尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年02月22日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇られ、殊勝なる施身法法会を主法されるとともに、参会した大衆に貴重な仏法の開示を賜った。リンポチェが法座に昇られた後、長時間にわたり六字大明呪を持誦された。リンポチェの持咒の声が響き始めると、会場にはたちまち勝妙なる香りが満ち、たびたび地が震えるように感じられた。参会者は脈輪の震動を感じ、身体には温かな流れが幾度も巡り、心に浮かぶ雑念は瞬く間に静まった。

続いてリンポチェは大衆に対し、生者および往生者の名前を三度唱えるよう指示され、その後、慈悲に満ちた開示を賜った。

本日は施身法を修持する。この法門は、私はすでに三十数年にわたり修してきた。しかし本日は、初めて参加する人もいれば、最近帰依したばかりの人もおり、この法についてあまりよく知らない人もいるであろうから、ここで簡単に説明しておく。施身法とは、「施」は布施の「身」は身体のを意味する。チベット語では「གཅོད」といい、「断つ」という意味である。では何を断つのか。それは、私たちの煩悩を断ち、また所知障を断つことである。

「所知」とは何を意味するのか。人は誰しも、自分は物事を理解していると思っている。この「知っている」という感覚はどこから生じるのか。それは私たちの眼・耳・鼻・舌・身・意によって生じる、色・声・香・味・触・法から生まれるものである。しかし、このいわゆる「所知」は清浄なる仏性ではない。このような所知によって仏法を学ぼうとすれば、常に人間の思考や人間の方法によって仏法を理解しようとすることになる。その結果、決して、そして到底、仏菩薩や上師の加持を得ることはできない。したがって、私たちは施身法を修し、煩悩障と所知障を断たなければならない。煩悩障は比較的断ちやすい。なぜなら、私たちは生々世々の輪廻の中で常に煩悩を起こしてきたからである。しかし所知障を断つことは非常に難しい。なぜなら、誰もが自分は理解していると思っているからである。例えば、私が「このように話しなさい」と言ったとする。それでも必ず自分の言葉を少し付け加える。それが所知障である。また、私が「このように礼拝しなさい」と言っても、わざわざ自分のやり方を少し加える。それもまた所知障である。この所知障が生じた瞬間に、すでに仏法とのつながりは断たれている。これを小さなことだと思ってはならない。これは非常に重要な問題なのである。

以前、皆にも話したことがあるが、チェツァン法王はチベット人である。法王が私に法を伝えられるときはチベット語で読誦される。しかし私はチベット語が分からない。私はかつて法王に尋ねたことがある。「私はチベット語を学ぶ必要がありますか」と。すると法王は、「時間を無駄にする必要がない」と仰った。それでは、なぜ法王から法を伝えられた後、私は修行によってそれを成就することができたのか。それは、法王が法を伝えられるとき、私の中に「我」がなかったからである。私はただ恭敬の心と謙虚な心をもって、自分の考えを一切持たずに法を受け入れた。だからこそ、その後に修行によってそれを成就することができたのである。多くの人はこのことを信じない。しかし私は自分自身で実際にそうしてきたからこそ、皆に伝えている。もし自分の考えで仏法を学ぼうとすれば、永遠に仏法を学び得ることはない。それでは愚か者なのか。愚か者よりは少しましである。愚か者はそもそも話を聞かないからである。昔の人は言っている。仏法を学ぶ者、仏法を修して成就できる者は「どこか三分のぼんやりさ」を持っていると。ここでいう「ぼんやりさ」とは、あまり利口ぶらないという意味である。あなたたちのようにあまりにも賢い人は、仏法を学ぶことが難しいのである。

私は1995年から仏法を弘め始めて現在に至るまで、度し難い人にはいくつかの種類があると感じている。一つは教師である。教授も含まれる。二つ目は医者である。三つ目は科学者である。そしてもう一つは西洋人である。これらの人々は皆、度することが難しい。なぜなら所知障が特に重いからである。とりわけ、自分には学問があると思っている人ほどそうである。何が難しいのか。それは、自分がこれまで知っている学問を手放し、もともと知らなかったものを学ばなければならないからである。彼らはそれを恐れる。だから、自分の知識を用いて仏法を比べ始める。自分の知識で理解できるか、自分の能力で実行できるか、そうして仏法を測ろうとするのである。私の多くの男性弟子が修行をうまく進められないのも、まさにこのためである。彼らは常に比較している。「この仏法は自分にできるだろうか」と。

