尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2012年9月9日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催されて、そして大衆に貴重な仏法の開示を与えた。
法会が始まる前に、ある女性の弟子は父親が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに施身法で済度されてもらった経過を分かち合った。
彼女は7月28日の土曜日の午後に家族に父親が亡くなったニュースを通知された。その時に、彼女は非常に不思議だと思っていて、なぜならば、父親が火曜日に桃園から屏東に帰ったばかりで、また、その前に身体が調子が全然悪かったこともなかった。糖尿病に長年に罹っていた以外に、67歳の父親の身体が丈夫であり、また、常に外出してアルバイトをした。が、父親の亡くなったことがこのように突然にできて、彼女にこれがリンチェンドルジェ・リンポチェが常に法座で開示された「無常」であることを体得させた。
彼女はすぐ壇城の上のリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に向いて頂礼し、リンチェンドルジェ・リンポチェに父親に助けてくれることを祈った。その上、兄弟子に父親が往生したことを連絡した。また、家族に父親の身の回りで泣くことをしないと連絡した。電話をした後、彼女はすぐに荷物を片付けて、新幹線に乗って屏東に帰った。新幹線で、彼女は真言を唱え始めて、父親がリンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いて、また、リンチェンドルジェ・リンポチェが父親の頭の上に慈悲に加持することを観想した。道中、彼女の気持ちがとても平静であり、リンチェンドルジェ・リンポチェが父親に苦しみを離れることを助けてあげることを深く信じた。
屏東の実家に帰って、彼女は父親の口の中に先に甘露丸を入れて、その上、父親に恐れないで、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を助けてあげることを話した。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示された方法に基づいて、父親のために真言を続けて唱えていた。8時間後に、父親の顔色は赤くて艶々していて、表情が落ち着いていて、安穏に熟睡するように見えた。
翌日、遺体を検査して服装を換えた後、彼女の父親の体に依然に遺体の斑が現れていなかった。彼女は父親の口の中に再度甘露丸を入れた。30分後に、彼女は父親の顔が微笑んでいたことを見て、前に、応急手当をして挿管されて残った広くて白い斑もピンク色に変った。棺桶が運ばれて着く直前、彼女は向こうの山に虹が現れたことを見て、瞬間で一回雷が鳴いて、また、急に雨を数分間降っていた。このような瑞相を見て、彼女の心の中にリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生が苦しみを受けていることを惜しむ大慈悲願力と仏法の殊勝さ及び偉大に深くて感謝した。
彼女は7月30日にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することを申し込んで、翌日に、8月5日に施身法法会を行うニュースをもらった。彼女は平日に上師に常に褒め称えていないで、教法に従ってしっかり実行をしないので、家族にリンチェンドルジェ・リンポチェと仏法に恭敬心及び信心を起こさせないで、だから、彼女の家族は彼女と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行かなかった。その時に台風が台湾に来られて、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したことがあり、台風の中に多くの衆生がいて、彼女はそれらの苦しみを受ける衆生も済度をもらえることを望んでいた。8月4日に、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する時に、父親が施身法の済度をもらえることを祈った。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェは身体の調子が良くないけれども、依然として疲労を顧みないで、衆生に一切な苦難を解決してあげた。が、翌日、リンチェンドルジェ・リンポチェは依然として命が要らないで衆生の為に施身法を修めてあげた。大慈大悲のリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、施身法法会のときに、無数な苦しみを受ける衆生が苦海を離れることを助けた。
彼女は喪に服する時期間に、家の中に哀悼の雰囲気が少しも無くて、弟さえも父親の顔色がこのように赤くて艶々していることを賛嘆した。父親が火葬した後に、頭蓋骨が完全であり何もひび割れがないで、上にまた七彩の色及び綺麗な丸のような穴があった。火葬場にいる時に、彼女はこのように進出されるご遺体が多く見ても、この中にどのぐらいの往生者が済度されてもらえたのでしょうか?彼女は自分と家族がリンチェンドルジェ・リンポチェの加持と済度をもらえて、とても幸いだと深く感じる、が、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に何も求めない。彼女は自分の良心に尋ねてみて、自分が如何に上師に親孝行をしているのか。彼女は恥ずかしくて懺悔すると感じた。毎回、兄弟子は親友が病気に罹った時にリンチェンドルジェ・リンポチェの助けをもらって、あるいは、ある者が往生してからリンチェンドルジェ・リンポチェに済度されてもらったことを分ち合ったことを聞いて、皆の心の中に最も心から一致の感想が、幸いに我々がリンチェンドルジェ・リンポチェがいて、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。
実は、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの家族が用事が発生することを早めて知っていて、6月分に道場のチームが会食する時に、組長はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の家族への関心を伝えて、彼女の家に何があるかを尋ねた。彼女はその時に「大丈夫である」を愚かに回答した。その後、ただ心配していて、両親をはやくて連れでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することを思っていないで、父親に苦しみを受けさせて、彼女は深くて懺悔した。人身は得難く、仏法は聴聞し難く、上師とは邂逅し難しいである。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェにしっかり従って仏を学んで輪廻の苦しみを解脱して師恩と仏恩と両親恩と衆生恩に報うことを発願した。
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご身体は健康で、仏法事業が栄えていて、法輪を常に転じて、十方法界の一切有情を利益することを祈願した。服喪する期間に兄弟子達の親切な助け、及びいとま請いをせず苦労して遠路で屏東に来て告別式に参加することに感謝した。
それから、もう一人の弟子は彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する経過とリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女及び彼女の家族を助けてくれる事を分ち合った。
まず彼女は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、アチ仏母、直貢噶舉の歴代の祖師法王に感謝し、彼女に今日機会があって皆にリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女と家族に助けてくれることを分ち合わせた。
彼女は2011年9月4日の日曜日にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、また、法会に参加できることを求めた。9月11日に、彼女は始めて共修法会に参加し、その日に、法会が終わった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは三皈依を伝授して、予め皈依を求めた信者にリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子にならせた。彼女は事前に家族に皈依できるかどうかを確認していないで、しかし、彼女は自分の目でリンチェンドルジェ・リンポチェが土曜日から信者を接見し、その日にすべての信者を接見して終わらないならば、日曜日に法会が終わってから続けて信者を接見することを見て、このように疲れて慈悲である。また、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの法会の開示を聞いて、リンチェンドルジェ・リンポチェが実修実証している具徳な上師をであると感じられて、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学ぶことが間違わないはずである。だから、彼女はその場で皈依を跪いて求めた。慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェも同意した。皈依儀軌の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェは人々にすこしの髪をカットし、出家を代表し、しかし、決して出家者の出家ではなくて、上師に従って六道輪廻の苦しみの家を出離するのである。
