尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年08月30日

尊き金剛上師・リンチェンドルジェ・リンポチェが法座に上り、『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品」第十之三を開解された。

リンポチェが法座に上られた後、しばらく六字大明咒を唱えられた。慈悲に満ちた法音の中、大衆はあたかも西方浄土に身を置いているかのようであった。そよ風が静かに吹き、殊勝なる妙香が辺り一面に満ち溢れた。清涼なる風が幾度も吹き渡り、たちまち煩悩と垢染が洗い清められた。虚空からはかすかに心地よい鳥の鳴き声が聞こえ、大衆は身も心も軽やかで安らぎ、心を一つにして、リンポチェの殊勝にして清浄なる仏法の教えを受けることができた。
 
リンチェンドルジェ・リンポチェが貴重なる仏法の開示を授けられた。

もう一度、「禅定」とは何を意味するのかを説明する。足を組んでそこにじっと座っているだけで禅定というのではない。禅定の正確な定義とは、心が非常にシンプルであり、他の雑念も、他の妄念もなく、常に定を修める境地の中にあることである。もし足を組み、禅一や禅七を行うことを禅の修行とするならば、それは仏陀が説かれた禅定ではなく、禅坐の修行を助ける一つの助縁にすぎない。真の禅定とは、六波羅蜜を修めた後、存在すべきではない妄念や雑念、善悪の業が大幅に減少し、心が容易には動かされなくなった状態である。 

これは、六祖慧能が出山する前に唱えた、あの「仁者心動」という言葉と同じである。出家者たちが幡が動いているのを見て、「幡が風に従って動いている」と言った。すると六祖は、「仁者(これらの出家者を指す)の心が幡に従って動いている」と言われた。つまり、幡が動いているのを見ているが、実際に動いているのは自分の心なのである。もし自分の心が動かなければ、それは動いていないのである。この考え方は、一般の仏教を学ぶ人にとっては、まるで神話のような話であり、到底成し遂げられないことである。なぜなら、皆の仏法を学ぶ際の考え方がすべて間違っているからである。仏法を学ぶ際の考え方が、釈迦牟尼仏が説かれ、教えられたことに従うものではなく、上師が説き、教えられたことに従うものでもなく、自分自身の考え方、常識、人生経験を用いて仏法を学び、判断するのであれば、永遠に禅定を得ることはできない。たとえ出家者の姿を現したとしても同じである。なぜなら、二文字の「放下」を実行することができないからである。

いわゆる「放下」について、仏典では非常に明確に翻訳されている。我々はこの一生に生まれてくる際、善業と悪業を携えている。悪業のほうが比較的多く、善業は少ない。さらに、この一生において絶えず業を造っているため、背負う重さはますます重くなっていく。仏法は我々に「放下」することを教えている。貪・瞋・痴・慢・疑の心を放下するのである。それらを消し去れと言っているのではない。なぜなら、凡夫が仏法を学び始めた段階では、貪・瞋・痴・慢・疑をなくすことなど不可能だからである。しかし、それを放下しなければならない。重い物を一つ担いで、何歩か歩いただけでとても疲れ、そこで放下しなければ、歩けなくなったり、転んだりする可能性があるのと同じである。例えば、ある老婦人が無理をして重い物を持ち上げたために、骨を折ってしまったという話がある。人は放下することを知らなければならない。 
 
最近、帰依を求めている人がいるが、私はおそらく彼の願いを受け入れないであろう。なぜなら、彼は妻をあまりにも愛し、あまりにも依存しているからである。これほど妻に依存し、これほど妻を愛していて、妻の姿が見えなくなると、この世界そのものが存在しないかのように感じる。このような人が、どうして仏法を学ぶことができるのであろうか。彼はまだ私のもとに来て求めてはいないが、私はすでに彼に帰依を授けるつもりはない。なぜなら、仏は我々に放下することを教えているからである。あなたに捨て去れと言っているのではない。よく聞いてほしい。放下と放棄は二つの異なることである。我々は今、人としての生活を送っているので、このようなものを捨て去って不要とすることはできない。しかし、手に取ることを知ると同時に、放下することも知らなければならない。必要なときには手に取り、必要でなければ放下するのである。あなたが放下しようとせず、常にそれを背負い続け、これにも責任を負い、子どもにも責任を負う……そうして永遠に重荷を背負い続けていれば、自分自身の問題を明確に見つめ、それに対処することができなくなる。

仏典にも明確に説かれている。すべての有情衆生は例外なく「八種の苦」を具えている。この八種の苦の最も基本となるものが、「生・老・病・死」である。釈迦牟尼仏は仏であるため、母親の脇から生まれ、子宮や産道を通ってはいない。我々とは異なるのである。仏典では、一人の子どもが子宮と産道を通って生まれてくることを、あたかも二つの山に挟まれながら、無理やり押し出されるようなものであると表現している。「現在では帝王切開によって出産するので、膣を通る必要はない」と反論する人もいるであろう。しかし、実際には同じことである。帝王切開であろうとなかろうと、いずれにしても子宮から取り出されなければならない。子宮から取り出されるのであれば、二つの山に挟まれるような感覚を経験することになる。したがって、生まれてくること自体が非常に苦しいのである。
 
さらに、我々は母親の胎内で十か月を過ごし、母親の胎内の温かさと、あらゆる栄養に慣れ親しんでいる。そこに横たわって食べるものがあり、そこに横たわって眠り、何もする必要もない。これは、皆が最も羨ましがる生活である。母親の胎内は真っ暗で、何も見ることができない。我々の世代では、赤ん坊は生まれたとき、まだ目を開けることができなかった。さらに以前は、ほぼ生後一か月になって初めて目を開けるほどであった。ところが現在では、生まれた途端に目を開ける。それは、誰もが損をしたくないと思っているからであり、子どもでさえ、生まれたときから目を開けて、すぐに物を見ようとするのである。

以前は、子どもが生まれてもすぐには目を開けず、早くても一週間ほどかかり、中には一か月を過ぎてからようやく目を開ける子どももいた。私が加持をした場合を除けば、加持をした子どもは最も長くても三日で目を開ける。それは智慧が開いたからである。なぜ子どもが生まれた後、医療関係者は逆さにしてお尻を叩き、泣かせるのであろうか。医学的には、羊水を口に含んだまま吐き出せず、窒息してしまうことを恐れるためであり、叩いて羊水を吐き出させるのである。しかし実際には、生まれた途端に人から叩かれるのである。一度も叩かれずに生まれてくる者はいない。さらに、胞衣が身体から離れるときには、一枚の皮を剥がされるような痛みがある。胞衣が離れ、身体をタオルで包まれるとき、なぜ子どもは泣くのであろうか。それは、全身の皮膚を針で刺されているように感じるからである。 

もちろん、我々はそうしたことも忘れてしまっている。以前、私は新生児室を見たことがあるが、生まれて泣かない子どもを見たことはない。それは、子どもが必ず泣きたいからではない。泣かなければ、泣くまで叩かなければならないのである。医師も皆そのように言う。泣かなければ、何か問題があるのではないかと心配するからである。つまり、我々は生まれたその瞬間から、人に虐待されているのである。もっともらしい理由として「窒息させないため」と言っているが、これは前世で我々が人に負っていたものなのであり、この世に生まれた途端、人から叩かれるのである。なぜ密教の一部の仏像は裸体なのであろうか。それは、あなたに裸体を見せるためではなく、平等心を教えるためである。なぜなら、あなたが生まれてきたときは裸だったからである。分娩室には多くの人がおり、男性も女性もいて、皆があなたの身体をはっきりと見ている。ところが、我々が成長すると、いわゆる道徳や文化が生まれ、そこから次第に多くの問題が生じてくるのである。
 