仏は「衆生は皆成仏することができる」と説かれている。すべての有情衆生は成仏する条件を備えており、私たちは皆、清浄なる仏性を持っている。しかし、自らその清浄なる仏性を覆い隠してしまっているため、永遠に成仏することができないのである。その結果、自分が知っていること、いわゆるこれまで学んできた経験や知識を用いて仏法を比較し始める。「理解できるか」「聞いて分かるか」「知っているか」「学ぶことができるか」といった具合にである。そのため、この道場の男性弟子は誰一人として修行を成就できていない。それはすべて所知障のためである。私は高校卒業に過ぎないので、とても謙虚であった。誰かが私に法を伝えてくれれば、宝を得たかのように受け取った。自分の考えも要求もなく、将来どうなるかも考えず、ただ仏法が極めて尊いものであると理解していたのである。例えば仏経の中で、釈迦牟尼仏は次のように説かれている。「私の舎利を礼拝するよりも、具徳の上師から一句の仏法、あるいは一句の仏経を聞く方が、その功徳ははるかに大きい」と。しかし多くの人は仏法をひどく歪めて理解しており、完全に取り違えてしまっているのである。

なぜ漢語では「施身法」と呼ばれるのか。それは、この法を修する行者が、自らの身体を用い、観想・密咒・気功などの修法を通して、自身の身体を甘露へと変じるからである。そして、その甘露を上には諸仏菩薩、上師、本尊に供養し、下には衆生に布施して食べさせるのである。衆生が肉を食べたいと思えば、この甘露は肉として現れる。何を食べたいと思うかによって、それぞれ望む食べ物の姿として現れるのである。しかし、その本質はすべて甘露である。なぜ衆生に食べさせるのか。それは、六道のみならず天界に至るまで、すべての有情衆生は食べ物を必要としているからである。ただし、仏菩薩だけは食べ物を必要としない。したがって、六道の衆生は皆、食べ物を求めているのである。

私たちが生きている間、食べ物に対する欲望は非常に強い。もし一日食べないように言われれば、皆はとても苦しいと感じるであろう。しかし実際には、一日食べなくても大丈夫なのか。もちろん可能である。私は実際に試したことがある。二日間何も食べずに閉関したこともあるが、それでも問題はなかった。では、毎日たくさん食べなければ栄養が取れないのか。これも私は試したことがある。ただし、ここで強調しておくが、決して私の真似をしてはならない。本当に真似してはならない。なぜなら、現在の台湾にはリンチェンドルジェ・リンポチェは一人しかいないからであり、二人目は存在しないからである。例えば、私が三か月以上の閉関を行ったとき、毎日食べていたのは、白湯で煮た白い麺を二杯と、数枚の野菜、そして自分で持参したプーアル茶だけであった。それ以外には何もなかった。これが何を示しているのか。それは、食欲というものは人間の要求に過ぎないということである。人間にとって最も基本的で、最も強い欲望の一つが「食べること」なのである。したがって施身法とは、修法者が慈悲の心をもって自らの身体を衆生に布施し、衆生に食べさせる法である。衆生が満腹になれば、少しは素直になり、その時にはじめて彼らを済度することができるのである。

チベットの仏法は、中国に伝わる仏法と同様に、顕教と密教に分かれている。顕教とは、文字どおり目に見えて理解できる教えのことであり、たとえば仏経や懺悔の礼拝などを教えるものがこれに当たる。このようなものを顕教という。それに対して、もう一つが密法である。密法は中国ではすでに失伝しており、インドでも同様に失われている。中国ではかつて「唐密」と呼ばれ、唐の時代に盛んに行われていた。唐密の一部は日本へ伝わり、日本では「東密」と呼ばれている。しかし、日本の東密は完全な形ではなく、その一部分のみが伝わっている。さらに別の一部分は、インドからチベットへ伝わり、これを「チベット密教(蔵密)」という。チベットの仏法にも当然、仏経が含まれている。たとえば私が毎週日曜日に講じている『宝積経』もそうであり、ジッテン・サムゴンも生前、しばしば『宝積経』を講説されていた。同時に密法も存在するが、密法はもちろん、誰でも学び修行できるものではない。その条件は非常に厳しいのである。

施身法は、密法の中の一つの法門である。チベットでは、密法には「八大成就法」があると説かれている。すなわち、密法には八つの大きな成就の法門があるということである。もしこの一生において、その中のいずれか一つの密法を専ら修行し、ただひたすらその一つの法門を修し続けるならば、この一生のうちに必ず成就を得ることができる。ここでいう成就とは、この生において必ず輪廻から解脱し、生死を超え、再び輪廻することがなくなるという意味である。施身法は、この八大成就法の中の一つに含まれている。また施身法は、密教の中の事部・行部・瑜伽部を含んでいるが、最後の無上瑜伽部は含まれていない。さらに、施身法の修法の中には、ポワ法も含まれているのである。

