尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年07月12日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによる『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」のご開示
リンポチェは法座にお着きになると、鈴を鳴らしながら『百字明呪』を唱えられた。続いて、リンポチェは出家衆に指示され、参会者一同を先導して、帰依発心、四無量心、七支供養、伝法祈請、『随念三宝経』および『八聖吉祥祈祷文』を唱和した。
続いて、リンポチェは長時間にわたり六字大明呪を唱えられた。リンポチェの尊身および壇城は金色の光を放ち、会場には妙なる香りが立ち込め、大地が震動した。参会者一同は全身が熱くなるのを感じ、乱れていた心はたちまち静まり、リンポチェの殊勝にして清浄なる仏法の教えを、恭敬の心をもって拝聴することができた。
仏典曰く:「若無所住則無間斷。若無間斷則無虛作。」
「無所住」ということは、一般に仏法を学ぶ人にとっては、とても理解しにくく、よく分からない。『金剛経』には、「無所住而生其心」とはっきり説かれている。考え方としては、もし菩薩の果位、さらには仏の果位まで修めたとしても、菩薩にはまだ少しだけ「住」がある。衆生を利益し、衆生を助けなければならないからである。しかし仏には、その考えさえない。では、「無所住而生其心」とは、どのような心なのだろうか。それは菩提心であり、慈悲心であって、一般の世俗の人の心ではない。「若無所住則無間断」である。心が執着し、ある境地にとどまり、止まってしまえば、例えばなぜ阿羅漢が成仏しても最高で辟支仏までなのか。それは、「私は禅定したい、私は入定したい」というところに止まり続けるからである。そのため、「定」
の境地にとどまり、菩提心も、功徳も、慈悲心も途切れてしまう。そうなると、一人の凡夫から一気に菩薩まで修め、そのまま仏となることはできない。
「無所住則無間断」である。私たちが衆生を利益しようとする心には、途切れがあってはならない。しかし、必ずある特定の衆生を助けなければならないと思うのであれば、それは「有所住」である。例えば、野良動物を助けることをとても好む人がいるが、それは「有所住」であり、特定の対象にとどまっているのである。菩薩は縁に随って衆生を利益する。縁が生じれば助けるのであって、自分が好きか嫌いか、受け入れられるか受け入れられないかによって選ぶのではない。もちろん、菩薩が衆生を利益するときも、その衆生の因果を見て行うのであり、自分の能力の範囲内で、自分の好きなことを選んで行うのではない。
「若無間断則無虚作」である。菩提心と慈悲心に途切れがなければ、行うことはすべて真実であり、虚しいものではない。真実とは、真に衆生を利益することであって、少しばかりの名声や利益のために取り繕って行うことではない。本当は話すつもりはなかったが、ここで少し触れておこう。例えば、私は苗栗に生活に苦しんでいる人が大勢いることを知っている。しかし、一軒一軒訪ねて助けるだけの力はない。そこで、県政府に一定の金額を託し、支援を必要とする人がいれば、私に代わってその人たちを助けてもらうようお願いした。県政府からは二度報告を受けたが、支援した金額はいずれも一万、二万元ほどで、亡くなった方の葬儀費用がない家庭や、亡くなった後に家族の面倒を見る人がいないケースなどであった。あなた方が世間の苦しみと言っていることが、実際に数多く起きているのである。
もし私自身が探しに行けと言われても、見つけることはできない。そこまでの縁が私にはないからである。多くの人は何か困ることがあると、政府の福祉部門などに相談する。しかし、中には条件が合わず、政府の補助を受けられないケースもある。そこで私は特別に別枠の資金を提供し、そのような人たちのために使ってもらっている。毎回報告を見ると、支援額は決して多くなく、一万、二万、三万元ほどである。その用途は、葬儀費用、治療費、食事をするお金がない人、世話をしてくれる人がいない人などへの支援である。また、私は台北市にも一筆の寄付をした。それも、政府の法令では補助金を支給できない特定の対象者がいるからである。私がその資金を提供することで、多くの支援を必要としている子どもたちを助けることができるようになった。このような話をするのは、自分が善行をしていることをあなた方に伝えたいからではない。善行は必ずしも名を知られる必要はなく、相手に自分が誰であるかを知ってもらう必要もない。信頼できる機関を通じることで、私たち自身には縁がなく直接助けることのできない衆生を助けることができるのである。(尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの社会公益慈善寄付)
「若無所住」である。だから、特定の誰かを助けようとする必要はない。例えば、最近、皆さんご存じの、目の見えない五度の歌王(最優秀男性歌手賞を受賞した)となった方が、少し前に私たちのコンサートで歌ってくださった。私は、あれは私に顔を立ててくださったのだと分かっている。本来なら来る必要はなかったからである。その方が初めて私のコンサートに来てくださった時から、私はいつも「視覚障害者のための団体で、私がお手伝いできるところはありませんか」と尋ねている。そして毎回、七桁の金額を寄付している。私は直接聞きに行くことはなく、その方に尋ねてもらうようお願いするだけである。そうすると、人々が知るのはその方であり、私はお金を出すだけで、その方が名を知られる。その結果、多くの善い因縁が生まれるのである。このような話をするのは、自分がどれほど立派かを自慢したいからではない。私たちは常に善いことを行い、人を助ける準備をしていなければならない。しかし、それには因縁が必要であり、因縁がなければ、やろうと思ってもできない。私たちは善縁を多く結ぶべきであって、毎日道端に立ってお金を配ったり、「この店では無料で食事を提供します」としたりすることではない。そのようなことをすると、最後には争いになってしまう。実際、今では無料で食事を提供しなくなった店がたくさんある。結局は揉め事になり、さまざまな思いもよらない問題が起きてしまうからである。
現在のような比較的混乱した社会では、善行を行うにも少し智慧が必要である。あなた方が供養したお金の多くは、リンポチェがすでに他へ回し、善いことのために使っている。だから、世の中には食べる物にも困っている人がいても、私の帰依弟子たちは皆、食べていくことができているのである。たとえ今日、あなたが私に千元を供養したとしても、そのお金の多くは、私はすでに他へ回し、善いことのために使っているかもしれない。
仏典曰く:「若無虛作則無迷亂。」
その意味は、何かをしようとしてあれこれ考えたり、そこに心をとどめたりするのではないということである。そうすれば、迷ったり乱れたりすることはない。例えば、善行をしたにもかかわらず、自分がいったい何をしたのかも分からず、勝手なことを言い、むやみに行動してしまう人がいる。これを「迷乱」というのである。
仏典曰く:「若無迷亂則無我我所。」
名声や利益に迷い込み、そのために清らかな心が乱れてしまうのではない。「迷乱」しなければ、「我」も「我所」もなくなり、「我」という存在や、「我」が現れることに執着することもなくなる。例えば、私は苗栗県に対してすでに二十数件の寄付を行っているが、一度も表に出たことはないし、感謝される必要もない。このような布施こそが、無漏の布施なのである。壇上に上がって拍手を受け、「今日からあなたはこの色のチャイナドレスを着ることができます」と言われるようなものは、虚名にすぎない。虚名があれば「有所住」となり、「有所住」であれば、さらに大きな名声や、さらに多くの名声を求めるようになる。そのような善は、有漏の善である。「有漏」とはどういう意味か。あなた方は多くの善を行っても、なお輪廻しなければならない。私も多くの善を行っているが、私の善は功徳となる。一方、あなた方の善は福報となるのである。もちろん、善を行わないよりははるかによい。何もしないことのほうが、さらに悪いのである。
しかし、私たちは仏法を学ぶ者である以上、もはや輪廻したくないと願っている。だから、私たちのあらゆる行い、あらゆる考え、あらゆる言葉は、すべて二度と輪廻しないためのものでなければならない。輪廻しないためには、智慧が必要であり、空性を理解することが必要であり、さらに上師の助けが必要である。上師は何をするのか。上師は、ちょうどピアノ調律師のようなものである。もし弦が張りすぎていれば切れてしまい、緩みすぎていれば音は出ない。その調整をしてくれるのが上師なのである。例えば、林姓の弟子はピアノを弾く。しかし、調律師がピアノを調律しなければ、美しい音は出ない。彼女は演奏は上手でも、自分で調律することはできず、調律してくれる人が必要なのである。だから、自分一人の力で修行を成就できると思ってはならない。また、リンポチェはあなた方を叱ることが好きだから、あるいは干渉することが好きだからそうしているのだ、と思ってもならない。なぜなら、あなた方には修行の経験がないからである。あなた方の経験は、他人から聞いたもの、本で読んだもの、あるいは自分で勝手にそう思い込んでいるものにすぎず、真に修行によって得られた経験ではない。修行の経験がなければ、あなた方は作為的になる。作為は虚名につながり、虚名は偏りを生み、その結果、さまざまな問題が起こるのである。
