尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示 – 2009年4月
2009年4月4日
リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石会社で、信眾のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。
2009年4月5日
尊きリンチェンドル ジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センター道場で金剛薩埵法門を伝授された。リンチェンドルジェ・リンポチェはまず次の如く開示された。顕教では金剛薩埵を修めない。金剛薩埵は普賢王如来仏の報身仏である。釈迦牟尼仏は地球へ来られて衆生を救済する第四尊仏であるが、普賢王如来仏はこの四尊仏の前の仏である。仏菩薩は三層に分かれて衆生を助ける。即ち法身仏、報身仏と化身仏の三層である。法身仏は決まった形がなく、各状況を変化させるわけでもなく、完全に本来自性たる本性に戻る。法身仏は十地以上の菩薩を済度するために来られる。菩薩の修行階位が十地以上になれば、諸仏は菩薩に密法を修めて仏果を成す事を勧める。十六地以上の階位を修めて、初めて法身仏を悟る。報身仏は菩薩道を歩むことを発心する初地以上の菩薩を助けるために来られる。化身仏は苦しみから離れたいと願う衆生に応じて、衆生が輪廻の苦痛から解脱するのを助ける。弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの写真に敬虔に頂礼すると、事情は変る。それはリンチェンドル ジェ・リンポチェが具徳の空性慈悲心を修めたので、感じれば応じるのだ。しかし、呼応するのは輪廻の苦痛から解脱したい思いにだけである。金剛薩埵本尊は修行者の懺悔を助ける。菩提心と出離心を発する事にも手助けする。密法を習う前に、必ず金剛薩埵を修めなければならない。
仏教は私たちに「因果を深く信ずる事」と説く。深くとは、心の底から生涯因果の中にあり、それから逃れられないと察知し、戒める。多くの人々は自分が因果を信じていると思っ ているが、本当に深く因果を信じてはいない。良い生活を過ごしている時だけ、因果を信じている。深く因果を信じている者は、常に自己の身、口、意がすべての悪を断ち切っているかどうかを自然に注意している。
ある者が懺悔心を起こせないのは、強烈な出離心がなく、ただ自分が苦しまない様に懺悔しているだけだからだ。懺悔とは、何か間違を起こした後、全力を尽くして冤親債主の歡心を得る事である。堅い出離心が有って懺悔してこそ、冤親債主の歡心を得る。堅い出離心が無ければ、密法を修めても成就しない。我々は輪廻の苦しみをよく理解すべきだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去の多くの世でも修行者だったが、もし今世36歳で廣欽老和尚と出会って菜食をし、37歳で顯教に皈依し、39歳でチェツァン法王に皈依していなければ、今生も無駄に過しただろう。世の中の事はすべて因緣法なので、執着する事は無い。ある者の家族、配偶者、子女は其の者と特に親しいのだが、其の者が仏を学ぶ事の邪魔になる。或いは将来其の者が亡くなる時、心残りになって、其の者が生死を解脱する妨げになる。出離心は我々が死亡に向かう時、苦痛と恐れを免れるのを助け、我々の懺悔に力を添える。
リンチェンドルジェ・リンポチェは幼い頃、父が死ぬ間際に見せた苦痛の表情を見たし、死に化粧をする時死体はこわばり、頭部は3人でも持ち上げられない位だった。公設葬儀社では、多くの亡者の死体が裸のまま床に転がされ、解剖された内臓は盆の中に放り込まれた後、また無造作に体の中に空けて縫い合わされている。その時、家には香港ドル10円しか残っておらず、棺桶も他人が寄贈したものだ。5年後に骨を拾った時、体の肉はまだ土に返り切っていなかった。様々な見聞は、リンチェンドルジェ・リンポチェに何故人間が他界すると、このように醜く、尊厳もなく、苦痛で面倒なのかと思索させた。さらに外道は人間の死亡に対し、何の助けにもならないと悟り、すべてを捨てて、唯仏法だけが、衆生が死亡に面向かう時に救いの手を差し伸べ、輪廻から解脱し、苦しみを離れて、樂を得るのを助ける事を知った。リンチェンドルジェ・リンポチェは今世で、一介の凡夫からリンポチェの果位までを修め、その間、世間の一切の苦しみを味わい尽くし、世間の様々な事を体験して、始めて今日適切殊勝な仏法で皆に苦しみから離れる法門を開示される事が出来たのだ。
顯教を学んでも、死亡の過程を体得する事が出来ないが、ポワ法を学ぶと其れが出来る。懺悔心と出離心がないと、ポワ法を修めることが出来ない。たとえ事故死でも、自殺でも、死ぬ前の何秒間は頭が冴、恐怖に慄く。拜懺をすれば業が消えると思ってはいけない、そんなに簡単ではない。例えば、魚や海鮮を長らく部屋に置いたとする。するとそれらを全部運び出し、部屋をきれいに洗っても、生臭さは残る。我々の罪業がとても深い事を信じなければいけない。さもなければ再びこの世に来る必要はない。我々にまだ輪廻の能力があれば、まだ問題がある。我々は累世善を行い、また悪も行なって来た。普通は悪業が多くて、善業が少ない。多くの悪業を働いても、まだ幸せに暮らしている者を見る時、何故彼はまだ幸せに暮らしているか?と訊くべきではない。以前、彼はどれほどの善と悪を成したか分からないからである。一つの善事で、一つの悪事を帳消しにする事は出来ない。善事も悪事も有るならば、果報は善悪交互に来る。ただ悪事を止めて、 始めて純浄な善果が来る。
我々が仏法を学ぶとき、懺悔は悪業にそれを妨げさせない様にする。そして我らの出離心を堅くして、往生際にその妨害を受けない様にする。懺悔することは懲罰を受けない様に願うのではない。一滴の血を流しても、一箇所の皮を傷つけても,すべて殺業に繋がり、償わなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの2~3年の閉関で、いつも少し血を流し、皮膚に剃り傷をつけた。それは、累世の悪業がまだ幾らか残っているからであった。仏を学ぶ事は苦い果実の苦味を減らし、ひいては酸っぱくか甘くして,食べ易い様にすることだ。
リンチェンドルジェ・リンポチェは、一度病院で肝臓癌の末期患者を見た。体は痩せ果てて、腹水が腹部を大きく膨らませて、目が突き出ていた。彼を加持した時、彼がレストランのコックでバーを営んでいた事が分かった。彼に殺害された衆生が彼を死なせず、悪業で稼いだお金を使い果たさしてから、死なすのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を加持すると、その3日後に、彼は往生した。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの患者の寃親債主を加持したので、彼らが喜んでその患者を放したからだ。しかも往生した時には、腹水も消えていた。リンチェンドルジェ・チンポチェが加持された後、往生の際に腹水が退いた例は沢山ある。腹水は実は彼が傷つけた衆生であり、この際同時に済度されるので、腹水は流れ出すのではなく、消えてしまうのだ。
懺悔し終えて功徳を寃親債主に迴向すれば、事が良くなるものでもない。迴向の迴は船であり、それは浄土へ向かっている。だから、単に自分が浄土へ往生する事を決めたか否かである。懺悔者自身が船に乗ることにより、寃親債主も乗ることが出来る。それで、出離心はとても大切なのだ。それで菩薩が発願して再び来れるのだ。普通人はやはり出離心を発したほうが安全だ。
出離心、懺悔心、菩提心が無ければ、それは仏法ではなくて外道だ。出世法を良く修めれば、世間法は問題ない。最も難しいのをすべて解決したので、易しいのは更に問題がないだろう。自分に問うてみよ、行為は出来たか?心は出来たか?もし出来ていなければ、それは理論に過ぎず、理論は不安全だ。
法会に参加して寃親債主を済度すれば済むことではない。済度にも多くの階層が有り、天道へ行く者、浄土へ行く者、済度に頼り阿弥陀仏浄土へ行く者。下品の下でのみ生まれる者は、記憶がまだある。故に寃親債主の恨む心が解決されなければ、彼らが浄土で修めたのはそなたと関係がない。故に寃親債主を済度するときは懺悔心が要る。
