尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示
2012年8月5日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで殊勝な施身法法会を主催された。参列者は合計で1,491です。
法会が始まる前に、ある皈依の男性弟子は参列した大衆に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の父を助けた経過を分かち合った。まずは、彼は母の死亡という因縁のため、彼の妻が彼を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行くように引率して、そして2008年に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したことに恩に着る。
彼の父も皈依の弟子なので、今年すでに80歳であり、7年来、腎臓病で週に3回血液透析を受けていて、その他にまた高血圧が30年間も続けて、同時に痛風、慢性気管支炎があって、心臓もよくなくて、日常生活はとても大変である。彼の父は若い時に、職務の便利さを使って、公の財物を適当でない処理をしたことがある;いつもメンツのために親友に対してほらを吹いて、事後はまた承認しなくて;日頃、平日気の向くままに他人を怒鳴りつけて、たとえ自分が間違っても、すぐ他の人のせいにした。彼の父はとてもよく酒を飲んで、毎回親友と酒を飲んだら、いつも酔っ払ってしまい、毎回酔っ払って親友に悪い言葉を言って、たくさんの人が悩ませた。
彼は多分父が若い時から、神仏にとても恭しくて、いつも仏像、菩薩像を礼拝して、やっとほんの少しの福報を累積したかもしれなくて、晩年にはリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する機会があって、そして皈依することを求めた、と思っている。
彼が覚えているのは、3年余りの前、父を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁してそして皈依することを願い出る時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を見ていて、ただ1つ「彼は菜食精進料理を食べられるか?」との問題だけを聞いた。彼は、これがほとんどあり得ない事で、彼の父が若い時から肉を食べることが大好きで、よく宴会に参加して毎回も肉料理を一掃するから、とよく知っている。しかしその時の彼はどこから来た勇気が知りなくて、「はい、食べられる」と答えた。事実上、その時の彼の父はすでに長年も血液透析を受けていて、医者は以前は特に、栄養のため肉の料理を食べて、その上赤い肉を多く食べてください、と言いつけたが。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してから、3年余り来、彼の父はずっと菜食精進料理を食べている。今年6月、彼の妻はある医療関係者の年長者を見回しに行って、この年長者がもともと同じく長年に菜食精進料理を食べたが、近ごろ腎臓の血液透析を受けて、医者の提案に従って肉入りの食物を食べていると変わった。この年長者は彼女より約20歳上の彼の父が肉入りの食物を断ってその上ずっと菜食精進料理を食べることができるという事を耳にした時に、とても驚いた。この男性弟子は、もしリンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、70年余り肉入りの食物を熱愛してまた血液透析を受けている父が決して肉入りの食物を断って菜食を食べることが有りえない、と知っている。
彼の父は以前、多くの牛、羊、豚、魚、海老、蟹、蛙、蛇、犬と兎などを食べたことがあるから。ある時、彼は父に、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔するかどうかと聞いて、彼の父がまた自分に反駁して、以前はそんなに多く食べていないと答えた。もし、腎臓の血液透析治療の苦痛の原因かもしれなくて、彼の父はリンチェンドルジェ・リンポチェの無形な加持のもとで、徐々に家の中の壇城の前でリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に向かって懺悔するようになった。彼はたまに父が懺悔する時に涙が流れて、彼が以前間違ったことをすると言ったことを見た。彼は父に対する数十年の記憶の中で、「過ちを認める」と言う言葉が、彼の父が皈依する前にまったく言い出すことがあり得ない。父が心から懺悔しることを見ていて、彼はこれがリンチェンドルジェ・リンポチェが大慈悲心で加持されるのである、と知っている。
彼はある時リンチェンドルジェ・リンポチェが開示された仏法テープをかけて、父に聞かせた。また父に「お父さん、上師が説かれた内容を分かりますか。」と聞いた。父は「慈悲」と返事した。彼は更に「詳しい内容は何でしょうか。」と聞いた。父は「必ず懺悔する。」と返事した。ある時、彼は「お父さん、上師の話を聞いた後、よく理解できますか。」と聞いたが、父は唯「上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに従わなければならない。」と言った。彼の父の回答はとても短いだけど、彼は尚更に上師が父への加持をよく感じた。
最近一年以来、彼の父は尚更に老けた。彼はとても心配したが、父は体が衰えるから正常に行動してしっかりに仏を念じられないかもしれない。しかし、大慈大悲のリンチェンドルジェ・リンポチェが加持するから、彼の父は毎日仏を念じられる。今年3月彼は父の両足は尚更に衰えて難しく歩けると発見した。彼は自分が海外で出張する間に父が階段を上るや降りる事が出来なくて、順調に法会に参加できないと心配した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の下に彼の父は家族に支えられて階段を上るや降りる事が出来る。
今年2012年5月彼が帰国するまで、始めて父のために部屋を探して、多くの大家さんは多病な年寄りや外国労働者に貸したくない。それは事故に遭うのを心配するから。最後彼は仕方が無くて父に部屋を貸せる大家に連絡した。しかしこの部屋は、老人に対して行動が余り便利ではない部屋を考えるつもり。彼は大家さんと契約しようと思った時、彼女の妻は諦めずにインターネットで再び調べて、自分が住んだコミュニティである者は部屋を賃貸する情報を発見した。彼はすぐ電話をかけて問い合わせした。大家さんは先部屋を賃貸する情報を登録したばかりなのに彼達に見せた。彼は父が年寄って、人工透析の状況を説明した後、大家さんは自分がICUの看護婦なので、老人や外国労働者、病気及び死亡など慣れたから、完全に気にしないと言った。彼は深く分かったが、様々な偶然は全て上師の加護及び護法の手配である。
