ、自分を見つめ反省させてくださったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。

彼女は自分が上師に対して全く恭敬心がなく、さらには懺悔心もなく、仏及び上師の話を聞かず、実際に教えに基づく実践をしなかったことを懺悔した。自分を自分勝手にさせ、怠け、戒律を守らず、十善法を修さず、法会に参加した時、集中せず、自分の事を考え、三宝を敬わなかった。上師の話を空気のように考え、上師の恩恵を当たり前のように考え、御恩を感謝せず、仏法を信じず、因果を信じず、上師の話を気に留めず、自分の心を放任し五毒に引っ張られた。彼女は金剛地獄の道に向かっていたが、自分で気付かなかった。彼女は、上師がその場で彼女にベストを返却させ、彼女の悪行が益々大きくなるのを防いでくださったことに感謝した。そして、共修法会において彼女の悪行を叱り、問題点を指摘され、彼女が二度と悪行を犯さないように、徹底的に懺悔する機会を与えてくださったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

この間、彼女は、仏法を学ぶ初心を忘れてしまい、上師、仏菩薩に申し訳が立たないとずっと感じていた。その年、母親が他界した。道場の兄弟子の勧めによって、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する御縁が得られ、母親はリンチェンドルジェ・リンポチェに助けられ済度された。彼女は、幸いなことに、2006年1月15日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依することができた。6年の間、リンチェンドルジェ・リンポチェの大きな恩恵を受けていたが、その御恩を感謝することを知らず、しっかり仏法を学ぶことはなく、生死から解脱する決意をせず、リンチェンドルジェ・リンポチェの口を酸っぱくして言い含める教えに背いた。彼女は諸々の悪行をしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは虚空の中でいつ何時も彼女の面倒を見、彼女を気遣ってくれていた。

彼女は自分に真の懺悔心及び羞恥心がなく、ずっと悪行をなし、繰り返し過ちを犯したことを懺悔した。境界を目前にした時、上師をすっかり忘れてしまい、上師を守ろうとする心もなく、上師の様々な恩徳を常に憶念することもなく、上師から授かった福徳を消耗し、供養、布施をしっかり行なわず、上師を褒め称えることもしなかった。人からのアドバイスを批評だと考え、面倒を引き起こしたと考えた。見栄っぱりをやめて自分の過ちを見つめ、認めることもできず、自分の悪習を改める決意もしなかった。皈依する前は、彼女は他の道場に接触することは少なかった。自分が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出逢え、助けて頂いたことを非常に幸せだと感じていた。だが、彼女は御恩に感謝し大切にすることを知らなかった。彼女は、自分が当時、ただの信者であった時、事故に遭ったことを覚えている。リンチェンドルジェ・リンポチェが救ってくれたのでなければ、ただ右足の皮の表面が擦り傷だけで済んだであろうか。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、「彼女は死に切れない。皮膚と肉に怪我しただけだ」と語られた。彼女は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持に感謝をした。これによって、彼女は、業、因、果の恐ろしさを知った。今世で受けたものは過去になしたものだった。今回、ベストを返却させられ、彼女は更に心から懺悔し、仏法を学ぶ心が変わった。仏法を学ぶのはただの3分間の熱意で、一年目、仏は目の前にいたが、二年目には仏は天の彼方に行き、三年目にはいなくなってしまった。ただ上師、仏菩薩を利用して、真剣に仏法を学んで生死から解脱しようと思わなかった。彼女は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの苦心に感謝をした。もし心からの懺悔心が起こせなかったなら、痛みが落ち着いた後に当時の苦痛を思い出して過ちを検討しても、救いとなる薬はないだろう。

彼女は弟子の身でありながら、上師の教えを物語として聞いていたことを懺悔した。今日一日、仏弟子としてすべき事をしたか否かを毎晩就寝前に検討しなかった。以前と同じように自分勝手で自分の利益ばかりを考え、罪業は数え切れないほど多かった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの長年に渡る苦労の教えに申し訳が立たず、伝承上師の恩徳にも申し訳なさを感じた。彼女は、今から命が尽きるまで、上師に対する、三宝に対する、衆生に対する自分の誓いの言葉と約束を忠実に守り通し、改めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの善法の教えを聞き入れ、悪習を検討し改め、諸々の過失を二度と犯さないことを誓った。人身受け難し、仏法聞き難し、上師逢い難し。彼女の心は、散乱し、恭敬せず、感謝を知らず、五毒が充満している。これらの悪は、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの叱責があってこそ止めることができる。彼女自身も気付かなかった悪習でさえも、一つ一つ指摘された。これによって、彼女は、一つ一つを点検し、向き合い、検討し、懺悔することができた。彼女は、かつて、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを敬わず、忠実ではなく、感謝しなかったのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは喜んで彼女に機会を与え、信者の身分で法会に参加させてくださった。心中の気持ちは、感謝の二文字で表現できるものではない。

彼女は、弟子として、父親が病を患っていたここ数年、娘がすべき親孝行を果たさず、父親に代わって福徳を積んであげなかったことを懺悔した。病気の父親の世話を弟と兄に任せ、自分は冬休み、夏休みの少しの時間、父親を家に連れてきて面倒をみただけだった。今年(2013年)1月末に父親は肺炎から敗血症を引き起こして他界した。彼女は慈悲によって父親を済度してくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、最良の親孝行は、しっかり仏法を学ぶことだと説かれたことがある。彼女は、慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依できたことこそが最大の幸福であると心から感じた。そして、しっかり仏法を学んで生死から解脱し、上師の恩、両親の恩に報うことを望んだ。

続いて、彼女は、以前行なった善悪を懺悔した。彼女は、衆生の肉を沢山食べた。無数の蚊、アリ等を叩き殺し、無数の衆生を殺生した。他人の恩恵を忘れ、いつも他人の是非を語り、他人を恨み、他人を気に掛けず、冷淡で、執着し、自己中心的で、千の過ち万の過ちは全て他人の過ちとし、慈悲心、菩提心がなく、過ちを認めず、自分を検討しなかったことを懺悔した。皈依後、しっかりと仏法を学ばず、因果を信じず、無常を信じず、生死からの解脱と自分は関係ないと思っていた。自分の好きな所だけを選んで行い、日々を恙無く過ごしたいと思い、自分を改める決意を持たず、慈悲心と菩提心の修行を発願するには至らなかった。上師の伝授される法門を貴重だと感じなかったこと、いつも、だらだらと行い、仕事が重要、生活が重要、自分の命が重要、自分のフィーリングがもっと重要だと思っていたこと、自分のことを考えると、すっかり上師、仏法、衆生のことは忘れてしまったことを懺悔した。羞恥の二文字をどう書くのかも分からなかった。様々な悪習で一軒の家を作ったなら、必ずや銅の囲い、鉄の壁の牢獄になることだろう。彼女は、上師がいなければ仏法もなく、拠り所もなく、内心は恐怖と不安でいっぱいになり、歩く屍のような日々を送ることになるのを深く知った。

彼女は、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教えと加持に感謝した。そして、自分が悪を断ち切る決意を更に固められるよう、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを祈った。今回の事を通し、彼女は深く懺悔し、思惟し、二度と同じ過ちを犯さないことを誓った。そして、再び金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの門下に戻り、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの下でしっかり仏法を学び、生死から解脱し、輪廻を断ち切り、上師の恩、両親の恩に報う事ができるようにと祈った。彼女は皆が自分を参考にして、自分と同じ過ちを犯さないようにと願った。最後に、彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御健康と長寿、仏法事業の繁栄、この世に常住され、一切の有情衆生が利益されることを祈願した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、列席者に向けて貴重な仏法法話を説かれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、前回、因果の第一種と第二種を教授した。今日は続けて、ガムポパ大師の教えである修行者としての因果の修行方式についてを解釈する。

