尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年06月28日
尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターにおける共修法会において、密法を修する因縁を具えた19名の弟子に、一人一対の鈴杵法器を慈悲をもって授与された。これは、リンポチェが今後、密法の伝授を開始されることを示すものである。
チベット仏教では伝承を極めて重んじ、何よりも上師に依止し、その次第に従って教えを受けることが不可欠である。リンポチェは長年にわたり弟子たちを観察してこられたうえで、この日の共修法会において、儀軌に則って慈悲をもって修法を行われ、一対一対の鈴杵を加持された後、自ら19名の弟子一人ひとりに鈴杵をお授けになった。その後、リンポチェは鈴杵が象徴する甚深なる意義について詳しくご開示くださり、何度も実際に示しながら、鈴杵と手鼓の正しい用い方を辛抱強くご指導くださった。また、仏法を学ぶうえで最も大切なのは一心であること、そして何よりも上師と仏法に対して完全なる尊重と恭敬、そして信心を具えることであると教え諭された。
リンポチェは、衆生それぞれの因縁と根器に応じて、一歩一歩弟子たちを修行と解脱の道へと導き、衆生を苦海より救い続けておられる。弟子たちは、密法の伝承がこの上なく殊勝であり、そのすべてが上師の慈悲による摂受であることを深く理解している。ただ願わくは、上師のご教誨を常に心に刻み、教えに従って実践し、上師の慈悲深きお導きにお応えできるよう努めてまいりたい。
リンポチェは壇城に上がられ、諸仏菩薩に恭しく頂礼された後、尊勝なる直貢チェツァン法王の如意法座にハタをお供えされた。続いて、白ターラー菩薩の御前において宝瓶を持って灑浄を行われ、さらに壇城上に供えられた19対の鈴杵を一対ずつ灑浄された。法座に登られた後、リンポチェは百字明呪ならびに六字大明呪を持誦され、続いて貴重なる仏法のご開示を賜った。
今日は少し特別な儀軌を行う。皆も知っているように、仏法はまず顕教から学ぶ。そして機縁が熟し、上師が金剛乗(いわゆる密乗)を授けることができると判断された時、初めてその教えが始まる。しかし、密乗を学ぶことができるかどうかは、何回礼拝したか、どれだけ修行したか、どれだけ考えたか、あるいはどれほど長く閉関したかによるものではない。すべては上師が決めるのである。なぜ上師が決めるのか。金剛乗を修することができるかどうかには、多くの条件がある。その一つ一つを説明しようと思えば、一日や二日ではとても語り尽くせない。だからこそ、上師は長い年月をかけて観察したうえで、その人に法を伝えるかどうかを決めるのである。
私が1983年に法王に帰依してから、すでに三十数年になる。法王は十数年にわたって私を観察した後、ようやく少しずつ密法をお伝えくださるようになった。密法は、事部・行部・瑜伽部・無上瑜伽部の四つに分かれている。根器がやや劣る者は事部・行部を修し、根器が優れた者は瑜伽部を修し、最も優れた根器を具えた者は無上瑜伽部を修する。これらはすべて、上師による口伝と教導、そして加持を受けなければならない。たとえば、今回の二度の閉関修行でも、関房にいたほとんどの弟子が、リンポチェが持誦される加持の真言を耳にしている。なぜか。それは、リンポチェが絶えず弟子たちを加持し、閉関修行中のすべての障碍を取り除き、身体を健康に保ってくださっていたからである。
私が1995年から衆生を助け始め、1997年に道場を開いて以来、今日に至るまでこれほど長い年月を経て、ようやく19名を選び、密法、すなわち金剛乗を教え始める資格があると判断した。多くの人は、「あの人たちは修行が優れているから選ばれたのではないか」と思うかもしれないが、そのように誤解してはならない。密法を学ぶからといって、人より優れているとか、人より立派であるということではない。ただ、心構えが一般の人とは違うのである。何が違うのか。それは、菩薩となり、仏となることを固く決意していることであり、この世の些細なことを一日中仏菩薩にお願いしたり、あれこれ尋ねたりするためではない。私は長い年月をかけて観察を重ね、ようやく、この19名なら何とか私が学んできた密法を伝え始めることができると判断したのである。
多くの人は、「リンポチェはずっと密法を修しておられるのではないか」と思っている。その通りである。私はずっとあなた方のために密法を修している。しかし、私は伝えてはいない。多くの人は、不共四加行を修し終えれば学べると思っている。しかし、必ずしもそうではない。たとえ閉関したことがあっても、私は伝えないことがある。なぜなら、私はそのようにして学んできたからである。法王は大勢の人を集めて密法を伝えられたわけではない。例えば2007年、私がラプチ雪山へ閉関に行った時、法王が連れて行かれたのは私一人だけであった。ラプチ雪山には場所がたくさんあり、いつでも多くの人が閉関に行くことができる。それでも、法王が連れて行かれたのは私一人だけであった。法王には台湾にも多くの弟子がおられ、世界中にも多くの弟子がおられる。出家の弟子も大勢おられる。それなのに、なぜ私一人だけを連れて行かれたのか。皆、よく考えてみなさい。それは、私が多く供養したからではない。また、私の根器が特別に優れていたからでもない。もちろん、私の根器は一般の人より少しは良い。しかし最も重要なのは、法王が、私がこの一生において仏法のため、衆生のためなら命を惜しまない者であると見てくださったことである。私は自分のことを一切大事にしない。まだ息がある限り、どれほど辛くても法座に上がって修法するのである。
だから、多くの人は、楽に、楽しく仏法を学びたいと思っている。それはいったい何を学んでいるというのか。二日前、私はある金剛乗の法本を見たが、そこにははっきりとこう書かれていた。「もし来世を願うのであれば、金剛乗を修してはならない。」顕教では、来世のために修行することが明確に説かれている。それは、まだ凡夫の段階にある人々の修行である。では、なぜ私たちは阿弥陀仏の浄土への往生を願うのか。それは来世のために修行しているからである。しかし、金剛乗はこの一生を修するのである。この一生で修行を成就すれば、それで成就なのである。だからこそ、金剛乗には大きな力があり、他の人にはできないことを成し遂げることができる。それは、金剛乗の力が大きいからであり、その発心が大きいからである。もし、自分の少しばかりの気性や性格を変えたいというだけで仏法を聞き、仏法によって性格や気性を変えたいと思っているのであれば、私はあなたに、もう来ないよう勧める。なぜなら、あなたはまだ仏法を学ぶ者ではないからである。気性や性格を改めたいのであれば、昔の聖賢たちが残した書物を毎日読んでいても、自分の性格の一部は変えることができる。