皈依した後、彼女はすぐに皈依証をもらえて、皈依証の上にリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真がある。法名をまだ命名してもらっていない期間に、彼女の姑は2週間の内に足を転落して傷づいて、2回目の手術を受けた。2回目の手術を行った後、彼女の姑は目が覚めていないで、逆に、手術室のICUに送られた。病院は彼女の夫に多くの書類を署名させて、その上、彼らにもし翌日に彼女の姑が目が覚めていないなら、永遠に昏迷しているか葬式を準備しておくかもしれないと通知した。その夜、彼女は皈依証を戸棚の上に置いて、リンチェンドルジェ・リンポチェに跪いて彼女の姑を助けて、彼女の姑に目が覚めさせることを求めた。翌日の10時にICUが開放されて、彼らは看護婦が彼女の姑の家族を呼んで病床の側に着いてもらうことを耳にして、患者が病室にもどるわけだ。彼女と彼女の夫は嬉しくて泣いて、意外にも、ただ皈依証の前に跪いて求めても、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の求めを聞いて、彼女の姑に血色素がとても低い場合に、依然として意識を回復することができた。これは彼女が始めてリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲を見た。ある新しき皈依の弟子は如何なる供養と払いをしないけれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは観世音菩薩のように声を聞いてから苦しみを救って、彼女の姑を救ってくれて、彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深く助けにとても感謝させて、同時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの素晴らしさを見せた。
法会に参加する回数の増加に従って、リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法開示及び兄弟子達の分ち合いを聞いて、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが具徳であり、衆生に苦しみを離れる能力がある上師を深くて感じられる。一回、法会の中に、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いて、かつてある兄弟子の夫が往生した後にまだ罣礙があって、彼の奥さんが銀行のATMのパスワードを知っていないことを気にして、リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力は亡者が何を考えることが分かるので、亡者の奥さんにこのことを話した後、はじめてその亡者はなにも罣礙がないでリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受けた。彼女はこの開示を聞いてから、リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲心を大能力に深くて感動されて、帰宅した後、夫と一緒にこの開示を分ち合って、また、夫に何かがあったら早くて話して、後にまた上師に面倒をかけて彼女に銀行のATMのパスワードを教えることをしてはいけないと冗談を言った。これらのことが彼らの夫妻の雑談の内容になった。
リンチェンドルジェ・リンポチェの言行一致で、衆生を利益するために危険を顧みず払って度する。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を度する悲願は彼女に深く感動させて、だから、彼女は夫と相談し、家の中にある大塊の沈香木を上師に供養したいと思っている。彼女は夫に「我々は多くの業を作った人であり、今日、具徳な上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会えて、ただリンチェンドルジェ・リンポチェは我々の年寄りの母親が往生してから三悪道に堕ちないで、輪廻の苦しみを離れるように助けることができる」と解釈した。彼女の夫は聞いてから、彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェに供養することを反対していなかった。そこで、宝石店で買った翡翠観音及びあるある取引の所得の4四分の一現金を持って、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに供養した。
2012年4月28日、つまり浴仏節の当日、彼女は供養金と沈香木と翡翠観音を持ってリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の手に多くの大塊のものを持っていて、彼女に「これは何でしょうか?」と尋ねた。彼女は「沈香木」と回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたはどんな企みがあるのか。」と再度尋ねた。彼女は「ない」と速く回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは他の兄弟子に指示して沈香木の包装を開けて、その上、兄弟子に沈香木の真偽を調べることを指示した。兄弟子は包装を開ける時に、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに「リンチェンドルジェ・リンポチェ、これが真偽であるかどうかに関わらず、私の心が本物である」と報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「もちろん、そなたの心が本物だと信じている」とすぐに答えた。彼女はすぐ感動して止まなかった。同時に、彼女も兄弟子が「この沈香木が本物だ」と回答することを聞いた。その時に、彼女の心の中にもし一切衆生にかわって供養できるならば、どんなによいだろう。意外に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の心の中の考えを聞いて、意外に彼女に「よい。衆生にかわって供養しよう」と言った。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがこのように素晴らしさを本当に信じられない。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く翡翠観音と現金の供養を受けて、その上、慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは数位の弟子にこの沈香木を道場の壇城において仏に供養することを指示し、彼女に毎週の日曜日に道場に着くと随時に友人を見える。
リンチェンドルジェ・リンポチェに供養した後に、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに一つの問題をお伺いを立てた。彼女は「リンチェンドルジェ・リンポチェにとても申し訳ない。私の仏堂は毎週の火曜日に顕教の蓮友に共修することを提供する」を報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは「私に申し訳ないことがない。諸仏菩薩に申し訳ない。私は自身の経歴にてそなたに話して、私は法身大士を証する前に退転する可能性があり、直貢チェツァン法王はいままでも私が説くことを観察し、仏法が修めるのであり、討論するのではなくて、一言が間違うと、500世にキツネに成らなければならない。彼らは仏寺に行って、修行している法師を見付かって仏を学ぶはずである。そなたはやはり自分をよく修めなさい。」と開示した。突然、リンチェンドルジェ・リンポチェの顔に怒目金剛の相を現れて、彼女に「そなたははっきり聞いたのでしょうか?そなたは本当に分かるのでしょうか」を厳しく尋ねた。その時に、彼女はすこし恐れがないで「はい、はっきり聞いて、よく分かった。帰ってから処理する。」と回答した。
彼女は供養し終わった月曜日の朝、彼女は妹を母親をつれて一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することを誘って、意外に、彼女の妹はきっぱりと承諾し、前のまたみてまてみることをいつも言うのではなかった。それからの火曜日、彼女のある得意先は殆ど1年近くの借金の200万台湾ドルを彼女に返した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを本当に感謝した。一週間以内、彼女の弟と妹は道場に来てリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見してきて、最も信じない弟も彼らに速くて道場について彼らに待った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の脳卒中のお母さんにも加持し、病状に再び悪化させなかった。彼女はただ具徳の上師が我々に転業させることを助けられることを本当に感じて、その上、彼女に転業をしてくれて、多くの苦難を減らした。彼女は自分がひどく幸運な具徳上師の皈依弟子になることを感じた。
具徳上師の加持があるので、彼女の問題にすべて解決させられて、生活がだんだん安定した。彼女は5月25日、日本京都寶吉祥道場で行って、リンチェンドルジェ・リンポチェに主催される不動明王火供法会に参加する機会をもらったことをとても幸運だと感じた。彼女は日本道場の荘厳と環境の優雅さを見て、ただ上師の福慧双修の功徳力及び福報なのでこのような完璧な道場を造られることを賛嘆した。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示により、彼女はやっと不動明王の由来を知った。上師は不動明王の仏像の手配は彼女に非常に感動させた。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法する時の悲心と疲れが参列者に感動して止まなくならせた。連続の2時間に、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずに右手で火供の様々な供品を参列者に伝えて、参列者に順番で供品を火に投げることをさせた。普通な人間に対して、同じ動作が2時間で連続して必ずとても疲れて、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは如何なる疲れる様子を現れなかった。彼女は上師に彼らに火供に参加して福報を累積させる機会を与えることにとても感謝した。