第三の教えは、悪を断ち切り善行をする時には、正見によって全ての因果の真の意味を「不二」と決めるというものだ。「不二」とは、菩薩道を修行する時、何にも執着しない境地まで修さなければならないことを指す。世間の多くの人は、執着を、ある事柄に執着する事だと考えている。しかし、仏法の中での意味は分別心である。我々は世間のどんな物事に対しても自分で積み重ねた人生経験によって、良い・悪い、長い・短い、早い・遅い、好き・嫌い等に分別する。これが即ち執着だ。一人の真の修行者は、空性を悟ったなら、一切の現象は全て不可分である。自分の心が分別を起こしただけである。

全体的に言えば、一切の輪迴、涅槃の法は、我々が世俗の誤った現象を消滅させる以前、全てが互いに依存し合い、普遍的に繋がる因果縁起の方法で存在する。一般世間の多くの者は「酒肉穿腸過,仏在心頭坐(酒や肉を食べても、仏は心の中にいる)」と言う。これは一般の凡夫や世俗の者が言える言葉ではない。一般の凡夫や世俗者が至れる境地でもない。この様な言い方をして戒律を守らず、因果を信じなくてもよいと思ってはならない。法界の真の境地を理解した後に初めて、因果縁起の真の姿を体得できるのだ。皆は、このレベルに至らないうちは、我々が一生の中で起こる事が全て因果、因縁、縁起の方法で存在し、消滅することはないという事を深く信じなければならない。全宇宙の中で起きた現象はすべて、業力の現れだ。すべて、過去の善または悪の力が、今世において我々の目の前に現れる。未来で見られる一切の現象はすべて、現在、皆が今世でなしたことだ。

法性を証する以前、我々が眼、耳、鼻、舌、身、意によって理解する一切はすべて業力の現れだ。≪金剛経≫には、「一切如夢幻泡影(一切は夢、幻、水泡、影の如し)」と説かれる。しかし、既に空性を証した修行者だけが仏の説かれたこの言葉の真の意味を理解できる。空性を証する前には絶対に、この言葉を使って自分の過ちの責任逃れをしてはならない。多くの者が「金剛経」はお経の王様だと言う。なぜか?それは、仏法を学ぶ者は、現在感じられる現象を修するのではなく、自分には光が見える、光を理解し、何かを感じたというのではない。これは仏法ではない。正見の仏法は仏の説かれる空性の真の意味を体得する。仏は≪金剛経≫及び≪宝積経≫の中でこの方面に関する多くの事を説かれた。≪大般若経≫の中にも空性についての事が多く説かれている。

現代にしろ、古代にしろ、我々が科学と人生経験によって仏の説かれた空性を体得しようとするなら、本当に成し遂げることはできない。だがもし、階梯のある修行を通して、順序良く行なうなら、真に体得できる日はやってくるだろう。多くの者がよく「縁起空性」を語る。だが、この言葉の内容を真に悟らなければならない。もしあなた達がこの境地に至らないのなら、神話をあなた達に聞かせているようなものだ。どうやって、この境地に達したらよいのか?仏法の薫陶、学びを通して、自分の心の中にある妄念と雑念を繰り返し減らしていかなければならない。清らかな本性の神聖な光が、修行の過程の中で現れることだろう。この光は肉眼では見えない。目を閉じて見られるものでもない。機器で測定できない光だ。科学では、人類が見ることのできない多くの光があることが既に証明されている。科学の機器を通せば、ある種の光を見ることはできるが、清らかな本性の光は機器でさえ測ることはできない。

どのようにして光を見るかをあなたに教える者がいるなら、これは正確ではない。それは、仏法に説かれている。特に「金剛経」には、色相によって仏を求めてはならないと説かれる。光も色相の一部分だ。清らかな本性の光は、仏法を学び、悪を断ち切り善行をし、垢をずっと減らしていくことにより、仏法を学ぶ過程においてたまに出現する。連続的にずっと出現することもある。あなた達がどれ位の我執を取り除き、どれ位の無明を減らすことができるかによって決まる。もし、あなた達が成し遂げられないなら、因果を必ず深く信じなければならない。いかなる動作も、理由をつけて自分のために言い訳してはならない。

種種の因果の関係もまた、二種の状況に分けられる。その一つは、有為輪迴因果である。「有為」とは、あなた達がなにかを行ない発生する力によって存在し、未来の変化を引き起こすことを指す。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達が理解し易いようにと、現代の言葉を用いて解釈する。仏法の名詞で言うなら、即ち、あなた達を輪廻させることだ。輪廻は死亡後を待つ必要はない。輪廻から解脱する前は、肉体、神識、宇宙は全て一秒毎に輪廻しており、輪廻が止まったことはない。衆生の心が空性を証しておらず、まだ動いているなら、業力は必ず動き、輪廻が起きる。我々の日常の行為、思想、言語がすべて、我々の未来の輪廻に影響を及ぼす。

未来は自分が作っているのだという事がはっきりするなら、我々は、自然に他人に対する恨みもすぐに減らすことができる。思考することさえも不要で、心理科医に診てもらう必要もなく、分析する必要もない。それは、自分がしたことが分かるからだ。自分がした事は、当然ながら受け入れなければならない。だが、因果を信じる者はごくわずかだ。皆は、以前の行いに対する報いは見えない、報いはまだ現れていない。地獄に堕ち、来世で初めて報いがあるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは口をすっぱくして何度も言った。報いは来世で現れるのではなく、今世ですぐに始まっているのだ。あなた達が来世にどの道に生まれるかは、今世でした事によって決まる。だから、今世がまだ終わらず、寿命の縁が尽きる前に、来世の果報は今世で先ず花開くのだ。花の報いは現れたが、果の報いがまだ現れていないうちは、果の味を変える機会がある。そんなに苦く、酸っぱくしないようにする。花の報いが現れたのに、あなたが変わらずに、自分勝手に振舞っているのなら、未来の果報とあなたがなした悪と善は全く同じものとなり、変えることができず、いわゆる「定業」が出現する。

我々は自分の次の世がどの様であるかをどうやって見たらよいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも説いているが、今日も少し取り上げることにする。もし、生前よくメスを入れ、手術をしているなら、地獄に堕ちる率は他人よりもずっと高い。生前貪欲が強く、惜しんでばかりいて、どんな事でも比較し細かく計算する。金銭やその他の事を何でも比較し細かく計算する。一杯のお茶を買い、ほんの少し少なかったからと言ってテレビに出て罵る。このような人は来世では恐らく餓鬼道に堕ちることだろう。餓鬼道が終わって出てきても、絶対に貧困者である。もし、今世でよく他人の物を盗み、人の財産を騙し取るなら、どんな方法であっても、来世では恐らく貧困な場所に生まれることだろう。だから、死ぬ前には、ほとんど見ることができる。畜生道に堕ちる者は、生前の100%昏睡状態となる。多くの者が昏睡の中で他界するのはよい死に方だと思う。寝ていて逝くのがよいと思う。この様に他界する人はいい死に方だ、家族の者に迷惑を掛けないからと思うかもしれないが、本人は非常に悲惨だ、突然昏睡して他界したなら、畜生道に堕ちる率が高くなる。これはお経に説かれている。