子供がわが家庭に来ることは、ただ、我等と縁を結ぶに過ぎない。縁が尽きると居なくなる。そなたに属するものではない。夫婦も同じだ。だから我々は人に恨みを抱いたり、怨む心が有ったりしてはいけない。過去は過去に流すのだ。もし恨み続ければ、再び出会うことになるだろう。衆生は皆利己的な観念を感情を重点に置く。所謂愛はすべて苦痛と執着であり、欲望と相手がある。故に仏法は愛を説かず慈悲を説く。リンチェンドルジェ・リンポチェの外祖父は第二次世界 大戦で亡くなった。その後、家族が病気に罹る毎に、または事故が起こる前に,外祖母は外祖父が現われるのを見た。それは、生前、家族に執着して離れられなく、生を受けることが出来ないのだ。しかし、亡霊では家族が病気になっても助けようもない。因果を了解して、始めて快楽と苦痛を放すことが出来る。出離心があれば、自然と一切を放せる。
阿弥陀仏の浄土には業を負っても行ける。つまり、心残りが山ほどあっても行く事が出来る。他の浄土では駄目だ。しかし、心残りを持ちこんでも、やはり蓮の花の中に仕舞い込んで置き、悟りを開いてから出す。それを花が咲き、仏が見えると言うが、花が咲くつまり開花とは心が開く事を表す。一切の苦楽の執着を放すと、心が開くだろう。
2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェはラキ雪山で閉関修行中に、1度心臓の鼓動と呼吸がすべて止まり、自分はもう死ぬのだと思ったが、法王に救いを求めなかったし、ただ死ぬべきならば死のうと思い、もし生き永らえて衆生を助ける事が出来れば、生きようと思った。それは因果を深く信じ、無常を信じるからであった。結局、死んでいないし、自己の修行しか自己の累世の業を変える事が出来ない。
多くの人は修行のコツを把握していない、出離心がないためだ。我執を破るにも出離心が必要だ。続けてしがらみがないように決心し、すべては縁に随って過し、境遇に随って安らぐ。上師の加持に安住し、出離心に安住する。懺悔心を起こすには出離心の助けがいるが、出離心を発するにも、懺悔が必要で、両者は互いに補完し合う。
懺悔は3階層の違った力がある。最上品の懺悔は、毛穴と目玉から血が流れ、中品は全身熱くなり、毛穴が熱く目玉から血が流れ。下品は全身熱くなり、涙は顔中を濡らし、毛穴が開く。祖師は閉関する前に癩病に罹り、関房で発病して、大懺悔心を起し、死期が来たならば死のうと思ったが、結局死ななかった。またもし病気にかかる事が、衆生の身代わりに成って苦通を受ける事に成れば、苦しもうと思った。そして、竜王が1群の小竜をつれて彼の体を離れるのを見て、癩病が治った。宗師が備える大慈悲心は、衆生が一寸閉関をすると病気が治ると誤解するのを恐れ、続けて一週間の閉関を行ってから関房を出た。
リンチェンドルジェ・リンポチェはチェツアン法王から大手印を授かった時、自動的にまず20日間で10万回の百字明咒を唱えてから、始めて関房を出て伝法を受けた。これは自身の業障が深く重い事を深く信じ、真の懺悔を起こし、また出離心もあったので、冤親債主が妨げに来ない様にする為だ。
我々がまだ生死を解脱出来なければそれは問題であり、上師、諸仏菩薩及び衆生に申し訳が立たない。仏法を学ぶには必ず「謙虚」で無ければならず、くれぐれも驕ってはいけない。悟達国師は過去のある世では将軍で、一刀の下に人を殺した事があった。その後、累世出家して修行者になり、ある世で一国の国師となった。皇帝は宝座を賜って彼に座らせた。悟達国師は、心の中で私の修行はよく出来たのだと思った。彼の傲慢心がこの様に起きると、出離心が無くなり、彼が代々修得した福報は冤親債主を防ぐ事が出来なくなった。彼に殺された人は人面瘡になって悟達国師のひざにくっつき、彼に苦痛を絶え間なく与えた。悟達国師は代々修行していた為、文殊菩薩は彼に「水懺」の法門を伝え、修行させて、この難を解いた。
懺悔と出離心を備えないと修められなく、修め得るのはただ人天福報だけである。修めたのが出離のためなら、始めて功徳であり、業を転じる事が出来る。梁武帝は仏教の為に色々な事をしたが、達摩祖師に彼の修行は功徳が有るかと伺うと、達摩祖師は功徳がないと答えた。最も主なのは出離心がないからである。
懺悔は其れに合せる物が必要で、それが懺悔の力をなお強くする。それは四力である。第一は「厭患力」である。自分の昔の悪行に対して、徹底的に悔やむ心を起こし、更に三宝の前で発露懺悔し、はっきり口に出して、始めて身口意の懺悔と言える。上師は仏菩薩と冤親債主に代わって懺悔を受ける。自分が仏法の教えを聞かないのを悔やみ、自己反省し、誰のせいにも何のせいにもせず、これから悪縁を結ばない様にする。自分の憎らしい所を考えるのは消極的ではない。自分を変えるのは最も難しい事だからである。男らしくなく、勇気のある心の持ち主でなければ、自分を変えることが出来ない。懺悔は全面的に懺悔しなければいけない。身口意から起こした悪念もすべて吟味し、自分に有利な事だけを懺悔してはいけない。何か問題を起こしたら、其の部分だけを懺悔するのではいけない。静かに自分の悪い所は何処だかを考えて、自分を許さない。リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を引き連れて閉関するのは、弟子に仏法で以ってはっきり自分を見つめ、自分の間違いが何処にあるかを知らしめるためで、時機が熟せば閉関に連れて行く。
第二は「対治力」である。全面的に全ての善行を行い、全ての悪行をやめる。つまり、諸々の悪をせず、諸々の善を行う。第三は「破悪力」である。今している事が後世に影響することを深く信じ、後世の悪報を恐れ、同じ様な間違いを再び犯さない様に自分で気をつけ、少しも気を許さない事。第四は「可依之力」である。つまり三宝に皈依し、菩提心を起こす。自分の欲望を対治しようとすれば、菩提心を起さなければならない。菩提心とは簡単に言えばあらゆる仏法を学んで、あらゆる衆生を助ける事だ。法会に参加するのは懺悔心があるのみならず、また、一切の衆生を代表して参加している;法会に参加した者が仏法を聴聞できるのみならず、菩提心があれば、六道も仏法を聴聞できる。菩提心は「世俗諦」と「勝義諦」に分かれるが、菩提心を起せば、更に菩提行を行う。凡夫の力はとても弱い。内在と外在の誘惑が毎日多く寄せてきて、心を乱し、集中を妨げる。故に仏法僧三宝に頼り加持を受ける。僧とは出家衆だけではない、これは菩提心を発して衆生を助け、自分を直す出家衆或は在家の修行者である。仏経では出家衆を比丘・比丘尼と称し、「僧」という文字を使わない。 懺悔した後、この四力考えてみるべきである。
リンチェンドルジェ・リンポチェは「身口意は、これから生々世々いかなる悪をも行わない。例え虛空は尽きるとも、この願いが尽きることはなし。これは口先で言うのではなく、口に出したからには必ずやり遂げる。」と発願した。これは軽口ではない、言った事は必ずやり遂げる。ただ自分の欲望だけを考えていては、功徳は顕れないし、累世の業も変わらない。堅い決心をして掛からないで、ただ加護と加持を求めては、役に立たない。
それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛薩埵を修める儀軌を伝え、皈依発心の部分を開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が悟りを開いた経験を以って、弟子を慈しみ、教え導いた。皈依発心を唱えた後、少し休む事、と。そうすると、唱えた部分が阿賴耶識で善の種を播く。善の種が多くなると、悪の種の芽が出なくなる。未だ皈依していない信衆は「理」の解釈を聞くことが出来るが、皈依していないので、修めたとしても、「事」の力が出せない。なぜ仏法僧 が「無上」なのか?それは三宝が私達に生々世々教え導かれる故である。世間の如何なる教えもただ今世限りであり、後世に対しては助けにならない。だた三宝の教えは我々が生死を解脱する事を助ける。四果を修めた阿羅漢は、衆生の前500世が見えるが、仏は無始以来の全ての事が見える。金剛乗の皈依は今世のみならず、生々世々であり、菩提を悟るまでである。皈依の力は私達に修行する事を助け、悪行を減らすことを助ける。成仏を発願するのは大能力を得て一切衆生を利益する為で、リンチェンドルジェ・リンポチェの願力は「衆生が成仏せざれば、我成仏せず」であり、地蔵菩薩の願力を学んで、「地獄が空にならざれば、成仏せず」という意味に近い。故に一層苦労する。
2009年4月8日
リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。
2009年4月11日
リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石店で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。