彼の父は新しい部屋に住んだ後、もはや車椅子を座らなければならない。此処まで考えると、彼は本当に言葉でリンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳を話せない。彼は分かったが、父の過去により、一位や二位の冤親債主があれば、彼に日々をうまく過ごせない。数えられない衆生もある言うまでも無い。リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲心及び大威徳力の加持がないと、彼の父はこの機会を持つ事が出来ない。
リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示されたが、仏を学ぶのはいい日々を過ごすためではない。しかし、彼の父は体の苦痛、尚更に年寄ったから基本的に健康で日々を過ごす事を求めるのは既に得難いが、若しリンチェンドルジェ・リンポチェがないと、彼の父は既に何処に堕ちるのを分からない。彼は父が自らはっきりに上師への言葉で話せない恩徳を言えないと分かったから、此処で概略で説明して、少しリンチェンドルジェ・リンポチェの恩徳の千万分の一を感謝して欲しい。また、父の冤親債主は全て父の僅かな後悔の気持ちにより、リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩徳の下に早めに善果を得るように祈った。
彼は法会に参列した兄弟子、大徳にしっかりにリンチェンドルジェ・リンポチェに従って、確実に仏を学べる。また、上師の加持の下に法界一切有情衆生を利益するように呼びかけた。最後彼は再びに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、父を慈悲に加持して、自分及び家族と共に機会が有って上師に従って仏を学べた。また上師の体のご健康、法輪は常に転じて、常に此の世に存在する事を祈った。
続いて、他の男弟子は皆に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を助けるや皈依の因縁をを分かち合った。
2001年彼は会社に上海に派遣され、妻と子供と2個スーツケースを持って彼らにとって全く新しい都市に引っ越した。2009年まで、彼の仕事は突然に変化が発生して、家族を台湾に移すことを決めた。この前の生活、仕事、人間関係はすべて上海で作って、お体は既に台湾に戻ったが、魂はやはり上海に滞在した。新しい仕事への挑戦は知能と体力にとって、大変重荷をもたらした。彼はこんな生活に対して非常に苦痛と耐えないと感じた。ひいて空に飛んだ鳥が自由で飛んでいる感じを羨ましかった。高層ビルで下へ飛び出すことを考えたこともあった。今回想して、あのごろ既に憂鬱症に掛かったかもしれない。以前大学の時、仏教に接触して、ニンマ教派のリンポチェに皈依したこともあったが、全く教えにしたがって実行して、真剣に仏を学ばないため、悪い目に合った時、どうすればいいか全く分からない。
このような感じは彼に思い出させて、人が死んだ後、このように数十年を暮らし、苦痛と苦しみの中にうろうろして、あんな境遇は今より更に孤独で、哀れだ。今から用意を始めるべきで、後で死亡が来る時、手を打つ暇がないのを免れ、神識に自由で流浪させて、この世の中で漂って、こんなどうすればいいか感覚はどんな惨めか!生きる時志して、死んだ時阿弥陀仏の西方極楽世界へ行くように祈っておる。
偶然の状況で、彼は同僚に北京語が出来るリンポチェを知ったか?同僚は彼にある1人中国語が出来る大成就者―リンチェンドルジェ・リンポチェと言った。また彼と義理お母さんがリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを頂く過程を打ち合った。同時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な著作「快楽与痛苦」との本を彼に紹介した。あれから彼はこの本を良く読み、また寶吉祥仏法センターのウェブサイトにのリンチェンドルジェ・リンポチェの行程日誌を見る。
彼は「快楽与痛苦」を読み始めてから、心の中に急速に1筋の力を産んだ、いヶ月行かない内に、彼が全て感じた痛苦はあんなに堪らなくなったみたい。非常に不思議と感じた。彼はいつも「快楽与痛苦」をとって読み、次第に消さない上海で生活の映像と台湾で働くことの排斥とだんだんあんなに苦しまないと感じた。彼は毎日殆ど「快楽与痛苦」を読むべき、ある時一日に何回を読んだ。海外旅行、出張さえも連れて行ってよく読む。彼が「快楽与痛苦」を読む時、彼の妻と子供は全部好奇と感じた。なぜあんなに面白い本があったか?毎日あちこち読んで全部同じ本だ。彼の痛苦はこのようにだんだん消えてしまうのを知らなかった。
何時も「快楽与痛苦」を読んで彼にだんだん分らせた。痛苦をするのは因果を受け取らない、無常を受け取らないのであり、世間には変わらない人事物があるだろうか?すべて自分の心理状態を整えて変わりを受け取らなくて始めて痛苦を感じた。本には載せてあり、「人間にはどんな痛苦でも三悪道の衆生の苦しみより届かない。比較すると彼の苦しみはとんでもない。
リンチェンドルジェ・リンポチェは「眷属は平和しない理由が殺業わけである」と開示したことがある。彼は小さいときから田舎から成長し、たくさんのカエル、トカゲ、ヘビを残忍な殺したことがある。小さいときに、身体が良くないので両親に心配させた。母親は彼のために健康を補充するために、どれだけのタウナギ、スッポンを殺したことが分からなかった。彼は自分の親孝行をしないことを懺悔した。母親は彼のために殺生し、このような衆生に苦しませて、如何にこの借金を返すべきのでしょうか?いかに身体が健康し、家庭が睦まじし、子供が言うこと聞いて、兄弟が関係がいことを貪って望むことをありえない。『快楽と痛苦』に記載されているのは「相手は自分により大切だと思っている」、「『公平しない』という観念を再び持ってはいけない。この三つ言葉は毎日、毎分、毎秒にすべて苦しませる」で、我々に如何に心構えを調整して一切を受けることを教導する。本の中にまた記載されているのは「すべての感覚の器官の中に、最も簡単で訓練できて、最も分別心がないのは味覚である」がある。急速に、彼は菜食をすることを決めて、また、大慈大悲の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依することを決めた。