仏陀のもう一つの呼称は「善逝」である。多くの者がこの名詞を理解していない。実際のところ、仏が涅槃する時、いかなる苦しみもなく、ただほんの少し病を示しただけである。自分がいつ逝くのか、どうやって逝くのかをはっきり知っており、逝く前に自分で吉祥臥をした。北部には、他の人が彼のためにやってあげた弘法者もいたが、そのようではない。他の者が竹を使って座禅を支えた者もいる。これらは皆違う。「善」は、慈善、善の結果を意味する。もし一人の修行者、真の善人なら、逝く前にあなた達は彼の憂いを含んだ苦しい顔、全体が皺くちゃになった顔、沢山の苦しみによって苛まされるのを見ることもない。両親を一日、二日長生きさせるためにと両親に救急治療を施し、胸部を圧する者もいる。これらは、恐らく地獄の因となる。多くの者が誤解している。自分が死んでから考えようと思っている。まだ死んでいないなら、今世は英雄でいようと思う。もし、あなたが生前に善も悪も行っていないなら、死ぬ前にこれらの兆候が現れることはない。猫や犬がいかに死ぬかでさえ、彼が今世でなした事に関係がある。

お経に説かれたことに基づくなら、出家者や修行者は猫やハクビシンを飼ってはならない。それは、これらの動物の殺生の業力が非常に重いからだ。イギリスで嘗て、このような報道があった。道にいた一匹の猫を追跡していたら、猫は毎日いつでも外に出て行って、鳥を殺していたことが分かった。猫はそれを食べず、ただ鳥を殺していた。もう一匹も同じようであった。それは、これが彼らの本質だからだ。だから、お経には、猫を飼ってはならないと説かれる。これは、猫が悪いのではない。あなたが猫を飼うことによって、周辺の木々にいる鳥を殺すからだ。犬は、お腹がすいている時以外は、このような事はしない。猟犬なら別の話になるが、もしお腹がすいていないなら、その他の動物をかじって殺すことはない。

お経にはすべて、我々が有為の輪迴因果を作るのを恐れることが説かれている。先に稼いだお金を儲けることができる、先にやったらやったものを手に入れられることを信じてはならない。以後、二度と改められなくなる。このようでは絶対に間に合わない。どれほどのお金があり、どれほどの権勢がある人であっても、最高の医者が付き添い彼を助けてくれても、生前に仏法において努力しなかったのであれば、嘗て国のため、人々のために沢山の事をしたとしても、これは未来の果報となるが、今世の悪はやはり受け取らなければならない。仏法を学ぶなら、まずは因果を深く信じなければならない。まだ凡夫位であるなら、一切の言葉、行為、思想には必ず果報がある。よくない果を積み重ねてはならない。もし善果であるなら、沢山の因を積み重ねることができる。だが、悪果、悪因なら、一粒の砂ほど小さいものであっても積み重ねてはならない。

小さな事だから構わないと思ってはならない。少しずつ積み重ねたら一山になる。どんな事も小さな場所から始める。ガンを患うのもこのようだ。少しずつ肉や魚を食べ、最後は、細胞の中は全て動物と魚の細胞となり、自然にガンとなってしまう!以前、飼っている猫や犬がガンになるのは少なかった。だが、現在、ほぼ90%の猫や犬がガンに罹る。恐らく彼らが食べる飼料に問題がある。なぜ一日中、食品に含まれる毒のニュースばかりなのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは数年前にまだニュースが出る前に、皆に説いたことがある。末法時代の衆生の業力は重い。食べる物にさえも毒が入っている。お金があれば、良い物を食べられると思ってはならない。また、お金がなければよい物が食べられないと思ってもならない。これが原因なのではない。衆生の業力が重く、因果を信じず、使う薬さえも毒だ。ただ、どの方面の毒なのかを見るだけだ!

いわゆる有為の輪迴因果は、個人がなす善悪業の因の違いによって、異なる苦楽果報となる。よって、全ての離苦得楽(苦しみから離れ幸せを得ること)を希望する者は、悪を断ち切り善を修さなければならない。あなた達は一日中、日々を恙無く暮らしたいと言っている。が、恙無い日々は仏菩薩があげるものではない。仏菩薩が我々が恙無く暮らせるようにしてくれるのなら、我々はなぜ修行しなければならないのか?もし、仏菩薩が我々に恙無い日々を与えることができるなら、仏菩薩の慈悲の基準でいくと、地球全体のどんな者も苦しみを受けるはずはない。なぜ、こんなにも沢山の者がこんなに多くの苦しみを受けているのか?それは全て自分で作ったのだ。仏法を学ぶ者が、一日中仏法を学んで好転することを望む。当然ながら、仏法を学べば必ず好くなる。だが、仏はあなた達に悪を断ち切るよう教えても、あなた達は実行しない。更には、気にしなくてよい、自分はまだ始めていない、まだ準備ができていないと言う。戒律を守り菜食するなら、とても不便だし、仕事を捨てることになり、嫁げなくなり、嫁をもらえなくなると思っている。これはあなたが、悪を断ち切ろうとしないことを表す。悪を断ち切ろうとしない者には未来に幸せがあるのか?不可能だ。これが即ち、因果だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を例に挙げるが、36歳の時に一年間完全な菜食をしてから、初めて仏門に皈依した。リンチェンドルジェ・リンポチェは即刻悪を断ち切り、一切の善を行わなかったなら、今この世にはすでにいなかっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日もまだこの世にいられるのは、よく修行しているからでなく、大きな福徳があるからでもない。実際のところ、沢山の煩悩がある。ガムポパ大師が説かれたように、一人の密法を修する行者が成就すれば、自然に沢山の弟子が現れ、同時に業力も現れる。それは、弟子の中には必ず色々な者がいるからだ。もし、上師となる者に定見、正見がないなら、容易に様々な状況が現れる。

なぜ、寶吉祥仏法センターはこんなにも厳しいのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが因果を信じているからだ。あなた達は最近この数回の日曜日の法話を聞き終わった後、多くの事が因果と関わりがあることを知ったであろう。あなた達が自分を改めようとする他は、求めても求め得られない。毎日、お線香をあげて、礼拝をして、お経を唱えれば、あなたの望む物が手に入ると思ってはならない。前にあなたが植えた因があるなら、果はどこへ行ったのか?もし、あなたに以前作った因はあるが、念仏、礼拝をしたら、以前作った悪因によってあるはずの悪果がなくなったというなら、因果はないのではないか?因果がないのであるなら、仏を礼拝する善因もなくなる。善の因がないなら、善の果はどこにあるのか?これでは、矛盾するのではないか?

あなた達は、外道の話を信じてはならない。外道は、あなた達はただ一人だから、個人の力に頼って累世の罪を今世ですべて返済することはできないという。全ての罪を神衹に告白し許しを得て、全てを神衹に託す。それによって、神衹にあなたの罪を背負ってもらう。だから、あなたは、神衹の話を聞くことになる。この考えは非常に恐ろしいものだ。自分の過ちを全て他人に託して責任をとってもらう。しかし、人はこの様な事が好きだ。ただ人が好きなら、何事もないと思う。過ちを犯した後は、告白して許しを得るので、罪は全て神衹に託す。神衹を信じ、神衹にあなたの罪を請け負ってもらう。これでは癖になるのではないか?その場で、以前外道を信じていた一人の弟子が「全くその通り。とても恐い」と言った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。過ちを犯し、人があなたのために請け負ってくれるなら、告白し許しを得たらよい。これからも、なぜ、マフィアが外道を信じるのかが分かる。即ち、告白し許しを得た後は、全て神衹に託せばいいからだ。ある時期に、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうどこの部分を見て、初めて、元々このようであったことを理解した。それは、全ての罪を神衹に託すことができ、神衹にこの罪を請け負ってもらい、憐憫されたこれらの羊達を連れて行ってくれる。羊には知能はないのか?どうやったらいいのかが分からないのか?全て、前方のリーダーの羊について歩いて行く。リーダーの羊が落っこちたら、皆も一緒に落っこちる。我々は人だ。自分の人生を分別する能力と知能がある。この種の迷信を受け入れてはならない。