2009年4月12日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センター道場にて金剛薩埵法門を伝授された。リンチェンドルジェ・リンポチェはまず、信衆が法本を手に取るとすぐめくって見る事に関して開示された。法本は仏、法、僧の三寶を代表し、法本を手に取るとすぐめくる事は上師を尊敬する行為ではないし、三寶を敬っていない。本が読めて字が書けることを見せびらかしているようだが、それは悪行だ。自慢すると修行が出来ない。仏経は凡人の知識や経験で以って習い、理解出来る事ではない。仏菩薩の境界まで修行しないと理解できない。だから上師の教えが必要で、空性慈悲心まで修行した上師に依止し、仏法の教導(仏の教え)に従って学び、しっかり修行し、自身の身口意をやり直して生活中に用いる。同じ境界にしても、阿羅漢、菩薩、仏が解釈するとそれは各々違う。法本を取ってすぐ見るのは、潜在意識では、他人を敬ったことが無いのだ。我々に恩がある仏菩薩さえにも尊重しなければ、どうやって衆生を尊重する事が出来るのだろう?三寶に対して敬いが無ければ、どんな修行をしても学んでも無駄だ。リンチェンドルジェ・リンポチェ今生の業績は、仏を何回拝んだか、仏を何回唱えたかではなく、上師と三寶に対する敬いだ。貧困を極めた時、飢死しても仏像を売らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学ぶのは、尽きることが無い衆生に利益することを望んで居るからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはいかなる衆生が三悪道に落ちるのも望まなく、全ての衆生が解脱することを望まれている。
そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き金剛薩埵法門を伝授した。皈依文は仏を学び修行する道を示す。「解門」とは文字を解釈することではなく、修行の疑惑を解き明かすことである。解いた後、それとを行動に移す。重要なのは六波羅密を修行したかと言う事?六波羅密は自身の為ではなく、衆生のために修める。忍辱とは、良い事も良くない事も忍ぶ事を言う。良い事を忍ぶとは、例えば功名利録等が有っても、自分に一糸の驕りや、自大、我慢の心を持ったりしない。それは忍辱より難しい修行である。菩薩道を修めるには何故必ず布施をしなければならないのだろう?それは、全てを捨てて、始めて全てを得ることが出来るからである。供養、布施は自分が最も良いと思うものを他人に与え、要らない物を与えるのではない。布施をした後持戒する。布施をする事が出来ると戒を守ることが出来るようになる。持戒をする理由が輪廻を離脱するのであれば、いかなる衆生の感情も害しない。この前三つの波羅密が出来なければ、後三つは言う必要がない。
十二因縁法四聖諦法は、誰とも接触せず、電話も聞かないゆえ、農業時代と出家衆に適する。菩薩道は比較的に現代人にふさわしい。菩薩道を修行する人の心は特に細かく、他人のことをよく考え、貪瞋癡が起こらない。生活には全て仏法を用いるので、自然に多くの事を悟る。仏が説くことは、全て世間人にとって最も必要なことだ。無駄な世間話をせず、綺語もしない。話をすると、即衆生に利益する。
リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いて「四無量心」を開示した、即ち「慈悲喜捨」である。慈悲は愛ではない、愛はその対象があり、要求がある。愛の心があると、愛の行動がる。何故なら愛はある方面の需要を満たすためである。しかし慈悲心は必ず慈悲の行為があるとは限らない。現在多くの宗教は一団の人の文化の表現で、信念を以って宗教とする。仏法はある文化をその儀軌の中に取り入れることができる。例えば顯教は「如意」を持つ儀軌があって、それは中国人の発明である。もともと仏法では煙供がなく、チベットの原始宗教のものであるが、蓮師はそれを儀軌に取り入れた。但し祈請や呪文は変えている。仏法儀軌の適応性はとても大きく、人や地に因んで変えることができ、排斥をしない。だから仏教は祖先を礼拝することを禁じていない。仏法が非常に長く中国で広く伝わるのは、仏法が中国千年の文化を排斥しないからである。仏法の外在は変える事が出来る。それは慈悲のためで、手伝う事が出来れば、外在は変えてもかまわないとする。
愛は学ぶ必要はない、欲求に基づくので、自然に生まれる。しかし愛は相手に苦痛をもたらす。慈悲は育てなければならない。慈悲の法門を修める者は、世の中のすべてが因縁法によるものである事を理解する。よって執着の必要はなく、自分の役目だけをよくこなせばいいと知る。慈悲だけがすべてを変えることができるので、慈悲は宇宙間で最大の力だと言える。菩薩は悩みを菩提に変え、どこにも道場があり、どこでも衆生を度することができる。菩薩を修めれば、悩みを断ち切るだけでも忙しく、更に悩みを引き起こすことは無い。故に必要のない恩怨を結ぶ事を減らす事が出来る。もし修行の立場から生活を見るのでなければ、味気なく意義がないと感じる日がついに来る。生活がつまらなくて、なにか刺激を求めるのは欲求が強いからである。生活の中で、すべての衆生は自分が苦海にいる事を知らない事を体得し、薫陶の方式でそれを変えていけば、生活がつまらなくなることが無い。慈悲を修めると、物事に対する見方が変る。
「慈」は「全ての衆生が楽しみと楽しみの因を備えることを願う」。この楽しみは世俗の平安喜楽を指すのではなく、輪廻を解脱し、不生不死の楽しみである。「慈」は衆生が楽しみの因を備える事を助け、自分の楽しみを彼等に与えて、彼等の苦しみに代える。慈悲心の修行は四相を破ることを必要とする。四相とは我相、人相、衆生相、寿者相。「我相を破る」とは独り善がりや我執の心を破ぶる事。「人相を破る」とは分別心で他人を見る事を破る事で、平等な慈悲心まで修める。「衆生相を破る」とは「仏」と「衆生」の区別をしないことで、衆生と仏の本質は本々同じである。「寿者相を破る」とは時間観念を破る事である。私達の心は本来如如不動であり、地球が回転するのは我々の心が動くからである。。我々は常に苦しみに耐えず、苦しむ時間短い事を望む。時間観念が現れると、根気が無くなり、閉関が出来なくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは三ヶ月間雪山で閉関したが、もし根気がなければ我慢できなかった。もし毎日時間が速く過ぎる事を望んでいたら、あの三ヶ月を過ごすことは出来なかっただろう。時間観念を破らないと、修行は難しい。六祖慧能は彼が住んでいた猟師の家を離れた後、ある仏寺へ来て、二人の出家衆が仏寺の外に掛かっている経幡に就いて論争しているのに出会った。一人は風が吹くので経幡が動く言い、もう一人は経幡が風に従って動くと言った。六祖慧能は「仁者、貴方達の心が動いているのです」とおっしゃった。仏寺の主人はすぐ六祖慧能が昇座して仏法を説くように乞うた。座禅で妄想をすると、時が過ぎるのが遅いと感じるが、心を一つに集中すると時間が早く過ぎる。ある者は眞言を唱える時亡霊がいると感じるが、それは慈悲心がないからだ。亡霊が来る理由はそなたに恩か仇があるからで、因縁がないと来ない。
捨てられないと自分の楽を衆生の苦しみと引き換えられない。実はリンチェンドルジェ・リンポチェが毎回衆生を加持する時、自分の福報と快楽を相手の冤親債主に与えて、その代わりに相手の苦痛を一部分リンチェンドルジェ・リンポチェの身に移す。ミラレパ尊者は、或る時自分の身に受けた衆生の苦痛を、ある仏法を信じない者に見せた。尊者は今私の体に有る苦痛を、向こうの扉に移して見せようとおっしゃった。するとその扉はすぐ粉々に砕けた。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎年必ず閉関修行に行くのは、この苦痛を消し、更に多くの福報を修めて、衆生を助けるために、彼らの苦しみを転化するためだ。もし、自分の福報をすべて衆生に与えなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行果位では、修めれば修めるほど若返る事が出来、外見は30歳位に見えるだろう。