では、施身法はどのようにして生まれたのであろうか。千年以上前、チベットに一人の女性の瑜伽行者がいた。彼女は結婚しており、子どももいた。彼女は仏法を学んだ後、絶え間ない修行を重ね、その結果、この施身法の法本を書き著したのである。この法本の理論は、『大蔵経』に収められている『大般若経』に基づいている。『大般若経』が説いているのは「空性」である。空性とは、仏法において最も重要な修行の方向の一つである。もし施身法を学び、修する者が空性を有していなければ、この法を修して成就することはできないのである。

施身法は、密教の修法としては、事部・行部・瑜伽部の体系を用い、さらに息法・懐法・誅法という三種の法を用いて修される。この法は、瑪吉拉尊によって伝えられた後、さらに父部と母部の二つの系統に分かれた。彼女の夫の系統から伝えられたものは父系と呼ばれ、瑪吉拉尊自身から伝えられた系統は母系と呼ばれている。現在でも瑪吉拉尊の寺院はチベットに存在しており、私たちの直貢梯寺(ディクンティル寺)からそれほど遠くなく、一日から二日ほどの行程で到達することができる。したがって、この生において、あるいは過去世からの業が非常に重い人にとっては、施身法を修することが最も適している。施身法は、自身が累世にわたって作ってきた悪業を処理することができるだけでなく、六道に存在するすべての有情衆生を済度することもできるのである。
 
施身法を修するには、いくつか特別な法器が必要である。古い時代には、多くの寺院で毎日一座、あるいは二座の施身法が修されていた。しかし現在では、その法器が次第に少なくなってきたため、多くの寺院ではこの法を修することも少なくなっている。現在、一千人以上が集まる道場において、施身法を公開して修することができる場所は、台湾では存在しない。私はこの法を用いて、すでに数十年にわたり衆生を利益してきた。もし長くこの法を修し続ければ、身体にも、修行にも、さらには歴代の祖先にも利益があるのである。

重要なのは、法会に参加する際、第一に懺悔の心を持つことである。自分が生々世々において仏法の中で真剣に修行しなかったために、今生でも再び輪廻してきたことを懺悔しなければならない。また、まだ仏門に帰依して仏法を学ぶ前には、私たちは身・口・意によって数多くの悪業を作り続けてきたが、自分ではそれに気づいていない。この法会に参加する目的は、まさにそれらの悪業を断ち切ることにある。第二に、私たちは慈悲の心を持たなければならない。それは自分自身や自分の祖先のためだけではなく、すべての有情衆生がこの法器の音を聞いたとき、自ら法会に集まり、上師による済度を受けることができるよう願うためである。密法の中でも、この法だけが特にこの法器を吹くことを必要とする。この法器は人のふとももの骨で作られたものである。多くの顕教の人々は、チベット密教が多くの骨を用いることを批判するが、実は骨を用いることには非常に深い意味がある。ただし今日は時間があまりないので、その説明はここではしないことにする。

なぜふとももの骨を吹くのか。それは、ふとももの骨から出る音が、鬼道や地獄道の衆生にとって非常に親しみやすい音だからである。もし私たちがただ真言を唱えるだけであれば、その衆生たちはその音を聞いて恐れてしまう。そのため、腿骨を吹いて呼び寄せるのである。しかし、この腿骨は誰でも吹けるわけではない。施身法を修得した上師だけが吹くことができる。吹き出される音には、慈悲の力と引き寄せの力が含まれており、衆生の神識を呼び寄せることができる。そのため、私が施身法を修しているとき、多くの人は突然寒く感じることがある。それは、空調が冷たくなったわけでもなく、天候が変わったわけでもない。中陰身の衆生が入ってきているからである。しかし、中陰身が来るのは済度を受けるためであり、皆に害を与えることはない。だから、たくさんの鬼が来て自分に憑くのではないかと心配する必要はない。安心しなさい。あなた方にはそれほどの福報がまだないのだから、憑いても意味がない。

いま私が手に持っているこの法器は、私の根本上師であるチェツァン法王が前世で使われたものであり、法王から私に伝えられたものである。その意味において、直貢噶舉の施身法の法脈は、現在私の手にあると言える。では、適当に腿骨を掘り出してきて使えばよいのか。そうではない。必ず一定の形状・規定・規格があり、それに合うものでなければならない。どのような骨でも使えるわけではないのである。さらに現在では、法律の規定により、人が亡くなった後三日以内に火葬しなければならないため、このような腿骨を得ることはすでに難しくなっている。このような腿骨がなければ、この法は完全には修することができない。施身法の法本には、自分自身のために修するものと、衆生のために修するものの二種類がある。自分自身のために修する場合は、腿骨がなくても修することはできる。しかし、衆生のために修する施身法の場合には、必ず腿骨を用いなければならないのである。