だから、上師はあなたの弦を調整するのである。張りすぎてもいけないし、緩みすぎてもいけない。いつ調整するかは、あなたには分からない。だから、叱ることも調整であり、あなたに会わないことも調整であり、罰を与えることも調整なのである。なぜなら、あなたの弦が緩んでしまい、言うことを聞かなくなっているからである。多くの人は、「仏法を学ぶとは、一日中叱られることなのか」と思っている。もちろんである。叱られなければ、何を学ぶというのか。仏法を学ぶ者は慈悲であるべきだから、あなたを叱ってはいけないと思ってはならない。もちろん、あなたがただの信者であるなら、私は決して叱らない。しかし、帰依して弟子になるのであれば、私は必ず叱る。仏典にも、釈迦牟尼仏は常に「呵責弟子」と説かれている。李姓の弟子よ、「呵責」とはどういう意味か説明してみなさい。(弟子が答える。「ご報告いたします、リンポチェ。『呵責』とは、大声で厳しく叱責するという意味です。」)これは仏典に書かれていることであって、私が言っているのではない。だから、私がいつも丁寧で穏やかに、いかにも教養のある人のように話すことを望むのであれば、私の弟子にはならないほうがよい。仏教では、私は弟子を呵責しなければならない。法王でさえ、公の場で、私の教え方は正しく、そのように行うべきであるとおっしゃっている。だから、呵責を受け入れられない人、自分の欠点を指摘されることを受け入れられない人は、私に帰依しないほうがよい。私に帰依した以上、私はあなた方を教え、そして調整する責任があるのである。
仏典曰く:「若無我我所則無諍論。」
その意味は、「我」という存在も、「我所」という存在もなくなれば、「諍論」はなくなる、ということである。チベットには、僧侶たちが経典の意味について公の場で大きな声で論じ合う「問答(弁経)」がある。しかし、それは「弁」であって、「諍」ではない。ここでいう「諍論」とは、例えば僧団の中でよく見られるように、「相手は間違っている」「そのようにすべきではない」と互いに言い争うことである。修行において「無我」を体得するとき、「無我」とは、自分という個体が存在しなくなるという意味ではない。心の中が「八風吹不動」(八つの風に吹かれても、心が少しも動じないことをいう)となり、貪りも怒りもなくなり、あらゆるがなくなった状態をいうのである。「我所」とは、私が存在しているこの身体のことである。そのような執着がなくなれば、自然と人と「諍論」することもなくなる。例えば、私がチベット密教を学び始めた頃、さらには弟子を受け入れ始め、リンポチェとなった頃、多くの人がしばしば私についてさまざまなことを言っていた。しかし、私は彼らと「諍論」することはなかった。彼らは彼らの言いたいことを言い、さらには法王のところまで訴える人もいた。それでも私は、自分のなすべきことを着実に行うだけでよかったのである。
仏典曰く:「若無諍論是沙門法。則喻彼虛空亦如平掌。」
出家者同士であれ、在家の弟子同士であれ、もし「諍論」がなければ、それこそが「沙門の法」である。「諍論」とは、仏法のためではなく、自分自身の感情や個人的な事柄、自分の好き嫌いのために人と争うことである。「沙門」とは出家者のことである。出家者は、人と諍論してはならない。だから、私の出家弟子で諍論をする者がいれば、私は直ちに罰し、直ちに追い出す。そのようなことは、あってはならないからである。ここまで話したところで、リンポチェは一人の出家弟子を名指しして開示された。「分かったか。なぜ、お前はそんなにも『自分が正しく、相手が間違っている』と言いたがるのだ。すでに出家の姿を現しているのに、それでも人と諍論するのか。相手が仏法に基づき、上師の指示に従って物事を行っているのであれば、そのやり方がお前ほど優れていなくても、お前ほど便利でなくても、仏法に背いているわけではない。では、なぜ諍論する必要があるのだ。」私はこの一言が説かれるのを、ずっと待っていた。そして今日、ようやくこの言葉が現れたのである。
「則喻彼虛空亦如平掌」とは、一人の人が他人と諍論しなくなったとき、その心は静まり返り、あたかも虚空が平らであるように、また手のひらが平らであるようになる、というたとえである。そこには山も窪みもなく、心はただ平静である。たとえ人から批判されたとしても、「無我」「無我所」を学んでいれば、その批判に対しては、「これは自分の業力によるものだ」と受け止めるだけである。業がなければ、どうして人から批判されることがあるだろうか。それは、すでに自分に業があるからなのである。釈迦牟尼仏でさえ人々から批判されたのである。まして私たちのような凡夫が批判されるのは、なおさら当然のことである。では、誰かが仏法について誤ったことを説いているのを聞いたとしても、そのままにしておけばよいのだろうか。法本にも説かれているように、そのようなことを耳にしたなら、まず上師に報告しなさい。そして、どのように対処すべきかは上師が判断するのであって、自分で飛び出して行き、人と口論してはならない。仏教徒とは、事を恐れて何でも引き下がる人間ではない。私自身の性格で言えば、私は何も恐れない。ただ因果だけを恐れている。しかし、物事を処理するのに、諍論という方法を用いてはならない。道理を説くべきことであれば、道理をもって相手に語ればよいのである。自分が勝たなければならないと思わなくなれば、おのずと語る言葉には道理が備わり、相手も心を静めて耳を傾けるようになるのである。
仏典曰く:「若喻虛空亦如平掌。彼則不墮欲界色界及無色界。若一切處而無所墮。則無形色及無顯色亦無分位。」
この数句は、菩薩道を修める者にとって、さらには輪廻からの解脱を願う者にとっても、極めて重要な教えである。その意味は、「必ずそのようにできなければならない」ということではない。そうではなく、まずそのような考え方を持つことが大切なのである。人と諍論しなければ、欲界・色界・無色界の三界に流されることはない。「若一切処而無所墮、則無形色」とは、なぜ私たちが三界を輪廻し続けるのかというと、諍論するからである、という意味である。諍論とは、単に正しいか間違っているかを争うことだけではない。何事についても、人と論争しなければ気が済まないことまで含まれる。「諍」とは、必ず勝とうとすることであり、決して相手に負けたくないということである。勝気な人ほど、自分は正しく、相手は必ず間違っていると思い込む。そのように諍論を続けていると、その心は欲界・色界・無色界という三界と結びつき、輪廻の関係を作り続けるのである。「若一切処而無所墮、則無形色」とは、諍論しようという心がなくなれば、その諍論によって生じる欲界・色界・無色界天の果報に引きずられて「堕」ちることはなくなる、という意味である。ここでいう「堕」とは、すなわち輪廻することを指している。
もし輪廻しなければ、「無形色」となる。実際のところ、仏・菩薩には本来、形も色もない。私たちが目にしているあらゆる仏像は、すべて諸仏・諸菩薩が私たちの心に応じて化現された姿なのである。私たちは本来のお姿を知らないからである。そのため、釈迦牟尼仏には釈迦牟尼仏のお姿があり、金剛薩埵には金剛薩埵のお姿がある。しかし、法界においては、諸仏・諸菩薩にはすべて形もなく、色もなく、ただ極めて強い光として存在しているだけである。もし私たちが色相を追い求めれば、欲界天・色界天・無色界天へと堕ちてしまう。たとえ四禅天まで修めたとしても、なお無色界天の中にある。そこには色はないが、なお「形」は存在している。なぜなら、自分が定の境地にとどまっているかどうかを、なお気にかけているからである。したがって、「一切處而無所墮,則無形色及無顯色亦無分位」というのである。
仏典曰く:「若無形色無顯色及無分位。彼則如是隨順覺悟。」
この数句は、皆に説明しても理解するのは難しいので、ここでは無理にでも少し説明しておこう。あなたが身・口・意や、貪・瞋・痴・慢・疑に従わなければ、輪廻に堕ちることはない。「無形」とは、形がないということである。ここでいう「色」は、色彩のことではなく、形や目に見える姿、外見のことを指している。「無顕色」とは、外に何らかの姿を現すことさえないということである。「及無分位」とは、自分がどの果位にあり、どの位置にいるかという区別さえないという意味である。「若無形色無顕色及無分位、彼則如是随順覚悟」とは、自分に形や姿があるかどうかを気にせず、自分がどのような姿として現れているかにも執着せず、さらに自分がどの果位にいるかということにも執着しなければ、その人は「如是随順覚悟」ということである。このように修行を続けていけば、「如是」のように、その修行の方法に従って、一歩一歩着実に進み、やがて覚悟へと至るのである。
