尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年2月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、皆のために死ぬ前の準備を開示された。

法会が始まる前に、ある男性弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に、彼に機会があって公に発露懺悔して且つリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を助けた経過を分かち合うことができるようにさせたことに恩に着た。

先ずは彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝して、彼が去年(2011年)10月4日に脳溢血に罹った時に、幸いに生き残ってそして仏を学ぶことに間に合うようにさせた。10月初め、彼は長期に高血圧が180に達していて、大人しくないで血圧を下げる薬を飲んでしまって、眠っている時に脳溢血が発作して嘔吐を誘発して、その時にふたつきの便器の側で倒れて座ってずっと吐いていて、体の調子が極めて悪くて、彼に死ぬ前の恐れを感じさせた。吐き終わって体がとても虚弱なので、妻から支え助けて、客間のソファーまで行って横たわって休んで、寝ついた後で彼は意識がぼんやりした。彼は大人しくなくて、その故一部の事は間に合わなくて、心の中ではずっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び寃親債主達に本当にとても申し訳ないと言いたいと思っている。

彼が人事不省になっている時、彼は銃の内腔の中に身を置く銃弾のようだと思って、彼の神識は弾丸の位置にあって、弾丸の後方の弾薬室の中で、彼は弾薬室の中の透明な液体が突然に黒くて濁っているように変わった事を見て、間もなく点火する様子らしくて、情勢が一触即発になる時、突然に上方からリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の名前を呼んで、「そなたが下りて」と言う声が伝来されて、それから彼は下りてきた。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがふだん絶えずに弟子達に教えを聞く重要さを教導していることに感謝する。生死の瀬戸際に立つ彼は、上師のひと言がすべて、弟子達が仏を学ぶ慧命を救うことができるのを深く体得した。イベントの発生が速すぎるから、彼も思索する時間が無くて、事後に絶えずに上師が彼を救助したことに感謝しかできなくて、そしてこの経過を整理して記録を作って、皆に参考までに申し上げることができると望む。

その後、彼が車椅子に座って道場まで来て、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に恩に着て、彼に命を残させたことに感謝して、しかし彼は欲が深く、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼のはっきりと見えない目を加持する事を祈り求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなたは本当にとても欲が深いね」と開示して、彼は聞いた後すぐ懺悔すると思って、直ちに涙を下へ流して、そして、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告して、「弟子は間違ったことを知っていて、本当にすべきでない。」と言った。意外に、涙が拭いて乾かすと、左右の目は回復してきた。彼は、本当、その時に両眼が全部回復したと再度強調した。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にとても凄い。

そして彼は発露懺悔して、10年前に高血圧で脳卒中になって、一度半身が麻痺したため、病院へ応急手当を受けに運ばれたことがあり、退院した後に彼は初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行った時、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ彼の後ろで1匹の犬が彼に従っていることを開示したが、しかしその時信じなくて、それからやっと兵隊生活の時に嘗て犬の肉を食べたことがあると思い付いて、南投に出張した時、公用車も犬にぶつかって犬を傷害したことがあり;小さい時空手で蟋蟀の中間の足を抜いて、そして水池に投じたことがあり; 1999年に医者に胎児が地中海貧血に罹っていると診断されたため、彼ら夫妻は利己的に子供が5ヶ月の時に分娩誘発したことがあり;そして以前には衆生を食べたことがあり、この世に既にとても重い殺業を犯した。

数年前リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て慈悲に彼と家族に開示されたが、彼の祖父は殺業が重いから、二人の兄弟の中に彼は事故に遭えるから、注意しなければならない。その日家に帰って彼は年寄りに教示を聞いて、始めて分かった。祖父は漢方医を担当する時、顧客が沢山あった、それは調剤する堕胎薬は「薬を飲めば、赤ちゃんの命を失う」という効果があるから。累世の悪は彼達の家族に遺伝性の糖尿病及び高血圧に罹らせた。ただし彼達の兄弟の間に異なる状況があった。此れもリンチェンドルジェ・リンポチェが常に法席で開示された通りに、同じな家族の兄弟はたとえ背景が同じでも、自分の累世業力によって、異なる果報がある。彼もリンチェンドルジェ・リンポチェの加持及び教導を感謝して、彼達に此の世に返済できる機会を与えた。

皈依前二三年に、嘗て圧力が大きいから、繰り返して病院の救命救急センターに進出していた。皈依後リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頼って、心身とも快適だった。しかし、教えに従わず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに従って仏をしっかりに学ばなかった。更にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示されて、仏経に教えた方式に従って定期的に供養しなかった。ある時独り善がりに供養の金を撮影の機器を買っても供養とも言えると思った。常にボランティアになればいいと思った。だから累世の悪業は彼の脳血管に破裂させた。今回脳梗塞が発症して手術室からICUに運ばれた時、妻から聞いて彼は目が大きくて無意識な目つきは巨大なショックを受けたようだ。彼に十数年前に母は病院に昏迷してその後植物状態になった初期と同じだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、彼に間に合って仏を唱えて仏を学ばせる。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、自分に懺悔の仏法テープを聞かせて、自分に上師の功徳を褒めさせた。誠に皆が平日に必ず教えに従う習慣を養成するのを望んだ。それは上師の教えに従う事は正しい。最後彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を感謝して、更に寶吉祥漢方薬診療所に提供された治療及び天麻を感謝した。それはとても美味しくて効果もある。

続いてある女弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の就職する学校を助けた経過を報告した。

今年2012年1月8日午後、彼女が勤めた学校で火事が起こった。火事が起こった場所は地下の1階の体操館だった。当時引き続きに地下室から火が沢山生じた。更に水が足りない状況に遇って、緊急措置を難しくとった。合計37台の消防車が出動して消火作業を行って、一時半くらいにかかって火事を消した。このような酷い火災に遭っても図書館は1階の入口から2階はちっとも損傷しなかった。唯薄い黒い炭は部品の表面及び床に覆われた。彼女は深く信じたから、学校の図書館に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの著作《快楽と痛苦》を陳列したから、図書館に火事で燃えさせなかった。尚更に当日図書館に勉強した学生達及び3階活動センターで台湾、日本バドミントンチームは親善試合に参加したメンバー達は一人でも傷付かなかった。此れは全て尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な慈悲の加持及び加護である。

その後ある弟子はこの事を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに教示をしたが、慈悲な金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「その中に仏法がある。」と開示された。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して衆生を利益した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが体の健康、法輪は常に転じて、常に此の世に存在する事を祈った。

続いてもう一人女弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を助ける経過を分け合った。

彼女は息子と2009年3月22日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。彼女が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにあった因縁は全て彼女が既に皈依している夫のお陰で良く彼女らに上師の済度の事蹟を分け合ったのである。始め頃彼女と子供全部集中して夫の話を聞かなくて、夫が彼女らに責めたみたいと感じたが、頭の中にかえって深刻の印象を残ったーリンチェンドルジェ・リンポチェが大変すごくて、誰でもリンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に来ると心の中に何にか思っているかリンチェンドルジェ・リンポチェが全部知った。

暫くした後、夫が彼女に法会に参加するかと聞いた。あの時彼女が行かないと言う勇気がないので「はい」と答えた。夫がついに言った:「無理しなくても良い、本当に参加する気が有ったら求めに行って結構だ。」あれから、彼らご夫婦が誰も主動的にこの事を言わなかった。因縁が備えたある土曜日、彼女の夫が彼女に電話して彼女らのため尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れたと言った。

夫は前に嘗て彼女に教えた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに法会に参加することとか懺悔テープを求める時、是非「私がいる」ような失礼な話をしてはいけない。夫も彼女らにリンチェンドルジェ・リンポチェが人様を叱ると言ったが自分の目で見た事がないので体得が出来ない。しかし、彼女は待っていった所に、自分の耳でリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた者が叱れたのを聞いた、とても特別と感じた。あの頃彼女が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子達に対して罵りは1つの加持だと了解しなかったが、彼女は感じた、この目上方は、他の寺院の何時も微笑んでいる修行者と同じではなく、とても心を使って衆生に教導して、衆生の誤りをいちいち訂正して、また衆生が聞き取る方法で開示された。

彼らが尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に跪いて頭を上げると慈悲で微笑んだ上師を見た。彼らに「何のご用か?」と聞いた。彼女の心の中に1つ形容が出来ない感覚があり、彼女が嘗てどこかにリンチェンドルジェ・リンポチェとあったみたい。1つなじみの感覚があって、彼女が既にリンチェンドルジェ・リンポチェを長く知ったようで、それであのごろ彼女の頭は突然に白くなって、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた目的を忘れてしまった。その後、彼女の意識が戻って来て、すぐ法会に参加する事と懺悔テープを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に聞いた:「何故法会に参加するか?」彼女はちょっととまって報告した:「私はそなたと仏を学びたい。」続いてわけもなく突然に自分は罪が深くて重かったと感じたからと悲しく言った。

彼女は暫く泣いた後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に素食するかと聞いた。彼女は本来全く素食しないが、既に法会に参加する事を決めたのでこれから素食し始めよう。それで彼女ははい、そうです素食だと答えた。引き続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に聞いた。間もなく新年で、実家に帰る時家族は全部多くの魚と肉を用意して、まさか家族は彼女に食べさせないか?彼女はちょっととまって正直で既に暫く実家に帰らないと答えた。家内には債務の問題があったので、夫は彼女が接触するのを望みたくなかった。しかし、彼女はこそこそ電話をかけた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に是非翌日法会に参加しに来させて、しかし、彼女は急に翌日に出勤しなければならないと思い付いた。が、彼女は主人が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に何をさせるならすると正しいである事をすぐに思い出した。だから、彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに恭しく感謝してから返した。その時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは側に伺う出家衆の兄弟子に彼女の主人の名前を書かせる事を指示した。だから、彼女はカウンターで法会に参加する事を申し込む時に、その出家衆の兄弟子が彼女に主人の名前を書かせた。彼女がずっと書かないで、なぜならば主人が波及されることをとても心配した。出家衆の兄弟子は彼女に安心して何も用事が無いと話して、彼女がその時に主人の名前を書いた。寶吉祥仏法センターを離れてから、彼女は急に電話を掛けて同僚に頼んで代って出勤してもらって、翌日が日曜日なので、殆どのお休みを取る同僚は全て遊んでいった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持なので、彼女は代わって出勤する人を探し当てた。