今日、私が19名の弟子を選んだのは、どのような条件によるものなのか。その条件を皆に話す必要はない。私は法本に説かれている教えに従って判断しているのであり、それを皆に説明する必要はない。私はあなた方のことをよく知っている。私が何かを言えば、あなた方はそのとおりにするだろう。しかし、それは有為法にすぎない。上師から教えられた仏法を、そのとおりに実践し続けていれば、いつの日か必ず、その成果を上師にお見せすることができる。法王が私に法を伝えてくださった時も同じであった。法王は一度たりとも、「将来お前はこうなる」とはおっしゃらなかった。例えば、私が阿弥陀仏大済度法会の修法を行うようになったのも、ある年に法王が台湾へ来られた時のことである。法王は突然、私をある場所へ連れて行かれた。そこはある人の家で、法王がお泊まりになるための住まいであった。法王は窓辺に座られ、法本を一度読み終えると、「よし、今日からこの法を修しなさい」とだけおっしゃった。壇城をどのように荘厳するかについては何もおっしゃらなかった。修法の際にどのように読誦するかについても、おっしゃらなかった。どのように観想するかについても、おっしゃらなかった。私は何年間にわたり、二万人規模の阿弥陀仏大済度法会を修してきたか。(大衆答:十七年。)もしこの十七年間、私が衆生をきちんと済度できていなかったなら、今日こうして命があるかどうかさえ分からない。まして、この仏寺が建立されることなど決してなかったであろう。
なぜ仏寺を建立することができたのか。もちろん、諸仏菩薩、護法、そして上師のご加護があったからである。しかし、最も大きかったのは、これまで私が済度してきたすべての衆生が、この仏寺建立という大事業を滞りなく成し遂げられるよう助けてくれたことである。世の人々には、私がどれほどの力を備えているかは分からない。しかし、私は今、それを証明した。なぜ法王が私に仏寺を建立するようおっしゃったのか。それは、私が本当に修行を成就しているかどうかを、人々に示すためであった。信じられないのであれば、皆も仏寺でも一つ建ててみなさい。お金があるだけでは、決して建てることはできない。なぜ、お金があっても建てられないのか。それは、数え切れないほど細かな問題があり、お金だけでは決して解決できないからである。一つ一つ、福報と智慧をもって対処していかなければならない。とりわけ台湾では、周囲にまったく人が住んでいない土地を見つけることなど不可能である。そのような場所は見つからない。たとえ海辺まで行ったとしても、必ず誰かが様子を見に来る。この仏寺が建立されたということは、少なくとも、このリンポチェが並々ならぬ福報を具えており、もはや普通の人ではないことを証明している。そして、この仏寺のすべては、仏法の教えにかなって進められてきたのである。
今日、私はこの儀軌を修し、私が選んだ弟子一人ひとりに一対の鈴杵を授ける。この鈴杵は、今日から彼らが、私の伝える密法を受ける資格を得たこと、そして私から気脈明点の教えを受ける資格を得たことを意味している。しかし、それは彼らが大師兄や大師姐になったということではない。なぜなら、彼らには、まだ衆生を教導する資格はないからである。しかし、一つの道場には顕教と密教の双方を修することが必要である。そのため、私は必ずそのような弟子たちを育てていかなければならないのである。
鈴杵は、一つの証しである。金剛乗を修するには、必ず鈴杵と手鼓が必要だからである。鈴杵は空性を表し、事業を表し、また何ものにも打ち砕かれることのないことを象徴している。したがって、一度鈴杵を授かったなら、この一生を通じて自らが大切に持ち続けなければならない。失くしてしまっても、人に使わせてしまっても、それは私には関係ない。自分自身で責任をもって対処しなさい。これから私が修法で鈴を鳴らす時には、鈴杵を授かった弟子たちも私とともに鈴を鳴らすことになる。それは、あなた方が修法の過程に参与する資格を得たことを意味するのであって、あなた方自身が修法を行うということではない。修法の下座で真言を持誦しているからといって、自分もずっと修法しているなどと思ってはならない。そうではないのである。
もう一度あなた方に言っておく。あなた方が真言を持誦するのは、ただ自分の心を散乱させず、しっかりとリンポチェの持誦を聞くためである。皆で一緒に唱えれば、大きな力になるなどと思ってはならない。チベットには、このような言い方がある。戒律を清浄に守る一人の出家者が修する功徳は、帰依した在家衆百人分の功徳に等しい。一人のケンポ(堪布)の修行による功徳は、戒律を守る出家者百人分の功徳に等しい。ケンポとは、出家者に儀軌や閉関修行などを教える者である。一人のリンポチェの功徳は、百人のケンポの功徳に等しい。さらに、一人のンガクパ(鞥阿巴)、すなわち在家で修行するリンポチェの功徳は、百人のリンポチェの功徳に等しい。そして、昔の諸仏・諸菩薩や蓮華生大士が遺された法本を発見する伏蔵師(テルトン)一人の功徳は、百人のンガクパの功徳に等しい。私はンガクパである。では、私一人の功徳は、あなた方にとって何人分になるのか。どれくらいだ。数学の分かる者はいるか。(答:百万人分です。)その通り、百万人分である。だから、あなた方は百万分の一として下で真言を唱えているにすぎない。それで役に立つと思うか。役に立たない。それでもリンポチェは慈悲をもってあなた方にも唱えさせている。退屈しないようにしてあげているだけなのである。
法本にもはっきりと説かれている。いかなる本尊であっても、その本尊を修して成就を得る前に、決してその本尊の真言や本尊の尊像を用いて病人を加持したり、人の物事を変えようとしてはならない。そうすれば、生涯にわたって身体を患い、生涯にわたって財を失い、ついにはその本尊を成就することもできなくなる。今では世間にも、そのようなことをしている人が大勢いる。私の弟子で医師をしている者も、私に帰依する前はそうであった。その弟子は仏の手印を結び、人のために真言を唱え、絶えず手印を結んでいた。しかし、本人はその重大さをまったく理解していなかった。本尊の成就を得ていないにもかかわらず、本尊の力を利用して金銭を得ようとすれば、その果報は極めて恐ろしい。だから、私が仏法を学び始めた頃は、帰依弟子からの供養でさえ、一切受け取らなかった。法王から「受けてもよい」とお許しをいただいて初めて受け取るようになったのである。福報もないのに、どうして供養を受け取ることができようか。受け取ったものは、必ず返さなければならない。だから今でも、まだ帰依していない人からの供養は、私は決して受け取らない。その人は帰依もせず、仏法も学んでいない。私は何をもってその人にお返しすればよいのか。だから受け取らないのである。それはリンポチェに慈悲がないからではない。むしろ、慈悲が深いからこそなのである。
