尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会での開示 – 2026年02月17日
2026年2月17日、旧暦正月元日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北・寶吉祥仏法センターにおいて《三十五仏懺》を主法され、懺悔法門の意義と重要性についてご開示になられた。あわせて殊勝なる黒水財神法および大象財神法を修持され、慈悲をもって衆生が仏法を学ぶための資糧と福報を積むことができるようご加持くださったのである。
仏法を学ぶ要は、上師を恭敬し、布施供養の心を発し、上師に対して無比の信心を生じ、心の奥底から徹底して懺悔し、勇気をもって罪業の果報に向き合うことにあるのである。リンポチェは慈悲をもって大衆をお諭しになり、人生は苦く短いものであるゆえ、決意を定めて真摯に仏法を学び、この生において上師にお随いして学ぶ善縁を大切にし、教えに依って実践し、輪廻より解脱すべきであるとお示しになったのである。リンポチェの慈悲深きご垂念に深く感謝申し上げ、弟子一同は上師に堅くお随いし、仏法を学び続けることをここに誓願するものである。
午前9時30分、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、宝傘・楽器・薫香の先導と迎請を受け、諸仏菩薩に恭しく頂礼された。そして尊勝なる直貢チェツァン法王如意宝の法座にカタを献じ、灯明を供養し、法座に上り《三十五仏懺》を主法し、黒水財神および白マハーカーラの修持を行われた。
リンポチェが法座に上られた後、弟子たちは吉祥飯、粉団(トルマ)、甘露をもって尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに供養した。リンポチェは出家衆に指示し、参会の大衆を率いて皈依発心、短マンダラ、伝法祈請および《八聖吉祥祈祷文》・《供飯文》を念誦させた。続いて、慈悲をもって貴重なる仏法の開示を賜われた。
三十五仏懺
本日も例年どおり、旧正月の元日には《三十五仏懺》を拝する。《三十五仏懺》は釈迦牟尼仏が《宝積経》の中で説かれた懺法である。将来、菩薩道を修めようとするならば、《三十五仏懺》は極めて重要であり、必ず拝すべき懺法である。台湾、さらには中国の顕教道場においても、《三十五仏懺》を拝するのはほとんど見聞きしない。多くは《大悲懺》・《地蔵菩薩懺》・《梁皇宝懺》などである。釈迦牟尼仏が自ら説かれたのは《三十五仏懺》のみであり、ゆえに加持力はとりわけ大きい。この三十五尊の仏は、地球上の人類が仏法を修行する上で、大きな加持と助けを与える。
多くの人は、懺悔という法門を自分がより良くなるためのものと誤解している。しかし、それは「良くなる」ことではない。むしろ、懺悔を終えた途端、自分たちが悪いと考えている出来事がすべて目の前に現れ、しかも速やかに起こることさえある。では懺悔とは何か。過去に身・口・意によって犯した一切の過ちを自ら認め、認めた後はその一切の果報を受け入れることである。「悔」とは、永遠に二度と犯さず、二度と行わないという意味である。多くの人が懺悔したいと来るが、私は来なくてよいと言う。なぜか。ただ謝りに来ているだけだからである。「すみません」「ごめんなさい」「Sorry」と言うのは懺悔ではない。懺悔とは、二度としない、決して犯さないということである。しかし同じ過ちを重ね続けるなら、その懺悔は余分なものにすぎない。
懺悔の本来の意義はどこにあるのか。日々を安楽に過ごさせるためではない。過去に身・口・意によって犯した一切の悪業の果報が、修行の妨げや障碍とならないようにするためである。たとえば私のこの一生にも、多くの障碍があり、皆が不如意と思う出来事や病など、数え切れないほどあった。しかし私にとっては、ただ果報が成熟しただけであり、障碍が一つ減ったということにすぎない。だからこそ、絶えず修行を続けている。中には知名度のある出家者でさえ、「懺悔は一度でよい。何度も懺悔すれば、その影が心に残る」と言う者がいる。しかしそれは誤りである。一日たりとも成仏していない以上、懺悔は必要である。仏のみが円満であり、仏のみが身・口・意に少しの欠けもない存在である。誰かが私の前に跪くとき、私はよく「何か問題があるのか」と尋ねる。もし「何もありません」と答えるなら、私は必ずこう言う。「ではあなたは仏である」と。その人が「問題はない」と言うとき、第一に因果を信じていない。第二に三宝を敬っていない。第三に自分を改める準備がない。このような人とは、もはや話を続けない。すでに自ら拒んでいるからである。
実際、仏法における懺悔の法門を真に理解している者は多くない。多くの人は、懺悔とは「私が悪かった、認めるから赦してほしい」と言うことだと思っている。しかし過ちを犯したのは自分であり、果報は自らが負うべきものである。仏菩薩に何を赦してもらうというのか。それは誰かが法を犯して裁判官に「赦して自由にしてほしい」と求めるようなものと同じである。裁判官にできるのは、せいぜい刑を軽くすることまでである。しかし仏菩薩には、刑を軽くする権限すらない。ただあなたを助け、冤親債主に修行の機会を与えるよう勧め、その恨みを和らげてもらうことができるだけである。