だから、生まれることは非常に苦しいのである。特にさらに遡って考えると、私たちが生まれ変わることを選択するその瞬間、どこに生まれるのかさえ分からない段階では、非常に恐ろしく、また苦しいのである。実際に生まれ変わっていくときも、非常に恐ろしいものである。なぜなら、これから先どうなるのか分からないからである。したがって、生・老・病・死というものは、すべての有情が経験するものである。人間だけではなく、動物も同じである。年を取れば、老いの苦しみがやってくる。身体を動かすことが不便になり、さまざまな病気を抱えるようになる。多くの人は、年を取っても病気になりたくないと願うが、それは不可能なことである。何十年も使ってきた機械が、どうして何の故障もなくいられるであろうか。したがって、老いれば必ず病があり、必ず不具合なことが生じるのである。病気をしたことのある人なら誰でも、病気になることが非常に苦しいことであると知っている。

そして死である。釈迦牟尼仏でさえ涅槃に入る前には病を示した。わざと人々に自分が病気になった姿を見せたのである。病気になったからこそ、彼はこの世を去るのである。多くの人々や、天界のすべての天龍八部や、多くの菩薩たちも、釈迦牟尼仏に涅槃に入らないよう願った。しかし、釈迦牟尼仏は人間の身体を持っていたため、必ずこの段階を経なければならなかったのである。また、釈迦牟尼仏がこの世にいたとき、肉体が消滅しないようにする特別な密法を修めたわけではない。そのため、彼もまた人間が歩むべき道、すなわち生・老・病・死を歩んでこの世を去ったのである。彼は仏であるため、死そのものの苦しみはなかった。しかし、死という現象そのものはやはり現れたのである。だからこそ、私たちは釈迦牟尼仏を「善逝」と称するのである。つまり、仏がこの世を去るときには、一般の人間が死ぬ際に経験するような苦しみを経ることがないという意味である。どのような人であっても、死ぬときには地・風・水・火が分解していく苦しみを経験しなければならないのである。 

人は死ぬ前になると、あらゆる妄念が現れてくる。あらゆる怒りや恨み、恩や怨み、愛憎や情念が、もう一度すべて巡ってくるのである。もし修行しておらず、執着心が非常に強ければ、その人は自分の恩怨情仇に従って、次の世を生み出すことになる。だから、私たちが今世で修行するのは、安逸な日々を過ごすためではない。仏教徒が仏法を学ぶとき、100%の人が、自分が仏法を学んだ後は安逸な日々を過ごせるようになることを望んでいる。 それなら方法は一つしかない。もう一度生まれ変わり、何度も生まれ変わることである。胎内にいるときは非常に安逸であり、食べるものもあり、飲むものもあり、眠ることもできる。安逸であろう。皆が今、まさにこれを追い求めているのである。なぜ毎日、もう少し多く念仏しようとしないのであろうか。それは安逸な日々を過ごしたいからである。疲れたと思えばソファに横になって、そのまま眠ってしまう。時間があればスマートフォンをいじったり、テレビを見たりするのに、もう少し念仏を唱える時間はない。それは、安逸を追い求める心があるからである。仏法は、あなたが安逸な日々を過ごせるようにしてくれるものではない。仏経には非常にはっきりと説かれている。修行しようとするときに安逸を追い求めるならば、魔道に堕ちるのである。

本来受けるべき福は、必ず時間も空間も物質も与えられ、その福を享受することができる。しかし、それは安逸を追い求めることとは違うのである。皆が仏法を学びに来るときの心構えは、「私はとても苦しい。どうか私を苦しみから解放してほしい。私はたくさんの問題を抱えている。今日、私はその方に帰依したのだから、どうか私のすべての問題を消し去ってほしい」というものである。これは安逸を追い求めているということであり、因果を信じていないことを意味する。仏は非常にはっきりと説いている。仏にもできないことが三つある。縁のない人、縁のない衆生を、仏は度することができない。仏であっても、すべての衆生を度し尽くすことはできない。そして、仏であっても、衆生の果報を変えることはできない。私は一人の人間である上師にすぎない。いったい何の権利があって、あなたの果報を変えることができるのであろうか。私自身にも果報があるのである。釈迦牟尼仏でさえ、生きている間には果報があった。釈迦牟尼仏は生前、しばしば頭痛に悩まされていた。それは、過去世のある一生において、まだ子供だったとき、一つの村で村人たちが池の水をすべて汲み出し、すべての魚を捕まえて殺し、食べたことがあったからである。その中に一匹、とても大きな魚がいた。釈迦牟尼仏は面白がって、棒を手に取り、その魚の頭を叩いた。そのため、今世の釈迦牟尼仏は頭が痛くなったのである。釈迦牟尼仏が人々から誹謗されたのも、過去世のある一生において、自ら人を誹謗したことがあったからである。

釈迦牟尼仏が崖を通りかかったとき、仏を信じない人が大きな石を投げて、釈迦牟尼仏を殺そうとした。そのとき、金剛力士がその石を粉砕したのである。しかし、それでも仏の足の指からは血が出た。仏であっても、やはりこの果報は受けなければならないのである。ただし、その果報は非常に軽くなった。本来なら死ぬはずであったところを、足の指から少し血が出ただけで済んだのである。だから、皆さんは「仏法を学びに来れば、悪い果報は起こらなくなる」と思っているかもしれないが、それは間違いである。「上師に頼れば、自分のすべてが良くなる」と思うのも間違いである。それならば、お金を持って、いわゆる慈善を行っている宗教団体のところへ行けばよい。真の仏法を説く人というのは、皆さんにありのままの真実を伝えるものなのである。

最近、あるニュースがあった。皆さんは気づいていないかもしれない。ある老婦人が一生涯、露店商をして生計を立て、生臭物を扱う商売 をしていた。そして、3億30万を貯めたのである。ところが、ある仏寺がその3億をすべて受け取ってしまった。その結果、息子が財産を相続したときには30万しか残っておらず、その仏寺を詐欺で訴えたのである。私は、その仏寺が正しいのか間違っているのかについては、あえて言わない。しかし、一般的な考え方であれば、いわゆる「財を失うことで災いを免れる」ということである。彼女に対して、「あなたは一生、生臭物を扱う仕事をしてきた。そのお金を使って何かを建てれば、この災いがなくなるかもしれない」と言うのであろう。私が仏寺を建てているとき、そんなことを言ったことがあるであろうか。(大衆:ありません)私が仏寺を建てているとき、「あなたが稼いだお金は正しくない。そのお金を寄付すれば、災いを消して問題を解決してあげる」と言ったことがあるであろうか。(大衆:ありません)私が仏寺を建てているとき、「これを寄付すれば、あなたのためにこれこれのことをしてあげる」と、名目を巧みに設けたことがあるであろうか。(大衆:ありません)これほど大きな仏寺なのに、寄付者の名前を刻んだことがあるであろうか。(大衆:ありません)なぜしないのであろうか。仏経にそのようなことが説かれていないからである。私たち直貢噶挙の祖師も、梯寺も、そのようなことはしていない。仏寺にお金を寄付すれば、その功徳は必ずある。しかし、それは目に見えないものであり、虚空の中に存在して尽きることがないのである。