2010年「阿弥陀仏無遮大超度法会」に参加した後で、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して彼に毎週に法会に参加させることをお伺いを立てた。法会に参加する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示される「ポワ法はご死者に自ら阿弥陀仏の浄土に連れる」を聞いた。彼の心の中に思っているのは彼が行きたいところが目の前の大成就者がすでにいったことがあり、如何に不思議が。ニンマ派のリンポチェが台湾に来るときに、彼は「ポワ法はご死者が自ら阿弥陀仏の浄土に連れることのでしょうか?」を特別にお伺いを立てた。ニンマ派のリンポチェは「はい。その通りです」ととても直接に回答した。彼は再度ニンマ派のリンポチェに彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに従って学ぶことができるかを再びお伺いを立てた。ニンマ派のリンポチェは「WHY NOT」と回答した。
2011年1月15日、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依させて弟子になることを願った。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に、頭を上げてリンチェンドルジェ・リンポチェに仰ぎのぞんでいて、リンチェンドルジェ・リンポチェのパッチリしてまた深くて平静な両目は、彼がこの世にみたことがないで、その時に、心の中にあるいえない感じがある。その後、寶吉祥仏法センターのホームページの上済度事跡の中に、兄弟子達の陳述が彼がみたことをとても似ていて、これは仏経に記載されている「紺目は四大海を清める」の「慈悲深く優しい眼及び紺目」が慈悲が一切な含める目つきである。
彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の皈依を受けて弟子になって、彼に幸運で正信の仏法を聞かせられて、未来に機会があって輪廻苦海を離れて有情を利益することをに感謝する。皈依してからいままで1年半で、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝し、彼にの生活を順調で暮らしませて、彼に奥さん、子供などの眷属が完全な支持していない理由が彼がうまく改正してないで、教法のより従わないことを了解させる。両親、お姉さん、弟も彼がよく直していないため、菜食して仏を学ばない。彼は毎日の夜に寝る前に、自分の一日中にすることをうまく検視することをやり遂げないことを懺悔する。貴き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに100パーセントで投降していないで、常に自分の考えを持っていることを懺悔した。
最後、彼は法界のすべての衆生はすべて正信の仏法を聞かれて、苦しみを離れて楽をもらえること祈っている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはご身体が健康し、法輪を常に転じていて、仏法事業を盛んでいることを望んでいる。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がって、法会に参列した大衆に貴重な仏法の開示を与えた。今日修めるのは施身法であり、施身法はチベット仏教密法の八大成就法の一つである。いわゆる「成就」はどんな力があることを指すのではなくて、成就とはもし行者が一生にこの法を専修するならば、最優秀の者がこの世に成仏できて、次の者は中陰身の時に成仏でき、わりに劣る者は16世転世することが必要として、第17世にきっと成仏できるとのことである。この法を修習するため、決して願望があれば学ぶのではなくて、チベット仏教の中でいかなる教派の行者でも、すべて長期顕教を修習しなければならなくて、上師の認可を通じて、ようやく密法を伝えてくれるのである。
施身法は1千2百数年前に、あるチベット人の女ヨガ士が創られて、私達は彼女の聖号をマジラ尊と称す。施身法は《大蔵経》の《大般若経》により出きるものであり、《大般若経》は主にすべての現象と音声が空性だということを述べている。釈迦牟尼仏は20年も使って空性を述べて、その故に空性が簡単に説明して理解できるのではなくて、だから、そなた達はどのように一回の法会に参加して空性が了解することができるのか。世間の人はすべて放空と言ったが、空性がこのように容易く体得することができない。
施身法のチベット文字での意味は「断つ」であり、そなたに輪廻させるすべての悩みを断ち切る。人は煩悩があって投胎して、投胎さえすれば、累世の貪、嗔、痴、慢、疑を持ってきて、そなた達は煩悩がある原因は執着があるためであり、それで様々な悪行を犯して、その故に三悪道の中に堕ち込む。施身法は知恵で断って除いて、そなた達の煩悩を減らす。ちょうど一本の鋭い剣のように、そなた達に輪廻させた悩みを断つのである。そなた達の煩悩はすべて自分が考え出したものであり、中陰身のの衆生の苦痛と比較すると全然大したものではない。中陰身の衆生はどこへ行くべきかを知らないで、業にて漂流して、完全に自主的にすることができなくて、あれが本当な苦痛である。
最近よくある人はリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めて、自分の子供が教えにくいと言った。子供の教えにくい原因はとても複雑であり、例えば、子供の成長がそなた達が子供に食べさせる食品の影響を受ける。たぶん、ある人は、ちょうど生まれた赤ん坊がただ乳を飲むだけと言うかもしれない。しかし乳は2種類分けられて、一つは母乳であり、もう一つは牛乳である。もし母乳さえ飲ませれば、母の食べた食品は子供に影響して、母が肉を食べて、辛い物、氷を食べる時、たとえ今まだ腹の中にいる胎児も、好きでない食品を食べると、腹の中で殴ったり蹴ったりする。父とする者がまた胎動するのがとても面白いと思っていて、実は胎児が抗議していて、胎児が腹の中にいる時にもう貪念、嗔念が起きるようになるのである。もし子供に牛乳を飲ませれば、あの子供の個性は何と似ているのか。小さい時からもし子供から肉を食べさせたら、子供はどのようによく教えることができるのか。これはすべて殺業と関係がある。そなた達は殺生して肉を食べて、傷害した動物もその他の動物の子供であり、そなた達の子供はこれらのそなた達に食べられてしまった動物が投胎してくる可能もある。だから子供は教えにくいである。当然で、子供が教えにくいのはその他の複雑な原因の存在がまだある。