ゆえに懺悔の力は極めて重要である。しかし誤解してはならない。懺悔すればすべてが良くなるというものではない。私も仏道修行以来、日々懺悔してきたが、多くの不如意な出来事が絶えず起こった。なぜ起こるのか。懺悔を重ねるほど、それらの不善の事柄がより早く目の前に現れ、より早く成熟するからである。その結果、その後の修行の道はずっと順調になる。あなた方は不善の出来事が起こるのを恐れ、それを望まない。しかし不善を望まないなら、善もまた得られない。因果を信じていないからである。もし懺悔した後に果報が現れるのを恐れるなら、いっそ懺悔せず、ただ謝罪すればよい。謝罪とは何か。再び同じ過ちを犯すということである。振り返ってみるとよい。幼少から今日に至るまで、両親に「してはならない」と言われたことを、何度行ってきただろうか。そのたびに「ごめんなさい」と言ってきただけである。今もその同じ心構えで懺悔をしているにすぎない。
一度懺悔してしまえば、その場で決断してしまう。なぜ成仏するまで懺悔が必要なのか。身・口・意がいまだ完全に清浄ではないからである。懺悔しなければ、清浄なる仏法と相応する度合いは次第に減っていく。自らを満足し、よく修めていると思った時点で問題が生じる。それが所知障であり、さらに貢高我慢である。多くの弟子が過ちを犯して懺悔に来るが、私は会う気にもならないことがある。真心からの懺悔ではなく、ただ自分の過ちによる心の圧力を「懺悔」という言葉で取り除こうとしているだけだからである。しかし本人は自分に過ちがあるとは思っていない。「知らなかった」「うっかりした」「忘れていた」「わざとではない」と言う。もし「わざとではない」と言うなら、AIにも劣ることになる。AIでさえ多くのデータと論理に基づいて動く。人である以上、どうして「わざとではない」と言えるのか。論理的な思考を持つ存在に、「わざとではない」や「口では言ったが心は違う」といった言い訳は成り立たない。すべては自分の心が生み出したものだからである。
懺悔とは、今日犯した一件だけを悔いることではない。身・口・意の一切を懺悔するのである。そのとき初めて懺悔の力が現れ、速やかに債を返す助けとなる。債が清算されれば、修行の道はますます開けていく。早く返し終えれば、自然に良い方向へ向かう。この理は単純である。しかしあなた方の懺悔は、不善が現れないことを願うものであり、懺悔すれば状況が良くなると思い込んでいる。そのようなことは経典には説かれていない。なぜ自分で作り出すのか。私は自ら示してきた。かつて貧窮し、事業に失敗し、食べる金もなく、癌を患い、子は不孝で、婚姻も破れ、人生のあらゆる苦が現れた。しかしそれらは修行を妨げなかった。閉関中も二日間、食事を運ぶ者がなく、苦を受けた。これも自らの業である。だが懺悔を経て、二日食がなくとも三日目には食を得た。債を返したからである。あなた方は債を返すことを恐れる。しかし借りたものは必ず返さねばならない。人間界で返さないなら、畜生道、餓鬼道、地獄道で返すことになる。もしこの数十年のうちに返したくないのなら、護法や私に言えばよい。地獄で返すよう、畜生として返すよう求めることもできる。この生で返さずに済むように助けることはできるが、未来世において必ず返すことになる。
多くの人は迷信に陥り、ある出来事が起こらないようにと願う。しかし往々にして、一つの不幸が起こらないよう求めると、別のより重大な出来事が起こる。たとえば奇門遁甲という方法がある。ある問題が消えたと思っても、実際には消えたのではなく、もとの「門」から別の「門」へ移されたにすぎない。いつか必ずその別の門に至り、やはり問題は起こる。私は幼少より道教を学んできたが、世界でただ仏法のみが、私たちの犯した問題を根本から徹底して処理し、解決できると分かっている。他のいかなる宗教にもそれはできない。ある宗教では「主よ、私を救いたまえ」と祈る。しかし本当に救われているのか。今ヨーロッパで戦っている二つの国は、いずれも主を信じている。多くの人が亡くなり、双方が日々祈っているが、主は彼らを助けただろうか。そうではない。先頃、東南アジアでも二国が戦った。どちらも仏教を信じ、家ごとに仏像を安置している。彼らも祈ったが、多くの命が失われた。これが因果業報である。
今あなた方は太平の世に生まれ、戦争もなく、大きな災難もない。福報ある環境の中にいる。にもかかわらず、決意して仏法を学ばず、心の奥底から徹底して懺悔もしないで、何事も仏菩薩が赦し、リンポチェが赦してくれると思うなら、それは誤りである。私たちに分別心はない。どういうことか。あなたが過ちを犯して「どうか何も起こらないように」と求める。一方で、あなたに傷つけられた衆生もまた求めに来る。そのとき私は誰を助けるのか。あなたを助けるのか、それとも傷つけられた側を助けるのか。