これから私は、一対一対の鈴杵にごく簡単な儀軌を修する。名前を呼ばれた者は前へ出て、この鈴と杵を受け取りなさい。これから先、あなた方は最前列に座ることになる。あなた方の一挙手一投足、瞬き一つまで、私はすべてはっきり見ている。だから、最前列に座るのは決して楽なことではない。もう一つ言っておく。密法を学ぶようになったからといって、自分はすごいなどと思ってはならない。『根本十四堕』にもはっきり説かれているように、金剛乗を学ぶ者は、顕教を学ぶ人を批判してはならず、小乗を学ぶ人を批判してもならない。それぞれにそれぞれの因縁があるのであり、決して批判してはならない。あなた方は、その因縁によって密法を学ぶことになったのであって、それがあなた方を特別に立派な存在にするわけではない。また、密法を学んでいない人が、修行を成就できないということでもない。ただ、顕教によって成就するには、あなた方よりも長い時間が必要になるというだけである。
密法は速成の法であり、一生のうちに成就することもできる。しかし、速やかに成就するということは、それだけ多くのものを差し出さなければならないということである。何を差し出すのか。世間のことは、できる限りしないことである。「しない」とはどういうことか。人には娯楽があっても、あなた方には娯楽はないということである。それでは苦しいのではないかと思うかもしれない。しかし、成就した時には、それが少しも苦しみではないことが分かる。では、今なぜあなた方は苦しいのか。それは、まだ成就していないからである。まだ人間としての生活を送り、人間としてのさまざまな要求を持ち続けているからである。だから、自分の望みどおりに仏菩薩が応えてくださらないと、すぐに苦しいと感じてしまう。しかし、仏菩薩が教えてくださるのは、仏となり、菩薩となり、生死から解脱し、輪廻から解脱することであって、あなた方の小さな欲望をかなえることではない。今日、私がこの者たちに密法を学ぶことを許した以上、これから彼らは今まで以上に苦労することになる。なぜなら、密法の修行は本当に厳しいものだからである。毎日ただ経典を読んでいればよいなどというものでは決してない。非常に厳しい修行なのである。そのことは、私自身を見れば最もよく分かるはずである。
続いて、リンポチェは侍者に一対の鈴杵をお持ちするようご指示された。リンポチェは右手に金剛杵を持ち、左手に鈴を執って振り、真言を持誦して鈴杵を加持された後、自ら弟子の名を一人ひとり呼ばれ、壇城へ上がるようお招きになり、自ら鈴杵を授与された。名前を呼ばれた弟子は、恭しく壇城へ進み、両手を差し伸べて法器を拝受し、右手で金剛杵を、左手で鈴をお受けした。リンポチェは少しも労を厭われることなく、儀軌に則って一対ずつ鈴杵を加持され、自らの御手で弟子一人ひとりに授与された。
19名の弟子がリンポチェより授与された鈴杵を拝受した後、リンポチェは真言を持誦しながら鈴を振られ、この19名の弟子にもともに鈴を振るようご指示くださった。リンポチェは慈悲に満ちた眼差しで、鈴を振る弟子一人ひとりを絶えず加持され、その間、幾度となく慈父のような温かな微笑みをお見せになった。
鈴を振り終えた後、リンポチェは次のようにご開示くださった。「あなた方の鈴の振り方は、本当に人それぞれで実にさまざまだ。私がどのように動かしているかを、まったく見ていない。本当にそうだ。皆、自分のことばかり見ている。私は昔、鈴杵を手に持った瞬間から、自然に鈴を振ることができた。ところが、あなた方の中には、ああでもない、こうでもないという振り方をしている者がいる。末法の時代には、本当に根器を具えた衆生はごくわずかしかいない。鈴杵を授かったからといって、鈴を振れるようになると思ってはならない。」
リンポチェは続いて、金剛杵の正しい持ち方を実際に示された。「あなた方はこのように握っているが、それでは正しくない。手は少し傾けて持たなければならない。このように水平に持ってもいけないし、このように傾け過ぎてもいけない。私は金剛薩埵の持ち方で金剛杵を持っている。しかし、あなた方はまだ金剛薩埵を成就していないのだから、その持ち方をしてはならない。」
リンポチェは再び鈴の振り方を実際に示された後、林姓の弟子を厳しく戒められた。「あなたはそんな振り方をしている。ごみでも捨てているつもりか!音楽を学んでいたのではないのか。そんなことなら、密法は学ばないほうがよい。今、あなたに鈴杵を授けたからといって、私が取り戻せないということではない。これは私のものである。この鈴杵は、二十年前に私がインドから持ち帰ったものである。だから、授かったからといって、自分のものになったと思ってはならない。私はいつでも返してもらうことができる。なぜなら、まだあなたからお金を受け取っていないのだから。」
人がやるのを見ると簡単そうに見えるが、自分でやると、すべてがばらばらになってしまう。法王は一度も私に鈴の振り方を教えられたことはない。それなのに、なぜあなた方は鈴杵を手にしても振ることができないのか。それは、リンポチェは忿怒部を修しているからである。だから、私の鈴の振り方は必ずこのようになる。(リンポチェは自ら正しい鈴の振り方を示された。)普通は皆、このように鈴を振る。これは一般的な振り方である。しかし、私は必ずこのように振る。私は金剛忿怒尊を修し、金剛部の法を修しているので、その手印の用い方が異なるからである。では、どのような時に鈴を振るのか。例えば、アキ護法を修する時、儀軌の中で鈴を振る箇所があれば、その時に鈴を振る。鈴杵とは、智慧を修し、慈悲とともに修することができることを象徴しており、これを「慈悲と智慧の双運」という。だから、自分でこれらの手法をよく学びなさい。
リンポチェは一人ひとりに実際に鈴の振り方を示され、それぞれの誤りを丁寧に指摘された。魏姓の弟子が鈴を振る際、身体まで揺れているのをご覧になると、リンポチェは次のように戒められた。「けんかでもしているのか!私が鈴を振っている時、身体が動いているように見えるか。だから、軽く振るだけで鈴は自然に鳴るのである。私が身体を揺らしているように見えるか。呉姓の弟子も同じだ。初めて鈴を振るとはいえ、皆、身体も手首も硬すぎる。あるいは、一度振ると音がとても小さくなる。どれも間違っている。私はわざと長い時間かけて振り方を見せているのに、それでもあなた方は私を見ていない。周姓の弟子も同じである。仏法は、自分の好きなようにやればよいというものではない。上師がどのようにしているかをよく見なさい。できなければ、帰って何度も練習しなさい。鈴杵を授かったからといって、それだけで金剛部の修行を成就したなどと思ってはならない。まだまだ先のことである。」