ある兄弟子は彼女に上師が過去世で修行した寺の曹渓寺を行くかどうかを尋ねて、彼女は前月に彼女が日本に行ったので、彼女の夫は彼女が再び出国することを必ず同意しないと思っていた。彼女は帰宅してから彼女の夫に兄弟子は昆明の曹渓寺に組団していって、上師が過去世で修行するところへ訪問し、総計が8日が必要だと話した。意外に、彼女の夫は「行こう、早く行こう、行けない時に、あなたは後悔になる」と話した。彼女は上師の功徳力が再度彼女に加持して、彼女の夫に彼女の曹渓寺の旅を同意させることをまったく考えなかった。曹渓寺にいって、観音の籤を絶対に求めた。彼女は40籤の「上」を求め得て、この籤が曰くのは彼女のいまの状況で、彼女はすでに具徳の上師を見付かって、上師に努力して依止し、教法によりしっかり実行し、浄土にいけるのである。
彼女の姑は仏を信じていないで菜食もしないで、彼女は姑が彼女にあるお金を姑にかわって上師に供養し、姑の福報を累積し、彼女が往生する以降に三悪道に堕ちないことを望んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェに慈悲は本当に感謝し、なぜならば、翌週の月曜日に、彼女の長男が出勤して商品を送る途中に、道である6、7ヶ月に妊娠している妊娠婦が運転する車と衝突し、二人の車が全てぶつかってぼろぼろになって、しかし、二人がすべて平安で無事で、何も傷がなかった。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救難に感謝し、彼女の息子に危険な状態を過ごさせた。
翌日火曜日、彼女の家の下の警備員は彼女の末っ子に知らせて、四階である会社は応募しているから、息子に面接に行くと言った。彼女の末っ子は軍隊から戻って一年過ぎだが、自分が仕事を探しても友達に紹介させても安定に仕事できない。思わず、今出勤や退勤も交通費が一銭でもかからない。若い人にとって、仕事があって勉強できるのは激励である。彼女の姑にとって、孫は家を出て職場に入って仕事するのは一つの慰めである。彼女は此れが唯偶然だと信じないが、家の中に発生する転換は全て上師が賜れた。慈悲な上師は年寄りが子供への心配及び希望を分かる。彼女は一家でもリンチェンドルジェ・リンポチェの加護を受けて、如何なる尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝するのは分からない。
この一連の奇跡は彼女及び家族に発生されたが、彼女に尚更にリンチェンドルジェ・リンポチェは本当に一般人ではなく、菩薩であると感じた。彼女は自分の仏堂で写真を取って、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する時、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに報告して、自分が既に蓮友との共修を止めて、またリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の仏堂の仏像のためにあらためて開光を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは数人の兄弟子に指示して、先に彼女の仏堂に行って仏像は装蔵できるかどうかを検視させた。
彼女の兄弟は今年の法会に参加して、リンチェンドルジェ・リンポチェと次の仏を学ぶ種を撒けて、彼達は将来必ず因縁があって、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学べる事を深く信じた。しかし、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェへ深くお詫びだが、彼女の兄弟は菜食しなくて、仏を信じなくて今回も初めて大法会に参加した。だから、彼女の兄弟に関わる衆生は必ずリンチェンドルジェ・リンポチェの睡眠を妨げた。リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、慈悲に許してくれるのを願った。彼女も上師が苦労に法会を行なって、彼女の家族に機会があって救えるのを感謝した。
彼女もリンチェンドルジェ・リンポチェ及び先輩兄弟子の貢献を感謝して、このような快適で荘厳な道場を提供して、兄弟子達に徳を具える上師リンチェンドルジェ・リンポチェに仏を学べる。彼女も賛嘆して言ったが、今日このような功徳力の上師に出会って、止らなくて衆生を利益して命でも捨てられて何も報いを求めない。彼女は以下に言ったが、自分は現在の因縁を大切にして、生々世々に永遠に尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学んで、上師リンチェンドルジェ・リンポチェが教えた正信及び正念仏法で日常生活の中に活かして悪い念を改正して間違い行為を修正して、自分の力を尽くして尊き上師を供養して、道場を護持して、直貢噶舉の法脈に常に此の世に存在させる。最後、彼女は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがご健康、法輪は常に転じて、仏法事業は円満に思いの通りに行って、無辺無量の衆生を利益する事を祈った。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法席に昇った後に開示された。数週間前に弟子が上師に依止して具えるべき十箇条の八箇条を開示された。今日引き続きに残った二箇条を開示される。ガムポパの教導により、第九条は「ちっとも恨みがない安忍で善知識に依止すべき。」現代人は仏を学ぶのはとても可笑しくて、始めて上師の教導を聞き、上師が教えたのは全て従わなければならない。しかし、1年や2年後始めて自分の意見がある。例えば前回皆に説明した例、ある歯医者は法師に言って、「師父、貴方はこのように言ったのは間違いました。この事はこのようにすべき。」この弟子は上師に依止して具えるべき条件を具えない。
そなた達は常にリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達を誤解して理解しないと言った。そなた達は自分がこの意味ではないと解釈して、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲ではなくて、自分の解釈を聞かないと文句した。何故リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達の解釈を聞かないだろうか。そなた達は解釈すると、自分が正しくて、上師が間違いと現した。皆は嘗て子供になったが、子供は毎回過ちを犯した時、両親に責められると、子供は全て他人の間違いと言って、決して自分の間違いを承認しなかった。上師はそなた達の解釈を受けないが、此れは独裁がいいと言えない。その代わりに上師の要求、指摘、叱責は全てそなた達のため、何故上師はこのように行ったのはそなた達にいいだろうか。それはそなた達がある欠点を犯した。それは自分を愛して、一心に自分を守るしか考えない。自分は無実の罪を受けなくて、つらい思いも受けなくて、損なわれないと思った。若し上師に無実の罪を着せられても我慢できなくて、必ず解釈する人なら、如何なる安忍を行えるだろうか。上師が自分を分からなくて誤解すると思う人は心にまだ貪、瞋、痴があって、上師に恨み、憎みがあると表した。
この道場でそなた達はある若い人は法会に参加する時、あぐらをかいて床で座布団に座りたくない。その代わりに自分が椅子やいくつの座布団を用意して、高く座ってとても快適だ。チベットで法会に参加する人は太陽の下で芝生に座ったが、そなた達のように全ての人は座布団があって座るわけではない。更に冷房がある。台湾で生まれた人はとても幸せだ。台湾で最も貧乏な人でも他の国の貧乏な人よりよく過ごした。極めて快適に過ごすから、余り教えに従わない。
そなた達は自分の体が悪いと思うかもしれないが、足が痛いや傷付けるのを恐がりたくて、自分に痛みを感じさせない。しかし、考えないのは実は体が一回を痛めば、債務を一つ返済した。我々は累世に業をいくつ作っただろうか。冤親債主に債をいくつ借りただろうか。我々が返済する必要がないわけではないだろうか。若しそなた達は現在返済したくないなら、死んだ後地獄に堕ちて返済する。そなた達は私が地獄の状況を分からないと考えるかもしれないが、実は本当に地獄に堕ちるまで待たない。そなた達は亡くなる前に分かれる。現在の人は臨終の前に、病院で挿管されて切らせて或いは割られるが、そなた達が思った医療行為だが、実は地獄に堕ちる前の兆候である。そなた達は医師を責めない。此れは全てそなた達の業力だ。《地蔵経》に記載されたが、肉を食べる事が好きな人は切る、割る、刺す地獄に堕ちる。例えば、ICUに臨終する人が受けられた医療の苦しみのようだ。