昨日、ある女性が面会を求めて来た。車を運転して人に衝突し、相手は昏睡状態になったという。彼女は、その人が昏睡に陥らないようにしてほしいと求めた。しかし私は取り合わなかった。彼女はその人のためではなく、自分の問題を解決したかっただけである。車で人を死なせたり昏睡させたりすれば、賠償も重大であり、命が失われれば罪も重い。彼女は相手の為ではなく、自分のためであった。彼女は自分が悪かったとも、あのような運転をすべきでなかったとも言わず、「ぼんやりしていた」と言うだけであった。これは懺悔だけはしない。懺悔せず、自分の過ちの結果を引き受けようとしないなら、何が起きても不思議ではない。懺悔とは、自らの過ちの果報に勇気をもって向き合うことであり、逃避ではない。
法本には、修法が不十分であったとき仏菩薩に寛恕を願う文がある。この寛恕とは、修する者や周囲の不注意により法が円満に行われず、衆生が完全な利益を得られなかったことについて、仏菩薩にお許しを願い、なおこの法を続けて修する機会を願うという意味である。故意に犯した過ちを赦してもらうという意味ではない。私が数十年にわたり弘法してきたが、法会に功徳主を立てたことはなく、参加にいくら必要だと定めたこともない。すべて任せている。それは、自らにいかなる分別心も起こさせないよう訓練を重ねているからである。
本日あなた方に《三十五仏懺》を拝させるのは、日々を安楽に過ごすためではない。菩薩道を修する上での障碍を取り除くためである。そのような懺悔であれば力がある。人間関係や家庭、仕事が良くなるようにといった細やかな事のための懺悔であれば、決して真の効力はない。とはいえ無益ではない。仏を拝すれば多少の福報は生じる。ただしその福報は今生ではなく、来世に用いられるかもしれない。この懺文を拝するときは、自らの心を明らかにし、もはや曖昧に日々を過ごさないことである。
拝懺開始前、侍者がリンポチェの法帽を準備していなかったため、リンポチェはその場に応じて教示し、侍者に対し、物事はより慎重に行うべきであり、何事もいちいち注意されてはならないと呵責された。また傍らに立っていた別のボランティアにも、事前に流れをはっきり確認すべきであり、できないのであればただそこに立ち、監督しているかのように振る舞うべきではないと戒められた。
続いて、リンポチェは参会者全員に起立を指示した。リンポチェはガムポパ法帽を戴き、自ら大衆を率いて《三十五仏懺》を拝し、最後にさらに十四遍拝するよう指示された。上師と仏菩薩の慈悲の加持のもと、参会者は恭しく礼仏し、諸々の悪業を懺悔し、涙を流しながら心より悔い改めた。
リンポチェはさらに開示を続けられた。《三十五仏懺》にはいくつかの要点がある。よく心に留めること。
法本には繰り返し「回向」のことが説かれるが、それは阿耨多羅三藐三菩提心へ回向するという意味である。冤親債主や家族に回向することでも、彼らが学仏し菜食するよう願うことでもない。阿耨多羅三藐三菩提へ回向してこそ力がある。もし貪欲の心で回向すれば、人天の福報をわずかに得るだけであり、今生では用いられず、来世になってようやく用いられる。阿耨多羅三藐三菩提に回向するなら、今生の修行に用いることができる。学仏は道理を明らかにせねばならない。とりわけ私たちは菩薩乗を修する。菩薩は一切を衆生のために行う。もし懺悔が自らの罪業を清浄にすることを願うものであれば、その「清浄」とは、本来修行を妨げる業が、懺悔によって障碍とならなくなるという意味である。ただし業報そのものは依然として現れる。この心構えで懺悔すれば、修行は絶えず前進する。
修行が進めば、世間の些細な事もきっと良くなる。小ばかりを求めて、大を求めないことがあってはならない。あなた方は皆、小さなことばかり求める。それを得て何をするのか。「自分がよく学仏すれば、夫も一緒に学ぶようになることから、それで家族が円満になる」とばかり言う。しかしそれは彼の業である。釈迦牟尼仏でさえ、衆生の業を転じることはできない。衆生自らが転じようとしない限り、できるのは因縁を作ることだけである。いつ学仏するかは本人の問題である。仏でさえ衆生を尽く度し切ることはできない。なぜ自分が必ず家族を度せると思うのか。世間には「彼は仏を学んでいると言うが、家族さえ度せない。ならば学ぶ意味はない」という声もある。しかしそれは誤りである。仏のような神通力があるなら別である。仏は出家を望まなかった弟に対し、神通をもって行く手を遮り、天界や地獄を見せられたという。そこまでできるならよい。私でさえできない。どうしてあなたにできるのか。迷信に陥ってはならない。自らの身分をわきまえ、その役割を果たすこと。仏弟子であるなら、仏弟子としての本分を尽くせばよい。偉大になって他人を度そうなどと思うな。自分の問題すら解決していないのに、どうして他人を度せるのか。夫や妻を天界や地獄に連れて行き、見せる力があるのか。出家を強いて家に帰らせない力があるのか。(大衆は「ない」と答える。)ないのであれば、なぜ日々そのような大言壮語を口にするのか。