翌日、法会に参加する時に、彼女の心の中にがまだ少しの心配を持っていて、法会が間も無く終わるまで、一切がとても平静で、彼女がやっとほっと息をついた。しかし、その時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の主人の名前を呼んで、その上、「そなたはそなたの奥さんに実家に帰らせないよう聞いた」を仰って、彼女の主人は「申し訳ございません、私は間違った」とすぐに回答した。引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示はもしこの事件をうまく処理する事が出来ないなら再び来ないでください。法会後、彼女はとても気がもめて、主人に怒られる事を恐れて、が、主人が怒らないだけではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが指示の通りに主動的に彼女に実家に帰らせることを督促し、彼女の問題を解決した。

一回、彼女はせっかちに出勤したので、車に乗る時に一つのT型の交差点を通る時に、ただ右側に車がない事をみるだけので直接に左を向いて、左側に車がある事を全然注意しないで、結局、自身と車と共にぶつかられて倒れた。彼女は急に起きて車を引っ張る予定で、ある人が彼女に大丈夫かどうかを聞いた。彼女は回って見ると、以外に道場の兄弟子を発見した。彼女はとても苦しくてその上自分の過ちを責めていて、自分の不注意なので、彼女にぶつかる兄弟子もショックを受けた。彼女もリンチェンドルジェ・リンポチェの加持にとても感謝し、或いはこのぶつかってから如何になる事が知らなかった。会社についてから、同僚にリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に救った事を分かち合って、同僚は彼女が今大丈夫けれども、明日が全身がだるくて痛くなる事を言った。彼女は自身が何か問題がない事を信じていて、翌日、やはり彼女が何か問題が無くて、全身に少しの痛みが無くて、これは全て尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝しなければならなかった。

それから、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに発露懺悔をした。彼女は皈依してからいままで3年間になって、が、教法により実際に従わないで、前に発生した債務の問題が全て自分の個人の欲求が引き起こしたので、事件を発生した時に、少しも過ちを認める事を知っていなくて、ただ主人の間違いだと思って、全ての間違いが他人の他人の間違いのである。リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学ぶ前に、彼女がとても辛くて生きていて、死ぬ事を強くて望んでいた。いま、上師に従って仏を学んでから、一切の貪瞋痴慢疑が全て自分に引き起こされる事を了解し、それでは還付しなければならなくて、受けない事が無かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達にうまくて仏を学ばせて、生死輪廻を離れさせるので、弟子達の為に多くの法を修めて、が、弟子とする彼女が何回目でリンチェンドルジェ・リンポチェに利用し、リンチェンドルジェ・リンポチェの言う事を聞かないで、『仏子行三十七頌』が一つでも遣り遂げる事が無かった。彼女は全て彼女に殺された衆生達に謝って、更に親孝行をしないのが母親及び舅と姑によく親孝行をしていないで、彼女が間違った。これから、彼女は言う事を聞かなければならなくて、自分の悪の行為を改正する。その上、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの身体が安康して、法輪が常に転じていて、常に世に留まる事を祈っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェが法座に上った後にこう開示した。先週皆に死亡を開示して、仏法が他の宗教と違う地方は、仏法が私達に将来死ぬ前の準備作業を多く教えて、私達に生死輪廻の苦海に解脱させることができるのである。そのため、私達は日頃には、自分の心を訓練して、上師に対してその教えことを全部聞いて、自分の考えを持たないでください、自分の考えがあるのも執着である。チベット仏教はどうして上師の重要さを特別に強調するか。と言うのは、心は不定時に上師に頼るため、しかし、もし功徳、福報がなければ、たとえ上師は助けて与えても、依然として解脱することができない。別に上師はそなたが彼の話を聞いてくれる必要があるのではなくて、実は上師のすべての思想、行為、言語は衆生を利益するために、衆生に解脱を助けるから。

しかしそなた達はすべて、二分法があり、ただ道場の中でリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったのが仏法だと思っていて、いくつかの仏法に関する名相を言って、はじめて仏法を言って、その他リンチェンドルジェ・リンポチェが言ったのは、仏法と関係がないと思っている。このような考えは正しくない。事実上、上師の喜び、笑い、怒り、叱りはすべて衆生を利益する仏法範囲の内であり、1つの目つきも加持であり、100パーセント従うべきであり、なぜかと言うと、上師のあらゆる言行は衆生に生死に解脱させることができる。一部の人は衆生を助けるのはきっと一定の方法によってしなければならないと思って、実はそうでもなくて、衆生の縁が異なるから。いわゆる「法無定法」とは、範囲が無くて固定的ではないのを指すのではなくて、それは衆生の縁が異なるから、その故衆生の縁によって衆生が必要とする方法を示現して助けてあげる。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助けるのは衆生の縁によって助けてあげるが、しかしそなた達自分自身もいくつかの準備作業を要する。もし生きている時に上師を聞いてないで、自分の思想で上師を評論するならば、境界が来る時に上師に対する信心不足のため、疑心を起こして、上師の加持を得ることができない。別に、リンチェンドルジェ・リンポチェと仲良しとなったら特別になるのではなくて、そなたはただ上師に対する自信さえ十分に備えれば、全ては助けを得ることができる。

例えば、そなた達はちょうど小学校1学年の1日目、或いは第一ヶ月のように、先生は何を言っても、そなた達は全部従ってやるだろう。しかし、今、そなた達は自分が多くの本を読んで、多くの人生経験があると思っているから、かえって上師の教えに対して完全に素直にやる事が難しくなって、上師の言う話、教導した仏法をやらない。そなた達の人生経験は、ただ過去世とこの世との意識の影響を受けて、そなたの生活の中でやった様々なすべての1つの記録の累積であり、そなたのもともと既に内に存在した真実本性と全然異なっている。多くの人の心は偽であり、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来る時、自分が仏を学ぶのは衆生を利益しようと言って、もし仏法で他の人を助ければ、すべての心は全部正しくて、衆生の縁によって助けを与えるから、ただ一つの方法で相手を手伝うことができると思わないで。お経には、「法無定法」を言及されるように、確かな仏法がないのではなくて、仏法が縁を講じるので、すべての人の因縁が異なって、累世の習慣は異なって、仏を学ぶのは必ず肯定して、百パーセント死亡無常を受けなければならない。修行した後に体が良くなって、仕事が良くなると思わないでください。このような考えは外道である。自分の生死に対して把握がある人は、新しい執着と貪念が発生しない。

怨み、恨みがある人は、生前にきっと多くの苦痛を経験するであろう。何故かと言うと、執着して手を放すことができないから。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうして死亡を開示するのか。もしこの方向に向かって行かなくて、心を死亡無常に置きたくなくて、やったのはただ自分に来世に使う人天福報に累積して助けるだけである。

外道はそなた達がただそなた達の神、主にそなたにくれるように求めるのを言って、そなたのすべてのものはそなたの主がそなたに与えたのである。しかし仏法は異なって、仏法はすべてが縁によって発生して消滅することを言うのである。仏陀は我々に宇宙の中で真実に存在する物事を教えて、私達に生死に解脱して、苦を離れて楽を得る方法を教えて、するのは私たち自身である。そなた達が学校で勉強している時のことを考えてみて、先生もただそなた達を教えることを担当して、先生はそなたに宿題をやってあげなくて、試験して手伝うことができなくて、そなた達はやはり自分でしなければならない。上師は先生と同じ、そなた達に教える仏法はそなた達が自分で実行して実修しなければならない。

業は私達を輪廻させる力量の一種である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、《地蔵経》は説かれた「衆生が心を起こして念が動くのは、全てが業であり、罪である」を何度も開示されたように、もうすぐ唇が破れても、そなた達は信じない。ここの罪は、世の中のすべてがそなたが輪廻に解脱することを修行し、成仏の道に行くのを助けることができないのは、すべて罪である。ここの業とは、そなた達が生まれてから、すべてが自分の利益のために考えるいるので、するのはすべて業であり、業は悪業と善業を含む。懺悔し終わって事がよくなると思わないでください。懺は自分が過去にやった善業と悪業の果報を受け取って、悪を作ったのは懺悔が必要で、善の業も懺悔が必要である。何故かと言うと、善行をするのは三輪体空がわからないならば、善の業は同様に私達を輪廻させて、善の果報を受けに来るから。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法、施身法、火供などを修めて亡者を助ける時に、最初にするのは亡者を代表して懺悔するのである。そなた達はきっと思い付かないだろう。そなた達は自分が《梁皇寶懺》に参加して、《梁皇寶懺》を唱えたことがあって、お経が礼拝し終わった後にすべての罪は花のように飛んでしまうと言って、すべての業は弁済して、無くなったと思わないでください。決してそうではない。因果は必ず存在するので、業果も飛び去ることができなくて、なおさら、ただ1つの罪の花が飛び去っていないと、果を結ぶのである。

そなた達は多分、どうして最近の数回の法会に、リンチェンドルジェ・リンポチェは突然に死亡を開示するか、合点がいかないかもしれない。道場の中の乳癌に罹っている一人の弟子は、数日前に逝去して、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法の済度を得ていない。何故かと言うと、彼女が生前にリンチェンドルジェ・リンポチェに求めに来なかったから。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法をとても良く素晴らしく修めているのをよく知っているのに、求めに来ないで、その原因は彼女が自分がこのように早く死ぬこと信じなくて、死亡無常、死ぬ時が定まらないとのことを思惟しないから。この数回の法会に、リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと死亡を開示して、殆どもこの弟子のために開示したのである。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲にすべき、彼女に回復して良くなるように助けて、彼女を彼女が死にたいと思うまで生きさせると思っている。誰が死ぬことが好きであるか。多くの人が仏を学んだ後に体がよくなって病気が無くなることが出来ると思っている。このような信者が求めに来ることに出会ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは全て彼らに、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分も死亡する日になるから、どのようにそなた達に死亡しないように助けることができるのか、と開示する。これは仏を学ぶことと関係がなくて、仏を学ぶのはかえって必死の決心を抱かなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子が往生した時、修法して彼女の神識を保護して、同時に彼女が死んだ時に顔色がよくなくて見えることを知っていて、両手がとてもきつく握って、それは彼女が死亡に対して正しい認識がないため、死亡をも受けなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のため修法し終わって助けた後に、彼女の顔色は比較的に美しくなって、もともとは強く握っている手もすこしとき放した。現場に居合わせる一人の弟子も、あの乳癌に罹った弟子がちょうど往生した時の顔色があまりよく見えなくて、両手が冷たくて強く握っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に法を修めて助けた後に、再び入って見舞う時、あの往生した弟子の顔色が比較的に美しくなって、手も比較的にあたたかくて柔軟になった、と説明した。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうして手はしっかり握ったか?何故かと言うと、執着のため、受けとらないからと開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法し終わった後に、手がとき放して柔軟になったのは、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を助けたことを知っているから、彼女が安心していた。