例えば、『宝積経』の前の箇所にも、「座る位置を争ってはならない」と説かれている。法会の場では、多くの人が、特に出家者や、いわゆるリンポチェたちまでもが、「どこに座るか」という席次を争うことがある。釈迦牟尼仏は、座る位置を争う者は、決して輪廻という苦海から離れることはできないと説かれている。ここでも同じことが説かれている。自分がどの果位にいるかを気にしている。本来、果位とは、「私はどのような存在である」と人に示すためのものではない。果位とは、修行によってどれだけのパワーと能力を備え、その段階に応じて、どのような衆生を利益することができるかを表すものなのである。例えば、多くの人は、たくさん真言を唱えなければ問題を解決できないと思っている。しかし、必ずしもそうではない。勝義菩提心を修め、心のすべてがただ衆生を利益することだけに向けられているならば、どれほど大きな問題であっても、必ず解決することができるのである。
最近起きたこの台風も、このようにして解決したのである。それは、私が台風を打ち砕いたり、追い払ったりしたということではない。なぜなら、台風が来るとき、その中には多くの衆生がいるからである。龍もいれば、鬼もおり、魚もいる。そこには多くの哀れな衆生がいるのである。私たちは菩薩道を修めているのであって、彼らを対治するのではない。彼らに与え、その瞋恚の心や復讐しようとする心が消え、輪廻という苦海から離れられるよう願うのである。そうすれば、復讐しようとする力も自然に消えていく。それを打ち砕いたり、散らしたりするのではない。それは私の方法ではなく、菩薩道の方法でもない。菩薩道を行ずるうえでは、もちろん「誅」の法もある。「誅」とは殺すという意味である。この方法を用いることができないわけではないが、教派全体、あるいは仏教全体に関わることでない限り、用いることはない。普段はほとんど用いず、通常は「息法」によって衆生を助けるのである。したがって、今日、もしこのような方法で修法していないのであれば、何をするにも有所住となる。なぜなら、何らかの見返りを得ようと望んでいるからである。このような方法で修行すれば、心念がひとたび動いたとき、それが衆生のためであるなら、どのような問題であっても対処でき、解決することができるのである。
ここでいう「解決する」とは、自分自身の問題を解決するという意味ではない。例えば、台風は収まったとしても、台風そのものが消えてしまったわけではない。ただ、その破壊する力がなくなっただけである。なぜ破壊する力がなくなったのか。それは、恨みも憎しみもなくなり、復讐しようとする心がなくなったからである。だから、多くの人はいろいろな話をするが、リンポチェはそれについて論じない。ただ皆に伝えたいのは、あなた方は常に「衆生を度したい」と言っているが、それは何を根拠にそう言うのか、ということである。ただ自分がそう思っているからなのか。菩提心を修めておらず、「無所住」も修めていないのであれば、衆生を度する資格はない。信じないのであれば、次に台風が来たとき、自分で試してみなさい。(会場笑)そうすれば、何が起こるか分かるだろう。また、「自分は衆生を度することを発願した」と言う人もいる。その願自体は、とても良い願である。しかし、その願を何によって実現するのか。その願があるだけで実現できると思ってはならない。願を持つことは大変良いことである。しかし、その願は実際に成就させなければならない。そのためには、多くを学び、多くを修めなければならず、その道のりは非常に大きく、そして長い過程なのである。もしその過程を経ることなく、「亡くなった人のために助念をすれば、その人は阿弥陀仏のもとへ往生できる」と思っているのであれば、そのようなことはない。本当にないのである。私を信じなさい。
なぜなら、『宝積経』に説かれているように、このような境地に至っていないのであれば、あなたが唱えるものには、なお色があり、形があり、住するところがあるからである。そのような状態で、どうして衆生を済度することができるだろうか。先ほど私が六字大明呪を唱えたとき、とても熱かっただろう。(会場答:はい。)耐えられないほど熱かっただろう。香りもしたか。(会場答:はい。)私は香水などつけていない。すでに二十年以上、石鹸や香りのある石鹸を使って体を洗っていない。それでは、あの香りはどこから来たのか。それは、私が「無所住」であるからである。私が無所住であり、菩薩もまた無所住であるから、菩薩が来られれば、菩薩には自然に香りがあり、菩薩と私とが相応することによって、その香りが現れたのである。では、なぜ皆にその香りを嗅がせるのか。それは、あなた方の乱れた心を少し止め、少し静め、仏法を聞き入れられるようにするためである。あなた方があれこれ妄想し、自分だけが正しいと思い込み、今日ここへ来て、自分を助けてくれる何らかの法を聞こうとしているのであれば、それはすべて間違っている。
あなた方はいつも、「衆生を度したい」と発願し、さらには「自分のためにも役に立つ」と言っている。では、衆生にとってはどうなのか。仏法を学ぶとは、自分にはまだどのような欠点があるのか、どこがまだできていないのか、何がまだ転じられていないのかを見つめることである。もし、まだできておらず、まだ転じられていないのであれば、あなた方はすべての衆生と何ら変わるところはない。そのようであれば、何をもって衆生を度することができるというのか。また、このように修行しているからといって、人より優れているということでもない。そうではなく、この境地まで修め、無所住となり、自分の命さえ惜しまなくなって初めて、衆生を度することができるのである。あれほど大きな台風を、どうやって度するというのか。口で「ふっ」と息を吹きかけて何とかするのか。(会場笑)十数級もの強風を、私が吹き返せるわけがない。頼るのは、慈悲と菩提心なのである。衆生は皆、菩提心と慈悲心を感じ取ることができる。あなた方は、まだ慈悲も、菩提心も修めていないのだから、まずは教えに従い、一歩一歩、順を追って修行していきなさい。
私たちは末法の時代に生まれており、大きな根器や優れた根器を備えた人が現れる時代ではない。六祖慧能大師のように、文字も読めないのに、一句を聞いただけですぐに一首の偈を作ることができる、そのような人はいない。あなた方もそうではないし、私も含めて、皆そうではない。そうである以上、私たちは順序を守り、一歩一歩進んでいくしかないのである。上師から呵責を受けたときには、固く決意し、本気で努力して、自分のそのような過ちを二度と繰り返さないようにしなければならない。一度くらい間違えても構わないなどと思ってはならない。一度間違えれば、一度間違えたことによる果報がある。なぜなら、因果とは極めて重大なものであり、一秒一秒、絶えず生じ続けているものだからである。今日、水を一口飲むことも、ご飯を一口食べることも、一言話すことも、すべて果を生じる。もし因果が存在しなければ、この宇宙はとっくに乱れてしまっている。仏法の特徴とは、私たちに「因果」があることを教え、因果を忘れてはならないと戒め、因果を信じるように教えることである。決して、因果を信じないでいてはならない。
「因果」は釈迦牟尼仏が作り出したものではない。それは自然の法則であり、宇宙の法則なのである。私たちは因果を受け入れず、「お経を唱えさえすれば、どんなことでも改まり、すべて良くなる」と思っている。これは因果を信じていないということである。一つ悪いことをしたなら、少なくとも十の善いことを行って、初めてその悪い行いの果報が現れるのを抑えることができる。「そんなに重大なのですか」と思うかもしれない。その通りである。それほど重大なのである。一つ例を挙げよう。一棟の高層ビルを建てるには、とても長い時間がかかる。しかし、一棟の高層ビルを壊すのは、あっという間である。それと同じように、この一生に人身を得ることができたのは、多くの生にわたる修行によって積み重ねてきた結果なのである。人の身を得たのは、修行するためである。しかし、あなた方はどのように修行すべきかを忘れてしまい、自分で自分のその大きな建物を壊し続けている。悪いことを一つするたびに、それはまるで、その建物の壁を一枚壊すようなものである。壊しては壊し、壊しては壊し続け、最後には身体が耐えられなくなり、その一瞬に命は終わってしまうのである。
なぜ、病気になっても治らない人がいるのか。なぜ、病気になっても治る人がいるのか。さらには、治らなくても苦しまずに過ごせる人がいるのか。それは、その人がすでに転じているからである。悪から善へと転じたのである。しかし、その果報は依然として存在している。果報が完全に消えてなくなることはあり得ない。けれども、その果報が残っていたとしても、その人の修行における慧命を損なうことはない。だから、皆が仏法を学び始めたばかりの頃は、加護を求め、無事を求めることは、決して悪いことではない。しかし、それはあくまでも最初の段階である。帰依して何年も経っているにもかかわらず、なお加護や無事ばかりを求めているのであれば、それは時間を無駄にしていることになる。何の時間を無駄にしているのか。本来なら、その時間を使って真剣に修行すべきなのである。あなたが修行を続けさえすれば、自然と自らを守り、自らを護ることができるようになるのである。