そのような言葉をもう口にしてはならない。とりわけ出家者は、このような罠に陥ってはならない。「家族さえ度せないのに、まだ学仏しているのか」といった言葉を聞いたことがあるであろう。リンポチェが出家弟子に「この種の言葉を聞いたことがあるか」と問うと、出家弟子は「あります」と答えた。もしそう言うなら、私こそ学仏すべきでなかった第一人者になること。私は離婚し、子も学仏していない。それなら法王は私をリンポチェとして認証すべきではなかったのか。迷信に陥ってはならない。《宝積経》にははっきりと説かれている。眷属はみな獄卒であり、この一生においてあなたを業の牢獄に閉じ込める存在である。刑期を終えない限り、牢を離れることはできない。獄卒はあなたを見張っている。似ているではないか。(弟子が「似ています」と答える。)しかも獄卒はあなたを丁重に世話する。あなたが死ねば服役できず、自分が責任を問われるからである。
学仏は、仏が何を説いてくださるかを理解することにある。仏法を神格化してはならない。かつて法王猊下が台湾に来られ、十五日間にわたる大きな灌頂を授けられたことがある。来台前に、必ず私を見つけるように、見つからなければ灌頂を行わないと猊下は言われた。最初は見つからないと報告されたが、猊下は「見つからなければ行かない」と言われ、結果として彼らは私を見つけ出した。当時、私は金がなかったが、法王は私からは決して金を取るなと命じ、しかも最前列に座らせた。これが上師と弟子である。育てるに値する弟子と知れば、あらゆる方法を尽くして育てる。あなた方の中には、その器ではない者もいる。どれほど方法を尽くしても育てられない者がいる。一方で、私が育てている弟子もいるが、あなた方は私が育てていることに気づいていないだけである。
その法会のとき、私と面識のある女性らは、「離婚歴があるのに、まだ学仏するのですか?」と私に尋ねた。すると、「そうですか?なら法王に、なぜ私が学仏できるのか尋ねてください」と答えた。こういう女性の中には、男性が離婚しただけで、罪深く、殺人よりも恐ろしいと考える者がいる。しかしそれは私の縁のことであり、彼女に関係あることではない。結婚も離婚もすべて業である。結婚が必ず善行とは限らず、離婚も必ず悪行とは限らない。学仏で学ぶべきは何かを明確に理解することが大切で、私はあなた方に離婚を勧めているのではない。もし私が知るところで、ある女性弟子が帰宅して夫を脅すように「リンポチェは言った、あなたは私の獄卒だから離婚しなさい」と言ったなら、私はその弟子を追い払う。弟子であるからこそ仏経を教えるのである。弟子でもない相手に説いて、いったいどうするというのか。
仏法を用いて眷属を威圧したり、恐怖を与えたり、強制したりしてはならない。「リンポチェが言った、菜食しなければ地獄に落ちる」と言うのもやめること。そう言えば眷属は心の中で仏菩薩を罵ることになり、あなたが彼らを地獄に送ることになる。どうして菜食をしない男性と結婚したのか。それもまたあなた自身の業である。夫が菜食を拒むのであれば、自分だけ菜食すればよいと言うかもしれない。だが、その場合、キスをするときはどうするのであろうか。私にもどうするか分からない。仏経にはその教えがないからである。教えがあれば伝えるが、なければそれも業として受け入れ、多く念じ、多く懺悔することである。仏法はとても生きた教えで、迷信ではない。仏のお教えを理解すれば、圧力なく学ぶことができる。理解せずに学べば、重圧を感じるだけである。
懺文の最も重要な点は、自らの身・口・意で行った一切を懺悔することである。自分には過ちがないと思ってはならない。自分に何の過ちもない、何の問題もないと思うことは、自分が仏であると考えることになる。しかし世に仏は一尊、釈迦牟尼仏しかいない。もし自分が仏だと思うなら、それは絶対に妖である。釈迦牟尼仏は明確に説かれた。56億万年後、弥勒菩薩が出現して初めて第二の仏となる。また、誰かが「釈迦牟尼仏の心印心を受け、仏の直接弟子だ」と自称することもあるが、それは妄語である。我々はすべて釈迦牟尼仏の弟子であり、本師釈迦牟尼仏を念じることに意味がある。弟子の順序に差があるにすぎない。学仏において迷信は禁物である。仏法は生き生きとした生活の中で使えるものであり、日常生活で実際に役立てることができる。
黒水財神
通常、旧暦の元日には私は二柱の財神を修する。理由は、皆が一年のうちに上師や仏寺、協会に供養を行うからである。財神はあなたが持たないお金を得させるためのものではない。本来あなたに属するお金を取り戻すためのものであり、返すものではない。では、なぜ本来の財が消えるのか。例えば、生生世世で犯した悪業、学仏前の肉食や殺生、貪・瞋・癡・慢・疑の心、不孝、師長や三宝への不敬などが財を損なう要因となる。黒水財神は忿怒相で現れる。これはあなたの冤親債主や羅刹・鬼道があなたの財を奪いに来るからである。あなたが悪を行ったため、彼らがそれを奪う資格を持つのだ。例えば学仏前に宮廟や土地公にしょっちゅう参拝していた場合、そこに仏菩薩以外を求めると、何かを持って行かれる。財か寿命である。通常は財のほうが奪いやすく、寿命は奪いにくい。この世で財に問題がある場合、過去のこうした因縁が影響している。
