尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2021年5月30日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、『宝積経』巻第十七「無量寿如来会第五之一」及び『優婆塞戒経』を解説された。
法会が始まるや否や、リンポチェはオンライン法会参列中の信者や弟子に、子供を含め襟を正せ、パジャマではなく、弟子なら寶吉祥のベストを着けるよう命じられた。当面の間、皆さんのご都合に配慮して、ビデオ電話を通しての法会にしたが、オンライン法会も道場での法会と同様で、衆生の代わりに参列しているものであるから、日常、家で着ているカジュアル服やジャージを身に纏ってはならない。襟を正すことも恭敬の一種だ。ソファでずっこけ座りでもして、さらに傍に飲み物を置くことまでする人も居るが、全く恭敬ではない。
リンポチェは引き続き『宝積経』を開示された。阿弥陀仏は仏果を証する前は、法処比丘であった。法処比丘は比丘と呼ばれるが、釈迦牟尼仏がおっしゃったことによれば、彼は仏(自在王如来)より十方仏土についての開示を聴聞するのに一億年という時間をかけた上、のちに五劫という時間を以ってもろもろの仏土の境地を思惟したそうだ。法処比丘は既に大菩薩、法身菩薩を証したから、一切の時間と空間の境目を破ることが出来た。『金剛経』で説かれた「破我相」だが、もし我相(がそう)を破らなければ、五劫という時間を定の境地で絶えず思惟していられないだろう。
この四十八願は、法処比丘が自身の成仏を目的として起された願に見えるが、実は、もし修行し広大なる衆生を利益するには、帰依した時に受けた在家五戒、出家衆が受けた沙彌戒(しゃみかい)、比丘戒、比丘尼戒、在家で菩薩道を修める場合の菩薩戒のほか、三昧耶戒(さんまやかい)が最も大事だということを教えている。衆生と諸仏菩薩に約束したことを守らなければ、果位がすかさず退くのだ。金剛乗では、三昧耶戒が最も重要な戒である。他の戒は懺悔を通じて埋め合わせられ、修行し直してから成仏できるが、いったん三昧耶戒を破ると成仏する事ができない。金剛薩埵(こんごうさった)での一つの特別な法門を修める場合は除く。
法処比丘の四十八願の何れも、できなければ仏や菩薩に成らないというが、これこそ彼からの約束だ。約束した以上、守る他ならない。そなたらの場合、果たせなかったら、お詫びするやら、申し訳ないと言うやら、懺悔やら、ちょっと泣くやらで、せいぜい懲らしめられる程度で済むだろうと思われるだろう。彼の場合では、修行に関わることだったら、約束した以上守るべきで、例外がないとはっきりと教えている。もし、そなたは約束が果たせなかったら、諸仏菩薩からそなたへの約束も効果が生じないだろう。
諸仏菩薩は、既に我々に修行し成仏させる事を約束している故、我々は簡単に約束を交わすべきでない。世間の事で、そなたが約束を果たせなかったら、きっと果報が存在する。私が常に言っているように、果たせないような事は約束してはならない、約束した以上守るべきだということだが、誰もがそれをスローガンのように見なしている。出来なかったら、またその都度言うなり、失礼にならないように、様々な口実を見つけるなりする。例えば、弟子が以前、万人同心で仏寺の建設に対する寄附を約束したにもかかわらず、のちに果たせない人が多く出た。もちろん、そなたにはそれなりの言い分が有りながらも、ご自身が約束したなのに果たせなかったら、今後仏菩薩が約束してくれた事の果報も、そなたに発生しなくなるだろう。果たせなくても、上師、仏菩薩と護法はそなたを懲らしめることもなければ、上師に追い払われることもない。これは衆生と関わる事であって、寺院は今後衆生が修行する場所に当たるところなのだ。つまりそなたが上師、仏菩薩、護法および衆生に約束した事を果たしていないことで、今後誰かが約束してくれた事も果たせなくなるのだ。なぜならばそなたがこの因を造ったからだ。
一劫とは非常に長い時間だ。法処比丘は既に大菩薩であられるにしても、まだ広大なる衆生を利益するに物足りなく思い、修行をし続けて、衆生、上師と仏への約束を果たそうとしている。仏道修行するのが難しいと思うのが大勢いて、それにより約束したにもかかわらず実行に移さないことを何ともないと思っている。如何なる仏法と関わる事も、そなたが進んで実践すれば、護法は助けてくれるものだ。こうした複雑な今の社会では、こうした仏法と関わる事を実践するには様々な妨げに遇う上、多々批判される。それは、末法時代では福報が足りないからだ。だが、福報が足りない時期であればあるほど、そなたが入念に修行すれば、功徳が明らかに素早く現れるものだ。福報が足りた中で修行すると、大した感覚はされないもの。それに対し、福報が軽いものの、そなたが力を入れて修行すると、衆生に仏法の殊勝さを感じさせることで、功徳が素早く蓄積し、とりわけ大きくなるのだ。
この四十八願は凡夫で成し遂げられるものではなく、復唱すれば出来るものでもない。登地菩薩にすら成らないのに、唱え終わったら阿弥陀仏の願と同様になる道理があろうか。この四十八願では、成仏するには、決まった特別な修行方針と法門がある事を教えている。この四十八願は、我々の修行方針と目的に当たるもので、どれか一つの願を果たせば、菩薩に成る資格があるに違いない。そのため、これ以上自分で願を新しく発明しないこと。菩薩道を修めなければ、輪廻を繰り返す機会があるからだ。
阿弥陀仏が慈悲深くも浄土を創られた。この一生で菩薩に成れない衆生らを、生死解脱させ、浄土で修行させ、成仏するまで、これ以上輪廻の苦を受けさせないようにしている。こうした大願力、大慈悲力、功徳力は一般人では成しえないのだ。浄土へ行くのは、安逸な生活を目的とするのではなく、自分を生生世世輪廻を繰り返さず、仏法を聴聞し、修習する事が為である。地球という土地には妨げが有りすぎるから、成仏する事が無理だ。釈迦牟尼仏曰く、その涅槃後の56億年後にやっと、弥勒菩薩が兜率天から降りられ成仏するのだ。
『阿弥陀経』には、地球が五濁悪世(ごじょくあくせ)であり、それを乗り越えるには大きな智慧と信心が必要だ、とある。寶吉祥道場のリンチェンドルジェ・リンポチェが広めている仏法では、何れも衆生がたとえこの世で菩薩に成れず生死解脱する力がないとしても、せめて浄土へ、三善道へ行かせることに努めている。法会さえ参列できればいいやとか、拝めばいいやというのではない。