では、この法門を私はどのようにして学んだのか。今から三十数年前、雲南に直貢噶舉の寺院があり、私はその寺院を長く護持していた。ある時、私は彼らに「衆生を済度するための特別な法はないか」と尋ねた。すると彼らは、八十歳を超える一人のラマを探してきた。その老ラマは中甸から昆明まで来て私に会いに来たのである。この老ラマは、生涯一度も寺院を離れたことがなく、一生を通してただ施身法の修行をしてきた人であった。しかも彼は漢語を話すことができなかった。私に会うと、まず私に鈴と鼓を鳴らすように言った。そして私がそれを手に取ると、すぐに正しく鳴らすことができるのを見て、簡単な施身法の儀軌を私に伝授してくれた。それから私はこの法を修し始めたのである。

その後、法王は私がこの法を修していることを知り、二度にわたり灌頂を授けてくださった。一度目はインドで、二度目はここで授けていただいたものである。インドで灌頂を授かったときのことである。当時、私はインドで閉関していた。ある日、法王は私に「夜七時に私の関房へ来なさい」と言われた。その時の空は真っ暗で、星も月も見えず、空一面が黒い雲に覆われていた。法王が法を伝え終え、回向文を唱えたその瞬間、突然、空に雷が三度鳴り響いた。すると法王は私にこう言われた。「あなたは将来、この法によって必ず成就を得るであろう。」私が法王の関房を出た後、それまで見えなかった月と星が一斉に現れた。これはとても良い兆しであり、将来、私は施身法を用いて多くの衆生を利益することができるという意味なのである。

これが施身法の来歴である。そのため法王は、この地においてもう一度私に灌頂を授けてくださった。なぜなら、私が現在済度する衆生の数がますます増えているため、さらに多くの福報と資糧を得て、衆生を済度する助けとするためである。もしこの法を学んでいなければ、衆生を済度することはできない。ある人は「自分も衆生を助けたい」と言う。私はよく例えを挙げるが、もし溺れている人を救う救助員になりたいなら、まず自分が泳げるようにならなければならない。そしてまず自分が溺れないようになってから、初めて人を救うことができるのである。ただ口で「人を助けたい」と言うだけ、あるいは真言を唱えるだけで人を助けられるわけではない。必ず順序を踏んで仏法を学び、修行し、閉関を行う必要がある。また、閉関とはただ数時間座って動かないことを指すのではない。その中には、実際に行わなければならない多くの修行があるのである。

今日は施身法の本尊について、簡単に紹介しておく。このあと私が法本を持って修法を行うとき、皆は慈悲心、懺悔心、そして上師を尊敬する心をすべて起こさなければならない。もしそのような心がなければ、この法による加持力は、あなたにとって非常に限られたものになってしまう。

続いて、リンポチェは腿骨の法器を吹き鳴らされた。法器の音は悲しく深く長く響き渡り、平等なる慈悲心をもって衆生を招き寄せ、済度を受けさせた。その時、会場にいた多くの者は、次々と冷たい気配を感じた。リンポチェは大手印の禅定の中に入り、勝義菩提心をもって観想し、自身のすべての血肉と骨を甘露へと変じさせ、少しも惜しむことなく諸仏菩薩に供養された。そして、六道のすべての衆生に対して平等に布施されたのである。リンポチェは衆生を憐れむあまり、幾度も涙を流された。

修法の過程において、リンポチェは六字大明咒を持誦された。その真言の響きは人々の心の奥深くまで届き、リンポチェの慈悲の願力は温かな流れとなって、衆生の内なる苦しみを取り除いた。また、煩悩や執着を静かに鎮め、会場にいた多くの人々は深く心を打たれ、感動に包まれたのである。

修法が円満に終わると、リンポチェの御身、そして仏像や壇城から、まばゆい金色の光が放たれた。大衆は、リンポチェが衆生を輪廻の苦海から救い出そうとされる、深く広大なる大悲の心に深く感謝し、思わず涙を流したのであった。

続いて、リンポチェは弟子たちを率いてアキ護法の儀軌を修された。その後、出家弟子に指示して、大衆を導き回向文を唱誦させた。弟子たちが一度『極楽浄土往生祈願文』を唱え終えた後、リンポチェはすぐに重厚で力強い声で、心を込めて唱誦を始められた。すると、会場の大衆は申し合わせたかのように直ちに唱誦を止め、ただひたすら上師の慈悲に満ちた法音に耳を傾け、その殊勝なる加持を受けたのであった。