もしあなた方が、「リンポチェはただ自分たちを守ってくれる存在なのだから、その教えを聞かなくてもよい、仏法を学ばなくてもよい。リンポチェがおっしゃるように自分で修行する必要はなく、自分はただ平穏な日々を過ごせればそれでよい」と考えているのであれば、それなら、なぜ帰依するのか。そのようであれば、帰依する必要などない。仏法を学ぶのは、このわずか数十年の人生のために努力するためではない。だからこそ、この数句の教えは、修行する者は必ずこのような心構えを持ち、常にこの方向へ向かって修めていかなければならない、ということを私たちに教えているのである。もしあなた方が、「悟りたい」「覚悟したい」と願い続けながら、前に説いた「無我」「無我所」を実践していないのであれば、どうして覚悟することができるだろうか。覚悟することなど、決してできないのである。
「無我」とは何か。この身体は仮のものである。では、「仮」とはどういう意味なのか。この身体とは、あらゆる善業と悪業によって生じた肉体なのである。また、「我」という名前も仮のものである。もしこの一生に名前がなく、生まれた年月日も、両親が誰かも分からず、誰一人としてあなたがどこに住んでいるかも知らないとしたら、その「我」とは、一体誰なのか。「我」など存在しないのである。よく考えてみなさい。私たちのいう「私」とは、ただ多くの文字や数字を組み合わせて、「これが私だ」としているにすぎない。そのようなものをすべて取り去ってしまえば、もっと簡単に言えば、突然ある国へ行き、突然交通事故に遭って記憶を失い、何一つ思い出せず、その国にもあなたの記録が一切残っていないとしたら、そのとき、あなたは誰なのか。「私」は存在しないのである。したがって、「無我」の本当の意味とは、私たちも衆生も等しく、清浄なる仏性を具えているということである。
もし今日に至るまで、あなた方が「私」があることに執着し、「私が修行している」「私が仏法を学んでいる」と思い続けているのであれば、それは永遠に自分のためでしかない。だから、平等なる慈悲心を修めることは決してできないのである。慈悲心がなければ、過去世から今世に至るまで積み重ねてきた善業・悪業を、この一生で転じることはできない。たとえ具徳の上師から加持と加被を受け、一時的に果報がすぐには成熟しないようにしていただいたとしても、最後はやはり自分自身に頼らなければならない。ちょうど私が四十代のときに皮膚がんになったようなものである。私はまったく医者にはかからず、治療も受けず、仏菩薩に病気を治してくださいとも願わなかった。ただひたすら仏典に説かれているとおりに、そして法本に説かれているとおりに、絶えず修行を続けたのである。自分自身の多くのことを改め続け、絶えずあらゆる福徳資糧を積み重ねていった。そうして自然に、その皮膚がんは治ったのである。
多くの人は、結局のところ、自分のことばかり心配している。そして今、あなた方が仏法を学ぶ姿勢には、二つの極端がある。一つは、涙を流して泣き続け、「仏菩薩よ、どうか私を救ってください」と願うこと。もう一つは、「仕方がない。この病気になったのだから、死ぬなら死ぬしかない」と考えること。これは消極的な考え方である。私は以前、「病為道用(病を道に用いる)」と話したことがある。病気になったなら、なおさら修行しなければならない。なぜなら、それによって、自分がこれまで数多くの悪業を積んできたことを知ることができるからである。また、何か良くないことが起きたなら、なおさら修行しなければならない。それは、自分が悪業にまとわりつかれていることを知ることができるからである。もしこの一生で修行しなければ、その悪業は依然としてあなたにまとわりつき、ついには地獄へ堕ちるまで離れることはない。多くの人は、帰依すれば怨親債主が自分を訪ねてこないと思っている。その通りである。皈依した後は、怨親債主はあなたに近づくことはできない。しかし、帰依した後も修行をしようとせず、死を迎える直前になって心が乱れ、上師を信じなくなり、仏法も信じなくなったなら、その瞬間に怨親債主はすぐにやって来る。何十年もの間、何事もなかったからといって安心してはならない。本当に問題が起こるのは、死ぬ直前なのである。私はそのような例をあまりにも多く見てきた。だからこそ、十分な準備をしておかなければならないのである。
「病為道用(病を道に用いる)」とは、病気になったことによって、かえって自分が過去世から積み重ねてきた悪業を理解するということである。身・口・意による一切の起心動念は、すべて業であり、すべて罪なのである。「少し考えただけなのだから、何か問題があるのか」と思ってはならない。もちろん問題はある。そうでなければ、地蔵菩薩が『地蔵経』の中で、「起心動念皆是業皆是罪」と、これほど明確に説かれることはなかったであろう。では、「業」とは何の業なのか。善業と悪業である。「罪」とは何か。それは輪廻の罪であって、世間でいう犯罪の罪ではない。したがって、あなたが帰依弟子であるならば、思いどおりにならない出来事が起ころうと、病気になろうと、それらをすべて道に用いなければならない。つまり、自分にはなお悪業がまとわりついていることを知り、それゆえに、より一層決意を固め、この一生で真剣に精進して修行し、過去世から積み重ねてきた善業・悪業を、この一生のうちにすべて返し終え、二度と輪廻しないようにしなければならないのである。
もし決意を固めることなく、なお運任せにし、「医者に診てもらえば治る」と考えているのであれば、それは誤りである。釈迦牟尼仏は、病には三種類あると説かれた。一つは、医者が治すことのできる病。一つは、過去世に積んだ悪業によって生じた病であり、これは医者には治せない。もう一つは、この一生で積んだ悪業によって生じた病であり、これも医者には治せない。密教には病を治す方法があり、また、すべてのリンポチェには病を治す力があるとも説かれている。しかし、病を治すことは一時的なものである。これは仏典にも説かれており、また、ジッテン・サムゴンもそのように説かれている。リンポチェがあなたの病を治し、病気が治ったならば、あなたはなお一層精進して修行しなければならない。自分の願いがかなって病気が治った、自分がよく修行できたから治った、などと思ってはならない。それはあなたの修行が優れていたからではない。あなたのリンポチェがよく修行されているからなのである。リンポチェがあなたを助けるのは、あなたに修行を続けてもらいたいと願っているからである。もし、「病気は治った」「福報も得た」「もう何も起こらない」と思ってしまうなら、その病はほどなく再びやって来るのである。
ですから、釈迦牟尼仏は昔、このようなたとえを説かれた。病気が治った人でも、なお「臭い」が残っている、と。ちょうど、一つの部屋いっぱいに鮑が積まれていたようなものである。釈迦牟尼仏は「鮑」という言葉を使われた。ということは、数千年前のインドにも鮑があったということである。部屋いっぱいに鮑が置かれていて、その鮑をすべて運び出したとしても、その部屋にはなお臭いが残っている。鮑を食べたことのある人はいるかな。(会場から次々と手が挙がる)手を挙げても構わない。間違えたなら間違えたでいいではないか。そんなふうに、おそるおそる手を挙げて、「私には見えないだろう」などと思っているのか。私は見えていなくても、大勢の人が見ているのだ。なぜ鮑は、たくさんの煮汁で煮るのか。それは鮑がとても臭いからである。もし鮑を煮ずに瓶の中へ入れておき、その瓶を開けたら、その臭いにはとても耐えられない。だから釈迦牟尼仏は、一つの家の中にたくさんの鮑を置いておき、それをすべて運び出したとしても、その家にはなお臭いが残っているようなものだ、と説かれたのである。だからこそ、絶えず掃除をし、絶えず清め続けなければならない。そうして初めて、その臭いは少しずつ消えていくのである。
たとえば、あなたが病気になったとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェがその腫瘍を取り除いてくださったとしても、あなたの身体にはなお「臭い」が残っている。その後は、自分自身に頼るしかないのである。もし、「いいえ、私はやはりリンポチェに頼ります」と思うのであれば、私は何度も言ってきたはずである。「助けるのは一度だけ」だと。そうではないか。(会場「はい。」)なぜ一度しか助けないのか。それは仏典が私に教えたことであり、またジッテン・サムゴンが私に教えたことでもある。何を教えられたのか。あなた方に災難や苦難があれば、リンポチェは助ける。しかし、それは一度だけである。その後、あなた自身が自分を助けようとしなければ、私はどうすることもできない。ちょうど、多くの人が、「気候が暖かくなったから台風がますます大型化している」と思っているようなものである。そうではない。衆生の殺業がますます重くなっているからなのである。昔は、漁網を一度下ろしても、せいぜい数十匹の魚が獲れる程度だった。しかし今は恐ろしい。一枚の大きな網を二隻の船で引けば、海の中の魚という魚が、すべて一網打尽にされてしまう。この殺業は、実に恐ろしいほど重いのである。だから今日お話ししたこの部分は、とても深い内容であり、簡単に理解できるものではない。しかし、あなた方は、この方向へ向かって修行していかなければならないのである。