法処比丘が既に法身菩薩でありながらも、五劫もの時間を以って思惟しその浄土を摂受してはじめて、衆生を救済することが出来る。我々が成仏するには、必ず一切の善の因縁、功徳、環境を、一個たりとも漏らさずに具備する必要がある。浄土だけしかこれら一切の条件が備わっていない。この四十八願は、聞いたりなどすればいいものではなく、これこそ阿弥陀仏が一切のご縁のある衆生をその仏土に産ませるよう成就する、その大願である。復唱するだけで成仏するというものではない。復唱すれば阿弥陀仏と同様だというものでもない。自分がこれらの条件が備わっているかどうかを見極めることだ。
経典:「もしわれ無上覚を証得せん時、余の仏刹中のもろもろの有情の類、 わが名を聞きをはりて、 あらゆる善根、心々に回向して、 わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、菩提を取らじ。ただ無間の悪業を造れると正法およびもろもろの聖人を誹謗せるとをば除く。」
この一節が大切だ。欣求浄土(ごんぐじょうど)の衆生らは、たとえ過去世で様々な悪業を為したとしても、この世で絶えず善根を修め、しかも善根ごと、心念ごとを阿弥陀仏国土に生まれようと廻向すれば、往生するに違いない。たとえ、事切れた際に十念が起きなくとも、そなたが修行する中での、そして常日頃人と接している中での、全ての善業と善根を、阿弥陀仏国土に廻向すれば、きっと阿弥陀仏浄土に往生するに違いない。この一節から、そなたがほとんど阿弥陀仏の称名や、阿弥陀仏を修めたことが無くとも行かれるわけだ。ただ、五無間罪を犯した、正法及び聖人を誹謗した場合は除く。
経典:「もしわれ成仏せんに、他の刹土において、 もろもろの衆生ありて、菩提心を発し、 およびわが所において清浄の念を起し、 また善根をもつて回向して、極楽に生ぜんと願ぜん。」
「我所」とは自分自身のことを指す。眼耳鼻舌身意には、それぞれ「所」(ステーション)がある。「所」が稼働してはじめてエネルギー(能)が生じる。エネルギーがあっての業力だ。誰もが自分の事を大事にしたいという思いがある。前述した、万人同心で仏寺の建設に対する寄附を約束したにもかかわらず、果たせないことのようにだ。これこそ、その「我所」が清浄ではないことを表している。人に叱られるのを恐れ、果たせないのを恐れるから、いっそのことやらない。よって、せいぜい私は成仏しない、菩薩道を修めないぐらいだろうと思っているだろう。これ等の人たちは、絶対に阿弥陀仏の所へ行けない。法会に参列したり、不共四加行まで修めていれば充分なんて思ってはならない。約束を守れないなら、諸仏菩薩が約束した事の果報も、そなたに現れないのだ。
仏典には、人には五十一の心所(しんじょ)が存在するとある。そこには、七情六欲や貪瞋痴慢疑が含まれるが、そのうち、「我所」が最も破りにくい。何故なら、人として、累世で何もかも自分の事を優先して考慮することに慣れ、何と言っても我が先で、物凄く我執が強いからだ。事をし損なったら、真っ先に責任を人に押し付けたり、何とかして自分の間違いではないよう立証し、間違いを人に擦り付けたりする。これこそ、「我所」によって生まれた能の作用だ。菩薩道を修める人なら、何かをし損なったら、直ちに自分の間違いと認めるから、「我所」による「能」が清浄であり、念頭も直ちに清浄になる。事をし損なうのを恐れ、怒られるのを恐れ、見くびられるのを恐れ、懲らしめられるのを恐れ、ぱっと起きた念頭が如何に自分を保護するかなどの事では、「我所」の念自体が清浄ではない。我執が次第に強くなるに連れ、慈悲心が決して学べない上、「慈悲喜捨」もそなたと関わらないのだ。
自分の間違いを認められない人等を私はよく叱っているが、取りも直さず「我所」という概念からだ。「我所」に清浄な念がないと、我執が日に日に強くなるだけなのだ。事をし損なっても、向き合わないなり、責任を取らないなり、人に押し付けるなり、自分の間違いが誰かのせいだと必死に口実を探すなりなら、こうした人たちは仏道修行するどころか社会では信用が無ければ、信頼関係を失うのはただ時間の問題だ。そなたが言った言葉の中で、どれが真実なのか嘘なのか区別できなく、信用されなくなる。捕まったら自分の過ちを認めたり、捕まらなかったら誤魔化したりなどしている。
『阿弥陀経』では、「福徳因縁を欠かせない善男子善女人」とはっきり説かれている。これが浄土往生の条件だ。阿弥陀仏が成仏する前にはっきり仰せになったが、菩提心を起さなければ、そなたの「我所」には清浄なる念がない故、行かれないのだと。ひたすら菩提心を起せば、「我所」の念頭が清浄になったのち、あらゆる善根を廻向して、極楽に生まれんと願うことだ。
菩提心を起さず、我所に清浄な念を起さないようでは、あらゆる善根を極楽に生まれんと廻向することはない。我所が清浄でないようでは、もっぱら自分のことや、自分の健康や、自分の功徳を目的とし、我所に清浄な念を起こせず、菩提心を発さず、更に善根を廻向することも出来ない。たとえ口先であらゆる善根を廻向すると言っても、善根の廻向は成し遂げられていない。阿弥陀仏浄土に行けない人が多くて、誰かが臨終誦経をしてあげても行けない場合が屡々ある。だが、リンポチェに済度されたら紛れもなく行けるようになるのは、リンポチェは以下の事を完成しておるからだ。それは、菩提心を持つ事と、我所に清浄な念を起す事だ。
私は1997年に発足してから、衆生を数多く済度してきたが、一度も供養の仕方に言い及んでから済度をしたことがない。そなたが出さなくても、私は嬉しい。たとえ亡者から供養したい品物があったとしても、その眷属が出さない限り、私は黙っていられる。これが菩提心であり、我所に清浄な念を起すことだ。この二節を成し遂げられれば、自ずとあらゆる善根を廻向し極楽に生まれんと願うようになる。菩提心、清浄な念とも修行が為である。地球の五濁悪世では、一生で証果することは不可能だ。そなたが再来人の場合は除く。つまり、過去世で既に行者をしていたが、この世で再び修行し衆生済度しに来ている者だ。残念ながら、そなたらはこの類ではない。
法会の始まりに、私は寶吉祥の帰依弟子ベストを着けていないで、カジュアル服で法会に参加した人等を呵責したが、法に対して尊重しなければ、どうやって菩提心まで修め得られようか。また、だらしない身なりの人でも修め得られると言われるだろうが、それはまた別論だ。それは資糧道が充分あって、加行道、見道を修め切り、修道もあった上、無修道に至ってはじめてだらしなくできるのだ。残念ながら、それもそなたらではない。そなたらはまだ資糧道の真っ最中で、法と三宝を敬う事も資糧道を修めることに当たるのだ。
経典:「かの人命終の時に臨みて、 われもろもろの比丘衆とその人の前に現ぜん。 もししからずは、正覚を取らじ。」
こうした人が命終に臨む前に、私と諸比丘はその目前に現れる。もし私が出来なければ、私は成仏しない。