法会に参加するのは快適に座って仏法を聞くためではない。そなた達は通常にいい日々を過ごしていることを慣れるから、仏法を聞くのは快適を要求して、僅かな痛みでも我慢できない。例えば先程皆に分かち合った弟子が言ったとおり、この道場は実はとても快適だ。法会の中に床で座布団に坐って僅かな痛みでも我慢できないなら、そなた達は何を我慢できるだろうか。50歳以下の人、若しそなた達は痛みを我慢できなくて、快適に座りたいなら、そなた達はもう来ないで。そなた達は別の道場に行って仏法を聞けばいい。台湾の南部と北部でも道場がある。あの場所ではとても快適なソファーに座れて、ソファーに背中をもたせかけて全ての席の前に小さい机がある。台上の法師は仏法を説く時、そなた達が好きなことを話すと、そなた達も起きて拍手してもいい。好きではないなら、引き続きにソファーに背中をもたせかけてもいい。勝手にしてもいい誰でもそなたを責めない。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが余り独裁的ではないと言うかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは独裁ではないが、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが行ったから、体の痛みを我慢できる。
リンチェンドルジェ・リンポチェは高くて座ったが、唯法席が高いだけ、同じであぐらをかいて座った。体調はそなた達より尚更に酷い。ある西洋医の弟子が報告したが、リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎はS型脊柱側弯で、X線写真から脊椎が酷く変形するのを見えて、押さえられて平べったくなって曲がる状況がある。更に神経と血管を圧迫して非常に痛い。脊椎とは両側の筋肉により骨が通常の位置を維持するため、脊椎が変形する時、バランスを取れなくて体を支えない。筋肉はアンバランスに引きとめる下に必ず疲労しやすくて傷付けやすい。人の体に於いて、上半身の重量は下半身より重いが、若し体の重量は唯ある側の筋肉で支えるなら、間もなく体が耐えないと発見する。S型脊柱側弯は酷いなら、大小便失禁或いは半身不随になる。一般人は5分間でも我慢しにくいが、間もなく穏やかに座れない。リンチェンドルジェ・リンポチェのように真っすぐに法席に座って仏法を長く開示して、法席から降りるとすぐ速めに歩けるわけではない。
他にはある傷科を専攻する漢方医弟子も報告したが、リンチェンドルジェ・リンポチェが腰椎の脊柱側弯で後ろに突き出た。部分の椎間板の距離が狭いから、長い間構成に両側の筋肉の張力がアンバランスなので、下半身の血液循環が悪くなって腰、足の痺れを起しやすい。通常に長い時間に座れない。尚更にリンチェンドルジェ・リンポチェのように長い間に法席であぐらをかいて、上半身は真っすぐにする言うまでもない。他にはリンチェンドルジェ・リンポチェが頸椎の位置をずらして、大椎が後ろに突き出てきついから、首部の血液循環を影響した。そうすると、首と肩はだるくてこわばりやすい。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのせいで体が不具合で行動に制限されない。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの右肩の関節組織が既に磨損した。一般的にはこのような状況がある人は手をあげて振るのは炎症や痛みを起しやすい。更に早めに回復できなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェのように大法会の中に甘露水をいっぱいつける吉祥草で全の会場で灑淨して、止らなくて手をあげて数十分間に振り続けるわけではない。
リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェの体調は何故法席で真っすぐに座って数時間に続けるだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェの法席で高い座布団もなくて、そなた達もリンチェンドルジェ・リンポチェの体調が不具合な様子を見えない。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの心がとても強いと言うかもしれない。勿論此れは心の強さに関わるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ肉身があって、神経があるが、感覚もある。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは何故肉体の痛みに影響されないだろうか。或いはそなた達はそう言うかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが既にリンポチェの果位を証したから、そなた達は唯凡夫だが、勿論そなた達と違う。しかし、たとえリンチェンドルジェ・リンポチェは既にリンポチェの果位を証したけど、リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらずそなた達と同じで、信者の身分から始めて仏を学んで修行した。
リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学ぶ前、二十数歳の時に脊椎は問題がある。嘗てある医師はリンチェンドルジェ・リンポチェに言って、当時脊椎の状況により、50歳以後リンチェンドルジェ・リンポチェの頭が低くて垂れて挙げられないかもしれない。しかし、仏を学ぶ事を通して、リンチェンドルジェ・リンポチェは全てを変えた。仏を学ぶのはそなたの病気を治るため、そなたに事業の順調や家族の間に仲良くさせるためではない。そなたにいい日々を過ごすわけではない。多くの人は真言を唱えて、仏を拝めば債を返済すると思うが、本当にそうすれば、何故リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎は相変わらず問題があるだろうか。皆の欠点は極めて自分の体を大切にするが、自分を愛すれば愛するほど問題が多くなる。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは苦しみを耐えるだろうか。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じるから、快適に日々を過ごせば債務を返済できない。債務を返済するのは我々の肉体で返済しなければならない。此の世に債務を返済しないと生死を解脱できない。法会に参加して高い椅子を座って快適を求める人は「ちっとも恨みがない安忍で善知識に依止すべき。」を行えないから、法会に参加する時、足がわずかな痛みでも受けたくない。
「ちっとも恨みがない安忍で善知識に依止すべき。」とは我々が善知識に依止する時、ナーロパ大師が十二苦行を修めるように、難しくて忍びでも忍んで、難しくて行っても行う。当年ナーロパはティロパに依止する時、ティロパはナーロパに指示して、盗むや妃にみだらないたずらをしかけるや断崖を飛び込むなど苦行をする。ナーロパはその通りに従って行った。当然リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達にこの事をさせるわけではない。若しそなた達に指示して行えば、そなた達はどんな批判な言葉でも言えるが、仏を誹謗するかもしれない。
上師に依止する第九条の意味は主な皆に知らせて、世間に於いて混乱するのは皆が煩悩、執着が多すぎで他人の問題しか見えないから。仏を学ぶのは他人の問題をはっきりに見るだけではなく、自分の問題もはっきりに見て、全ては因果であるのを分かる。古代の人は先生を尊重して、先生の教え方が何でも批判しない。現在の人は先生を尊重しなくて、先生を先生としてみない。先生が教えた事はそなたの要求を満たせば先生である。そなたの要求を満たさないと鼠になって、つまり嫌われ者になって誰でも打つことを叫んで、ちっとも先生を尊重しない。ある者がリンチェンドルジェ・リンポチェに教示を求めて、彼達の既に亡くなった眷属は済度を受けた後どの道に往生したか。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に返事しなかった。それは《地蔵経》にはっきりに説かれたが、亡者がどの道に往生するのを分かるため、眷属は亡者のために沢山な布施をしなければならない。如何なる簡単に一つの問題を聞くわけではない。此れも仏法に敬わない。
現代社会の人は特に20歳から35歳まで、事をする時心を散らしやすくて、集中できない。それは彼達が受ける刺激は昔の人より多すぎだ。夜にドラマを見た後、インターネットでチャートした。チャートした後また携帯電話を見る。特に現在スマートフォームが流行っているが、スマートフォームを使う事が好きな人は朝起きると、先に携帯でメールがあるかどうかを見る。暇の時携帯を押すことが好き、脳神経に止らなくて刺激を受け続けて休めない。そなた達は携帯を使うのは唯小さい動作だと思うかもしれない。しかしよく考えると、そなたは携帯でメールを転送してチャートする時、考える必要があるだろうか。眼力を消耗するだろうか。更に携帯も電磁波を発して、体に影響する。禅定と密法を修める修行者はこのような電磁波に影響されないが、そなた達にとって、接触すれば妨げる。
仏法から見ると、この行為は引き続きに自分の心を放任している。更にある時に刺激な内容を見ると、呼吸が速めにして、嫌い事を見れば、心拍動も速めにする。この行為はそなたに寿命を減らせる。仏は現在人の寿命は減るの段階であると説かれた。本当にそうだが、スマートフォームを使う事が好きな人は必ず寿命を減る。リンチェンドルジェ・リンポチェはようやく何故寿命を減ると分かった。皆が行った事は修行者から見ると、全て自分を傷付ける。皆は現在平均寿命を増えると言うかもしれないが、実はそうではない。この世代の若い人は心を散らすことを慣れて、事をする時専念にしなくて、眼であることを見るけど、耳で他の事を聞いて、手で別の事を行った。こうすれば心を散らす習慣を養成して、事をしっかりに行うわけではない。
上師が行った事は全てそなた達を助けて尚更に専念させて、そなた達に自分の細かい過ちを見せる。脳神経に機会を与えて休まない人は心が集中しにくい。集中力は六識:目、耳、鼻、舌、身、意に連れた。此れも何故戒を守る事は極めて重要である。ある医師弟子は医学の角度で分析して、人の脳は通常外部の情報を受けているが、若し引き続きに刺激を受ければ、集中力を影響する。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きに開示されたが、仏を学ぶ事はそなた達に自分の欲望を満足させるではなく、そなたは好きなものを上師が取り、更に破壊する。そなたが嫌い事は上師が行ってそなたに見せる。それはそなたが好きなものは全ての煩悩、執着、貪念の開始である。そなたは嫌いものは一切瞋恚、憎みの開始である。上師がどんな事を行っても、そなたは安忍の心を維持しなければならない。安とは清浄な本性に安住して、わずかな欲望もない。忍びとは一般の忍耐ではなく、完全に受けて、上師がそなたに与える全てを受ける。