自分の名前を仏寺に刻んだならば、自分は永遠にその仏寺に存在することになる。しかし、功徳はその程度のものであり、ほんの少ししかない。多くの人はそのようなことを好む。しかし、私はそれをしない。なぜなら、仏経にそのようなことが説かれていないからである。お金があることは罪ではない。しかし、お金は正しいところに使わなければならない。巧みに名目を設けて、衆生のお金を使うのであれば、非常に慎重でなければならない。なぜ私が仏寺の寄付口座を閉鎖したのか。第一に、仏寺が完成し、これほど多くのお金を必要としなくなったからである。第二に、修行をせず、「お金を使えば問題を解決できる」と思っている人たちに、私の仏寺へ寄付してほしくないからである。それでは、皆さんは修行しなくてもよいのであろうか。お金を渡せば、それでよいのであろうか。「それなら、リンポチェへの供養もやめればよいのではないか」と言うかもしれない。しかし、それは別の話である。なぜなら、私は皆さんに仏法を教えているからである。仏寺に寄付することと、私への供養とは別のことである。皆さんが仏寺に寄付し、仏寺を建設するときには、そのお金を私は受け取る。しかし、必要な額に達したら、そこで受け取るのをやめるのである。もちろん、私はそのまま受け取り続けることもできる。しかし、私の考えでは、衆生を助けることは「縁」に従うべきなのである。縁があれば、私は自分の持てるすべての力を尽くして助ける。縁がないのに、無理に名声や評判を得るために何かをして、いったい何の意味があるのであろうか。  

生・老・病・死の苦しみ以外にも、「愛別離苦」がある。先ほど私が話した、「私は妻を愛している。妻に会えないと、仕事にさえ行きたくない」という話である。どれほど愛し合っている人たちでも、いつかは必ず別れるのである。以前、多くの女性がよく私のところに来て、「私はこの男性とこの先どうなるのでしょうか」と尋ねた。私は「なる」と答えた。ただし、生離死別である。私はこの方法を使うようになってから、最近では尋ねてくる人が少なくなった。誰も聞きに来る勇気がなくなったのである。彼女たちは最初、その意味が分からない。「生離死別?」そうである。生きていても別れるし、死んでも別れる。結局はそういうことである。

愚かな人は、「これは私の妻である。私は彼女をとても愛している。愛して愛して仕方がない」と言う。そのため、その妻も大きなプレッシャーを受けることになる。あまりにも自分を愛している人がいるからである。愛したなら、「美人を選んで天下を捨てる」というほどでなければならない。しかし、これは愛と呼ぶものではない。これは「独占欲」というものである。愛別離が起こることを信じていないのである。仏法を学ぶ者として、私たちは一生のうちに必ずこのようなことが起こると理解しなければならない。どれほどお金を持っていたとしても、あなたの子供、両親、妻、夫は、必ずいつかあなたのもとを離れていくのである。もし死別したくないのであれば、ずっと離婚を繰り返せばよい。離婚してしまえば、お互いに借りもなくなる。前世で彼女に借りていたものも、今世で返し終えるのである。

では、たとえ死別することになったとしても、なお「あなたは私を愛し、私はあなたを愛している。あなたと私はべったりと愛し合い、お互いに夢中になっている」という状態はどうであろうか。これは世界で最も愚かな人たちである。私たちは「相愛如賓」という言葉を聞いたことがあるであろう。聞いたことがあるだろうか。自分の相手に対して、お客様に接するように礼儀正しく接するのである。毎日べったりとくっついているという意味ではない。「泥の中にあなたがいて、私がいる」というようなものは、昔の歌である。今の若者はもう歌わないであろう。だから、愛別離は必ず起こるのである。例えば、リンポチェの孫が亡くなった。彼は私たちの家族で唯一の男子であった。もし皆さんだったら、きっと悲しくて仕方がないであろう。「あなたは彼を恋しく思わないのか」と言うかもしれない。もちろん、ときどき思い出すことはある。しかし、悲しいとは感じない。これもそれぞれに縁があるからである。これも私と彼との縁なのである。その縁が長いか短いかは重要ではない。その縁があったというだけで、良い縁なのである。「天長地久(天地が永遠に続くように、いつまでも変わらないこと )」や「海枯石爛(海が枯れ、石が朽ち果てるまで )」でなければならないということではない。

ほら、チベットの近くにある場所では、石が崩れて千人以上が亡くなったことがある。今では「海枯石爛(海が枯れ、石が朽ち果てるまで )」になるまで百年、二百年も待つ必要はない。天候が変化すれば、石が割れて、一気に崩れ落ちてくるのである。皆さんはそれを望むのであろうか。「石が朽ちるまで愛し続ける」というのであれば、花蓮の蘇花公路にでも立っていればよい。あそこでは終日、石が崩れている。もし皆さんが恋愛について「海枯石爛」と言うのであれば、そこに立つことをお勧めする。石が落ちてきて、二人一緒に逝くというのはどうであろうか。たとえ二人にそれぞれ石が落ちてきたとしても、二人が同じ一秒に息絶えることなどあり得ない。それぞれに異なる業があり、それぞれに異なる寿命があるからである。もしかすると、石が落ちてきたとき、一人は頭に直撃してスイカが爆発するように即死し、もう一人は胸に当たって、一時間苦しんでから死ぬかもしれない。絶対に同じ時にこの世を去ることはないのである。だから、昔の人の言葉は実によくできている。「同じ年、同じ月、同じ日に生まれることができなくても、願わくは同じ年、同じ月、同じ日に死にたい」と言うのである。時間について何か言っているであろうか。昔の人の言葉にだまされてはいけない。昔の人が言っているのは、同じ年、同じ月、同じ日に死ぬということである。同時、同じ分、同じ秒に死ぬと言っているであろうか。(大衆:言っていません)

昔は「時辰」というものがあった。だったら、もう一言「同じ時辰に死ぬ」と付け加えてもよさそうなものである。なぜそう言わないのであろうか。昔の一時辰は、現在の二時間に当たる。二時間といえば百二十分である。では、いったい何分に死ぬのであろうか。あなたが先に逝くのか、それとも彼が先に逝くのか。その時になれば、きっと「あなたが先に逝って」と言うであろう。自分は逝きたくないのである。それなのに、「夫よ、死なないで」と言って、夫の手を握ったりする。私が演技してみようか。だから、妻を愛して愛して、死ぬほど愛したとしても、最後の結論はこうなるのである。苦しいのである。 

「愛別離」のほかにも、「求不得」がある。私たちは一生の間、さまざまなことを求め、願いがかなうことを望んでいる。私は80歳まで生きてきて分かったことがある。私が求めたことのうち、修行に関すること、衆生を救済することについては、すべて願いがかなった。しかし、それ以外のことはどうにもならなかった。なぜなら、それらは私自身の因果や業力に従って進んでいくことだからである。どれほど努力しても、どれだけ時間を費やしても、自分の思いどおりにはならず、願いがかなわないのである。事前に長い時間をかけて準備しておけば、成功する可能性のあることもある。いわゆる「求不得」とは、自分がしたいと思うことをすべて実現したいと願うことである。しかし、実際には、私たちは毎日のように求めても得られないことを経験している。例えば、バスを待っていて、時間どおりに来てほしいと思う。ほんの数秒遅れただけでも、あなたは文句を言うであろう。これも「求不得」である。「求不得」は、私たちの生活の中で、ほとんど毎日のように起こるのである。 

だから私は皆さんに、「随遇而安、随縁而過」と教えているのである。なぜなら、私たちはこの世界で一人だけで生きているのではないからである。私たちの周囲では、多くの共業が絶えず働き、動き続けている。だから、私たちはいつでも、予測することのできない出来事に遭遇する。また、自分が受け入れるつもりなどなかった縁に出会うこともある。では、なぜ仏法を学ぶのであろうか。仏法を学ぶことによって、私たちはあらゆる悪を止め、多くの善い縁、善い因を積み重ねるのである。たとえ悪因の果報が熟したとしても、自分の中に善い因がたくさんあれば、その悪い果報を大幅に減らすことができ、さらには現れないようにすることさえできる。しかし、多くの人はいつまでもこの方向に向かって努力しようとせず、「悪いことが起きたら、すぐに良いことへと変わってほしい」と願っている。しかし、そうはいかないのである。必ず長い時間をかけなければならない。 