慈しむ心を学ぶにはすべての女衆を己の母と見、すべての男衆を己の父と見、すべての児童を己の子女と見る。親孝行と赤子を世話する様に、何も求めない気持ちで衆生に与え、報いを求めない。母親は赤ん坊のオムツを取り替える等世話をして苦労するが、年をとっても子供の世話にならなく、病に罹ってもあまり話さない。此れが報いを求めない慈しみの心である。母親が子供に対する慈しみの心は、見せ掛けの物ではない。母の恩を忘れてはいけない。例え母親がそなたに対してあまり良くないことをしても、それは過去累世の因縁であって、母親懐胎の恩と養育の慈しみを、永遠に忘れてはいけない。毎日母の慈しみを思い、衆生の苦しみを見れば自分の子供が苦しんでいると考える。毎日この様な訓練すれば、遅かれ早かれ作用を起こし、いつの日か慈しみの力が現れて、自然に意識がすべての悪を取り除く。その時が来れば世間の人は過ちを犯さず、すべては因果だけになる。慈しむとは善事を行うことではなく、良い言葉を話すことでもない。大事なのは心である。心の中で慈しみが有れば、厳しい言葉を使ったとしても、それは相手を思い遣る為である。
次の「悲」は「すべての衆生が苦しみと苦しみの因から離れるを願う」だ。悲しむ心は衆生を済度し、輪迴の苦海から救い出す。菩薩にとって、衆生が煩悩するのは此れ即ち苦しみなので、衆生が自分の考え方によって煩悩するのを避けさす。菩薩道を修める事は、すべて縁に従うことである。もし家族と親友の縁がまだ熟していなければ、先ず自分がしっかりする事。家族が菜食しなくても、強要しない事。さもなくば反って彼をして仏法を誹謗する事になる。禅宗の六祖慧能は狩人の家に16年も住んで、狩人の肉食を手伝ったが、自分は菜食をしていた。これから見ると自分が菜食でも、それで他人に距離感を与えるのはいけない。他人に仏を学ぶのを強要してはいけない、先に自分を変えると、周り人が因縁を造る手助けが出来る。衆生に苦しみ与えない事。他人に菜食を勧め、かえって口論に成った者が居るが、それは良くない。こっそり家族のお金を持って来て供養し、彼等の為に福報を修めたと思うのは、間違だ。供養したため、家族に煩悩が起きると駄目で、気の進まない供養は、福報がない。寶積經には、自分のお金だけが供養出来ると書いてある。両親が法会に参加しなく、菜食をしなくても、子女が代わってする事が出来る。我々自身が仏法の利益を得て、それを親友に知らせ、受け入れるか受け入れないかは彼の縁だ。我々は彼の縁が何処にあるのか知らないので、どうやって手伝えばいいのか知らない。
ただ我々が守られる事だけを望み、苦しみを受けて償いをしたがらなければ、仏菩薩も我々の手伝いが出来ない。チェツァン法王は子供の頃から色々な苦しみに出会った。しかし法王は其れを苦しみとは思わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェも色々な苦しみに出会っている。しかし、衆生に利益する様発心すると、苦しんだとしても、絶路には至らない。衆生を連れて苦しみを離れるには修行が要る。例えばポワ法はすぐ衆生が死亡と輪迴の苦しみから離れるのを手伝う。今、みんなにはこの力と能力がない。苦しみと困難があるとリンチェンドルジェ・リンポチェに持ち込み、助けをお願いしている。其方は家族と連れ立って大法會に参列し、上師の教えを聞き、来世の法縁を結ぶがよい。絶えず衆生が法縁を結ぶのを手伝えば、今後衆生が苦しみから離れるのを手伝う事が出来るまでに修行が出来る。菩薩の果位を修めないと、衆生を浄土に行かせる福徳能力がない。寶積經の記載では、弥勒菩薩が仏の教えを乞うた事がある、どうすれば浄土に行く事が出来るかと。仏陀は10種類の心を開示された。第1は菩提心、即ち慈悲喜捨てある。菩提心を発し、菩提願を行なう者は、懺悔しなくても浄土に行ける。しかしそれは菩薩の事で、我々は懺悔しなければならない。
第3の「喜び」、「一切の衆生が苦しみ無き快楽から離れないことを願う」だ。苦しみ無き快楽は後遺症のない快楽である。世の中の楽しみはすべて苦痛の根源だ。何故なら欲求は永遠に満ちる事無く、絶えず増える。楽しみは心に油断をさせ、自分を戒めなくなる。いくらかの苦痛があるのもよい。美味しいものを食べるのは楽しいが、体にはよくない;一生懸命働いて昇給するのは楽しいが、体を壊してしまう;ある者の子供は出来が良く、両親を楽しますが、成長した後、突然意外事故で死ねば、両親を苦しませる。このような快楽はすべて後遺症がある。しかし永久不変の楽しみは苦い因と果を生まなく、輪迴の苦しみを断ち切る事が出来る。
もし何かを失って、それで仏を学ぶ機会が得られれば、かえって大福報である。リンチェンドルジェ・リンポチェの椎骨はひどく曲がっているが、それは過去世の殺業が致しめる所である。リンチェンドルジェ・リンポチェは一切を受け入れ、気にも掛けなかったので、痛みは軽くなった。リンチェンドルジェ。リンポチェは癌にも罹った事があったが、それは自分の業力と受けとめ、それと平和共存したが、数年すると問題は解決された。数ある信衆は自分の癌をすぐにも治したいと望むのだが、これは無理だ。癌の患者は化学療法を受けるが、其れで痛みを取るのは不可能だ。仏経に曰く、もし上師に対し十分な信心が有れば、病魔は離れる。これは敬虔が故に福報が起こるからだ。但し、病魔が離れた後、再び帰ってこないとは言い切れない。
苦しみ無き快楽は世間の快楽ではなく、衆生が苦しみ無き快楽を得る事を手助けする前に、先ず自分が確実に解脱しなければならない。例えば或る者がポワ法を得て解脱した時、傍観者は彼が浄土へ行くのを見て歓喜心を起こし、仏法の殊勝を見て歓喜心を起こす。彼らが仏法、上師、三宝を賛嘆する事は、これ即ち随喜で、限りなき福報を生じる。なので、自ら行ない、自分を厳しく律し、自分に驚天動地の変化をきたす。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の一人は、元々姉、妻、家族の全員が、彼が仏を学ぶことに反対していた。しかし、彼が仏を学んでから酒を断ったので、父親は大喜びだった。彼の会社に問題が起こった時、リンチェンドルジェ・リンポチェがそれを助けたので、家族は皆喜び、彼が仏を学ぶことに賛成するだけではなく、皈依もした。
「慈悲喜捨」は修法の前行であり、前行をしっかり行わないと、本行に功力が生じない。前行は後の学習の条件と基礎なので、必ず確実に行う。皈依しない者は仏を学ぶ気が無く、悪行を断つ気が無い。それでは密法という至善の法を良く学ぶ事は出来ない。仏が花を手に微笑む時、数多くの人が聞いて居るが、ただ大迦葉尊者一人のみが悟りを開いた。リンチェンドルジェ・リンポチェが説法する時も、同時に沢山の人が聞いているが、それから何かを得たり、体得したりするのはそれぞれ同じくない。それは各自の縁、願力、根器及び恭敬心と関係している。皈依したことがあって、それから戒を破って離れると、今後仏を学ぶ道に影響して、以前累積した福報も消えてしまう。ディグン・カジュ一のすでに往生した114歳の老ヨギーニ(ギェ・ラルカ・ジョルマ・リンポチェ)はかつて曰く、リンチェンドルジェ・リンポチェのようにこの年で福報がまだ増え続けている人は少ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは普通の人は賢過ぎて、仏法を聞いては比較するので、修める事が出来ない。
2009年4月14日
リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石会社で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示されました。
2009年4月15日
リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥宝石会社で、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示されました。
2009年4月18日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて続けて金剛薩埵法門の前行の部分を開示され、法会が終わった後、多くの信衆を接見し、信衆のためにこの世の一切の苦しみを解決し、仏法を開示された。