一部の人は亡者の側で亡者の一生を称賛することが好きで、或いは亡者に生前こんなに多くの苦しみを経験したが、今安心して行きなさいというような話を教えて、ストーリを言うように聞こえて、さらにこのようにすると感情がある振る舞いだと思っているが、実はこれは亡者の執着する心を引き起こして、亡者にまだこのように多くの人が彼に借りがあると思い付かせて、死にたくない。別にそなた達が亡者を追想しないと要求するのではなくて、いかなる亡者に執着あるいは煩悩を引き起こさせる事をしないでください、それは亡者にとってあまりよくない。例えば、亡者の側で亡者の墓の方位を討論したり、或いは誰かに頼んで楽器を敲いて法事をやったりするのは、亡者の心をうれしくならせない。

ある皈依弟子が往生して、彼女の姉はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依していなくて、亡者の側で大声で泣いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修める時にも知っている。そなた達が人が死んだことを見て、すぐ拍手してよい事だと思うということを要するのではなくて、そなた達に教えるのは、人が往生した後の8時間、亡者に落ち着いている心が直面することを維持させる。この時、亡者の神識は今なお体内にいて、きわめて敏感であり、いかなる人が彼の肉体を動かしたら、彼を悪念を起こさせて悪道に落ち込む。人が死んた後に、彼に言い争うように手伝わないでください、彼の身の回りで遺産の処理状況を言わないでください、この時すべきなのは亡者が落ち着いているように助けて、亡者に生前の好きな玩具、彼のためにすべて供養して手伝うことを教えて、彼をもう執着させなくて、亡者の財産のために論争が起きるのは亡者にとって最もよくない事である。

あなた達は人が死んで、亡者の身の回りでそっと亡者の手に触っていて、亡者に対してある程度助けることができると思わないでください。これは実は亡者にとても苦痛にならせる。何故かと言うと、人が死んだ後、すべての息は切れて、そなたが亡者に触る時、そなたの息は亡者の皮膚を通して入っていくから、そなた達は修行していなくて、息がよくない息であり、往生者にとても気分が悪くさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェと同じように修めるのでない限り、亡者に加持を与えられて、彼がとても心地良いと感じて、ようやく亡者を利益を得るように助けることができる。その上、もしかすると、そなたはただそっと触ると感じるが、しかし亡者にとって、そっと彼の皮膚に触る感じが彼の皮膚を引き裂くようにみたいである。ちょっと考えてみて、自分が熱が数日間出る時に、もしある人はずっとそなたに触って、そなたにぶつかって、そなたはいらいらすると感じて、彼によけさせることではないか。嘗て、リンチェンドルジェ・リンポチェは1人の弟子にポワ法を修めて助ける時、この弟子は一人の医療関係者が彼女の足に触ったことで嗔念を起こして、もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に法を修正しなければ、彼女は死ぬ時に嗔恨の心を起こして地獄に堕ちる。

実はもう、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの乳癌に罹った弟子の時間があまり多くなくなったことを知っていて、彼女の寿命は実は2週間前に無くなるべきである。ある日、彼女は3人の男の子が彼女をつかんで帰りにくることを夢見て、彼女が命懸けで六字大明呪を唱えても、全然役に立たないで、彼女は大声で、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を救って、と叫んで、あの3人の男の子はやっと彼女を放した。実はあの3人の男の子は地獄の看守であり、この弟子はもともと地獄に下りる因があるが、幸いにもリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して、すべての金剛上師は三悪道に下りないように弟子を保護して──ただ弟子は教えさえ聞けば。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修めて彼女の神識を保護していないならば、彼女はすぐ人道に生まれ変わっていく。人道に生まれ変わるのはいいか。よくない。苦しみが多くて、楽しみが少ない。彼女の神識を保護した後に少なくとも再び彼女に天道まで済度して助けることができて、天道の寿命は比較的に長くて、同じく彼女に天道でさらに仏を学ぶ機会があらせる。浄土まで済度されることができるなら、生死に解脱するのは良い。

この弟子は道場にきて仏を学ぶ心構えも完全に正しくなくて、ただ病気が良くなることだけを求めて、だから彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しにきた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に対してあまり開示していなくて、かえって一人の乳癌に罹った患者の弟子が彼女に言うことを要するので、なぜかというと リンチェンドルジェ・リンポチェがたとえ彼女にどんなに多く開示しても、彼女も受け取ることができないと知っている。しかし彼女は信心がなくて、どうして、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら開示しないで、他の人を探して彼女に教えると思っている。彼女は福報が足りないで、且利己的で誇らしくて、その上これまでリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したことがない。福報しかも信心がある人は、上師のするいかなる事がすべて彼女にとって良いとのことを受け取る。今年の旧正月一日の法会は、彼女が午前に参加しにきていないで、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの機会を利用して、彼女が午後の法会に参加することを許せないで、しかも寶吉祥の赤い法衣ベストと法本を回収して、意図は彼女にある程度警戒させて、同時に彼女の高慢な心を取り除くため。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまで彼女を叱らないで、なぜかというと、リンチェンドルジェ・リンポチェがもしも彼女を叱ったら、彼女は間違いなく逃げてしまってもう来ないのを知っていて、このようになると、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を助けることが出来なくなるから。幸いに、彼女はそれからまたリンチェンドルジェ・リンポチェに持続的に謁見しにきて、自分に機会があって上師と仏菩薩とこの縁を継続することができるようにさせた。

上師と仏菩薩はそなたに多くの縁を造って手伝うが、しかしこの縁を継続できるのはそなたの自分自身次第である。福報が十分にある者は、往生した時にすぐ上師の済度を得て浄土まで行かれる。一部の者は既にリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を求め得たが、しかしもし生前よく修行していないならば、往生する時に福報が足りないで、やはりリンチェンドルジェ・リンポチェを探して、彼らのため法を修めることができない。福報が足りない者は、少なくとも往生する時、さらに余計な事が生じないでください。リンチェンドルジェ・リンポチェに依存したくないでください。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達よりもっと前に亡くなるかも知れない。そなた達は心を定して、上師と仏を学ぶ因縁を大切にして、自分で修行するのはそなた達にとって最も助けがあって、どの世に修め得ることができるは重要ではなくて、重要なのはそなたが決心してやり始めることである。

この往生したばかりの弟子は、どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を求めに来ないか。何故かと言うと、彼女が求める勇気が無いから。彼女はポワ法を求め得たら、急速に死ぬ恐れがあると思っている、実はこのような言い方がない。一部の年上の弟子は既にリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を求め得たが、今までもまだ死んでいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは居合わせる年を取っている弟子に、誰がリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を求め得たかと問い合わせて、多くの弟子は手を挙げて、その中の一人は出家の皈依弟子である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この出家の弟子が道場に来る前に既に癌に罹っているが、今までもう数年間たって、同じくやはりよく生きていて、完全に癌の患者だと見えないと開示した。実は標的攻撃にてガンを治療した後に、ある人が更にナノで癌を治療して、同じく失敗して、成功できない。あの乳癌に罹って往生した弟子は、自分がまだ若いと思って、このように早く死ぬべきでないと思って、彼女はもう一人の乳癌の患者の弟子を見て、年齢が自分より長くてもまだ死んでいない。このようなのは比較している。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子の名前を知っていないが、しかし、そなたの名前を知っているかどうかに関わらず、そなたは完全に上師に対して投降するのでさえすれば、上師は知っている。何故かと言うと、上師は平等心、慈悲心を使っているため、一切の衆生を捨てない。

どうして癌に罹ったか。リンチェンドルジェ・リンポチェを例にして、どうして皮膚癌に罹ったか。何故かと言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは小さい時から海鮮を食べることが大好きで、皈依していない前にほとんど毎日食べるので、しばらく因果から言わないで、もし漢方医の角度から言えば、海鮮が寒毒であり、その故一部の人は病気にかかる時、漢方医師は彼に魚、エビ、カニを食べないように教える。現場で漢方医をする弟子は海鮮が確かに寒毒があって、だからもう海鮮を食べるべきでないと報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法から見れば、こんなに多くの衆生を食べてしまって、無数に殺生して、もちろん果報がある。もしリンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学ぶこの道を歩かなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこのようによく海鮮を食べたことがあるから、全身の細胞は全て毒素を満たすのである。

道理によって殺業がこんなに重いならば、不治の病に罹るべきであり、衆生がそなたを見逃さないから。しかしこれは仏菩薩が私達を罰するのではない。《地蔵経》はどのような因を植えば、どのような果を得ることに言及することがあって、動作をした所、情報は宇宙の中に残して、これは仏法の中に説かれたように、業力が形成すると、ずっと虚空の中にあっていつまでも消滅しなくて、果報が現れるまで。仏法はその他の宗教と違って、別の宗教はそなたが主の話を聞いてくれないと処罰される。仏法はそなた達がするように教えて、もしした後に自分が変化がすることに気づいたら、引き続きして、生死に解脱するまでし続ける。もしそなた達が仏を学んだ後に好きではないと、もう学びたくなくても、仏陀もそなた達を罰しない。

どのような因を植えば、どのような果を得る。仏菩薩はそなたが教えを聞き取るため、わざとこのようにそなたを恐喝すると思わないでください。地獄に堕ちるのは仏菩薩がそなたを罰すると思わないでください。仏菩薩はもし人を処罰するならば、仏菩薩ではない。外道は多分こう言うかも知れない。そなたは私を信じないと、地獄に堕ちる。しかし仏菩薩はこのように言わない。そなた達は、彼がいい人であり、悪い事をしなくて、どうして地獄に堕ちるのか、と言いたい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、実は地獄に堕ちるのが非常に容易な事であり、菩薩まで修め得る事や、天に昇る事は容易ではない。だから《地蔵経》の中には、こんなに明らかに話して、何をして何を得て、どんな悪業をつくって、どのような地獄に堕ちると説かれた。悪業され作れば、地獄に堕ちる機会がある。例えば、親孝行ではない人は地獄に堕ちる。そなたが嗔念さえ起こせば、そなたを火地獄に堕ちさせる。違うのはただ個人の悪業の軽重が異なるによって、大地獄、小地獄に行って、小地獄にいる時間が比較的に短くて、しかし最も短いのは人類の時間の1千年を要して、ようやく離れてくることができる。どうして癌は最後までそなたを痛くならせて、そなたが痛いと感じると嗔念を起こすから、嗔念を起こすと堕ちる。癌を別にして、そなたの体はもしどこが痛くなるならば、例えば頭が痛くて、ただ数十分間痛くてまあまあ大丈夫であるが、もし毎日すべてそなたが痛いと感じたら、そなたはきっと我慢できない。