昨日、ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェが謁見してくる時に、自分は前の彼氏に振られて裏切るので、長年に経ても受けられないで、とても苦しんでいると話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に開示し、彼女は彼氏が不倫があることを指摘し、相手が身体で彼女に裏切って、しかし、彼女が自身も精神の上で相手に裏切ったこともあることを考えたことがあるのでしょうか?例えば、ハンサムな男をみて、相手とコーヒーを飲みたいなどのようなことがそなた達が彼かがしたことがないのでしょうか?そなた達はそれらの男女の感情紛糾の番組を見てはいけない、見たから影響を受けられる。そなた達は男性だけで不倫になると思っているのでしょうか?実はそうではない。しかし、なぜ番組の中に上映するのがすべて男性が不倫になるのでしょうか?これは番組をみる観衆の中に10人の間に7人が女性わけである。番組は多数の観衆に見させるので、もちろん男性が不倫になる内容を上映になる。なぜ男性はこれらの番組をみることが好きではないのでしょうか?不倫になる内容をみて、女性は必ず機会を以って話題を自分の男性の相手を変って、それから、男性がこのようになっることを指摘するわけで、だから、男性はこのような番組を見ると離れて、災難に遭うことを免れるようにする。
前生は善行をして、この世も善をもらえる。同様に、前世に他人の家庭を破壊したことがあったら、この世の眷属が円満にならない。眷属が円満ではない者は他人の家庭を破壊したことを示した。ここに他人のご主人あるいは奥さんと関係を発生するを示すのではなくて、男女に関することがただ情欲だけである。家庭を破壊する例はそなたが鳥の巣の中から卵を取り出してことがあて、アリの巣あるいはネズミの巣を掘ったことがあって、蜂の巣を掘ったことがあって、甚だしきに至ってはわざとゴキブリ、アリなどを殺して、それらの家庭を決裂させた。一切の衆生はすべて両親と子供がいて、そなたは衆生の家庭を決裂させたことがあるので、この世にこの因果応報を貰う。
どうして今だんだん多くなるご主人は奥さんが仏を学ぶことに反対するか?これは一部の人々は信者に清浄法を修めさせて、夫婦に別々で寝て、面倒なことを減らすというわけである。しかし、仏経にはこのように記載されていることがない。『寶積経』の中に記載されているのは衆生が眷属の縁があったら、拒否することができない。そなた達は仏を学ぶので、配偶者とわけて寝てはいけない。清浄をしたいなら、出家するはずである。在家の仏を学ぶ者は最も重要なのが心が清浄になる。心が清浄になるとはなんでしょうか?つまり、執着と貪念を持ってはいけないで、縁に従って暮らして、五戒を守って、慈悲心を育成させる。慈悲は良い人になるのではなくて、慈は自分も最も良いことを衆生の苦しみと交換になって、悲は衆生に済度して浄土に行かせる。そなた達は慈悲をやり遂げないなら、少なくとも、仏が教導してくれることを聞いて、生活の中に仏の教導をしっかりしている。在家の仏を学ぶ者は正常な人がすることをするはずで、仏を学んで何も気にしないで、あるいは自分が他人と異なるを感じることをしてはいけない。このようにしたら、逆に他人に仏法を誤解させる。
仏を学ぶ者はわざと他人と異なって、他人にそなたが異なることを感じさせると限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても控えめ、普段ですべて普段着をつけていて、法衣をつけていない時に、外の人々がリンチェンドルジェ・リンポチェが修行者であることを誰でも知らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日に一部の人々のように赫々たる威風を明らかに示したら、あるいは、狂気じみている方法で説いたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは恐らくすでに精神病が捕まえている。皆は済公が言い方が狂気じみているを知っていて、狂気じみているが正しいかどうか?間違わないです。済公が示す方法は実は衆生の問題にとって、本当に相手に助けられる話を言えて、すべての話が禅機がある。様々な法門により衆生を助けられる行者は大手印の離戯瑜伽の境界をすでに認められる。施身法を修められる行者は必ず大手印の離戯瑜伽の果位を修めえなければならない。「離戯」とは世間の一切の生活を離れる意味のではなくて、「縁に従って、それでは、何もしない」の心構えにて生活で直面するのではないで、行者にどんなことでも事前に用心する必要はなくて、自分を保護する必要がないではないで、かえって、世の中に一切なことがゲームのように本当に見えて、執着しないで、因縁により暮らしているのである。
離戯瑜伽を証した修行者は強引に縁を作らない。出世するため、彼方此方関係を作らない。ある者は更に出世するため、金がかかって関係を繋がってどんな方法を使っても目的を達成しなければならない。更にある者は公共機関で仕事して、公務の関係を利用して賄賂を贈る或いはいい加減に行うなど、この行為は全てとても酷い結果が出てくる。リンチェンドルジェ・リンポチェは強引に縁を作らない。寶吉祥仏法センターは1997年成立した以来、今まで法会を行なうのはポスターを一枚でも貼らない。テレビに宣伝もしていない。そなた達は全て口コミで法会に参加した。そなた達は縁があると表した。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を何人取るのも構わない。たとえ弟子が無くても、リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず仏法を広められる。全ては自分の因縁に従う。リンチェンドルジェ・リンポチェは全て三恩根本上師尊勝なる直貢チェツァン法王及び仏経に従った。仏経に説かない事はリンチェンドルジェ・リンポチェは必ず行わない。若し仏法センターはビジネス行為の方式で動けば、未来も難しく続ける。