現在恐ろしいことに、中国の伝統的な道教でさえも質が変化している。道教も罪を玉皇大帝に託すとは言っていない。玉皇大帝も、あなたの罪は欲しくない!道教はこう言っているのではない。あなた達にしっかり修するようにと教える。まして仏教の中ではよりはっきりと説かれる。なぜ皆は現在混乱し始めたのか?それは、現在の人が、気にしないでよい、過ちは他人に託せばよい、他人に責任を取らせればよい、自分はやはり立派な人だから、他の事をすればよいと思っているからだ。あなた達が現在、仏菩薩に求めることも、このような心のあり様だ。仏菩薩に自分の過ちを告げる。だが、過ちは過ちに帰する。やはり仏菩薩に、恙無く日々を過ごせるようにと願う。あなた達がガンになり、仏菩薩に自分の過ちを告げる。だから、ガンになったら、仏菩薩にガンがあなたを苦しめないように、自分をしっかり修行させてもらえるようにと祈る。これは外道とあまり変わらないのではないか?二つに変わりはない。全く同じだ。

この様な祈り方で求め得ることができるのか?なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、当初ガンにかかった時に、仏菩薩に祈らなかったのか?仏菩薩に効き目がないからではない。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じていたからだ。自分は魚を好んで食べていた。自業自得だ!ガンにかかって当たり前だ!あなた達はどうなのか?自分がガンにかかるべきではないと思っている。こんなに好い人なのに、こんなにも配偶者を愛していて、子供にもよくしている。なぜガンにかかるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。あなたが自分の妻、夫、子供を愛しているなら、なぜ、まだ肉を食べているのか?それらの動物には妻、夫、子供はいないのか?

あなた達は本当に恐ろしい。貪欲で仏法を学んでいる。本当に因果を信じていない。毎日少し唱えれば、改めることができるのか?過去世は言わなくてもよい。今世で、あなた達は母親のお腹の中で魚を食べ、肉を食べ、一匹の魚、一つの命を食べていた。あなた達はいくつの命で返そうとするのか?朝晩の勤行をしたら、彼らに返すことができるのか?彼らは命さえもなくなったのだ!だから、普賢菩薩はなぜ我々はスピードをあげて仏法を学ぶようにと訓戒したのか。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたに与える加持に頼って、あなた達に恙無い日々を過ごさせるためではない。あなた達は因果を信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法の修法はすごい、ポワ法だけを求め得たなら、自分は安心だと思ってはならない。求め得られたことは、必ず成し遂げられることを意味するのではない。あなたに福徳因縁がないのであれば、ポワ法を得ることはできない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェを見つけられないからだ。既に何度も発生しているが、あなた達は自分はこうならないと思っている。

あなた達が未来の幸せを得たいと思っているなら、絶対に一切の悪を断ち切らなければならない。だが、人はみなとても気が短い。すぐに全ての苦しみを消滅させたいと願う。すぐに好転するようにと願う。どうやって、そんなに早くできるのか?例えば、一棟のビルを建設するのには、最低、数年の月日が必要だ。だが、もし壊すなら、爆薬を使えば数秒しかかからない。壊すのに最長一週間だ。これは我々に、破壊するのは早いが、構築するのは非常に遅いことを伝えている。

全宇宙も同様だ。まさに、一つの星の発生にもとても長い時間がかかる。だが、星が消滅する時は一つの爆発だけでなくなってしまう。悪行の力が後に成熟する時、善の力よりも非常に強くなる。なぜか?それは、地球上の悪の共業が非常に多いからだ。あなた達が信じられないほど多い。あなた達がテレビを見ている時、主人公を見て、あれこれと罵り、テレビの著名人を見て、あれこれと罵る。これこそが共業だ!他人が豚を殺すのを見て嬉しくなる。これこそが共業だ。三男と四男が長男からビンタされるのを見た時嬉しくなる。これも共業だ。何が共業なのか?長男は以後、絶対に人から殴り返される。だからあなたにもその分け前がある。話をしてはならない。何が嬉しいのか?非常に奇妙に感じる者もいるだろう。見て喜んで、拍手を返す。見た後に「見てごらん。殴られたよ!」という者もいるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは全くわけが分からない。地球上の悪の共業は非常に多く、善の共業は非常に少ない。だから、あなた個人がなしたほんの小さな善に、累世の悪を加え、更に、今世に生まれ変わった後に参与した、こんなにも多くの悪の共業を付け加えたなら、この力は必ず善の力よりも大きいものとなる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはずっとあなた達に、仏法を学ぶ時には高慢であってはならない、自分はこんなにもしっかりと修行している、こんなにも沢山唱えたと思ってはならないと勧告している。あなた達が高慢であると、善の力はすぐに半減する。一旦、尊大になると、福徳を使い切ってしまうからだ。よって、仏法が皆に、尊大、高慢であってはならないと勧告する道理はここにある。離苦得楽(苦しみから離れ幸せを得ること)を望む者は、必ず悪を断ち切り善を修さなければならない。考えることさえも不用だ。ある時期に、リンチェンドルジェ・リンポチェに手紙を書いてきた者がいた。自分は以前、他の教派で密教を学んでいたが、ずっと肉食をし、肉食のレストランを開いている。彼の娘はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、帰宅してから、もう続けないようにと言った。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに手紙を書き、「菜食レストランをやって衆生と結縁したらよいのか、それとも止めた方がいいのか?」と尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「彼がこれを聞くのは、お金に未練があることを示している。多くの者は菜食レストランを開くことは衆生と結縁することだと思っているが、誰が言ったのか?やってお金をもらわない事こそが結縁だ」と説かれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは菜食レストランで菜食することは少ない。いつもあちこちに行っている。これこそが人と結縁することだ。これによって、彼らは殺生しない機会を一回持つことができる。あなた達は何の結縁をするのか?もし、一軒の肉食レストランに突然、1000名の寶吉祥の弟子達が行って食事をしたのなら、彼は一日中、魚を殺し家畜を殺すことはできなくなるのではないか?これこそが彼と結縁することだ。もし、菜食レストランがあなた達に、「師父が彼に菜食レストランを開いて衆生と結縁するようにと言ったのに、おかしなことに、なぜまだ赤字なのか?」という話を聞いたなら、以後は二度とこのレストランに行かなくてよい。それは、彼は貪欲で開いているからだ。もし、本当に衆生との結縁をしたいなら、お金を取らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日人を引き連れて、彼の店をひいきにするだろう。結縁なら、以前と同じようにお金を取るのではないか?機嫌のいい日は、出家者から少なめにもらい、機嫌の悪い日は、出家者の着ている袈裟の生地が素晴らしいのを見て、お金を規定通り受け取る。だから、これは結縁ではない。ビジネスならビジネスだ。仏法の名詞を使っていい加減なことを言い、乱用してはならない。