どうして仏法はどうして中国でとても大きい割合の人が信奉しているか、別の国家の中で仏を信じる人数の割合がこんなに大きくないか。2000数年前の中国の孔子は師を敬って道を重じて、両親に親孝行をすることを提唱した。仏法は世間法を離れないから、人に両親に親孝行をするように教える。尊師は1種の供養であり、親孝行も1種の供養である。だから、仏法が中国に伝われて入って来た後、急速に中国人に受けられることができて、その上中国の文化に影響する。その他の宗教は中国で一部の人は信奉しても、しかしやはり少数者しかない。私達の日頃の日常生活の中で、よくついに一部の仏法の名詞を使った。。因果の観念についてもこのようであり、そなた達は中国の歴史の上で見て、どんなに悪い人でも、彼がたくさんの悪い事をした後、ある日因果を思い付いてよくない果報があること知っている。

最近テレビの上でずっと放送されて討論される運転手を殴ったニュースが1つあり、そなた達は引き続きいっしょにののしらないでください、彼らはテレビに出席して罵ったら、金が儲かって、そなた達は彼らを真似しないでください。今選挙が終わって、皆はやる事がなくて、言う話題がない、こんなに小さいニュースさえこのように派手に宣伝した。これは国民全体の運動ではなくて、もしそなた達は混ぜて入って一緒に罵れば、1つの悪の因を造る。この女の子はこのようになったのも、果報のためであり、このような彼氏に交際して、また花をかばう挙動がいくつかある。彼らの福報は使って消耗して、だから業力が熟している時、事に出会うと拡大する。この事はさもなくば実は性質で来て、性質で終わって、現場で出席の皆がたくさんでも似ている事が発生したことがあることを信じる。

もし仏を学ぶ者ならば、ふだん自分の行為を点検する習慣を養成して、境界が現前するとき、自分の行為に対して熟考して、間違いを犯しにくい。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に《仏子行三十七頌》を修行する事を教導して、1つずつの頌はそなた達を輪廻に落ち込む機会を減らさせて、この芸人は仏を学ぶ機会がなくて、自分の行為を制御していないで、だからようやく事故が起きた。同じく彼女の酒を飲んで心性を乱れて、はじめてこのような事が発生したため、仏法が人に酒を飲まないように教えるのもそなた達を保護しているのである。私達は憐憫の心で見て、今日彼女は1つのよくない因を植えて、将来よくない果実の出現がある。

数年前にあった一件盗撮VCDが流出した新聞事件、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に見ることを厳しく禁止した。それはあれが盗撮されたので、盗撮したものまたは見るものを問わず、全部今後のぞかれた果報を植えた。そなたがこの世に盗み見られなくても、来世にのぞかれる因を植えた。見ると瞋が起これば、地獄に堕ちる因を植えた。見てから淫欲心が生じれば更に酷くなろう。このデーブを見た後しないべきことをすれば即ち邪淫のことを犯してしまったので見るな。

先ほどあの脳中風を報告した弟子は、福徳因縁が備えなくて、皈依した数年なのに、懺悔心と供養心が足りないので累世の悪業をまわす事が出来なくて、年沖にあったと突然に脳溢血で中風して、すんでのところで非時で亡くなることになった。皈依弟子は非時で死ぬことをしない、死なないではなく、まだすこしの寿命があり、しかし年沖、日沖などにあって、また累世の悪業を重ねて死ぬかもしれない。この弟子は年沖にあって、死亡する過程の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を救いに来て、口調がやはり大変厳しくて、しかしこの弟子が上師の話に従ったので、命が救われた。多くの弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した数年後、突然に交通事故にあったが死ななくて、それは、修行するためまだすこしの寿命があるべきが、我慢心、供養心が足りないので、交通事故があったが大丈夫で、これも転重軽受で、1本の債を返した。

実は、事件が起こった時リンチェンドルジェ・リンポチェは現場へ行かなくて、時間的に推測して朝の時、リンチェンドルジェ・リンポチェが寝ているはずだ。しかしこの弟子がなぜリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を救うのを見たか?これとリンチェンドルジェ・リンポチェの願力と関係があった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生が非時で死ぬのを望まない、またリンチェンドルジェ・リンポチェは常に自分が全て修めた功徳福報を弟子に迴向するのとも関係があった。この男弟子は皈依した時間が割合に長くて、彼は常にリンチェンドルジェ・リンポチェを撮影して、リンチェンドルジェ・リンポチェが人を叱る様子に既に慣れた。彼は懈怠で供養をあまりしないが、彼は本当にリンチェンドルジェ・リンポチェに恐くて、それより死亡する時上師の話を聞いて、命を救われた。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を叫んだ声を聞いてどの反応がなくて、直接に入れば、もう戻ってこない事になった。、

これもリンチェンドルジェ・リンポチェが何時も仰った、上師に恐れて、叱れることが出来ないもんは一番最悪で、彼はやり直さないから。叱れる事が出来るならばやり直すとの現われで、それも懺悔するとの現われだ。仏菩薩がそなたにもっと助けるのではなく、そなたがやり直したいので、諸天護法が自然にそなたを守りに来る。リンチェンドルジェ・リンポチェに叱れるのに恐れて、「リンチェンドルジェ・リンポチェに知らせにで、リンチェンドルジェ・リンポチェが知ったら怒る。」との心の持ち方がとても悪だ。先週日曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会の中に寶吉祥仏法センター理事長を厳しく礼儀を知らずと叱った後、理事長の数日痛かった歯に近くの関節が痛くなくなった。理事長も報告して、リンチェンドルジェ・リンポチェが叱った後歯がすぐ痛くなくなった。この件はリンチェンドルジェ・リンポチェが知らなくて、それはもう1人皈依弟子が言い出したのである。彼の歯の関節が痛かったのも以前肉を噛んだから。実はリンチェンドルジェ・リンポチェの叱りも加持で、弟子に業を消すのを助けた。ある弟子が上師に叱れる事を受け取れると彼が懺悔するとの現われで、それも彼の傲慢な心がなくなった。懺悔即ち供養で、供養であれば、福報が起こられて、彼の業を消す事が出来るになった。そなた達が思い出して学生時、し間違うと先生に叱れるか?なぜ仏を学ぶには先生に叱れる事が出来ないだろう!

他の宗教は因果を説かなくて、一切全部主が与えて、全て主の手伝いだ。しかし仏菩薩はそなた達に点数をつけることをしない、仏法を宗教化するな。そなたが教えに従わないと1人良くない学生のように、先生にとって、1人従順の学生に対して、自然に多く仰って、彼の条件によって多く彼に教えて、不従順な学生に対して僅か一般な教法によって、しかし仏法はそうではない。仏法はそなたの根器、福報によって区別な助けを与える事はしない、そなたには只縁があって、仏の話を聞いて修行すれば、護法神は全部そなたの修行することを守って、そなたに修行する道に障碍を有らせない。仏菩薩はこれあれを区別せず、只我らにチャンスを作って我らに宇宙の中にまた多くの解かないことを了解させる。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ亡者の状況を知ることができるか?それは慈悲を修め得たから、慈とは自分の楽しいを他人の苦しみと代わって、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の福報と功徳で亡者の苦しみと入れ替わって、自然に亡者のことを分かりになった。

仏法は宗教ではなく、仏法は1つの教育で、我等は釈迦牟尼仏を教主ではなく本師と尊称する。釈迦牟尼仏は修行して証得した宇宙真理の経験を世人に教えた。仏経には説いた全ての空虚は大変大きくて、宇宙の中の森羅万象を全部含んだ。しかし宇宙万物も同じで微小な毛穴の中に含む事が出来る。大と小との区別がなく、正と誤のことがなく、時間、空間、大小、遠近は全部人様が区別する。科学も証実した、全ての人の結構は全部同じで、全て基因で組成して、宇宙万物の構成の分子が一番基本に戻っても同じだ。仏と衆生と全部同じで仏になる条件をあり、同じの本質があり、我等が言った本体は同じで、全く同じで、仏と衆生との区別がない。釈迦牟尼仏は菩提樹のしたに悟る時嘗て衆生と私と同じの本質があると仰った。宇宙万物は全部一体で、唯六道の衆生は業力に牽引されて世間に輪廻して、自分の本性を察知する事が出来なくて世間に迷って悟るが出来ない。

そなた達は信じて従順する必要で、迷信ではなく、衆生が存在することを区別しないで、どの衆生でも全部仏になる条件を備える。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助けて、そなた達は衆生、自分が上師と区別しない。これはまるで≪金剛経≫が説いた菩薩は四相を破るべきで、我相、人相、衆生相と寿者相である。衆生が離苦する事が出来なければ、菩薩も出来ない。所謂無縁大慈、同体大悲の体とは衆生の本体は同じだ。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者の執着と苦しみが分かるか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェは亡者と同じの体で、そちこちと区別しない。同体とは彼と一体を共同するのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の功徳と福報を衆生に与えて、彼の苦痛をかわって、それでリンチェンドルジェ・リンポチェは彼の苦痛、執着をわかり次第に彼に助けを与える。リンチェンドルジェ・リンポチェの目の中に一切の衆生は全部平等で、どの衆生を捨てることはしない、一切縁によって衆生を救済する。

しかし、一切の衆生が全部仏性を備えるのに、なぜまだ仏になれないか?それは貪、嗔、痴、慢、疑に満ちて難しく調伏して、独り善がりする。知るべきが、そなたがどんなに賢いか問わず、死亡が必ずそなたの跡につく。教導を受け取る者は叱られるに恐れない、叱れる事が出来るのは驕らなくて、やり直す心があるとの表れだ。そなた達は小さいごろから大きくなるまで全部罰されて、叱れたことがあり、仏を勉強するにも同じで、貢高我慢する者は仏を学んで生死より離脱する事が出来ない。執着心があるこそ自分の心に多くの苦しみを受けさせる。上師はやみでそなた達を助けて、そなた達に四大分解をする時苦しみを有らせない。

死亡無常と死時不定を押し付ける力として、自分が仏を学ぶ心を動かす。一番重要のは自分の思想と観念で、仏法は自分の心の中にの世界、全て起こった心と考え方は善か悪かを了解する。≪地蔵経≫の中に説かれた衆生が心を起きて念が動いて、全て業で、罪である。仏法が説いた罪とは自分に輪廻の業力を生じさせる考え方である。全部業と言うのは、どの考え方でも全部自分のため、衆生のではなく、業も我らを輪廻に牽引する善業も含んだ。善行とは衆生が苦しんでいるのを見た時、我らは彼に助ける力があり、良い事をして他人に自分を褒めさせるのではない。