経典:「もしわれ成仏せんに、無量の国中のあらゆる衆生、 わが名を説くを聞きて、 おのが善根をもつて極楽に回向せん。 もし生ぜずは、菩提を取らじ。」
私が成仏してから、如何なる国土における如何なる衆生も、阿弥陀仏の仏号を聞けば、そのあらゆる善根を以って極楽に廻向したのに、浄土往生が遂げられなければ、私は菩薩すらやらない。如何にも簡単そうに見えるが、実際に善根を修めるのは容易なことではない。我々が毎日したのが悪根ばかりで、どの念頭も自分のためを考えている。皆が阿弥陀仏の所へ行きたいのは、修行を目的とするのではなく、居心地の良い、安逸な生活が目的だ。こうなら、善根を修められない。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中の菩薩、みな三十二相を成就せずは、菩提を取らじ。」
仏には八十随好形(ずいこうぎょう)、菩薩には三十二相が備わっている。そなたが阿弥陀仏国土に生まれ菩薩に成ったら、必ず菩薩の三十二相が備わる。仮に誰かが自称菩薩だとして、それなら、その身に、少なくとも一つや二つぐらい菩薩に近い相が備わっているに違いない。全く備わらないことはない。仏だったら、八十種好(はちじっしゅこう)が現われる。また、一切の相を破るのではないかと問う人も居るだろう。仏菩薩のこれらの相は功徳、福報に関わるもので、自然に現われるものだ。これらの相を伴わない限り、仏や菩薩になる資格がない。菩薩の三十二相について、今後機会があればまた開示しよう。
経典:「もしわれ成仏せんに、 かの国中におけるあらゆる菩薩、大菩提においてみなことごとく位階一生補処ならん。」
阿弥陀仏は、あらゆる菩薩を仏果にさせる能力を持つ。他の国土で大菩提心を起された菩薩が、大菩提心だけ起していれば、彼等が阿弥陀仏の所に生まれるや否や、全ての位階が揃い、最低でも登地菩薩からだ。ということは、そなたが地球で何を修めようと、いずれにしろ衆生の為に成仏し、菩提心を起せば、たとえそなたが在世した頃に菩薩果位まで証してなくても、いったん阿弥陀仏の所に生まれると、疑いもなく登地菩薩という位階からだ。
経典:「ただ大願あるもろもろの菩薩等、 もろもろの衆生のために精進の甲を被り、」
即ちこれ等の菩薩は精進を鎧として、自分を退転する事から守る。リンポチェが現在、絶えず修行し、絶えず衆生利益する事こそ、精進の鎧を被ることだ。精進という鎧によって守られなかったら、そなたは退転しやすく、懈怠でも怠けでもなく、菩提心の退転となるのだ。大願を起した菩薩は、精進する事を鎧として自分を保護する。精進とは、毎日何遍という数をするのではなく、その菩提心を固め、重要で肝心かなめの修行法門をその心境で絶えず進歩させていくことだ。仮に、世間法に絡みついて離れないなり、ひたすら自分が他人より凄いと思うなり、たくさん善行をしているなりなどは、精進とは言えない。成仏していない限り、そなたは日々精進するものだ。ちょっとした事をしては、ただの小さな善根になるから、ひけらかすに及ばない。絶えず努力して実践すべきだ。
経典:「勤めて利益を行じ大涅槃を修して、諸仏の国に遍して菩薩の行を行じ、一切の諸仏如来を供養して、洹沙の衆生を安立し無上覚に住せしめ、」
これらの大菩薩は衆生の為に、仏果を証して大涅槃まで修められるよう、絶えず精進し修行している。これらの大菩薩は、どの仏土に行こうと菩薩道を修めるものだし、どこに行こうと仏を供養するものだ。多くの衆生に成仏への道を穏やかに歩かせ、衆生の心を無上等覚に留めさせ、衆生に成仏の大事さを知らせ、衆生に成仏への道を学ばせるのに努めている。
経典:「修するところの諸行、 また前に勝れ、普賢の道を行じて出離を得んをば除く。 もししからずは、菩提を取らじ。」
その修めた一切が従来より勝る。阿弥陀仏も仰せになったように、大願菩薩としてのそなたが一切の仏土へ衆生利益しに行く場合に当たっても、私の所に来て私の手助けを通じ、そなたにあらゆる仏土へ広大なる衆生を利益させることもできる。そなたは私の所で大涅槃を得る機会があるからだ。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中の菩薩、 つねに晨朝において、他方の乃至無量億那由他百千の諸仏を供養せんに、仏の威力をもつて、 すなはち食前をもつて本国に還り到らん。 もししからずは、菩提を取らじ。」
菩薩は登地から十六地菩薩まであり、それぞれ功徳と威徳力が違う。阿弥陀仏曰く、私の仏土に来ている限り、そなたが如何なる仏土の仏を供養しようと、私はそなたを行かせるよう助けられる。朝目覚めたら、十方法界における如何なる仏土の諸仏を供養したくても、仏の威神力(いじんりき)はそなたを超音速で届けるから、そなたは諸仏を供養することができる。しかも、食事前に戻ってこれる。もし、出来なかったら、私は菩薩に成らない。これは仏だけしか出来ないことで、我々凡夫では成し遂げられない。我々が地球で供養をしたくても、思うことだけしかできず、自分の法身、報身は行けようがない。
密宗では生起次第があり、観想を通じ、智慧尊と誓言尊を現わした上で、そなたに供養させる。その理論は、衆生みなに仏性があることから、清浄なる「我所」を用い、清浄なる本性で諸仏の功徳を観想して供養するものだ。これは自力に頼るものだが、仏のご加護によるに違いない。だが、阿弥陀仏浄土で供養する際ほど、はっきりしてはいない。このことを通じ、菩薩に成ったとしても供養が必要だという事が分かる。
経典:「もしわれ成仏せんに、 かの刹のなかにおけるもろもろの菩薩衆、須ゐるところの種々の供具、諸仏の所においてもろもろの善根を殖えんに、 かくのごときの色類、円満せずは、菩提を取らじ。」
我が仏土では、菩薩が供養するに際しては依然として供具(くぐ、供え物)が必要だ。お買い物に使うお金はないが、諸善根を植え付けられ、あらゆる仏に供養できるよう、供養に必要な供えものは現われる。例えば、ある人は100カラットのダイアモンドを供養したいとして、それをちょっと考えると、阿弥陀仏がそれを与えてくれるよう助けてくれるから、それで供養に出せるようになる。仏の威徳力では、きっと最も円満な、最も殊勝な供え物を与えて下さる。仏はそなたの念頭や考え方を実物にさせて、供養に捧げるのに使わせるものだ。これは仏だけしか出来ないことだ。
経典:「もしわれまさに成仏せん時、国中の菩薩、 もろもろの法要を説くに、よく一切智に順入せずは、菩提を取らじ。」
