尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年9月5日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて、殊勝な薬師仏法会を初めて主催された。リンポチェは燈を点し仏を供養してから、法座に上がられ貴重な仏法開示を賜られた。
本日修めるのは、薬師仏円満報身主尊眷属武尊成就法である。
台湾では顕教の多くは『薬師経』を修めているが、何れも顕教の部分のみであって灌頂が行われていず、仏法で分類すれば化身仏に属している。この一生で、薬師仏を修め成就を得て衆生利益するには、必ず報身仏を修めなければならない。報身仏なら灌頂が必要なので、法王が口伝されてから、私は灌頂を授けよう。
本日我々が修めるのは直貢噶舉ならではのテキストだ。チベットの製薬メーカーは、製薬する前に、直貢噶舉のこの法を修めるようにしている。此の法は我が道場では今回初めて修める。病気になったら薬師仏の名号や真言を唱えれば治ると勘違いしている人が多い。修行の過程で報身仏と相応するようになるまでは、そなたが唱えた薬師仏の真言や『薬師経』は単に、薬師仏と縁を結ばせる為だけなのだ。顕教の方法で薬師仏を修めると、より長い時間が掛かる上、壇城の置き方も違う。顕教では十二薬叉(やくしゃ)を、密法では本尊報身仏とその身の周りの四大眷属を主にされているので、それによる成就(悉地)が異なる。実は、薬師仏は疾患だけについて修行を発願した仏ではなく、ただ単に薬師仏と名付けられているだけなのだ。
釈迦牟尼仏は病気は大まかに三種類に分けられていると開示されたことがある。第一類は、過去世に作った多くの悪業が現世で曝され、病気になることだ。次に、現世に多くの悪業をして現世で曝された病気だ。この二種類は、世間の医者や薬物では根本的に治療することができない病気なのだ。第三種類は、地風水火空のどれかがバランスが取れていないことによる病気だ。例えば、一部が多く一部が欠けたことによって病気になった場合は、治療できるものだ。『地蔵経』には、患者を思いやる事が最大の功徳になるとあるが、患者を完治させるのが最大の功徳だと言っていない。地蔵菩薩は言い間違う事がない。一部の衆生が罹るのは業病(ごうびょう)であって、治療しようがないものだ。だが、大きな因縁と福報がある場合を除く。仮に、患者本人が徹底的に大いに懺悔し、大いに供養し、そして仏法を信仰深く、しかも変わることが無ければ、この病は仏法や医者を通じて治る場合もあるかもしれない。
チベットで製薬する前に法を修めるのは、地球の薬のほかに薬師仏のご加護によって、この薬を服用した患者に対して、薬効を強め一部の業障を取り除くようにさせるためだ。よって、チベット薬の飲み方は漢方薬と西洋薬の飲み方とは異なる。一部のチベット薬は決まった時間に飲むとか、導くための何らかの物に合わせて服用するようにしている。まさにこの事が理由だ。
本日、薬師仏を修めるのは病気を治療する為ではなく、そなたの縁を薬師仏に結ばせる為なのだ。縁が結ばれてから灌頂を授けよう。今後寺院が建てられたら、閉関センターで閉関修行する機会ができる。このテキストを修めるには、少なくとも一か月の閉関が必要だ。一か月に及ぶ閉関から出たら、薬師仏になれるのか。いや。閉関が終わってから、そなたは薬師仏とその眷属と相応するようになる。仮に、そなたが医者だとすると、患者さんを診る際に、たまにはアイデアが閃いて他人が見えない問題点に着眼できたり、病気を治療する際に、この人にならこの薬でもいいではないかと、普段使っていない薬を使うようにしたりする場合もある。これこそ、本尊からのご加持だ。
仮に、そなたは医者ではなく一般人だとすれば、仏典とテキストに基づけば、よくこの法門を修めると、自分自身を無病にさせ、しかも財物の増加が期待できる。台湾では、『薬師経』を多めに唱えれば、商売する者が金運成就し、金運に恵まれるようになる、という言い方が流行っている。実は、商いによって儲からせるのではない。この財には二通りある。一つは法財であって即ち仏法に関するものだ。福報が無ければ、たとえ伝法したとしても、そなたには修め得られるチャンスがない。或いは、修める機会があったとしても、修め得られず、つまり仏法の法財を持っていない。もう一つの財は、出家であれ在家であれ、いずれも生活していく資糧を必要とし、食事・衣服・住む場所が要る。閉関の際に当たって、もし資糧が不足すれば、ご飯を作ってくれる人もいないだろう。