続いて、リンポチェは次のように開示された。

旧正月のこの数日間、仏寺を参拝する人が少し増えた。佛寺を訪れた人は、寺院の内外においてさまざまな香りを感じるはずである。敷地内に一歩足を踏み入れた瞬間から、その香りを嗅ぐことができる。しかし、あなた方はそれを「当然のこと」だと思っている。だが、「当然」という言葉はない。なぜ普段、道場では香りを感じないのに、私が修法しているときだけ香りが現れるのか。そうではないか。(大衆答:はい。)そして、たとえ私が仏寺にいなくても、仏寺には同じように香りがある。そうではないか。(大衆答:はい。)それは、仏寺のこの土地が非常に清浄で、風水も大変良いからである。ひとたび修法が行われれば、特に八つの火供を修した後には、諸仏菩薩は自然にその場所におられるのである。

この香りは、人が作り出したものではない。実際に仏寺を訪れたことのある人なら誰でも知っているが、普段、修法をしていないときには大殿で線香を焚くことはなく、灯しているのはただ酥油灯だけである。それでも現れるこの香りは、さまざまであり、一つではない。ちょうど『華厳経』に説かれているように、多種多様な香りがある。なぜなら、本尊や護法ごとにそれぞれ異なる香りがあるからである。また、修行して天界に至れば、必ず香りが現れる。そのため経典には、天人の寿命が尽きようとするとき、その身の香りが消え、やがて臭いに変わると説かれている。この道理から考えれば、寶吉祥仏寺と、私のこの壇城には、常に諸仏菩薩がおられるということが分かるのである。

あなた方は仏寺へ行くことを、時間の無駄のように感じているかもしれない。しかし実際には、あなた方も中南部へ遊びに行くことがあるだろう。苗栗の近くにも、遊びに行ける場所はたくさんある。それならば、遊びに行くことも出来れば、仏寺を参拝し、加持を受けることもできるのである。仏経には、このような香りは簡単に得られるものではないと説かれている。必ず諸仏菩薩がある場所で法を説かれるとき、その時には雲が現れたり、さまざまな香りが現れたりするのである。多くの人の親戚や友人も、他の寺院へ行ったことがあるであろう。そのような香りを嗅いだことがあるか。(大衆答:ありません。)私ははっきり言うが、絶対にない。なぜなら、仏の教えに従って正しく一つの寺院を建立し、その中で仏法に則って修行するならば、仏が説かれた戒律を一つとして破ることはできないからである。仏経には次のように説かれている。「禮佛一拜、罪滅河沙。禮佛一拜、已成佛道。」(「仏に一礼すれば、河沙のごとき罪が滅する。」「仏に一礼すれば、すでに仏道を成ずる。」)しかし、これは普通の場所で仏像に礼拝することを意味しているのではない。護法、諸仏菩薩、そして修行者がいる場所で礼拝してこそ、真の功徳があるのである。もちろん、普段の礼拝でも、もし心が非常に敬虔であれば功徳はある。しかし、本当に敬虔な心を持つ人はほとんどいない。多くの人の心は、ただ加護を求めたり、何かを求めたりすることばかりだからである。そのため、求める心の強い人は、仏寺へ行っても香りを感じることができない。たとえ少し感じても、すぐに消えてしまう。しかし、敬虔な心をもって参拝する人は、必ず多くの香りを感じる。違いはそこにあるのである。私は仏寺に香りを置いているわけではない。それでも、香りはずっとそこにあるのである。
仏寺は一昨年の十一月に開眼して以来、今に至っている。しかし、帰依している弟子たちを見ると、皆とても忙しそうで、なかなか仏寺へ来ない。あなた方が来なくても構わない。だが、少なくとも人々に本当に修行している仏寺とはどのようなものかを知ってもらうことはできるはずである。本当に修行している仏寺と……いや、この言葉は言えないな、人を怒らせてしまうから!(大衆笑)とにかく……普通のものとは違うのである。そこでリンポチェは、出家して三十年以上になる弟子に尋ねられた。「あなたは私よりも経典をたくさん読んでいる。『華厳経』では、このような香りを嗅ぐとどうなると説かれているのか。」(弟子答:経典には、牛頭栴檀の香りや、さまざまな花の香り、檀香などがあると説かれています。)リンポチェはさらに尋ねられた。「経典には、それを嗅いだらどうなると書いてある?」(弟子答:智慧が開くと説かれています。)リンポチェ:「あなたはたくさん嗅いでいるのに、まだ開いていないな。」(弟子答:はい。)リンポチェは、別の出家弟子にも尋ねられた。「あなたは私に『華厳経』を供養してくれた。つまり読んだことがあるはずだ。あなたも言ってみなさい。」(弟子答:このような香りを嗅ぐと、心身がとても軽やかで安らかになり、法喜が生じます。)リンポチェは続けて言われた。私たちは普段、煩悩の心をもって生活している。坐禅をしたり、帰依したり、菜食をしているからといって、煩悩の心がなくなるわけではない。諸仏菩薩と上師が絶えず加持してくださってこそ、その煩悩の心は次第に消えていくのである。