衆生を助ける時、衆生の報いとか自分には借りがあるのを考えないで、執着の心を破るのは即ち我相を破るのである。そなた達にはご用があったくせに考えないのではなく、全く空性の中にのである。そなたは良い事をしたため嬉しくて、これこそ業であり、われらは本来善行してはじめて仏法の中に絶えずに修行して、区別心があらないべきで、心の持ち方が大変大切だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て申された、善行するのは人が呼吸する必要のように自然で、そなたが呼吸する時、臭い、香りを問わず全部呼吸する必要だ。例えそなたが1つの良くない匂いする場所に行って、不呼吸を選択することが出来ない、息を止めても長くすることが出来なく、やはり呼吸して、善行も同じだ。区別する心で選択しないで、空性の慈悲心をはじめて修め得る事が出来る。これもリンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て仰った、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず衆生を助け、衆生には借りが有りたくないから。

済度とはそなた達が想像するように念仏するだけで出来るものではない。済度とは衆生が輪廻の苦しい海より彼岸まで渡すのを助けるのである。密法によって、行者の慈悲と功徳で亡者の神識を守って、顕教によって念仏で、この両者には大変差がある。そなた達は先ず自度が出来るまで修め得てはじめて衆生が得度するのを助けられる。これはそなた達に利己させるのではない。1人済度能力を備える修行者はまず自度が出来て、自分の生死を把握出来て衆生に生死より離脱するのを助けることがはじめて出来る。数学先生が学生に数学を教えるように、彼は自分がどう計算するか分からなければ、どう学生に教えるか?知恵まで修め得ないと人を助ける事が出来ない。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に仏法を学んで自度度人とよく言って、自分さえも済度が出来ないのに他人をどう済度するか?知恵までを修め得て空性の慈悲心で人を助けなければ、そなた達は慈悲心を起こって仏を学んで人に利益したくても、あれも唯そなたの考え方で、願さえでもない。五戒を守って定がはじめて起こって、定があってはじめて知恵が生じた。

何故仏がそなた達にお酒を飲ませないか?そなた達はお酒が葡萄、お米、お麦より作られたのにと言うはず。しかし、皆が全部聞いたお酒は乱れさせる。そなたの清浄な本性を乱れさせて、死んだ後地獄に堕ちる。地獄に堕ちて時間がとても短いと思わないで、そなたが地獄に行った後、すくなくとも人類の千年で、出てから人になれなく、先ず猿になって、猿はとても賢くて、彼と人類との基因は唯2%の違いさで、しかし彼らは仏法と道徳観念を受け取る事が出来ない。なぜか科学者が解釈出来なく、人類は猿より変わって来たのをしか推測できない。18世紀よりこの言い方が流れてきて、しかし、本当に変わって来るならば、18世紀より猿を養って、彼を観察して、どう人類に変更した過程を証明するはず。

現在の医学も証明した、そなたがお酒を飲んだ後セックスすれば、白痴、知能不足の子供を生む比率は割合に高い。酒精が卵子、精子の中に入り込んだのではなく、そなたと彼と同類である。1人医者弟子も報告した。人がお酒を飲んで生んだ子供は確かに知能など大きい影響を受けた。言う者がいた、自分がお酒を飲まないのに、なぜ子供はやはり知能不足か?リンチェンドルジェ・リンポチェは申されて、そなたがこの一生にお酒を飲まないが、過去世にした、この子供そなたの過去世の酒友で、この世そなたを捜しに来た。お酒を飲み過ぎ者は死んだ後糞便地獄に堕ちる。それは酔った者は何時もある良くない話をして、いたるところに吐いたり、大小便したりして、様子が大変醜い。お酒を飲んで商売がはじめて出来ると言う者は人の弱みに付け込むのである。相手が酔って、頭が不明する時、彼と契約をして、こんな商売は長く出来ない。そなたの商売は人の弱みに付け込んだから。

ガムポパ大師が申された:「死が来る時、われ等を助けるものがない。自分が疲れて蓄積した財産も出来ない、お金持ち者の多くの財産も黒い顔閻羅を騙さなく、死が来ると彼らもこれらの身外の物を捨てて両手が空になって1人で行く。多くの親戚、眷属がそばに回って、我らの世話をしてくれても、大限が来る時、彼らも助ける事が出来なくて、かえって我らに害を増えさせる。」

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て1人不動産やの奥さんを助ける事があった。台北市内に精華地区に多くの部屋が全部この不動産やが建てる。あの頃彼女の娘がリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れて、母親がとても苦しむと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親を助けるようにお願いした。彼女の母親はすでに混迷で意識が不明で、体外の循環機械で命を維持していた。リンチェンドルジェ・リンポチェはあの時この女信者が不動産商社の娘を知らなくて、直ぐ彼女に聞いた:「遺産がまだはっきり言いつけないので、母親が離れないと望むか」この娘が涙が流れてきて大変正直で答えた:「はい」リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女がまた親孝行心があるのを見た、彼女に勧めた:「そなたのお胸を開けて、一体機械と引き連れて日を暮らして、気分が良いか?」この女信者が「良くない」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に教えた。彼女の母親を加持した後、母親がまだ寿命があれば生きられる。寿命がなければ、彼女にはやめに離苦させる。こうであれば、彼女はまだリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親を加持するか?この娘が返事した:「リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親を加持するようにお願い致す。」それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母親を加持した。実はリンチェンドルジェ・リンポチェが既に分かった、この人の母親は寿がなかった。しかしあのごろ教えなかった。

この娘は毎日先病院に行って母親を見てから帰る。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親のため修法した2日間後、彼女は病院より家に帰った時、彼女の母親が家に座って、とても嬉しくて彼女を話した:「娘、ありがとう私のためリンチェンドルジェ・リンポチェを捜してくれて、私は今はとてもいいで、気分が大変よい。」話した後消えてしまった。この時電話が鳴いて、病院の方から掛かって来て彼女の母親が既に往生したと教えた。この母親の心臓が切られて、体外には循環機械を挿して、心臓を刺激して跳ばせて生きているようで、実はすでに寿がなかった。こうして大変残忍でまるで生豚肉が電撃にさせても跳ぶ原理だ。福報がなければ葉克膜の機械を挿しても往生する。この機械はあの時台湾にはまだ輸入しなかった。この亡者の息子がとても親孝行で、特に外国より輸入した。だから死亡が来る時、お金が多くて、眷属がおおくて、そなたに対してあまり1つ見事ではない。、

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て聞いた1人既に十数年死んだのになかなか入棺が出来ない。台湾にある1人有名な企業家のように、お金持ち過ぎで、遺産がまだ良く配らないので、遺体が一段期間をおいたが入棺する事が出来ない。

もう1つ例を挙げて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェの医者弟子の患者で、彼の母親の病気が重くて、リンチェンドルジェ・リンポチェに長寿仏を修めて彼の母親の寿を延ばすように願った。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェはこのお婆さんが既に寿がないのを見た、彼に申されて本当に親孝行すれば、母親の苦しみを減らして、この人が聞いて納得出来なくて行ってしまった。彼は他のリンポチェに頼んで長寿仏を修めて、やはり有効で、彼の母親を何ヶ月を生かせた。その後、このお婆さんがずっと熱があって、下げなくて、看護婦が彼女を検査して、なかなか原因を見つけなくて、最後に、彼女の口を清浄する時彼女の口の中に全部蛆があることを発見した。このお婆さんは喉に気切をしたので蛆が彼女の気切したところに生じて、ずっと彼女の肉を噛んで、最後彼女この原因で細菌に感染されて往生した。だから1人の寿が確かにないのに、どうしても彼を残させると彼に対してもっと苦痛を作らせた。

人間の心臓が停止する時に、我々はこの人間が死んだを言える。たとえ脳死でも、他の器官が壊れても、ただ心臓がまた脈打つがあったら、この人間がまた生きている。なぜ全身の器官の中にただ心臓がそなたが生命があってからずっと動いているか?仏法は我々に心臓がそなたのこの世の福報で、他の器官と異なる事を説いて、だから、死ぬ前にずっと運営している。福報がないなら、心臓も良くない、福報を使い完了したら、心臓が停止し、人も去る。リンチェンドルジェ・リンポチェはある日に衆生に利益するために、連続に三人の死者にポワ法を修めて、心臓停止の程を収めて、呼吸も無かった。その時、外気が既に停止したけれども、内気が切れていないで、つまり持命気で、それを身体にを腐っていさせない。持命気があるので、漢方医が少しあんましてから、リンチェンドルジェ・リンポチェの脈打つを回復した。持命気はそなたの寿で、もし福を使い尽くして寿があったら、また生きられる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て2007年にラプチ雪山に閉関修行する時、死亡を経歴した。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が心拍、呼吸が止った事をはっきりに分かった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは既にポワ法を修めて、既に死亡の過程を経歴したから、自分は始めて死亡に入るのを分かった。当時直貢チェツァン法王の関房は三四百メートルの所にいたのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは「直貢チェツァン法王、私を助けて」と大げさに叫ばなくて唯冷静に向き合った。最後アチ護法が現れてリンチェンドルジェ・リンポチェに甘露丸を一粒あげて、リンチェンドルジェ・リンポチェを助けた。その後数年、リンチェンドルジェ・リンポチェはニュースを見たが、医学に於いてこのような実例がある。体が健康な人は高原地区に着くと、寝る時に突然に酸素を欠けるのせいで心停止で死亡するかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時この状況である。仏菩薩はとても慈悲なので、リンチェンドルジェ・リンポチェにこのような特別な経験を経歴させた。他人は簡単にこの経験を持つわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは死亡の苦しみを分かって、人が死んだ時の執着を分かったから、殊勝な仏法で数え切れない危篤の人及び亡者を助ける。

済度は読経すれば、行えるわけではない。若しこのような簡単なら、阿弥陀経もこのような多くの条件を書かない。釈迦牟尼仏も49年間に仏法を広める必要がない。直接に人を依頼して唱えればいい。助念は少なくとも在世の時に嘗て仏を学んだ亡者に心を落ち着かせる事しか助けない。しかし、本当の済度を行えない。《阿弥陀経》に記載されたが、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得 べからず。浄土に行きたいなら、福徳因縁はとても重要である。済度者は自分を済度できる以外、必ず亡者の因縁と執着をはっきりに分からなければならない。若し修めないと、そなたは引き続きに読経しても亡者もそなたの話しを聞かなくて、離れない。リンチェンドルジェ・リンポチェは最初も最後も人を助けて助念するのは親友の亡くなった父に助念した。当時長く唱えたが、あの亡者は如何しても離さない。その後リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者が自分が離れた後、妻を世話する人がいないと心配した。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは親友に父の耳側で父に知らせて、母を世話すると言った。父は始めて菩薩の迎えを受けた。

