691:仏を学ぶ初心を忘れず

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、尊勝なる直貢チェツァン法王、アキ仏母、歴代伝承上師、諸仏菩薩に頂礼致します。私は第五組の劉静文で、主人は第七組の陳慶彰です。
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから私が懺悔を表する機会を賜り、感恩します。

2012年5月,私は、口頭で社長に離職を告げた後、残った年次休暇を利用して5月25日の日本京都で寶吉祥仏法センターが開催した不動明王火供法会に参加しました。その時、私の担当は、撮影グループのボランティアであり、法会前の日を利用して撮影機材で火供壇城建造の過程を記録することを割り当てられました。自分の不恭敬と身勝手によって、火供の現場で自分が調度良いと思う角度と視野が得られる位置を探し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの日本の家の門口に撮影機を設置しました。攝影機を置いた後、私は、カメラを撮り記録した。その間、三回撮影機の位置を通りました。心の中でここは門の前ではないか?ここに置くと人々の出入りを邪魔するのではないか?と自問しました。けれども、また「問題はないはずだ。大丈夫だ」と自分勝手に言い聞かせました。

このように、ひとつの致命的な大きなミスを犯しました。私は私利私欲で、ただ自分のことだけを考え、そして多くの自分への言い訳を探しました。しかし、私は然るべき尊ぶことがわからず、撮影機を私の大恩である金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの家の門口に置き、路を塞ぎました。自分の私利私欲、無礼を懺悔します。日本寶吉祥仏法センターはリンチェンドルジェ・リンポチェが独力で創建したもので、台北の寶吉祥仏法センターは護持していません。ですからそれは、リンチェンドルジェ・リンポチェの家と同じであります。今日たとえ、他人の家に行けば礼儀に注意し、自分の行動に注意を払うべきなのに、更に、ここは道場であり、上師の家ではないか?

私は、上師に注意を払わず、上師に対して恭敬心を持たず、私利私欲を持ち、人を敬うことを知らないと懺悔します。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがすぐに叱り、私を正したことを感恩します。その時、私は道場の靴置きの板場に跪いて懺悔し、心から後悔しました。そして、頭の中では自分が普段していることがどれも自分勝手で、自分のことだけを考えていることを思い出しました。例えば、車を運転していて駐車する場所を探すのに、ただ空いているスペースのことだけを考え、人の家の前であるか?商売の邪魔をしないか?など考えませんでした。駐車料を払わないことだけに固執し、ちょっと駐車するだけなら構わない!と考えました。なぜなら、私はいつも便利を貪り、自己を利益しています。そして基本的な戒めすら守らないです。ならば日本の道場で問題も起こすことでしょう。けれども私の懺悔心は雲花のようであり、その後も変わることなく、やはり自分を徹底して改めようという思いはありません。

日本法会が終わって台湾に戻ってから、正式に社長に退職願を提出し、6月末に辞めると告げました。続いて再就職のために履歴書を送り始めました。不思議なことにすべてがスムーズで、面接を受けた会社から採用の通知が来ました。たったの二週間だけで、再就職ができました。それも私を採用した会社は2,000人規模の大企業で、後日同僚がこの職は三ヶ月余りずっと欠員の状態で、面接をした人は百人以上いたと話してくれました。そのような多くの応募者の中から自分が選ばれました。私は、すべては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが与えたものだとわかりました。さもなければ、自分の仕事の能力と専門力でどうしてこのような会社に入ることができるでしょうか?

2012年7月2日、私は新会社に入社しました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが仕事の仕方に正しい理念を持つ二名の調達管理者を与えて下さったことに感恩しました。彼らはいつも「言ったことは必ず実行しなければならない。且つ約束を守らなければならない」と丁寧に教え導いてくれました。それは大風呂敷を広げて仕入先を騙して有利な価格を勝ち取っていた、私が以前出会った調達上司とまったく違っていました。仕事環境と仏を学ぶ理念はピッタリと合致しましたが、けれども自分の仕事に対する態度は受け身で怠けていました。私は人と衝突するのが嫌で、ただ日々の安逸だけを願っていました。しかし、仕入れの役割は会社の立場を守り、会社に代わって最大の利益を得ることであります。だから仕事の中で多くの挑戦に対峙しなければならないです。けれども私はただのお人好しなることを望み、人に憎まれたり、傷つけたりしたくなかったです。そして知らぬうちに、自分の調達の役割をゴム印のようにしてしまい、良くても悪くてもまったく考えることなく、ただ裏書きだけをしていました。私のようなお人好しと、人と一緒に悪事をする人と何が違うというのでしょうか?