それでもなお、すべてを自分のためだと考えている人がいる。たとえば、私の弟子の一人に、このようなことがあった。その人の母親は亡くなる前に、「この娘には財産を残してはいけない。この子は全部リンポチェに供養してしまうから」と言った。だから、その母親は亡くなる時、とても苦しんだのである。リンポチェは、あなた方の供養を必要としているわけではない。供養しようが、供養しなかろうが、私にとっては何の違いもない。ただ、あなたが供養することによって、初めてあなた自身の福報が生じるのである。もし供養しなければ、福報は得られない。このことは、私を信じなさい。リンポチェが今日、死にかけた人間から八十歳まで生きることができたのは、たくさんのお金があって、多くの供養をしたからではない。私は無所住をもって供養してきたからである。私は顕教を学び始めた頃から、ずっとそのようにしてきた。顕教の道場から求められれば供養し、求められなくても供養した。「いくら出そうか」と計算したり、損得をあれこれ考えたりすることは一度もなかった。ここまでさまざまなことを話してきたのは、これらはすべて、私たちが修行の初めに実践しなければならないことだからである。なぜ供養をするのか。それは、捨てることを学ぶためである。捨てることができてこそ、自分の「名」に対する執着もまた、捨てることができるのである。
リンポチェはこれほど多くの善事を行っているが、私はそれを公に話したことはない。あなた方が私の弟子だからこそ話すのであって、それ以外の人には誰にも話さない。たとえば、視覚障がい者への寄付である。私は毎年、多くの支援を続けている。また、ほかにも数多くのことをしているが、自分から話すことはない。これは、私がなすべきことだからである。修行者として、当然なすべきことであり、仏法を学ぶ者として、当然なすべきことなのである。誇るようなことではないし、名誉に思うようなことでもない。では、なぜこれほど多くのことをするのか。それは、自分自身をますます良くするためではない。より多くの衆生を助ける力を得るためなのである。もし私にその力がなければ、ほかのことは言うまでもなく、この台風一つだけでも、あなた方はその恐ろしさを思い知ることになるだろう。私は、いったい何のためにこれほど苦労しているのだろうか。たとえ台風が上陸したとしても、損失を被るのは私一人ではない。しかし、私はここに住み、この土地で暮らしているのだから、もちろん、この場所が平穏であり、人々が安心して生活し、それぞれの仕事に励むことができるよう願っている。私は以前から、あなた方にこう話してきた。法王が一日でも私に「行きなさい」とおっしゃらない限り、あなた方はまだ少し安心していてよい。しかし、もし法王が、「リンチェンドルジェ・リンポチェ、あなたは別の場所へ行きなさい。」とおっしゃったなら、その時は待っていなさい。何が起こるのか、私にも分からない。
仏典曰く:「若能如是隨順覺悟。彼則如是隨所覺悟。云何說此隨順覺悟及所覺悟。謂若了知彼極微法皆不可得。說此是為隨順覺悟及所覺悟。應當於此平等入解。即能成就菩薩摩訶薩希有之法。」
この数句は、一見するととても簡単なことのように思える。しかし、私たちが菩薩摩訶薩を成就しようとするならば、ここまで前に説いてきたこの一連の教えこそが心法なのである。つまり、このように実践しなければならないのであり、自分の心の在り方を根本から完全に改めなければならない。私がいつも言っているように、あなたが修行者であるならば、凡夫の心で物事を見たり、凡夫の考え方で物事を行ったりしてはならない。たとえば、今回台湾で大きな騒ぎとなった食用油の問題である。私の店では、そのような問題は起こらなかった。なぜか。それは、利益やコストを度外視して商売をしているからである。私は、「安いものに良いものはない」とまでは言わない。しかし、本当に良いものを人に提供しようと思うなら、自分自身の目でしっかり確認しなければならない。さらには、自分でも実際に食べてみて、初めて人に提供することができるのである。そうでなければ、あとになって次から次へと問題が起きることになる。今回、多くの有名ブランドまでがこの問題に巻き込まれた。それは、彼らがコスト計算ばかりしていたからなのである。
私はコストを度外視して物事をする人間であり、何よりもあなた方には良いものを食べてもらいたい。その程度のことで、私が惜しむとでも思っているのか。それはつまり、私もあなた方に布施をしているということである。それなのに、多くの弟子はなお私に細かいことを言う。「行かなくてもいいですよ。一食でこんなに高いなんて。外ならこんなにかかりません。」今なら分かっただろう。(会場「分かりました。」)リンポチェがあなた方からお金を儲けようとしているのではない。もし本当にあなた方からお金を儲けたいのであれば、一番簡単な方法は商売などしないことである。そうすれば赤字になることもなく、そのほうがよほど儲かる。これは自慢しているのではない。私のレストランは、政府の立入検査でも、一回で合格した。百八十項目以上に及ぶ検査を、一度ですべて通過したのである。そんなことが、簡単にできると思うか。(会場「簡単ではありません。」)あなた方の家の台所でさえ、そこまで清潔ではないだろう。(会場笑)
私はよく言う。なぜ女性というものは、ああいう不衛生なものを平気で使えるのだろうか、と。たとえば、私の店ではシャンプーをしているが、使うタオルはすべて使い捨てである。私は、普通のタオルを買ってきて、一度使い、それを洗って乾かし、また別のお客様に使うことを絶対に許さない。私は、それがとても気持ち悪いと思う。あなた方は気持ち悪いと思わないのか。今は私の店へ来ないでほしい。店には今、一人しかサービスをする人がいないから、その人を疲れさせてしまってはいけない。(会場笑)私はよく、「あなた方女性はみんな『噁(気持ち悪い)』という姓に変えたほうがいい」と冗談を言う。本当に気持ち悪いからである。それに、家でも自分で髪を洗うだろう。よく考えてみなさい。そのタオルがこれまで何に使われていたのか、あなた方には分からないではないか。なぜ私には分かるのか。昔、香港にいた頃、私の弟の義母が美容院を経営していて、そこでどのように処理しているのかを知っているからである。本当に清潔なタオルなど、どこにあるというのか。覚えておきなさい。使い捨てのタオルだけが、本当に清潔なのである。私はあなた方のお金を儲けたいのではない。だから、今は店へ来ないでほしい。店には一人しかおらず、その人ももう年を取っている。その人を働かせすぎて疲れさせてはいけない。(会場笑)
では、なぜ今日の私は、このように生きることができるのであろうか。私も以前は商売をしていた。しかし、仏法を学び続ける過程で、少しずつ理解するようになったのである。この一生においては、人が私に借りがあるか、私が人に借りを作っているか。もう人に返さなければならないものだ、と。だから、もうこれ以上、借りを作りたくないのである。借りを作りたくないのであれば、何をするにしても、それが衆生を傷つけていないかどうかを、よく見極めなければならない。もし傷つけるのであれば、言葉であれ、考え方であれ、どのようなことであっても、してはならない。このように修行していけば、「成就菩薩摩訶薩希有之法」ができるのである。
いわゆる「希有之法」とは何か。あなた方に、それができるだろうか。できない。だからこそ、「希有」なのである。たとえば、リンポチェは二〇〇七年、ラチ雪山で三か月余りの閉関修行を行った。あなた方に、それができるだろうか。できない。だから、私は「希有」なのである。つまり、このようなことを実践できる人は、ごくわずかしかいないという意味である。しかし、私たちはまず、この教えを受け入れ、心の中にしっかりと留めておかなければならない。そして、いつの日か本当に修行するときには、必ずこのように実践することを忘れてはならない。なぜリンポチェは、二〇〇七年、六十歳という年齢で、標高四千五百メートルという高地において、三か月余りもの閉関修行を行うことができたのか。それは、「無我」・「無我所」・「無所住」を実践していたからである。なぜ閉関修行をしたのか。それは、自分にはまだ衆生を利益する力が十分ではないと感じていたからである。その頃には、私はすでに済度を行うことができていた。それでも、私はなお十分ではないと思っていた。なぜなら、利益すべき衆生はあまりにも多いからである。
