尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年07月05日
尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによる『仏説大乗菩薩蔵正法経』巻第三十三「禅定波羅蜜多品第十之三」のご開示
リンポチェは法座に上がられると、まず百字明呪を唱えられた。続いて、リンポチェは出家衆に指示され、参会者一同を導いて、帰依発心、四無量心、七支供養、伝法祈請、『随念三宝経』および『八聖吉祥祈願文』を唱和された。
続いて、リンポチェは長時間にわたり六字大明呪を唱えられた。その尊き御身と壇城からは黄金色の光が放たれ、勝れた妙なる香りが会場一帯に満ちあふれた。大地は震動し、参会者は皆、脈輪(チャクラ)の震動を感じ、全身が温かくなり、胸や心臓のあたりはいっそう温もりに満たされた。心身にはかつてない安らぎと平穏がもたらされ、リンポチェによる殊勝にして清浄なる仏法の教えを授かることができた。
リンポチェは、貴重なる仏法の教えをご開示された。
仏典曰く:「是故於生死中都無繫縛。」
この一節は、皆には実践できない。しかし、密教においては実践することができる。私たちは一生の間に、生・老・病・死を必ず経験する。これは必ず起こることであり、避けることはできない。人は死に直面するとさまざまな恐れを抱き、生まれるときにはさまざまな苦しみを受ける。この業力は、自らの力では解決することができない。修行によって菩薩摩訶薩、法身菩薩の境地に至れば、生死とは衆生を済度するために示す方便にすぎない。厳密に言えば、菩薩にとって生死は存在せず、ただ願力によって生死という過程を現しているだけである。例えば、人間を度するためには、人間の姿を現さなければならない。釈迦牟尼仏も、かつて鹿を度するためには鹿王の姿を現し、猿を度するためには猿の姿を現された。そのため、私たちには生と死を経ているように見えるが、実際には、生も死もともに空性なのである。
空性とは何であろうか。それは、すべてが因縁によって生じ、因縁によって滅するということである。生を断つことができれば、当然、死もなくなる。生を断つとは、生という観念と、それに伴って私たちを縛る業力との絡みを、この一生において解決することである。解決するとは、すべての借りを返し終えることであり、そうなれば再び生まれることはない。ただし、自らの願力によって再び衆生を済度しようとする場合は別である。死とは、すべての業力が完全に終息し、なくなることである。多くの人は、肉体が死ねばすべてが終わると考えているが、そうではない。私たちのこの肉体は業報身であり、過去世に積んだ善業や悪業によって、この生において得た身体である。そのため、この一生においても善業と悪業は絶えず現れるが、一般には悪業のほうが多く、善業は少ない。善業も悪業もすべて尽きたとき、この業報身は消滅する。それが、私たちのいう「死」である。しかし、業をすべて返し終えるまでは、死ぬことはできないのである。
本来であれば亡くなる時を迎えているにもかかわらず、何かに執着しているために、なかなか亡くなることができない人もいる。例えば、私は子どもたちに、親に代わって仏を礼拝するよう教えることがある。本来、その人の業報身は寿命を迎え、役目を終えて去るべき時が来ている。しかし、何かを気に掛け、執着しているために、悪業の力が存続してしまうのである。例えば、お金への執着である。お金に執着することは罪なのだろうか。罪である。供養することを惜しむため、その人は亡くなることができず、苦しみ続けるのである。『地蔵経』にも説かれているように、病床に伏したまま、生きようとしても生きられず、死のうとしても死ねない人がいる。そのため、私たちはそのような人のために、多くの仏事を修めるのである。
この一節の意味は、清浄なる本性が顕現したならば、空性の中において、生死の間に起こるあらゆる出来事はすべて願力によるものであり、善業や悪業とは無関係であるということである。そのため、その人の心は、生死の過程に縛られてさまざまな思いを生じることはない。人はなぜ死を迎える前にこれほど苦しむのか。それは、死にたくないと思うからであり、生死ということに心が縛られているからである。もし仏法を学ぶ者が、この一生で業を返し終えたならば必ず未来世があることを理解し、さらに上師を完全に恭敬し、深く信じ、上師が未来世においても必ず導き助けてくださると確信しているならば、死に際して受ける苦しみは軽減され、あるいはまったくなくなるのである。
多くの人は、自分が仏法を学び、修行しているのであって、それが上師と何の関係があるのか、と考えている。もちろん、修行そのものはあなた自身が行うものであり、その点では私とは関係ない。しかし重要なのは、あなた自身のわずかな力だけでは、自らの業力を転じることはできないということである。必ず仏・菩薩の加被と上師の加持によって、業力を転じる力が生じるのである。そのため、多くの亡くなった方は、私の加持を受けると、遺体がたちまち変化する。先ほど弟子が前に出て、そのことを非常に明確に話してくれたとおりである(度衆事蹟第1334篇参照)。多くの人は、それは遺体をきれいに見せるためだと思っているが、そうではない。瑞相とは、遺体が明らかに良い状態へと変化し、安らかな相となることを示すものである。例えば、亡くなる前に腹水がたまっていた人でも、私が加持すると腹水がなくなることがある。その腹水は、ベッドや床へ流れ出るのではなく、そのまま消えてしまうのである。なぜ腹水が消えるのか。それは、腹水とは、この一生で貪り深い者に食べられてきた衆生の肉が、その者の死に際し、水となって現れるものである。この腹水は、その亡者を地獄へ導く要因となる。しかし、私が加持することによって、それに関わる衆生が離れるため、腹水も消えてなくなるのである。