鈴杵には五鈷がある。中央の一本を合わせて五本となり、普段あなた方が使うのは五鈷杵である。忿怒尊を修する段階になると九鈷杵を用いる。例えば、私がヘーヴァジュラ(喜金剛)を修する時には、必ず九鈷杵を用いる。これらには、いずれも非常に深い意味がある。また、鈴や杵にもさまざまな等級がある。今回あなた方に授けるこの鈴杵は、その中でもかなり良いものである。
続いて、リンポチェは侍者に手鼓をお持ちするようご指示された。「鈴杵は布袋を用意して入れてもよい。普段、家では壇城にお供えしておくのであれば、袋に入れる必要はない。どこかへ持って行って使う時だけ袋に入れなさい。また、鈴杵を壇城に安置する時は、自分が手に持つ時の右・左の向きのまま置いてはならない。反対の向きにして安置する。壇城では、そのように反対の向きに置くのである。なぜか。それは菩薩がお使いになるものだからである。実際に修法で用いる時になって初めて、右手に金剛杵を持つのである。今後、あなた方にも手鼓を授けることがあるかもしれない。ただし、あなた方が使うのは骨製の手鼓ではなく、木製の手鼓である。」その後、リンポチェは自ら手鼓の正しい振り方を示された後、侍者に向かって、「一人ずつ持たせて、振らせてみなさい。」とご指示になった。
続いて、19名の弟子が一人ずつ手鼓を振った。リンポチェは一人ひとりの手鼓の振り方を丁寧にご覧になり、その都度、正しい振り方を慈悲深くご指導くださり、一つ一つ誤りを正された。
「周姓の弟子、お前は身体が硬すぎる。」「涂姓の弟子は本当に要領が悪い。」(リンポチェは別の弟子を指して)「お前も一緒になって同じだ。」「はい、次。」(さらに別の弟子を指して)「力が入っていない。」(さらに別の弟子を指して)「ご飯を食べていないのか。」「次。」(リンポチェは侍者に手鼓を持って来るよう指示された。)「この木製の手鼓は、もう十分軽い。それなのに、あなた方はこんなにもめちゃくちゃに振っている。」リンポチェはその場で正しい手鼓の振り方を実際に示された。「どこが違うか分かるか。」(弟子答:)「リンポチェは二本の指で、とても力強くお振りになっています。」
だから、修法は簡単なものだなどと思ってはならない。見ているだけなら簡単そうに思えるだろう。しかし、あなた方には一人としてきちんとできる者がいない。力任せにやるものではない。では、なぜあなた方は力任せになってしまうのか。それは、心が柔らかくないからである。特に周姓の弟子は、身体も動きも硬すぎる。では、どうすれば柔らかくなるのか。心に慈悲が育ち始めれば、自然とどんな動作も柔らかくなる。わざわざ学ぶものではない。私も誰かに教わったわけではない。法王も手鼓の振り方を教えてくださらなかった。手鼓を私に渡され、「自分でやりなさい」というだけだった。私もケンポに習ったことはない。自分で少しずつ練習し、自分自身で体得していったのである。なぜか。例えば、まだ手鼓の振り方が分からないうちは、この幡帯の部分をしっかり押さえなければならない。そこを押さえなければ、手鼓が飛んでいってしまう。それなのに、なぜ押さえないのか。実際には、手鼓は手首の力で振るものではない。前腕のこの筋肉を使うのである。」(リンポチェは自ら実際に手鼓の振り方を示された。)「特に施身法で用いる大きな手鼓は、あなた方が想像しているほど簡単なものでは決してない。
今日、この場を借りて、これから密法を学びたいと思っている人たちにも伝えておく。密法は、身・口・意の三つすべてをともに修めなければならない。真言を唱えるだけではない。では、どのようにして身・口・意ができようか。それは、一つ一つの動作、一つ一つの振る舞いが、すべて衆生を利益し、諸仏菩薩を恭敬し、上師を恭敬するためであるからである。もし心の中でいつも自分のことばかり考えているなら、決してできるようにはならない。「上手に見せたい」「きれいにやりたい」と思えば、絶対にできない。「リンポチェのようになりたい」と思っても、やはりできない。すべては、ごく自然に現れるものである。だから、仏法とは一つの学問ではない。何かを教え込まれるものでもなければ、何かを与えられるものでもない。すべては、自らの自性から自然に現れてくるものである。自性が少しずつ本来の姿を取り戻してくれば、鈴の振り方も、手鼓の振り方も自然と変わってくる。何の作為もなく、自然にできるようになる。では、なぜあなた方にはできないのか。それは、あまりにも「うまくやろう」と意識し過ぎているからである。
なぜ私たちは鈴や手鼓を用いるのか。顕教の寺院へ行けば、鐘楼や鼓楼があるのを見たことがあるだろう。実は、その意味は仏法においてまったく同じである。ただ、チベット仏教では鐘と鼓を小さくし、それが鈴と金剛杵、そして手鼓になっただけなのである。では、なぜそれらを用いるのか。経典には、鐘を撞き、鼓を打つのは、六道の一切衆生に仏法を聞かせるためであると説かれている。
あれほど大きな鐘や鼓を、絶えず打ち続けることはできない。そこで、それを小さくしたものが鈴と杵となのである。上師は慈悲の心をもって、鈴杵と手鼓を用い、一切衆生に仏法を聞かせる。手鼓は、散乱した衆生の心を静めるためにある。鈴は、高ぶった衆生の心を静めるとともに、衆生の無明を目覚めさせるためにある。だから、私たちが鐘を撞くのは、自分自身の修行のためではない。地獄道の衆生が鐘の音を聞き、その音を通して仏号を聞くことができるようにするためである。例えば、台湾には旧正月になると鐘を撞き、祈願をする寺がある。そんなことはまったく仏法にかなっていない。鐘にはすべて経文や仏号が刻まれている。鐘が撞かれると、地獄道の衆生はその音を聞くことができる。その音を聞けば心が静まり、その時になって初めて仏号や真言を聞くことができる。そして、それを聞いて初めて加持を受け、利益を得ることができるのである。鐘を撞くのは、自分自身のためでも、国家の運勢を祈るためでもない。そのような考え方は誤りである。