あの日、台風を見たとき、その中にどれほど多くの衆生がいるのかと思った。あまりにも多く、本当に想像することさえできなかった。そんな大きな話はしないで、私たちの仏寺のことだけを考えてみよう。仏寺には、どれほど多くの虫がいて、どれほど多くの蛇がいて、どれほど多くの蛙がいて、どれほど多くの鳥がいるか、あなた方は知っているだろうか。本当にたくさんいる。数えきれないほどいるのである。だから、今日あなた方は「衆生を度したい」と言うが、まず自分自身をしっかり度することができれば、それだけでも大したことである。なぜか。あなた方の体の中だけでも、数え切れないほど多くの虫がいるからである。釈迦牟尼仏はこう説かれている。空性と慈悲心を修めるところまで至れば、体内にいる虫たちまで度される、と。どのような虫なのか。今の人はみな、「プロバイオティクスが足りないのではないか」と気にしているだろう。そのようなもののことである。また、『宝積経』の中でも、釈迦牟尼仏は、まつ毛には寄生虫がおり、眉毛にも寄生虫がおり、首にも寄生虫がいる、と説かれている。だから、首から臭いがすることがあるのは、その虫がいるからなのである。恋愛小説などでは、「ほんのり香る首筋」などと書かれているが、それは実は、その虫たちの糞なのである。(会場笑)
なぜ閉関中は入浴してはならないのか。それは、自分に慈悲心が本当に修められているかどうかを見るためである。もし本当に慈悲心を修めているなら、私が三か月余り風呂に入らなくても、体が臭くなることもなく、皮膚がかゆくなることもなかった。それは、皮膚の上にいる虫たちを度したからである。私は虫に向かって、「あなた方を度してあげる」と言う必要はない。自然に度されるのである。慈悲のエネルギーによって、虫たちも私を傷つける必要がないことを理解するからである。だから恐れる必要はない。ある人は言う。「私はただ一人の人を傷つけただけです。そのことがあるから、ここへ来て仏法を学ぶのです。」しかし、どうして一人しか傷つけていないと言えるのか。あなたはこれまで、どれほど多くの衆生を傷つけてきたのだろうか。なぜ私の仏寺では、化学農薬の使用を許さないのか。それは、化学農薬が衆生を傷つけるからである。日本の道場でも同じく、化学農薬の使用は禁止している。すると皆、「そうすると、この木は枯れてしまいます」と言う。私は「それなら構わない。私はその木を済度する。しかし、化学農薬は使ってはならない」と答える。だから、あの日、私が閉関に入ろうとした時――(尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが寶吉祥リンチェンドルジェ・リンポチェ仏寺における閉関を円満し、第二回目となる弟子との閉関および金剛薩埵法会を円満された)突然、あたり一面の蝉が一斉に鳴き始めた。それはものすごい大合唱で、少なくとも数千匹の蝉が同時に鳴いていた。本来、そのようなことは起こり得ない。蝉は、一斉に同時に鳴くことはないからである。しかも、それは真昼の最も暑い時間帯であった。
今日これだけ多くの話をしたのは、自分がすごいと自慢するためではない。仏典に説かれていることは、いつの日か、あなた方も必ずできるようになる。ただ、教えをよく聞き、そして、この「希有之法」の実践を始めようとするならばよいのである。このように実践しようとする人が、決して多くはないからである。だからこそ、希有と言われるのである。
経典曰く:「云何菩薩摩訶薩希有之法。所謂於慈無我。悲無眾生。喜無壽者。捨無補特伽羅。布施無彼悔與心。持戒生彼寂靜心。」
この言葉は、まさに『金剛経』で説かれている四相を破るということである。すなわち、「無我相」・「無人相」・「無衆生相」・「無寿者相」を破ることである。『金剛経』で説かれている教えが、まさにここで説かれているのである。菩薩が衆生を利益するとき、その慈悲は、「自分は慈悲を示そう」と思って起こすものではない。また、慈悲を施すのも、「そこに慈悲を必要とする衆生がいるから」という考えからではない。菩薩の心には、衆生がいまだ輪廻という苦しみの海から離れていない以上、それは自分の責任である、という思いしかない。ちょうど地蔵菩薩が、「地獄未空、誓不成仏(地獄が空にならない限り、私は誓って仏とはならない)」と誓われたようなものである。それは地蔵菩薩の責任なのである。しかし、地獄が空になることなどあるだろうか。あり得ない。それと同じように、私の誓願は、「衆生が成仏しない限り、私は成仏しない。」というものである。では、すべての衆生が成仏する日が来るだろうか。それもまた、あり得ないのである。
なぜ、このような愚かとも思える誓願を立てるのか。それは仕方がないのである。まさに、この一句、「於慈無我。悲無眾生。」に基づいているからである。つまり、この慈悲が現れるのは、ある果位を得るためでもなく、ある境地に達するためでもなく、ある修行方法を成し遂げるためでもない。ただ、自分には今日、輪廻を離れる機会があることを知っているから、すべての衆生にも輪廻を離れてほしいと願うのである。また、自分にはいつの日か成仏する機会があることを知っているから、すべての衆生にも成仏してほしいと願うのである。そのような慈悲こそが、正しい慈悲なのである。もし今日、ほんの些細な出来事があっただけで、「私はこの人に回向しました。」「私を害さないように回向しました。」などと言うのであれば、それは違う。そもそも先に人を傷つけたのは自分ではないか。それなのに、「私を害さないでください」と回向するというのは、余計な回向なのである。もし空性の慈悲心を修めることができれば、回向などしなくてもよい。自然に、すべての冤親債主は理解するのである。もちろん、それはとても難しい。しかし、私たちはそのように修めなければならない。では、まだそこまで修められていないうちは、どうすればよいのか。三宝を恭敬し、上師の教えをよく聞くことである。それには必ず効果がある。なぜなら、上師は毎日、あなた方を守っているからである。私も毎日修法を行い、あなた方を守っている。しかし、もしあなた方が言うことを聞かなければ、当然、外へ追い出す。言うことを聞くなら、追い出されることはないのである。
先ほど私が話したように、私は琴を調律する先生のようなものであり、あなた方は一本一本の弦のようなものである。だから、中には、「私は速く念誦して、もう全部終わりました。」という人がいるが、それではかえって間違ってしまうのである。なぜなら、その人は私に調律させようとせず、まず私に尋ねることもしないで、自分勝手にやってしまうからである。昨日も、一人の弟子にこう言った。「あなたは礼拝をし過ぎている。半分くらいでよい。」これは、ほかの人に言っていることとは違うだろう。私はその人に応じて教えるのである。その人が駄目だからではない。その人の今の状態に合わせて、調律しているのである。もし上師がいなかったなら、あなた方は……。はあ……。
「喜無壽者。捨無補特伽羅。布施無彼悔與心。」この数句は、まさに四相を破ることを説いており、とても重要である。「喜無壽者」とは、たとえば私が衆生にポワ法を修することをいう。ここでいう「壽」とは、どれだけ長く生きるかという意味ではない。「壽」とは、時間や距離を意味している。菩薩が衆生を利益するときには、時間もなく、距離もない。だから、「無壽者相」と説かれるのである。たとえば、私が衆生にポワ法を修するとき、二千キロ離れていても、同じように修することができる。もし私の中に「距離」という観念があれば、修することはできない。また、ある衆生が亡くなって何年も経っていても、私はその魂を勾召し、施身法を修することができる。これもまた、「無壽者相」ということである。さらに、空間的な隔たりもない。たとえば、ある法を私が日本で修していても、台湾にいる弟子たちは、同じように私がその法を修していることを感じることができる。そこには距離がないのである。では、どうすれば距離がなくなるのか。「無我」・「無我所」を修めてこそ、それができる。「我」があれば、決してできない。「喜無壽者」の「喜」とは、喜びという意味である。あるいは、あなたがより良い方向へ変わるという意味でもある。また、寿命が少し長くなることもあるかもしれない。しかし、その寿命も、いつかは必ず終わる。さらに、この「喜」とは、「法喜」を意味し、もう一つには「大楽」という意味でもある。つまり、この境地まで修めることができれば、「壽」というものは、あなたにとって第一にその意味が変わり、第二には、自ら自在に扱えるようになるのである。延ばすこともできれば、短くすることもできるのである。