私が成仏したら、国土中のあらゆる菩薩が説かれた一切の法の要点は善であるべきだ。仮に、菩薩が説かれた一切の法が善でなければ、一切の仏の智慧に順調に入らないのならば、私は菩提を取らない。仏はあらゆる菩薩に、説法のポイントが善であることと、一切の仏の智慧に入られることを教えられている。
経典:「もしわれ成仏せんに、 かの国に生るるところのもろもろの菩薩等、 もし那羅延堅固の力なくは、正覚を取らじ。」
「もし那羅延堅固の力なくは」についてちょっと調べよう。堅固なる金剛の心で仏道修行するという意味だろう。
地球での仏道修行では心が動じやすいものだが、それに対し阿弥陀仏の所では、そなたの心を堅固させ、成仏する心を不退転させる。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中に周遍せるもろもろの荘厳の具、衆生よく総じて演説することあることなからん。至天眼あるものも、 あらゆる雑類の形色・光相を了知することあたはざらん。 もしよく知り及び総じて宣説することあらば、菩提を取らじ。」
阿弥陀仏の国土では、大小さまざまな物事を、たとえ一本の草のことをも、そなたは全部知っている。そなたが見たあらゆる雑物や、形や、色や光相などを。もし、あらゆることを知らず、あらゆる物を言い出せなければ、菩提を取らない。
天人には天眼がある。仙道を修める者も天眼を修め得られる。天眼には複数種類があるが、大体にしか見えないのがあって、細かすぎて見えない場合もある。阿弥陀仏の所での天眼は、少なくとも阿弥陀仏の所での様々な物が見え、そしてそれらをはっきりと言い出せる程度だ。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中につぶさに無量色の樹ありて、高さ百千由旬ならん。 もろもろの菩薩のなかに、善根劣れるものありて、 もし了知することあたはずは、正覚を取らじ。」
阿弥陀仏国土では、バラエティに富んだ多種多様な木々があり、しかも地球のよりずっと高い。菩薩の中には善根が足りなくて了知が出来ないのが居れば、全部を分からせるよう私は助ける。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中の衆生、経典を読誦し、教授し敷演せん。 もし勝れたる弁才を獲得せずは、菩提を取らじ。」
一部の菩薩は経典を読誦(どくじゅ)し、経典を教授し、経典を敷演するのが好きだ。もし、この種の修行方針を決めていれば、私は彼等に一切の世間の弁才より勝る、優れた弁才を得させる。もし出来なければ、私は菩提を取らない。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中の菩薩、無辺の弁才を成就せざることあらば、菩提を取らじ。」
もし我が国土の菩薩に、無碍な弁才が得られない者が居れば、私は菩提を取らない。弁才とは世間での弁論ではなく、我々の場合は、仏典での仏法の真の意義を弁論することだ。
『優婆塞戒経』では三十二相を修めるに当たっての果報について説かれているから、三十二相はこの仏典からなのだ。下記は『優婆塞戒経』の内容である:
経典:「是三十二相即是大悲之果報也。或有人言。如來先得牛王眼相。何以故。為菩薩時於無量世。楽以善眼和視眾生。是故先得牛王眼相。次得余相。」
三十二相は大悲の果報である。目が牛の目に見えるのは、菩薩道を修める際に善の目つきで衆生を見ることに由来した。たとえ衆生に対して怒ったとしても、その目つきは慈悲で善である。殺してやると言っていいほどの目つきではない。先ず、この相を得てから、他の32相が次第に出てくる。
経典:「或有説言。如來先得八梵音相。余次第得。何以故。為菩薩時。於無量世。恒以軟語先語実語教化衆生。是故先得八梵音相。或有説言。如來先得無見頂相。余次第得。何以故。為菩薩時。於無量世。供養師長諸仏菩薩頭頂礼拝破憍慢故。是故先得無見頂相。」
無見頂(むけんちょう)とは頭頂が見えないのではなく、その頭頂が人並みの平らやら丸いやらでもなく、菩薩の頭頂は上に尖っていることだ。ご自分のを触らなくていい。そなたらには、それがないからだ。それは師長、諸仏菩薩、両親に遇うたびに供養し頂礼しているからだ。頭頂礼拝は、自我の傲慢を破ることだ。現代の人は既に父母、師長に頂礼していない。
経典:「善男子。菩薩二種。一者在家。二者出家。出家菩薩修如是業。是不為難。在家之人。是乃為難。何以故。在家之人多悪因緣所纏遶。」
この種の法門を修めるには、出家菩薩のほうがやり易く、在家菩薩のほうがやりにくい。何故なら、在家は、子供などの悪因縁に付き纏われすぎて、決心が無ければ修め得られないからだ。
『宝積経』に戻ろう。
経典:「もしわれ成仏せんに、国土の光浄くあまねきことともに等しきものなく、無量無数不可思議の諸仏世界を徹照すること、明鏡のなかにその面像を現ずるがごとくならん。 もししからずは、菩提を取らじ。」
阿弥陀仏国土の光は清浄であり、それに同等の物なく遍満するものだ。阿弥陀仏国土の光を通じて、一切の仏の世界を照らす事ができる。まるで鏡で映ったのを見たようにだ。
経典:「もしわれ成仏せんに、国界の内地および虚空に、無量種の香あり、また百千億那由他数の衆宝の香鑪あり。香気あまねく薫じ虚空界に遍して、その香殊勝にして人天の珍に超過するを、如来および菩薩衆に奉らん。もししからずは、菩提を取らじ。」
阿弥陀仏の国土では、至る所が様々な香りで行き渡っている。この香りは、世間或いは天界のより勝っている。よって、阿弥陀仏浄土では香水を付けないし、石鹸を使うこともなく、それは自然に身に纏うものだ。寶香炉によって拡散された香りが、国土中に充満する。これらの香りは仏と菩薩衆を供養するのに使うものだ。
経典:「もしわれ成仏せんに、十方の無量無数不可思議無等の界に周遍せる衆生の輩、仏の威光を蒙りて照触せられんもの、身心安楽にして人天に超過せん。 もししからずは、正覚を取らじ。」
私が成仏してから、十方諸仏の一切仏土での無量無辺不可思議な衆生が、仏の光に照らされると、その心身共の穏やかさ、かつ永久的な楽が人間や天界を超えよう。もし私が出来なければ、正覚を取らない。
経典:「もしわれ成仏せんに、無量不可思議無等の界のもろもろの仏刹中の菩薩の輩、 わが名を聞きをはりて、 もし離生を証得し陀羅尼を獲ずは、正覚を取らじ。」
私が成仏して、無量不可思議な菩薩が私の名を聞き終わったとして、もし生死輪廻の大海を離れられず、陀羅尼が得られないのであれば、私は正覚を取らない。例えば、そなたがひたすら唱えている阿弥陀仏こそ、阿弥陀仏の陀羅尼だ。阿弥陀仏が仏号と思われがちだが、チベット語では「阿彌爹哇」と、中国本土では阿弥陀仏と訳されている。仏典での阿弥陀仏の仏号は無量光無量寿仏である。阿弥陀とは阿弥陀仏の真言である。