「怨憎会」とは、自分と因縁があり、恨みを抱いている人と一緒になることである。だから、子供が言うことを聞かないなら、自分自身に問い返さなければならない。きっと自分の修行が足りていないのである。夫が自分を愛しすぎるなら、自分自身に問いかけなければならない。やはり自分の修行が足りていないのである。「彼が私を愛してくれるのだから、私はなんて幸せなのだろう。この男性にこんなにも愛されて、この人生にもう悔いはない」などと思ってはいけない。その時になれば、あなたは後悔することになる。もしあなたが死ぬときに、彼があなたをずっと揺さぶり続けたなら、あなたは必ず三悪道に堕ちる。人は死ぬとき、非常に敏感になるからである。ほんのわずかな物音や動きでさえ、瞋恚の心を起こすことがある。ひとたび瞋恚の心を起こせば、堕ちていくのである。たとえ今世で帰依し、仏法を学び、菜食をし、真言を唱えていたとしても、同じように堕ちていくのである。だから、「怨憎会」は私たちの生活の中に必ず存在する。同僚が自分に対してよくしてくれないこと、兄弟と仲が悪いこと、さらには、愛し合いすぎることさえも、「怨憎会」なのである。だから私はいつも言っている。子供は幼いときから大きくなるまで、たとえ勉強があまりできなかったとしても、身体が健康で、法律を犯さないのであれば、それだけで良い子なのである。中には、幼い頃から勉強が非常によくできて、大学にも合格したのに、突然事故に遭って亡くなってしまう子供もいる。両親の心は、まるで引き裂かれたようになる。私は実際にそのようなことを見てきたのである。あなたたちは皆、神仏に、子どもがよく勉強できるように、そして家の名を上げ、先祖の栄誉を高められるようにと祈る。しかし、それは正しい考え方ではないのである。その子が勉強ができるのであれば、自然と自分の力で学び、身につけることができるのである。仏や菩薩に願う必要はない。それは、その子自身が持っている福報によるものなのである。 

最後の一つは「五蘊熾苦」である。「五蘊」とは、眼・耳・鼻・舌・身、そして色・声・香・味・触のことである。私たちはこの五つの感覚を追い求めるために、絶えず煩悩を起こしてしまう。例えば、良いものを食べたいと思えば、そのために多くの時間をかけて準備する。例えば、安逸な生活を送りたいと思えば、多くの時間をかけてお金を稼ぐ。しかし、その一方で修行することを忘れてしまうのである。輪廻の中にいる限り、どの道に生まれようとも、必ずこの八つの苦を具えている。だからこそ釈迦牟尼仏は、私たちにこの一生で仏法を修行し、永遠の楽を得るよう教えたのである。では、永遠の楽とは何か。それは、もはや生死の苦しみを受けることのない楽である。釈迦牟尼仏は、多くの法門と方法を説かれた。小乗の阿羅漢道を修行する者もいる。もし阿羅漢道の修行に成功すれば、七世を往来した後、必ず有余涅槃に入る。もし菩薩道を修行し、菩薩の果位を証得すれば、十七世修行することで、必ず仏果を証得する。もしこれらの修行をする資格がないのであれば、必ず浄土の修行に励むことである。阿弥陀仏を深く信じ、戒をしっかりと守り、浄土へ往生するという決心を固めるのである。一つ一つの行為、一つ一つの修行を西方極楽世界へ回向し、自分の世間におけるさまざまな小さな事柄のために修行するのではない。

多くの人は、阿弥陀仏を修行すれば、必ず死ぬと思っている。しかし、そもそも人は必ず死ぬのである。誰が死なないというのか。ただ、私たちはあらかじめ準備をしておくのである。よくする例えで言えば、海外へ行くのであれば、外へ出るために多くのものを準備しなければならない。行くと言っただけで、すぐに飛んで行けるわけではない。阿弥陀仏のもとへ往生するにも、多くの準備が必要なのである。菜食をし、毎日千遍念仏を唱え、法会に参加しているからといって、それだけで必ず往生できるわけではない。私は、帰依したすべての弟子に対して、三悪道に堕ちさせないことを約束している。しかし、あなたたちが必ず阿弥陀仏のもとへ往生できるとは約束していない。それは『阿弥陀経』に明確に説かれているからである。「不可少福德因緣的善男子善女人」。浄土宗を修行する際、第一の善は「礼敬師長」である。その意味は、師長が説く言葉や、師長があなたに与えた采配を、すべて聞き入れ、従い、そして実行することであり、それをもって礼敬師長というのである。もし師長を敬わなければ、浄土宗における第一の福徳がなくなってしまう。それでどうして往生できるというのか。自分は修行できると思ってはならない。そうでなければ、昔の大徳たちが、三つの福を修めれば必ず阿弥陀仏のもとへ行けると説くこともなかったはずである。第一の福は、必ず往生できる。この三つ――「礼敬師長」、「慈悲不殺」、「孝順父母」――を具え、さらに阿弥陀仏の法門を修行し続けるならば、この一生で必ず阿弥陀仏のもとへ往生するのである。ただし、花が開いて仏にまみえるまでの時間が、比較的長くなるだけである。

したがって、上師が説く言葉をあなたが聞かず、自分自身の考えや予定を優先し、「上師は自分のことを理解していない」と考え、自分勝手な方法で修行するのであれば、私は仏経に説かれていることを裏付けに、あなたがこの一生でどれだけ修行しても、阿弥陀仏のもとへ往生することはできないと断言する。これは呪いではない。なぜなら、あなたは師長を敬っていないからである。あなたは「私はそのリンポチェに帰依したわけではない。剃度師もリンポチェではない」と言うかもしれない。その通り、私は出家者を剃度する資格はない。しかし、私は四衆を弟子として受け入れる資格がある。既に私の弟子となったのであれば、私が教える仏法を聞かないで、どうして師長を敬っていると言えるのであろうか。師長を敬っていないのに、どうして阿弥陀仏のもとへ往生する資格があるというのか。

ここまで話すと、禅定とは、絶対にこれらの修行方法に基づき、一歩一歩実践していくものであることが分かる。自分には苦があることを知り、安逸な生活を求めないのである。私たちが安逸な生活を求めなくなれば、あらゆる苦は修行を助けるものだと考えるようになる。そして、苦の因縁も絶えず減少していくのである。多くの人は、仕事をすることが苦しいと感じている。しかし、少し考えてみるとよい。仕事をしなければ、誰があなたにお金をくれるのであろうか。仕事が苦しいと感じるということは、その人が安逸な生活を送りたいと思っているということである。たとえ誰かがお金をくれるとしても、その人にお金を渡してもらうためには、何らかの方法が必要である。騙してお金を得れば、必ず地獄に堕ちる。騙さないのであれば、何らかのことを自分で行い、対価を払わなければならない。どうしてお金が空から降ってくることがあろうか。たとえ宝くじで大当たりしたとしても、まず買いに行かなければならず、あれこれ選び、削ったりしなければならない。当たらなければ、苦しくはないのか。苦しいのである。世間の事柄に、苦しくないものなど存在しない。すべての事柄は苦である。しかし、あなたはそのような苦を喜んで受け入れているのである。例えば、リンポチェは毎朝六時半に起き、それから夜、眠るまでずっと仕事をしている。それに対して、あなたたちはどうであろうか。あなたたちが苦を受け入れず、苦労することを嫌い、安逸な生活を望むのであれば、それは仏が説かれた仏法に完全に反することになる。だからこそ、あなたはいつまでも輪廻の中にいるのである。 