たとえば、今リンポチェは八十歳である。もし、ある日「もう生きる必要はない」と思えば、その時は生きない。今の私は、自分の寿命を自分でコントロールできることを感じている。なぜそう言えるのか。縁が尽きれば、去るだけだからである。では、「縁が尽きる」とは何か。誰も仏法を学ぼうとしなくなれば、私は去る。どれだけ説いても、誰も聞こうとしなければ、私は去る。ここに残っていても、何の利益もないからである。法王が私に授けてくださった長寿文にもあるように、私はいつでも、どこへでも行くことのできる人間である。どこに縁があれば、私はそこへ行く。千人のためだけに、一日中ここへ縛られているべきではない。だから、あなた方が真剣に仏法を学ばず、ただ加護ばかりを求めているなら、あなた方自身が、私をもっと早く去らせることになる。これは、あなた方を脅したり、脅迫したりしているのではない。事実、その通りなのである。菩薩道を修めた者にとって、この世のあらゆることは、左の手から右の手へ、右の手から左の手へと流れていくようなものである。すべては過眼の雲煙であり、「無所住」なのである。それなのに、あなた方が真剣に仏法を学ぼうとしないなら、私が一生をかけて学んできたものを、あなた方が学ぼうとしないのであれば、それはすべて私が持って行くだけである。決して残しはしない。とりわけ、密教の心法は、紙に書き残せるものではない。法本には、ただいくつかの名称が記されているだけである。たとえば、私が喜金剛を学んだ時の法本を、たくさんあなた方に見せたとしても、あなた方は百年見続けても、その中に何が書かれているのか理解することはできない。上師がいなければ、その意味はまったく分からないのである。
「捨無補特伽羅」とは、すべてを捨てるときにも、無人相、人相がないということである。どういうことか。たとえば、地蔵菩薩は地獄の衆生を度するとき、地獄の衆生の相を現される。私たちが今目にしている地蔵菩薩の相は、人を救済する相である。なぜ私が分かるのか。それは、以前、地蔵菩薩が地獄で衆生を度される相を描いたタンカを見たことがあるからである。その時、地蔵菩薩は地獄の衆生の相を現されていた。また、観音菩薩にも焦面大士というお姿がある。顕教の水陸大法会にもそのお姿が現されるが、餓鬼や地獄の衆生を度される時には、そのお顔は普段とは異なっている。つまり、もしあなたが「自分は生まれ変わっても、いつまでも人間でありたい」と執着するなら、六道を絶えず巡って衆生を度することはできないのである。だから、この一句の意味はこうである。あなたが何かを捨てる時、それは今生を捨てることかもしれないし、多くのものを捨てることかもしれない。しかし、それは「我」という人間のために捨てるのではなく、また、誰か特定の人のために捨てるのでもない。あなたが捨てるのは、すべての有縁の衆生のためである。衆生を成仏へ導くためにこそ、あなたは捨てるのである。
「布施無彼悔與心」とは、布施や供養をした後に、決して後悔してはならない、ということである。与え過ぎたのではないか。こんなに渡さなければよかった。そのような思いを持ってはならない。また、与えることを惜しんだり、与えることを恐れたりしてもならない。そのような心では、布施を行っても何の利益にもならないのである。
「持戒生彼寂静心」とは、あなたの心が真に戒を持つようになった時、という意味である。もちろん、ここでいう「戒」とは、在家戒から始まり、出家戒、菩薩戒、そして金剛乗の戒までを含んでいる。では、「持」とはどういう意味か。「持」とは、しっかりと守り抜くということである。外からのいかなる誘惑にも、内から生じるいかなる誘惑にも心を動かされず、戒を守る心が変わることはない。それが「持戒」である。「生彼寂静心」とは、心が戒を保つことができれば、自然に寂静なる心が生じるということである。では、「寂静なる心」とは何か。それは、何の音も聞こえなくなることでもなく、何の念も起こらなくなることでもない。そうではなく、あなたの心そのものが寂静となり、修行している時に、外からの影響にも、内からの妨げにも動かされなくなるということである。
「持戒生彼寂静心」とは、心が戒を持つことが、行いとして戒を守ることよりも、さらに重要であるということである。なぜか。表面的には戒を守っていても、心がその戒を保っていなければ、それはすべて偽りだからである。たとえば、「私は肉の入った料理の付け合わせの野菜だけを食べています」と言う人がいる。それもまた、真の意味で戒を持っているとは言えない。すると、きっと反論する人がいるだろう。「六祖慧能は、かつて猟師のもとで炊事をしていたではないか。肉も調理していたのだから、戒を守っていなかったのではないか」と。そうではない。慧能は戒を持っていたのである。それは、心が戒を持っていたという意味である。では、慧能が肉を食べていたかどうかを、あなたはどうやって知るのか。禅宗を修める者であれば、決して肉は食べない。では、慧能はどうしていたのか。私は知らない。しかし、彼は必ず、自分が食べるべきものを食べる方法を知っていたはずである。なぜなら、彼の心は戒を持っていたからである。では、なぜ猟師のために炊事をしていたのか。それは彼の縁であった。当時、彼は姿を現すことができなかった。姿を現せば、命を奪われてしまったからである。禅宗の法脈を後世に伝えるために、その一時期の因縁を受け入れたのである。だから、彼の心は戒を保ち続け、少しも変わることはなかった。それは、あくまでも一つの過渡期であり、一つの因縁であった。しかし、多くの人はこう非難するだろう。「禅宗の祖師でありながら、猟師のために炊事をするとは。猟師は狩りをするのだから、肉に触れないはずがない。戒を破ったのではないか」と。しかし、慧能は戒を破ってはいない。なぜなら、彼は心において戒を持っていたからである。その心は決して変わらなかった。もし彼の心が変わっていたなら、その後に姿を現し、わずか数言の法を説いただけで、人々が彼を祖師として仰ぎ、禅宗が大きく枝葉を広げていくようなことは、決してなかったであろう。だからこそ、心において戒を持つことは、人に見せるために表面的に戒を守ることよりも、はるかに重要なのである。
たとえば、以前、ある議員に会ったことがある。その人は菜食をしていたが、レストランで食事をした時、店が誤って料理にニンニクを入れてしまった。すると、その人は店員をひどく罵った。しかし、私たちも外で食事をしていると、お店の人が知らずに少しニンニクを入れてしまうことがある。私は一口食べて気づいたら、それ以上は食べない。しかし、お店の人を責めることはしない。相手はわざとやったわけではないからである。その店はもともと肉料理を出す店であり、菜食の料理を作ること自体、お店にとっては簡単なことではない。せっかく菜食の料理を作ってくれたのに、悪意があってニンニクを入れたわけではない。一口食べて「これは食べられない」と思ったなら、そのまま残せばよいのである。では、それで戒を破ったことになるのか。ならない。なぜなら、あなたは最初から食べようと思って食べたのではなく、心は戒を持っているからである。この例を聞けば、皆よく理解できるだろう。また、今のように混乱した社会では、多くのことに対して完全に距離を置いて生きることは難しい。それは現実には、なかなかできない。しかし、心は必ず戒を持たなければならない。もし、そのことによって自分が戒を破ることになるのであれば、たとえ他人がそれをしているのを見ても、その人を批判してはいけない。その人には、その人の因縁があるからである。一日中、リンポチェになろうとしないでほしい。多くの人は、人を叱って見せ、自分が正しいことをしている姿を人に見せたがるのである。
私自身の例を一つ、皆さんにお話ししよう。私には実の弟がいる。子どもの頃、弟は私をとても怖がっていた。弟を叩くのはいつも私であって、弟が私を叩くことなど一度もなかった。ところが、大人になって弟は病気になり、脳の血管が破裂した。私は彼を助け、一命を取り留めさせた。しかし、助かった後は、性格が少し短気になってしまった。そのため、何度も母の前で、わざとであれ無意識であれ、私に向かって怒鳴り散らしたことがあった。ひどい時には、殴りかかろうとするような態度まで見せた。もし昔の私だったら、「いいだろう。来い!」と言っていただろう。弟は絶対に私には勝てなかった。私は武術を学んでいたし、弟も習ってはいたが、私ほどではなかったからである。その頃、私はまだリンポチェではなかった。しかし、その時の私は、「ごめんなさい。申し訳ない。怒らないで。」と言ったのである。なぜ私の母が晩年になって仏法を学ぼうとしたのか。それは、この息子が本当に変わったのを見たからである。母は私の昔の気性をよく知っていた。昔、誰が私をいじめることなどできただろうか。以前は、人に刃物で切りつけられても、私はそのまま突っ込んで相手を殴りに行った。少しも怖くなかった。しかし、仏法を学んでからは、心は戒を持たなければならない。弟が病気だからであろうと、わざと私に腹を立てているのであろうと、自分の正当性を主張したいのであろうと、それがどんな理由であっても関係ない。私は兄なのだから、少しは耐えるべきではないか。だから私は怒らなかった。怒らなければ、それで終わる。弟も、それ以上は私を罵らなかった。私の友人たちの前でも、弟は同じような態度を取ることがあった。昔の私なら、「よし、外へ出ろ。」と言って、腕時計を外したらすぐ殴り合いになっていただろう。しかし今は仏法を学んでいる。心は戒を持たなければならない。だからこそ、弟は晩年になって、かえって私を尊敬するようになった。そして今では、彼も仏法を受け入れられるようになったのである。