これらの状況はどのように発生したのか?それは、因果の取捨に対してまだ決意がないからである。自分が以前に肉食レストランをやっていて、現在既に改めて、菜食にした。あなたは更になにがしたいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたに、こうするようにとは言っていない。あなたは、すでに変えたので、自分は偉大だと思っている。だが、変えることは当たり前の事だ。仏はあなた達に改めるようにと説かれる。これによって弟子を一人増やそうとしたのではない。仏は皆に改めるように勧められる。衆生がずっと輪廻、三悪道に繰り返し堕ちるのを望まないからだ。だから、あなた達に改めるよう勧告された。改めた後、善の福を稼ぎ、以前になした悪の果報を返す準備をする。このようにすることで、あなた達は返すことができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が当初皮膚ガンに罹った時、悪を断ち切り善行をしたので返済する福徳を持つことができた。

なぜ、どのように仏菩薩に願っても、病気がよくならない人もいるのか?それは、彼らはやはり悪行をしているからだ。彼らは、していないと言う。自分は菜食をし、仏への礼拝をし、怒っていない。自分ではもう悪行をしていないと思っているが、実際にはやはり、している。上師が言っている話を聞かないなら、やはり悪行をしている。自分の方法で仏法を学んでいるなら、やはり悪行をしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、その他の転生の上師と異なる。それは、今世で成就したからだ。これもまた、尊き直貢チェツァン法王によって確認されている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一切の人生の中で、あなた達全ての男性が耐え切れない苦しみを経験した。もしそれが、他の男性なら、すでに意気消沈して、この宇宙の中に消えてしまっただろう!それは、こんなにも多くの事を経験し、やっと、一切の因果は、単独で発生したのではなく、全て関わり合っていることがはっきりしたからだ。自分を改め、教えに基づく実践をする決意をせずに、礼拝し、唱え、願っても、やはり変わらない。

例え、あなたがガンに罹ったとしても、治らなくても構わない!この一生で、あなたは肉体をもって返済するなら、来世での返済は不要だ。だが、誰もこの言い方を信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェが皮膚ガンに罹った時、なぜ仏菩薩に願わなかったのか?それは、返済したかったからだ。来世でまた返済したくなかったからだ。今世で返済できるなら返済する。今世で返せるのに、なぜ返さないのだ?来世に引き伸ばしたいのか?簡単な例を挙げてみる。あなたが他人からお金を借り、一ヶ月で返済できるのは明らかなのに返さず、10年後まで引き伸ばしたとする。うっかり他人にでくわし、その人にあなたは彼のお金を返していないと言われる。そうだろう?しかし、あなた達は返済したくない。今世で、我々はこの肉体で返済できるのなら、来世で返すよりよい。それは、来世ではどの道に行くのか分からないからだ。今世において肉体で返せるのなら、少なくとも皆は、自分が返済していることをはっきりと知り得る。

病気を通して、我々は発心することができる。発心は奉仕を行なうことではなく、精進する心、菩提心を発こすことであり、今世では、仏法を学ぶ道において、不退転を決意することである。密法を学ぶ修行者は、病気を道に用いる。あなたにもし病気がないなら、あなたに仏法を学ばせるのは非常に難しい。病気の人は、却って因果の恐ろしさを理解している。病気であるので、あなたにしっかり修行することを促す。ある者は、ガン細胞と平和的共存をし、一緒に修行するよう言う。このような外国語を言う必要はない。ガン細胞はこのような言葉を理解しない。ただ、聞いて理解するだけだ。私はあなたに返済をする。あなたがずっと返済しようとするなら、それは自然に、あなたを邪魔するのを減らす。あなたが人に100元借り、最初、毎日10元を返す。かれはあなたが毎日10元返すことを知り、数日は電話を掛けてきていたが、数日したら電話を掛けなくなる。あなたが必ず返すことを知ったからだ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが修行していなかったなら、皮膚ガンは随時戻って来ただろう。それは、返済が終わっていないからだ。

あなた達は、自分で毎日「薬師経」「地蔵経」を唱えて累世の怨親者に回向するなら、彼らがあなたによくない事をするはずはないと思ってはならない。そう考えるなら間違っている!どれほど唱えても、相手の命を返すことは不可能だ。あなた自身が生死から解脱をし、彼があなたについて生死から解脱できるのなら、あなたは返済を終えたことになる。あなたが今世で生死から解脱できずに輪廻しているなら、あなたはやはり借りていることになる。ただ、借りるレベルに差があるだけだ。皆が理想的でないと感じ始める時、それには病気、婚姻、子供の問題を含めるが、皆の最初の考えは、この事を修正したいと思っている。この事を改め、それをあなたの好む状況に変化させたいと思う。最初の考えは、自分の利益になる事をしたいと思うことだ。あなたがどんな事でも自分の利益になる事をするなら、それは、仏法に背く道を歩むことになる。仏法は、衆生を利益するものだからだ。

よって、あなたが電気治療、化学治療をしたいなら、沢山の親戚、友人が夫、妻、息子に言う。自分の利益のためである。婚姻の失敗、息子が言う事を聞かない原因がどこにあるのかを検討する者はいない。皆は様々な理由を探し出して、片親の家庭だからだと言う。片親の家庭はひどい災難を被るのか?片親の家庭もまた一つの家庭だ。両親、片親もやはり単一だ。なぜなら、あなたは毎日彼と一緒にいることはできない。二人で夜に一緒に寝る以外は、二人のうち必ず一人は外に働きに出るだろう。それならやはり、単一なのではないか?道に迷い、見失い、間違った考えが沢山、我々の頭の中にずっと存在し、仏法が我々に教える人生観に大きく背いている。仏法は我々に、一切の一般世間の習慣が正しいと考えることは、必ずしも正しくなく、一切の一般世間の習慣が間違っていると考えることは、必ずしも間違っていないと教えてくれる。我々は仏法と智慧を用いて、物事のそれぞれを見つめ、世間一般の習慣を変える能力がなくても、離れることはできないが、少なくともそれを強化しないで行い、ただ忍耐しなければならない。

なぜ、六波羅蜜を修さなければならないのか?一切の人が耐えられない事に耐えなければならない。このようにすることで、福徳が生じる。特に女性である。元々、女性は情感方面に比較的執着があり、もし情感方面に忍耐があるなら、修さなくても執着も滅することができる。情への執着を滅することができるなら、福徳を生じさせることができる。なぜ、仏法を学んだ後、家庭の中が徐々に和やかになる者がいるのか?彼が変わったからではない。彼が耐えたからだ。仏法の中に説かれる忍耐は、まず最初に、自分の過去に悪行の因を本当に作ったことを受け入れ、この様な心持ちによって耐えることだ。山のように動かずに耐えることではない。自分の思考パターン等を変えなければならない。当然ながら、少しの常識も必要であり、これによって、目前の事情の悪化を緩和する。だが、これは逃避の方法ではなく、すぐに相手を傷つけて変化させる方式でもない。

有為輪迴の因果の過失について、皆は本当にはっきりと理解しなければならない。しかも、今日あなた達がどんなに苦しみ、どんなに幸せであっても、一切の悪をすべて断ち切らなければならない。自分で改めた後、一週間以内に物事が好転するようにと願ってはならない。この様な事を考えてはならない。我々は自分が生生世世にどれほどの借りがあるかを本当に知らない。仏だけが知っている。あなたの心に固い信念があり、三宝を信じ、三宝が我々に教える方法を信じるなら、あなたの債務は必ずすっかり返済される日が来る。来世までずっと借り続けることはない。この決意はあなた自身がするものだ。