施身法を修める修行者は必ず空性を証しなければならない。修行者は法を修める時自分が甘露に化するのを観想して、諸仏菩薩を供養してから一切衆生を布施する。自我執着が重い人に対して、施身法を修められない。また、法本の中に記載されたが、施身法を修める修行者は衣服以外、一切の御守りを身につけない。それは衆生は御守りを見れば、近寄る事が出来ない。だから、今日リンチェンドルジェ・リンポチェも御守りを一切身につけなくて、自分を全て衆生に布施する。施身法は慈悲の究極であり、六道の衆生を全て助けられる。この法は主な慈悲で六道衆生を助ける。
若し施身法を修める修行者は修法する時、鬼が現れて恐がる気持を起せば、この法を修められない。唯真言を唱えて法本を読むことになって、何も効果が出てこない。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法する時、来る鬼道衆生は様々で、更に多くのは殺到して数えられない。それは彼達はとても苦しいから。そなた達の苦しみは鬼道衆生が中陰状態で何も頼りが無い苦みと比ぶべくもない。そなたは鬼を恐がると言えば、慈悲心が無い。ある者は仏を学んで感応を求めるなら、自分が仏菩薩を見えると思った。実は見たのは鬼だ。この状況は二つを分ける。いいのは鬼がそなたを悪戯する。この状況はかなり処置しやすい。それは鬼はいつもそなたの側にいるわけではない。他の一つはそなたの心から仏菩薩が現れるのを思う。こうすれば、難しく処置する。それは心魔が現れる。故に仏は《楞厳経》に「飛精入口」と説かれた。若し感応、神通、変化を求めれば、入魔になる。
法会に参加する時、恭敬心と懺悔心で参加しなければならない。まず三宝を敬う。敬えば、供養がある。供養があれば福報があって、始めてそなた達と関わる衆生に助けを得られる。更に懺悔心を持たれる。それは我々は此の世に世間に来るのは我々はまだ過ちがあると表した。そうしないと既に成仏した。だから懺悔心を持たなければならない。また、慈悲心を具える。自分しか考えないわけではなく、自分の心を広める。そなた達は今日来られたのは全て累世の福報因縁である。そうしないと、此の世でそなた達に機会があって仏法を接触できない。そなた達は今日施身法に参加できない衆生が将来因縁福報があってこの法会に参加できると望むべき。
旧暦7月は間もなく来るが、世間でこの時鬼門が開くと思った。だから、宮や廟に参拝しなければならない。多くの者も旧暦7月に結婚出来ないや引越しできないなど思った。多くの商人にこの月で商売させない。紙銭を売る商売は売上が一番いい。この禁忌は全て誤解だった。若し本当に鬼門が開くという事があれば、そなたはよく考えて一旦鬼門が開けば、あの鬼が出た後、如何なる戻るわけではないだろうか。鬼卒は彼達を捕まるのを信じない。鬼卒はこのような能力が無い。実は鬼門が開く事が無い。鬼は夜まで出られるのを思わない。実は朝11時過ぎ、福報がよく鬼は始めて動いている。鬼門が開くという言い方は如何なる来るだろうか。中国は元々道教を流行っているが、その後仏教が入ったから、道教は仏教の一部分の説法を結んで、鬼門が開くという言い方が出てくる。
旧暦7月、お盆の由来について、今日説明した。釈迦牟尼仏の弟子目犍連尊者は神通第一である。目犍連尊者は自分の母は死んだ後餓鬼道に堕ちたのを分かって、大神通で食べ物を母に送って食べさせた。しかし、彼女は食べると、食べ物は喉に火に化して燃えて、呑み込めない。目犍連尊者は釈迦牟尼仏に求めて母を助ける。仏は目犍連尊者に教えて修行者が7月結夏に円満に閉関修行する時、精進料理を用意してこの修行者達に食事を供する。当時インドの出家者は夏に外へ動かない。一つはとても熱いが、二つのは外出すれば、簡単に虫を踏んで殺生することを免じる。だから、修行者は多くに夏の時に閉関修行する。此れは「結夏」と言われた。
釈迦牟尼仏は目犍連尊者に教えて、僧に食事を供する功徳を母に迴向する。こうすると、目犍連尊者の母に天道を転生できる。注意しなさいが、目犍連尊者は釈迦牟尼仏を求めても唯自分の母に天道を転生する。そなた達は自分が亡者が亡くなった後、彼のために仏経を唱えれば、彼に浄土へ往生できると思わない。尚更に目犍連尊者は供養した修行者は少なくとも初果を証した阿羅漢であり、一般の出家者ではない。一般の出家者を供養すれば、得たのは唯布施の功徳だけ。そなたは此の世に彼達に布施して、そなたに来世でご飯を食べられるだけ。
故に仏経に旧暦7月に鬼門が開くのを説かれない。鬼道に堕ちる衆生は全て自分の業力に引かれて、誰でも彼達に入らせず、誰でも彼達に出られない。鬼道の衆生は光を恐がって、風が強くても恐いが、音が少し高くても恐い。一旦鬼道に堕ちて、鬼道を離れる日を見えない。修行者に出会って済度されないと離せない。我々の地球はとても特別な地域であり、人道、鬼道、畜生道は同時にこの所で存在している。だから、鬼は彼方此方にいるが、そなた達は寶吉祥仏法センターの扉から出ると、街に鬼は一杯存在している。7月しか現れないわけではない。
昨日ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「何の用でしょうか。」と聞いたが、彼女は「何のことも無い」と返事した。この話を言う人の気持ちは通常二つの可能がある。一つは仏法に対して、恭敬心が無い。更に仏法を信じなくて試してみる。二つはリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の事を知らせたくない。彼女は難しくこの因縁福報があってある大修行者に会えたのに、自分の問題を言えない。実は人であれば、必ず問題があるが、仏しか問題が無い。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ彼女の事を全て話して、彼女に驚かせた。彼女が嫌い事はリンチェンドルジェ・リンポチェは却って物事を話して、大能力で彼女にすぐ恭敬心を起させた。
法本に施身法を修める時、参列者は壇城の前に横たわれて、自分の体で布施供養を現した。しかし、寶吉祥仏法センターの人数が沢山なので、今日1400人余り参加した。若し全部横たわれば、たとえ2000坪の場所でも足りない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を代表して供養し、自分を完全に鬼道衆生に食べさせる。
今日リンチェンドルジェ・リンポチェは体調が悪くて、話した声はとても磁性があるので、皆に許して欲しい。元々リンチェンドルジェ・リンポチェの家族はリンチェンドルジェ・リンポチェに休みを取らせたいが、リンチェンドルジェ・リンポチェは家族に言って、仏菩薩は給料を払わないから、休みを取れない。参列者は皆感謝の気持ちが溢れて、皆一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェが六道有情衆生を憐憫して殊勝に法を修めるのを感謝した。