仏経には、次のような話が説かれている。ある時、釈迦牟尼仏が弟子たちと森の中を歩いていたところ、木の上に蟻の巣があるのを見つけた。釈迦牟尼仏はそれを少し眺めると、微笑まれた。弟子たちは、釈迦牟尼仏が微笑まれる時には、必ず何か意味があることを知っていた。そこで弟子が仏に尋ねた。「なぜ仏は蟻を見て微笑まれたのですか」と。釈迦牟尼仏は、「この蟻たちは、ずっとこの巣の中にいて、五百世にわたって生まれ変わり続けている」と説かれた。蟻の寿命は短く、一か月もしないうちに死んでしまう。それでも、何度も生まれ変わって、またここへ戻ってくるのである。なぜであろうか。ここでもう一つ、皆さんは必ず疑問に思うであろう。なぜ釈迦牟尼仏は、この蟻たちを救済しなかったのか。法を修して、蟻たちを済度してあげればよいではないか。それなのに、なぜ釈迦牟尼仏は救済されなかったのであろうか。答えは非常に簡単である。この蟻たちが五百世を終えて初めて、蟻の身を離れることができるからである。 

では、なぜ仏寺では、リンポチェが化学肥料や化学殺虫剤を使用してはならないと定めているのであろうか。それは土壌を汚染し、昆虫が生きられなくなるからである。昆虫が生きられなくなれば、植物も生きられなくなる。植物が生きられなくなれば、昆虫も生きられず、そして人間もまた生きられなくなる。すべては一つの循環なのである。だからこそ、多くの事柄は必ず仏法に基づいて行わなければならず、自分の感覚や考えだけで、物事を行ってはならない 。釈迦牟尼仏でさえ、これらの蟻が五百世を経なければ生死輪廻から解脱できないことを見ているのである。それならば、あなたは一体何を根拠に、毎日千遍ほど唱え、出家者の姿をして、毎日何百回か大礼拝をすれば、それだけで輪廻から離れられると思うのであろうか。 もし仏菩薩と上師の加被がなく、上師の助けもなければ、それは不可能である。なぜなら、人には必ず雑念があり、心に執着やわだかまりがあるからである。 

私たちは、この一生でここに説かれているような禅定にまで修行を到達させることはできない。禅定というものがあることは知っていても、それを実際に修得することができないのである。なぜなら、私たちはこの末法の時代に生きており、ここに生まれてくる衆生は皆、業力に満ちているからである。それを理解したうえで、自分自身の能力も、修行に費やせる時間も十分ではないのであれば、残された道は「信」と「願」である。阿弥陀仏のもとへ往生することを発願するのである。そして「行」においては、輪廻につながる一切の行為をできる限り改めていかなければならない。自分のために少しも残そうとせず、できる限り実践するのである。「うまくできなかったらどうしよう」「十分にできなかったらどうしよう」と恐れてはならない。大切なのは、まず始めることであり、そして絶えず続けていくことである。あなたがこのことを実際に始めた時から、禅定の力は少しずつ現れてくるのである。それには非常に長い時間が必要であり、すぐに現れるものではない。
 
経典曰く:「復於禪定。而常自在隨樂三寶。」
 
一人の人が「禅定」を修め、それが現れるようになると、とても「自在」であると感じるようになる。 では、どのような自在なのか。それは安逸ではなく、楽な暮らしをすることでもない。ここで「安逸」ということについて、少し説明しておこう。私が若い頃、ある年にオーストラリアのゴールドコーストへ行ったことがある。ゴールドコーストはとても美しい砂浜があり、気温もちょうどよく、二十数度くらいであった。当時はまだ若かったので、現地の人を真似して木陰に座っていると、海風がそよそよと吹いてくる。砂浜ではたくさんの美女が走り回っている(大衆笑)。本当に気持ちがよく、まさに地上の楽園である。美女がいて、気温も暑すぎず、海風がそよそよと吹き、何でも揃っている。私はそこに座っていて、本当に気持ちがよかった。しかし、二つ目に浮かんだ考えは、「私は終わってしまう!」というものであった。ここに住み続けたら、自分は駄目になってしまう。あまりにも快適すぎるからである。その当時、私はオーストラリアの移民資格を取得することもできたが、それを選ばず、香港へ戻って働き、努力する道を選んだ。私は快適な生活をとても恐れていた。なぜなら、人が快適な生活を送るようになると、放逸になり、自分自身を緩めてしまうことを、よく分かっていたからである。これは在家であっても出家であっても同じである。その頃、私はまだ仏法を学んでいなかった。もしかすると、生まれつきそういう性格だったのかもしれない。なぜ今、毎日必ず運動しなければならず、運動してこそ身体が健康になると言われているのか。それは身体を楽にさせてはいけないからである。身体を鍛え、動かし、苦労させなければ、業を解消することができないのである。
 
なぜ熱帯の島々に住む人は比較的怠けやすいのか。それは、あまりにも快適だからである。風が吹いてくると、身体全体がだらんとしてしまう。皆さんには、このような感覚がないだろうか。まるで映画の場面のようなものである。私はその時、二つ目の思いを起こし、自分自身に警戒した。そして、すぐにここを離れなければならない、このような生活をしてはいけないと思った。なぜなら、私は自分のことを「苦労する運命の人間 」だと、はっきり分かっていたからである。私は自分を恵まれた人間だと思ったことはない。自分が恵まれた人間になるなどと、これまで一度も考えたことはない。私はいつも、自分は苦労する人間だと思っている。だからこそ、自分を緩めてはいけない。必ず努力して、自分の人生に向き合わなければならない。私は、どんなことにも自分を打ち負かされることはない。ここでいう「打ち負かされない」というのは、負けを認めないという意味ではない。喧嘩をして負ければ、私は負けを認める。私が言っている「打ち負かされない」とは、努力し続ける心、前へ進もうとする心、自分自身の知識を絶えず積み重ねようとする心を、どんなことにも打ち負かされないという意味である。どのような環境であっても、どのような出来事であっても、私を打ち負かすことはできないのである。妻が「明日離婚する」と言ったとしても、私はその日の夜に普通に眠る。眠れなくなることなどない。むしろ、もっとよく眠る。なぜなら、明日は離婚届に署名する準備をしなければならないからである(大衆笑)。会社が倒産したとしても、私は夜ぐっすり眠る。なぜなら、明日は少し遅くまで寝ていられるからである。このような性格だからこそ、私は皆さんより仏法を学ぶのが早かったのである。皆さんは誰もが安逸を望み、仏法を学ぶことで自分の生活がどんどん楽になればよいと思っている。

例えば、年を取ってからリンポチェのところへ来て、健康にしてほしいと願う人がいる。私は「今さら健康になってどうするのか」と言う。今のあなたに息が一つ残っているのであれば、阿弥陀仏に願うべきである。阿弥陀仏のもとへ行くことを願うのであって、健康になることを願うのではない。そんなに年を取って、いったい何ができるというのか。立って小便をするだけでも脚が震えるのに、何ができるというのか。本当にできるのであれば、私のようにしてみればよい。朝早くからここに座り、ずっと皆さんを叱っている。先ほども部屋でさんざん叱ってきた。もし衆生のためではないのであれば、健康を願ってどうするのか。私は、皆さん男性の弟子から「リンポチェ、私は阿弥陀仏のもとへ行くと固く決心しました」と願うのを聞いたことがない。皆、死ぬのを恐れている。立派な男でありながら、生きることに執着し、死を恐れているのである!この一生に、いったい何ほどのものを執着する価値があるというのか。大きな事業を成し遂げたのか。それとも何なのか。この一生で仏法を学ぶ機会が与えられたのである。仏法を学ぶ目的がどこにあるのかを、はっきり理解しなければならない。常に無常を念じるべきである。しかし、皆さんは念じない。自分は死なないと思っている。これは仏法を学ぶことで、早く死ねと呪っているのではない。修行が成就すれば、死にたいと思っても死ねないのである。例えば、私が七十歳、八十歳になっても、ずっと皆さんに悩まされ続ける。しかし、菩薩は私を放っておかず、私を生き続けさせるのである。
 