この世で貧しいのは、過去世に布施や供養を行わなかったためである。例えば私も以前、事業に失敗して食べる金もなかったが、怨むことも、仏菩薩に「すぐに金をください」と求めることもなかった。何世もある過去世の中、どれか一世の過去世に供養や布施を怠った結果、今世でその報いを受けて返していることを知っていたからである。仏経にある「仏菩薩が衆生の貧困を救う」とは、その人が仏菩薩と縁があり、学仏できる条件にある場合を指す。しかしあまりに貧しいと、修行する資糧を得られない。福報を積むには財布施を施す必要だが、収入がなければ施すこともできない。また、閉関時に多くの助けが必要な場合もあるが、それには法財が要る。法財は法界の金銭をくれるのではなく、それは皆が得ることはできないものだが、私ならもらえる。
さらに、過去世に供養や布施にケチをつけ、計算し、分けすぎた者もいる。釈迦牟尼仏は、収入を四等分し、その一つを布施供養に用いるよう教えられたが、実行できる者は少ない。いずれにせよ、今日皆のために財神法を修することで、本来属する財を守り、この世で得られるようにし、法財を植え付ける際に多くの福報を積む助けとするのである。
リンポチェは修法を開始し、次のように開示された。
この種の法本を修するには、必ず閉関が必要である。法本に記された徴候が現れるまで閉関しなければ、この法を修しても自らや衆生の利益にはならない。呪文をただ唱えれば財神がやって来るというものではない。財神は護法部に属し、八地菩薩でもあり、人の習性にも関わる。ゆえに、心が清浄でなく、功徳が足りなければ、護法は現れない。
リンポチェが修法をしばらく行ったところ、リンポチェは侍者に問う。「甘露丸は入れたか?」侍者が忘れたと報告すると、リンポチェは叱責した。「なぜ忘れたのか?お前たちはここに上がって来るとすぐ邪気にやられたのか!」と。
さらに修法を続けた後、リンポチェは慈悲をもって大衆に開示された。「財神に祈願したい者は、今がその時である。」参会者は、リンポチェの慈悲に深く感謝し、財神への祈願の機会を得た。
こうして、黒水財神の修法は円満に終了された。
白マハーカーラ
リンポチェが白マハーカーラの大象財神法を修する準備をしているとき、弟子が御尊像のお写真をリンポチェの法卓に供えようとして、うまく捧げられずに落としてしまった。リンポチェは叱責した。「すぐに大礼拝100礼せよ。お前たち男なのか?小さなことで臆するな!」そして侍者に御尊像のお写真を法卓に供えるよう指示した。
このとき修するのは白マハーカーラの大象財神である。この二柱の財神はいずれも観世音菩薩および不動仏と関係がある。そのため、観世音菩薩を修していなければ、この財神法を修することはできない。観世音菩薩を修するとは、最低でも閉関して百万遍を唱えることを指す。多くの人は財神法を修したがるが、欲するだけでは修得できない。
リンポチェが修法する際、尊身と壇城から金色の光が放たれ、会場には勝妙な香気が満ち、参会者は地が震えるような感覚や体の熱を感じ、加持力が絶えず注がれた。
リンポチェは侍者に今日購入した沈香の値段を尋ねられた。(侍者:60万元です。)なぜこれほど多く買ったのか?(侍者:同じ重量ですが、値上がりはしました。)以前ほど良くない。
続いてリンポチェは侍者に、現在大礼拝をしている弟子に尋ねさせた。「大礼拝100礼せよと言ったのに、いくつの礼をしたか?」侍者は302礼と報告した。それで、リンポチェは次のように叱責された。「今、お前が決めているのか?今後は法務チームに入るな。お前に学仏の資格はない。上師が100礼せよと言ったのに、なぜ勝手に多くした?多くすれば功徳が増えると思ったか?親の写真を捧げても落ちるか?(報告:落ちません)なぜ仏菩薩の写真は落ちた?(報告:弟子の過ちです)違う、過ちではない。恭敬心が足りないからだ。仕方なくここで学仏しようとしても、恭敬心がなければ本尊像のお写真も落ちる。恭敬心があれば落ちるはずがない。100礼せよと言われて300礼するとは、俺の話を聞かず、学仏を何のためにするのか?やめろ。」
リンポチェはさらに次のように指示された。「この弟子は今後、私や仏寺、道場に供養する必要はない。帰依して何年経った?(報告:15年ほど)この態度か?自分の時間を浪費している。私は15年で修行を大きく進めたが、お前は15年経ってもこれだ。法照を捧げても落とすのか。100礼せよと言われて300礼とは、俺と張り合うつもりか?3000礼できるならやってみろ!お前たち、全く理解できない。武のアキ護法を修しよう。」
リンポチェは武のアキ護法の儀軌を修した後、出家弟子に指示し、参会者と共に回向文を唱えさせた。
その後、リンポチェは開示された。
この大象財神法は、私たちの直貢噶舉の多くのセンターでは修されていない。これは直貢噶舉の大成就者、永噶リンポチェが私に直接伝えたものである(参照:大修行者と尊きリンチェンドルジェ・リンポチェとの殊勝な法縁—尊き永噶リンポチェ)。この法は岩伝法であり、歴代を通して伝わってきたものではない。黒水財神もパドマサンバヴァ(Padmasambhava)から伝わった岩伝法で、多くの道場では修されていない。通常、道場では黄財神が中心に修され、白財神を修る場合もある。白財神や黄財神は修行者に有利である一方、黒水財神や大象財神は世間の人々に対してより大きな助けとなる。いずれの財神も、目的はあなたの貧困や困難を解決し、学仏修行に専念できるようにすることである。