多くの弟子の家族も、亡くなる前に腹水がたまっていたが、私が加持すると、まだ済度を行っていない段階であっても腹水は消えてしまう。それを見たことのある人は手を挙げなさい。(会場では多くの人が手を挙げた。)皆さん、見たであろう。私は名ばかりのリンポチェではない。亡者のそばに行かなくても、遠く離れた場所から行うだけで、それを成し遂げることができる。亡者の名前と干支さえ分かれば、私が加持すると腹水は消えるのである。腹水が腹部を圧迫すると、亡者の神識は上へ昇ることができず、必ず下へ向かい、三悪道へと落ちてしまう。そのため、家族の年長者が亡くなる前に腹部が大きく膨らみ、さらには腹水が流れ出して寝具が濡れていたような場合、必ず三悪道へ堕ちるとは言えないものの、少なくとも三善道へ生まれることはなかったと考えられる。自分は菜食をしているから、あるいは誰かに読経を依頼すればよいと考える人もいる。それによって亡者に多少の福報をもたらすことはできる。しかし、読経する者自身に慈悲心も功徳も力もなければ、その読経はレコーダーを再生しているのと変わらず、何の役にも立たない。私には出家した弟子が一人いるが、その者はかつて読経をして亡者を弔うことを生業としていた。だからこそ、その実情をよく知っている。どれほど読経をしても、実際に済度できた例は一つもなく、読経を終えても遺体の相が良くなったことは一度もなかった。その者自身も出家僧なのである。
自宅で母親のために念仏を唱えれば、母親は必ず阿弥陀仏の浄土へ往生できると思っている人もいる。それは慢心であり、そのようなことはあり得ない。『浄土五経』を読んだことがあるなら、その中には、自分が他人のために仏号を唱えれば、その人が阿弥陀仏の浄土へ往生できるとは説かれていないことが分かるはずである。釈迦牟尼仏が浄土宗の教えを説かれた際に説かれたのは顕教であった。一方、密法は釈迦牟尼仏の叔母にのみ伝えられた。その密法とは「浄土十六観」である。しかし、現在では「浄土十六観」は漢地においてすでに失伝している。リンポチェは最も長く出家している弟子に尋ねられた。「浄土十六観をどのように観ずるのか知っているか。」弟子は「日観は読んだことがあります」と答えた。リンポチェはさらに尋ねられた。「では、どのように観ずるのか。」弟子は「沈む太陽を観ます」と答えた。リンポチェは言われた。「目で太陽を見つめるということか。今日やってみなさい。もし明日も目が見えていたら、私はあなたと同じ姓を名乗ろう。第一は日観、第二は月観と続き、これが十六観である。」釈迦牟尼仏が叔母に法を伝えられたときは、一対一での伝授であり、その場には他の者はいなかった。釈迦牟尼仏が伝えられた浄土の密法とは、すなわちポワ法なのである。
多くの人は、経を読めば往生できると思っている。出家弟子は多くの経典を読んできたが、経典の中に「経を読めば必ず済度できる」と説かれているだろうか。(弟子:「ありません。」)釈迦牟尼仏が説かれた経典は、いずれも生きている間に修行するよう私たちに教えている。ただし、『地蔵経』には、どのようにして亡者を三悪道から救い出すかが説かれている。しかし、そこに示されている条件を満たせる人は、ほとんどいない。私はこれまで『地蔵経』についても開示しているので(『尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによる〈地蔵菩薩本願経〉の開示』参照)、ぜひ読んでほしい。もし他人を済度しようとする者自身が、生死に対する束縛から解放されていないのであれば、どうして他人を済度することができようか。例えば、ある人が別の場所へ行きたいと思っていても、交通手段も旅費もなく、私のところへ来て「車はありませんか、お金を貸してもらえませんか」と尋ねたとする。私が「ありません。ただ、あなたが行けるよう願っています」と答えたとして、その人は目的地へ行けるだろうか。それと同じように、皆がよく「阿弥陀仏の浄土へ行けますように」と願うが、それだけで本当に行けるのだろうか。相手に何一つ与えていないのに、どうやって行くことができるというのか。このような思い込みを改めることは非常に難しい。なぜなら、人々の間では、亡者のそばで助念すればよいという考え方が、すでに広く定着してしまっているからである。
経典に説かれている助念とは、その人が生前に浄土宗を修めており、同じ浄土宗を修行する同門の兄弟子が、その人の臨終の瞬間に心が乱れることのないよう、そばで阿弥陀仏の名号を唱えて心を安定させることをいう。重要なのは、その亡者が自ら臨終の時を知っていることであり、その時に同門の兄弟子が寄り添い、絶えず阿弥陀仏の名号を唱えて心を定めるのを助けることである。これを助念というのである。亡くなって息を引き取った後、遺体を囲んで八時間も念仏を唱え続けることを助念というのではない。ここにいる人の中で、助念をしたことがある人は手を挙げなさい。(何人かが手を挙げた。)「効果はありましたか。」(答え:「ありませんでした。」)「なぜ効果がなかったのか。」出家弟子は答えた。「功徳がなかったからです。」「どれくらい唱えたのか。」「八時間以上唱えました。」「なぜ効果がなかったのか。」その人は出家者であり、皆も真心を込め、懸命に念仏を唱えていた。なぜなら、慈悲心も功徳もなければ、それは成し得ないからである。
私はこの数十年、一貫して済度を最も重要なこととして取り組んできた。なぜなら、私の父は突然、心臓発作で亡くなったからである。父は道教の修行に深く通じた人で、符を描いて病を治すことができ、その技法を私も学んだ。父は私たちを天界へ導いてさまざまなものを見せることもでき、地獄の近くの様子を見せることもできた。しかし、その父も突然この世を去ったのである。そのため私は、自分自身に誓いを立てた。父を済度することができ、さらに多くの衆生を済度することのできる法門を必ず学ぼうと。私たちも中国の習俗に従い、長男である私は「破瓦」を行った。もちろん、これはポワ法ではなく、葬儀の際に瓦を踏み割る儀式のことである。しかし、それでも何の効果もなかった。私は、自分が父を済度できなかったことを、はっきりと理解しているのである。