話を戻そう。もし鐘を撞き続ければ、地獄道の衆生の苦しみは軽減される。なぜなら、私たちが鐘を撞く時、地獄道の衆生の苦しみに満ちた心や、氷のように冷え切った心はたちまち和らぎ、清らかで涼やかなものとなるからである。そのように清涼となれば、この世の災難もまた少なくなっていく。一方、手鼓を打つのは、衆生の心が絶えず揺れ動かないようにし、その心を静め、このリズムに合わせて仏法を聞くことができるようにするためである。このように、仏法で用いるあらゆる法器は、すべて衆生のために用いられるのであって、自分自身のためではない。だから、法会に参加する時も、「たくさん法を聞いたから、自分もできるようになる」という考えで来てはならない。そのようなことは、仏典にも説かれていないし、法本にも書かれていない。仏門に帰依していない者は、いつまでも聴講するだけの者にすぎない。聴講するだけの者である以上、本当に仏法を学ぶ機会は未来世を待つほかない。「帰依しなくても、自分一人で修行できる」などと思ってはならない。
鈴と金剛杵は、あなた方も毎回、私がどのように扱っているかを見ているはずである。今回、この19名に実際に鈴を振らせてみたが、一人として正しくできた者はいなかった。誰一人として、きちんと振ることができなかった。心法を精進していなければ、持ち方一つさえ間違えてしまう。あなた方は、私がどのように持っているかを見ているにもかかわらず、なぜ持ち方を間違えるのか。それは、「自分は修行している」「自分で修すればよい」という考えがあるからである。例えば、林姓の弟子は、このような持ち方をしていた。
リンポチェは林姓の弟子を厳しく戒められた。「ごみを捨てる癖がついているのか。若いならまだ何も言わない。しかし、その年齢になっても、少しは気を配ることができないのか。しかも、お前は音楽を学んでいたではないか。交響楽団で鈴を演奏する人が、こんな振り方をすると思うか。それは、お前がとても頑固だからである。周姓の弟子も同じだ。頑固だから、動きがあれほど硬いのである。」
今日、顕教を学ぶ者であれ、密教を学ぶ者であれ、そのすべての行い、言葉、そして思想は、衆生を利益するためであると同時に、自らも輪廻の苦海から解脱するためのものでなければならない。決して、自分の性格を変えるためではない。歴代の上師の中には、気性が激しく、優しい言葉をかけることなく、教えを聞かない者がいれば、すぐに棒で打つような方もおられた。それを見て、「あの上師は性格が悪いのに、どうして修行を続けているのか」と思う者もいるだろう。しかし、それは性格が悪いのではない。それぞれ異なる方法によって、それぞれ異なる衆生を救っておられるのである。だから今日、法会に参加するにしても、仏門に帰依するにしても、仏法を学ぶにしても、決してこの一生のわずかな利益のためであってはならない。もし、その程度の利益のためであるなら、私はあなた方に来ないよう勧める。世の中には、不思議なことや外道・邪道によって、あなた方の小さな欲望をかなえてくれる者はいくらでもいる。しかし、仏法は欲望を満たすためのものではない。仏法とは、生々世々にわたり自分では解決できなかった問題を解決するためのものである。その問題とは何か。輪廻の問題である。自分は輪廻しないと思うのであれば、それは仏法を信じていないということである。また、仏号を称えるだけで阿弥陀仏の浄土へ往生できると思うのであれば、それは仏典を信じていないということである。なぜなら、自分勝手な仏法を作り上げてしまっているからである。仏典に説かれていることは、すべて実践しなければならない。
例えば、「自分一人で修行したい」と思う人は、ここへ法を聞きに来る必要はない。昨日も弟子の一人が来て、「祖母を済度してください」と願い出た。私は、「私に頼みに来るのではなく、お父さんに済度してもらいなさい」と言った。なぜなら、その父親は仏法を信じていないからである。私はその弟子に尋ねた。「お父さんはお経を読んだことがある。複数のお経を読んだ。確か『地蔵経』と、もう一つ何だったかな。」弟子は、「『心経』です。」と答えた。私は、「それなら、お父さんにお祖母さんを済度してもらいなさい。」と言った。『地蔵経』には、済度の方法が説かれているではないか。あるだろう。(大衆答:「あります。」)礼拝を重ね、血が出るほど礼拝し、倒れるほど礼拝し、涙があふれるまで礼拝し、自分の豪邸まで売って仏に供養しなければならない。あなたのお父さんは『地蔵経』を読んでいるのだから、「これは『地蔵経』に書かれていることであって、私が言っているのではない」と伝えなさい。もし、そのように実践しないのであれば、『地蔵経』にはもう一つの方法も説かれている――亡くなった人の名義で、その人の遺したものを善事のために寄付し、亡き人のために広く仏事を行い、自分が修行によって積み重ねた功徳を、その亡き人に回向しなければならない。
密法による済度については、あなた方もこれまで見てきたはずである。私が済度した亡くなった方には、必ず瑞相が現れる。葬儀社の人たちは、一目見れば、その亡き人が私の修法によって済度されたことが分かる。これは彼ら自身が言っていることであって、私が言っているのではない。なぜなら、彼らは生きている人よりも、亡くなった人を見る機会のほうがはるかに多いからである。そこまでできて、初めて「済度」と言えるのである。多くの人は、「リンポチェは慈悲深いのに、なぜ済度してくださらないのですか」と言う。しかし、末法の時代の人々は、済度とは簡単にできるものだと思い込んでいる。それは仏法に対しても、上師に対しても、恭敬の心がないということである。だからこそ、上師に済度をお願いするには、必ず仏典に説かれている条件を満たさなければならないことを、彼らに理解させなければならない。それは私が勝手に作った決まりではなく、仏典に説かれている教えなのである。
最近、私はある弟子の奥さんを済度した。私はそのために一円たりとも受け取っていない。その時に現れた瑞相も、本人は一つ残らずはっきりと目にしている。なぜ一円も受け取らなかったのか。その因縁については、ここでは話さない。少なくとも、その弟子は道場を離れることなく、今も私の弟子であり続けている。私は、一度引き受けたことは必ずやり遂げる。私はお金を一円も受け取らなかっただけではない。その人から水一杯さえいただかなかった。リンポチェは、そのように実践しているのである。だから、リンポチェには慈悲がないなどと思ってはならない。
あなた方が私の帰依弟子である限り、私は二つのことを約束している。一つ目は、必ずあなた方を済度し、三悪道に堕ちないようにすることである。二つ目は、横死させないことである。ただし、五戒を破り、三昧耶戒を破り、密法を修して『根本十四堕』を犯した場合は、私にもどうすることもできない。例えば、魏姓の弟子の息子は、あれほど重大な交通事故に遭いながらも無事であった。それは運が良かったからではない。ちょうどその時、(事故に遭った弟子の)父親は閉関修行に入っていたのである。その父親は、息子が交通事故で亡くなる夢を見た。そして関房の中で、ひたすら私に息子を助けてくださるよう祈り続けていた。このことからも分かるように、父子の情は、上師と弟子との情よりもなお深いのである。