「而常自在」。では、「自在」とは何を意味するのか。それは、生・老・病・死や善悪の業によって、自分の修行する心を縛られることがないということである。したがって、どのような良い環境にいても、どのような厳しい環境にいても、修行することができるのである。ある年、私はインドで閉関修行をしていた。五月か六月頃だったと思う。現地では非常に暑い時期であった。私の部屋にはエアコンも扇風機もなく、しかも西日が当たる部屋だった。午後には気温が45度にもなった。ドアも窓も開けることができず、あまりの暑さに服を全部脱ぎ、下着一枚になっていた。では、どうすればよいのか。私は閉関中なので、ドアを開けることもできない。また、暑すぎるからといって、何度も冷水を浴びるわけにもいかない。そこで仏法を用いたのである。私はすぐに禅定に入り、自分が火地獄にいると観想した。そして、衆生の代わりに苦しみを受けていると観想した。すると、一瞬にして暑さを感じなくなった。その瞬間から閉関を終えるまで、閉関していた部屋はまったく暑く感じなかった。これが「自在」ということである。苦しければ苦しいほど、私はそれを利用するのである。暑さの苦しみは非常に苦しい。皆さんも45度の気温で、エアコンも何もない環境を試してみればよい。それでも毎日、決められた回数を念じなければならないのである。菩薩道を修行する人は、自然とこの苦しみを修行に利用するのである。私は自分が火地獄にいると観想した。なぜなら、私は自分が過去のどこかの一生で、必ず火地獄に行ったことがあると、はっきり分かっているからである。皆さんは、自分が地獄に堕ちることなどないと信じている。帰依して仏を念じれば大丈夫だと思い、まるで帰依していない人が法会に参加しているのと同じように考えている。しかし、私は言っておく。地獄に堕ちるのは非常に簡単である。瞋恚の心が起きれば、それだけでよい。執着する心があれば、それだけで堕ちてしまうのである。
 
私が火地獄の中に座って修行していると観想した時、周囲の気温は私に対してまったく影響を与えなくなり、それどころか涼しく感じるようになった。そのため、法王は不思議に思ったのである。「なぜこの人は暑いと言わないのか」と。部屋の中はこれほど暑い。日焼け止めも塗っていないのだから、当然日に焼ける。紫外線も同じように入ってくる。だから、リンポチェの修行は「実修」なのである。仏法をいくつか口にして、「これはこうだ」「あれはこうだ」と話すだけのものではない。そういうものではなく、実際に自分で修行して身につけるのである。仏経に説かれていることを、私は実際に行っている。「心能転境」なのである。私はそのように実践した。そして、心によって周囲の環境を動かすことができたのである。なぜ皆さんは仏寺に入ると香りを嗅ぎ、より涼しく感じるのであろうか。それは、私の心がこの環境を変えているからである。では、どのような心なのか。それは菩提心である。菩提心さえあれば、この環境を変えることができる。しかし、菩提心がなければ、どれだけ頭を悩ませても、環境を変えることはできないのである。
 
だから、ここで説いているのが「自在」、そして「而常自在」なのである。なぜなら、菩薩道を修行する人は、因果と業力についてすでにはっきり理解しているからである。何が起こったとしても、その心は動揺せず、喜びの心をもって受け入れるのである。例えば、果報が現れたなら、「よかった。また一つ、借りを返すことができた」と考えるのである。良いことが起きても、むやみに喜ぶことはない。それは福報が現れたのだと考え、むしろ自分自身をさらに戒め、もっと修行しなければならないと思うのである。例えば、皆さんは昇進したり、給料が上がったりすると、「自分は修行したからだ」と言う。しかし、それは間違いである。もう終わりである。なぜなら、それは安逸を求める心だからである。仏法を学べば、必ず福報がある。福報がないということはあり得ない。その福報は、世間的な事柄において、あなたをある程度助けてくれる。しかし、それはあなたの修行が成就したという意味ではない。リンポチェに供養すれば、必ず何らかの福報が現れる。しかし、それはあなたが修行を成就したことを意味するものではない。成就を得るためには、本当に仏経に説かれているとおり、一歩一歩、着実に修行しなければならないのである。
 
「随楽三宝」とは、どのようなことが起こったとしても、その身・口・意のすべてを、喜んで三宝に従わせて行うということである。先ほど話した閉関の部屋の例で言えば、私は「随楽三宝」である。仏が私にこのようにしなさいと教えたのであれば、私はそのとおりにするのである。「仏菩薩よ、この部屋が暑くならないようにしてください。そうすれば私は閉関を続けることができます」と願うのではない。それは「随楽三宝」ではない。皆さんなら、きっとこうするのであろう。「リンポチェ、私を加持してください。部屋が暑くならなければ、私は修行を続けることができます」と。それは凡夫の心であり、修行者の心ではない。「随楽三宝」とは、三宝が私たちに「深く因果を信じ、衆生を利益しなさい」と教えていることである。因果を信じなければ、どうして衆生を利益することができるのであろうか。例えば、ある夫が妻を愛して愛して、命がけで愛し、仕事さえしなくなったとする。そんな人が因果を信じていると言えるであろうか。信じていないのである!それなのに帰依を求めに来る。待っていればよい。私はその人が妻を愛することに反対しているのではない。しかし、ここまで愛しすぎてはいけないのである。その妻もまた大喜びで、「こんなに私を愛してくれる男性がいる」と思う。そして、彼が自分を愛すれば愛するほど、ますます自分に逆らえなくなっていくのである。

要するに、どんなことでも度を超してはいけないということを覚えておくべきである。例えば、私は食べ物を食べる時、おいしいものなら一口多く食べることはある。しかし、全部食べ尽くすことはない。また、毎食必ずそれを食べなければならないということもしない。すべては縁に任せるのである。これほど一人の人を愛しているのであれば、本来は相手に空間と自由を与えるべきである。そして、自分がこれほど愛されていると分かっているのであれば、相手にも空間と自由を持つことを勧めるべきである。どうして二人で互いを縛りつけなければならないのか。あれは何という歌だったか(笑)。(大衆:「你儂我儂」)本当に、よく分からないものである。 

経典曰く:「以是緣故。獲得如來無盡功德。」 

分かったであろうか。このように「常自在」でいられるのは、「禅定」があるからである。だからこそ、「常自在随楽三宝」、つまり喜びに満ちた心で三宝に従っていくのである。三宝とは、仏、仏法、僧のことである。僧とは、あなたの上師にあたる修行者のことである。必ず心から喜んでその人に従い、その人が説き、教えることに従って実践しなければならない。そのためにこそ、「如来無尽功徳」を得ることができるのである。なぜ私が火地獄にいると観想すると、すぐに涼しくなったのであろうか。それは「如来無尽功徳」を得たからである。私は自分自身を犠牲にして衆生のために苦しみを受けた。つまり、火地獄にいるすべての衆生に代わって苦しみを受けたのである。火地獄には数え切れないほど多くの衆生がいる。あなたたちに、それができるであろうか。私の真似をしてはいけない。あなたたちには禅定がないからである。特に男性の皆さん、「リンポチェがこう言っていたから」と思って、帰ってから同じことをしてはいけない。すぐに肝が熱くなってしまう(大衆笑)。ここで言っているのは、火が燃え上がるという意味ではない。なぜなら、その前に一つ条件があるからである。それは、禅定を得ていなければならないということである。では、どうすれば自分に禅定があるのか、ないのかが分かるのか。私が決めるのである。皆さんはこれほど生きることに執着し、死を恐れている。それでどうして禅定があると言えるのであろうか。禅定がないのであれば、どのような境を観想しても、それは現れてこないのである。

最初、私は浄土を観想した。皆さん、何か感じなかったであろうか。少し話してみなさい。(大衆:ありました。)どんな感じであったか。(大衆:香りがしました。)ほかには?(大衆:とても涼しかったです。)ほかには? 出家者の方、話してみなさい。(最初の出家者:全体的にとても涼しく感じました。それから、とても軽安な感じがしました。)ほかには? 二人目の出家者、話してみなさい。(回答:「リンポチェ、身体が熱くなってくるように感じました。そして、とても愉悦な感じがしました。」)
 