その後、私は顕教を学び、『大懺悔文』を授かった。そして父のために、一句唱えるごとに一拝するという形で礼拝を続けた。毎日およそ三時間、ひたすら礼拝を続け、二年以上経ってようやく、父が天界にいる姿を見ることができた。皆にはそれができるだろうか。ここにいる出家者であっても、一句ごとに一拝することはできない。だから、私と誰が優れているかを比べようとしてはならない。密教のことはさておき、顕教の修行だけを見てもそうなのである。リンポチェは最も長く出家している弟子に尋ねられた。「『大懺悔文』を知っているか。」弟子は「知っています」と答えた。リンポチェはさらに尋ねられた。「普通はどれくらい時間をかけて礼拝するのか。一句ごとに一拝するのではなく、一般的なやり方で。」弟子は「およそ四十分です」と答えた。リンポチェは続けて言われた。私は三時間かけた。一句唱えるたびに一拝していたからである。当時はまだ密教を学んでおらず、その後三年ほど経って初めて、父が天界にいることをはっきりと夢で見ることができた。『地蔵経』にも説かれているように、地蔵菩薩はどのように仏を供養したことによって、母がどの世界に生まれたかを知ることができた。それと同じことである。私は実際にそれを成し遂げた。だから、私は確実に実践できるのであり、皆には誰一人としてできないのである。
一句ごとに一拝する礼拝に加え、私は毎日、観世音菩薩の聖号を一万回唱え、大悲呪を四十九遍、『心経』、往生呪、『普門品』も読誦し、さらに毎日三時間を費やして修行を続けていた。当時の私は在家の身であり、まだ上師ではなかった。それでも毎日欠かさず修めていた。父が苦しんでいることを知っていたからであり、必ず父を救わなければならないと思っていたのである。皆にそれができるだろうか。だから、知ったような口をきいてはならない。「師が、阿弥陀仏の名号を八時間唱え、それを四十九日続け、打七を行えば往生できると言っていた」と語る人もいる。しかし、私はそのようなことが説かれている経典を一つも見たことがない。四十九日とは何を意味するのか。それは、人が亡くなった後、中陰身は眠ったような状態にあり、七日ごとに一度目覚めるということである。そのたびに、もし誰かがその人のために経を読み、仏号を唱えるならば、その神識は三悪道に堕ちずに済む可能性がある。しかし、その読経や念仏を行う者は普通の人ではなく、必ず証悟を得た修行者でなければならない。そのような修行者によるものであってこそ、亡者の助けとなるのである。四十九日を過ぎると、その後は各自の業力に従って輪廻していく。では、五十日目や十年後には必ず輪廻しているのかというと、そうとは限らない。私が見た中で最も古い霊は、三百年近くさまよっていた霊だったからである。業が非常に重い者は、息を引き取るとすぐに悪趣へ堕ちることもある。一方で、業がそれほど重くない者は、数年間この世をさまよい、まだ輪廻していない場合もある。このことは非常に複雑なのである。
なぜ施身法を修めるたびに、私が法器を吹くと皆が寒さを感じるのであろうか。それは、まだ輪廻していない多くの衆生が集まって来るからである。彼らは、この場所に慈悲の力があり、自分たちを救ってくれると感じて集まって来る。だからこそ、私は彼らの生死の問題を解決することができるのである。もし私が慈悲を修めていなければ、たとえ腿骨の法器を100回吹いたとしても、彼らは決して集まって来ない。ゆえに、済度とは極めて厳粛かつ厳正なものであり、決して冗談や軽い気持ちで行うものではない。
以前、私がまだ顕教を学んでいた頃、友人に精舎へ連れて行かれたことがあった。今ではあまり見られないが、当時は100人、200人ほどが集まって精舎を開き、毎週一緒に読経や法会を行うことが流行しており、その友人も私を誘って参加させた。彼らが「これから読経して済度を行います」と言った瞬間、私はすぐに友人の手を引いて、その場を離れた。なぜか分かるであろうか。私たちがその場にいると、彼らが読経を始めるや否や、霊が集まって来る。しかし、彼らには霊を済度する力がない。そのため、済度してもらえなかった霊は怒り、その怒りはその場にいるすべての人へと及ぶのである。私は以前、道教を学んでいたため、このようなことをよく理解していた。彼らは、読経して衆生を済度すれば福報や功徳が得られると思っていたのである。リンポチェは、もう一つの話をしよう。本来は話すつもりはなかったが、今日は経典の解説を少し控え、この話をすることにする。
私が顕教を学んでいた頃、初めて済度法会に参加した際のことである。法会が始まる前、済度の位牌の前で、「この済度法会によって、自分と縁のある衆生も、縁のない衆生も、すべて済度されますように」と発願した。その夜、私は一睡もできなかった。眠れなかったのである。赤、白、青、緑など、さまざまな色の姿をした衆生が現れ、私の師の仏寺の門前に整然と列を作って並んでいた。このような発願をする者がいなければならない。そうでなければ、どれほど読経しても、衆生は集まって来ないのである。今日、リンポチェがこの話をしたのは、自分がすごいと言いたいからではない。だが、もし私にその力がなければ、何十年にもわたって済度を行いながら、八十歳まで生きることなど不可能である。とっくに命を落としていたはずである。私が八十歳まで生きてこられたということは、衆生を済度し、衆生を助けてきたことの証である。だからこそ、衆生が私の学仏の障碍となることはないのである。
仏典曰く:「所以者何。謂彼生業諸煩惱縛顛倒執著皆悉解脫。」
生による業力、一切の煩悩、一切の束縛、一切の執着は、すべて解脱することができる。では、どのようにして解脱するのであろうか。それは、平等性智を修めることである。仏法を学ぶ者は五智を修めなければならず、その一つが平等性智である。平等性智とは、生と死を平等の智慧をもって見つめることであり、生を貪ることもなく、死を恐れることもない。菩薩は、生と死を衆生を救済するための一つの過程であり、ツールであると見るだけである。そのため、生によって生じる業力や煩悩が、菩薩を束縛することはない。ゆえに、菩薩はこの世に生まれた後、自らの願力に従い、絶えず修行を続け、絶えず衆生を利益する。たとえその過程で数多くの障碍や妨げに遭遇したとしても、最終的な目的は、なお衆生を救済することにある。