本尊を弁えた上、此の法に触れてはじめて自分自身に役に立つ。法を貪ってはならない。自身が薬師仏を学ぶと、医術が抜群になると思い込んでいる。本日、私は医者をしている弟子らを法会に参列させた。前述したように、閉関と灌頂がなお必要である。一部の医者はいくら考えても、治療する方法が思いつかない。それは医者にも業障がある。業障が取り分け重い医者であれば、たとえ博士であっても、どうしてか治療する方法が分からないでいる。薬師仏を修め終わってから、業障が少なくなると、自ずと患者さんの病をより明確に見極められるようになる。
密宗は、仏部・蓮華部・護法部・金剛部・上師部に分かれている。如何なる衆生も如何なる部ともご縁がある。仏部を修めれば、すぐさまに成仏するわけではなく、ただ単にそなたはこの一体の仏様とご縁があるだけなのだ。仏部を修める者なら、さらに自分が何しているかをはっきりと分かるべきだ。ちょっとした間違いでも許容できない。
チベット仏教では薬師仏を修めることは比較的少ない。実は、どの法門も病気を治すに当たるものがあるが、必ずしも薬師仏を修めなければならないのではない。どうして今日は薬師仏を修めるのだろうか。それは、ある医者弟子が私に、かつて彼が顕教を学んだ際に、『薬師経』を唱えたことがあると言ったことがきっかけだった。それで、私は皆に密法の報身薬師仏を修めてあげよう。報身の速度は、修行の面でより早くなる。
(修法、並びに開示)
薬師仏は、一切の衆生が貧乏や冷熱の病を免れるように保護されている。
漢方医学では問・聞・望・切というが、それは患者さんの匂いを嗅いだり顔色を観察したりすることだ。医者は霧の掛った森の中に入ったように、患者さんをよく診査する。よく診査せず、思いやらずにいると、此の法を修めても相応などしない。医者として患者さんを詳しく診査すると、加持が得られ、ご自身の業障を取り除いてくれて、病としての特徴に気付くようになることから、あやふやな診断を言わないようにすることができる。話をしている際は、まるで孔雀が羽を広げた際のように、患者さんが聞くと、心から喜ぶし、落ち着くようになる。だから、医者として恐喝或いはあやふやな言い方で患者さんと話すのは、実に良くない。医者が診断する時に、龍が歌うように穏やかで前向きな声で話すべきだ。あやふやで、曖昧そうにあれやこれやと言い回しても、患者さんにはっきりとした診断結果を出していない者なら、医者としての資格がない。法会前に自身の経験を語った弟子(詳しくは衆生済度事跡第1095号を参照)が言ったように、彼らが指示を求めに来た際に、リンポチェははっきりと状況について教えたし、確率が何パーセントだなどとは言っていない。
仮に、そなたは此の法を修めて、患者さんに憐みの心を起したとすれば、これら薬師仏の眷属・仙人も、業障を消去するようにそなたを加持してくれる。あたかも神通を顕わにしたかのように患者さんを治療しているのだ。実は、そなたには神通がないが、ただ患者さんの病気の元を見いだし、どう治療すればいいか分かるし、その治療法についてはっきりと言えているだけなのだ。後ろの方には、薬を服用してからどうなるかと書かれている。
医者は名利を目的にするのではなく、衆生を哀れみ衆生に奉仕する為なのだ。もし、名利の為、ないし嫌気が差し、疲れ気味でこれ以上診ていられないのなら、もう不合格だ。
テキストのこの段落の懺悔文はよく書かれている。医者を対象に説き聞かせている。この段落では、医者をする者は懺悔すべきだと説かれている:薬を間違えたり、組み合わせが逆になったりする。例えば、西洋薬と漢方薬の組み合わせを真逆にしたり、薬の割合を間違えたりするようなことは、医者としてよく犯す間違いだから、懺悔が要らないわけはないだろう。ご自身で正信を起し、仏菩薩・上師・患者さんを恭敬すべきだ。そなたは、患者さんが病気になり、患者さんの苦によってお金を稼いでいるから、驕ってはならない。もっぱら自分が専門家と思ってはならない。人に苦がなくては、訪れてこないだろう。よって、親切に対応し、患者さんを思いやるべきだ。