経典曰く:「又於禪定得極高勝。」 
 
この「高」と「勝」は、高くなるという意味でも、勝利するという意味でもない。禅定を得た人が、どのような仏法を修行しても、それが最も優れたものになるという意味である。いわゆる最高のものとは、自分自身が生死輪廻から解脱し、さらに成仏することができ、同時に衆生が生死輪廻から解脱し、成仏することを助けることである。そして「最殊勝」とは、この法には後遺症がなく、いかなる副作用も生じないということである。つまり、禅定は必ずしも禅宗を修行しなければ得られないものではない。例えば、雑念を起こさずに真言を唱えることも、禅定を得る修行なのである。
 
経典曰く:「以是緣故。常住三摩呬多。復於禪定得自在轉。」 
 
「三摩呬多」とは何であろうか。(出家者:『等引』です。同等の「等」に、引率の「引」です。)(李姓の弟子:報告します、リンポチェ。「三摩呬多」とは、禅定によって身心の安定が生じることであり、それを漢語では「等引」と訳します。引き起こすの「引」です。)「等引」とは、禅定を修行することによって、自分を引き寄せ、導いていくという意味である。成仏へ向かう道、そして衆生を助ける道へと導いていくのであって、禅定によって安楽だけを得て、衆生のことも、成仏することも忘れてしまうという意味ではない。したがって、小乗を修行する場合、禅定を得た後に、先ほど述べたように、禅定によって生じる喜びに執着してはならない。先ほど二人目の出家者が述べたような状態は、間違いなのである。
 
「禅定得自在転」とは、「禅定」を得た後、それによって衆生を助け、自分自身も成仏へと向かうようになり、さらに「禅定自在転」を用いて、一つの境地から別の境地へと転じることができるという意味である。先ほど話したように、私は閉関修行をしていた時、非常に暑い部屋を、禅定によって涼しい部屋へと変えることができた。禅定によって、その環境を転じたのである。例えば、冬に雪が降って非常に寒く、私たちがたくさん服を着たり、たくさん布団を掛けたりしていない場合、何によって寒さをしのぐのであろうか。拙火定を修行するのである。これも禅定の一つであり、温度を変えることができる。このような力は禅定から生じるのである。例えば、私が済度の法を修行する場合、もし禅定がなければ、衆生を悪から善へと転じさせることはできない。また、衆生を輪廻という苦海から阿弥陀仏のもとへ導くこともできない。これも禅定によるものであり、禅定によって自在に転じることができるのである。単に経を唱えるだけで済度できるというものではない。経を唱えることによって大禅定を得ることができれば、それも可能である。しかし、そのような人はほとんどいない。だからこそ、密法に入る際、最初に修めるのが禅定なのである。直貢噶挙では、それが大手印である。
 
経典曰く:「以是緣故。而能圓滿一切事業。」 
 
これは非常に明確に説かれている。あなたに禅定があれば、そのために、あらゆる事業を円満に成就することができるのである。つまり、あらゆる仏法の事業を、すべて円満に成就することができるのである。
 
経典曰く:「又於禪定悉無所受。以是緣故得大智慧。」 
 
「禅定」には、与えることもなければ、受け取ることもない。つまり、禅定を得た後に、何か大きな能力を得たと思ってはならない。多くの人は、禅定を得れば大きな神通力も得られると思っているが、それは間違いである。何かを受け取ることもなく、何かを与えることもないのである。「禅定」を簡単に説明するならば、それは空性の中にあるということである。空性の中には、いかなるものも存在しない。音さえも存在しないのである。したがって、禅定に入っている時には、「所受」がない。何ものも受け取らないのである。そのため、「得大智慧」である。そして、空性の智慧が開かれ、十方三世のあらゆる事柄を見通すことができるようになるのである。
 
経典曰く:「舍利子。是為菩薩摩訶薩禪定。」 
 
この種の禅定こそが、大菩薩の禅定と呼ばれるものである。そうでなければ、「野狐禅」、「世俗禅」、「外道禅」である。だから、先ほどの言葉にもあったように、仏法の中にも外道禅があるのである。なぜなら、仏法に基づいていないからである。もし今日、皆さんの中の誰であっても、出家者であろうと在家者であろうと、私と同じことができたとする。45度もある部屋を、涼しい状態に変えることができたなら、あなたは菩薩の禅定を得たのである。リンポチェが出家弟子に尋ねる。「あるか?」(出家弟子:ありません。)ないのか。私は、あなたがもっとよく修行できていると思っていた。だから、まだないのであれば、菩薩摩訶薩の禅定を得てはいないのである。これは仏経に説かれていることであり、私がわざと自慢しているのではない。仏が仏法を説く時は、一つ一つ段階を追って説明し、最後に「Conclusion」、つまり結論を示されるのである。
 
だから、これまで話してきたことを、皆さんがまだ何一つ実践できていなくても構わない。阿弥陀仏のもとへ行けば、必ずできるようになる。この世間では、あまりにも多くの世俗的な事柄に絡みつかれており、皆さんもそれを手放すことができない。毎日、重い荷物を背負っているのである。だから、今日、皆さんに仏経を説いているのは、今生で必ずこれを成し遂げなさいと皆さんにプレッシャーをかけるためではない。少なくとも阿頼耶識の中、第八意識の中に、この種子を植えておくのである。いつの日か修行するとき、それができるようになるためである。なぜ私は、閉関している部屋の中で、自分が火地獄にいて衆生の代わりに苦しみを受けていると観想することができるのか。それは過去世にこのような因を植えたからである。過去世に誰かが私に教えてくれたのであり、今生では法王が私の修行の門を開いてくださった。そのため、今生において過去に積み重ねたものがすべて現れてきたのである。

当初、法王が来られた時、私は法王に会わなかった。そうしていれば、私はずっと安逸に過ごしていたであろう。しかし、なぜか私は法王に会うことになった。その頃の私は、ただお金を寄付していただけであった。三十数年前の十万元といえば、かなり大きな金額であったであろう。私は「会わなくていい、会わなくていい」と言っていた。しかし、親しい友人が「会ってみなさい、会ってみなさい」と言うのである。そして会ったところ、法王に引っ掛けられてしまい、もう逃げられなくなった。だから、因縁が熟せば、たとえ会いたくなくても、誰かがあなたを会わせるのである。たとえ得たくなくても、誰かがあなたに得させるのである。なぜなら、因縁が成熟したからである。 

今日、皆さんの因縁も成熟し、仏法を学び始めた。しかし、なぜまだ学び方がばらばらで、中途半端なのであろうか。それは、言うことを聞かないからである。誰もが仏法を通して安逸な生活を求めている。昨日も私は一人の人を叱った。もしかして、私のところでは供養があまりにも手軽にできるから、皆さんは仏法を重視していないのではないか。もし「仏法を求めるなら、私に百万元を渡しなさい」と言ったら、皆さんがどう修行するか見てみたいものである。絶対に毎日、最初から最後まで修行するであろう。なぜなら、お金を払ったからである。仏法を軽んじてはならない。この罪は非常に重い。上師から法を授けてもらったのに修行しない。帰依するとき、何と言ったのか。(大衆:懈怠です。)懈怠すると、どうなるのか。出家者、答えてみなさい。(出家者:上師の加持を得られなくなります。)まだ加持をするのか。そうではない。教導しなくなるのである。法を授けてもらったのに修行しない。懈怠する。そのような者には、もはや教導せず、同室せず、善事を与えることもしない。私はもう緩めているのである。