いつも、自分は仏を学ぶ人ですから、人の悪口を言ってはいけないと思っていました。そしていつも人に安請け合いをした結果、できないでいました。それは数日前にグループの菜食レストランで美味しい夕飯を頂いていた時、賴兄弟子が好意で私に、皮膚が悪い人は食べていけない物を避けなければならないし、辛いものを食べてはいけないと言った時もそうでした。その場で、兄弟子に感謝を表して、そうですね、私は決して食べませんと言いました。しかし、間もなく、美味しいものが目の前に現れると、すべての助言は頭から消え、人に同意したこともできずにいます。一事が万事で、一つとして責任ある行為ができないです。これらの問題は上司からもはっきりと指摘されました。主任は調達の最も困難な点は、「不正を防止する」ことだと言い、私にけっして人に利用される道具になり、知らないうちに悪事の片棒を担ぐことにならないように言いました。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩します。職場の上司を通して、はっきりと自分の問題の所在を理解させて下さいました。けれどもそれを認め、自分の間違いに向かい合うのは真に困難な事であります。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいつも仏法を生活、仕事の中で活かすことを開示しているのをはっきりと知っています。更に上司は常に私の間違いを戒めています。それでも私はいつも2つの考えを用いています。分別心で判断して、まったく羞恥心がなく、いつも同じ間違いを犯します。更に私はいつも話をする時、物事をする時、報告をする時に、話の筋を通すことができず、重要なポイントがないです。ですから昨日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが何の用事か?と尋ね、私がだらだらとリンチェンドルジェ・リンポチェに報告していた時、上師は口を開いて私に「大事なポイントを話すように」と言いました。これは私が信者から現在まで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会っていますが、私の話に「大事なポイント話すように」と言われたのが二度目でした。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと仏は無二無三であり、話す一字一句はすべて「真実語」であり、ずっと私の犯した間違いを指摘してきました。また、私は信者だった時から話にも行動にも深刻な「重要点がない」状態で、現在に至るまでずっと改善されないままで話に重点がないです。これはつまり、どのような内容が話さなければならないことなのかを考えていないからで、また相手の時間にも配慮していないです。ただ自分が話したいだけで、それはつまりまったく自分を改めていない事を表しており、自分で自分を直そうとする期待が持てません。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが教えたことを努力なしに、一気に飛び越えるのではなく、一歩一歩誠実に、重点を以って自分を変えていきます。

新会社で働き始めて一年間。私は上司の私に対する思いを利用して勝手気ままに振る舞いました。法会に参加するために休暇を取りました。自分は、理由は正当だと思っていましたが、年次休暇をすべて使い終わった後は私用休暇を取りながら、それでも恥ずかしいとは思わなかったです。主任は私の出国が法会に参加するためだと知っていましたので、私に代わって主任の上司に私用休暇を取る原因を説明したりしました。しかし、私はしっかりと仕事せず、考えなおすこともなく、上司に感恩しなければならないこともわからなかったです。去年、11月のネパール仁欽林寺の法会に参加したいのですが、すでに取れる休暇はなかったです。そして9月、恩ある上司に退職願を提出しました。私はまたも上司に迷惑を掛けられないから離職すると身勝手に考えていました。その実、私はまったく恩知らずな人であり、問題を他人に押し付け、まったく問題を解決しようとせずに、両手を上げて投降します。上司の育ててくれた恩を思うことなく、それなのに自分を人の気持ちがわかると考えました。二ヶ月早く上司に退職願を提出したのは、できるだけ早く面接ができ、適任者を私の代わりに採用できるからと考えました。自分勝手に自分の要求だけを考え、人がどう思うかを考えようともしなかったです。私のように自分勝手な人が、どうして自分は仏の弟子だと言えるでしょうか?

退職後のある日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはよく法座において寶吉祥仏法センターの規定は、弟子に仕事が無いなら仏を学んではいけないと開示しました。それは、弟子に仕事があってこそ、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養してもよいということではないです。仕事がなければ、自分の世話すらできないのにどうして人の世話までできるでしょうか?誰もが皆在家であります。もしも仕事せずにいたならそれは金食い虫でありながら仏を学んで衆生を済度するなどと、何を言うのでしょうか?更に仕事が無い人は責任がない人であります。そんな人がどうしてよく仏を学ぶことができるでしょうか?私はいつもそうです。いつも負担を人に押し付けます。例えば主人は、いつでもわけも分からずにわがままな私に代わって重い責任を背負っています。ここからも私に拠って傷つけられた衆生に対して深く懺悔しなければならないです。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感恩し、3ヶ月の休暇後、職場に戻り、更に同じ会社、同じ部門、同じ上司、同じ内線番号に戻って仕事ができました。これらすべてが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの賜物と加持でないのなら、どうしてそのようなことが可能になるでしょうか?

