293:尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの救いを得た真実の出来事

2004年の夏、初めて斗六において尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェ主催の阿弥陀仏法会に参加し、リンチェンドルジェ・リンポチェの説法を聴聞し、大きな驚きと慙愧の念に包まれました。27年間、私はずっと衆生を傷つけてきたというのに、自分では何の過失もないと思っていたのです。リンチェンドルジェ・リンポチェの教示は、私にとってこの世の稀少な宝物を拾った如く尊いもので、心中、殊勝な恭敬心が沸き起こり、法会後、菜食となることを決めました。

その後、2004年12月5日、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依致しました。12月10日、伯父と自転車に乗って親戚の家で食事をし、その帰りに、伯父は事故を起こし重傷を負い、集中治療室に運ばれました。12月12日、私は伯父の息子を連れて法会会場の入り口に跪きリンチェンドルジェ・リンポチェに向かい、伯父の苦しみが軽減されるよう願いました。リンチェンドルジェ・リンポチェは負傷者の氏名と十二支を聞いただけで、胸元を指して「この辺りが全部切断している」と仰いました。その時、私は、胸元の骨が全部折れたのかと思いましたが、その後、胸元の神経が全部切れていることが証明されました。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会後に甘露丸を私に下さり、貴重な甘露丸について説明されました。リンチェンドルジェ・リンポチェは、只一つだけを伯父の口の中に入れればよいと語り、伯父の家族には、これを飲むと、次の二つの内のいずれかの現象が起きる事を伝えるよう仰いました。それは、もしまだ福徳があるなら、すぐに回復すること。それと、福徳がなくなり、悪業が滅して即刻死亡に至るが、死んだ後は地獄に堕ちることはないことでした。この二つは、伯父にとって大きな利益が得られるものでしたが、叔母は、断固として拒みました。ですから、仕方なく、貴重な甘露丸を寶吉祥宝石店のリンチェンドルジェ・リンポチェにお返しするしかありませんでした。が、リンチェンドルジェ・リンポチェは伯父の状況を依然として非常に気に掛けておられ、その時、伯父が発熱したことまで御存知でした。伯父は甘露丸を飲みませんでしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは手術がスムーズに行くように大きな加持を与えて下さったと信じています。しかし、伯父は半身不随の果報を得ることになりました。この件により、私は、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの衆生に対する慈悲心を目前に見ることができました。衆生を救う為に、リンチェンドルジェ・リンポチェは御自身の最も素晴らしい物を衆生に与えて下さったのです。

2007年6月、両目に麦粒腫ができ、眼科でも診察を受け、薬も服用しましたが、効果が見られず、7月になって眼科医は針を刺して膿を出してくれましたが、やはり細菌を完全に取り除くことができず、手術するよう勧められました。私は8月にインドに行く予定でしたので、帰ってから決定したいと医師に告げました。ラダックでのイノシシ年の大法会の一日目が終わり、リンチェンドルジェ・リンポチェは、非常に慈悲深く、弟子達に因縁福徳を積む機会を与えようと、「アチ聖地」見学に連れて行って下さいました。往復の3時間余りの間、乾燥した大風によって吹き上げられた砂が目に入り、痛くて変だったのですが、ホテルに戻ると麦粒腫の膿んだ箇所からたくさん膿が出た後、傷口は徐々に治っていきました。台湾に戻り再診察を受けに行くと、医師は、もう治ったから手術は不要だと言いました。現世で弟子が受ける悪業の重い報いを軽くして下さった尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの加持に、心から感謝を申し上げます。

最後に、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に対し、再度感謝を申し上げます。私にとり、リンチェンドルジェ・リンポチェとの邂逅がないのは仏法がないのと同じであり、仏法のない人生は恐怖で意味のないことです。リンチェンドルジェ・リンポチェの私に対する恩徳は表現できないほど大きいものです。自分をしっかり変えていないことにより、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの体力を消耗し、助けを必要とする更に多くの衆生を利益できないでいることに慙愧の念を感じます。再度、上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝申し上げたいと存じます。本当に有難うございます!

陳英彰、2008/12/29

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2014 年 12 月 21 日 更新