先日の日曜に話したように、金剛乗を学ぶにしても、チベット仏教を学ぶにしても、菩薩乗であれ金剛乗であれ、唯一の不二法門は上師に100%従うことである。先ほどの弟子はまさに従わなかった。100礼せよと言われたのに、300礼した。これは自分の力を示そうとする行為である。心理学を少し知る私から見ても、彼は私と張り合っていると感じた。この間の帰依法会に、私は「上師に何をしてはいけない」と言ったか。(大衆は怒ってはいけませんと答えた。)彼は怒り、心の中で「そんなに深刻か」と思い、本尊像のお写真を落としたことに対して、叩かれた他、罰として大礼拝を行わされるなら、多めにやって自分の力を示そうと考えた。そこで私は尋ねた。「もしこれはあなたの両親の写真なら、手に持って落ちるか?」彼は「落ちません」と答えた。ではなぜ落ちたのか?それは恭敬心がなかったからである。彼は単に作業として来ただけで、福報や功徳を得たいと思っていただけである。よって、本尊はその心を映し出した。何を映し出したか?上師に対する恭敬心の欠如をである。皆は聞いたはずだ、私が100礼せよと言ったのに、彼は300礼して見せたのだ。多くやれば良いというものではない。我々のような上師に対しては、むしろ「話を聞かない」と判断されるのである。
もし皆が人間的な考え方で仏法を学ぼうとすれば、それは決して身につかない。では「人間的な考え方」とは何か。それは「自分のために」という思いである。では仏法を学べば人間でなくなるのか。違う、依然として人間である。ただし、思考や心のあり方を変え、調整しなければ、上師や仏菩薩と相応できない。そうでなければ、どうして相応できるか。なぜ私が真言を唱えると皆が熱を感じるのか。なぜ地が動くのか。なぜ光が見えるのか。皆が真言を唱えても黒い光しか見えず、足が痺れて動き、腰が痛くて動き、顔がかゆくて動くことがある。これはどうしてか。皆が「自分」という思いを調整していないからである。思考を調整するとは、俗世間のことをしない、子供や夫の世話をしないという意味ではない。意味するのは、何を行うにも出発点が仏法であるかどうかである。先ほど修した法本にも、懺法を含めて菩提心と回向が繰り返し説かれている。自分のために行うとは一言も書かれていない。しかし、自分のためでないほど、多く得られる。惜しむ心が強ければ、ますます得られない。
今日の修法で、懺法だけ比較的順調であった。黒水財神を修する際には甘露丸を置き忘れ、本尊像のお写真を落とす者もいた。これは皆の中で、普段の供養心が足りない者が多いことを示す。そのため、上師が修法する際に小さな障礙が現れた。私が無理に助けようとしても、皆にはそれを受ける資格がなかったのである。私が財神法を修すれば必ず相応する。しかし年に一度しか修さない。なぜ普段修さないのか。それはかなり疲れることに、沈香も年々高騰し、今や60万元にもなるからである。今後、道場で大象財神を修する際、沈香は40万元を上限とする。超えた場合、買うと決めたその人が支払う。多く焚けば本尊が喜ぶわけではなく、少なければ喜ばないわけでもない。皆の財力に応じる。供養を惜しむ皆なら、無理に供養させる必要はあるであろうか。
仏法を学ぶときは、心から楽しく学ぶことが大事である。供養しなくても、リンポチェは喜ぶし、仏菩薩も喜ぶ。お金がなくて供養できなくても、仏菩薩は喜ぶ。その理由は、供養で最も重要なのは心だからである。多くの昔のお話しでよれば、金銭で供養せず大きな功徳を得た人も多いと分かった。しかも大きな功徳であった。功徳を得たのは、彼らの「供養する心」によるものである。ではなぜ供養するのか。それは自分のためである。供養によって仏法を修習する福報を得ることで、生死輪廻から解脱するためであり、目先の目的のためではない。
二つの法本には、いずれも人々の窮困を解決することが説かれている。しかし、ここでいう窮困とは、家を買うためのローンが払えないとか、子どもの大学の学費が足りないといったようなものではない。そうしたものは、本当の窮困ではなく、人間が無理をして作り出しているものにすぎない。本当の窮困とは、かつて私が実際に経験したように、食べるためのお金もなく、電気代や家賃、交通費さえも払えないような状態をいう。少ししか服が残らないほど困窮であった。しかし、私は普段から良い服を着るようにしているため、残したきちんとした服を着ていれば、私が金欠であることに周囲は気づかないでいられるのである。なぜいつも良い服を買っているのかといえば、いつかやって来る困窮に備えるためなのである(一同笑)。なぜなら、過去世にどのような良くないことをしてきたのか、分からないからである。