だから、あなた方の家族が仏法を学ぼうとせず、あなたと一緒に法会へ来ようとしないのであれば、百パーセント、あなた自身に原因がある。あなたが改めていないからである。相変わらず自分勝手で、相変わらず人に、「私は仏法を学んでいるからあなたより優れている。あなたは仏法を学ばないから、悪業にまとわりつかれている。」そんな態度を取っている。そのように人を責めてはいけない。改めていないのは、あなた自身なのである。本当に改めれば、家族も、親戚も、友人も、その変化を必ず目にする。ここでいう「改める」とは、人から見て、あなたの最も大きな欠点が、仏法を学んだことによって消えていくことである。そうなれば、人は自然とあなたについて来る。少なくとも、あなたが仏法を学び続けることを反対したり、嫌がったりすることはなくなる。そういう考え方なのである。
私の弟が怒ると、本当にひどい言葉を浴びせる。隣の席の人たちは、私たちが殴り合いになるのではないかと思うほどだった。しかし私は、ただひたすら弟に、「怒らないで。怒らないで。」と謝り続けた。そこまでできてこそ、「無我」・「無我所」なのである。本来なら、このような家の恥を話すべきではない。しかし、母はもう亡くなり、弟も年を取り、私も年を取った。だから、今日は一つの例として皆さんに話しているのである。皆さんにも家族がいるだろう。兄弟姉妹と毎日のように言い争っている人もいるだろう。もし仏法を用いるなら、多くの問題は解決することができる。もちろん、その解決の過程は苦しいかもしれない。しかし、その前に教えられているではないか。「無有諍論」である。弟が「お前が悪い」と言えば、私は、「そうだ、そうだ。私が悪い。兄である私が悪かった。」と言った。なぜなら、母が私の隣に座っていたからである。私は母を悲しませるわけにはいかなかった。二人の息子が目の前で殴り合ったら、母はどちらの味方をすればいいのか。長男の味方をしてもよくないし、末の息子の味方をしてもよくない。なぜか。母は末の息子と十数年間一緒に暮らしていた。私は長男であり、長孫でもある。もし母が私の肩を持てば、弟は嫉妬するだろう。だから、母は本当に板挟みで苦しかったのである。だから、あなた方も子として、親には親の苦しみがあることを理解しなければならない。私たちは修行者である。もし自分を修行者だと思うなら、争ってはならない。それは臆病だからではない。あの時、弟は本当に私を殴ろうとした。私は言った。「ちょっと待って、ちょっと待って。まず眼鏡を外すから、そのあと殴ってくれ。」(会場大笑)すると、弟の怒りはその場で消えてしまった。もし私が、「いいだろう。」と言っていたら、本当に殴り合いになっていただろう。
今日、リンポチェが皆さんにお教えしているのは、「必ず私の真似をしなさい」と言っているのではない。ただ、仏典にこのような教えが説かれているので、私自身の例を挙げて比較しながら話しているのである。皆さんに、それができるだろうか。できてこそ、修行者と言えるのである。もしできないのであれば、素直に言うことを聞きなさい。自分勝手に考えてはいけない。「上師相応法を早く所定の回数まで修めれば、リンポチェはこれからも自分によくしてくださる。」そんなふうに思っているなら、それは間違いである。どうして私が、あなた方にコントロールされなければならないのか。この私は、業力に動かされることはあっても、誰にも支配されることはない。なぜなら、私は何も求めていない人間だからである。八十歳まで生きた。それで十分ではないか。私は、誰にも支配されることはできない。私は仏法を学ぶ者である。なぜあなた方に支配されなければならないのか。どのような方法を使っても、私を支配できる者は誰もいないのである。
今日お話ししたこの一節は、皆さんにとってはとても奥深く、実践することも容易ではないだろう。しかし、これは希有なる法である。どうか、しっかり覚えておいてほしい。いつの日か、これを用いる時が来るかもしれない。それがいつになるかは、誰にも分からない。私自身も、これらのことを皆さんに説く以前から、ずっとこのように実践してきた。それは、過去世ですでに学んでいたからであり、この世ではごく自然にできたのであって、改めて学び直す必要はなかったのである。しかし今世では、私が皆さんにこれを教えている。皆さんがそれをしっかり聞き、受け入れていれば、未来のある一生において、ちょうど仏法を学び、修行している時、この教えは自然に用いられるようになる。その時には、何も意識して思い出そうとしなくても、ごく自然に阿頼耶識から流れ出てきて、そのまま実践できるのである。だから、皆さんは今日の話をしっかりと聞き、心に留めておかなければならない。
以前、私はこんな話をしたことがある。飛行機の中で、一人のキリスト教徒が激しい揺れを恐れて、とても怯えていた。その時、私は「あなたの主」という言葉を使った。表面的に見れば、それは戒を破っているように見えるかもしれない。しかし、私の心は戒を持っていた。私は依然として一人の仏教徒であった。ただ、その人の恐怖を取り除くために、その人自身の信仰の方法に合わせて話したのである。すると、その人はたちまち恐れなくなった。なぜなら、自分があまりにも大声で騒いでいることを恥ずかしく思い、「これ以上叫び続けたら、自分が信じている主に申し訳ない。」そう感じたからである。その瞬間、その人はすぐに叫ぶのをやめたのである。
だから、私たちの修行というものは、生きたものであり、柔軟なものなのである。決して、融通の利かないものではない。一度このプログラムを入力したら、そのまま何一つ変えてはならない、というようなものではないのである。ここでいう「変える」とは、心に保つ戒が変わるという意味ではない。そうではなく、その時々に応じて、方便を用いて物事を円満に処理するということである。たとえば、弟が人前で私を罵ったとしよう。世間の倫理や道徳から見れば、弟は正しいだろうか。正しくない。母の前で兄を罵ることが正しいだろうか。もちろん正しくない。しかし、仏法から見れば、それは私と弟との間の業なのである。私は修行者である以上、弟と争う必要はない。我慢しているわけでもない。ただ受け入れるのである。そうすれば、その出来事は自然に収まる。もし世間法で考えるなら、「冗談じゃない。私は兄だぞ。」となるだろう。しかし、その結果、誰が一番つらい思いをするのか。母である。私は親孝行をしたいと思っている。だからこそ、母を悲しませるわけにはいかなかった。ここにこそ、仏法と世間法との違いがあるのである。もちろん、私だって怒鳴り返すことはできた。「私は兄だぞ。何を考えているんだ。私に向かってくるとは、命が惜しくないのか。」そう言うこともできた。しかし今の私は、ただの兄ではない。私は一人のリンポチェなのである。だから、弟が罵るのであれば、「よし、好きなだけ罵りなさい。」それでよいのである。
第二に、私は衆生を悲しませてはならない。私は衆生の願いを満たすのである。弟は、あのようなやり方で私を押さえつけたいと思っていた。台湾語では何と言うのか。(会場「押落底(アーロウーテイ、完全に押さえつける)。」)そう、その通り。私は弟に押さえつけられたのである。そうすれば、母はとても喜ぶ。「この息子は、もう弟と喧嘩をしなくなった。」家族みんなが喜ぶのである。表面的には、私が少しばかり嫌な思いをしたように見えるかもしれない。本当にそうだろうか。違う。悔しさというものは、すべて自分の心が作り出したものなのである。それこそが、先ほど仏典に説かれていた「有我(我がある)」ということである。その悔しさを思わなければ、悔しさそのものも存在しない。この私の家庭での出来事は、皆さんによく分かる例である。なぜ今日、私がリンポチェであり、皆さんが下に座って私に叱られているのか。それは、皆さんにはまだできないからである。皆さんには、絶対にできない。できないのであれば、素直に言うことを聞きなさい。いいですね。自分勝手に、「自分はもう修行している」と思ってはいけない。まだまだ先の話である!護法を修める。
リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法の儀軌の修持を円満に終えられた後、次のようにご開示された。
魏姓の弟子よ、どうしてそのように金剛杵を持っているのだ。お前の心はどこにあるのだ。なぜそんなところへ持っていくのだ。お前の母親と同じだ。お前も同じだ。陳姓の弟子よ、お前はどうしてそのように金剛杵を持っているのだ。さっきはそこに置いていなかっただろう。私たちの心は、両胸の真ん中にある。こちらでもなければ、あちらでもない。もし今後、お前たちが金剛杵を真ん中に置かないのを見たら、その場で帰ってもらう。これほど簡単な動作でさえ、お前たちはついて来ることも、学ぶこともできない。鈴を振ってさえいれば、それでよいと思っているのか。まったく、でたらめな話だ。
続いて、リンポチェは参会者一同を率いて回向儀軌を修持した。
2026 年 07 月 15 日 更新