法会を始める前に、皈依した弟子の一人が皆に末っ子が病気にかかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得た話をした。其の話よると、彼女の末っ子は急病を患い、血色素が異常に低い事が検査で分かり、白血病と診断され、病状は危篤状態で、医者も匙を投げていた。彼女の義父はリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求め、50万元を供養した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の供養を受け取らず、彼らに自らこのお金を本当に金がなくて病気になっても医者に掛かれない者に手渡して助けなさい、と諭した。そして末っ子に加持した時、かつて彼等の家族に女子が一人自殺したのを見た。彼等が家族の年長者に問いただすと、初めて何世代か前に(百年余り前)、16歳の幼な妻が自殺したのが分かった。彼等はあちこちの病院で、お金がなくて病気が治せない患者を探したが、そんな患者は何処にも居なかった。この時始めて、福報がなければ、布施をして人を助けるにも其の相手に出会えず、とても困難なことが分かった。 彼女の義父はまた多額のお金を携え、寶吉祥宝石会社に赴き、リンチェンドルジェ・リンポチェに此れを供養するので、法を修めて頂きたいと求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは外出中だったが、前と同じく彼の供養を受け取らず、仏法はお金さえあれば法を修めてもらえる事など無いと開示された。もし金で法を修めるのでは、金がない人は如何するのだ。この弟子の義父は遂に懺悔心を起こし、リンチェンドルジェ・リンポチェの写真に恭しく五体投地の礼拝をした。五体投地の礼が終わるとすぐ、病院から知らせの電話がきて、お金がなくて助けが要る患者が見つかったとの報せが来た。彼等がお金を病院に送り、これらの患者を助けると、末っ子の意識が回復して、あらゆる血液検査の指数が次第に正常に戻り、しかも子供の血液機能が不正常で極めてひどい酸欠の状況にあったにも拘らず、(脈が150にもなっていた)、肝臓、腎臓、脳と心臓が全て損なわれてなく、たった2日で退院して医師を驚かせた。
リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事で、彼等に福報が無ければ、善行をする機会さえない事を知らせ、機会は仏菩薩の手助けで見つかる物だと開示されたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは2度も供養を受け取らなかったが、それは彼等が良かれしと思うが為であった。もし、彼等に敬う心がなければ、法を修めても用を成さず、彼等が上師の話を聞き入れてお金を布施し、しかも自ら真に医者に掛かるお金がない病人に手渡したのは、上師を敬う心の表れなので、加持力が現れる。敬う心が無ければ供養は無い、供養が無ければ福報は無い。子供の体内に血液と酸素がなく、それで内臓が損なわれなかったのだ。これは仏菩薩の保護と、リンチェンドルジェ・リンポチェが呪文を唱え、子供を加持したからだが、彼等には此れを教えていない。自殺した祖先はまだ地獄に居り、百年以来の恨みをまだ伝えて来る。ただ彼ら夫妻は既に長らく皈依しているので、福報が起こり、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼等の祖先を見る事が出来た。彼等の供養を返したのは不慈悲ではなく、法を修めるのか否かも実は重要でなく、欲望や汚れが満ちていると、清浄な光も射し込めないからである。今度は彼等の家族に何が善行か、何が修行かを知る機会を与えたのだ。敬いと尊重は違う。敬いは心の底から発する誠実な考えで、生生世々に亘るものだが、尊重は、相手の品性あるいは職務に対して発するもので、外相の変化に従って消え去る。是は因縁法なのである。上師が仏法を行う方式は考えにも及ばない。例えば今日はわざと通常と違って土曜日法会を行ったが、果たして皈依していない信眾が十数人来なかった。
法会で、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示された。仏を学ぶ多くの者は前行を重視しなく、呪文を唱えることが大事だと思っているが、それでは考えや行いを変えることが出来ない。前行は顕教によると「正見」であり、仏が教える真義は自利利他である。「業」は我々を輪廻させたりさせなかったりする力である。ただ悪業だけが我々を輪廻に陥れるばかりではなく,善行も空性を知らなければ輪廻する。「正業」は様々な修行法門で、その力は確実に我々を輪廻から遠ざける。仏法を己の経験法則で聴聞してはいけない。仏経では伝法者は神通力を顕さず、正見で弟子を導くべきである、と言う。それは、衆生は神通力を見ると恐れをなし,と同時に、外道が神通力を利用して衆生を間違った方向に導く事も心配だからである。密乗上師が成就すると、福報が現れ、更に全ての事が現れ、弟子も多くなる。しかし、弟子が多くなるのも業障の始まりで、もし注意を怠れば、すぐ信者と弟子の業力に縛られる。
ガムポパ大師は開示して曰く:大乗種性を備える者(めったにない。それは、各々が己の考えを持っている故)は円満大道仏果を悟る為、修道、見解を一つに合わせるべきだ。ある者はすべての仏法を了解してから行い始めるが、了解したいと言う事も欲望である。仏法は宇宙間の真理で、完璧で非の打ち所が無い。見(正確な見解)、修(身口意の修正)、行(動作、菩薩道を行う)この三者は同時に行わなければならない。見、修、行の三者を同時に行うと、その果実はすぐに現れるだろう。「見」と言うのはどれだけ仏法を理解しているかと言う事ではなく、高い場所から遠くを眺め、成仏して衆生に利益することが出来るかを見極める事だ。多くの者は仏法を聴聞する事を喜び、法会に参加する。しかし、法会に参加するのは仏法を理解する為ではなく、福慧を増加する為である。「修」と言うのは繰り返して行い、善行の習慣を身につける事だ。願力は正しい見解の上に立ち、聞けばすぐ改める。内心の思想を直さなければ、他人がそなたを批判していると感じる。ただ表面だけで仏を学び内心を改めなければ、呪文を唱えても表面だけで、力を発揮しない。もし「行」の力が無ければ、徐々に自分の意志で本々聴聞した正確な仏法の「見」を変えてしまう。 この度、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの手助けをした時、見、修、行を同時に行っている。
見修行を同時に行わないと、一方的に自分が善行していると思い込み、それでは修行は仮相で、格好を付けているだけである。例えば、前に金門が濃霧で飛行機が飛べなかった時、ある出家衆が霧を払って飛行機が飛べるよう祈願し、大悲咒を唱えたが結局効果が無く、かえって悪口を言われた。大悲咒はこの様に使うものではない。飛行機が飛べるか飛べないかは因縁だ。前に一度台北で、台風で大水が出て冠水した事が有ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの大水では死傷者が出ると考え、地下室の自家用車が水没するのも顧みず、大悲咒を唱え続けた。其のとき死傷者は出なかった。釈迦牟尼仏が成仏なさるとき、魔王波旬がもう妨げようもないと悟って、仏にこの世に長く居ないようにと求め、仏は慈悲で承知した。魔王は、将来我は仏法を世間より消滅させよう、そして仏法を壊滅させる者は仏の弟子だ、それはあたかも獅子が身中の虱に血を吸われて倒れるが如し、と言った。
小乗仏法で毎日打坐、瞑想をする修行は現代の我々が出来る事ではない。出家者さえ難しいことである。仏は非常に慈悲深いので、また菩薩道と金剛乗仏法を伝授された。これは親族の因縁がある者も修行できる法門である。今世に眷属の因縁があれば、絶対に因縁に逆らわず、眷属の気持ちに配慮する事。しかしあまりにも強く愛し合って、お互い分かれ難いのもいけない。
正見を把握する事が出来ると、見修行の力は勇猛な獅子のように強い。心性自在何も恐れなく、雄のライオンが荒野にいるように自在だ。仏法を聴聞するだけで修行しなければ、やはり正見を把握し得ない。正見を把握すれば、誰も成仏の決心を変えさせる事が出来ない。寶積經の記載では、菩薩道を行う修行者は何処へ行っても恐がらない。それは菩薩が自分のためにではなく他人のためであるから。正見解の力、慈悲の力は強いので、恐がらない。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェがインドシーク教区で演説或いは法会を催し仏法を説いたが、少しも恐がらなかった。台北で大法会を催すと、五千、一万人が参加するが、やはり恐がらない。
正確な見解を備える者は一切万物の法性を知っている。聞こえたり見えたりする物はすべて空性で無自性である。すべては因縁法なので、一切が縁に従って行われる。宇宙ではすべての音声、色相、万法の法性は中間がなく、限界もない。簡単に言えば分別がないことである。すべての音声や色相は分解っするが、本体は変わった事が無い。科学は原子、分子、クォークの配列方法が違うと、それによって生まれる物体は違うように見えると言うが、分解後の本質は違わない。それは人が無始以来仏と同じ本性を持っているが如くである。仏法は科学を超える。科学より前衛的である。科学はまだ宇宙の真理を理解できないからである。