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは始めて施身法の儀軌を行った。法を修める間にリンチェンドルジェ・リンポチェは自分の体の不具合を無視して、衆生のために施身法を修めた。更に参列者を引率して長くて六字大明呪を唱えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の密法の成就で苦労と思わないで生命で法を修めて、無数な衆生を利益している。円満に法を修めた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労と思わないで引き続きに開示された。
リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修める時、多くの法器を使った。世間に於いて、密法に誤解がある人は常にこの誤解を利用して密法を批判して、密宗は人の骨を使う事が好きなので、鬼と付き合うのを言った。法を修める時かぶったこの黒色の暖簾の法帽子は上に五つの髑髏がある。何故髑髏を使うだろうか。そなた達の目から見ると、髑髏だけど、鬼衆から見ると、彼達は五方仏を見るから、仏法の助けを受けるために来た。髑髏の用意は第一そなた達に人生無常を提示して、人は最後まで髑髏しか残らないから、執着するや争う必要が無い。第二は仏法を通して、貪、瞋、痴、慢、疑という五毒を除いて、五智に変える。修行者は法を修める時、衆生は若し来れば、彼達に勧めて五毒を放せる。そうすれば仏菩薩が彼達への助けを受けられる。
現在「活仏」との言葉を使う者がいる。これは適当な言い方ではない。ある者は自分が活仏といえば、こんな者が相手をしなくてもいい。実は仏経のなかに「活仏」との言葉がない。活仏があれば、死仏があるだろう。自分が活仏というならば、彼はきっと仏のではなく、仏は不生不滅であるから。また、仏の願力のため今地球上にはやはり釈迦牟尼仏の法運であり、他の仏であれば、外のところにいるはず。「活仏」との言葉は実は中国清朝慈禧太后時代に李蓮英は慈禧太后にお世辞をするため、このお世辞言葉が生まれた。ある者は公然と自分の修行はどんなにすごいと言うなら、こんな者を相手しなくても良い。本当な修行人はテレビの上に広めることはしない。「リンポチェ」とはチベットで「宝」との意味で、人の中にの宝で、この名称を得るのは大変辛いだ。なぜ人の中にの宝と言うか?リンポチェは大能力を持って、輪廻する中の衆生が苦しみを離脱するのを助ける事が出来るから。
そなた達は呪文を読んで、念仏をして、仏にお辞儀すれば、仏を学び修行すると思わないで。自分の全ての悩みを下ろさなければ、修行とは言えない。顕教は仏法の理論、原理として、密法は実行する方法である。これはそなた達が学校で勉強して卒業した後、やはり社会で何年を訓練して、はじめて全て勉強したものを使うのようである。十数年の顕教の基礎がなければ、密法を学ぶ事が出来ない。そなたは顕教の基礎があった後、上師はまだずっとそなたを観察してから、そなたに密法を伝えるかどうか決める。上師の伝授はそなたにはお金があるかどかを決めるのではなく、上師と三宝に対して絶対的な恭しい心があるのである。
密法は六耳(多数者という)に伝えない、単独伝授であり、公然と伝えてはいけない。公然とする者は多くともそなたに灌頂する。しかし割合に深い内容なら公然と話すことが出来ない。大衆の目の前に公然と密法を伝えることは不如法であり、伝授は不如法であれば、如何修めても無駄になる。密法を伝授する前、上師は弟子が顕教に対して全く了解したのを見た後、はじめて密法を伝える。弟子の根器が正しくなければ、少しの密法を伝えた後、もう伝えない。仏を学ぶことは必ず上師に依止する。もう自分が家で木魚を叩いて修め得ると思わない。
大変少ない者が密法を学ぶ事ができ、それで多くの者は密法に対して誤解があり、多数の者は知らない内に密法に対して誤解があり、それも多くの者に皆が密法にあまり分からないチャンスを利用させて、坊間が密法の双修など法門に対して深い誤解を生じた。密法を習わない者に対して、了解しないため、密法は秘密のようになる。密法は通常先自分に利益するのを修め、本尊と相応するまで修めて、また衆生に利益するのを修める。
大悲呪を読んで観世音菩薩が見えると思わないで、見えるかどうか先問わず、そなた達は観世音菩薩が一体どの様子か知っているか?四臂観音は観世音菩薩であるか?また千手観世音か?提籃観音か?実は仏菩薩の像は全部そなた達に見せるだけだ。それは衆生の心が散乱で、仏像により、皆に集中して、落ち着いて仏を学ぶ事が出来させる。実は菩薩果位を修め得ない者は報身仏と報身菩薩を見ることが出来ない。そなた達が見た仏像、仏経、上師全部仏菩薩の化身だ。それは仏菩薩の空間と凡夫のと同じではないから。菩薩果位を修め得ないものは多くとも仏菩薩の化身が見える。菩薩果位を修め得た後はじめて報身仏が迎えに来る。
坊間である者は神通で二転三転して大衆を吸い込むことが好きで、甚だしきにある者は碗を覆って揺れて、開けた後その中にある白色の粒子を白甘露、白菩提と言い、意外に信じる者がいる。そなた達はもう騙されないで、自分には神通があると強調する者はそなた達は彼に従って仏を学ぶ必要がない。仏経に載せてあり、仏を勉強するのは神通、感応を求めるのではない。神通と感応を求めるだけであれば、他の宗教を信じる方が割合に早い、多くの宗教はそなたに神通を有らせることが出来るから。しかし仏を学ぶ者にとって神通は究竟ではなく、ただ副産品である。神通のあることはそなたが衆生と自分の問題を解決することが出来るとの表れではない。目犍連尊者は神通が一番さえも、自分の母親が離苦することを手伝う事が出来ない。釋迦牟尼仏に斎僧を教えて頂いて、はじめて彼の母親を天道に回させた。これより、上師は大変必要だ。但し、なぜある時リンチェンドルジェ・リンポチェは少しの神通を現れなければならないか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が本当にあまりに関白を見て、やむを得ず少しの神通を現れてそなた達に恭しい心と信心を起こさせ、やっと縁を有らせて仏法の助けを受ける