以前、仏寺のために募金をすると言った時も同じであった。寄付をするのが遅い弟子たちには、すぐに寄付を停止させた。なぜか。善事をするように言われても、すぐに行わず、待っているからである。それは、言うことを聞かず、上師を尊重せず、懈怠しているということである。仏寺に寄付しなさいと言ったが、一人いくら寄付しなさいと言ったのか。言っていない。それなのに、あれこれ考える。「本当にリンポチェは仏寺を建てるのか。それとも私たちのお金を使って何か別のことをするのか」と。今、もう一度言っておく。仏寺の基金会が設立された時から、その基金会のお金は私が寄付したものである。(史姓の弟子:はい。基金会の設立基金三千万元はリンポチェが寄付されました。)この場にいる皆さんの中で、誰が三千万元を寄付したのか。私は基金会を設立するために三千万元を寄付したのである。それ以外の数億については、もう言わないことにしよう。

私が基金会を設立したその一秒から、私は基金会のお金を一銭も使っていない。そこに住み、そこで食事をすることを除いては、である。私はきちんと区別している。だから、私が高級車に乗っていても、人から文句を言われる筋合いはない。自分のお金で買ったものであり、基金会のお金でも協会のお金でもないからである。本来なら、協会が私に一台車を用意するのも道理にかなっているであろう。(大衆:合理的です。)基金会が私に一台車を用意するのも道理にかなっているであろう。(大衆:合理的です。)私は受け取ったのか。(大衆:受け取っていません。)だから、また誰かが「リンポチェは高級車に乗っている」などと、でたらめを言ったとしても、私は衆生のお金を受け取っていないのである。では、「供養のお金を使った」と言うなら、それはある。皆さんが私に供養したお金で車を一台買ったのであれば、皆さんもその福報を分かち合うことになるのである。(大衆:ありがとうございます、リンポチェ。)感謝しなくてよい。私が乗っているのはスーパーカーなので、そんなにたくさんの人を乗せることはできない(大衆笑)。しかも、皆さんも怖くて乗れないであろう。心臓が耐えられないからである。

今日ここまで話して、最後に一つ結論を言おう。このように禅定を修行しなければ、それはすべて菩薩摩訶薩の禅定ではない。「外道禅」、「野狐禅」、「枯木禅」なのである。だから経典を読む時は、仏が最後に何と言っているのかを見なければならない。その最後の一言こそが、その経全体の結論なのである。仏はこれほど多くのことを説かれているが、それは皆さんにどのように実践すべきかを、絶えず説明しているのである。釈迦牟尼仏の心は非常に鋭い。最も核心となるところまで、すべて説き明かしている。私たち一般の人間には言葉にできないところまで、すべて私たちに教えてくださっているのである。後世に修行する人々に、「仏経に説かれている境地に従って修行すれば間違いない」と教えているのである。今日、私が皆さんにもう一度説明しているのも、皆さんへの戒めである。自分自身の考えを持ってはならない。自分なりの説や自分自身の意見によって仏法を修行してはならないのである。「観音菩薩の法を求めて、自分の身体を健康にしてもらいたい」と考える人がいる。私はそれを聞いて叱った。観音菩薩は誰の弟子なのか。(大衆:阿弥陀仏です。)では、観音菩薩は私たちをどこへ連れて行ってくださるのか。(大衆:浄土です。)

『普門品』では、観音菩薩が私たちの世間的なさまざまな問題を解決してくださると説かれている。しかし、重点はどこにあるのか。あなたが往生を願うならば、その時に観音菩薩が来て助けてくださるのである。ただ一つのことだけを求めても、観音菩薩は来ない。これは私自身の修行から得た経験である。もし毎日、一つ一つの言葉、一つ一つの修行、一つ一つの礼拝、一つ一つの禅定を、すべて阿弥陀仏の浄土へ回向しているのであれば、観音菩薩に願えば、必ず相応するのである。しかし、「私の妻を死なせないでください。私が先に死にますから、妻を死なせないでください」と願ったとしても、絶対に相応しない。なぜなら、それは阿弥陀仏のもとへ行くこととは関係がないからである。「私は仏法を学んで、自分自身が楽しくなるために来た」と言うのであれば、来ないほうがよい。ここでは、あなたを楽しくしてくれるわけではないからである。なぜか。ここで私が教えているのは、自分がどこで苦しんでいるのかを、はっきり見つめることである。自分が受け入れられる苦、自分で対処できる苦を理解してこそ、その先に永遠の喜びを得ることができるのである。今世の数十年間だけの楽しみではない。その数十年だけでは足りないのである。

今日、この禅定について話しているのは、皆さんに「必ずできるようになりなさい」とプレッシャーをかけるためではない。ただ、釈迦牟尼仏が仏法を説く時には、これほど明確で、これほど鋭く、そしてこれほどはっきりと分析して説かれているということを、皆さんに伝えているのである。あなたがこのようにできて初めて、このようなものだと言える。できていないのであれば、自分を菩薩だなどと言ってはならない。口にすることさえできないのである。たとえ菩薩戒を受けていたとしても、そう言ってはならない。なぜなら、実際にはできていないからである。私はできていても、自分が菩薩だとは言わない。しかし、少なくとも私は、本当に実践してきたのである。私は大雪山で、氷点下10度の中、三か月以上閉関修行をした。その時は旅行用の寝袋を一つ掛けていただけである。どうやって過ごすのか。普通の人間が過ごせるような生活ではない。その年に閉関した時、私は60歳であった。栄養のあるものも何もなかった。白い麺を一杯、白湯を一杯、それだけを一日に二食食べていた。今の皆さん出家者は、あまりにも快適すぎて、修行者らしくない。安逸な生活を送りながら、あれこれ考え、自分に都合のよいことばかりをたくさん考えている。それなら、なぜ出家したのか。身体を無駄にしているだけである。私を見習いなさい。私は在家であるが、本当に何もかも捨てて修行することのできる人間である。命さえも捨てることができる。皆さんもやってみればよい。

今日、修行することができるというのは、口先だけで言うことでは絶対にない。実際に、一歩一歩、着実に実践していかなければならないのである。うまくできているかどうかを決めるのは、あなた自身ではない。自分の感覚でもない。何か良いものが現れて、自分に見えたからということでもない。それらはすべて間違いである。ただ努力し、絶えず精進して実践し続けるのであれば、いつか必ず変わる時が来る。必ず転じ、必ず変化するのである。ただ、それがいつになるかは時間の問題である。その時間を決めるのは仏菩薩でもなく、あなたがどれほど修行したかによって仏菩薩が助けてくれるかどうかが決まるわけでもない。それはあなた自身の因果であり、業力なのである。生々世々から持ってきた業力と、その因を、もしきちんと処理できていなければ、どうして良い方向に変わることができるのであろうか。しかし、私たちは仏法を学んでいるからこそ、確信を持つことができる。絶えず修行し続けるならば、すべての悪い因、悪い果は、いつか必ずすべて清算される。そして、現れてくるものはすべて善となり、自然と永遠の楽を得ることができるのである。それは、願い求める必要さえない。すべてはあなた自身の決心次第である。

私たちは仕事をしなければならない。結婚もしなければならない。勉強もしなければならない。これらはすべて世俗の人間として行うことであり、ただ人に見せるためのものでもある。しかし、自分は修行していると言うのであれば、単に仏菩薩に加護してもらって、良い生活を送れるようにしてもらうということではない。必ず段階を踏んで、一歩一歩実践していかなければならない。阿弥陀仏のもとへ行くことでさえ、一歩一歩実践する必要があるのであり、すぐに結果が現れるものではない。突然奇跡が起こり、すぐに望んだ結果が与えられるということはない。そのようなことは起こらないのである。だから、ここまで話したところで、皆さんには家に帰ってから、よく考えてもらいたい。自分の時間を、いつまでも無駄にし続けてはならない。では、護法を修めよう。

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2026 年 09 月 02 日 更新