仏典曰く:「而復不壞大乘。成證一切佛法。然彼佛法。十方諦求了不可得。」
「不壊」とは何を意味するのか。それは、たとえ絶えず輪廻転生を繰り返し、何度も生まれ変わったとしても、修行する心や衆生を救済する心が損なわれることはないということである。その心は少しも変わることなく、絶えず衆生を助け続けるのである。私は、過去世において必ず修行をしてきたと信じている。今世では業力に導かれてこの世に生まれたが、衆生を救済する心は、時機が熟せば自然に現れるものである。「これをしよう」「あれをしよう」と意図的に考える必要はないのである。
ここでは、菩薩は輪廻を経てこの世に来るとはいえ、その輪廻は業力によるものではなく、願力によるものであると説かれている。その願は決して損なわれることがないため、この世においても大乗の成就を得て証果するのである。菩薩が修学するあらゆる仏法は、「十方諦求了不可得」(十方においていくら求めても容易に得られるものではない)。簡単に言えば、十方にはそれを求める者が数多くいるにもかかわらず、かえって得ることはできない。しかし、菩薩にはその力が自然に現れるのである。法王が常々説かれているように、私の修行は自然に得られたものである。ここでいう「自然」とは、あらかじめ立場や考えを定め、「何かを成し遂げよう」と意図することではない。ただひたすら修行を続けていれば、その成就は自然に現れるのである。
仏典曰く:「又一切法皆順佛法。是故佛法即一切法。若一切法如實尋求亦不可得。」
「又一切法皆順佛法」(また、一切法はみな仏法に順ず)とは、菩薩の行うあらゆることが、すべて仏法にかなっているという意味である。「是故佛法即一切法」(ゆえに、仏法はすなわち一切法である)と説かれる。つまり、仏法とは菩薩の行う一切の行為そのものである。「若一切法如實尋求亦不可得」(もし一切法をありのままに求めても、また得ることはできない)とは、あらゆる方法を実際に探し求めようとしても、かえって得られないということである。なぜ得られないのか。それは、私たちにはもともと清浄なる自性があり、仏性を本来具えているため、外に求める必要がないからである。ただ清浄なる本性を証得すれば、その清浄なる仏性は自然に現れるのであり、あえて探し求める必要はない。ゆえに、仏法を外道と呼ばないのである。なぜなら、仏法は外に求めるものではなく、また内に求めるものでもないからである。ただ、本来あるべきではない執着や煩悩を取り除くだけでよい。そうすれば、本来具わっている自然なる本性が現れると、自らを利益し、さらに衆生を利益する大いなる力を具えるのである。
仏典曰く:「於算數道及非算數。平等超越無有少分。」
この二つの句が意味するのは、数えようと数えまいと、それが増えることも減ることもなく、本来のままであるということである。「平等超越無有少分」(平等超越にして少分も有ることなし)とは、簡単に言えば、清浄なる法性や清浄なる仏性は、多く修行したからといって強大になるものではなく、修行しなかったからといって減少するものでもないという意味である。清浄なる仏性には大小や優劣はなく、重要なのは、それをいかに修めるかということである。では、なぜ修行しなければならないのか。それは、輪廻をもたらす行為を改めなければ、本来清浄なる法性や仏性が自然に顕れることはないからである。私たちは仏法によって修行するのであり、仏性が顕れなければ、いかなる仏法も衆生を利益することはできない。したがって、「自分で経を読誦しているだけで家族を済度できる」と言うのは誤りである。間違いであり、間違いであり、まったくの間違いである。なぜなら、その人の本来の清浄なる自性はまだ顕れておらず、ただ口で唱えているだけであり、自分の意識、自分の考えによって唱えているにすぎないからである。それは清浄なる自性によって唱えているのではない。では、なぜリンポチェは済度を行うことができるのか。皆に何かあったとき、私が加持を施せば状況を変えることができる。それは、私の仏性をもって行っているからである。
私たちは何を修めるのであろうか。それは、これほど多くの仏法を聞き、これほど多くの法を修めるのは、すべて私たちが幾世にもわたって積み重ねてきた善業と悪業、そして修行に影響を及ぼし、妨げとなるものを止め、減らし、さらには消し去るためである。したがって、菩薩道を修めるとは、いわゆる修道とは、自分を菩薩へと変えることではなく、凡夫としての考え方や人との接し方、物事の行い方を修め、取り除くことである。これまで説いてきたあらゆる法は、すべて仏法である。「一切法は仏法である」と理解したとき、その人はすでに仏法の中にいるのである。法会の前に体験を分かち合った弟子が話したように、リンポチェはどのように商売をしているのか。それこそが仏法である。私は仏法に基づいて商売をしているが、店内に仏像を置いたり、お経を流したりはしていない。心が仏法にかなっていれば、それで十分だからである。中には仏教徒ではない人もおり、そのようなものを見たり聞いたりすると、店に入りたくないと思うかもしれない。大切なのは、行うことのすべてを仏法に基づいて実践することである。そして、自らの貪・瞋・癡・慢・疑をしっかりと管理し、良心を持ち、人に対して恥じることのないように行動することである。それでよいのである。