窮困とは、過去世において供養をしたがらず、布施を惜しんだ自分自身の行いの結果である。供養の量は、自分の気力や状況に応じて行うものであり、すべてを差し出せばよいというものでもない。供養というものは非常に複雑であり、他人がこのようにしているからといって、自分も同じようにすればよいというものではない。最も大切なのは、自分の心のあり方なのである。
あなたたちは私を真似してはならない。リンポチェの供養とは、仏法に必要があれば、たとえ家賃を払う金がなくても、まず供養を先にするというものである。では、なぜあなたたちは私を真似してはならないのか。それは、私は自分で決断し責任を負うことができるが、あなたたちはまだそれができないからである。もし一か月の収入をすべて供養に出しても、家庭の中で騒ぎや反対の革命が起こらないのであれば、私は本当にその人に感服するであろう。したがって、私を真似してはならない。私は苦労の多い人間であるが、あなたたちは福報の大きい人たちである。せっかくこの福報を得ているのであるから、その福報を大切にして仏法を学ぶべきであり、その福報を用いて人倫や家庭の楽しみを追い求め続けるためではない。あなたたちの家庭や人間関係も、すべて過去世に作った因縁によって今生に現れているものである。良いことも悪いことも、すべて過去世の行いの結果であり、修行によってそれらを変えようとすることとは関係がないのである。
例えば、釈迦牟尼仏は王子の身分でありながら、すべてを捨てて出家し、苦行の道に入られた。また、釈迦牟尼仏が不在の間に弟が王位を継いだが、仏はその弟にも修行に入るよう強く求められたのである。仏にはそれができたが、私たちにはできない。なぜなら、仏はすべてを明確に理解しておられるが、私たちにはそこまでの確かな智慧がないからである。私たちは在家の身であり、仏法を学ぶ過程において多くの矛盾を感じることがある。その矛盾はどこから生じるのか。それは自分自身が作り出したものである。『宝積経』には特に、在家の者が菩薩道を修めるにあたり、どのように在家の生活を送るべきかが説かれている。この点については、私はすでに何度も話してきたので、ここで繰り返すつもりはない。しかし、あなたたちは学ばなければならない。何十年も同じ生活習慣のまま、それを変えずに続けるのではなく、仏教徒としてどのように生活すべきかを学ぶのである。そして、人に誤解を与えないようにしながら、仏法をもって自分たちの生活を送るべきである。これは自ら学ぶべきことであり、リンポチェが毎日あなたたちを見張っていなければならないというものではない。
あなたたちはすでに大人であり、子どもも持っている。何が「学ぶ」ということなのか、よく分かっているはずである。どのような仕事に就くにしても、長い時間をかけて学んでこそ、ようやく上手にできるようになるのである。ではなぜ、仏法を学ぶことについては、一日や二日、一年や二年、あるいは五年や十年で十分だと思うのであろうか。だからこそ、仏は絶えず法を説き、経を説き続けているのである。そして絶えずあなたたちを調え、加持し、導き、どこが間違っているのか、どこがよくないのかを教え続けている。それは、あなたたちが絶えず学び続けなければならないからである。決して「もう煩わしい」と思ってはならない。もし私が、仏法を十年学べば一千万円を稼げる仕事が見つかると言ったなら、あなたたちは学ぶであろうか。きっと必死になって学ぶであろう。実際、多くの人は五、六年もの間、苦労して一つの技能を身につけ、それによって収入を得ることができれば、それで満足している。しかし仏法の学びはどうであろうか。もし五、六年の間、真剣に仏法を学び、毎日修行を続ければ、五、六年後には必ずまったく別の人間になっているはずである。とはいえ、この世の中というものはそのようなものであり、私たちは何も学ばずにいることも、勉強をしないことも、働かないこともできない。なぜなら、私たちはこの世の中に生きているからである。
だからこそ、仏経には「五濁悪世に、此の難信の法を説く」とも説かれているのである。これは阿弥陀仏の教えが信じ難いという意味ではなく、釈迦牟尼仏が説かれた仏法そのものが、この世の人々には信じ難いという意味である。なぜなら、その教えは私たちの日常の生活と衝突し、私たちの思想や理論とも衝突し、さらには世間の倫理観とも衝突するからである。そのため、人々にとっては信じることが難しいのである。しかし、経蔵を深く学び、その内容をはっきりと理解するならば、これらはすべて自分自身の業であり、自分自身の因縁であることが分かるようになる。そうなれば、そこにはもはや衝突はないのである。むしろ、それらの存在があるからこそ、この一生において真剣に仏法を学ぶよう促されているのかもしれないのである。