昨日ある女信者は自分が天命を備えて、家庭、子供を配慮しないと言った。それはリンチェンドルジェ・リンポチェを脅かすことが出来ない。こんなうそばかり者を見て、リンチェンドルジェ・リンポチェははじめから終わりまで叱った。仏を学ぶのは自分の本分を尽くして、自分のするべきな事をしっかり行うのである。
あなた達は悪行をすると自然に悪果を得る。それは上師或いは仏菩薩がそなたを処罰するのではなく、そなたの冤親債主と歴代祖先が見る気がない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの数年間多くの衆生を助けて、沢山の例を見た。そなた達は祖先が存在することを信じなければならない。数年前、ある者はいくつか若いお姉さんを連れてリンチェンドルジェ・リンポチェと食事をして、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの者の亡くなった祖母が彼の後ろに立つことを見た。リンチェンドルジェ・リンポチェに彼を罵ると願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て一人名人の眷属を助けた。相手の祖先が事情をリンチェンドルジェ・リンポチェに知らせてリンチェンドルジェ・リンポチェがはじめて相手に伝えることが出来た。彼も極めて驚いた。最後に証明を求め得た。
自分がいくら良くない事をしても他人が知らないと思わないで。人が死んだ後鬼になり、何にもなかった後、是非を見分ける能力があった。祖先達も面子を重んじて、名誉を要する。自分の子孫は良くない事をすると「あなたの子孫はどうしてこうしたか?」と言われるかもしれないので、祖先は自分の子孫が悪行をするのを見ると子孫を叱って、彼らが聞こえないで、子孫を挟んで、彼らも感じられないで、そして彼らに何もかも不順調をさせてちょっと注意させるしか出来ない。だから、そなた達は人を罵っても構わないと思わないで、どのことでも因果があり、特に不親孝行の者が、未来是非とても惨めで、往生した後、三悪道に堕ちる可能性が高いだろう。
そなた達は父母があなた達を了解しないと言い、実は父母が一番そなた達を了解する者である。そなた達はやり直したかどうかそなた達の父母親がよく知らないか?幼いより成長するまで、そなた達がまだつるつるしている赤ん坊から、父母はそなた達を頭から足まで見て、そなた達を大きく育てて、そなた達に対して誰より知っている。そなた達が成長してもやり方まだそのままで、将来きっと苦しむ。父母はますます年を取って、自分の時間が多くないと分かって、心が焦ってようやくそなた達を責めた。
リンチェンドルジェ・リンポチェの娘は日本から台湾に帰った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にこの二日の間に外出しないでお兄さんの結婚式をうまく準備して参加することわざと言いつけた。が、彼女はいうことを聞かないで二日に遊んで出で、結局、結婚式の当日に、彼女の髪が綺麗ななって、化粧もうまくして、目の角膜が突然にわられて、彼女に半時間にしっかり痛ませた。眼科の医者は彼女に完全に治すようになって、塗り薬をつけた後に、10分を過ぎて、彼女の目がまだとても痛んだ。この時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはやっと措置を取って、娘に先に罵った後で、彼女の目に息を吹いて、彼女が痛くなくなった。両親の話を聞かないなら親孝行をしないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと医者が先に治した後で彼女に助けて初めて、あるいは、彼女は医者の目の塗り薬が効果が起きて彼女の目を治したと思っていた。
リンチェンドルジェ・リンポチェは修法する時につけた法冠がなぜカーテンが垂れて目を遮るのでしょうか?主に修行者は禅定を修めて知恵を啓く程度を修めて、彼の目が光を出して、凶悪な光ではなくて艶光もではないで、智慧の光わけである。そなた達は仏像に仏菩薩の背光を見て、これも智慧の光である。智慧があるので、目はおのずから光を出して、しかし、鬼衆の業が重いので、彼らがこの光をみると恐れて接近する勇気がないで、だから、修法する時に、鬼衆に向いて助けを貰わせるのために、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのカーテンで目の光を遮らなければならない。智慧を啓くことを本当に修め得る行者はとても隠れて、そなた達に行者の大能力が簡単な発見さえないで、所謂神通力がわざと表れないで、衆生に利益することと限らない。法会の前に分ち合う弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの目がぱっちりしていることを形容し、リンチェンドルジェ・リンポチェが「子供の時に、勉強していたときに、学んだぱっちりしているのが女性で形容して男性ではないはずだ」とユーモアを説いた。
眼科の医者弟子は参列者に下記のように報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェの目は白目の色がとても澄みきっていて、普通なリンチェンドルジェ・リンポチェと同じ年の目上が白目の部位がすべて濁っていてる黄色っぽいだ。本来、リンチェンドルジェ・リンポチェの白目は少し退化し、しかし、2007年に閉関した後で、退化の部分がすべて無くして、白目が淡いリキッドブルーになって、生まれたばかり赤ちゃんみたいである。赤ちゃんの目は目強膜の含水量が高くて、だから、リキッドブルーを見られる。それ以外に、リンチェンドルジェ・リンポチェの黒目の瞳の部分はとても深くて、普通な人の瞳が眼科の生体顕微鏡で検査されてみると限りがあって、が、リンチェンドルジェ・リンポチェの瞳が見てはいると限りがないようで、虚空の中にもうひとつの虚空のようである。
リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いて開示し、修行者がうまく修めればおのずからこれら顔立ちが現れて、しかし、これらがただ副産物で、修行も目的である。リンチェンドルジェ・リンポチェ自分を吹聴しているのではなくて、これはそなた達にみることを教える。もしあるものは自分が密を修めてあるいは禅を修めて成就があることを言うなら、少なくとも、うわべから他人が彼が普通な人と異なること感じられる。ある者は反駁するかもしれないで、外相を執着することがあまり要らないと思っていて、しかし、外相が注意することが要らないなら、仏陀が修行者が三十二相と八十随好が開示することが要らない。