仏典には、お金を稼いではならないとは説かれていない。ただし、良心を持たなければならない。良心とは何か。リンポチェの店では、すべて最高のものを使っている。自画自賛ではなく、本当に最高のものを使っているのである。だからこそ、市政府の立ち入り検査でも、一度で優良店の認定を受けることができたのである。検査官は、このような商売のやり方を見たことがなく、「模範となる店にできる」とまで言っていた。私の弟子の中には、まだ店に来たことのない者もいる。それは見下しているからなのか、それともお金がないからなのか。お金がないのであれば、それでも構わない。店で登録しなさい。専用のアカウントを作り、お金のない弟子には無料で食事を提供しよう。よいか。外でむやみに食事をしてはならない。今、サラダ油の問題が起きている。私は最高品質のサラダ油を使い、さらには玄米油を直接使用している。揚げ物に少量のサラダ油を使う以外は、すべて玄米油である。玄米油がどれほど高価かは、皆もよく知っているはずである。私が使っている玄米油は、日本の伝統あるメーカーに製造を依頼したものである。彼らは自らの面子を重んじ、自社の名誉を何よりも大切にしている。昔ながらの日本人の商売のやり方は、私たちとは少し異なる。それは、彼らの中に私たちの儒家思想に通じる精神があるからである。今日、リンポチェが皆に話していることは、私自身の日常生活の中でも実践し、示している。しかし、皆はその思いを受け取ろうとせず、食べ放題の店に行くことを選ぶ。そして病気になれば、自分で苦しむことになる。あらゆる病は、食べるものに起因しているのである。
仏法に従って人として振る舞い、物事を行うならば、そのすべてが仏法となる。仏法とは何か。それは悪をなさず、あらゆる善を行い、すべての戒を守ることである。例えば昨日、ある弟子が六字大明呪の法本を求めに来たが、私は渡さなかった。第一に、その弟子は薄い金封を持ってきた。お金の額が問題なのではない。私は以前から何度も話してきたことであるが、釈迦牟尼仏は、ある菩薩に命じて在家の居士のもとへ六字大明呪を求めに行かせた。その際には大供養を行ったのである。なぜその人は六字大明呪を学ぼうとしたのか。それは、六字大明呪が多くの衆生を助けることができると理解していたからであり、そのために求めたのである。
昨日、六字大明呪の法本を求めに来たその弟子は、何のために求めたのであろうか。家にいる娘のことであった。六字大明呪を唱えれば、娘がよくなることを願っていたのである。なぜ私の話を、皆は聞き入れないのであろうか。私の子どもたちは仏法を学ぼうとしないが、私は一度も、子どもたちのために多く六字大明呪を唱えたことはない。それは子ども自身の業力であり、同時に私自身の業力でもある。なぜ、このことが理解できないのであろうか。私たちはまず、自分自身をしっかり修めなければならない。自分の修行が整えば、いつの日か、子どもも自然によい方向へ変わっていくであろう。それが今世でなくてもよい。少なくとも今世において、その子に対する負い目を返し終えることができる。そうすれば来世では、お互いに何の負債もなく、平穏に過ごし、再び会うこともないのである。それなのに、皆は言うことを聞かない。何度話しても、どうして聞き入れようとしないのであろうか。
さらに、もっと驚くべき者もいる。以前、林という姓の弟子について少しチベット語を学んだことがあり、「チベット語を十分に習得してから法を求める」と言っていたのである。法王はかつて私にこうおっしゃった。私も法王に「私はチベット語を学ぶべきでしょうか」とお伺いしたことがある。そのとき法王は、「必要ない」とおっしゃった。なぜなら、チベット語を学ぶことも、中国語を学ぶことも、結局は文字を学ぶことにすぎないからである。チベット語の法本が読めるようになれば、それだけ修行がよりよくできるようになるのであろうか。そのようなことはあり得ない。もしそうであるならば、チベット人は皆リンポチェになっているはずではないか。その人は教師という職業に就いているが、仏法を一つの学問として捉え、チベット語を学べば彼らの言っていることが理解できると思っているのである。なぜこのように愚かなのか。何度話しても聞き入れず、いつまでも自分勝手なやり方で仏法を学ぼうとするのである。
私は自分の経験を数多く話して聞かせている。それは、皆に私の真似をしてほしいからではない。修行の拠り所を持ち、自分勝手に思いつきで進めないためである。ここでもはっきりと説かれている。行うことのすべてを仏法に基づいて実践するならば、それが仏法なのである。仏法を日常のあらゆる物事に生かさないのであれば、それは真の意味で仏法ではない。たとえ毎日お経を唱えていたとしても、何の役にも立たないのである。
仏典曰く:「此說無法亦無非法。若能於法非法遍能了知。是故於此都無住著。」
ここでいう「非法」とは、法律に違反することではなく、仏法ではない一切のものを指すのである。仏法とは、私たちに輪廻から解脱し、生死を離れる方法を教え、菩薩道を修めて成仏する道を説くものである。そのすべては、このことを説いているのである。したがって、これらと関わりのないものは、すべて「非法」である。もし菩薩が「法」と「非法」とを明確に「了知」できるならば、それは、自分が今日行っていることが、究竟的に仏法なのか、それとも仏法ではないのかを見極めることができるということである。二週間ほど前、一人の古くからの弟子がやって来て、「リンポチェにご報告があります。私の家族が中国大陸にいて、あれこれあって……」と延々と話し始めた。私はその話を最後まで聞いていたが、結局、その人は「お参りに帰りたいのです」と言った。私は、「旅行として帰るのは構わない。しかし、そのようなことをするのであれば、私の弟子であってはならない」と答えた。
帰依するときにも、鬼神を祭拝してはならないと皆に話している。しかし、その人は聞き入れなかった。先祖が身内だから、自分は少しくらいはよいと思っていたのである。帰依の際には、家に年長者がおり、祖先の位牌に礼拝するよう求められた場合には、線香を一本供えるだけでよいとも話している。何も言わず、何も祈らず、それだけでよいのである。しかし、その人は従わなかった。私は思うのである。この年配の人たちは、なぜこれほど頑固なのであろうか。今話した二人はいずれも高齢の男性で、一人は七十一歳、もう一人は七十二歳であるが、どちらも言うことを聞こうとしない。その人は、このことを報告すれば、リンポチェが喜ぶと思っていたのであろう。儒家の考え方からすれば、それは間違いではない。しかし、私たちは今、何を学んでいるのであろうか。儒家を学んでいるのではない。では、なぜ儒家の考え方を私に持ち出すのであろうか。『宝積経』には、祖先を敬うべきであるとは説かれている。しかし、祭拝しなさいとは説かれていない。祖先を敬うとは、自分の祖先が誰であるかを忘れないということである。世の中には、「自分はこちらにいるから、あちらの出身ではない」「自分は石の中から飛び出してきたのだ」とでも言うかのように、祖先を敬わない人がいる。さらには、「自分は南のほうから来たのだ」などと言う者までいる(会場笑)。肌は明らかに白いのに、南の人は黒いではないか。それなのに、どうしてそう言えるのであろうか。遺伝子でも変わってしまったというのであろうか。そのことはさておき、祖先は敬うべきである。しかし、祭拝することとは違うのである。