一つ目は、有為輪迴の因果、二つ目は、無為涅槃の因果である。これは、仏法の修習を通して、一切の辺見戯論を離れ、諸法が甚深なる空性の因であることを指す。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日、この部分を説法する。聞いて理解できる者は数人もいないが、やはり説く。説き終わった後は、あなた達自身の因縁があれば、徐々に理解できるであろう。仏法を学ぶ者は、いかに我執、執着を捨てるべきか?一切の辺見、即ち有無、良し悪しの分別から離れなければならない。我々は一生の内で、物事を理解することから始まる。生まれて知覚して、すでに分別が始まっている。子供は、何が苦いか、甘いかを知っており、感じ取っている。話はできなくても、知覚はある。これは、我々がそれぞれの世で分別する習慣があったので、今世で生まれてすぐに分別した。とても自然なことだ。離れなければならないのは、仏法を通して修習した後に、心がこの執着を離れる事である。良い物を見たり聞くのもよいし、悪い物を見たり聞くのもよい。全て、あなたの心の反応だ。もしあなたの心が動かないなら、良い物と悪い物は単なる名詞に過ぎなくなるだろう。

例を挙げて説明すると、他人の国家を侵略するために、多くの理由を探し出して自分が正しいと解釈することができる。因果から言うなら、誰かが誰かを陥れることはない。必ず、ある側が別の側の人を殺したので、今世で仇討ちに来たということになる。だが、因果を信じない者は、当然ながら、執着、我執の範囲内に陥り易く、そこから出るのは難しい。どの戦争の発生も、絶対に因果と関係がある。深く因果を信じる者こそが、ゆっくりと、辺見、戯論から離れることができる。因果を信じないなら、この法門を修するのは難しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、なぜ比較的早く成就できたのか?それは、子供の頃に家庭で因果を信じるよう教えられていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に仏陀及び上師の教える法門の中に入ることができた。

あなたが因果を信じるなら、物事の見方、心の持ち様、定論は、自然に一般の人と異なってくる。分別心も自然に減る。寶吉祥仏法センターはなぜ、功徳主を設けずに続けることができるのか?これは、リンチェンドルジェ・リンポチェに分別心がないので、仏法事業を行なうのに、あなた達一人一人に100万元を寄付させて委員にすることはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果、因縁を信じている。因縁が十分なら、自然に多くの仏法事業が順調に行なえるようになる。因縁が不足しているなら、募金等の方法を用いても、後の結論は良くないものとなる。

続いて説く「諸法甚深空性の因」は、あなた達のために解釈をするのは非常に難しい。それは、あなた達がこの境地に至っていないからだ。少し簡単に説くと、一切の宇宙の現象である。いわゆる「諸法」とは、仏法だけを指すのではない。一切の事物、人の現象すべてが空性の因に関わり合っていることを示す。即ち、縁起空性である。以前、禅宗には、このような話が沢山あった。禅師のコップが床に落ちた。「パン」の音で、禅師は突然、縁起空性を悟った。棒で叩かれて、即刻悟りを開く者もいる。釈迦牟尼仏が手に花を持って微笑したのを見た大迦葉尊者が悟りを開いたようなものだ。

これらは、偶然に起きた事ではない。沢山の修行を積み重ねて起きたのであって、因縁が揃った時に初めて起きる。願っても得られず、思っても得られず、唱えても得られない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分にも起きたことがある。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関し、食事を済ませた後、関房内を歩いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて話された。「お腹が出るのが心配なので、運動しなければならない。その時、歩いていたら、不注意にも丸椅子の足を蹴飛ばしてしまった。「パン」の音で、リンチェンドルジェ・リンポチェ全身がはっきりし、すぐに縁起空性について体得した。これは絶対に言葉で解釈できるものではなく、仏菩薩が予め一つの立場、環境、時空をリンチェンドルジェ・リンポチェに与えたものでもなかった。全く違う。突然に起きたのだ。これは、修行者が修行によって得られた力がこのレベルに達したので、一つの音、動作、風が一吹き、一言ということもあるが、それらが修行者の悟りを助けるのだ。

禅宗は「不立文字(文字を立てず)」と言うが、禅宗を学んだら文字を理解する必要がないと誤解している者が多い。「不立文字」は、文字ではこの境地を解釈できないからだ。文字では境地を語り尽くすことはできない。経験者だけが知っている。経験者でないなら、あなたの悟りを助けることはできない。この境地に至っていないなら、どの様にあなたに教えても、伝えても、あなたはただ、文字の上だけで堂々巡りするだけだ。禅宗が言う「不立文字」では、この境地が文字の存在しない立場であり、完全に心の悟りであるので甚深と言う。人生で経験し、学問し、一切の理解を得て、仏の説かれる空性の意味を体得させるものではない。実際には、空性には意味はない。少しの意味もない。

仏法の特別な所はここにある。神衹があなたに何かをあげるのでもなく、あなたに何かを教えて、あなたが必ず何かができるようになるものでもない。ただ皆に複雑から簡単になるのを教え、最後には全く同じものとなる。仏法は絶対に、あなたの物を増やすためのものではない。だから、あなたに、観想すると最後には光が見えると教える人がいるなら、それは仏法ではない。お経にはそう説かれていない。密法でもこう言っていない。お経にははっきりと説かれている。地球が現在回転しているは釈迦牟尼仏の仏運である。即ち、釈迦牟尼仏の法がお経に説かれていないなら、なぜこの様に教えるのか?こうなら、間違いだ。お経には仏菩薩は様々な光を放つを説かれているが、それは仏菩薩であって、一般の凡夫、世俗の者が座禅を組んで見られるものではない。

≪宝積経≫には何度も説かれる。全ての偉大な阿羅漢は、物事を知りたいと思った時は必ず、入定した。一切の阿羅漢は全て、四禅八定の境地を既に越えているので、真に入定することができた。30分座って動かなければ入定なのではない。偉大な菩薩は入定が不要だった。なぜか?それは、偉大な菩薩はずっと空性の中にいて、動いたことがないからだ。あなた達は菩薩が入定すると思ったのか?実際には、ない。入定するなら有為法だ。だが、空性を証する以前はやはり入定が必要である。入定してこそ智慧が開かれるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達に入定は不要だと言ったのだと考えてはならない。我々はやはり入定が必要だ。菩薩の果位になってこそ不要となる。これは≪宝積経≫に説かれたものに基づき、リンチェンドルジェ・リンポチェが言ったのではない。

多くの者は、お経を見ても、その中の道理を理解できない。お経には、阿難尊者と数名の偉大な尊者は見て、物事を理解する前に、それが禅定の境地の中にいることが説かれている。だが、菩薩について説かれているお経はない。全て、口を開くと仏法を説く。これは、既に空性に入っているので、このレベルの事を実行できるのだ。空性を証していない修行者は、原稿を作り、ずっと書き続ける必要がある。いい加減なことを山のように言う者もいる。根拠のない事をいかにも本当のように言い続ける。空性を証したいなら、繰り返し修習しなければならない。仏法を一節、一節と学ぶのではない。こうやってこそ、機会がもてる。法会に来ない者もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼らに二度と来なくてよいと言う。既に途切れたからである。以前に来て累積したのではないかと聞く者もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう言った。それらは依然として存在するが、功徳ではない。単に来世で用いられる福徳だ。これはお経に説かれている。皆にこの様にやるようずっと勧告している。これはあなたの日常生活に影響を及ぼすと思う者もいる。実際には、ありえない。仏法を学ぶ事は本当に、あなた達の日常生活に影響を及ぼさない。

お経には続けて、三身一昧の大楽身の果位を証したからだと説かれる。「三身一昧」とは、化身、報身、法身を指す。お経の中には、仏には三身があると説かれる。即ち、化身、報身、法身である。だが、仏の境地の中では分けられていない。凡夫が分けているのだ。異なる機根の者が分ける。≪阿弥陀仏経≫には、阿弥陀仏は化身によって往生を発願した衆生を引接すると説かれる。化身を取り上げたという事は、引接される者は菩薩でないことを示す。もし、在世の時に、すでに菩薩の果位を証したなら、報身の仏によって引接される。言いかえれば、阿弥陀仏の法門は、今世の機根が空性を証せない者に与えられたものであり、菩薩の果位も証することはできない。だが、世間に対して強烈な出離心がある者である。だから、仏法を学ぶどんな者でも出離心がないなら、いかなる法門も成就できないことになる。