ガムポパ大師は次の通りに開示された。「そうすれば、自分の体は命根を持つから、死ぬ時に我々に役に立つだろうか。体は唯四大が仮に合わせる物であり、覚知が無いから、死ぬ時に役に立たない。上記の原因により、我々は分かったが、臨終の時体などこの物は全て何も役に立たない。」

我々の体は命根が有るけど、死亡の時にどんな助けでも与えられない。肉体は因縁合和の下で四大から生じた。地風水火の結びは業報身を生じた。乳癌で亡くなった弟子はクーラーがとても強い道場にいたのに、いつも非常に熱いと感じたのは火大が始めて分解した。但し人の身に起こった事は殆ど過去に撒いた因から生じた業である。此の世に業力果報の現われは少ない部分は此の世に生じた。我々の肉体を構成する元素は同じなのに、何故ある者は運動の神経はかなりいいだろうか。あのスポーツ選手の運動神経は一般人よりいい。ある者は指先が器用で、この方面の神経は特別に発達した。ある医師弟子も確かにそうであると報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、此れは全て我々の過去世に関わる。全ては我々に伝えて業力の異なりによって、違う業報身を生じた。神経システムはある人が過去世の業力の総合である。

そなたは此の世に医師になったのは他人より賢いや素晴らしいとは言えない。それも過去世に関わる。過去世にそなたは嘗て病気の苦しみを受けたから、苦しみを離れたい。此の世に自然に医療の方向に進めた。だから、古代人は医師を複雑な職業と見た。それは衆生が苦しみを受けているから、そなた達は金を儲けられる。出家相を現れても自分が素晴らしいと思わない。古代人は出家衆は乞士として考えた。それは衆生は苦しみがあって、仏法の助けが必要なので、衆生はそなたを成就するため。

仏菩薩は衆生を助けるのは宗教を分けず、そなたは仏教徒であるかどうかを分けない。分別があれば、仏菩薩ではない。そなたは仏法の助けが必要であれば、仏菩薩は必ずそなたに助けを与える。リンチェンドルジェ・リンポチェも嘗てカトリック教徒など外道を済度した事がある。ある者は生まれてからカトリック教徒や道教を奉じるなど、全く仏菩薩を接触しなかった。若しそなたは彼が亡くなった後、彼の側に強引に仏菩薩を話すと、彼は「それは何ですか。」と考えるや受けられないかもしれない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力は相変わらずこの衆生達に助けを与えたから。此の世にカトリック教、キリスト教或いは道教を信じても、彼の過去世で一万世の前かもしれないが、嘗て仏教徒である。それは仏を学んだから福報があって、若し浄土へ修めてないなら、往生した後天界に行ってその後再び人を転生する時、道教及びカトリック教徒になる。それはこの宗教は修めたのは天道である。だから、此れは全て天界から再びに修行する人である。宗教の背景がないと、天に昇れないと言えない。ある者は生前に宗教観念が無いが、引き続きに善を行って、死んだ後天に昇れる。リンチェンドルジェ・リンポチェもとてもきれいが好きでめちゃくちゃではなくて、自分に厳しく要求した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは累世で修行が有っても、有る世は天道に生まれて、修行はまだ円満ではないから。修行が円満な者は法王の家族に生まれて、転生する法王になる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは弟と幼い頃から、武術を習っていた。弟はいい加減に学んだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは興味を持って学んだ。唯その後使う機会が無い。密法を学んだ後、リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて此れも自分の前世に関わる。自分の前世は将軍であるから、此の世に武術を習う習気である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者を加持するや亡者のために修法する時、亡者の執着と考えを分かった。ある時分かっても話せない。嘗てある一回リンチェンドルジェ・リンポチェは済度時、亡者は愛人を執着して、相手は自分を拝んで欲しい。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは言えないが、話すと家庭革命を起す怖れがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法の慈悲で亡者の執着を減少した後、彼を済度する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てある亡くなったお婆さんを助けて法を修めた。あのお婆さんは家から病院に運ばれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にポワ法を修める時、彼女は自分の金の指輪が失った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の家族に言って、彼女の家族も亡者は確かにある金の指輪が一つ病院に行く途中で失った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは指輪を取った人を言えない。また、ある実例が有って、家族は道士を依頼して亡者の側に儀式を行って、金属の音を発した。結局亡者に苦しめさせた。

他の実例について、リンチェンドルジェ・リンポチェはある交通事故で亡くなった男の子を済度する時、亡者は引かれて、リンチェンドルジェ・リンポチェに二つの事を言った。一つは自分の母が心配しないで欲しい。二つは運動靴は無くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、それはあの運動靴はこの男の子が最近買った物で彼はとても好きだから。亡者の母も言ったが、確かに彼はとても高い運動靴を買って、大好きだった。若しリンチェンドルジェ・リンポチェのような修行者に遇って、彼を助けないと、彼の執着のせいで来世靴ひもになって靴と一緒に繋がるや靴の中の細菌になるかもしれない。

この前リンチェンドルジェ・リンポチェはある女弟子の植物状態の弟を加持する時、彼が恋人を考える、菓子を食べたくて、お腹がとても空いた事など分かった。その後この事を彼の家族に知らせて、彼達も患者は確かに菓子が好きで、その後彼の恋人に見舞いさせたから、彼に再び考えさせない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェも在家なので、あの苦しみを体得できるから、彼に適切な助けを与えられた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは植物状態の人の考えさえ分かったから、亡者の執着を言うまでも無い。眷属として行ったのは亡者を助けて、執着を減少して、亡者に代わって懺悔しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは死亡に対して特に重視している。それは人は息を止めた後、執着がある。人は亡くなる時、周りに多くの眷属が周っているかもしれない、派手を見えたけど、実はいい事ではなく、逆に亡者を損なうかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年から始めて衆生を済度して、亡者の苦しみを分かったから、繰り返してそなた達を開示していた。そなた達に亡者に対応する正しい方式を知らせて、発生するべきではない事に発生させない。この前に北部である有名な禅宗を広める者は元々平静に亡くなったが、彼の弟子達は彼に丁寧に対応して、彼に離させたくないから、元々既に息を止めたのに、救急車を呼んで彼に病院へ送って応急手当を受けてまた戻った。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの者が亡くなった時の写真を見て、彼が往生した時に多くの執着を起したのを見て、とても悲しいと思った。彼が生前に生死を解脱するため、修行は障碍に遇った。それは生前に仏法事業は広く行なったから、最後彼の往生する障碍になった。

先日前ある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する事を求めた。結局リンチェンドルジェ・リンポチェはいくつの質問を出してあの信衆に聞いた。彼達は皆答えられないから、皈依を求められない。現在寶吉祥仏法センターの人は益々多くなってきた。弟子が多いなら、業障の始めである。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは沢山な弟子が要らない。若しある者はすぐリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する事を決めれば、リンチェンドルジェ・リンポチェもとても怖ろしい。それは彼達はすぐ皈依を決められると、すぐ変わられる。

冤親債主とは殆ど家族であり、尚更に最も愛している人である。それは彼が行なった事はそなたに苦しみを起させて、そなたはこのため悪を行なったから、そなたの冤親債主である。そなたが臨終する前にそなたに苦しめる。ある弟子の眷属は彼達に仏を学ぶのを反対すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達を勧めて、先に来ないで。その後彼達の眷属は同意した後、この弟子達は始めて仏を学んできた。根気良く、心は正しいなら、いつか必ず仏を学べる。急いで家族にそなたに従って仏を学ばせる必要がなく、読経して彼達に迴向する必要もない。そなたは教えに従って奉じて、自分を修正すれば、徐々に彼達もそなたを妨げない。そなた達の両親は何故反対しただろう。それはそなた達の両親は最もそなた達を理解して、幼いから大人までそなたをはっきりに見て、分からないわけではないだろう。自分は大人になって、両親は自分を分からないから、自分は自分が思った方式で事情を処置できて、両親が分からないと思わない。自分の行為は他人に迷惑をかけない。仏を学ぶ事はとてもいい事である。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの教導を確実に生活の中に運用して、自分を修正して、真に聞き込んで納得しなければならない。

そなたはどんな執着を持っても苦しんだ。縁に従って過ごして、どんな境遇にも安んじて、善或いは悪に遇っても心は安住しなければ成らない。それは輪廻と直接の関係がある。好い縁が現れても喜ぶ必要なくて無理しない。男女は付き合う時に愛情が最も重要な事を見ない。愛情偉大なので、自分は相手を変えられると思わない。男は始めてそなたの話を聞くのは彼はそなたのある物が必要するから、暫くして需要を経った後、逆にそなたは相手の話に従った。相手の人徳、家庭背景、仕事背景など要因をはっきりに見る事はとても重要だ。ある者は読経して彼氏に迴向すれば、彼氏に改心させるのを思う。古人はことわざがある。「良馬は頭をめぐらして、自分の踏んできた方の草を食うような ことをしない」。なぜなら、昔の人がもっとよいを考えたばかり、後退したばかりなら如何なる進歩できるわけではない。だから、縁が尽くしたなら、離れてはっきりに切って、腐れ縁が切れないようにしない。繋がれば、最後は何のためでも分からない。我々中国古人から残したことわざは道理がある。

若し相手は浮気できない事を執着するや共に白髪になるまで添い遂げるなら最も幸せな人生を思った人は来世に一夫一妻制の動物になるかもしれない。多くの動物や鳥は一夫一妻制で伴侶は死んでも別に新しい伴侶を探さない。実は此れは全て因果であり、昔に不倫が有ったから、此の世に伴侶は浮気した。

ある時眷属が多いなら、反って危険を増やした。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に結婚させず、子供を生まず、どんな眷属でも捨てさせるわけではない。唯皆にしっかりに仏を学んで修行させれば、眷属はそなたが往生する障碍にならない。家で亡者があるなら、冷静に事実を受けて、亡者と再び来世縁を結ぶ事を執着しない。此れはそなた達に亡者を懐かしませない事ではない。但しこのような考え方はそなた達両者は業力を起させる。人生は生老病死、愛別離など八苦がある。此れは元々発生する事が、若し受けないなら、亡者自身に役に立たない。亡者は済度を得て再び苦しまないと、眷族も再び苦しみを感じない。若し亡者はしっかりに済度できないと、在世者も感じたが、苦しみを感じる或いは順調に過ごせず、若し亡者は仏法の助けを分かって、正面の磁場を受けて、感謝の気持ちを起した。マイナス面の磁場も無くなって自然に苦しめない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常に皆を勧めて、ペットを飼わない。ペットが死ぬと、若しそなたは彼を済度出来ないなら、彼は仕方がなく引き続きに飼い主に従わなければならない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常にある者の側に犬の魂を一匹連れている事を見た。ある者は自分のペットを「犬の息子、犬の娘」を呼ばれた。そうしないで、畜生なので、人として見ない。そうすれば、このような執着の考えは逆に彼を損なうかもしれない。それは畜生は仏法を分からず仏法を修行できないから。密法の祈祷文は三悪道の衆生が早めに解脱して、あらためて善道に転生して仏を学ぶ機会があると望んだ。そなたは来世に再び相手と一緒にいて、彼に自分の子女になるなら、必ず人道にいる事ではない。その中に一人はペットになるや両者とも畜生道に堕ちるかもしれない。