だからこそ、非法なことをしたのであれば、上師は必ずそれを指摘しなければならない。指摘しなければ、私は上師ではない。私もその場の流れに合わせて、「それはよいことですね。ご家族をそのように思いやる気持ちがあるとは立派です。あなたはよい人ですね」と言うことはできる。しかし、そのようなことを言うのであれば、私はもはや上師ではない。その人が祭拝したとして、それで家族が輪廻から解脱する助けとなるのであろうか。ならない。だから、その人は私の弟子ではないのである。なぜ皆は、いつもリンポチェを試そうとするのであろうか。もう一度言う。私はもともと道教を学んでいた。道教を学んでいた頃は、人の病を治すこともでき、多くのものを見ることもできた。血が流れていれば、符を書いて紙を貼れば、すぐに止血できた。魚の骨が喉に刺さったときも、私が手でさっと一振りすれば、すぐに下へ通る。しかし、それらはすべて捨てた。究竟の法ではなく、生死から解脱することはできないからである。そうしたものは風俗や民間信仰に属するものであり、私は用いる必要がない。たとえ自分が病気になったとしても、昔学んだものを取り出して使うことはない。そこには病気を治すための符も数多くあり、名前のつけられる病気であれば、それぞれに対応する符があった。それでも私は使わない。仏法を学ぶ以上、純粋な仏法、正統な仏法、正法だけを学びたいからである。決して他のものと混ぜてはならない。ひとたび混ぜてしまえば、その仏法はもはや失われてしまうのである。
仏典曰く:「又諸法義亦非住著。若著於義非大義利。若復於義非義悉無所住。」
これらの言葉は、私たちに対し、軽々しく教えに背いてはならないことを戒めているのである。また、「懺悔したのだから大丈夫」「上師に懺悔したのだから問題ない」と思ってはならない。私はもちろん、あなたの懺悔を受け入れる。しかし、その行いは今後の修行に障碍を生じさせることになる。「自分はもう年だから構わない」と言う人もいる。今は確かに構わないと思うかもしれない。しかし、いずれ時が来れば、なぜ「構わない」では済まなかったのかを知ることになるのである。また、「又諸法義亦非住著」(諸法の義にもまた執着してはならない)とある。「義に依りて語に依らず」とは、私たちは仏法の真の意味を理解しなければならず、文字そのものや、言葉の表面的な意味だけにとらわれてはならない、ということである。
例えば、私のある弟子は、チベット語を学べば修行がよりよくできるようになると思っている。これはまさに「語に依りて義に依らず」である。なぜ法王は、私にチベット語を学ぶ必要はないとおっしゃったのか。第一に、私はもう高齢であり、チベット語を学ぶことに時間を費やす必要はないからである。第二に、現在では法本のほとんどに翻訳があり、なおさら学ぶ必要はない。第三に、仏法はすべて「義」を根本としているからである。第四に、たとえチベット語の法本を手にしたとしても、その中には多くの観想の内容が含まれているが、上師がそれを説かなければ、何の効力もない。法王はかつて、私に法本を授けてくださった際、一節を説明したあと、「この一句は、多くのリンポチェも知らない」とおっしゃった。誰もがその一句を見ていたが、法王がその内に含まれる意味を説かなければ、誰にも理解することはできなかったのである。つまり、この一節は極めて明確に私たちに教えている。経を唱えれば済度できると思ってはならない。阿弥陀仏を唱えれば済度できると思ってはならない。あなたの慈悲心は生じているのであろうか。空性を証得しているのであろうか。仏・菩薩に対してどれほどの恭敬の心を持っているのであろうか。それらがなければ、ただ経や仏号を唱えているだけであり、録音した音声を流して人に聞かせているのと何ら変わらないのである。
「又諸法義亦非住著」(また、諸法の義にもまた住著せず)とは、あらゆる仏法の真義は、一つの形に固定され、不変のものではなく、「必ずこのようにしなければならない」というような画一的なものでもない、という意味である。すなわち、あらゆる「法義」は、それぞれ異なる因縁に応じて、異なる説き方や解釈がなされるのである。では、何に応じるのであろうか。例えば、小乗を学ぶ者には空性について説くことはない。大乗を学ぶ者には、小乗の教えを説くことはない。このことは『宝積経』にも説かれている。小乗を学ぶ者には、決して空性の意義を開示することはない。また、大乗・菩薩乗を学ぶ者には、決して小乗の意義を開示することはない。なぜそのように説き分けるのであろうか。それは、修行者の心が揺らぎ、変わってしまうことを避けるためである。
したがって、上師はそれぞれの衆生の器量(根器)に応じて、その人にふさわしい教えを授け、何をどのように実践すべきかを示さなければならない。もし弟子が独りよがりになり、「法本さえ手に入れれば修行は成就できる」と思い込み、上師に請示することなく修めようとしても、決して成就することはない。皆はこう思うかもしれない。「リンポチェは、法王から伝法を受けるとすぐに修行が成就したとおっしゃっていましたよね」と。第一に、私は広東語訛りの国語で話しているが、皆には話せないであろう。(会場笑)皆は広東語訛りの国語を話せるであろうか。話せないであろう。第二に、私は上師を完全に信じており、少しの疑いも抱かなかった。二〇〇七年、私はラプキ雪山で三か月余りの閉関修行を行った。そのとき上師から授かった真言には、音写の一部に誤りがあった。しかし、私はそのまま唱え続けた。唱えにくいと感じることはあったが、それでも唱え続け、「この発音は正しいのか、正しくないのか」と上師に尋ねることはしなかった。上師から授かったものである以上、それが正しいと信じていたからである。そして、その修行は成就したのである。