ある者はなぜ仏を学ぶのはこのような厳しいだろうか。この道場が嫌いなら、他の道場に行けばいい。どうせ阿弥陀仏であり、同じである。台湾は宗教自由の国であり、彼方此方に道場がある。しかし、阿弥陀仏は同じでも上師が違う。仏法に従う上師があるかどうか検視しなければならない。更にそなたは違う道場の間に彼方此方に行ったり来たりして、一心に上師に依止しないと、根がない浮き草のように仏を学んで修行しても根強くならない。古代人は修行して簡単に成就を得るのは心は雑念がなくて、上師に忠実で専念するから。ある真の徳を具える上しに出会うと、此れから従って、上師の一切加持を受ける。例えば先程開示されたナーロパはティロパに依止する物語のようだ。
数年前、ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェにオランダで弘法なさることを願って、時間はもう相手と約束しておいたが、直貢チェツァン法王もこの事を知っている。その時、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェがオランダに行くことを知っているが、依然としてリンチェンドルジェ・リンポチェにある事をやるように指示した。その上この事の時間が何度も変更して、前後3回変更した。リンチェンドルジェ・リンポチェはオランダに行って弘法するために、直貢チェツァン法王に時間を変更することを全然頼まなかった。もしそなた達に替えれば、一回、二回時間を変更すれば、そなた達はまだ受けるかもしれない。しかし第3回になると、そなた達は必ず直貢チェツァン法王に弘法する日程に言及して、自分が教派のために事をすると言って、航空券、場所賃借及び人力の手配が既に決まった理由を説明するであろう。だからそなた達は上師がそなたに要するすべてのことをやり遂げることができなくて、やり遂げにくいではなくて、やり遂げることができないのである。
もしできないならば、恨みが少しもない安忍(あんにん)をやり遂げていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、その時に何も言わなくて、直貢チェツァン法王が時間を変更することを全部受けて、心の中では別の考えがない、ただ上師がきっと自分に良いといのことだけを知っている。もしかすると、直貢チェツァン法王がこれらの手配をするのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何の事が発生するかもしれない。直貢チェツァン法王は暫くリンチェンドルジェ・リンポチェがオランダへ弘法しに行かせなくて、多分直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェがその時に行ったら死ぬことを知っているかもしれない。しかし、直貢チェツァン法王は原因を説明していないで、リンチェンドルジェ・リンポチェも聞いていないで、ただ言うことを聞いただけ。上師は経験がある修行者なので、弟子の修行する道中に最も解決する必要がある問題を知っているから、リンチェンドルジェ・リンポチェが恨みが少しもない安忍(あんにん)をやり遂げて、上師がきっと自分を利益するためとのことを知っていて、自分が弘法に行くのがとても重要だと傲慢に思っていることではなくて、そなた達であれば、必ず言い出すだろう、それに上師は恐らく忘れたと思うかもしれなくて、このような考えがあるのは、恨みが少しもない安忍(あんにん)をやり遂げていないのである。
それから、リンチェンドルジェ・リンポチェはある事を耳にした。以前、もう一つの教派は台湾で法会を開催するつもりであるが、教派の中の二人のゲシに台湾に来て翻訳を協力することを要したが、結果の二人のゲシがすべて自分がその他の弘法する日程があるからと言付けて、台湾に来ることを承知しなかった。それから、この二人はすべて状況が発生して、一人は重病に罹って、もう一人もとても深刻な問題が発生した。どうしてこのようになったのか。何故かというと、言うことを聞かないからである。上師は口を開いて、そなたはまたひと山の口実を探してやることを承知しなくて、自分で上師の加持を切った。別に上師はそなたを罰しなくて、加持が切れると、上師の保護ネットが消えて無くなって、そなたは自分の本業に従って進まなければならない。
仏は衆生の業、因により助けを与えるのである。もしそなたの考えはすべて悪であれば、そなたを助けることができなくて、仏菩薩と上師はそなた達の業を転じることができないからである。《妙法蓮華経》は、仏菩薩が衆生に様々な利益を与えて、衆生に仏法を受けて火の家を離れさせるが、しかし衆生は火の家の中で自分の玩具がまだ残っていると思い付いて、すぐ戻って家に入ったと諭された。玩具は何なんだか。そなた達の執着である。お経は、皆が自分の欲望を放縦することができないと指摘された。上師に対する心構えがもし変更していないで、仏を学ばないでください。もしただ誇らしい心があれば、自分が身分、地位、学問があって、上師の言うことを聞く必要がないと思って、それでは絶対に我慢することができなくて、我慢することができないと慈悲を修め得ることがありえない、仏法がなければ慈悲がない。
そなたの人生経験はどのようであるかに関わらず、もしそなたは上師にさえ我慢することができないならば、更にその他の人、事、物を我慢することがあり得なくて、それではそなたもこの社会で生存し続けにくい。そなたの心が清浄であれば、そなたはいかなる衆生を見ることも分別する心が無い。分別する心がある者は慈悲の心がない。もし清浄な本性に安住できたら、また自分の考えがあるのか?
上師に対する心構えはすべて我慢しにくいことを我慢して、受け取ることができないと感じても受け取る、そうすると上師の加持を得る。上師はそなたが弟子の条件を備えていることを見たら、上師はよくそなたの問題を選び出して、多くの手段を出して、様々な方法でそなたを試験してそなたを変化させて;或いはそなたがもうすぐ落ちぶれることを見たら、そなたを救ってあげる所、手段をも出す。もしそなたは言うことを聞き取るのであれば、そなたの事は多分それで転機があって、もし言うことを聞かないならば、仕方がない。上師もどうしてそなたが言うことを聞いてくれないことを見極めない。ただ上師は口を開いてそなたが受けないで、そなたは本業を回復してしまい、そなたの事業を指すのではなくて、本来の業力であり、未来そなたは自分の業力に従って暮らすのである。
リンチェンドルジェ・リンポチェは17歳から社会に出て仕事をし始めて、どんな人と事を見たことがないか。どんな手段が分からないことがないか。仏法上、リンチェンドルジェ・リンポチェはぜひとも手段をやり出す時に、手段がたくさんある。上師はそなたに対していつもにこにこしていて、そなたが救いようがないことを表す。一部の者は仏を学んで数年以降、好きでなくなって離れて、上師の加持力が切れると、本業に回復して、本来の業力が現前した時、また戻ってきて、リンチェンドルジェ・リンポチェに祈り求めるが、しかし定業が既に熟していて、業力を転じることに間に合わない。このような例は寶吉祥仏法センターではたくさんある。
ここ数年来、リンチェンドルジェ・リンポチェは陰暦の元旦に法会を開催して、しかし一部の人がいつも理由を探して家族が集まること、家族が意見があることを言って、来られない障害があると表した。そなた達のこれらの問題について、もし出家の上師なら、そなた達を言うことができないかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と同じに在家なので、母もいて、息子と娘もいて、依然として事を手配して済ませることができて、陰暦の元旦に法会を開催する。これで リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに菩提心を発して衆生を助けようである。恐らく一部の人はリンチェンドルジェ・リンポチェが供養を取るために法会を開催すると思っているかもしれないが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にそなた達のあの供養と言えないほどほんの少しの供養に気に入らない。
供養はただ財の供養を指すだけではなくて、金剛乗は、外供養、内供養、秘密供養など多くの種類の供養に分けられる。いわゆる秘密とは、隠れること或いはとても神秘的なので言うことができないのではなくて、一定の条件が必要である。この3種類の供養はそなた達がやり遂げることができるか。実はそなた達は本当に何をやり遂げることができなくて、そなた達はまた自分が少しのお金を供養したら、もう供養していると思って、自分がとても重要で、とても偉大だと思っているが、実は上師が本当にそなたのお金が珍しくないと思う。ある者は2,000万の現金をささげ持って供養しに来たが、しかし心が正しくないから、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け入れない。少し長く皈依した人はすべて知っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは返した供養金は、合計でおよそ2棟の豪邸の価値がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の供養心が正しいため、やっとそなた達のわずかな供養を受け取って、そなた達に福報を累積する機会があらせて、始めてそなた達が仏を学ぶ道の中の障害を取り除くことができる。