本来、閉関中はどのような夢を見ても、それに心を動かしてはならない。私自身も閉関中に同じような夢を見たことがあるが、私は気にしなかった。なぜ気にしなかったのか。何かが起こるのであれば、それはその人の因縁であり、同時に私の因縁でもあるからである。閉関に入った以上、ただひたすら修行に専念すればよい。しかし、今回の魏姓の弟子の場合は、せっかくの閉関を無駄にした。だから私は、その息子に「父親に孝行しなさい」と言ったのである。父親の貴重な閉関の時間を費やさせてしまったからである。父親として息子のために祈ること自体は、人情として少しも責めることではない。しかし、金剛乗を学ぶ者の心は、いかなる出来事によっても揺らぐことのない、堅固なものでなければならない。だからこそ、私も本当にやむを得ず、ようやく19名を選んで密法を学ばせることにしたのである。
以前、私が閉関していた時、自分の家にこれから災いが起こることを見たことがある。しかし、私はまったく祈り求めなかった。そして後になって、見たとおりのことが実際に起こった。なぜ祈らなかったのか。それは、それぞれの因縁だからである。私は家庭がどうなるかを願うために閉関しているのではない。閉関とは修行のためであり、この一生で成仏する機会を得るため、生死を解脱するため、そして衆生を生死から解脱させるために行うのである。だからこそ、私が済度の修法を行うことができるのは、すべて衆生のためだからである。私は閉関のたびに衆生のために修しているのであって、自分がどうなるかなど、一度も考えたことはない。例えば今回の閉関では、最初の三日間、私はまったくご飯を食べず、野菜だけを口にした。お腹が空かなかったのではない。とても空腹だった。しかし、自分が受ける衣食を少しでも減らし、それを衆生に施そうとしたのである。今日、私たちが食事をいただけるのも、すべて衆生のおかげである。だから閉関中は、その分を衆生に回向するのである。ところが、中には閉関に入る時、お菓子を山ほど持ち込み、「お腹が空いて死んでしまう」と心配している出家者もいる。そんなことで、何が閉関なのか。この色身が生きていて閉関できるのであれば、そのまま修行すればよいではないか。もう一つ言う。あなた方は、本尊も上師も信じていないのか。上師は必ずあなた方を護ってくださるのである。
私が閉関している間は、29名の弟子たちが無事に閉関できるよう、必ず修法をして護っている。健康にも問題が生じないよう加持している。多くの者が病を抱えていたが、結果として皆、何事もなく閉関を終えることができた。彼らは毎日、私が真言を持誦する声を聞いていた。しかし、私の関房には拡声器など設置していない。それでも、彼らは毎日その声を聞いていたのである。今のリンポチェの心は、いつも弟子たちのことを思い、いつも衆生のことを思っている。とりわけ、あなた方が閉関を決意して修行しているのであれば、なおさら私の心はあなた方に向けられている。それでも、なお何かを求める必要があるのか。あなた方が本気で修行するのであれば、何も求める必要はない。修行すると決めたのなら、何を恐れることがあるのか。何度か閉関すれば、すべてが思いどおりになるとでも思っているのか。私はこれまで何度も話してきた。もし本当にそんなに簡単なことであるなら、私が真っ先に法王に向かって、「もう修行しません」と言っているはずである。
私は今年だけでも、すでに二度閉関した。それでも、これからまた閉関しなければならない。毎日、あなた方のことで本当に大変だからである。済度を願う資格もない人が、何とかしてほしいと私のところへやって来る。済度しなければ慈悲がないと言われる。しかし、済度すれば、そのたびに私の福報を使うことになる。自分の福報を惜しんでいるのではない。ただ、私はまだ成し遂げなければならないことが数多くある。だから私は、悟りを求めるためではなく、絶えず閉関を続けているのである。例えば、人を助けたいと思うなら、お金も能力も必要である。それと同じように、私は閉関によって福報と智慧、そしてエネルギーを積み重ね、それをもって絶えず衆生を助けなければならない。衆生を救うということは、ただ仏法を説けば済むような簡単なことではない。一人ひとりの因縁も境遇も、すべて異なっている。昨日も突然、「祖母を済度してください」と頼みに来た者がいた。その人は、自分の父親が仏法を信じていないことを分かっている。そのような状況で、どうして私が済度できるというのか。なぜ父親は信じないのか。それは男のプライドである。男のプライドとは何か。「自分のほうが相手より優れている。たとえ勝てなくても、少なくとも相手の言うことには従わない。」それが男の悲しさであり、雄というものの性質である。一方、今は美容医療や隆鼻術、化粧などが流行っている。女性は、「それなら、あなたと美しさを競えばいいでしょう。」というところがある。しかし、男はそうではない。男は財力や権力を競おうとするのである。
今日、この19名の弟子に鈴杵を授け、密法を学ぶことを許した以上、この19名はこれまで以上に慎み深く、自らを戒めなければならない。私は決して甘くはしない。ほんのわずかな過ちであっても、すぐにここから去ってもらう。なぜなら、密法を学ぶ者が『根本十四堕』を犯した時の果報は、五戒を破るよりもはるかに重いからである。密法は速やかに成就できる法である。だからこそ、その果報もまた重い。顕教は成就までに長い年月を要するため、それに伴う果報も比較的軽いのである。今日、私が特にこの儀式を皆に見せたのは、この19名が他の人より優れていることを示すためではない。修行には必ず次第があることを伝えるためである。ある段階に達すれば、リンポチェは自ら授ける。求める必要はない。そこまで至っていなければ、私の前で涙を流しても何の役にも立たない。私は、自分の命も顧みず、懸命に努力し、全身全霊で修行して、今に至ったのである。もちろん、あなた方に私のように命も家庭も顧みず、すべてを捨てて修行しなさいと言っているわけではない。それは、あなた方には到底できないことである。しかし、少なくとも修行者らしくあってほしい。最後にもう一度言っておく。私たちが今送っている日々の生活は、どれほど計算高く立ち回ろうとも、最後にはすべて空となる。この一生で経験するすべては、過去世から積み重ねてきた業力が現れているにすぎない。その業力を使い尽くした時、この一生もまた終わるのである。