注意深く薬を使っているようにしてはいるが、宿世の業によって患者が死んだ時に、患者はそれでもそなたを凄く信じている。自分が死んだと知っていても、そなたを信じているままだが、そなたは守護しないでいる。守護とは、その病気を完治させることではない。守護しない人は、「気にしないよ、また様子を見よう、好きなようにしたらいい。」という。そなたに済度の能力がなく、リンポチェのように、衆生が亡くなってから済度しようということはできないからだ。多くの医者はこんな問題を抱えているが、「血圧はどれぐらい。そうだったら、そろそろ夜八時ぐらいだね。」という。主治医である以上、信じられているから、患者を見届けるのは当然のことだ。
また、ご自身が起こした煩悩によって、処方を間違えたりする場合もある。薬の特徴さえ分からないのに、敢えて使ってしまうなんて、薬を守る四大天女に合掌して懺悔を求め、寛恕を求めるべきことだ。薬師仏法会に参列したら、医術がよくなると思うのではなく、却って怒られるのだ。一部の教法は奥深く、特殊であり、それなりのコツがある。単独でそなたに授けてはいるが、そなたはその中のルールに違反している。例えば、古代の漢方薬処方を勝手に改竄したりする。古代の処方に間違いがあるだろうと考え、現代人の見方から処方を出してみようと思ったら、かえって患者の病を治すことができなくなってしまうだろう。
弟子を入れ違ったり、師匠を捨てたりするのも懺悔すべきことだ。医者は師匠を卑しんではならない。病を治すのを教えてくれる師匠に限らず、すべてそなたに教えた教授みなはそなたの師匠となる。そなたらは阿闍梨(あじゃり)を殺せないが、上の世代の医者を卑しんだりすることはよくある。自分が凄いと思い、彼らの方法だと時代遅れだなんて思っている。目上の人・古人を見下すとは、そなたはまさに魔の化身のようだ。
(続いて、薈供と供茶の儀軌が進行され、参列者全員はリンポチェによって加持された供え物を一人一ついただき、並びに法会中に上師・仏菩薩と共に食する得難く殊勝な因縁を得られた)
薬師仏を修めて儲かりたい人よ、まず全部の儀軌を修め切ったのち、護法神・仙人・天龍等々に全て満足させる必要があるから、唱えたりすれば金運成就するわけではなく、それより前にすることが多々ある。
テキストによれば、視覚障碍者が食事する時のように、味は味わえるが食物の形が分からない、という腕を持つ医者は大半を占めていると書かれている。いつも自分より他人のほうがよく治療できていると思っている。病を除くには、菩提心を修めるべきだ。菩提心を修めなければ、まるで視覚障碍者が崖っぷちへ連れられたように、自身を壊滅すると同時に他人を利益することもないのだ。
このテキストは医者に、自分は傲慢・高慢にならず、専門家のように自惚れないように留意すべきだと、伝えている。悲憫(ひびん)心・菩提心を修めることであって、こうした方法で医者をすれば、たとえ患者個人の業によって、そなたはその病気をよく治療することができなくなったとして、少なくともご自身に新しい業を造らないだろう。医者として、お金のことで頭がいっぱいになってはならない。患者に対して、治せるものなら治すといいが、治せない場合には素直に伝えるといい。「とりあえずやってみよう」という心構えはダメだし、「彼は言いなりにならないだろう、彼は薬を飲まないだろう、他の理由はあるだろう・・・」というのもダメだ。そんなに可能性があるわけがない、可能性の数だけ、そなたの無能を表している。医者自体を職業として見なさないべきであって、実は修行の一種だ。古代チベットでは、医明学は重要な地位を占めていた。何故なら、生老病死とは、人として四つの基本的な苦だからだ。人の出生と死亡を阻止することはできないものの、老いることの苦・病気の苦を減少させることができる。それに、最も大事なことに、地蔵菩薩が言われた思いやりの心というのがある。こうして医者をすると、悪業を造らない。
仏典には、医者が患者に針灸を施した際に、患者に痛みを感じさせても地獄に堕ちるとある。患者に針灸を施すなら、ツボのこと、針を入れる力加減を良く知った上で、患者を思いやって、しっかりと患者に針灸を施す箇所と、針を入れた感覚などを知らせておくべきだ。如何に患者に痛みを感じさせないかについては、医者の医術の他、医者自身も患者が痛みに対する感覚を把握することだ。油断してはならない。この道を歩むからには、菩薩同様にし、迂闊なままではいけない。
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2021 年 10 月 24 日 更新