リンチェンドルジェ・リンポチェ自身皮膚癌に罹ったことがある。患部は隆起し、赤黒くなり、拡散の徴候が現れ、医師は一年後には死ぬかも知れないと言った。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは死ぬかどうかは構わなく、阿弥陀仏浄土に行けかどうかのほうが大事だと思った。それで癌をほって置いて、化学治療も手術もせず、毎日癌ばかりを考えずに、仏法で正常に生活をしていた。結局癌は治った。リンチェンドルジェ・リンポチェはひどい脊椎側湾症だが、何時間も法座に座って仏法を開示できた。また、法座を降りるとすぐ歩けて、それはもともと不可能なのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは全然病苦に影響されない。それは見解が正確なので、一切が空性で行き来することを知っているからだ。菩薩道を歩む者は、体に苦しみを受けても構わない。自分が苦しむと衆生の苦しみを理解でき、始めて衆生を助ける事が出来る。
慈悲喜捨の「捨」は、「衆生らが差別を捨てて、執着・怒りも離れたる平等心に安んぜよ。」である。いわゆる「離れたる」とは、凡人は愛憎が空性だと理解できないので、心がそれを遠く離れるべきで、体が離れるのではない。心が境遇を転じることができると言うのは、ある程度まで心を修行すると、環境を変えることが出来ると言う事である。 境遇を転じるまで修行する前に、まず環境に影響されないようにする。愛は一つの欲望で、一切の苦痛の根源である。仏法を学ぶのにまだ愛憎に縛られていては、慈悲は出て来ないどころか考えにも及ばない。故に平等に、永遠に捨てる。もし、心が愛憎を遠く離れれば、事に臨むと事に面向かい、人には向かわなく、因果でもって事を見るようになる。このような訓練をしないと、死ぬ前に、愛すること及び憎むことが悉く妨害に来る。もともと、手術を行う必要がなく、気管切開をする必要がなくても、そなたを愛する人の要求で、悉く行われる。冤親債主は特に好きか憎む人に化けて、そなたをよくない場所に連れ去る。よく死ぬ前に両手をずっと振る者が居るが、それは愛憎の力が幻影を生むためである。
他人に済まない事をしない事。また他人を愛し過ぎたり、憎んだりしない事。他人の一言をはっきり覚えていると、其の恨み言は何時までもくっ付いてくる。すべて我々自身が招いている悩みだ。他人がそなたに済まない事をした場合は、すぐ忘れてしまうどころか、感じる事さえも有るべきではない。もし誰かがとてもそなたを愛すれば、それも懺悔しなくてはならない。なぜかと言うと、彼は前にそなたに借りがあったので、今愛でそれを償っているからだ。仏法を学ぶ人に感情がないと言うのではなく、感情を重視しないと慈悲がなく、いくら修行しても成就しない。ミラレパは母を愛するが故、善し悪しに関わらずすべて母の話を聞き、親戚が母を傷つけるを恨むあまり、ついに殺人の罪を犯した。愛と恨みはすべて感覚で、変化もする。これは生活の過程にすぎないとし、なにも最も重要なことではない。あまりに愛過ぎると、一旦失ったら怨や恨を生じ、死んで相手に当てつけ、苦痛を与えようとする。もし相手を愛し、相手が苦しむを望まなければ、未来に相手が苦しまないように手伝わなければならない。
たとえ子供が死ぬとしても、彼を往かせる。もし彼を愛し過ぎると彼は生まれ変る事が出来ない、すると恨みになる。放したくない事は、悪である。仏法の偉大な所は、我々に累世の恨みを解かせる事である。もしそなたの子供は死んで浄土に行くのならば、彼が仏に従って仏法を学び、衆生を利益する事が出来るのを喜ぶべきだ。浄土に行く目的はよい生活を過ごしに行くのではなく、阿弥陀仏の浄土に行って、蓮の花の中で修行して外に出なく、それは閉関と同じで、毎日仏菩薩が仏法を教えに来られ、必ず仏果を得るまで修行し、それから衆生を利益しに行く。彼は浄土でもう輪廻しないが、そなたの思念は、彼を蓮の花の中に閉じ込め、更に多くの時間を掛けて成仏する事になる。もし彼が天道に居るならば、同じようにそなたの思念が、その階層を低くさせ、間もなくまた輪廻する事になる。
「捨」は布施から育成する。捨てられないと慈悲を修めることが出来なく、菩提心もない。リンチェンドルジェ・リンポチェが今回弟子の義父の供養を捨てて、弟子の義父と家族に仏法の偉さを体得させたが如くである。仏を学ぶ者は家族に対応する方法も同じくない。仏法は人情より昇華されていて、一切を捨てる。執着する事など何もない。もし或る所の人々が全て慈悲を修め、放す事が出来るようになれば、この所は必ず良くなる。もし「慈悲喜捨」を修めず、菩提心を起さないならば、阿弥陀仏を唱えることさえ問題がある。
菩提心は寶である。菩提心がなければ、なにを修行しても役に立たない。この方向へ向って絶えず進めば、ある日菩提心が必ず顕れ、衆生に助けがあり、家族も徐々に良くなっていく。一度の法会に参加すると、往生した全ての家族を済度できると思ってはいけない。まだ数多くの時間、福報、因縁が足りない者が居り、それはまだ済度出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を激励して、自分が把握できる精神と体力を以って仏を学び、我々が自分ではあっていると思うことが必ずあるので、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を繰り返しよく聞き、繰り返し何処がまだ出来ていないかを考え、天地を揺るがすように自分を変えるべきだ。
2009年4月26日
リンチェンドルジェ・リンポチェは遥か日本から、台湾で亡くなったばかりの弟子の為にポワ法を修め済度された。この弟子は今年の1月皈依した時、すでに末期癌であった。今朝亡くなったが、因縁が十分に備わっていた故、2時間足らずで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を遠くから修めていただいた。修法が円満した後、この弟子の死体にはポワ法が成功した時の瑞相が悉く現れた。面持ちは安らかで、体は柔らかく、体は冷たかったが、頭頂の梵穴はまだ暖かった。家族の気持ちも穏やかで、悲しみも少なく、殊勝なポワ法を賛嘆していた。
午後、台北寶吉祥仏法センターにて、弟子と信衆は恭しくリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年12月29日に開示された「四加行を修める時の正しい心掛け」の仏法テープを聞いた。四加行を学ぶ前に、すべての身心状態は正しくなければならない。此れで始めて証果とご利益を得る。仏法を聴聞する事、この世に住む仏法に会う事、人身を得る事、全て難しく、既に皈依したからには、この縁を大切にするべきである。今、出家者にしろ在家者にしろ、完全に群衆に近づかない修行方式を取ることは難しく、もし善知識の攝授が無ければ、自分の力だけでは、浩瀚広大な仏法の経典の何処から始めるべきかさえ分からず、伝承の上師から伝わっる口訣によって仏法を学び始めるべきである。伝承とは、直貢噶舉教派で言えば、第1世の祖師から、現在までの各法王が、直貢噶舉教派の口訣全てを残し、間断した事がなく、法王は教派を管理なされるばかりではなく、その権力と義務がはっきり決められていて、その義務とはあらゆる仏法を整理、保存、口伝して、必ずその一生で知り得たすべての教法を、一字一句たりとも残さず、如実に根器がある弟子に伝える事だ。実際には各法すべて善く、一つの法が別の法より秀でる事は無く、ただ各本尊の願力が異なっているだけである。上師は経験豊かな如実な修行者で、どのような修行の道を選べば時間が省けるか、また正しいかをよく知っており、口訣は彼が口伝する全ての修行法門である。
かって三大弟子がアティーシャ尊者に尋ねた事があった。解脱果位を証したい衆生にとって、仏陀の言葉、議論、経典と上師の教えの2者は、何を主にするべきか?尊者答えて曰く:上師の教えを主にすべし、と。德を備える上師の顕教基礎は絶対に堅く、必ず正法、正念、八正道で仏法を発揚し、どのような方便法門を用いて様々な衆生を教えるかを必ず知っている。チベット仏教は口伝と、德を備え如法上師の教えを主とする。例えば リンチェンドルジェ・リンポチェが大手印を学んだとき、すべて法王の伝える口訣に従って実修し、その他の書籍を見なかった。何故なら人間の考えはすでに繁雑過ぎて、知ろうと欲すると、すぐ妄想が始まる!仏陀は多くを語ったが、それは衆生が余にも愚かで無知だからで、その実、仏陀の説いた般若経六百巻を通じて、ただ“空”の一字だけを説いているのみだが、衆生は仏陀を理解し難く、絶えず解釈を加える。仏法は研究、探求、理解するものと思うのは間違いだ。仏法はすこぶる簡単で、生活化すればよい(生活の中に溶け込ませる)。もし、それを学問として勉強すると、我等が一生の時間を掛けても足りない。仏法を学ぶには上師によく依止して、自己解釈をするべきでない。
リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子がタイの北部で慈善活動をする事に成った。世間法で言えば彼は善事をしたのだが、出世法では我々は生涯の時間が既に足らず、自分がよく修行して、対岸に渡れば、自然と数多の衆生を利益する能力が備わる。一人が生死を解脱出来れば、無始よりそなたと関係がある衆生と共々生死を解脱する事が出来る、これは天文学的な数である。仏法は縁を重んじる。歴史上仏法がアフリカに入ったことは一度も無い。此れ即ち縁が無いのである。地藏經には、病人を助けるには、助けを自ら持って行かなくては成らず、貧しい者を助けるにも自ら持って行き、また彼にどうやって生活を維持するかを教えなくては成らない。慈善事業に寄付する事と仏陀の説く慈は全然関係がなく、真の慈善は自分が過ちを改め、自ら仏法をよく学んで衆生に利益する事だ。経文には「慈善事業」の四文字に触れたことがない。事があれば業があり、業があれば、輪迴せざるを得ない。病を患ったり苦痛を嘗めたりするは必ずその原因がある。もし因縁が有れば、必ず仏法の助けを得られる。アティーシャ尊者曰く、自分勝手な考えが有っては成らない。上師はすべてを我々のためにと思っている、上師に依止すると決めたからには、上師を完全に信じなければいけない。
弟子はなぜかと聞いた。アディーシャ尊者は答えて曰く:よく理解し、唱えることが出来(仏経の細かい所まで覚えて)、万法の名を極めたとしても(仏陀の説いたすべての仏法名詞を言える)、もし実修で(仏経をどれだけ読んだり唱えたり、或はどのくらいの期間の閉關したりではなく、仏法で自分を変えて、仏法を生活の中に適用して、実のある憂慮なき生活を過ごすことだ)上師の教えが無ければ、何処から修行すればいいのかさえも分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェが数年来説いて来た仏法は、順序があり、弟子達にどのようにして修行するべきかを一歩一歩教えている。そなたはまだ見性していなく、ただ自分の主観性で仏を学んでいる(私は有利な、好きな、受け入れ得る、満足する部分だけを聞く)。だから、言葉に出すものはそなたの考えであり、知恵ではない。衆生の問題を聞いても、すぐその心中に刻み込む言葉を言う知恵がない。
弟子は再び問うた:もし私たちは上師の指導を帰納して実修すれば、私達に身、口、意で善行することが可能か、と。アティーシャ尊者は答えて曰く:否、たとえそなたが上師の教え賜った一切の法を守ったとしても、もし三界輪廻を離脱する出離心がなければ、学んだものは輪廻の因を植えたに過ぎない。出離と厭離とは違う、厭きた心を抱いて離れても、心にはまだ瞋恨がわだかまり、まだ三界の輪廻に居る。出離心は三法印である。そなたがこの世には面白い事等もう何もないとはっきり知り、得るものは全て人生の過程に過ぎず、最も大切なのはこの一生で三界輪廻の苦しみを離脱することが出来るか否かである。仏菩薩は出離心で戻って来て衆生を済度する。出離心がなければ享楽する心で帰って来る。修行が良ければよいほど、善行が多ければ多いほど速く帰って来る。それは、猶多くの人がそなたに借りがあるので、善業の力がそなたを引っ張ってくる。上師の教導に悉く従って学んでも、出離心がなければ、やはり帰って来る。出離心があれば、一切の家族、財産は縁であることがわかる。必ず有ったり無くなったりして永遠ではない。
アティーシャ尊者は更に説いた。たとえ、一日24時間身口意で善行を尽くしても、もしそなたが菩提円満の迴向をしなければ (すなわち、毎日なした功徳を全て十方法界一切衆生と仏になる道に迴向する)、そなたの功徳は漏れる功徳になり、邪道に歩む(邪とは輪廻である)。仏は我等に生死大海より離れることを勧める。いかなる仏法を説く者が、そなた達に出離心を勧めないのは邪念ではないかと注意するべきだ。そなたが証果以前戻って来るのは、絶対に業力に引っ張っらて来るので、願力がそうさせるのではない。そなた達は死を恐れるので発願する。そなた達は菩薩道の果が比較的いいと分かるので毎日発願するが、出離心が無く、行わない。十方法界虚空の中、一切浄土には業を帯びて往生は出来ない、善業も悪業もだ。ただ、阿弥陀仏仏土には善業を帯びて行くことが出来る。釈迦牟尼仏は慈悲深い。それで頑強な人類のため、この方便の法門を残し、そなた達に阿弥陀仏を紹介た。そなた達は悪業を除く機会があるが、善業を除く事は難しい(善行するときにまだ執着している)!出家衆さえとても難しいので、帯業(善業)往生の言葉がある。
アティーシャ尊者は更に説く:たとえ観を良く修めても、心が世間八風を離れなければ、その行為は全て入世法で行い、今世の為であって、後世のいい道は得られない。観想が出来、呪文を唱えることが出来ても、そなたが修めているとは言えない、八風が吹けばすぐ動くだろう。在家で修めても、出家して修めても、ぞれぞれの困難および利点がある。在家で修めると悩みが多いが、人生の苦しみを熟知するので、比較的に出離する決心がし易い。出家しても悩みがある。出家すれば清浄戒を守ることに便利だが、容易に我慢を高めてしまう。多くの在家衆はまだ身分、地位にこだわっているが、それでは修めることが難しくなる。故に仏は僧団にはびく、びくに、うばそく、うばいがあり、ぞれぞれに長所と短所があり、互いに補うと説く。リンチェンドルジェ・リンポチェが教える解脱の道は世間仏法ではなく、人情仏法でもない。1997年から非常に苦労してこの道場を耕し始めた。仏を学ぶことさえも肩書きやお金と係わるのであれば、そなた達は八風に吹かれて方向でさえも見失うであろう!道場によっては信者を担ぎ上げたり、巫術を使ったりして信者を脅かし、寄進をさせるが、それは良くない。善知識は世間法でそなたを誘拐して仏法を学ばせる事は無い。仏法を金で買えるものなら、仏法は値打ちがなくなる。もし、寄進した金額で修行果位を計るのならば、それも仏法ではない。直貢噶舉教派過去の大徳者、ミラレーパ、チロパ、マルパなど、共に貧乏のどん底にいた人達だが、皆全世界が認める大修行者になった。
人身は得がたい。それは龍樹菩薩が話した様に、まるで百年に一度海面に出ることが出来る海亀が、海面に浮く穴の開いた木の切れ端を探し当て、しかも海亀の鼻が丁度その穴から突き通せるようになっているのと同じように、我等が人身を得て苦海を離れることは極めて難しい。そなた達が今受けている苦しみは、以前の悪業に起因する。真の苦しみは輪廻の苦しみである。ある者は、生前死後どこにいるかを知る筈が無いのでどうでもいい、と言う。たとえ皈依して仏を学んでも、多くの者はまだ輪廻の苦しみを信じない。己が間違いを悟らず、仏を学ぶは気性が良くなり、目鼻立ちもよくなり、運も良くなると思っているが、それは外道の考えである。肉体の輪廻以外に、まだ気持ちの起伏がある。我々は永遠の輪廻に在り、永遠の楽しみが無く、いつでも此れを恐れたり、あれを恐れたりしている。我々は昨日があり、明日があると知るが、何故過去世や未来世我が有ると言う事を受け入れられないのだ。輪廻は仏の知恵が仰ったのである。我々仏教は五戒を守り、嘘は言わない。この考えから推すと御老人の仰った事は必ず存在し、絶対に我々を騙さない。そなた達が理解出来ないからとて、輪廻は仏が我々を騙す道具と思うべきではない。仏がこの世に来られた唯一の目標は、一切衆生に輪廻の苦しみから離脱して、不生不死未来永劫の楽しみを得るように勧める事である。仏が我等に教えるのは出離心だ。もしいまだに輪廻などは無きことと思っていれば、そなたが学んでいるのは仏法とは関係がない。この正しい考えはしっかり心しなくてはいけない。他の枝葉は捨てればよい。
真知正見とは確実に輪廻の苦界から離れること望み、それは又仏の求める所である。仏に真の恩返しとは己が輪廻の苦界から離れることで、大金を寄進する事ではない。禅宗の多くの寺院は山奥に建てられている。寺には本堂が無いか、有っても規模が小さい。なぜならば寺院は信衆に布施供養をさせる所ではなく、衆生に禅を習わせ、生死を解脱させる所だ。人身と言う宝物を得るのは容易くは無い。仏法を聴聞し、仏像を拝み、上師にまみえる機会があっても、機会を捉えて輪廻の苦界を離れることが出来るか?やはり難しい。地上の人間の数は多いと思う無かれ、その他の衆生の数は人間より何倍多いか知れないのだ。「律本」に依れば、地獄に落ちた衆生の数は大地の埃のように多い。多くの者は死んだ後必ず直接人間に転生すると思っている。実は地獄に落ちる確率は百パーセントと言える。たとえ皈依して功德主になっても、瞋念で金子を寄付し師父に近づこうと望むなら、同じく地獄に落ちる。唯鬼王になれるかもしれないが。生前完全に仏法を習わず善を行わなければ、地獄に落ちるのは一瞬だ。肉食をしたり、人を恨んだりしたことがあれば、この二つだけでも地獄に落ちる理由は十分に有る。リンチェンドルジェ・リンポチェは人を済度し始めてから、常に多くの衆生が地獄から上がってきたのを目にした。
ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェは偶然に道端の飲食店で多くの鳥の脚を煮る為に、桶で調味料に漬けているのを見た。犬が一匹、鳥の脚を一つ銜えて逃げようとしたが、飲食店の主に見つかり、打たれ追われた為、犬は鳥の脚を捨てて逃げた。飲食店の主は地に落ちた鳥の脚を拾って再び桶の中に投げ入れた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。この者が地獄に落ちる確率は百パーセントだ。たかが一切れの肉も犬に与えられない狭い度量では、完全に布施供養の心がなく、更に瞋恚を起こすのは、餓鬼道に落ちる兆しだ。それに、他人に不潔な食べ物を食べさせると中毒の果報を得る。三悪道に落ちるのは簡単だ。果ては、餓鬼道に落ちる衆生の数は飛ぶ砂や降る雪のごとく、畜生道の衆生は酒を醸造した時の酒糟の如く多い。我々は人身を得られて、自己や他人を済度する大きな利益を得た事を考えなければいけない。六道中、仏果を修め得るのは人道しかない。九官鳥のように口先だけで阿弥陀仏を唱えても、その心が無ければ、用を成さない。南瞻部洲に生れると、善にしろ悪にしろそれを行う力が特に大きい。勝中の勝と言われる。
人の心は強い。仏に対する一切の信念を貫けば、絶対に到達する事が出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て法王に「もうお年を召されているので、今世で悟りを開くことが出来るでしょうか」とお尋ねした事があった。法王は「もちろんできる、上師に十分な信心が有れば」とご返事をなされた。信心が有るとは上師が言ったことをすべて如実に行い、自分の方法で仏法を学ばないことだ。完璧な人身を得て仏を学べるのは、生生世世の福慧を積んで得られた善だ。私たちの体は福徳の力で得られ、今後再び得るのは難しい。だから、自殺すると、たちまち自分が累世で積んだ福徳を断ち切る。それは殺人よりも恐ろしい。顕教では、私たちの体は仏法を学ぶ法器であると説き、密法では、体は文武百尊の壇城であると説く。つまり、自殺する事は仏の血を流すのと同じ事で、直ちに地獄に落ちる。そして毎日自殺した時の光景を繰り返す。リンチェンドルジェ・リンポチェはその目で自殺した衆生を見られた。たとえ側に大勢な人がいても、自分は孤独と感じ、真っ暗闇で一筋の光も見えない。人身宝はどう利用するかを知れば、その利益は如意宝のもたらすものより大きい。
リンチェンドルジェ・リンポチェは一卵性双生児を見たことがあった。この姉と弟は性格、外見、仕事共に違う。過去世から持って来た習性が違うからだ。仏法を学んで始めて自分の人生を把握できる。引き続き法会に参加しているのは仏との縁を延ばしているのだ。今世なすことは未来世に影響する。これは、今日睡眠不足すれば、明日の仕事に影響するのと同じだ。出世法を修めると、冤親債主はそなたが輪廻の苦界から離れられば、彼らも一緒に行けることを知っているので、自然に妨げに来ない。
ある者は施身法会に申し込んだ後、急にキャンセルして来ない事があるが、此れは席を無駄に取っておき、殊更施身法を必要とする信衆が参加する機会を奪う。これは法及び仏菩薩に不敬で、法を大切にしていない。再び来る資格がない。苦労して法会に参列するのは、即ち福を惜しむことだ。苦しみと楽しみは自分の手中に把握されている。供養布施は知恵を修めることではなく、福徳を修めることだ。真に私達を生死から解脱させるのは知恵だ。仏法の習い始めは必ず先ず福を修め、それから智慧を修める。福慧は成仏前、更に成仏後も引き続き修めなければならない。衆生を利益するためだ。福報がいい人や定力が高い人は病気に罹らず、知恵が高い人も病気に罹らない。菩薩道を求める人は決して安楽を求めるため、衆生を厭離する事はない。
円満な体や円満な生活を得ても、自慢するべきではない。この環境を通して更に修行の道で知恵を増やし、心に安楽を得る。一切無我の知恵を理解すれば、即ち諸法無我の空性知恵を理解し、戯論を遠く離れる。戯論とは修行者が世の中の色々なことに対して、気掛かり、執着、分別を起こさず、様々の現象は遊戯のような不真実だ、過程だけだと見る事だ。菩薩道を修める者は、離戯の段階まで修めないと修められない。大手印の第一段階は専一瑜伽、第二は離戯瑜伽、第三は一昧瑜伽(五地菩薩以上)、最後は無修瑜伽(八地菩薩以上)だ。大手印を修める前に四加行を修めるのは、必ず通る過程だ。何故現在に至るまで坐禅を教えなかったのか。業が取り除かれず、体の状況を変えず、出離心が決まらず、福徳を備えていない内に、禅を修めるのは時間を浪費するばかりだ。不共四加行を修めないと、業は取り除かれず、まだ我々についてまわり、心は平静になれない。業を取り除くのは業を消すことではない。負の業力を抑え、正の力を強める事である。不共四加行を通さないで、ただ坐禅に頼り、明心見性を得られるのはほとんど無理だ。禅宗を成就したのは累世の大修行者であり、私たちは比べることが出来ない。
チベット仏教は濃縮されて、力が強く、相対的に要求も強く、標準が高い。出来なければ学べない。専念することが出来なければ、今後更に高く深い仏法は学べない。法会中に動くのは、専念していないからで、眠いのも専念していないし、筆記を取る必要が有るのも専念していない。心が動かなければ、血気が緩慢になり、足も痺れなく痛くなくなる。
世間の全ての事は幻で真実ではない事を知るべきである。外在相は本当に存在し、見えるし触れる事が出来る。但し「体」は変化する、仮の姿である。例えば机の外在は存在するが、その分子や原子は分裂を続けているので、仮の姿である。故に仏法は我々に執着を止めよと教える。今可愛いと思うものも、次の一秒で憎いと思い苦痛になる。――前の「可愛い」に執著しているからだ。それで仏は絶えず我々に捨てよ、布施供養せよと教える。此れこそそなたの執着心を捨てる訓練なのだ。世間の「器」は一秒たりと停止せずに変化し続けている、故に仏は我々に眼ではなく、心で体得しろと教える。仏は数千年前に「器世界」の一切を如実に我々に告げている。仏は真の科学者である。一切が変わらぬことに執着すると、それは苦痛の始まりで、「業」の始まりだ。この事を聞き分ければ、見えるもの一切が仮の姿であることが分かり、輪廻を解脱するのだと自分に言い聞かせることが出来る。
もし一切の善法を広く修めなければ、一切の悪業を広く作ってしまい、そなたの後半生は必ず前半生よりも苦痛であろう。苦しみが多いと感ずるのは、仏法を生活の中に適用しないからで、それでは後半生のみならず、未来世までも良くならない。若し完全に善を行えば、未来は必ず善であるので、善を行う機会を逃がさないことだ。真の善は自分と衆生をして、今後苦しみを離れ、楽を得て、生死を解脱させる。毎日これをはっきり心に置くべきだ。この事を離れて仏法を行い、学んでも、それは悉く邪説である。善を行う事は財を得る事ではない。ただ仏菩薩は時時「慾を以って惹きつける」。今世を善用しなさい。ただ世間楽だけを求め、苦しみを避け、戒律に沿って善を行わざるは、畜生と違わない。人身を得られなければ、衆生を利益するのは不可能だ。人身は得難い。暇満人生を善用する方法は三つある:その最も基本的なのは三悪道の苦しみを知り、努力して人天果位を求め、十善を行い、布施、戒律を守り、禅定をする等である。中階層は、無我を知り、慧学を主とし、戒学定学を添え、声聞縁覚を修める事を主要とする。最高層は禅宗、密法等により、カジュ伝承上師の足跡を追従して修行し、赤光身を得て浄土へ往生し、更に中陰身までの果を認める。是ぞ最も円満な成就である。人身寶を得ても、信心が備わらなければ、成就に至らない。華厳経曰く、信心不足なら、真の菩提心を知ることが出来ない。故に信心を起さなければならない。信心は三つ有り、浄信――皈依の対象を見ると清浄な心を生じて信じる;楽信――皈依の対象の果位の証を認めるを強く求める。勝解信――縁起の教法に対して深い信念を生じる。暇満、円満の二相を備え、一切の信心を備えて、始めて無上菩提の証を認め得る。
リンチェンドルジェ・リンポチェは四加行を修めるに当り、備わるべき正しい心掛けを詳しく説明し、弟子達に四加行を修めるのは非常に難しいと言う事を深く悟らしめ、それで始めて心が開かれ、固い信念を起こして修行を続ける事が出来る。
2009 年 08 月 20 日 更新