私は今年八十歳になったが、まだ体力がある限り、修行を続けている。もちろん、すべて法本に説かれている教えに従って修している。その結果として、諸仏菩薩、上師、護法が私を護持してくださり、この肉体があまり早く衰えることのないようにしてくださっている。それは、より多くの助けを必要としている衆生を利益するためである。私の男性弟子たちは、一人ひとり年を取っている。七十歳なのに、八十歳の私より老けて見える者までいる。それは修していないからである。修していないとはどういうことか。リンポチェの言葉を少しも心に留めず、自分勝手なやり方で修行しようとしているということである。法本を一冊渡したとしても、私が読誦しなさいと言っていないのに、自分の判断で読んでしまう。それは、上師がいないのと同じことである。上師がいなければ、何をしても決して成就することはできない。法本さえあれば、自分一人で修行して成就できるなどと思ってはならない。絶対に成就することはできない。なぜなら、その法は上師から伝授されたものであり、その上には歴代の上師方がおられるからである。自分の上師に対してさえ恭敬の心がなければ、その上に連なる歴代の上師方が、あなたを顧みてくださるだろうか。決して顧みてはくださらない。歴代の上師方が顧みてくださらないのであれば、諸仏菩薩もまた、当然あなたを顧みることはないのである。
寶吉祥には、もう一つ大切な特徴がある。ここは、お金や名誉を求めて修行する場所ではない。
私はいつも、仏法がこの世に真実のまま伝わり、衆生が本当の意味での正仏法を学ぶことができるよう願っている。ここでいう「正」とは、正式という意味ではなく、正しい方向へ導く仏法ということである。決して道を踏み外してはならない。この一生で道を踏み外してしまえば、再び正しい道へ戻ることは極めて難しい。本当はここまで話すつもりはなかった。しかし、ここまで話してきたら、どうしても一言付け加えたくなった。
なぜ長年出家しているこの弟子に、私は密法を修することを許さないのか。それは、この弟子が非常に重大な過ちを犯したからである。ある時、この弟子は密殿で仏像を清掃していた際に、「仏菩薩はズボンをはいていない。」と言った。しかし、そのことについて今日に至るまで一度も懺悔していない。リンポチェはその出家弟子に尋ねられた。「釈迦牟尼仏がお生まれになった時、ズボンをはいておられたか。」(出家弟子答:「いいえ、はいておられません。」)「それなら、なぜ密教の仏像を見た途端、そのようなことを口にしたのか。それは、お前の心がすでに毒されているからである。顕教では、チベット密教を批判することを好む者が少なくない。その影響を受けてしまっているのだ。それにもかかわらず、お前は今日まで、このことを一度も懺悔していない。私が忘れていると思ってはならない。仏法に関わることであれば、一言一句、一つひとつの行いまで、私はすべてはっきり覚えている。だから、この者は顕教を学ぶほうが向いているのである。
教派全体の正式な認可を受け、さらに法王が自ら加持された仏像が、この仏寺に安置されている。それなのに、まだ何か問題があるというのか。お前はいつ法王になったのだ。いつから、お前がそれを批評できる立場になったのだ。『根本十四堕』には、金剛乗を批判してはならないと明確に説かれている。分からないことがあれば、上師にお伺いすればよい。自分の考えで仏法について意見を述べるものではない。お前はすでに非常に重大な戒を犯しているのに、それすら気づいていない。三壇大戒を受けた時、出家者は口を慎み、軽々しく物事を批判してはならないと教えられただろう。あったか。(出家弟子答:「ありました。」)「それは批判に当たると思うか。」(出家弟子答:「当たります。」)「それでは、自分の比丘戒は今も清浄だと思うか。」(出家弟子答:「清浄ではありません。」)「これからどうするかは、自分でよく考えなさい。私はお前の得度の師ではないし、戒を授けた戒師でもない。どう対処すべきか、自分自身でよく考えなさい。」
だから、仏法において最も大切なのは、ただ一つ、仏法を尊ぶ心である。どのような現象を目にしても、自分勝手に批判してはならない。チベットでよく語られている小さな話をしよう。道端には仏像が安置されていることがよくある。ある日、大雪が降った。一人の人が通りかかると、仏像が雪にすっかり覆われているのを見て、とても心を痛めた。何か覆うものを探したが、見当たらない。ちょうどその時、道端に古い片方の靴が落ちているのを見つけた。そこで、その靴を仏像の頭の上に載せ、これ以上雪が降り積もらないようにした。しばらくして、別の人が通りかかった。仏像の頭の上に靴が載っているのを見て、「誰がこんな不敬なことをしたのだ。」と思い、その靴を取り除いた。では、どちらが正しいのか。二人とも正しいのである。最初の人は、仏像を雪から守りたいと思った。ほかに方法がなく、靴しかなかったので、それで仏像を守ろうとした。だから、その人は正しい。もう一人は、仏像の上に靴を置くのは不敬だと思い、仏像を恭敬するために靴を取り除いた。だから、その人も正しい。では、仏法は何を説いているのか。それは、『心』なのである。
この出家弟子は、心の奥底に密法を排斥する考えが深く根づいている。だからこそ、あの言葉が思わず口をついて出たのである。ここにいる女性たちは、そのようなことは言わない。しかし、この弟子は言った。何十年も出家生活を送り、その間に顕教から密教を批判する話をあまりにも多く聞いてきたからである。仏典にも、仏像がどのような衣をまとわれるかは、それぞれの儀軌や戒律に関わることだと説かれている。例えば、金剛力士は上半身が裸で、下半身も袴を着けているわけではなく、ただ布で身を覆っているだけである。多くの仏典にもそのように描かれている。私はお前に尋ねる。そうではないか。(出家弟子答:「はい。見たことがあります。」)それなら、なぜそれを批判しないのか。どこの仏寺へ行っても、正統な仏寺であり、自分の知らない仏像を見かけたなら、礼拝しなくてもよいし、頂礼しなくてもよい。しかし、決して口を開いてあれこれ言ってはならない。例えば、私たちがブータンへ行き、直貢噶舉派のアキ護法をお祀りする有名な寺院を訪れたことがある。そこは五、六百年以上の歴史を持つ名高い寺院である。中には、私自身も見たことのない仏像が数多くあり、今私たちが修している本尊のお姿とはまったく異なっていた。それでも私は、一言も口にしなかった。法王にお尋ねすることもしなかった。時代によって造られる仏像の姿は異なる。それでも何百年もの間、そのまま大切に伝えられてきた以上、必ずその理由がある。私たちは、ただ恭敬の心を持てばよい。それを受け入れるかどうかは、あなた自身の問題である。その場を離れてしまえば、それはあなたと何の関係もないのではないか。