なにが出離心なのか?輪迴の世間を出離することを願い決意することだ。唱える、礼拝する、学ぶものの一切は全て世間からの出離のためにある。ガン細胞、夫、母親等に回向するためではない。これらは全て世俗法であり、有為法だ。出離に対して少しの助けにもならない。お経を見るなら理解しなければならない。「阿弥陀経」の中には、念仏して両親に回向するようにと説かれているのか?全くない。ほかのお経の中で、仏は回向するようにと説いているが、両親に回向するようにとは説かれていない。ただ、衆生が仏法を学ぶ福徳を得られるようにと、衆生に回向するように説かれているだけだ。

我々は、自分がどんな身分なのかをはっきり理解しなければならない。我々の身分は菩薩ではない。菩薩ではないなら、輪廻をどうやって断ち切るのか?出離心だ。これは、あなた達を会社へ行かさず、結婚させず、勉強させないという事ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達に出離を教えたから勉強しなくてよいと、家に帰って言ってはならない。やはり勉強しなければならない。過去世で作った因があるので、今世で果報が現れて、あなたに勉強させる。両親に叩かれる。だから、やはり返さなければならない。家に帰ってから、リンチェンドルジェ・リンポチェが、出離しなければならないから勉強しなくてよいと言った等の話をしてはいけない。もし返済が終わっていないなら、出離も不可能だ。

我々はなぜ仏法を学ぶのか?それは、輪廻の家を出離しなければならないからだ。反駁する者もいるかもしれない。大乗仏教を学んだなら、発願に乗じて再来するのではないか?と。前で皆には因果についてを説いた。今世で菩薩の果位を証したかどうかを自分に聞いてみなさい。証していないなら、なぜ発願に乗じて再来できるのか?明らかに菩薩でないなら、未来の果報はなぜ菩薩であるのか?そうではないので、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏を紹介したのだ。こうすることで、皆に阿弥陀仏の浄土で安全に修行させることができ、仏の境地まで修行させてこそ、発願に乗じて再来することができる。皆に発願させないのではない。迷信の方法で発願してはならない。皆は本分を守り、自分にこのレベルかどうかを聞きなさい。もしそうでないなら、本分をしっかり守りなさい。

報身仏は一つ高い位であると思ってはならない。あなたがまだ菩薩の果位を証していないなら、報身仏が来た時にあなたは恐いと感じる。化身仏はあなた達に近く、受け入れられる範囲である。よって、あなた達は恐いと感じず、威圧されることもない。これは、仏の慈悲の力と願力によってあなた達を引接するからだ。だが、あなたは、強烈な出離心がなく、化身、報身、法身はいずれもあなたと関係ない。出離心がないなら、この一生で念仏を沢山唱えたとしても、他人のために助念(他界後に唱える念仏)をしてあげたとしても、最後に他界する時に、突然一つの考えが浮かぶ。自分は一生で他人のためにこんなに沢山念仏を唱えてあげたのだから、次は菩薩になるはずだと!これではお終いだ。この様では出離心はない。この一生で菩薩の果位まで修したなら別だが、そうでないなら、本当に来なくてよい。

菩薩道を行ずることが菩薩だと思ってはならない。もし、菩薩の果位を証したなら、必ずある種の能力を持っている。昨日、こんなに沢山の信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェに能力がないなら、彼らに殺されるだろう。ある女性信者は娘を連れてきた。娘は皮膚に痒みがあり、医者は子供は大きなストレスを感じていると言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェがちょっと見ると、全くこの様ではなかった。母親が子供にストレスを与えていたのだ。それは、母親は離婚を考えていたので、仮想の場面を設定して8歳の娘と相談していた。娘に、もし両親が離婚したらどうか?、離婚しなかったらどうか?、父親が離れて行ったらどうか?父親が離れなかったらどうか?と聞いていた。子供にはストレスになるのではないか?この会場にも、この様な事をした女性がいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェに能力がなかったら、彼女に騙されているのではないか?それなのに、彼女は娘がかわいそうだと言っている。実際のところ、母親がごまかしているだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは話して、すぐに看破した。彼女は自分がしたのだと知っていた。帰ったらもう問題はない。もし、看破していなかったら、ただ彼女に、≪薬師経≫を沢山あげ、懺悔の礼拝を沢山するように言っただけだった。その結果、どんなに拝んでも変化はなかった。彼女の因が見つからなかったからである。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの小さな話をしたのは、この信者のことを言うためではなく、皆に伝えたかったからだ。この一生で、衆生を利益する能力がないなら、あなたはまだ凡夫だということを意味する。それなら、その場に落ち着いて、この世間を出離する決意をしなければならない。出離心のある人は、仏名を唱えると作用が起きる。あなた達がまだ発願に乗じて再来することを望むのであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは反対しない。だが、菩薩がする事を実行できないなら、発願に乗じて再来することは不可能だ。

顕教の中では神通力を修さないが、密教の中では少し修する。あれこれと変化するためではなく、衆生の心を知るためだ。衆生の因が分からないなら、どうやって彼らを助けるのだ?懺悔の礼拝、念仏に頼るだけで、物事は解決しない。ずばり端的に要点を突いて、相手の心の奥底を突き刺すことができる。少なくとも、彼は二度とまとい付かなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて言った。現在、台湾には盤糸洞(西遊記に記載されている)からでてきた者がたくさんいる

仏について話すが、化身、報身、法身の三身は、衆生に基づいてできたものだ。衆生が仏と同じなら、分別しないだろう。皆は、自分の身分をはっきり知るべきだ。こうすれば、間違った道を歩くこともない。光を見るのは必ず菩薩だ。すでに法界に入ったからだ。一般に言われるような目を閉じて、輪に穴をあけて光を見る事ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対にこの様ではないと強調した。物事をありのままに見るのは、禅定から見るのであり、この種の禅定には、持戒をはっきりと理解する必要がある。世間には、仏法に似ているが異なるものが多くある。皆はもう少し慎重になりなさい。

お経には「正等円満な仏果を求める修行者は、諸法の甚深なる空性という因を繰り返し修習する必要がある」と説かれる。よって、自分が仏であると執着をもって言い、何代目の宗師であると言うなら、これは間違いなく問題がある。この因を作らないなら、どうやって、この果を得るのか?諸法の甚深なる空性を繰り返し修習した時、どうやって輪廻の因果を修持したらよいのか?この中には矛盾がある。一方で空性を語り、一方で因果が現れたのだが、どうやって処理したらよいのか?釈迦牟尼仏が仏の境地に至った時、やはり九つの難があった。どのようにこの事に向き合ったらよいのか?

お経に説かれるが、一切の実相の真の意義をまだ悟っておらず、現在現れる自分の一切を浄化できていない間は、この様な因があれば、必ずこの様な果となる。この間に、因果は絶対に真実で嘘がなく、ほんの僅かの差もない。だから、我々は悪を断ち切り善を行なわなければならない。法相、空性を体得しておらず、実相の本当の意味を理解する以前は、100%、因果法則にどんな疑問も持ってはならない。駆け引きの空間は絶対にない。善行をすれば、悪を抑えることができると思ってはならない。絶対に抑えることはできず、それぞれ別々だ。皆がこのようでないなら、後の法門も修することができない。因果を深く信じない者は非常に恐ろしい。なぜ恐ろしいのか?それは、生死から解脱できないからだ。因果を信じない者は、どうやったら、学び修する事が未来の助けとなることを信じられようか?