第十の条件は「凡庸相を以てではなくて、本尊相を以て、善知識に依止すべき。」である。これは、私達が善知識に依止する時に、どんな時でも、上師に対して、「普通で凡庸である」という考えを持たないでください。「上師を仏陀如く見なす」としなければならない。
上師に依止するこの条件が私達に教えるのは、上師と本尊が無二無別で、上師を仏陀如く見なすべきである。上師に対して我慢しないため、ようやくたくさんの考えがある。もし上師を凡夫とするならば、ただ凡夫の加持を得るしかない。上師を仏と見なすと、仏の加持を得ることができる。もし上師が本尊とするならば、自然と上師の諭したすべての話を聞き取る。いわゆる「福至れば心霊なり」であり、多くの人はすべてこのような経験があって、そなたの福報が足りない時、事を思い間違ったり、やり間違ったりして、話さえも聞き間違うのである。どうして上師の言う話も聞き間違うのか。何故かと言うと、この10ヶ条件は完全にやり遂げていないからである。そなた達がどうしてリンチェンドルジェ・リンポチェの開示の内容を覚えていなくて、耳に入らないの原因も。この10ヶ条件をやり遂げていないからである。弟子が上師に依止するこの10ヶ条件をやり遂げてから、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの指示をよくしっかりと覚えて、忘れることはありえないのである。
上師は皆と条件を話すのではなくて、学生が入学して入学する資格に合わなければならないと同じように、弟子とするやり遂げる標準が必要である。金剛乗上師の願力が生々世々なので、たとえ弟子がこの世に業力があっても、ただこの10ヶ条件さえやり遂げれば、全て無事に過ごすことができる。金剛乗の上師と歴代伝承上師は全て、そなたが成仏する前の生々世々に、そなたを加持する。発する願は諸仏菩薩、上師と同じであれば、願力は業力が一時停止するまで大きくなると、重罪の報いを軽く受けるようになって、弟子をこの世に依然として引き続き機会があって仏を学ばせる。まさに祖師ジッテン・サムゴンがリンチェンドルジェ・リンポチェを2回も救ったように、それは過去世にリンチェンドルジェ・リンポチェが既に直貢噶舉派に接触したことがあり、その上この10ヶ条件をもすべて修め得て、直貢噶舉派の弟子であることを表して、さもなくばその時に恐らくもう交通事故で亡くなるであろう。
寶吉祥仏法センターで、仏法の示現が見える。もし上師の話さえそなた達も聞いてくれなくて、信じないならば、そなた達が仏の諭された話をも聞いてくれないことを表して、仏を信じることもありえない。なぜかというと、そなた達は仏菩薩が見えないで、もしそなた達の目が見える上師の諭す話さえ受けないならば、更に恐らくそなた達の見えない仏の教えた仏法に従わないだろう。そなた達はどのように仏菩薩、護法が何をしていることを知っているのか。もしかすると、そなたの好きな事は発生して、実はそなたに対してよくない。そなたの好きでない事を発生させて、かえってそなたに対して良いかもしれない。
そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがただ法座の上で仏法を開示して、法座を降りた後の指示が仏法と関係がなくて、従う必要がないと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが法座の上にいる時、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェをリンポチェとするが、法座を降りて、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に馬鹿とされる。リンチェンドルジェ・リンポチェは24時間のリンポチェなので、もし24時間のリンポチェではないならば、どのようにいつも危難の時に人がリンチェンドルジェ・リンポチェが現れて助けて与えたことを見るのである。どうしてそなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの法名を唱えたら、災難を越えることができるか。法座の上にいる時か法座を降りた時にもかかわらず、リンチェンドルジェ・リンポチェの諭した事、したいかなる事はすべて利益の衆生ために、諭したすべての字と話はすべて仏法であり、そなた達がただ毎週道場に来る2時間だけの時は仏弟子であり、道場を出ると自分の心を放縦するのである。
リンチェンドルジェ・リンポチェは上師の諭された話に対して全く受け取ったが、しかしそなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いた後、自分に利があるかどうかと思って、或いは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何か下心があるかどうかとよく推測したり、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示した内容が
リンチェンドルジェ・リンポチェに有利であるかと懐疑したりする。リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて尊勝直貢チェツァン法王と諸仏菩薩の教えた仏法に従ってみんなに開示しているのである。そなた達は上師の開示に問題があると思った時、そなた達は自身に問題があることを代表するのである。というのは、そなた達がそれとも自分をはっきり見えなくて、自分が間違った所が何なんであるかを知っていないから。これもどうして仏を学ぶのは必ず上師が要って、上師を通してそなた達を監督する。具徳な上師に対して、仏を学ぶ者は弟子が上師に依止する十ヶ条件をやり遂げるべきであり、つまり完全に上師の教えに投降しなければならい。しかし出会った上師が徳を具えるかどうかをはっきり見て、さもなくばこの10ヶ条件に従って依止したら、とても大きい問題が出る。以前には、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に具徳な上師が備えるべきな条件を開示したことがあって、みんなが自分で寶吉祥仏法センターのホームページに御覧なさい。
もしそなた達が仏を学んで、仏の弟子になるならば、必ずこの数回の法会の開示された10ヶ条件をやり遂げなけれならなくて、そなた達はすぐすべてのをやり遂げることができないかもしれないが、しかし1歩ずつし続けて、いい加減にすることができない。ガムポパ大師は、「上師に依止する方面、以上のこれらの条件を備えるのはきわめて重要であり、気軽にするのが依止することと言えない、としっかり覚えてください。」と開示された。
ある女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが経営している店舗で働いていて、毎日夜10時過ぎまで仕事がひけて、リンチェンドルジェ・リンポチェは社員が残業することをあまり好きでなく、彼女がどうしてこんなに遅くまでやらなければならなくて、一体彼女が知っていないのか。作業が非常に複雑であるのか。或いは誰も彼女に教えていないのか、と疑問した。昨日昼ごろ、リンチェンドルジェ・リンポチェは念を動いて、彼女が大礼拝することを罰すると思い付いて、突然にこの女弟子が昨日の夕方自発的にリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し込みにきて、そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに彼女が道場で大礼拝することを要した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分がちょっと念さえ動ければ、思ったのがすぐ適中して、だから気軽に念を動くことができないとユーモアに表した。この女弟子は大礼拝している時、リンチェンドルジェ・リンポチェがその他の弟子に法照(写真)開眼をしてあげることを見て、彼女はすぐ大礼拝することを停止して、自分の法照(写真)を取りに行って、皆と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに法照(写真)開眼をすることを祈り求めた。
リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちに彼女の問題を見抜いて、彼女がこうすると、気を散らして言うことを聞いてくれなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に大礼拝することを要したのに、彼女は自分単独で離れて法照(写真)を取りに行ってしまった。それで、彼女が出勤する時にも、気を散らしやすいことがわかって、仕事をする時に自分のやり方を使って、会社の決まった規定に従って仕事をしていなかった。彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェが今彼女に大礼拝することを要して、彼女に法照(写真)を取りに行って皆と一緒に開眼することを祈り求めるよう要しなかったと思っていない。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェに替えるならば、上師が自分に大礼拝することを言われたら、上師が法照(写真)に開眼することに出会えれば、ただ頭を台頭して上師を見て、もし上師がいかなる指示がなければ、自分が引き続き大礼拝し続けるのである。
また、もう一人の女の弟子も店で働いて、意外に彼女の彼氏に店の中に座らせて彼女に待つのため、驚くほど働く場所でデートをした。彼女は自分がまだ若いので彼氏と付き合うことが要ることを言うかもしれなし、が、勤める場所でデートをすることもできないだろう。そなたたちはどっちの会社が社員にこのようにさせられることを聞いたことがあったら、彼女にあそこで働かせて、が、皆が聞いたことがないを信じている。事後、この女の弟子はまた弁解した。彼女は店の外に待たれないことを知っていて、しかし、店にまつことができないことを知らなかった。彼女はこのようにうまくて弁解できるなら、製品がうまく売られるはずで、しかし、そうではなかった。これにより彼女が仏を学ぶことが上師が仰る話を全然聞き入れないを見えた。そなた達は出勤時間で無駄させて、彼氏とデートをして、社長のお金を盗むのように、なぜならば、社長がそなたに給料を支払うので、このようなことをしたら、偸盗の戒律を破った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場でその女の弟子に叱り付けて、彼女が一日中にただデートをして彼氏を付き合うことだけ考えて、出勤時間が一心に勤めないで、このようにしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェのお金を盗んで、また、如何なる一つの弟子が上師に依止する条件を完全に遣り遂げなかった。