例えば、この出家弟子が密法を学びたくないのであれば、それは本人のことであって、他人には何の関係もない。しかし、口を開いてあれこれ言ってはならない。その一言を口にした瞬間に、すでに仏を謗ることになる。本人は仏を謗ったとは思っていない。ただ、自分が知らなかっただけだと思っている。だからこそ、仏法を学ぶうえで最も大切なのは、一つの心である。自分の心を少しずつ正しい方向へ改めていかなければならない。自分勝手な考えで、「仏法とはこういうものだ」と判断してはならない。自分の好みによって、「これは受け入れる」「これは受け入れない」と思うのであれば、それはすでに分別の心である。分別心がある限り、永遠に平等なる慈悲の心を修することはできない。平等なる慈悲の心がなければ、戒を破る機会は極めて多くなる。どうか、自分自身を害してはならない。
リンポチェは何十年にもわたって仏法を弘めてきたが、ただ一つ願っていることがある。それは、仏法を学ぶ者が、自分は何のために仏法を学ぶのかをはっきり理解することである。これ以上、ぼんやりと、何となく一生を過ごしてはならない。人生はあっという間に過ぎ去る。私自身も、気がつけば八十歳になっているとは思いもしなかった。では、一生が終わったらどうするのか。どこへ行くのか。その後、どうなるのか。例えば、密乗には、人が亡くなる時に経験するいくつかの過程について説かれており、その内容は非常に明確である。しかし今は、そのすべてをあなた方に話すことはできない。亡くなる時の外面的な苦しみについては、あなた方にも分かるだろう。しかし、その時に起こる内面の変化についても、本当は誰もがよく知っているのである。どういうことか。例えば、気分が落ち込み、何とも言えない苦しさを感じることがあるだろう。どこかがとてもつらいことは自分でははっきり分かっている。しかし、どこがどう苦しいのかと聞かれても、うまく言葉では説明できない。そういう経験はないか。
死とは、まさにそのようなものである。何が起こっているのか、自分でははっきり分かっている。しかし、それに対して何一つ為す術がない。しかし、私たちは金剛乗を学ぶことによって、その過程を知っている。だからこそ、平常心をもってそれに向き合うことができ、輪廻に堕ちることがないのである。もう一つ大切なことがある。それは、上師を絶対に信じることである。「上師は必ず私を救ってくださる。」そのことだけを信じなさい。上師を信じているなら、どのような苦しみも、どのような喜びも、心に掛けてはならない。そうしてこそ、必ず生死を離れることができるのである。本来であれば、今日は仏典について話そうと思っていたが、時間がなくなってしまった。今日、私がこの十九名に密法を学ぶことを許したことを通して、まだその機会を得ていない弟子たちにも、一つはっきり理解してほしい。この十九名があなた方より優れているということではない。ただ、ある一定の条件を満たしたというだけである。だからといって、あなた方にその資格がないという意味でもない。今なおここに残っているということ自体が、すでに「できる」という証なのである。どこが「できる」のか。それは、今でもリンポチェに叱られ続けても逃げずにいられることだ。(大衆笑いながら、「ありがとうございます、リンポチェ!」と答えた。)どこが「できる」のか。それは、リンポチェと一緒に、「どちらが先に年を取るか」を競い続けていることだ。
人生は一場の夢のようなものであり、夢から覚めればすべては空である。だから、自分の考えにいつまでも執着してはならない。この出家者は、まさにその過ちを犯している。だから、どれほど多くの仏経を読んできたとしても、すべて無駄になってしまっている。『金剛経』にも、はっきりと『夢・幻・泡・影の如し』と説かれている。しかし、この者はその一句を信じていない。衆生の悟因がどうだ、福を作ることがどうだと、いろいろなことを語っているが、そのようなことを語っても意味はない。人生が夢・幻・泡・影の如きものであることを理解していなければ、何の役にも立たない。私たち修法する者でさえ、すべては夢・幻・泡・影の如きものであると見ている。もしその見方がなければ、リンポチェが何千キロも離れた場所にいる人を済度したり、加持したり、さらにはその人のことを見通したりすることなど、不可能である。では、これらはどこから来るのか。私が何か神通を開いたからではない。ただ、自分が次第に従い、一歩一歩、絶えず修してきたことによるのである。」
なぜリンポチェはこれからも閉関を続けるのか。それは先ほど話したとおり、より多くの福報を積み、より多くの衆生を救うためである。そして、もう一つ最も大切なことがある。それは、私がこの本尊を修する以上、本尊が成し遂げられることは、私もすべて成し遂げられるようにならなければならないということである。それこそが、本当に上師と相応するということである。この本尊は、実に多くのことを成し遂げることができる。修すれば修するほど、私は自分という存在がいかに小さいかを、ますます深く感じるのである。
その後、リンポチェはアキ護法の儀軌を修持され、続いて鈴杵を授かった19名の弟子に対し、ご自身とともに鈴を鳴らすようご指示になった。
リンポチェは修法を円満に終えられた後、次のようにご開示くださった。今日、鈴杵を授けたことは、あくまでも始まりにすぎない。これから先、さらに多くの人が密法の教えを受けるにふさわしい条件を備えることを願っている。もちろん、それはあなた方自身にかかっている。この十九名にはハタを授ける。それで鈴杵を包みなさい。
この時、リンポチェは涂姓の弟子に鈴を鳴らすようご指示になり、正しい持ち方を根気強くご指導くださった。「鈴は上部の柄を持ちなさい。指で鈴の部分を覆ってはならない。」続いて、リンポチェは闕姓の弟子にも鈴を鳴らすよう命じられ、指で鈴を覆って振る場合と、柄を持って振る場合とで音の違いを自ら確かめさせられた。その後、リンポチェは次のようにご開示くださった。「お前はいつも自分のやり方で物事をしている。上師がどのように鈴を持っているかを、まったく見ていない。毎回、自分は賢いと思っている。しかし、鈴一つさえ正しく持つことができない。そこまで頑固なら、密法は学ばないほうがよい。一日中、自分はできる、自分は優れていると思い込んでいる。」
2026 年 07 月 01 日 更新