古人は「人生は劇のようだ。」と言われた。芝居が終わったら、幕が下がった。全ては終わりで何も執着する必要がない。この世に善を行い或いは執着を生じたのは全て過去世に関わる。「情」を執着する事も煩悩を起した。煩悩を起すと、心は清めない。事実を受けて、執着があれば煩悩がある。煩悩があれば苦しみがある。情緒が穏やかなではないと、苦しんで体が自然によくない。寿命は短くなって最後地獄に堕ちる。人は一生の苦しみはいくら苦しめても全て無常である。いつか消えてしまう。世間法に於いて助けを得るかもしれないが、死亡が来る時、そなたの財、権力或いは眷属でも全てそなたを助けられない。唯仏法と上師しかそなたの頼りにならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てある古い琴を弾く女の子を助けた。彼女は正常な人だけど、その後精神状態は悪くなったから、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を見ると、数年前に彼女は歴史がある古い琴を買ったかどうかを聞いた。彼女は確かにそうですと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、彼女はこのような状況になったのはあの古い琴の昔の持ち主はとても執着なので、まだ琴に付いて離れたくない。

数年前にリンチェンドルジェ・リンポチェはフランスにあるとても有名な宝石店に行って、彼達はとても大きく綺麗で高価なエメラルドグリーンを見せた。リンチェンドルジェ・リンポチェは握ると、このエメラルドグリーンはある男性がある女性に送ったが、あの女性は生前に嘗て付けた事があった。更に彼女は当時パリでとても有名である。その時現場にいる人は皆びっくりして、その後調べると、確かにリンチェンドルジェ・リンポチェのおっしゃった通りで、十八世紀のあるせれブが持った物である。リンチェンドルジェ・リンポチェは分かったのはその持ち主はまだこのエメラルドグリーンに付けた。このせれブの執着でエメラルドグリーンを惜しんだから、彼女はまだ離れない。

そなた達は通常に見て、リンチェンドルジェ・リンポチェが法席で仏法を三時間に開示して、水を一口でも飲む必要がない。唯終わった時に飲んだ。しかし、世間の人は常に十分間に話すと水を飲む必要だった。何故だろう。一方喉が渇いたのは気が不足なので、「生津」しない。つまり唾液が無いから、喉が渇いたと感じて、水を飲む必要がある。もう一方は仏法を説く者は心が分散し。入定に仏法を説かないから、数分間に経つと、暫く中止して水を一口飲んだ。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが定境の中に仏法を説いた。既に三時間に開示したけど、引き続きに開示してもいける。唯家へ帰ってから寝る必要がある。

人は死んで闇、光段階などを経歴した後、全ての考えは例えば、貪、瞋、痴、慢、疑など全部止った。唯業力と執着しか残さない。若しこの人は宗教の観念が無く、仏法を修行しないと、彼の業力に従って輪廻する。清明な心とは心は清浄になって、明朗になる。此処に言われた清明は清明節ではなく、そなたが未来にどんな事を処理しても若し貪欲、執着を持たず、このような心であれば、清明な心がある。たとえ事情は如何なる変化しても心は安住できる。所謂「縁に従って過ごして、どんな境遇にも安んじる。」

人の体は地風水火から構成した。地風水火はそなたの業力である。だから、仏経は我々の体が業報身であるとある。精神肉体は全て業力から生じて、そなたの真の本性ではない。業報身は地風水火から構成して、そなたの体、意識神経である。しかし、地風水火は覚知できない。だから真に仏を学んで修行するのはそなたの体に頼ることではない。仏経にも「偽で真を修める」とある。我々人間はこの業力の体で仏法を修行して、悪を止めて善を行って、我々本来清明な法性に現れる。そなた達の心は安定感が無くて、定を得ないと智慧を修められない。そなたの心は感覚に影響されず、常に定の状態にいれば、法性が現れるかもしれない。そなた達は自分が修めると思わない。チベット仏教の方法は上師に頼って、顕教は経を唱える事に頼って法性が現れて、そなたに体得させる。

ガンポバ大師は「これを以って考えて、だから、我々は『私は絶対に死んで、その上、死ぬ時が定まらない。私が死ぬ前に何も助けられる事が無いで、このようであるので、私は如何に時間があって善行を置いて気にしないのでしょうか?私は如何に時間があってぶらぶらしていて暮らすのでしょうか?だから、私はしっかりつかんで実際的に修めなければならない』を考えるはずだ」と開示された。

此処にいうのは、我々が死ぬ時に定まらないで、必ず死ぬ事を知ってから、我々はこの一生が残り時間が修行と弁済の為に必ず分かって、そなたは如何にぶらぶらしていて暮らしているだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に毎日寝る前に自分の当日の身口意が悪行をするところがあるかどうかを反省して検討する事を教える。あったら、その日に仏弟子ではなくて、参列の皆が一人でも遣り遂げる人間がない。そなたは当日に何か良くない事を発生していなくて、つまり福報を修めて出て、検討する事が要らないと思うならば、このような考え方があったらすべて間違う。持続して絶えずに自我を検討して、止める事ができない。仏になる前に、毎日に検討しなければならなくて、自分に如何なる理由を与える事が出来ない。自分は今日疲れすぎるので何か間違いをする事を検討する事が要らないことが出来なくて、自分の為に言い訳を探す事が出来ない。そなた達は時間があってネットサーフィンをする事が出来で、SNS或いはブログを見て、誰かが伝言がそなたにあげるかどうかを見て、そして、真言を唱えたり、お経を唱えたり、自分を検討したりする時間が無い。何故リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て教導した仏法を考えていないだろうか?誰かがそなたに思っても如何になるだろうか?そなたは死ぬ時に、彼もそなたに助けられない。このような事をしたらぶらぶらしていて暮らしているのである。

ガンポバ大師は「我々はこのように思索するべきで、『この世に一切なのは全て実義がない』という薄い心構えを以って、心の奥からにわかに仏を学んで修める。本当の実修者に対して、彼はこの世の一切の計議が暫く止めて、これらを全て置いて、ある資格を具える上師に依止するはずである。」と開示された。

いわゆる実修とは、多くのお経を唱えたり、多くの真言を唱えたり、多くて拝懺をしたりする事のではなくて、全て自分に輪廻させる行為と思想を改正するのである。ここに言う計議とは、そなたは何をしても何か計画をしないのではなくて、或いは、何も考えず一日を暮らす事が出来ると十分であるのではなくて、そなたに目標を設定させなくて、或いは、どの期限以内にどのぐらい遣り遂げて特定的な結果を表される事を計画するのではない。そなた達は法性を修め得ないので、法性にて修正の苦しみを観えなくて、つまり、衆生の苦しみを体得できなくて、しかし、ただそなた達が信じていて、仏が言う一切が信じていて、輪廻の苦しみを信じていて、この世を決心をして輪廻を解脱して、事柄に対して如何なる執着をしてはいけなくて、この世を誠心誠意にある具徳の上師に依止する事において、仏法を学んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に開示されて、出世法をうまく修めれば世間法が障碍を有り得ないで、仏を学ぶのがそなたの家庭を影響しないで、そなたの仕事と生活に影響しないで、仏を学ぶのがそなたのこの世と未来世にもっと良くなっていて、心配しないで決心してこの世の仏を学ぶ因縁をうまく把握しよう。

多年前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎週の金曜日の夜に施身法法会を行って、ある病院に務めている皈依弟子が毎週の金曜日の夜に診察があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェに施身法法会の時間を直すかどうかを頼んでいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にただ参加の決心があったら、絶対に出来ると仰った。一年後、金曜日の診察にキャンセルさせられて、この医者弟子が法会に参加する事ができた。2007年に、ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する事に求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に彼の父の反対なのに、暫く皈依しないで、ただ決心があったら、以降、絶対に皈依する事が出来ると仰った。最後、事実の証明はリンチェンドルジェ・リンポチェを説くとおりのである。

多くの人々は自分が数年後何をしてどんな目標を達成する事を計画する。そなた達は子供頃に自分の志望を書いた事があって、何人が遣り遂げるのでしょうか?殆ど無い。何故でしょうか?因縁はずっと変わっているわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは商売をする時に、数年後絶対にどのような目標をする事を計画する事をしなくて、この期間の因縁がとても複雑なので、ずっと変わっているわけである。これはそなた達に物事をして如何なるを計画をしない事のではない。つまり、そなた達は目標があるけれども、目標の方向へ前進したら十分である。何時にやり遂げる事とは執着しないでください。

リンチェンドルジェ・リンポチェは道場の子供に開示された。子供は勉強する事が口実を探してはいけない。そなた達の両親に「リンチェンドルジェ・リンポチェが仰った。試験が合格がかどうか、私の福報と関係があって、如何に補習しても役に立たない」を言われない。そなた達の先生に「一切なのは縁に従う」を言ってはいけない。また、「死亡無常で、全てしになければならなくて、このような多くて勉強する事が何を為に?」を言ってはいけない。このような言う人間は口才がうまくて、が、これは偽の賢いのである。勉強とは子供とする責任である。そなたはどの学科が比較的に弱いなら、両親がそなたに補習させて、両親の話を言う事を聞くべきで、なぜならば、両親がわざとそなたに管理する事のではなくて、そなたの未来のためである。言う事を聞かないなら親孝行をしない、親孝行をしない人間であれば追い払われる。

全ての人々は世の中に来て、同じように完成しなければならない責任がある。仏法はそなた達に普段の暮らしの中にそなたの行為を改正し、そなたに仏を学ぶ事により言い訳になって責任を逃げる事のではない、過去世でした事を直面しなければならない、仏法により自分が過ぎではない事を抜くのではない。自分に如何なる言い訳にて自分の行為を解釈してはいけない。仏を学ぶ人間は表面的に見たら、普通な人が暮らす生活が違う事が無いで、しかし、心の中に同じではない。