昨日、この女弟子の彼氏はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た。彼の様子はとても上品で、とても丁寧に言った。「リンチェンドルジェ・リンポチェ、私の彼女は貴方の仏法開示を聞いてから、私と別れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼んで私に仏法を開示することができるのでしょうか?」リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女の弟子に厳しく責めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に彼氏と別れさせることを要求したことがない。この女の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの名義にて相手に圧力を加えて、彼女の彼氏に仏法を誤解させて、厳しくなるならば仏を謗ることをいうかもしれない。だから、リンポチェを務めることは本当に全世界に最も悲惨な仕事である。最初、彼氏と付き合ってデートをした時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの同意をもらったことがないで、いま、問題があって、結局、すべてリンチェンドルジェ・リンポチェに見付かった。もし、この事態はもっと厳しくなるならば、彼女の彼氏は身に刀器を隠してリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見してくるかもしれないし、リンチェンドルジェ・リンポチェに傷害するのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは脅しが恐れないで、命を失うことも恐れないで、それは因果で、それでは、彼に自分の命を取らせて、しかし、大修行者を殺す業がとても重いのである。
そなたたちは誰とデートして付き合って、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の私生活に関与することをしない。そなた達は恋愛をする時に、リンチェンドルジェ・リンポチェに関係がないし、なぜ分かれるときに、リンチェンドルジェ・リンポチェの名義にて相手に圧力を加えるのでしょうか?そなた達は付き合うときに、仏菩薩が干渉していないで、付き合うときににお伺いをたつこともしないし、分かれる時に問題を仏菩薩を上師にあげるべきではない。そなた達は自分がすることを責任をとるはずで、上師の名義でそなた達の目的にて達成してはいけない。皆は自分の欲望を放縦してはいけないで、如何なる問題に対して、自分の欲望か因果か業力かをはっきり判断し、自分の本来の業力をはっきり見えると続けて間違っていることがない。
そなたたちは出勤する時に、上司は仕事の範囲をすべてはっきり引き合わせて、もしちゃんと働かないで、またこそこそ働くなら、つまり偸盗の戒律を犯す。しかし、そなたに会社の時間を盗んで自分の私事をする給料を返金させるなら、そなた達もしたくないで、上司に首になられることを恐れる。一部の人々のお金はわけがないでなくして盗まれて、なぜならば、この戒律を破ったわけである。もし出勤する時にまたなにを間違っているならば、社長がそなたに与える給料に申し訳ない。社長はそなたに給料を与えるけれども、そなたはまた一心にしないで、その上、間違っていて、このようにしたら、社長に欠ける。退勤する後、またショッピングをしていって、なぜ時間をうまく利用して自分が出勤時間に間違ったことを考えることをしないのでしょうか?如何に仕事をうまく遣り遂げることを考えいるをしないのでしょうか?ただ先に享楽をして、このようにしたら、福報を尽した。
リンチェンドルジェ・リンポチェは若い時に働いて、所謂残業がないで、却って、社長から指示する仕事をベストを尽してしっかりと行った。間違うことをしたら、とても大変なことで、自分はとても恥ずかしさと感じていた。なぜならば、相手の給料をもらって、この給料に適すること要るわけである。だから、とても少なくて間違うことをした。これは感謝の心により、社長さんに感謝して自分に仕事があらせて、給料をもらえるのである。そなたたちのようではなくて、自分が社長にお金を稼ぐことを助けると思っていて、間違いをしたら、社長が言わないあるいは教えていないことをまた言った。リンチェンドルジェ・リンポチェhあなぜ商売をするのでしょうか?これは商売をすることが多く人々に助けられる。ある者は出家衆と接触することが好きではなくて、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが在家の身元で、だから、彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェと接触することが受け入れて、一層に仏法の助けをもらえる。
どうしてこの二人の女弟子を所属するチームはいつも問題を発生するのでしょうか?このチームの組長はメンバーに余り関心を持たなくて注意しないわけで、この組長はただ年上のメンバーに関心をして、自分が良く知っているメンバーに何回で電話して彼らに連絡した。なぜ新しく参加する若いメンバーを関心しなっかのでしょうか?あるいは彼らはお金がないので関心をしていかないか?この二人の女の弟子はしばらく皈依したばかりのではなくて、二人がすでにしばらく皈依し、組長がこれまで関心を持たなかったので、おのずから何か問題があるかを注意しなかった。況して組長はすでにリンチェンドルジェ・リンポチェに長くて皈依した。ほかの宗教の成員はお互いに関心して助けて、が、寶吉祥仏法センターのメンバーがただ千人余りで、なぜできなかったのでしょうか?
リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に思い出せて、リンチェンドルジェ・リンポチェの年齢が年上になって、この世に数年の時間もなくて、しかし、そなた達はまたとても長い日々を暮らしなければならない。もし、この社会の人々はすべて私利私欲をむさぼって、この社会がまた平和になられるか?国がまた進歩できるか?いまのヨーロッパのように、すべての人々がすべて幸せに暮らして、若い時にすべて享受しなければならなくて、ただよくないことがあったら政府のせいを責めた。台湾で我々に選出される政府は我々に代わってすべての事をうまくすると思っていて、感謝の心が完全になかった。もし全ての人々の心はとても利己的ならば、皆が台湾でこの土地でますます難しくて暮らしていく。
我々は累世の無明及び執着のに輪廻を堕ちてしまって、この世に新しき面倒を作らないでください。もし皆は社会の良さのために、この社会はいまの様子のではない。もしそなた達はまだ利己的ならば、仏菩薩もそなたに助けられないで、なぜならば、そなた達はまだ貪瞋痴を充満し、そなた達に助ければ逆にそなたに能力をあってもっと多くの人々に害させる。そなた達は必ず間違いがあって、まだ自分が何も間違いがないで、すべて他人の間違いと思っているなら、それでは、そなたはいま人間ではないで、仏である。自分は観世音菩薩の身の回りの童子で、自分の修行が他人と異なって、あるいは、自分が家で自習すると成就があると思っていはいけない。
この数週間に開示される弟子が上師に依止する十つ条件はとても重要で、リンチェンドルジェ・リンポチェが過去世にすでに遣り遂げて、だから、この世にこれらの条件を予めに読んだことがないけれども、おのずから全て遣り遂げた。いま、そなた達に助けるのため、そなた達は需要があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を開けてこれらの内容を読んだわけである。これらの内容を読むと、自分がすでに全ての条件を遣り遂げたことを発見した。リンチェンドルジェ・リンポチェは修行の方式がとても特別で、すべて遣り遂げてから、仏経と法本と歴代大徳から書かれる論の中にリンチェンドルジェ・リンポチェが遣り遂げた境界を証明した。そなた達は仏を学ぶことが自分の如何なる欲望のためあるいは自分が生死を解脱するために修めることをしてはいけないで、却って、発願して一切な縁がある衆生に助ける。
もしかするとある者は自分が金剛乗を学んでいないで、ただお経を唱えて真言を唱えて法会に参加することだけで十分だ。しかし、今日、そなたはある金剛乗の道場に来て、そなたは顕教あるいは金剛乗を学ぶことに関わらず、これらはしなければならない。これらの十つ条件は仏弟子の条件だけではなくて、また身を処する道理である。中国の古代に孔子の考えにより『弟子規』を記載されて、ある学生とする標準条件を記載される。一部の団体も『弟子規』を提唱し、しかし、この中の条件が更にそんなに徹底ではなくて、ただ身を処する基本的な道理だ。弟子が上師に依止するこれらの十つ条件はそなたたが決心をしなければならなくて、もし遣り遂げないならば、弟子というまでもないで、信者でもする必要がないで、再びくることも要らないで、ただ善事をして、寄付して人々を助けて、来よにお金持ちになるチャンスがある。