現在起きたあらゆる事は、過去にしたことだ。向き合い、受け入れなければならないのではない。それらを起こさせたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆に「縁に随えば通り過ぎる、出遭ったなら落ち着くこと」と説いた。この一生は、よい縁、悪い縁のいずれも過ぎ行くものだ。止まったことはない。よい縁が止まって、あなたに一分でも多く享受させることはない。縁が消滅した時、消えて無くなる。悪い縁も同じだ。必ず過ぎて行く。あなたの苦しみを一秒減らすことは不可能だ。縁の力はまだ尽きることがなく、やはりある。「出遭ったなら落ち着くこと」とは、どんな事、環境、過程に出遭おうとも、あなたの心をそこに落ち着かせるという意味だ。仏菩薩が我々に教える仏法に心を落ち着かせる。仏法とはなにか?それは、執着しないように、因果を信じさせるものだ。

もし、苦しみの中にいて、あなたが因果を受け入れられるなら、非常に積極的になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ご飯を食べるお金のなかったあの一年、心はとても明るかった。なぜか?それは、過去世で貪った果報が、リンチェンドルジェ・リンポチェに、この一世でご飯を食べさせずに返済を終わらせたからだった。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日一食のご飯を食べ、大礼拝をしていたが、身体に悪いところはなかった。それは、気持ちが違うからだ。あなた達なら、今日ご飯を減らしたら栄養が不足したと考え、次の日も栄養が足りないと自分に言い、三日目も同じだ。こうしてずっと栄養不足が続く。

あなたが今日、お腹を空かせているなら、絶対に因があることが分かる。リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関をした時に、2~3日食事がなかったことがあった。それは、食事担当の者が交替した時に、次の者に、その部屋には閉関している者がいることを引き継ぐのを忘れたからだった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは食べられなかった。もし、これがあなた達だったら、大変な事になっていただろう。ご飯を食べないで、どうやって何日も我慢するのか?ある弟子も試したことがあった。ご飯を届ける者が場所を間違って届けたからだった。多くの事が自分の過去の因と関係がある。あなたが修行する時、これらの事が出てくるので、修さなければ、修行が遅れてしまう。修行を始めると、すぐに何かが起こる。元々、あなたのお腹を10年間すかせようとしたが、あなたが修行したので、2~3日で済んだ。1ヶ月の時もあるが、それで返済を終えることができる。

物惜しみをして貪欲であるなら、必ず果報がある。以後は、他人が供養するのを止めてはならない。彼がどの様に供養するかは、彼の縁だ。人があなたに意見を聞いたなら、随喜と言ってはならない。随喜とは、人がよい事をしたのを見て、あなたがとても嬉しくなる事だ。人があなたに聞いた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前説いたことがあるが、あなたが最初に決めたのだ。もう考えなくてよい。また考えたら、後悔することになる。我々が法性を理解する以前は、必ず、悪を断ち切り、善を修さなければならない。絶対に妥協は得られない。仏法を学べば、全てがよくなると思ってはならない。そして、今から仏法を学ぶので、悪い事は全て自分に下さいと自分に言うべきだ。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが修行を始めた時、いつも本尊に祈っていた。「死ぬことが自分のためになるなら、私を死なせてください。病気が自分のためになるなら、私を病気にしてください。健康が自分のためになるなら、私を健康にしてください」と。自分のためになるとは、どんな意味なのか?それは、負債をすっかり返すということだ。あなた達には言えないことだ。皆は「観音様、私の身体がよくなりますように。私の主人が言う事を聞いて、私と一緒に仏法を学ぶますように。私の息子が早く仏法を学びに来ますように」と言う。お経にはこの様な事は説かれていない。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェの進歩はこんなに早いのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは馬鹿だからだ。あなた達が言えない話をする。皆はまねしなくてよい。言った次の日に本当に死んでしまうかもしれない。あなた達は学ばなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはただ、あなた達と修行者の差異がどこにあるのかを説明しただけだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩に向かって、「私は発心した!私の修行を成就させるために、あと数年長生きさせて欲しい!」というような話をしたことがない。多くの者はこう言っている。こんな事を言えば言うほど、早く逝く事になるかもしれない。道理はどこにあるのか?元々、あなたが願わないなら、福徳はゆっくりと積み重ねられる。だが、あなたが願えば願うほど、この一生でその果位を成就しないのが明らかなので、怨親者はどうして恐がらないことがあろうか?あっさり、あなたを生かしておかず、皆と一緒に逝かせるかもしれない。だから、皆は、願ってはならない。仏菩薩を脅して強く願ってはならない!あなたにこの器量があり、因縁果報が十分なら、自然に現れる。聞く事もする必要はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法を学び始めた最初の日から、法座にあがって修法するとは思ってもみなかった。自分がある日、リンポチェになるとは思ってもみなかった。考えたことがなかった。この願いをしたこともなかった。だが、因縁が熟して、現在のこの様子にならざるを得なかった!仏法を学ぶ事はとても自然だ。これは、宇宙の自然な法則—因果があるからだ。このような因があって、このような果が得られる。これは必然だ。あなたが仏法を学び始めただけで、未来には必ずこの果を享受することができる。いつかは分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェも分からない。仏も分からない。なぜ分からないのか?それは、あなた達の心が随時変化しており、変化すると少し遅くなるからだ。衆生を変化させないでおくことは難しい。これは簡単な事ではない。

皆は、今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの説いた仏法をはっきりと理解しなさい。説いた内容は、絶対にリンチェンドルジェ・リンポチェのためでも、寶吉祥仏法センターのためでもなく、皆の未来のためとなる。未来は、あなた達みんなの手中にある。あなたは、今日教えた仏法を掌握でき、話を聞き入れることができる。聞いて理解するか、理解できないかは重要ではなく、聞き入れることはできる。しかも、リンチェンドルジェ・リンポチェが説法する過程において、あなたが拒まなければ、今日、あなた達に与えた加持は非常に大きなものとなる。もし、説法の過程においてあなた達の心の中に疑問が生じ拒むなら、加持はほんの少しになる。拒む事は疑問である。つまり、仏法に懐疑的である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは再び強調した。仏法は、リンチェンドルジェ・リンポチェが創造したり考え付いたものではない。上師と釈迦牟尼仏の教えに依るものだ。このような法があって、このように説かれる。加えたり減らすこともなく、加えて、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身が経験者である。修業の経験によって、仏法には確実に虚偽はなく、間違いがないことが証明される。間違っているのは我々の心である。どんな事も文句を言ってはならない。全て自分の過ちなのだ。自分の問題がどこにあるかをはっきりさせなければならない。未来はいっぱいに広がる光明であり、願わなくても全て好転する。ただこの様にするだけでOKだ。一日中、山のような願いをずっとする必要はない。山のような願いをしても実行できない。毎日何を祈っているのか?ただ時間の無駄使いだ。この時間があるなら、仏名を数多く唱えた方がよい。リンチェンドルジェ・リンポチェも、A4の紙を持って毎日唱え、毎日願い、山のような回向をしている者を見たことがある。最後にはすべて役に立たなくなる。今日の説法はここまでとする。

法会は円満に終了し、弟子達は、殊勝な説法をしてくださった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに、声を揃えて感謝をした。その後、起立をし、法座から下りられた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。

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2014 年 11 月 03 日 更新