先ほど法会の中で、私が真言を持誦していたとき、ここにいる約一千人の皆は、自分の念頭がずいぶん少なくなり、あるいはほとんどなくなったことを感じたはずである。そうではないか。(大衆答:はい。)しかし、リンポチェが毎日あなた方のために法会を修すことはできない。だからこそ、この仏寺を建立し、このような環境をあなた方のために整えたのである。あなた方はきっと、「道場の方が便利だ」と言うであろう。しかし道場は市街地にあり、一つのビルの中にある。その中で他の人が何をしていても、私はそれを管理することができない。例えば、上の階で誰かが好きなものを食べていても、私はそれを止めることはできない。しかし、私の仏寺ではすべてが清浄である。

この道場がなければ、仏寺も存在しなかった。このような五濁悪世の中で、清浄な道場を建立すること自体がすでに非常に難しいことである。では、私たちの道場にはどのような特徴があるのか。光明灯がないということである。そうではないか。(大衆答:はい。)旧正月の時期には、多くの場所で光明灯を灯す。例えば、ある道場では「龍の灯」を一つ灯せば、一年間平安が守られるなどと言う。しかしリンポチェは、そのようなことはしない。私はただ仏法を用いて、絶えずあなた方のために修法しているだけである。なぜなら、仏経にはそのようなことは説かれていないからである。仏経に説かれていないことは、私はしないし、また敢えてすることもない。そうしてこそ、清浄な道場を維持することができる。そして、清浄な道場があってこそ、清浄な仏寺へ発展させることができるのである。あなた方は、道場に来る方が便利で、仏寺へ行くのは面倒だと思っている。車に乗らなければならないし、お金もかかる。しかし、それはあなた方の考え方に過ぎない。ニュースを見ると、ある場所では数万人もの人が押し寄せ、ただ一本の線香を立てるために並んでいる。そして、その一本の線香を立てれば、今年は加護があり、金運も良くなり、平安になると思っている。だが、そんなことはあり得ない。たった一本の線香で、そんなに多くのものと引き換えることができるであろうか。

皆に勧めておきたい。現在のこの五濁悪世の中において、寶吉祥仏寺と寶吉祥道場のようにこれほど清浄で、正法を弘めるために多くのことを犠牲にしている場所は非常に貴重である。だからこそ、あなた方はこのような正法の道場をしっかりと支えなければならない。そうではないか。(大衆答:はい!)とはいえ、あなた方にも難しいことはある。ここにいる男性たちを見ても、なかなか修行の成就ができていない。しかし、どうしてあなた方は親戚や友人を仏寺へ連れて来ないのか。それは話さないからである。恥ずかしいと思ったり、お金がかかるのではないかと思ったり、人を誘うのが面倒だと思ったりしている。もし自分が修行で成就できないのなら、それでも構わない。しかし、随喜することはできるはずである。七支供養の中には、随喜という修行がある。なぜ随喜しないのか。これもまた修行の方法の一つなのである。しかしここにいる男性たちは、私には誰かを仏寺へ連れて来た姿をほとんど見たことがない。ごくたまに数人いるだけである。少しは恥ずかしくないのか。何もかも、ただ私のところから受け取るばかりではないか。

今、これほど良い仏寺をあなた方のために建立しているのに、なぜあなた方は親戚や友人を連れて参拝に来ないのか。そんなに忙しいのか。私はこれから一つ方法を考えている。もしここに既婚の夫婦がいるなら、私はその奥さんたちに直接聞くつもりである。「夫を忙しくさせて、仏寺を参拝する体力もないようにしているのか」と。私は本当にそうする。もし奥さんが「そんなことはありません」と言ったら、それはあなた自身の問題ということになる。いったいあなた方は、ここに来て何を学んでいるのか。ここにいる男性の皆に聞きたい。もしあなた方が、自分はリンポチェのようにはできないと思うなら、それでも構わない。修行ができないなら、それでもよい。しかし、随喜することはできるはずである。私たちは毎回修法の前に七支供養を唱える。その中の一つが、随喜し、功徳を讃嘆することではないか。そうであろう。(大衆答:はい。)では、あなた方は本当にそれを修しているのか。ここにいる男性たちよ、言うことを聞きなさい。私があなた方と、ただ時間を浪費していつかどうにかなるまで付き合うと思わないことである。