死亡無常を観修するとは我々の人生に消極的にならせることのではなくて、逆に、態度が更に積極的である。そなた達に死亡無常を教導するのはそなた達に仏を学ぶ推進力になる。世の中の責任を逃れるために出家してはいけない、これらの出家衆は毎日にかかる精神と体力がそなた達により多くて、彼らの仕事が修行するわけである。人間は自分の本分をよくしなければならなくて、本分と責任を遣り遂げないなら、如何に仏を学ぶのでしょうか?両親と子供の間、夫妻の間、姑と嫁の間などどのように自分の責任を尽くして、実は仏経の中にはっきり記載された事がある。人生が変えて消えて、多くの両親は多くの時間にかかって子供を育成し、子供に社会に成就がある事を育成させて、が、如何に成就があっても、死ぬ前に何も持って行けない。

とりあえずしなければならないと思うので、夫婦の間は相手に対してあまりに良くなる必要がない。このような考え方も間違って、この世に夫妻に成られて、絶対に前世の因縁があって、お互いに借金していないで夫婦がきっとならない。そなは責任を負って、相手に対してよくて、釈迦牟尼仏も夫と妻の責任を開示された事がある。一部の人々は姑が付き合いにくいと感じて、自分がすでにとても全力を尽くすと思って、姑が自分の母にて対応するけれども、なぜ姑は自分の娘になって可愛がる事が出来ないか?これも執着で、自分の支払を他人の仕返しを貰える事を期待する。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に助けて、何か仕返しを貰えることを考えたことが無い。これらの事は仏に対して、言う必要が無くて、然し、仏が同じように仏経の中にこれらの内容を加持されて、なぜならば、人間がこの世にいるなら、世の中の責任を完成しなければならなくて、ただそなたが死なないなら、一日の責任を尽くさなければ成らない。

『地蔵経』には地球の上にいる衆生は頑固で独りよがりで、加減しにくくて伏せにくいと記載されている。在席の一部の人々はまだ疑念を抱くことがあって、あなたが言う事が本当だと思っている。懐疑心があったら、畜生道の因を植えて、何故ならば、五毒の中の「慢」と「義」を犯す』のである。釈迦牟尼仏が仰ったのは真実語で、だから、仏を学んでから、そなた達は圧力がないはず。仏を学ぶ事は益々苦しくますます煩悩があるべきでなくて、逆に、益々自在になっている。本当に仏を学んで、仏の教導を聞き入れる人は如何なる悪の因を再び作らないで、もっと煩悩を造らない。仏法はある行為が正確かどうかを吹聴するのではない、この世にする事が業から来て、何をしたらどのような因果応報を貰えることを了解しなければならなくて、知ってから放れて、死ぬ前に放れてはいけなくて、一切に対する執着心を益々放れて、つまり万縁を放れる。所謂うまく修めるかどうかがない。仏を学ぶのは仏法の薫陶、教導の下、そなたは受け入れて、その上、自分の累世の悪習を段々改正する事が出来で、同時、そなたの意も改正する事が出来る。仏経にはうまく修めるかどうかを記載されていない、ただ開悟が出来るかどうかを記載されている。放空とは何も無いのではなくて、頭を掘り間違えるのが放空ではなくて、頭が掘り間違えるなら生きているのでしょうか?空は無いのではなくて、空が智慧である。

私達が病気にかかっている時に苦痛を感じて、これは意識に影響されたわけである。意識は或いは神経が多すぎる情報を受けて、自分がとても苦いと思っている。私達の本性、法性、仏性或いは称する真如、如来蔵、全て影響させない、清浄な本性が増えて、減らして、或いは苦しむ事がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が厳重な脊柱側弯症に罹る例を皆に開示した。ある漢方医の傷科を専攻する医者の弟子が下記のように報告し、リンチェンドルジェ・リンポチェの腰椎が位置をずらしたので、その上、とてもきつくて、基本的にほぼ変わられない。若し、下肢の神経叢を傷つけるならば、大小便を漏らすことをもたらす。また、脊椎の上半部分と胸椎のところ、一部も位置をずらして、その上、構造の上とてもきつくて、これも完全に変わられなかった。普通な人間であれば、正常な行動する事が出来ない、況してあぐらをかいてこのように長くて仏法を開示されるか。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持は2000年以前にこの病気がリンチェンドルジェ・リンポチェに少しの影響があって、同じように痺れたと開示した。2000年以降に影響していないで、今までに何か影響がない。何故でしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは完全にこの病気を受ける。リンチェンドルジェ・リンポチェの心は静かなところにおいて、その上、情緒の変動を減らすのもとにいる。心は意識神経の影響を受けていないで、身体の感じを心に影響して作用を起さないで、完全に清浄な本性にいる。

脊椎以外、リンチェンドルジェ・リンポチェの頸椎も傷を受けた。40歳の時に、ある漢方医はもし手術を行わないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが50歳以降に頭がとても低くて持ち上げられないと言った。それから、実際には一段の時間は頭があちこち回す事が出来ない。が、いまは良くて、これは、リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を学んでから、気をこの障碍を通じされる事が出来る。業障を消えたけれども、応報を依然として存在している。業障を消えとは業障がないのではなくて、業障が我々に仏を学ぶ事を障碍させない。だから、仏菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェに仏を学ばれて、衆生に利益させる。考え試みて、もし、リンチェンドルジェ・リンポチェはペットに横たわるなら、如何に仏法を開示するのでしょうか?あまりに恭敬ではない。

漢方医の弟子も報告して、リンチェンドルジェ・リンポチェの寛骨の関節がとてもリラックスして、とても柔らかくて、赤ん坊、子供のようである。普通な人はこの年齢まで着いて、組織が一部の増生があって、とてもきつくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は決して神様の奇跡ためでなくて、仏菩薩があげたのではなくて、修めるにより貰える。人々の心は柔軟であれば、関節が関節になる。どのような心は柔軟であるか?人間は悪念がないで、心が柔軟になる。65歳のお年寄りになったら、関節がこのようにリラックスする事が出来るのでしょうか?そなた達は多くのこの年齢のお年寄りが歩くでも困難になる事を見えて、1歩でもとても難しい。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようなではない。

旧正月前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは風邪を引いて、いままで既に完成に治されて、この風邪はリンチェンドルジェ・リンポチェに熱が出ていないで、ただころが比較的にかすれて、その上、身体が比較的に疲れた。もしそなた達であれば、必ず熱が出る。漢方医の弟子も報告して、普通な人が熱が出て、熱が出るので全身だるくて痛ませて、務められない。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は、リンチェンドルジェ・リンポチェの抵抗力はとてもよいのではなくて、この原因ではないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは病気にかかるけれども、病気の反応がそなた達のようにこんな厳しくなるのではない。そなた達は病気に罹る時に、そなた達の心は絶えずに身体の病痛を考えていて、だから影響されて、もっと厳重になる。ある者は熱が出るなら、身体が既にこの病気に抵抗する事が出来なくて、全ての神経システムに乱れる。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して毎回の病気に罹ることが修行に役に立って、リンチェンドルジェ・リンポチェに再度身体がにせてある事を感じていて、所謂病気を道に使えるのである。当年、維摩詰居士は病気を示す時に、釈迦牟尼仏は文殊菩薩ともう一人の菩薩を派遣して仏法をお伺いを立てて、維摩詰居士は自分の病気が因縁に引き起こされたと開示した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは厳重な脊柱側弯症に罹るので、ある同じように病症を患う人間に度した。この人はリンチェンドルジェ・リンポチェが主法する大法会の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェが法席の上に数時間で胡坐をかいて下りるとすぐに歩くことが出来るを見て、リンチェンドルジェ・リンポチェが普通な人間が出来る事を超えるので仏を学ぶ事を決定した。

密法を修めるとは足りる時間にて福報と因縁を累積して衆生に助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の病苦を解決する事が出来で、リンチェンドルジェ・リンポチェが特別な超能力があるのではなくて、或いはそなた達を言う神通力のではない。そなた達は先生になったら、よりうまくするのではないか。もし、有る上師は自分のからだの問題でも克服ではないなら、如何に上師になるのでしょうか?自分の問題を克服が出来ないなら、仏法を説く事が出来ない。そなたは自分の身体を注意しすぎるなら、緊張して病気に罹って、このようなマイナス面のエネルギーの発生させないで、自分の再度検討させて、ただ決心をして、病気が我々に仏を学ぶ事を影響られない。我々はこの世に再度仏法を聞かれて、とても得難しい、機会を逃すなら再度会うことが難しくなる。我々は南瞻部洲に生まれて、苦しみが多くてうれしさが少なくて、寿命が他の東、西、北部州に比べて短くなって、だから、仏を学んで生死を解脱する事が出来で、他の三つの部州の衆生ようなではなくて、福を楽しんで、仏を学ぶ考えがない。

あなたが決心がある時に、死亡無常に真に受けて、そなたは如何なる業をして自分に再度輪廻させない。これはそなたの生活習慣の変りのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに結婚して子供を儲けない事を教えていない、そなたに仕事をしてお金を稼がない事を教えていないで、そなたの生活を依然として暮らしていて、外在の生活方式と普通な人間と同じ、違うのはそなたの意、そなたの心構え、そなたは決心をするかどうかのである。ただ決心があったら、ある日に絶対に変られて、三寶に対して恭敬する事を決心をしたら、つまり、福報と因縁を累積している。

そなたた達はすべて医者を信じて、リンチェンドルジェ・リンポチェに信じていない。そなた達は医者が多くの勉強をして、彼らの言った話が権威で、政府から発する医者の証明書を信じている。仏菩薩はとても慈悲で、そなた達が全てこのような考え方で、だから、多くの医者弟子を見付かって此処に来る。医者はとても高慢で、彼に皈依して跪いて頂礼させてもしたくない、むしろ家に帰って神様にあげることを求める。リンチェンドルジェ・リンポチェは医者に軽視するのではなくて、もし医者に軽視するなら、医者を皈依弟子を収めなかった。寶吉祥仏法センターには企業家、教授、様々な業種がある。だから、諸仏菩薩の慈悲ので、皆に専門家の言い方を聞かせる機会を与えて、仏法に信心を起される。

すべての病気の現象も仮相で、私達の清浄な本性が変った事が無くて、病気に罹っているからだけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは意識により生活を暮らすのではなくて、法性にて暮らしていて、だから、皮膚癌とに罹っても、脊柱側弯症などの病気に罹っても、仏を学ぶ心を障碍させない。そなた達は病気を道に使える事が転じて、自分の心を多くの雑念を減らして、感情の衝撃を減らして、一心に生死を解脱する為である。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日自分の仏を学ぶ過程にて皆に開示し、自分が如何に素晴らしさを証明するのではなくて、ただ皆にリンチェンドルジェ・リンポチェが皆と同じように信衆から修める事を知らせて、ただそなた達が努力したら、ある世に遣り遂げられる。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆への開示はみな帰宅してから、静ってよく考えているはずである。

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2012 年 03 月 31 日 更新