寶吉祥仏法センターの人数はすでにたくさんになって、今日、1千2百人あまりに法会に参加し、道場がもうすぐ座られない。また、処罰されて道場に入られない者もあって、追い駆けてもできないで、外に待つ人が少なくとも百人で、この百人余りがすでに一つの道場を設立することができる。そなた達はこの十つの条件を遣り遂げないなら、寶吉祥仏法センターを再び来ないでください。リンチェンドルジェ・リンポチェは大法会に信者に仏を学ばせることを言うが、寶吉祥仏法センターに来ないでください。人数は多すぎるわけである。しかし、多くの人々はどうしても寶吉祥仏法センターに来たいといった。なぜかが分からなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がリンポチェになることを思ったことがないで、ただ発願をして一切の縁がある衆生に助けるだけである。もしかして、一部の人々はただ縁がある衆生に助けるだけを分別心があるかどうかを思っている。しかし、仏は縁がある人を度する。実は、六道の衆生は累世で我々と縁があって、この縁が成熟するかどうかにより、助けるチャンスをあってはじめる。
リンチェンドルジェ・リンポチェはガンポバ大師が説く「仏法の大門に入る修行者に対して、上根気者であれば、彼らは臨終になる前に嬉しそうで、ニコニコしていて、とても楽しんで安楽から安楽へ行く。中根気者であれば、臨終になる前に、彼らは苦しみと恐れがない。普通な修行者としても、臨終になる前に、この世に身語意について一部如法しないことをするのでとても悔やんでいることをしてはいけない」を続けて開示した。
仏法の大門に入る修行者に対して、上根気者であれば、彼らは臨終になる前に嬉しそうで安楽から安楽へ行く。中根気者であれば、臨終になる前に、少なくとも苦しみと恐れがないことを遣り遂げられる。この前に道場で往生した游氏弟子のように、臨終になる前に何も苦しみと恐れがないで、息が絶える時に、身の回りに座る医者の弟子でも発見したことがなかった。医者と看護婦を務める人はすべて知っていて、人間が死ぬ前に多少もがいて、声が変えて、呼吸でも重くなって、しかし、この游氏弟子がこれらの現象がないで、その上、目が閉めていて、なぜならば、彼は上師に信心があったのである。彼はまだとても厳重な間違いをして再び改正する弟子で、病状が重いほどが後期でも目も見えなかった。しかし、彼は懺悔の心があるので、上師が依然として彼に助けた。彼は上師が彼の身に加える如何なることもすべて受けていて、また多いことがそなた達が思っている不合理な事で、しかし、彼は全部受け入れた。この十つの条件は彼が全て遣り遂げたので、だから、累世で全ての悪業がこの世にすべて熟していはっきりと現れて、また完済して、だから、何も苦しみと恐れがないで往生することができた。人々は往生になると、必ず痛んで苦しんで、しかし、游氏弟子はこれらの苦しみが全然なかった。
皈依していない信者は聞いたも自分が道場で死ぬことを心配する必要がない。そなた達は道場で往生することをしない、なぜならば、道場に往生することが福報も需要です。我々はこの世に一生懸命に修行し、往生する前のときのためである。修行があるかどうかは生前にどのぐらい言えて、却って、臨終する前に平静な去られるかどうかによる。この游氏の男子以外に、また多くの弟子もこの類似な状況である。もしリンチェンドルジェ・リンポチェは具徳な金剛上師ではないなら、このような弟子の出現がなかった。具徳な上師は弟子に助けてまた弟子に如何に自分の業に転じることを教導することができる。
「たとえ普通な修行者であれば、臨終になる時に、この世に、身語意の方面でいくつか如法しないをしたを思い出すので悔やむをしない」普通な人は往生する前に自分がまた何をうまくしていないことを悩む。そなた達は市中の人々が往生する前に自分がうまく修行していないで、お経を足りて唱えていないで、阿弥陀仏が接引をしてこないなどで悔やんで心配を止む無いを言ったことを聞いたことがある。だから、そなた達にこの十つの条件を遣り遂げることを要求し、そなた達の仏を学ぶ障碍を減らさせる以外に、そなた達に往生する時に障碍がなくならせるためだ。もし、この十つの条件を遣り遂げていないなら、真に生死を解脱することができない。ミラネバ尊者は説いたことがあり、この世に生死を解脱することができないなら、未来のある世に必ず地獄に堕ちる。
お経に記載されているのは心が境を転じられることが遣り遂げられる。リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関した時に、すでに数回で心が境界を転じた経験がある。仏経に記載されているのは釈迦牟尼仏が様々な神通を明らかに示して、しかし、釈尊が神通を現す相手が報身菩薩で、菩薩の修行境界を確認するために、普通な凡夫が分かることではないで、そなた達がみる福報がない。もし神通を現してそなた達に見せるなら、ただそなた達の欲望を満足するだけである。仏経に記載されているのは、ある菩薩が釈迦牟尼仏に浄土がどこにあるを尋ねて、その時に、釈尊がすぐに彼らに連れで入定し、皆に自分がすでに浄土の中にいることを示して見させた。仏経に観世音菩薩の浄土に記載されていて、薬師仏、阿弥陀仏、地蔵菩薩などの浄土がすべてはっきり記載されていて、またどこにあって、ただ釈迦牟尼仏の浄土を言っていないで、なぜならば、釈迦牟尼仏の浄土はそなたが身にいあるところである。我々が見る地球は五濁悪世で、しかし、仏がみるのが浄土である。そなた達が見る地球は高山、河川があって、しかし、釈迦牟尼仏がみるのが浄土である。これは心の異なるのである。
この世にある者が手品を演じられるなら、あれは間違いなくマジシャンで、修行人ではない。仏が言うことが必ず実証することができて、ただ皆の福報が足りるかどうかによる。かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学ぶ時に、仏経に記載されているこの内容をみて、真仮を懐疑していないで、却って、如何に遣り遂げられることを考えていた。密法を学んだ後に、如何に遣り遂げられることが分かって、しかし、上師の教導に従って次第により修行することが必要だ。なぜ皆に我慢することを教導するのでしょうか?変えられるのはただ自分の心で、仏法が変っていないで、そなた達が聞かないなら、境界が来るときに、心が恨みを起こして、それは仏を謗るのである。
かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた顕教を学んでいた時に、かつて友たちと一緒に仏一をしていって、前の日に大部屋に寝たので、左右の側の人がちょっと全て体格が比較に太い人で、その上、ずっとびきをかいて、停止したことがないで、リンチェンドルジェ・リンポチェに寝させなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの心の中に考えて、翌日に一日中に仏一をして、朝から夜まで、もしこの夜を寝ないで、翌日に恐らく早くて起きられないで、その上、仏一を影響し、この故に、リンチェンドルジェ・リンポチェは観世音菩薩の助けを祈って、やはり、しばらく、大体3分の後に、身の回りの二人が以外に美気を書かないで、リンチェンドルジェ・リンポチェも無事に寝られた。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生のために仏一をするわけで、だから、観世音菩薩の助けを求めて、観世音菩薩も本当にリンチェンドルジェ・リンポチェの願いを叶った。これは心が境を転じるのではなくて、却って、発願をして、衆生のために発願をするので、諸仏菩薩が成就してきたわけである。
ある医者弟子は十数年前から今まで皈依し、いつも上師が仏だと言っている。だから、多くの仏を学ぶ障碍はおのずから取り除くことができる。かつて、彼の家にある家庭成員が家庭の財務を管理し、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼がずっと多くて供養したいことを知っているけれども、財務が家族の手に掌握した。結局、去年に至ると、仕事がまた変ることがあって、家庭の平和を影響していない場合に、すべての事をおのずから転じた。この医者の弟子は自分の財務を掌握することができて、家庭の革命がなかった。仏菩薩が衆生に助ける方法が後遺症がないで、ただ弟子が本当に仏菩薩の教導を遣り遂げるなら、おのずから弟子を助けて障碍を取り除く。
みんなはすべて知っていて、もっと激しい薬であれば、副作用がもっと強くて、自分の健康に対して役に立つ薬がスピードがよりゆっくりになって、その上、後遺症を残していないで、仏法がこのようだ。もしこの医者弟子は数年前に我慢できないでただ変りたいなら、事がこのように順調に成らないかもしれない。この前、彼も施身法法会に参加したいので、リンチェンドルジェ・リンポチェに時間を彼が診察がない時間に変ることを頼んだことがあり、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に彼の一人のために衆生への承諾を変られないで、もし彼が本当に法会に参加したいなら、おのずから参加することができると開示した。結局、しばらく以降に、彼の診察の時間が変動があって、法会に順調に参加することができた。
また、ある女の弟子は数年前にまだ信者で、父親が彼女に法会に参加しにくることに賛成しないで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に先に来ないを教えて、以降に絶対来られるを言った。彼女は諭しを聞いて先に来ないで、それから彼女が結婚したまで、夫に管理されて、父親も管理できないで、道場に行けた。その時に、彼女も他の道場に行けて、しかし、彼女がしないで、過去世に彼女が言うことを聞くことをなれたかもしれない。
今日開示する弟子が上師に依止する条件は信者あるいは弟子であれば、もし遣り遂げないなら、再び来ないでください。自分が学問あるいは背景があって誇りをもつをしてはいけなくて、誇らしい人は慈悲を修めることができないで、仏法を学ぶこともできない。仏法と世間法が異なって、世間法が得と失を重んじて、利益と損失のである。そなた達はどのぐらい世の中の学問と成就があっても、仏を学ぶ道に上師の助けがすべていることを知ってはいけない。
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2012 年 11 月 10 日 更新