そなたが菩薩果位まで修め得られれば、どの仏土に居ようと、「阿彌爹哇啥」を聞きそなたが進んで唱えれば、きっと生死の大海を離れるに違いない。常日頃の、1000遍や2000遍の持呪ではなく、閉関修行に際して唱えなければならない。それではじめて真言による功徳が得られる。真言には長いのと、短いのがあるが、阿弥陀仏大済度法会では両方とも使われている。
経典:「もしわれ成仏せんに、無数不可思議にして等量あることなきもろもろの仏国中に周遍せるあらゆる女人、 わが名を聞きをはりて清浄の信を得、菩提心を発して女身を厭患せん。 もし来世において女人の身を捨てずは、菩提を取らじ。」
私が成仏して、周辺の一切の国土の女人が私の名号を聞き終わると、清浄の信を得られるということは、阿弥陀仏に対してねだる事がない事を示し、つまり阿弥陀仏の功徳、威神力などを非常に信じて菩提心を起し、衆生の為に修行を進める。
女身を煩わしく思うことは、男女格差ではなく、女性の修行には様々な不便が生じるからである。密宗でのアキ護法やマチク・ラプキドゥンマは、女性の身で修行して成就を得られたが、これはあくまでも例外だ。もし、来世で女人の身に為りたくなければ、阿弥陀仏に清浄の信を起すだけで、来世は女人の身が得られない。
経典:「もしわれ成仏せんに、無量無数不可思議無等の仏刹の菩薩の衆、 わが名を聞きをはりて離生の法を得ん。 もし殊勝なる梵行を修行し、乃至大菩提に到らずは、正覚を取らじ。」
これ等の願では、阿弥陀仏はそなたが彼の国土に生まれることにいっさい言及していない。そなたが信じてその名前を聞けば、そなたがどこに居ようと、既に生法輪廻を離れる方法を得られている。
一切の身口意は、仏法に基づくものであり、如何なる凡夫の念頭、思想、動きも持たないことこそ、成仏する方法である。
経典:「もしわれ成仏せんに、十方の等量あることなきもろもろの仏刹中に周遍せるあらゆる菩薩、 わが名を聞きをはりて五体を地に投げ、清浄の心をもつて菩薩の行を修せん。 もし諸天・人礼敬せずは、正覚を取らじ。」
私が成仏して、周辺の一切十方法界無量仏刹でのあらゆる菩薩が私の名前を聞き終わると、五体投地に頂礼し、清浄の心で菩薩行を修する。つまり、自我の観念がなく、修める全てが衆生利益が為だ。仮に、そなたがこうした法門で修めれば、あらゆる天人がそなたを見かけると、きっとそなたを敬ったりお辞儀したりするだろう。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中の衆生、須ゐるところの衣服念に随ひてすなはち至ること、仏の善来比丘に命じ、法服自然に体にあらんがごとし。 もししからずは、菩提を取らじ。」
国土中の衆生が衣類を欲せば、念頭さえ動かしたら、それは自ずと現われる。オンラインでお買い物する必要もなければ、あつらえる必要もない。その衣類は天衣(てんえ)。仏は善来比丘に考えてみろと命じられたら、法衣(ほうえ)を身に纏うようになった。
経典:「もしわれ成仏せんに、 もろもろの衆生の類、 わづかにわが国中に生れんに、 もしみな資具を獲て心浄く安楽なること、漏尽を得たるもろもろの比丘のごとくならずは、菩提を取らじ。」
衆生が我が国土に来たばかりの際に、もし心淨安楽が得られなかったら、例えばある人たちの心が執着していて、座禅専用の座蒲団が必要だったりする場合など、仏は叶わせるようにしてあげる。生死輪廻を離れられるまで修めた比丘らのように、どこに居ようと、お碗やお箸の心配が要らなく、求めずに思えば現われることだ。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中の群生、心に随ひて諸仏の浄国の殊勝なる荘厳を見んと欲はんに、宝樹の間においてことごとくみな出現すること、なほ明鏡にその面像を見るがごとくならん。もししからずは、菩提を取らじ。」
我が国土の衆生が、如何なる国土の殊勝荘厳を見たければ、すぐそれが見える。阿弥陀仏浄土の木々はすべて宝が備わっており、そなたが見たいあの殊勝荘厳の国土は木と木の間に現れる。まるで鏡に映った自分の面相を見るようにだ。
経典:「もしわれ成仏せんに、余の仏刹中のあらゆる衆生、 わが名を聞きをはりて、乃至菩提まで、諸根闕くることありて徳用広きにあらずは、菩提を取らじ。」
一切の仏刹でのあらゆる衆生が私の名前を聞けば、私は彼の一切の菩提を成就させ、彼のまだ出来ていないことを成し遂げさせて、更なる広大な殊勝の功徳を持たせよう。
経典:「もしわれ成仏せんに、余の仏刹中のあらゆる菩薩、 わが名を聞きをはりて、 もしみなよく勝三摩地をもつて名字・語言を分別せず、菩薩かの三摩地のなかに住して、一刹那の言説のあひだにおいて、無量無数不可思議無等の諸仏を供養することあたはず、 また現に六三摩地を証せずは、正覚を取らじ。」
菩薩道を修める者にとって、三摩地が非常に重要だ。言語とは、人類が操る言語ではない。三摩地には様々な法門がある故、そなたを早めに三摩地に入らせよう。三摩地に入ってから、そなたには無量無数不可思議無等の諸仏を供養する能力がある。
「六三摩地」について調べる必要があるが、私の理解では、眼耳鼻舌身意が三摩地を得られる事を指すはずだ。
経典:「もしわれ成仏せんに、余の仏土中に諸菩薩あるに、 わが名を聞きをはりて、寿終の後、 もし豪貴の家に生るることを得ずは、正覚を取らじ。」
再来人として衆生済度をするのなら、豪貴の家に生まれるといい。もし私が成仏したら、阿弥陀仏浄土の諸菩薩が我が名前を聞き、その寿が終わった際に、豪貴の家に生まれる。もし出来なければ、私は成仏しない。
何故、豪貴の家に生まれるというのか。それは、早く修められるからなのではなく、影響力が大きいからだ。チェ・ツァン法王も、チョン・ツァン法王も豪貴の家に生まれたように、その仰った事がより人に受け入れられやすい上、大きな資糧が得られる。釈迦牟尼仏も王室に生まれた。富貴にして修道を成し難しとは言いながら、決心すれば成し遂げられるし、将来的には更なる多くの人々に影響を及ぼすだろう。釈迦牟尼仏は皇室の王子に生まれ、宮殿で二十数年生活していたが、ある日、城門を出て生老病死のことを目にして驚かされた。財産や権勢などは、生死輪廻を変えられない事をはっと悟ったから、修行することを決心した。
かつて、我が家も官僚を務めた人が居たが、後に政策面の理由で家族ごと一変した。我々が貧困の苦しさを見た際、特に貧困が一種の苦痛だと思わないが、ただ人生自体が千変万化であり、次々と変わっていくものだ。いくら財産が有っても、政策が変わっただけで何もかも無くなるから、よりいっそう修行すべきとの事を思い出させる。