昨日の出来事を一つ話そう。ある帰依して十五年になる女性の弟子が結婚した。私は彼女が結婚して何年になるのかは聞かなかったが、突然彼女は「妊娠した」と言った。しかし、それは胎児のいない妊娠だと言う。(弟子答:空胞妊娠、いわゆる空包胎です。)リンポチェ:「謝姓の弟子、説明してみなさい。」(謝姓の医師弟子答:胎児のいない妊娠というのは、子宮の中にただ空の水泡のようなものがある状態です。)リンポチェ:「つまり、水泡だけということだな。」(謝姓弟子答:はい。)

昨日、その女性は済度を求めて来た。その時になって初めて、彼女が結婚していることを私は知った。しかし、結婚して何年になるのかは彼女は言わなかった。彼女がとても愛しているその夫は、菜食をしていない。だから昨日、私ははっきりと言った。「私は済度しない。」実際のところ、そもそも済度する必要もない。なぜなら神識が存在していないからである。そして私は彼女に、今日の法会には来ないようにと言った。リンポチェはこれまで何度も言ってきたではないか。もし結婚するなら、まず相手が菜食できるかどうかをはっきり確認しなさいと。そうではないか。(大衆答:はい。)だから昨日、私はとても分かりやすく説明した。あなたが菜食で、相手が肉食なら、二人がキスをすれば唾液はお互いに交換される。彼は肉食だから、必ずネギやニンニクを食べている。そのネギやニンニクの成分があなたの体に入ってくる。そうなってしまったら、あなたが経を読んでも、真言を唱えても意味があるのか。仏経には、意味がないと説かれている。それなのに、言うことを聞かない。長い間こそこそと隠してきた。彼女は結婚して何年になるのか。(弟子答:結婚する準備をしています。)まだ結婚していないのか?結婚の準備中なのか?それなら、これは警告のサインだ。彼女は十五年間帰依している。私は法座の上から、毎回同じことを言ってきた。私はあなた方の結婚を止めているのではない。むしろ、女性の弟子たちには早く結婚することを勧めている。しかし、アキ護法に祈ることもしていない。多くの人はこう考える。「とりあえず結婚してから考えよう。」あるいは、「自分が彼を変えられる。」しかし、米がすでに炊き上がってしまった後では遅い。その時になって、彼があなたの言うことを聞くと思うのか。まだ米が炊き上がる前に、鍋の蓋を開けて見せてはいけない。彼にこう言いなさい。「あなたができないなら、私は蓋を開けない。」そう言えばよい。しかし結局、自分自身が我慢できないのである。

だから、まだ結婚していない人たちは、よく聞いておきなさい。今後、自分の男性をここへ連れてきて、「彼は菜食をしないのですが、どうしたらいいでしょう」などと言っても、私は取り合わない。信者なら私は管轄できないが、あなたが私に帰依しているなら、少しは注意することができる。もう一度言っておく。菜食そのものは、仏法修行の法門の一つではない。しかし菜食には三つの大きな意味がある。第一に、殺生をやめることで、殺そうとする意念を次第に弱めることができる。そうして初めて、慈悲の心を修することができる。第二に、衆生と悪縁を結ばないためである。第三に、身体が健康になる。このほかにも多くの利点がある。現在、西洋でも多くの研究によって、肉食は身体に良くないということが証明されている。ある人は、「子どもが菜食では栄養が足りない」と言う。しかし私の道場には、母胎の中にいる時から菜食で育った子どもがたくさんいる。胎内から菜食を続け、今では皆すでに大きく成長している。だから、肉を食べなければならないという迷信を信じてはいけない。仏経では、私たちに殺生をしないよう勧めている。そのため、殺生を避ける方法として、私たちは菜食をするのである。ある人は、「チベットのラマには肉を食べる人も多い」と言う。しかし、それは彼らの事情であって、私には関係のないことである。

ジッテン・サムゴンは菜食であった。チュワン・リンポチェ(竹旺仁波切)も菜食であった。ミラレパもまた菜食であった。それなのに、あなた方はなぜ肉を食べてよいと思うのか。しかも、わざわざ肉を食べる相手を選び、「結婚してから考えればいい」「結婚したら、ゆっくり菜食に変えさせればいい」「自分が相手を変えられる」そんなふうに思っている。しかし、結婚する前に変えられなかった相手が、結婚した後に変わると思うのか。私はそれを信じない。もしそうするなら、最初から条件をはっきり言いなさい。「あなたが私を望むなら、この条件を守りなさい。守れないなら、私は別の人を探す。」そう言えばよい。ただし、家に帰って「リンポチェがこう言った」などと言ってはいけない。(大衆笑)私はあなた方に直接言ったのではない。ただ、ここにいる出家の人たちに話しただけである。だから、リンポチェの意味を誤解してはならない。