しかし、皆は何でもはっきり理解しなければ気が済まないと思っている。では、その「理解しよう」としているのは誰なのであろうか。それは自分の意識である。仏法を一つの学問として捉え、理解しようとしているのである。もちろん、それはどのような上師について学ぶかにもよる。もし証悟した上師であれば、仏法については何を取り上げても、その場で説き明かすことができる。ちょうど釈迦牟尼仏が一輪の花を拈じて微笑み、それを見た大迦葉尊者がただちに悟りを開いたようなものである。このように、その場で人を悟りへ導くことができるのは、皆が思っているような「どれだけ多く修行したか」という問題ではない。上師は多くを学ばなければならない。なぜなら、衆生を救済するためである。しかし、皆はそこまで多くを学ぶ必要はない。「法をたくさん求めれば、もっと修行がうまくいくようになる」と思ってはならない。皆はそのような器ではないのである。最も重要なのは、私たち直貢噶舉では、すべての弟子に対して常に「上師が最も重要であり、上師に対する心が何よりも大切である」と教えていることである。ただし、その「心」とは、私を愛するという意味ではない。決して「リンポチェを愛しています」と言ってはならないし、「リンポチェが好きです」と言ってもならない。(会場笑)
ここでいう「心」とは、上師を仏であると信じる心のことである。いうまでもなく、「上師という人間そのものが仏である」という意味ではない。その心がすでに仏の心であり、凡夫の心ではなく、仏の心をもって皆を助けている、ということである。したがって、上師をただの人間だと思えば、人間としての助けしか得られない。しかし、上師は仏の心をもって自分を助けてくださっていると信じるならば、仏の教えによる加持と導きを得ることができるのである。なぜ法本を手にしても修行が成就しないのであろうか。それは、自分の力だけで修められると思い、上師を信じていないからである。上師の教えを受け、伝法を授からなければ、修行は成就しない。たとえ法本を手にしたとしても、成就することはできないのである。ちょうど『宝積経』も同じである。この経典について法を説こうとする人が少ないのはなぜか。その内容は、実際に修行を積んでいなければ説くことができないからである。では、何を修めていなければならないのであろうか。それは、すでに菩薩道を実践していることである。そうして初めて、この経典の真の意義がどこにあるのかを説くことができるのであり、一字一句の意味を辞書のように説明したり、その字句の表面的な意味を解説したりすることではないのである。
仏典曰く:「設見於義而智無礙。若智無礙則無遍計。」
「設見於義而智無礙」(もし法義を正しく理解するならば、その智慧は自在であり、何ら障碍を受けない。)とは、もし菩薩があらゆる仏法について、その真の意義・内容・教えの本質をもって正知正見を確立することができれば、その智慧はいかなる障碍にも妨げられない、という意味である。反対に、文字だけにとらわれるのであれば、例えば「自分はチベット語を理解しなければならない」と考えるようなことは、文字に執着しているのであって、仏法の真義に依っているのではない。もし菩薩が、どのような文字で説かれているかにこだわることなく、仏法の真の意義を理解し、明らかに把握しているのであれば、その智慧は何ものにも妨げられることはないのである。
「若智無礙則無遍計」(智慧に障碍がなければ、遍計はない。)とは、智慧に何ら障碍がなければ、偏った見方をすることもなく、あれこれと思い巡らせたり、損得を「計」したりすることもない、という意味である。よく、「リンポチェは私を叱った」と言う人がいる。では、なぜ私はあなたを叱るのであろうか。あなたを叱ったところで、私には何の利益もない。昨日も、私はどれだけのお供えをお返ししたのであろうか。(出家衆:「リンポチェにご報告いたします。百三十万元です。」)叱らなければ、その百三十万元はそのまま私のものになっていたではないか。しかし私は叱り、そして返した。「これは受け取らない」と。なぜ受け取らないのか。それは、リンポチェが見ているのはあなたの心であって、その金封ではないからである。供養する真心がなく、ただ形だけを私に見せようとしているのであれば、私は受け取らない。私は、そのお金による恩義を負いたくないのである。あなたという人に恩義を負いたくないということではなく、そのお金に対する恩義を負いたくないということである。受け取らないとは、どういう意味であろうか。それは、「智無礙」(智慧に障碍がない)ということである。智慧がすでに自在に通達しているため、世間のさまざまな現象に惑わされることなく、それによって偏った考えや誤った計らいを生じさせて仏法を弘めることがないのである。
仏典曰く:「若無遍計則無有對。若無有對則無所住。」
菩薩が偏りや損得への執着を離れれば、「則無有對」。どういう意味であろうか。それは、「正しい」「間違っている」という対立はなく、あるのは因果だけである、ということである。分かったであろうか。皆はよく「私は改めます」と言う。しかし、何を改めるのであろうか。それは、自分が間違っていると思っているからである。しかし、リンポチェが見ているのは、「改める」ことではない。「修める」ことである。自分の中にあるよくないものを修めて取り除くのであって、単に改めることではない。ある出来事について「間違っていたから改めた」としても、本質そのものが変わっていなければ、結局また同じ過ちを繰り返すのである。だから、菩薩には「正しい」「間違っている」という見方はない。ただ因果があるだけである。菩薩は、その人が今日どのような因をつくり、どのような果を受けるのかを明確に見ている。だからこそ、悪因をつくらないように止めるのである。たとえすでに悪因をつくってしまっていても、その悪果が現れないように止めようとする。だから、耳障りのよい言葉ばかりを語ることはない。もし心地よい言葉だけを聞きたいのであれば、私のもとへ仏法を学びに来てはならない。皆は千パーセント、悪因をつくっているのである。例えば、亡くなった姉を祭拝しようとしたあの弟子は、まさに悪因をつくっていた。もし私が止めなければ、それは帰依戒を自ら捨てることを認めるのと同じである。帰依戒を捨てれば、どうなるのであろうか。間違いなく三悪道に堕ちる。しかし、皆は三悪道に堕ちることを恐れていない。「ちょっと言っただけだから大丈夫」「たいしたことはない」と思っている。そんなことはない。それは極めて重大なことなのである。