経典:「もしわれ成仏せんに、余の仏刹中のあらゆる菩薩、 わが名を聞きをはりて、 もし時に応じて菩薩の行を修し、清浄歓喜して平等に住することを得、 もろもろの善根を具せずは、正覚を取らじ。」
一切の菩薩が私の名前を聞くと、菩薩行を修め続け、清浄かつ歓喜にして平等に住する事、そして諸の善根を具備する事を得られるものだ。菩薩は修めているうち退転する場合もある理由は、それは彼ら自身の業力や様々な障碍とその他複雑な事情によるからだ。だが、ここでは、私の名号を聞くと、自然に清浄に諸善根を修めるようになり、何の妨げもされない。例えば、『宝積経』では、釈迦牟尼仏のご開示に、菩薩道を修める者が菩薩になったらどんな夢を見るかが、即ちそなたのこの一生で仏道修行する中で何の妨げに遇って何の法門を修めるかに当たる、という段落がある。それは正にこの段落だ。
経典:「もしわれ成仏せんに、他方の菩薩、わが名を聞きをはりて、みな平等三摩地の門を得、この定中に住して、つねに無量無等の諸仏を供し、乃至菩提までつひに退転せず。もししからずは、正覚を取らじ。」
この段落では、阿弥陀仏は断固に言っている。我が国土の菩薩ではなく、他の国土の菩薩が私の名前を聞いた場合でも、何れも三摩地門が得られるということだ。これは禅悦を享受する為ではなく、定においてつねに無量無等の諸仏を供養する為であり、これ等の菩薩の菩提心は決して退転しないのだ。
経典:「もしわれ成仏せんに、国中の菩薩、その志願に随ひて、聞かんと欲するところの法、自然に聞くことを得ん。 もししからずは、正覚を取らじ。」
阿弥陀仏国土の菩薩に、何らかのやる気があって、何らかの法を聴きたければ、自然に得られたり、聞けたりするのだ。もしそうでなければ、私は正覚を取らない。例えば、末法時代には地球の人類は福報が浅くて、仏法を声聞すること自体が難しい。現在では、顕教の法門を聴聞することすら難しい。因縁、福報があってはじめて得られるもので、況わんや密法をや。だが、阿弥陀仏浄土では、菩薩が何れの法を聴きたい場合でも、叶わせてくれるから、自然に聞こえてくるのだ。
経典:「もしわれ無上菩提を証得せんに、余の仏刹中のあらゆる菩薩、 わが名を聞きをはりて、阿耨多羅三藐三菩提より退転するものあらば、正覚を取らじ。」
私が成仏して、如何なる仏刹でのあらゆる菩薩(一般の信者、比丘、比丘尼について説き及んでいない)も、阿弥陀仏の仏号を聞き、ひたすら唱え、そしてそれに対して清浄の念を起せば、退転することはなくなる。そなたを退転させる障碍と機会を止めてくれる。
経典:「もしわれ成仏せんに、余の仏国中のあらゆる菩薩、もしわが名を聞き、時に応じて一・二・三忍を獲ず、諸仏法において、現に不退転を証することあたはずは、菩提を取らじ。」
「一切の仏法において現に証すること能わず」が一番に伝えたいことで、即ち修めれば証することだ。今や修めている人が多くいる分、証果が遂げられない。ここでは明白に言っているように、阿弥陀仏のところで阿弥陀仏の名号を聴聞するだけで、無生法忍(むしょうぼうにん)が得られるものであり、一切の仏法においてすぐ修めればすぐ証果するとされ、その上、退転しないのだ。
経典:「その時仏、阿難に告げたまはく、 かの法処比丘世間自在王如来の前に、 この願を発しをはり、仏の威神を承けて頌を説きていはく、」
法処比丘は自在王如来に向かってこの四十八願を起こされた故、この四十八願は口任せに言うのではなく、ちゃんと立会人がいたり、そなたの起こした願を受け取ったりする人がいるべきだ。そなたの願が受け止められてから、さらにそれを満たすのだ。そなた自身が実践するほか、仏も手伝ってくださるからだ。
経典:
「いま如来に対して弘誓を発せり まさに無上菩提を証すべき日
もしもろもろの上願を満足せずは 十力無等尊を取らじ
心あるいはつねに施を行じて 広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ
世間を利益して安楽ならしむるに堪へずは 救世の法王と成らず
われ菩提を証して道場に坐し 名聞えて十方界の
無量無辺の異の仏刹に遍せずは 十力世中尊を取らじ
まさに無上の大菩提に趣かんに 出家するもために欲境を求め
かの念において慧行あることなくは 調御天人師とならず
願はくは如来の無量光を獲て あまねく十方のもろもろの仏土を照らし
よく一切の貪・恚・痴を滅し また世間のもろもろの悪趣を断ぜん
願はくは光を得て浄き慧眼を開き 諸有のなかにおいて冥暗を破し」
阿弥陀仏はこれらの願を起こされたとはいえ、謙虚さを保ちながら「もしもろもろの上願を満足せずは 十方無等尊を取らじ」と引き続き仰せになった。「心あるいはつねに施を行じず」とは、供養布施などしては退転したり、仕出してはやり続けなかったりする人等のことだ。下記の何節かでは、自分は必ず成し遂げられるから、もし出来なければ仏ではないと言っている。こちらの頌では、仏はその起された願を必ず成し遂げることを教えている。そして、仏の大願力としては、衆生を貧困から守り、一切の諸苦を離れさせ、一切の貪恚痴を滅ぼし、世間三悪道を断ち切らせることであり、願わくばあらゆる修行者が光を得て清浄な智慧眼を開き、一切の有情において冥暗(めいあん)を破って欲しいことだ。即ち、輪廻に堕ちないことだ。
経典:
「諸難を除滅して余なからしめ 天人の大威者に安処せん
本行を修習することすでに清浄にして 無量の勝威光を獲得し
日月・諸天・摩尼・火 あらゆる光暉みな映蔽せん
最勝の丈夫修行しをはりて かの貧窮において伏蔵とならん
善法を円満すること等倫なく 大衆のなかにおいて師子吼せん
往昔より自然智を供養し 多劫にもろもろの苦行を勤修し
ために最勝のもろもろの慧蘊を求め 本願を満足して天人の尊たらん
如来の知見礙ふるところなく 一切の有為みなよく了せん
願はくはわれまさに無与等・最勝智者・真導師と成るべし
われもしまさに大菩提を証して かくのごときの弘誓実に円満すべくんば
願はくは三千大千界を動かし 天衆をして空中にみな花を雨らせ
この時大地ことごとく震動し 天花鼓楽虚空に満ち
ならびに栴檀の細末香を雨らして 唱へていはん未来にまさに作仏すべしと」
この頌では、阿弥陀仏が発された願はきっと成し遂げられるに違いないという。しかも、成し遂げられたら、三千大千世界はみな震動し、天人は歓喜し、虚空中にお香の匂いが漂うようになる。
経典:「仏、阿難に告げたまはく、 かの法処比丘世間自在王如来およびもろもろの天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前において、広くかくのごときの大弘誓願を発し、みなすでに成就せること世間に希有なり。この願を発しをはり、実のごとく種々の功徳に安住し、」