また一年が過ぎた。皆は修行の面において、もう少し心を込め、力を入れて取り組まなければならない。だらだらして、力が入らず、生きているのか死んでいるのか分からないような状態で、いったい何の意味があるのか。ある弟子に、私は百字明を伝授した。すると彼は「一日に二百回唱えています」と言った。私は言った。「あなたはそんなに忙しいのか。それとも、今ちょうど大金持ちになろうとしているのか。」彼は「まだお金持ちにはなっていません」と言った。それならば、いっそのこと唱えない方がよい。なぜなら、精進していないからである。自分は唱えているから修行していると思ってはいけない。唱えていることと、精進していることは同じではない。在家の者にとって修行はすでに非常に難しい。それなのにさらに怠け、だらだらと力を入れず、今日はやらず、明日やればよい、明日になったらまた唱えよう、明日になったらまた修行しよう、そんなふうにしていては、あなた方にはもう時間は残されていない。仏菩薩が特別にあなたを守ってくれるなどと思ってはいけない。

仏経にははっきりと説かれている。仏菩薩が守り、加護するのはどのような人なのか。それは、菩薩道を修しようと発心した人である。もしあなた方が修行しようとしないなら、それは菩薩道を修する準備がないということであり、ただ加護を求めているだけである。もちろん、加護を求めることを仏菩薩は拒まない。しかし、あなた方が心の中で望んでいる通りにすべてが実現するわけではない。なぜなら、菩薩は衆生の果報を変えることはできないからである。それは自分自身が変えなければならない。例えば、私が癌になったとき、なぜ私は法王に祈らなかったのか。それは法王が霊験でないからではない。これは私自身の因果だからである。自分のことは、自分で向き合い、自分で処理しなければならない。だから私の癌は、自然に治ったのである。しかし、この道理を信じる人はほとんどいない。

昔、私の末娘が生まれる前のことである。私は、彼女が生まれるときに困難があることをすでに知っていた。その時、私は道場に戻って助けを求めたが、「今、道場にはお金がないのに、どうしてまだ求めるのか」と言われた。私は言った。「それならいい。求められないなら、私は自分で修行する。」それから私はアキ護法の修法を続けた。すると、ついにアキが自ら現れて、私に姿を見せてくださった。ここで言う「見た」というのは、目を閉じて座り、体を揺らしながら瞑想して見たという意味ではない。目を開いたまま、はっきりと見えたのである。諸仏菩薩は、私たちを守らないことはない。上師もまた、あなた方を守らないことはない。しかし、その前にあなた方自身が自分を守ることを知らなければならない。怠けてはいけない。いい加減に毎日を過ごしてはいけない。ただ一日一日をなんとなく過ごしていてはならない。あなた方がどれほど忙しいと言っても、私より忙しい人はここには一人もいない。それでも私は修行してここまで来た。では、なぜあなた方は修行できないのか。それは、理由ばかり探しているからである。楽な生活を送りたい、毎日を気楽に、快適に過ごしたい。もしそうなら、いったい何のために修行するのか。

私はかつて皆に話したことがある。歴代の成就者や修行者は、皆、人生の多くの苦を味わってきた。私も、あなた方に苦しみを味わってほしいとは思わない。しかし、もしあなた方にそのような苦を受けさせないのであれば、その代わりに、あなた方自身が努力して修行しなければならない。あなた方が「修行は苦しい」と感じるその心構えをもって、本来受けるべき苦の代わりとしなければならない。仏経にははっきりと説かれている。苦の因縁を滅しなければ、その苦の因縁は永遠にあなたについて回るのである。あなた方は何をするにも苦を恐れている。少し多く唱えるのも苦だと思う。少し多く礼拝するのも苦だと思う。少し多く仏寺へ行くのも苦だと思う。だから、苦の因縁はいつまでもあなたについて回るのである。あなたには善い因縁がない。何をするにも苦を恐れているのだから。よく家に帰って、自分でじっくり考えてみなさい。
あなた方は輪廻の苦を恐れていない。しかし、輪廻こそが本当の苦なのである。リンポチェが毎日祈っていることは、ただ一つである。それは、すべての有情衆生ができるだけ早く輪廻の苦海から離れることである。世間の小さなこと――病気にならないようにとか、すべてが順調にいくようにとか、そのようなことのためではない。それらは小さなことである。しかし、輪廻は大きなことである。釈迦牟尼仏がこの地球に降誕し、仏法を説かれたのは、ただ一つの大事のためであった。それは、衆生に教えを説き、衆生が輪廻から解脱するのを助けるためである。あなた方が想像しているように、加持によってあなたを良くし、良くなってからまた仏法を学ぼう、というようなものではない。そういうものではない。そのように誤解してはならない。今日はもう十分に話した。これ以上は話さない。(大衆:リンポチェ、ありがとうございます。)

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2026 年 02 月 23 日 更新