もし私の父が突然心臓麻痺で亡くならなかったなら、私は仏法を学ぶ決心をしなかったであろう。私の父は道教の修行を非常によく行っていた人であった。しかし、その父が突然亡くなったとき、私は「これは違う」と感じたのである。なぜなら、人にとって最も重要な問題は「死」であるからである。あれほどよく修行していたにもかかわらず、自分自身の死さえ確かなものにできないのであれば、その修行はいったい何のためであろうか、と思ったのである。その後、私が仏法に出会い、仏法の中にこの問題への答えと方法があることを知ったとき、私は自分の生命のすべてを、いや、それ以上に持てる力のすべてをこの中に注ぎ込んだ。私は一度も退いたことがないし、これを続けたらどうなるだろうかなどと考えたこともない。また、そのためにどのような代価を払うことになるのかと考えたこともないのである。なぜなら、私が探し求めていたものはただ一つ、自分自身とすべての衆生が死を迎えるとき、あらゆる恐怖から解放される方法であったからである。それこそが、私が行っていることである。人は誰しも死ぬときに恐れを抱くものであり、死後どうなるのかを知っている者はいない。しかし私は仏法を学び、それを実践し、すでにそれを成し遂げている。あなたたちもよく知っているように、私は済度を行うことに長けている。なぜなら、亡くなった者をどのように助けるべきかを知っているからである。
なぜ私が仏法に対してこれほどまでに堅持し、あらゆる戒律を守り続けているのか。それは、これらが実際に成し遂げられるものであると知っているからである。人の一生はせいぜい数十年にすぎない。その間のさまざまな風雨、名声、財産、欲望などは、すべて雲烟過眼のようなものである。最後の一秒になったとき、人は初めて、この一生で自分がどれほど時間を無駄にしてきたかを知るのである。私たちは毎日、多くの時間を浪費している。目・耳・鼻・舌・身・意を満足させるために時間を費やし、日々そのようなことばかりを行っているのである。
特に、スマートフォンをいじることが好きな人が多い。私はこれまで何度も、むやみにスマートフォンをいじってはいけないと警告してきたが、あなたたちはなかなか聞こうとしない。先ほど彼が甘露丸を置くのを忘れたのも、その一例である。なぜ忘れたのか。それは、あなたたちの世代がスマートフォンに頼ることに慣れてしまい、スマートフォンがなければ記憶する力まで弱くなっているからである。私たちの世代にはスマートフォンはなかった。すべて自分の頭で覚えていたのである。人間の頭脳は、本来コンピューターよりも優れているものである。しかし、人はますます怠けるようになっている。すぐにスマートフォンをいじり、本を開こうとせず、何も読まず、何も学ぼうとしない。科学が発達すればするほど、人類の文化はかえって急速に失われていくのである。そのため、現在ヨーロッパの多くの国では、十六歳まではスマートフォンの使用は認めても、インターネットへの接続は許可しないという規定が設けられ始めている。すでにオーストラリアから始まり、その後ヨーロッパでも次々と実施されている。しかし、私たちの地域ではまだ始まっていないのである。
私たちが二十代の頃、人のために仕事をするときは、同じ間違いを二度することはなかった。間違えることがあっても一度きりであり、二度と繰り返さないようにしていたのである。しかし今は、同じ間違いを何度も、何度も、何度も繰り返す人がいる。なぜ同じ間違いを繰り返すのかと尋ねると、決まって「忘れました」と答えるのである。まるでそれが皆の口癖のようになっている。しかし「忘れました」という言葉は、どの本尊の真言でもないのである。毎日のように「忘れました、忘れました」と言う習慣を身につけてはならない。いくら「忘れた」と言っても、それで記憶力が良くなるわけではない。大切なのは、自分自身を訓練し、怠けないようにすることである。
今日、財神法を修するにあたり、なぜ昨年よりも多くの障礙があるのかを考えてみると、その原因はすべてあなたたちにあるのであって、私にあるのではないと分かった。私にとっては、財があろうとなかろうと、これまでと同じように日々を過ごすだけである。何度も参加している人の中には、「毎年だいたい同じではないか」と思う者もいるかもしれない。しかしよく考えてみなさい。台湾の景気はどうであろうか。あなたたちは毎年、無事に仕事を続け、年末にはボーナスも受け取っている。だが今、世の中には仕事さえ見つからない人がどれほど多くいるであろうか。
こうしてまた一年が過ぎ、新しい一年が始まった。もしあなたたちの本性が変わらないのであれば、それではどうにもならないのである。リンポチェがいつまでもこの世にいると思ってはならない。私の時間は一年ごとに少なくなっており、あなたたちが私に会う機会もますます少なくなっている。帰依のときに、上師に親近することが大切であるとすでに話したはずである。つまり、できるだけ多く上師に会うべきなのである。しかしあなたたちは皆忙しく、「日曜日に一度会えばよい」と思っているようである。それでもよいであろう。日曜日に一度会うだけなら、一か月に四回である。だが、私がお寺に行けば一回減って三回になる。さらに私が海外に行けば、また一回減り、一か月に二回しか会えなくなることもある。しかも、私に会うときにはたいてい叱られるので、印象もあまりよくないであろう。今日は旧暦の一日であり、明日から仕事始めである。私はすでに時間オーバーで仕事をしてしまった。では今日はこの辺で。また会おう。
2026 年 02 月 23 日 更新