親孝行をしない、言うことを聞かないで、貪欲で飽くことを知らない人であれば、三悪道に堕ちる機会がとても高くなる。そなた達はいま毎日のニュースがすべて多くの厳重なことを発生し、多くの人々が「したらまた考える」の心構えを持っているわけである。そなた達は何も恐れて、お金がないことを恐れて、身体が健康ではないことを恐れて、家庭がないことを恐れて、どうしても因果が全く恐れない。多くの退職の公務員は在任期間に汚職をして、あるいは、随意に務めて、賄賂をして、官位をかって官位を求めて、これらのことをしたら、彼らが退職の後で、病気に罹らせて、あるいは、他の良くないことを発生させる。そなたは官位が高くなる運命があったら、おのずから官位が高くなって、求めることが要らない。そなたたちは何も受けて、しかし、損をしないで、わずかな異変があったら悩みが起きる。
そなたたちは良くないことをまだ発生していないのでどちらでもかまわないと思ってはいけない。問題点は事が発生する時に間に合わなくなるわけである。先にしたらかまわないと思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに繰り返して開示し、いま、悪の共業が善の共業により大きくなって、そなたたちはちょっと油断したら悪の共業に吸い込まれる。そなたたちは一部のことを両親に報告することが要らなくて、法律を守ることが要らないで、したらまた考えて、問題を発生してからまた仕方を考えて解決させると思うなら、そなたはすでにこの悪の共業を巻き込まれることを表示していて、巻き込まれたから再度出ることがとても困難になる。この社会はますます複雑になって、多くの問題を発生した後、そなた達は難しくて処理する。いま、リンチェンドルジェ・リンポチェは信者を接見する時に、信者の問題がますます複雑になることを感じている。リンチェンドルジェ・リンポチェでも複雑と感じていて、況してそなた達であるか?そなたたちは如何にますます複雑な問題を解決することができるのでしょうか?
そなたたちはもしうまく修めないならば、そなた達が死んでから、ある修行者が施身法を修めてそなた達に済度させてあげる因縁と福報があるかどうかをみる。じつは、あちこちにすべて多くの鬼がいて、鬼道の衆生が因縁と福報があって施身法を済度されることがとても得にくい。じつは、そなた達が台風がくることみて、台風が経るところが多くの鬼を巻き込めて一緒に連れる。風害が多くのとことは現地の人々が因果を信じないことを表示する。水害が多くのは貪念が重いことを表示する。地震が多くのは現地の人々が高慢で貢高我慢を表示する。地震帯の地区にいる人のように、そのところの人々が多分とても高慢である。科学者は火山活動のために地震を起こさせることを解釈し、もし、科学家が言うとおりであれば、それでは、常に地震があるはずで、なぜたまに爆発になるのでしょうか?じつはこの原因ではない。これはすべての人、事、物がすべて空性にあり、因縁変化に従って、時間が来て、因縁が成熟になって、事が発生になって、誰でも止まれない。
中元節はもうすぐ来て、多くの人々は鬼を祭った食べ物を奪い取って食べて、鬼を祭ることを食べたら求めることを願いのとおりになると思っている。鬼が食べたものはそなたがまた奪い取るのでしょうか?台湾の北部にある有名な土地公廟があって、現場の多くの人々が行ったことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェはある者を助けてあげたことがある。彼はある土地の交易は順調になることを求めるのため、他の数人と一緒にこの土地公廟を祭って、その後、彼らが確かに多くのお金を稼いで、しかし、求めてお金をもらえる人がその後稼いだお金を無くして、人々が意外があって、ある者が病気に罹って、ある者が破産して、最も厳重なのはその主事者がある2歳の子供が突然に死んでしまった。その後、この主事者はリンチェンドルジェ・リンポチェに彼の息子を済度してくれることを求めてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェは写真の中の子供がとても可愛がることをみて、短寿の相ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの子供のためにポワ法を修める時に、子供が来てお父さんの周りの立て、お父さんの衣服を引いて、このお父さんも子供が彼の衣服を引くことを知っていた。この物語はそなた達に教えて、そなた達が鬼神を求めて、そなた達が求めたいことを求め得ても、しかし、絶対にほかの物を返さなければならなくて、そなた達にただで貰えることができない。
2012年は決算する1年で、過去にそなた達がしたのが今年にそなた達と併せて計算し、悪いことがそなたと決算し、よいこともそなたと決算する。リンチェンドルジェ・リンポチェは1992年から仏を学んでいままで修めていて、自分の業力をすこし転じられて、善の業力をゆっくちとようやく累積することができで、そなたたちは何により一回の法会を参加するとすべての問題を解決することができると思うのでしょうか?ひとつの良くない一言を言って、そなたたちはひとつが貪って、二つが怠ける。もし法会に参加したらすべての問題を解決することができるならば、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めることがいらないで、なぜこのように苦労して修めるのでしょうか?そなたたちはなぜ自分がこのような多くの面倒をかけることがあることを考えなければならない。人々の一生は悩みがないことがないで、そなた達の貪、瞋、痴、慢、疑は改正しないなら、この世に不順調になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの不順調のところをあうことがあって、しかし、最後、ことが解決することができる。今日、ここまで開示する。リンチェンドルジェ・リンポチェは最後老婆心にて参列者に薦めて、帰宅してから深くて考えていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の開示を思っている。
参列者は口を揃えて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の病痛と苦労を顧みないで、慈悲な修法し開示し、虚空の中に無数な衆生に利益することに感謝した。
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2012 年 09 月 28 日 更新