法処比丘は単に自在王如来を前にしてこの願を起されたのではなく、同時に天人、沙門、婆羅門および魔の前にこの願を起こされた。阿弥陀仏はこの願を起こしてから、心が様々な発願の功徳に安住している。
経典:「具足して威徳広大なる清浄仏土を荘厳せり。かくのごときの菩薩の行を修習せる時、無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫を経るも、内にはじめよりいまだかつて貪・瞋および痴、欲・害・恚の想を起さず、色・声・香・味・触の想を起さず。 もろもろの衆生においてつねに愛敬を楽ふことなほ親属のごとし。その性温和にして同処すべきことやすく、」
法処比丘が一切の菩薩行を修めた頃、長い時間をかけて一切の法門を修め、色声香味触の思いを起さず、一切の有情衆生に対し親族のように愛敬して快く対応し、衆生に対する心は身内や他人の区別なく自分の親族のように愛敬するようにしている。その上、その性格も温厚で付き合いやすいのだ。
経典:「来り求むるものあらば、その意に逆はず、善言し勧諭して心に従はずといふことなし。」
「その意に逆わず」とは、如何なる者も求めに来れば、その貪瞋痴に従って助けるという意味ではない。「その意」の定義は、どの衆生も求めに来た際に貪瞋痴を持っていて、その根本観念としては自分が苦しいから求めに来ている。我々はその欲望を満足させるのではなく、その意(根本観念)に逆らわないということだ。
求めに来たどの衆生も自分が苦しいと思っている。その苦はどこから来るのだろうか。もちろん貪瞋痴であって、因果を信じない、そして生生世世で作った一切の悪業によるものだ。よって、その意は自分が上手くいかなくて、自分を上手くいかせるよう仏菩薩に頼みに来ているのだ。仏法なら、絶対に衆生を悪から善に変えさせることができるが、すぐたどり着くようなものではなく、ステップバイステップで遂げていくものだ。のちに、「善言し勧諭して心に従はずといふことなし」について言ったが、即ち一切の善の言葉を使うということだ。
善の言葉とは、叱ってはならないという意味ではなく、?っても善の言葉にもなる。衆生が悪を行ったのに、叱りつけずに、専ら優しい言葉で話しかけると、逆に先方に自分が正しいと思わせてしまうからだ。よって、言い出された話に何か欲望があるのではなく、清浄な心で言うべきだという意味だ。例えば、求めに来た人が「しつこい」と見られる人であれば、出家弟子を遣わして相談させている。私が短気なのではなく、ただまだ多くの衆生が待っているからだ。出家衆は、その信者が分かるような言葉で言っていると、聞き入れてくれるようになることもあろう。ちゃんと聞き入れて、家へ帰って考えると、自分には問題があると気づき、今後は改めるだろう。
そうならば、その意に逆らうこともない。何故なら、自分が苦しいと思って答えを尋ねに来ているからだ。行者として、きっと仏法に基づいた上で答えを出している故、一切の仏法は善言である。例えば、仏典にも仏が呵責したことが書いてあるが、叱ったにもかかわらず、善の言葉だ。
多くの人は「求めが有れば、応じるべきだ!」というが、鶏を殺しに刀を求めたら、与えられようか。駄目だ!または、麻薬を買うためにお金が欲しいと言ったら、与えられようか。駄目だ!だから、仏法を誤解しないように。
何故自分が苦しいと思うのか。その意は何だろうか。それは貪瞋痴があるからで、私はその貪瞋痴の意について助けてあげるのであって、彼の要求そのものではない。その理由は、その貪瞋痴の意からの要求は貪瞋痴だからだ。いったんその貪瞋痴による要求を満たしたのはいいが、彼の為にならなければ、逆に彼に危害を及ぼすのだ。「心に従う」とは、隠さずに、彼に勧めたり、諭したりすることであって、自分の為ではない。人を叱っては私自分に何の利点もない時もあるが、何故それでも叱るのだろうか。叱らなくてはならない場合もあって、私は心から叱り出している。
経典:「資養の須ゐるところわづかに身命を支へ、」
つまり、一切の方法で、必要とされる助けを与えることだ。たとえ、自分自身の命が危険に晒されても、助けるものだ。
経典:「少欲知足にしてつねに虚閑を楽み、」
その欲望はきっともっと少なければ容易に足るを知る。虚閑とは、仕事をせずに暇を持て余すやら、虚しく過ごすのではなく、欲望がなく、常に三摩地という境地に入ったりすることを指すのだ。ここでの閑とは、暇だという意味ではなく、その心に欲望がなく、閑が出ると修行を行うことだ。欲望でいっぱいになると、本当に修め得られない。何故かと言えば、心に閑が無いからだ。
経典:「稟識聰明にして矯妄なることなく、」
一切の聡明が備わっているが、傲慢や狂妄が伴わない。
経典:「その性調順にして暴悪あることなし。」
その性格は、物腰柔らかく合わせやすい。物腰柔らかとは、意に従うのではなく、状況に応じて物事を取り計らい、相手を傷つけずに、悪い方法で問題を解決しないことだ。
経典:「もろもろの有情においてつねに慈忍を懐き、」
一切の有情衆生に対して、常に慈悲と忍耐を抱くこと。
経典:「心詐諂せずまた懈怠なし。」
即ち、その心では、手柄や徳をほめたたえるやら、ゴマすりやらのことをしないと共に、懈怠、手抜きをせず、また衆生利益するための善法を行わないということもしない。
経典:「善言し策進してもろもろの白法を求め、」
必ず善の言葉で、諸白法を勧請するよう鞭撻する。例えば、弟子は必ずこの一節で諸白法を勧請するようにだ。白法とは、即ち善法のことだ。
経典:「あまねく群生のために勇猛にして退くことなく、」
つまり、衆生のために、退転せずに勇猛に仏法を修習することだ。自分がリンポチェ程には出来ないと言う人がいるが、それは弱気で、勇猛ではなく、有退転だ。例えば、法王は法王であられ、こうした法王に追いつかないからと言って修めるのを止めるなんてけしからん。退転せずに勇猛に邁進すべきだ。
経典:「世間を利益せんに、大願円満なり。師長に奉事し仏・法・僧を敬ひ、菩薩の行においてつねに甲冑を被り、」
これらの事は全て世間を利益するためであり、願わくばこの願が円満にされんことを。菩薩道を修める者にとって、師長に奉事すること、仏法僧を敬うことは非常に重要だ。「甲冑をまとう」というと喩えがよく使われるのは何故だろうか。古代では、よろいをまとって戦場で戦うものだから、我々が菩薩道を修める時、衆生を一切の魔と対峙させるものだから、智慧と法という鎧が無ければ、この一座の菩薩も衆生を魔と対峙させることが出来なくなる。よって、鎧が必要なのだ。いわゆる菩薩の鎧とは、一切の仏法、仏の智慧と慈悲のことだ。