「若無有對則無所住」とは、「正しい」「間違っている」という対立がなければ、心は何ものにも執着しない、どこかに「住」しないという意味である。どういうことであろうか。それは、「この人は正しい」「あの人は間違っている」と決めつけることがなくなる、ということである。また、物事を因果の観点から見るのではなく、自分の感情だけで人の正誤を判断することもなくなる。世の中に争いが絶えないのは、人を感情によって「正しい」「間違っている」と判断しているからである。自分に不利益なことをされれば「相手が間違っている」と思い、自分に利益となることをされれば「相手が正しい」と思う。このような見方こそが「遍計」である。さらに、そのような見方に執着すれば、心はある一つの段階にとどまったままとなり、決して前へ進歩することはないのである。
仏典曰く:「若無所住則無間斷。若無間斷則無虛作。」
心が何ものにもとどまらず、一つの出来事や対象に執着して止まることがなければ、「無間斷」(絶えることなく続いていく)。そのとき、慈悲心も菩提心も途切れることなく、絶え間なく湧き起こるのである。私は叱り続けていても、菩提心は変わらず現れている。叱り続けていても、慈悲心は変わらず現れている。それが途切れることはない。なぜなら、それはあなたのためであって、あなたが供養をしたかどうかとは関係ないからである。私に笑顔を向けるかどうかにも関係ない。あなたが美しいか醜いかにも関係ない。そのようなこととは一切無関係なのである。しかし、「有所住」の場合、心が何かに執着してしまえば、菩提心も慈悲心も断たれてしまう。だからこそ、私はすべての出家弟子に対し、いかなる供養も一銭たりとも受け取ることを許していない。ひとたび供養を受け取れば、少しずつ分別心が生じる。分別心が生じれば、慈悲心を育み、広げていくことはできなくなるのである。
「若無間斷則無虛作」とは、慈悲心と菩提心が絶えることなく続いているならば、その行いは空しいものとはならない、という意味である。すなわち、その人が説く仏法は、すべて真実であり、決して虚しいものではない。どういう意味であろうか。それは、必ず相応が現れるということである。例えば、先ほど私が六字大明呪を唱えたとき、香りがしたであろうか。(大衆:「はい。」)今日は特に香りが強かったであろう。(大衆:「はい。」)そして、とても熱かったであろう。(大衆:「はい。」)胸のあたりが熱くなったであろう。(大衆:「はい。」)だから、今日帰れば、心臓の鼓動も正常に戻っていることであろう。(大衆:「ありがとうございます、リンポチェ。」)これが仏法なのである。このように、一句一句が前後につながり、互いに符合しているのである。もし私自身がそこまで修めていなければ、このように説明することは決してできないのである。
例えば、「無有對」とは何であろうか。正しいというものもなければ、正しくないものもない。仏典は唐代に漢訳されたものであり、その中で用いられている言葉は極めて簡潔である。私は唐代の人間ではなく、中華民国の時代に生まれた。これほど簡潔な言葉だけを見て、その意味をどうして理解できるのであろうか。しかし、修行がある段階に達し、経典の「義」を理解していれば、自然にその意味を説くことができる。だから私は、あらかじめ準備をする必要がないのである。自分の修行が優れているとは言わないが、ある境地まで修めてきたからこそ、経典を見ればその真義が分かり、それを説くことができるのである。
「無虛作」とは、私が真言を唱え、仏号を唱え、あなたに軽く触れたり、一息吹きかけたりするだけでも、それが確かな働きを持つということである。なぜなら、私の慈悲心は途切れることがないからである。リンポチェは三十年以上出家している弟子に向かって言った。「分かったか。どうした? 呆然としているのか。それとも、聞けば聞くほど夢中になってきたのか。」(会場笑)その弟子が答えた。「リンポチェは法身を証得され、その功徳の働きが現れているということです。」リンポチェはさらに言った。「では、あなたが説明してみなさい。説明できるか。」(出家衆:「できません。」)「文字だけを見ていたら、本当に説明できないだろう。」(出家衆:「できません。」)「この『宝積経』は、人を試す経典なのだ。」(出家衆:「はい。」)出家弟子たちは長年出家しているが、外で『宝積経』の講義を聞いたことがないという。(出家衆:「ありません。」)リンポチェは別の出家弟子に尋ねた。「聞いたことはあるか。」(出家衆:「ありません。」)外では誰もこの経を講じていないのである。さらに尼僧にも尋ねた。「あなたたちは、『宝積経』を講じている人の話を聞いたことがあるか。」(尼僧:「ありません。」)それは、この経典が優れたものだと知らないからではない。文字どおりに解釈しようとしても、本当に説明することができず、どう説けばよいのか分からないからである。だから、彼らが私と文字について議論しようとしても、「議論する必要はない。私は『義』によって説いているのだ」と言うのである。例えば、私が法本を見るとき、最初の部分を少し見ただけで、その途中に誤りがあるかどうかが分かる。中には、「自分で翻訳するのだから、少し言葉を工夫しよう」などと考える人もいる。しかし、そのようなことは私には通用しない。私ははっきり分かるからである。法本の翻訳を誤れば、その誤った訳に従って唱える人が現れ、その業は重くなる。どれほど重い業になるかまでは私にも分からない。しかし、法本の翻訳は決して軽々しく行ってよいものではないのである。
2026 年 07 月 09 日 更新