仕事場に戻り、自分は変わったと思っていました。しかし、その実、元のまま自分勝手で感恩がわからず、人を敬うことを知らなかったです。相変わらず、物事に対して「自分」中心で度量が小さく、人の立場に立って考えないです。変わらずにわがままで、変わらずに事に対して慎重さがなく、やりたいと思ったら何があってもやり、謙虚に人から教わることができないです。更には基本的な処世もできず、謙虚に物事をする方法を傲慢に軽蔑し、その実、人としての基本的な礼儀も知らなかったです。私はずっと、日本道場で犯した間違いに対しての懺悔がないのですから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェさえ、敬うことができないです。ですから当然、他人を尊敬することなどできるはずもありません。

これまでずっと、自分は素直に言うことを聞くと思ってきました。上師が言いつけた宿題は時間通りに行います。それなのに、なぜ自分の仕事の態度はこんなにもひどいのか?なぜ、上司が言いつけた基準に達することができないのか?毎週、共修法会に参加していて、仕事でとても良い上司に巡り会うことができました。仏を学ぶことと、仕事はまったくぶつかることはないです。それなのに、なぜいつも間違いを犯しますのか?先々週(10月12日)の皈依法会で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの説話を聞き、忽然と悟りました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分がうまくできないことを恐れる人は、自分がうまくできないことを人に知られるのを恐れる人である。うまくできないことを恐れるということは、その人は自分を改める準備ができていない人であると開示しました。

元から私はずっと間違った思いで仏を学んでいました。ただ表面的に仏を学び、ただ加護を求めるだけでした。そして今まで自分の心の動きや自分の言動を真面目に考えたことがなかったし、自分の身、口、意に責任を持ったことがなかったです。まったく自分を改めたことがなく、全く元のままの自分でありました。仏法を長年聞きましたが、それでも耳をふさいで聞こうとせず、聞いても考えようとせず、思っても修めようとせず、自分を知ろうとしなかったです。真に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して恥じ、五年間、私に対して口を酸っぱくして伝えられた教えと加持を無駄にしてきました。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが2012年7月8日に法座で特に私が日本道場で犯した間違いに対して、重ねて叱ったことに感恩します。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「今回の日本法会に於いて、或る弟子が撮影機を門に置いたのはなぜなのか?それは戒律を守っていない。あなたは人の家に行った時、あなたは物がこのように適当に置かれることに何も聞かないか?他に、今日あなたが人の家の路を塞ぎ、人が歩けないようにしたことで、将来の果報はつまり自分に進む道がなくなるということである。仏経に記載されたとおり、人に路を開ける福報は大きい。あなた方は人に路を譲る事をせずに人の道を塞ぐならそうすれば良い!」。と開示しました。

私はここで深く懺悔します。あれから二年半経ち、最近、やっと自分の問題として考えるようになり、昨日、勇気を奮って尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔し、大衆の面前で懺悔する機会を尊きリンチェンドルジェ・リンポチェから賜ったことを非常に感恩します。そして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔します。そして私の不恭敬と不尊敬で上師の路を阻みました。上師に罰を与えてほしいと頼みます。累世で傷つけた、殺した衆生に対して懺悔します。自分が起こした起心動念はすべて罪であり、すべて業であると懺悔します。皈依する前、メーカーがキックバックしたものを受け取ったことがあり、一切の因果業報を受けます。私は改めることを決心しないまま虚しく五年半の月日を過ごしました。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに私の仏を学ぶ心を加持してくださるよう求め、これからは清淨心で佛法を聞き、懸命に思索し、自分の思想、言語、行為に仏法と異なる点があるかどうかを検視し、因果を深く信じ、徹底的に自分を改める決心をし、離心を発しすることで、生死を解脱することができます。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲をもって加持したことに感恩します。きっと自分が今日、話した事、下した決断を覚えていることだろう。そして上師及び衆生にした約束を必ず守ることだろう。最後に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体安康、法輪常転、仏法事業興盛を祈願し、また直貢噶舉派法脈が永く伝わり、利益十方法界のすべての有情衆生に利益することを祈願します。

皈依弟子 第五組 劉靜文 謹んで書き上げます
2014年10月26日


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2019 年 02 月 24 日 更新