経典:「志楽寂静にしてもろもろの染著を離れ、」
いわゆる寂静(じゃくじょう)とは、ひねもす閉関するのではなく、その心が寂静ということだ。急にどこかの国へ遊びに行きたくなったり、行って帰ってから修めようなんて思わずに、寂静だ。縁がなければ動じないが、縁があってはじめて動じる。
経典:「ために衆生をしてつねに白法を修せしめ、」
衆生に善法をよく修めさせるように、彼自身が前もって効果が出るよう善法を修める。例えば、私が弟子を率いることのように、自分が修め得られなかったら、弟子に修めさせる道理があろうか。そうだったら、既に資格を失っているのだ。
経典:「善法のなかにおいて上首となり、」
よって、自分が善法の上首(じょうしゅ)にならなければならない。つまり自ら修めるべきだということだ。簡単に言えば、菩薩道を修めるのは口先だけではなく、仏法を聴聞したりすれば充分だということでもない。法の中において、ずば抜けて精進し、勇敢になり、更に邁進して上首になる。それではじめて、衆生を諭したり助けたりすることができる。テキストを手にして数回か唱え、仏典を手にして仏法など説けば、上首になれるわけではない。
経典:「空・無相・無願・無作・無生・不起・不滅に住して、憍慢あることなし。」
菩薩道を修める者なら、空性を証するものだ。空性を証してはじめて空無相に住することだ。無相(むそう)とは相が無いのではなく、一切の諸相がすべて縁起法によることとはっきりわかっていて、縁生縁滅は永久不滅ではないから、その心が空無相に住し、一切の相に執着しないことである。相というのは、一切の現象、表れのことだ。
「無願、無作、無生、不起、不滅」は、一見すると矛盾しているようだ。発願が必要だというのに、また無願を言い出すとはどういうことだろうか。ここでは、前に説かれた空性に呼応しているのだ。そなたが空性に住すると、そなたの起こされた願がすべて縁生縁滅の法だと明白に分かるものだから、この願が成し遂げられるかどうかを心配しない。この願は、いったい出来るものなのかを心配する人が多くいて、もし出来ないものだったら、諦めようと考えたりする。もし、我々が空性に住するならば、願というものは縁生縁滅の上、私が起こした願はきっといつかはっきり現れると分かる。現われるとこの願が叶ったという。それでは、願というものも滅びるものだ。
無願とは発願が要らないという意味ではない。願なくしては修めようがあろうか。いわゆる信願行だ。ここでの無願は、空性を基にして言ったものだ。菩薩道を修める者の場合、起こされた如何なる願は自分自身のためではなく、衆生のためだというように、この無願にはもう一通りの解説がある。それは、自分のため(例えば、私は菩薩、リンポチェ、住職になりたいなど)ではない場合を指すのだ。その起された願はすべて衆生が為である以上、衆生のことこそ縁生縁滅だから、この願はそなた自身のではなく衆生のだ。ご自身のではなく衆生のである以上、この願は無くなってしまうから、ほかに願があることはあろうか。衆生の願を満たした以上、この願が無くなり滅びてしまったのだ。
いわゆる無願とは発願しないという意味ではなく、ただその願が出来るかどうかを心配する必要がないだけだ。もし、そなたが願を起こしたのに実践しないのなら、それはただこの願に執着するだけになり、そなたの願は永遠に成し遂げられないだろう。もし、そなたが願を起こして力を尽くして実践すれば、この願はどれぐらい出来るかについてはそなたの福報と因縁に関わるが、そなたが進んで実践すれば、この願はきっと円満になるだろう。もし、そなたが発願し、途中まで実践したところを、自分には出来ないやら、実践する能力がないやら、願を起こし違えたやら、知ってたらこのような願は起さなかったやらというと、この願は有願になる。
「無作、無生、不起、不滅に住して驕慢あることなし。」菩薩道を修める者の心が動じるのは、何らかの作為を期待しているのではなく、それは求められ、そして縁があれば、心が動じるようになるのだ。それに対し、縁がなく、また求められなければ、動じないものだ。よって、衆生が指示を請いに来ると、私はまず最初に「何か質問があるのか。要件は何だろうか。」と聞く。何故なら、先方から言わない限り、私の心は動じないし、縁がない限りでは、いくら私が知っていても言い出せないからだ。「無作」とは、世間法ではなく出世法を指すのだ。世間法は有作であり、作為的なものである。だが、出世法の作為は、すべて縁生縁滅という方向に従ってするものであり、自分の目的に従うのではない。
我々には目的が有りながらも、この目的も縁生縁滅するものだから、自分の最善を尽くすといい。仏法事業においては、成仏するまでの一切は円満ではあるまい。実は、特に何の作為もなく、ただ縁や業力に従ってするだけなのだ。リンポチェは作為がないと言った以上、今後は念仏や持呪などを止めようというのではない。それなら、作為がないことだ。無作為とは、資糧道、加行道で何もしないという意味ではなく、ここでは修道に関わっていることであり、見道から修道にたどり着いたから、修道は自然に無作為なのだ。
例えば、数日前に、ある弟子が体調不良になったため、私は念頭を起し加持したところ、だいぶ好転した。このことこそ、無作為だ。もし、全快にまで加持したいと思うと、有作為になるのだ。何故、無作為なのだろうか。それは、加持することは菩薩道でするべきことだからだ。だが、彼の業力というのも、彼自身のことだ。彼を加持して、業力によって彼が傷つくことが止まったらと願っているが、加持を受け続ける縁があるかどうかに至っては、彼自身の決定だから、無作為だ。全快などにまで加持したいわけではない。
「無生、不起、不滅」。無生とは死なないことだと分かり、不死は即ち不生だ。よって、菩薩道を修める者なら、生死解脱の法門を知っているに違いない。生が起きなければ、依然に滅ということはない。「驕慢あることなし」とは、菩薩道を修める人は傲慢にならないし、思い上がったりもしない。
経典:「しかうしてかの正士菩薩の道を行ぜし時、 つねに語言を護りて、語言をもつて他およびおのれを害せず、」
菩薩道を行する者は、常に自分の話し方を護持する。言語という方法で、他人や自分自身を傷つけてはいけない。というのは、人を罵ったりすると、他人を傷つけると同時に自分をも傷つけてしまうのだ。罵ったら気が晴れると思いきや、果報はあるものだ。話し方が刺々しいやら、冷酷やら、よく罵るやら、悪口やら、呪いやらをするような人がいれば、自分の言動を改めろ。
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2021 年 08 月 29 日 更新